カテゴリ:江戸の庭園( 18 )
六義園は岩崎家のものだった(六義園⑪  江戸の庭園)
 昨日まで、「六義園」について書いてきましたが、「六義園」も今日で最後になります。

 「六義園」は、江戸時代に柳沢吉保により作庭されたということは案外知られているのですが、明治時代には、岩崎家が所有していたことは意外に知られていないようですので、「六義園」の最後に、岩崎家所有時代の「六義園」について書こうと思います。

 徳川幕府が崩壊した際に、六義園がどうなったかについては、詳しい資料がなくて、明確にはわからないそうです。
c0187004_1785465.jpg 江戸時代末期の六義園の周辺は、嘉永6年の尾張屋版の切絵図をみると、西側には加賀金沢藩前田家の中屋敷があり、北側には伊勢国津藩藤堂家の下屋敷がありました。
 明治11年に、六義園付近の前田家・藤堂家の屋敷などとともに、六義園を三菱グループの創始者岩崎弥太郎が手に入れました。
 その土地は広大で12万坪超の広さがあったそうです。
 藤堂家の下屋敷は、現在の山手線を越えて染井霊園近くまでありました。
 側近の人が岩崎弥太郎に「どうするつもりか」と尋ねると、弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と答えたそうです。
 岩崎弥太郎が、在世中にどのように手を加えたかは明らかではないそうですが、弥太郎の死後、弟の岩崎弥之助は、明治19年に、六義園の修復工事を行っています。
 明治38年10月には、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎をはじめ6千人の将兵を、岩崎家が招待し、六義園を中心として戦勝祝賀会を開催したそうです。

 六義園は、弥太郎の長男の岩崎久弥の本邸として一時期使用されていたこともあったそうですが、少しずつ、土地は売却されていきました。
c0187004_178152.jpg  現在の山手線の駒込駅と山手線の線路の土地は、岩崎家の所有地だった場所ですから、明治43年に、駒込駅が開業するにあたって、岩崎家が売却したものと思われます。

 そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。
 六義園の入り口近くの石碑は、その時の記念として建てられたもので、六義園の成り立ちも記されています。右最上段の写真が、記念碑の写真です。
 又記念碑近くの大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。
 右写真は、しだれ桜が満開の時に、しだれ桜を背景として写した内大門です。
 かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようですが、現在では、土蔵が残されているだけです。
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by wheatbaku | 2014-11-28 09:29 | 江戸の庭園 | Trackback
「藤代峠」(六義園⑩  江戸の庭園)
六義園、今日は、「藤代峠」周辺について書きましょう。

藤代峠
 六義園で一番高いのが「藤代峠」です。
 「藤代峠」の標高は35メートルあります。
 この峠から園内を一望できます。
 右写真は、「藤代峠」から見た六義園ですが、紅葉が始まっていました。c0187004_164417.jpg
 紀州の和歌の浦近くに「藤白坂」という坂があります。
 「藤代峠」は和歌の浦の「藤白坂」に見立てられていると考えられています。
 園内の説明板には次の和歌が引用されています。

 ふじしろのみさかをこえて見わたせば
  かすみもやらぬ吹上の浜                    僧正 行意 続後撰

「藤代峠」の頂上は「富士見山」と呼ばれました。名前の通り、江戸時代は、富士山が見えたようです。
 そして、江戸時代は、江戸の百名山の一つに数えられていました。
 「藤代峠」は六義園全体を見渡すことができる絶好のビューポイントとなっています。

紀ノ川
 「藤代峠」の南側に広場がありますが、その広場の先、大泉水の一部が「紀ノ川」と呼ばれています・
 「紀ノ川」というのは、奈良県の大台ケ原から流れ出し、奈良県と和歌山県を流れて和歌山市で紀伊水道に流れ込む大きな川です。
 有吉佐和子の小説に「紀ノ川」といのがありますのでの名前を聞いた方もいるとは思います。
 その紀州の「紀ノ川」に見立てられて名付けられたもの名前です。

