カテゴリ:大江戸散歩( 279 )
豊島氏の墓(絵島のお祖父さんの墓)

 今日は、雑司が谷の法明寺に眠る豊島氏について書いていきます。

 法明寺は、日蓮宗のお寺です。

 寺伝によれば、平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。

c0187004_10381106.jpg 鎌倉時代の正和元年(1312年)、日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。

 江戸時代には、徳川3代将軍・家光から御朱印を受けていたそうです。

昭和20年戦災により全山焼失、昭和34年に本堂を再建しました。

(右上写真が本堂です)

前回書いたように雑司が谷鬼子母神は法明寺の境内です。

 この法明寺の墓域に、豊島氏の墓地があります。

 豊島氏は、桓武平氏の一族と言われています。

c0187004_10382195.jpg 桓武天皇の曾孫の高望王が上総介となります。その高望王の曾孫の常将が秩父を本拠として秩父氏を名のります。この常将の子供に武基と武常がいて、武基が秩父氏本家を継ぎ、ここから畠山氏、河越氏、江戸氏など出ました。

 弟の武常から豊島氏がでました。そして、葛西氏もここから出ています。

 武蔵国豊島郡を支配することになったため、豊島氏と名のったと考えられています。

 平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけて、現在の豊島区、板橋区、練馬区、北区辺りにかけて勢力をもっていた一族でした。

 豊島氏の初期の拠点は豊島郡の平塚でしたが、後に石神井城が本拠となります。

 鎌倉時代には、土佐守護職に任命されるほど栄えましたが、時代が下り、戦国時代末期の、文明10年(1478)太田道灌に、石神井城を攻め落され滅びました。

 インターネットで検索すると、法明寺の豊島氏のお墓は、大田道灌に攻め滅ばされた豊島氏のその生き残りで、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次を中心とした一族の墓となっています。

 豊島忠次について寛政重修諸家譜に記載されています。

 寛政重修諸家譜によれば、豊島忠次は次のように書かれています。

 天正19年から徳川家康に仕え、代官となり200石を拝領した。大坂の陣の際に、天竜川の船奉行をつとめ、のち八丈島の代官となる。寛永20年3月13日に死去し雑司が谷法明寺に葬る。

 以上から、法明寺に豊島忠次が埋葬されたのは事実のようです。

c0187004_10381613.jpg しかし、法明寺の豊島氏墓地とされている場所の中央には、没年が異なる墓碑が建てられています。

 墓碑銘は高雲院宗園となっていて、寛文12723日没となっています。

 どうも別人のようです。

 この人物については、墓碑の脇にある墓誌に、白井平兵衛尉勝久(徳川家継生母月光院付大年寄絵島の祖父)と書かれています。

 寛政重修諸家譜に白井勝久も書かれていました。

 白井勝久は、豊島忠次の四男で、寛永9年に小十人に列し、正保2年組頭となり、寛文5年本理院(家光の正室)に仕え200石を賜る。寛文12723日没し、法名日勝、雑司が谷法明寺に葬るとされています。

 墓誌のとおりです。

 そして、さらに寛政重修諸家譜を見ると、白井勝久の孫に次のような記載があります。

女子 大奥に仕え、のち月光院(家継母勝田氏)の老女となり、絵島と称す。

さらに次のように続きます。
正徳四年二月二日重き勤めに在ながら、東叡山及び増上寺に詣でて帰る時に、老女宮路としめし合せ.其余の侍女をも伴ひ、狂言座

に至りて見物し、暮に及びて帰りし始末重科にも処せらるべしと雖も、是を宥められて親族にめし預けらる。三月五日絵島こと漸々昇進して老女にいたり.あまたの侍女の上にも列なりながら、うちうちにては其行ひ正しからず。御使に出るおりおり、或は請ふで

宿に在るのいとま、人の貴賤をも撰ばすよからぬ者どもに相ちかづき、またはゆかりなき家に止宿し.しかのみならす狂言座の者に親しむことその身のみにあらず、同仕の侍女をも勧め遊興に耽るの條、その罪軽からすといへども、死荊を宥められ、信濃国高邁に配