渡月橋
c0187004_168168.jpg 六義園にも「渡月橋」と名付けられた橋があります。
 「渡月橋」というと、京都の嵐山を思い出しますが、六義園の「渡月橋」は京都の嵐山の渡月橋を模したものではなく次の和歌から付けられたものです。

  和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき

 昔は土でできた橋だったようですがが、現在では2枚の大岩による橋となっています。

出汐の湊
 説明板に 、 和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたつの声そさひしき という和歌が書かれています。
c0187004_169987.jpg  そして、「出汐」とは、舟が湊(港)に入るときに、満潮になるのを待っていることですが、ここでは、「出汐」は「月の出」とかけて、月が出るのを待っている様子を表していると書かれています。
 しかい、辞書には「出汐」とは、 「月の出とともに満ちてくる潮」の意味とも書かれています。
 辞書に架かれている意味のほうが、「和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたつの声そさひしき」の意味がわかりやすいように思います。
  日本庭園では「月」が大切にされてきましたが、六義園でも月に由来する地名があります。
  それが「出汐の湊」ですし、「渡月橋」もその一つです。
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by wheatbaku | 2014-11-27 08:52 | 江戸の庭園 | Trackback
ささかにの道(六義園⑨  江戸の庭園)
 今日も 六義園の続きです。

座禅石
c0187004_8355691.jpg 昨日は、六義園の紅葉の様子をお知らせしました。
 その中で、つつじ茶屋について書きましたが、つつじ茶屋の前にあるのが「座禅石」です。 
 この石の上で座禅をするのに適している形をしているので座禅石と呼ばれているようです。
 静かな川に望んだ景色のよい場所にあるイメージで置かれているようです。
  この「座禅石」も八十八境の一つで、それを現わす石柱が座禅石の傍らに建てられています。

 
水香江(すいこうのえ)
 c0187004_8391648.jpgつつじ茶屋を訪ねて、北側に足を進めると枯山水のようになっている川の跡にでます。
 これが「水香江(すいこうのえ)」です。
 「水香江(すいこうのえ)」という名前も、あまり聞きなれい風雅な名前ですが、次のよう由来があります。
 現在の「水香江(すいこうのえ)」は、水が流れてなくて、ここには、もともと水が流れていました。そして蓮が植えられていたそうです。そして、「蓮の花の盛りの頃には、水までも良い香りがする」ということから、水香江(すいこうのえ)と名付けられました。
 「水香江(すいこうのえ)」の周りには楓が数多く植えられていますが、まだ、紅葉は始まっていなくて、緑の葉が多かったです。

 
山陰橋
c0187004_8393612.jpg 「水香江(すいこうのえ)」を下流に下るとつつじ茶屋を裏から眺める景色になります。そして、剡渓流(えんけいのながれ)の中程に架かっている橋は「山陰橋(やまかげばし)」と呼ばれています。
 「山陰橋」の南側は、小高い山となっています。
 この山は「藤代峠」ですが、この「藤代峠」は「富士見山」とも呼ばれていて、その山の陰にかかっているので「山陰橋」と名付けられています。
 「山陰橋」周辺の楓も、紅葉はようやく始まったといった段階でした。

ささかにの道(蛛道)
c0187004_840551.jpg ささかにとはクモの古い呼び名で、藤代峠の北側を通る小道がクモの糸のように細いところから、そう名付けられました。
また、和歌の道が細く長く絶えないようにという願いを込めているとも言われています。
 「ささかにの道」周辺の楓はいくらか紅葉が始まっていました。
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by wheatbaku | 2014-11-26 08:42 | 江戸の庭園 | Trackback
六義園の紅葉(六義園⑧ 江戸の庭園)
 三連休には、新宿御苑散歩があり紅葉真っ盛りでしたが、連載中の六義園も紅葉しているようでしたので、六義園にも行ってきました。

c0187004_1032785.jpg 六義園では、11月20日から12月7日まで、ライトアップされます。
 その期間は、開園時間は21時まで(最終入園は20時30分)延長され、 日没から21時までライトアップされます。
 この期間は、正門のほか、駒込駅から徒歩2分の染井門も開門されます。
 右写真は、染井門で入場を待つ人々です。
 行列を作って、入場を待っていました。

c0187004_1034364.jpg 新宿御苑は、桜が多いせいか、紅葉がかなり進んでいましたが、六義園の楓は、まだこれからという状況でした。
 紅葉の名所となる「つつじ茶屋」周辺の楓は、紅葉が始まった段階でした。
 「つつじ茶屋」は、明治時代に、岩崎家が所有している時代に、つつじの古材を使用して建てられたもので、柱や梁につつじの古木が使用されている珍しい茶屋です。
 六義園も空襲のため、多くの建物が焼失していますが、つつじ茶屋は、戦災を免れ、当時の姿を伝えています。

c0187004_104095.jpg 一方、吹上茶屋の周辺は、どうだんつつじと楓がもう真っ赤に紅葉していたました。
 そのため、いくらか紅葉を楽しむことができました。
 しかし、楓の紅葉は、これからが本番と思われます。
 12月7日までライトアップも行われますので、お時間がある方は、これから六義園に行かれても、紅葉を楽しむことができると思います。

 染井門近くにも、ライトアップの見どころがありました。
 ご参考にアップしておきます。
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by wheatbaku | 2014-11-25 10:04 | 江戸の庭園 | Trackback
「吹上の松」(六義園⑦  江戸の庭園)
 明日は、毎日文化センターの「名園を歩く」シリーズの最終回で「新宿御苑」を散歩してきます。
 その準備で大わらわの中で、 今日も、「六義園」について書いていきます。

尋芳径(はなとうこみち)
 「千鳥橋」を過ぎると西側に入る小道があります。
c0187004_9141819.jpg この小道は「尋芳径(はなとうこみち)」と名付けられています。
 今日のご案内は、「尋芳径(はなとうこみち)」からです。
 「尋芳径」と書いて「はなとうこみち」と呼びますが、ふり仮名がなければ読めない名前です。
 「尋」は「尋ねれる」ですし「経」は「みち」と呼びますので意味が解るとは思いますが、「芳」を「はな」というのは難しいと思います。
 この「芳」は、奈良吉野山を意味しているようです。
 吉野山は桜の名所ですので、「芳」で「はな」と呼ばせたものと思います。
 つまり、「尋芳径(はなとうこみち)」は、「花の香を尋ねて歩く道」という意味で、奈良の桜の名所、吉野山を尋ねる道に見立てられています。
 この名前をつけたのも柳沢吉保と言われており、柳沢吉保の文学的素養の高さがわかる命名だと恐れ入りました。
 六義園の風景は、池の周りを巡る「海の景」と、木立の間を行く「山の景』の2つに分けられます。この付近が風景が変わるポイントで、右手の尋芳径を進むと山の景、左手の千鳥橋の向こうは海の景となります。
 泉水のそばを通り、海の景をたどっていくと「吹上の松」に出会います。
 
吹上の松
c0187004_91435100.jpg 大泉水脇に生えている松の古木が「吹上の松」です。
 「吹上」という地名は全国にありますが、「六義園」の「吹上」は。紀州の「吹上の浜」にちなんでいます。
 和歌山城の南側にある「吹上」は、かつて、西南の激しい風が白砂を吹き上げていたことからこの名が付いたといわれています。清少納言も「浜は吹上の浜」と名所の随一に挙げました。
 その「吹上の浜」には、多くの松が植えられていたそうです。
 それを模して、「吹上の松」が植えられています。
 六義園が作られたときは、園内に多くのマツが植えられていたそうです。
 現在は、そのほとんどは失われてしまいましたが、この「吹上松」だけは当時のものだそうです。
 目の前の浜が、「吹上の浜」と呼ばれています。

吹上茶屋
c0187004_915061.jpg  左手の「吹上茶屋」は、「熱海ノ茶屋」として岩崎家によって建てられたものですが、戦災などで焼けた後に東京都によって再建され、現在は抹茶の店舗として活用されています。
 ここは、無料休憩所ですので一休みすることができますし、抹茶サービス(\500)も行っています。
 美しい六義園を見ながらの一服のお茶は大変おいしいものです。