流せられ。内藤駿河守清枚にめしあづけらる。      

 まさに絵島生島事件の大奥年寄絵島です。

 絵島が白井氏の出であることは知っていましたが、白井氏が豊島氏の一族で、また絵島のお祖父さんが雑司が谷の法明寺に眠っているとは、思ってもいませんでしたので、新たな発見でうれしくなるやら驚くやらでした。



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by wheatbaku | 2017-02-06 10:25 | 大江戸散歩 | Trackback
獏塾江戸散歩が開催されました。

 昨日、獏塾江戸散歩が行なわれ、高輪から田町まで散歩してきましたので、今日はその様子をアップします。

獏塾江戸散歩は、獏塾の塾生が案内してくれる江戸散歩です。

昨日は、加州そうせい公さんが資料を作成してくれて、地元田町で生まれ育ったヤマトヤおじさんが案内してくれました。

昨日は、快晴でした。しかし、風が強めで前半は少し苦労しましたが、後半は風もおさまってきて、楽しい散歩となりました。

加州そうせい公さんとヤマトヤおじさんありがとうございました。
参加された塾生の皆さんお疲れ様でした。

 昨日のコースは、都営地下鉄「泉岳寺駅」に集合し次のコースで散歩してきました。

【ルート】「高輪大木戸跡」②「願生寺」③「御田八幡神社」④「元和のキリシタン殉教碑」⑤「札の辻」⑥「港郷土資料館(見学と休憩)」⑦「西郷・海舟会見の地」⑧「本芝公園(雑魚場・芝浜)」⑨「酒蔵見学」⑩「西応寺」⑪「七曲り」⑫「薩摩藩邸跡(芝さつまの道)」⑬「水野家屋敷跡」


 それでは、主な散策地点を紹介していきます。
「高輪大木戸跡」

c0187004_18560921.jpg 高輪大木戸跡は、泉岳寺駅のA4出口そばにあります。

 高輪大木戸は、天和3年、芝口門(札の辻)にあった高札場がここに移され、さらに、宝永7年(1710)芝口門が新橋に移されるとともに、新たに道幅約6間の東海道の両側に石垣を築き木戸を設けて江戸の南の出入り口として治安維持と交通規制の役割を担った大木戸です。

「願生寺」

c0187004_18561221.jpg 高輪大木戸から見ると第一京浜を挟んだ西側から少し品川駅寄りに「願生寺」というお寺があります。

 この願生寺の境内に「牛供養塔」があります。

 この辺りは、江戸時代は「車町」または「牛町」と呼ばれた町で、牛車を扱う人たちが住んだまちです。

 それを知る唯一の資料として残されたものが「牛供養塔」です。

 牛供養塔は車町の牛屋7家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立されたのが初めで、現在のものは文政11年(1828)に建立されたものです。


「元和のキリシタン殉教碑」

c0187004_18561553.jpg「元和のキリシタン殉教碑」は、住友不動産三田ツインビルの裏側にあります。

 しっかり整備されているのですが、意外と知られていないようです。

「元和のキリシタン殉教碑」は、徳川家光が元和9年(1623124日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水をはじめとする50人のキリシタンを処刑した刑場の跡です。

江戸時代の切絵図では、ここは智福寺となっていますが、寺が建立される以前は処刑場で、そこに寺を建てることで罪人が浮かばれると考えたそうです。

「西郷南洲・勝海舟会見の地」

c0187004_18561957.jpg慶応4年(18683月15日の新政府軍による江戸城総攻撃の前日の14日勝海舟と西郷隆盛が会見し、江戸城の無血開城が決定された場所です。

西郷隆盛と勝海舟の会見は、3月13日と3月14日の2回行われています。

3月13日は、現在はSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)となっている薩摩藩の高輪の屋敷で行われ、3月14日の会見が田町にある薩摩藩の蔵屋敷で行われました。