 下の写真は、9月27日に開催した「六義園散歩」の際に「吹上茶屋」で出された抹茶とそれを飲みながら談笑する参加者の皆さんです。
c0187004_9212449.jpgc0187004_9214143.jpg
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by wheatbaku | 2014-11-21 09:05 | 江戸の庭園 | Trackback
「滝見の茶屋」(六義園⑥ 江戸の庭園)
 今日も六義園の続きです。

 今日は、六義園の西南部にある「滝見の茶屋」周辺について説明します。

 昨日、最後に説明した「千鳥橋」の下を流れる小川の上流に「滝見の茶屋」があります。
 千鳥橋からですと、通路を一旦戻って、滝見の茶屋へ向かいます。
 「滝見の茶屋」は、江戸時代にはありませんでした。岩崎家の時代に作られたようです。
 現在の「滝見の茶屋」は、戦災で焼失し、戦後再建されたものです。

c0187004_9423197.jpg 「滝見の茶屋」の先の小さな流れを渡ると、流れの先に「水分石」が見えます。
 日本庭園では、滝口の石組で水を左右に分ける石は「水分石」と呼ばれています。
 「水分石」は「みずわけいし」とも「すいぶんせき」とも呼ばれます。
 「水分石」により、岩の間から水が流れ落ちた水が二つに分けられて水しぶきをあげています。

 また、その先の水が流れ出ている場所は「枕流洞と呼ばれています。
 「枕流洞」は、「まくらのほら」とも「しんりゅうどう」とも読まれています。
 石の形が「流れに枕をしている形をしていて、下に洞があるため」このような名前が付けられたと言います。
 右写真の下部が水分石で、その奥が「枕流洞」です。

c0187004_9425025.jpg 「枕流洞」の石組の上には、日本庭園の石組としてよく用いられる「三尊石」がありますが、これは岩崎家の時代に据えられたといわれました。
 右写真の左下部が「枕流洞」で、その石組の上に岩が、釈迦三尊のように立って配置されているのが「三尊石」です。
 この周囲にはほかにも、「六義園八十八境」のうちの「紀川上(きのかわかみ)」「紀路遠山(きじとおやま)」などがあります。
 この周辺が、紀ノ川の上流という構想で作られているようです。

 右下写真が、滝組の全体写真ですが、「枕流洞」から流れ出る水が、六義園全体の水源となっています。
c0187004_943723.jpg  この水は、玉川上水の分水である千川上水の水が利用されていました。
 千川上水は、元禄9年(1696)に、寛永寺や浅草寺や湯島の聖堂、さらに下谷・浅草の町家に水を供給するために、徳川綱吉の命により開削されました。
 柳沢吉保は、綱吉の寵愛を受けていましたので、「六義園」へ水を導入することも容易であったのではないでしょうか。
 ただし、現在では、都営地下鉄三田線の工事によって千川上水からの給水が困難となり、地下水のくみ上げによって維持されています。

 柳沢家の3代藩主は、柳沢信鴻ですが、この信鴻は、六義園を隠居所としていました。
 この柳沢信鴻が書いた「宴遊日記」には、水分石の樅の木に朱鷺が巣をかけたことが書かれているようです。
 現在は、特別天然記念物となってしまった朱鷺が、江戸時代中期には、江戸に営巣をしていたんですね。
 さらに、池には、鶴が住みついているとも書かれているようです。
 江戸時代の東京も、非常に自然が豊かだったということに驚かざるをえません。
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by wheatbaku | 2014-11-19 09:30 | 江戸の庭園 | Trackback
蓬莱島・臥龍島(六義園⑤ 江戸の庭園)
 今日も「六義園」について書いていきます。
 今日は、「蓬莱島・臥龍島」と「指南岡(しるべのおか)」「千鳥橋」について書きます、

蓬莱島c0187004_17311112.jpg 
 中の島の西側の大泉水の中に蓬莱島があります。
 アーチ型の石の島です。
 元禄15年の作庭当時にはなく、明治時代になって、岩崎家によって作られたものといわれています。
 本来は島に松の木がありましたが、東日本大震災で石組が崩れ、松の木も倒れてしまったそうです。
 その後、復旧工事が行われ、蓬莱島が復元されました。
 実は、昭和51年にも、蓬莱島が壊れていまい、松の木が倒れたことがあったようです。
 5月の連休中に、台風並みの風雨が六義園周辺を襲いました。
 その際に、蓬莱島が崩れ、その上の松も池に落ちてしまったそうです。
 その際にも、すぐに復元されたそうです。

臥龍島
c0187004_17313049.jpg  蓬莱島の右にある小屋が目に入りますがが、その小屋は舟屋です。
 その少し左に水面にわずかに出ているのが臥龍石です。
 その名の通り、龍が伏せているような形の石が水面から顔を出しています。
 こちらも東日本大震災で石が沈下してしまったそうですが、修複され、龍の形として見えるようになりました

指南岡(しるべのおか)
c0187004_17314764.jpg 蓬莱島の見える岸辺を西に進むと道路脇に「志への岡」と刻まれた石柱があります。
 柳沢吉保は、園内に、88カ所もの景勝地を造り、六義園八十八境(名所)としてそれぞれの地にこのような 石柱が置かれました。
 現在は、こうした石柱は32個残っています。
 ここにある石柱は、残されたうちで、わかりやすい場所にあるうちの一つです。
 この石柱には指南岡(しるべのおか)、「志への岡」と書かれています。
 新千載和歌集に
  尋ねゆく和歌の浦ちの浜千鳥あとあるかたに道しるへせよ
 という歌があります。
 この先の千鳥橋と云う橋がありますが、その千鳥橋の手前にあることから、指南岡(しるべのおか)と名付けられています。

千鳥橋
c0187004_1732661.jpg 大泉水の西側に小川があり、そこに橋が架けられています。
 この橋が「千鳥橋」と呼ばれています。
 ここに石柱があります。
 鳥の千鳥が足を交差させて歩く様子から、ジグザグの形を「千鳥」と呼びますが、左手の千鳥橋はかつては実際にそういう形をしていたそうです。
 先ほどの六義園の地図をみるとジグザグの形として描かれています。
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by wheatbaku | 2014-11-18 09:44 | 江戸の庭園 | Trackback
妹背山(六義園④  江戸の庭園)
 今日の「六義園」は、「中の島」をご案内します。

 六義園の中央にあるのが、大泉水と「中の島」です。

 その「中の島」の中央にある小山が「妹背山(いもせやま)」と呼ばれています。
 古語では、女性のことを「妹(いも)」、男性のことを「背(せ)」と呼びました。
c0187004_9293311.jpg 妹背というと、夫婦や兄と妹または姉と弟を言いました。
 歌舞伎や人形浄瑠璃に「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」という演目をご存知の方もいらっしゃると思います。
 中の島の妹背山は男女(夫婦または兄妹)の間柄を表現しているそうです。
 六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)の和歌の浦には、「妹背山(いもせやま)」のある妹背島が今もあり、「妹背山」といった場合に、和歌の浦の「妹背山」が大変有名です。
 「六義園」の「妹背山」は、二つに分けられていて、左の山が妹(いも)山、右側の少し大きいほうが背(せ)山とされています。
 やはり、女性の妹(いも)山より、男性の背(せ)山の方が少し大きく作られています。

 そして、「妹山」と「背山」の間に大きな石がたっています・
 その中央に立つ大きな石は玉笹石と呼ばれていて、六義園八十八境のうちの十六番目に位置づけられています。
 石材は紀州青石と呼ばれる石で、名前の通り、いくらか青味がかっています。
 この石が「玉笹石」と名付けられているのは次の和歌によるものです。

 いもせ山 中に生たる玉ざゝの 一夜のへだて さもぞ露けき 
                   (藤原信実 新撰和歌六帖)