13日は、両雄が久闊を叙す程度の話し合いで終わり、本格的な交渉は3月14日に行われ、江戸城総攻撃が中止されました。

「本芝公園(雑魚場・芝浜)」

c0187004_18562231.jpg現在本芝公園のある場所は昭和39年頃まで漁船の入る入江になっており、昭和45年に運河を埋め立てて造られました。

魚市場本芝組の雑魚場(ざこば)として江戸前の魚介類が豊富に揚がり浅草海苔の生産地としても有名でした。

古典落語の中でも屈指の人情噺として知られる「芝浜」の舞台にもなっています。

ヤマトヤおじさんの説明では、オリンピックの頃には、まだ漁船が停泊していたそうです。地元で生まれ育った人ならではの説明がありました。

「薩摩藩邸跡(薩摩小路)(芝さつまの道)」

c0187004_18563527.jpg薩摩藩の上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。

現在の三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間に、その薩摩藩上屋敷の説明板が設置されています。

この薩摩藩上屋敷には、天璋院篤姫も、13代将軍家定に輿入れするために江戸に出てきた際に、一時期滞在していたこともあります。

また、慶応31225日に起きた薩摩藩邸焼討事件の現場でもあります。

薩摩藩の挑発にのった旧幕府は、庄内藩を中心とした軍勢で薩摩藩邸を焼討し、これが鳥羽・伏見戦争を引き起こすきっかけとなりました。

最後はお楽しみの懇親会、すでに日本酒の試飲会で一杯呑んでいますが、まだまだ呑み足らない参加者が参加してくれました。

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by wheatbaku | 2017-01-22 18:37 | 大江戸散歩 | Trackback
雑司が谷散歩

 先週土曜日に、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」で、雑司が谷七福神めぐりを中心に雑司ヶ谷を散歩してきました。

 今年の一番の寒波襲来ということで寒さが厳しい中、所々で暖をとりながら、楽しく散歩してきました。

 七福神めぐりを経験している人はあまり多くいませんでした。
 そのため、500円の色紙を購入した人は半数ぐらいの方だったのですが、色紙を買わなかった人も、各札所では、スタンプを押していました。

c0187004_11023180.jpg そのため、「やっぱり色紙を買ったほうがよかった」という声も聞かれました。

 右写真は、中野ビル前に鎮座する布袋様でスタンプを押している参加者の皆さんです。

 雑司が谷七福神について、すでに書いていますので、今日は、それ以外の主な案内ポイントを紹介します。

 散歩ルートは次の通りです。

【ルート】 池袋駅 ⇒ 本立寺【榊原家墓所】 ⇒ 仙行寺(福禄寿) ⇒ 中野ビル(布袋) ⇒ 法明寺 ⇒  観静院(弁財天) ⇒ 雑司が谷鬼子母神堂(大黒天) ⇒ 本納寺【井上家墓所】⇒ 大鳥神社(恵比寿) ⇒ 清立院(毘沙門天) ⇒ 菊池寛旧居跡 ⇒ 清土鬼子母神(吉祥天) ⇒ 護国寺駅

本立寺

 本立寺は、7代目住職の時以来、姫路藩榊原家の奥方たちの菩提寺となりました。

榊原家の墓所の中には、榊原政岑が身請けした通称「榊原高尾」が眠っています。

c0187004_11023613.jpg榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれ、榊原宗家を継承しましたが、徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊びまわり、高尾太夫を高額で身請けしました。

このため、吉宗の怒りを買い、政岑の隠居と越後高田への国替えを命じられました。

政岑は、高田に移された9か月後に31歳で亡くなりました。

高尾太夫は、政岑死亡後は江戸の上野池の端の榊原家下屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)で菩提を弔いつつ過ごし、67歳で死亡したといいます。

法明寺

法明寺は平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。

鎌倉時代に、日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。

c0187004_11024057.jpg法明寺の山門を入るとすぐ右手に「蕣(あさがお)塚」があります。


法明寺の蕣塚は、酒井泡一作の朝顔の絵とともに「蕣やくりから龍の やさすがた 富久」と刻まれています。富久とは、雑司が谷にあった「藪そば」の主人の俳号です。

鬼子母神堂

 鬼子母神(きしもじん)とは、インドの神様で、人間の子供たちをとって食べる怖い神様でしたが、お釈迦様によって改悛し安産・子育ての神様となりました。

c0187004_11024787.jpg ここにお祀りする鬼子母神の像は清土(文京区目白台)辺りより掘りだしたもので、その後、現在地に祀られました。

 鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664年)加賀藩主前田利常の娘で、広島藩主浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立され、その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。

 鬼子母神堂は、平成28年、国の重要文化財に指定されました。

本納寺     

慶安3年(1650)、威光山法明寺の御住職によって創建されました。

c0187004_11040090.jpgここには、浜松藩井上家の墓所があり、4代までの藩主のお墓があります。

その中に、井上正就のお墓があります。

井上正就は、2代将軍秀忠の信任が厚く遠江国横須賀藩主となり老中まで栄達しました。

しかし、老中在任中に江戸城中において,目付豊島正次に殺害されました。

これは,江戸城での最初の刃傷事件です。

原因は豊島信満が話をまとめた正就の嫡子・正利の縁組が破談とされたことを恨んだためといわれている。豊島信満もその場で自害しました。

 寒い中、散歩にご参加いただいた皆さんありがとうござました。




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by wheatbaku | 2017-01-15 20:55 | 大江戸散歩 | Trackback
板垣退助(東海寺に眠る人々⑧)

 年末に書いていた「東海寺に眠る人々」ですが、板垣退助について年内に書ききれませんでしたので、今日書きます。

 板垣退助のお墓は、品川神社の社殿の裏側にあると諸々の案内に書いてあります。 そして、実際に社殿(右下写真)の裏側にあります。

c0187004_11182936.jpg 神社の境内にお墓があるので不思議に思う方いると思いますが、板垣退助のお墓は、実は、東海寺の塔頭であった高源院にありました。

 その高源院が世田谷区烏山に移転した際に、板垣退助のお墓は、埋葬地に残されました。

 その後、高源院の旧境内が開発されていき、お墓の南側からのお参りする道がなくなり、品川神社の社殿の裏側からお参りするようになったようです。

 品川神社の社殿の裏側の道は整備されていて、板垣退助のお墓は、社殿そばにありますので、品川神社をお参りする際には、寄られるとよいかと思います。

板垣退助は、天保8年(1837)、土佐藩馬廻役乾栄六正成の長男として城下中島町に生まれました。馬廻役は上士となります。

 以下、絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(清水書院刊)を参考に、板垣退助の生涯を簡略に書いておきます。

 

c0187004_11183405.jpg安政7年(1860)父がなくなり家督を相続し、文久2年(1862)には山内容堂の御側用役となります。
 このころから攘夷論を唱え始めたが、武市半平太らの急進的な土佐勤王党とは対立し、慶応元年(1865)には後藤象二郎らとともに藩庁の大監察として武市半平太らを処刑しました。

慶応3年(18675月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と会見して薩土討幕同盟を確約し、帰藩後、参政に昇進し大隊司令も兼任し兵制改革にとりかかっています。

 慶応年正月鳥羽伏見の戦いが起きて戊辰戦争が始まると、板垣退助は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討した後、28日に京都に到着しました。

そしてただちに東山道先鋒総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣しました。大垣、信州下諏訪を通り、甲府では甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入りました。

板垣退助は、大垣を出たのち、乾姓から先祖の姓板垣に復し、以後板垣退助と名乗りました。

板垣退助は、武田信玄の重臣であった板垣信方の子孫であるといわれており、甲州を鎮撫するには、板垣信方の子孫であることをはっきりさせたほうが得策だと考えたようです。

江戸に到着し、江戸城が無血開城された後も、宇都宮はじめ北関東の旧幕府軍を掃討した後、会津戦争の際、白河口の参謀として会津藩を追討して明治元年11月に帰藩しました。