 上の和歌で詠まれている通り、「玉笹石」を男女の仲を隔てる笹に見立てる見方もあります。
 しかし、それではあまりにも悲しいのでしょう。
 別の説明では、「玉笹石」は子宝を表し、子孫繁栄を願っているとも書いてあります。

c0187004_9295175.jpg 「六義園」の中の島が見える芝生地に「むくさのたち跡」と書かれた表示板がたてられています。
 以前、説明した通り、柳沢吉保は、「六義園」と書いて「むくさのその」と呼び、館は「むくさのたち」と呼んでいました。
 その「むくさのたち」があった場所です。
 もちろん、現在は建物はなく、芝生地となっています。

c0187004_9301059.jpg また、同じく、妹背山が見える芝生地に「心泉(こころのいずみ)跡」と書かれた説明板があります。
 その場所に、六義園が作られた当初、泉がつくられ、ここから流れ出る水が池の中心部に流れていたので、心の泉と名付けられました。「中心」の「心」を意味しています。
 「こころのいずみ」は、現在、なくなっています。
 しかし、説明板の南側にある御茶屋が御茶屋が現在は「心泉亭」と書いて「しんんせんてい」と呼ばれています。右写真の奥に写っている建物が「心泉亭」です。
 この御茶屋は、岩崎家の建てた物で、当初は「桃の茶屋」と呼ばれていましたが、戦災で焼失し、戦後東京都によって再建された物です。
 その御茶屋の名前に「こころのいずみ」が残されています。
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by wheatbaku | 2014-11-17 09:16 | 江戸の庭園 | Trackback
枝垂桜と新修六義園碑(六義園③ 江戸の庭園)
 今日は、六義園の名物である枝垂桜について書きます。

 正門を入って、まっすぐ進むと 枝垂桜があります。
c0187004_9195739.jpg 「六義園散歩」で行った9月は、当然桜の時期ではありませんので、咲いていませでしたが、3月下旬の満開の時期には、ライトアップもされて大勢の花見客が訪れます。
右写真が満開の時の写真です。
 枝垂桜は高さ約15m、幅約20mもあります。
 「シダレザクラ」という桜は、「エドヒガン」という桜の品種の一種で、枝が下に垂れているため「枝垂れ桜」と呼ばれています。
 「ソメイヨシノ」より少し早く咲きます。今年は3月下旬に満開となりました。
 これだけ有名な桜ですが、昭和30年代に、東京都によって植えられたもので、樹齢はまだ60~70年だそうです。
 枝垂れ桜で最も有名なものが三春の滝桜です。
 滝桜は樹齢1000年を超えているそうです。

 枝垂桜の脇に「新修六義園碑」があります。 
 六義園は、柳沢吉保によって築造されました。
 そして、3代の柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)までは、かなりしっかりと管理されていたようです。
 特に3代柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は隠居後、この六義園に住んで、芝居などをよく観に行っていました。

c0187004_9224582.jpg しかし、三代目信鴻が没した寛政4年(1792)以後は、20年間ほど、ほとんどその利用がなく、荒廃していました。そこで、文化6年(1809)、四代保光は、家臣に命じて復旧工事を行いました。このとき、失われた八十八境の石柱を補いました。
 この時に建てられたのが、この「新脩六義園碑」です。この石碑の後面にはこの復旧工事の経緯が書かれています。
 また前面には次の「六義園八景」の名称が記されています。
   若浦春曙(しゅんしょしょう)
   筑波陰霧
   吟花夕照
   東叡幽鐘
   軒端山月
   芦辺水禽
   紀川涼風
   士峯晴雪(せいせつ)

 なお、六義園八景を詠んだ和歌というのがありますので、それを下記しておきます。
 これは六義園が完成して四年後の宝永3年(1706)に、霊元上皇が、六義園の景色の中から十二境と八景を選び、公家たちに和歌を詠ませ、それを柳沢吉保に賜ったものです。
 時の上皇が、一大名に対して和歌を賜るということは滅多にないことなので、大変異例な対応であったようです。
 「若浦春曙」
  ~和歌の浦の松のみどりも色そへて霞ぞあかぬ春の明仄~中書令邦永
 「筑波陰霧」
  ~つくばねの峯は朝日の影はれてすそはの田井に残る秋霧~特進重條
「軒端山月」
  ~いずるより月もへだてずむかふよの軒ばぞ山のかひは有りける~八座親衛実陰
 
 「蘆辺水禽」
  ~浪たたぬあしべもとめて水鳥のなれもしづけき心とやすむ~左金吾為綱
 「吟花夕照」
  ~しばし猶入日のあともくれやらでひかりを残す花そめかれぬ~光禄太夫共方
 「紀川涼風」
  ~けふも又涼しさあかで紀川や岩こす波にかよふ秋かぜ~黄門輝光
 「東叡幽鐘」
  ~ききわたすあずまの比えの山かぜにたぐふも遠き入相のかね~光禄太夫光顕
 「士峯晴雪」
  ~峯といふみねゆく雲のうへはれてあふげば高き富士のしら雪~特進実業
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by wheatbaku | 2014-11-13 10:23 | 江戸の庭園 | Trackback
柳沢吉保(六義園② 江戸の庭園)

 今日は六義園の二回目です。
 今日は、六義園を造った柳沢吉保について書いておきます。

 六義園に入るとサービスセンターの北側に、説明板があり、そこに柳沢吉保の肖像画の複製が貼られています。(右下写真)
c0187004_09314897.jpg これは元禄15年に幕府御用絵師の狩野派の狩野常信(つねのぶ)が描いたものです。 柳沢吉保が自ら「賛」を入れています。 
  汝是我我非汝  何用分仮分真  腰佩金剛宝劍  掃退野鬼閑神
 柳沢吉保が権勢の絶頂期にある時期に描かれたもので、自分で「賛」を入れていますので、柳沢吉保の当時の姿を描いているものと思われます。
 この肖像画を見ますと、ドラマでは、優男として演出されることもある柳沢吉保ですが、意外にも武骨な感じがします。皆さんはどう感じますでしょうか?

 さて、柳沢吉保の経歴について書きますが、まず、柳沢家の出身からお話します。
 柳沢家は、甲州の出身です。
 甲州と言えば、武田家ですが、柳沢氏は、武田家の一門である一条氏の末裔を称しました。つまり、柳沢家は、もとをたどれば武田家にいきつくということになります。
 武田家が滅亡した後、武田家の遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれました。
 柳沢家では吉保の祖父にあたる信俊が徳川家康に仕官しました。
 そして、柳沢吉保が生まれた時、父親安忠は、のちの5代将軍となる徳川綱吉付となっていました。
 柳沢吉保は、綱吉にどうして近づいたのかということはあまり語られませんが、お父さんの代から、綱吉に仕えていたのでした。
 そして、吉保は、父親の縁で、幼いころから綱吉に仕えるようになったという経緯のようです。
 その後、綱吉に一貫して寵愛され、側用人に登用され、大名ともなり、最終的には、大老格まで出世しました。
 そして、柳沢家は、武田家の家臣であった者で大名まで出世した一族の代表となりました。

参考に柳沢吉保の経歴を書いておきます。
万治元年(1658) 柳沢吉保が生まれる。
寛文4年(1664)に館林藩主徳川綱吉に初めて謁見する。
延宝3年(1675)家督を相続し、保明(やすあき)と名乗り、綱吉の小姓として仕えた。
延宝8年(1680)、綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられる。
貞享2年(1685)従五位下出羽守に叙任する。
元禄元年(1688)側用人に就任する。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。
元禄4年(169年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。
元禄7年(1694)武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。老中格となる。
元禄8年(1695)駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領する。後にこれが六義園となる。
元禄14年(1701年)将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した。
元禄15年(1702) 六義園完成
宝永元年(1704) 綱吉の後継に甲府宰相の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲府藩主となる。
宝永3年(1706)大老格となる。
宝永6年 (1709)綱吉が薨去。長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、隠居後は江戸本駒込で過ごした。
正徳4年(1714)11月2日、死去した。享年57。


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by wheatbaku | 2014-11-12 09:24 | 江戸の庭園 | Trackback
  

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