明治2年には、家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進し、明治4年新政府の参議に任ぜられたが、明治年に西郷隆盛らと征韓論に敗れて参議を辞しました。

翌年の明治8年、後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰議院設立建白書を政府に提出しました。その直後、一旦参議に復帰しますがすぐに辞職し、自由民権運動に乗り出しました。
 以後、板垣退助は自由民権運動に挺身することになり、明治14年自由党総理に推されました。

c0187004_11184135.jpgその翌年の明治15年4月には遊説中の岐阜で、凶変にあった。

この時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれています。

板垣退助のお墓の脇に、この言葉を佐藤栄作元首相の字で刻んだ碑が建てられています。

 板垣退助は華族制度に批判的でした。そのため、明治20年伯爵に叙せられた際にも、再三固辞しましたが許されず、7月に叙爵することになりました。

その年8月には国会開設され、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏した後、高知に帰りました。

明治23年、後藤象二郎や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、明治23年9月に立憲自由党を結党し、翌年には党名を改名した自由党の総理となりました。

明治29年第2次伊藤内閣の内務大臣となり、明治31年には、最初の政党内閣である憲政党の大隈(隈板)内閣の内務大臣となりましたが、3か月後には辞職してしまいました。

 その後は、政治活動から身を引いて社会問題に専念しました。

そして、大正8年83歳で永眠しました。

板垣退助死去の報が伝わると、芝公園にあった板垣邸には弔問客がひきもきらず訪れ、時の首相原敬や大隈重信など朝野の名士が続々と詰めかけたといいます。

c0187004_11184428.jpg板垣退助は、明治40年「一代華族論」を公表して華族制度を批判していたこともありの意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退しました

 遺骸は、高源院に埋葬されました。

 戒名は「邦光院殿賢徳道圓大居士」です。



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by wheatbaku | 2017-01-08 11:06 | 大江戸散歩 | Trackback
中津藩奥平家墓所(東海寺に眠る人々⑦)

 今日は、清光院にある奥平家墓所をご案内します。

c0187004_18220758.jpg 清光院は、目黒川を挟んで、東海寺の南側にあります。

清光院も江戸時代には東海寺の塔頭でした。

 江戸時代の初期には本坊の東側にありましたが、後に現在地に移転しました。

 明治になって独立しました。

c0187004_18221353.jpg 奥平家墓所は、清光院の墓域の最奥部にあります。

 奥平家墓所には、中津藩奥平家の初代から明治以降までの歴代当主のお墓がそろっていて、これだけの大名墓がそろっているのは東京では珍しいです。

 品川区の史跡に指定されていますが当然のことと思います。

 

奥平家は、徳川譜代の名門大名です。

中津藩奥平家の初代は奥平家昌は、奥平信昌の長男として生まれました。

父奥平信昌は、天下無敵の武田の騎馬軍団を織田信長が鉄炮で打破った長篠の戦いで武功をあげて奥平家隆盛の基礎を築きました。

 長篠の戦いは武田勝頼が三河に攻め入って、長篠城を包囲している中で起きた戦いです。

 武田勝頼は1万5千の軍勢で500人が守る長篠城を攻めました。

長篠城は、孤立した中で徳川家康に助けを求め、この要請に応じて織田信長と徳川家康の連合軍が救出に向かい、3千の鉄炮で武田騎馬軍団を打ち破りました。

 この時に長篠城を死守したのが奥平貞昌でした。

 この功績から織田信長から信の一字を拝領し奥平信昌と名のるようになり、徳川家康の長女亀姫が正室として娶りました。

c0187004_18222133.jpg 中津藩奥平家は、この奥平信昌の子供家昌から始まる家柄であるため、譜代名門と言われました。


 その家昌のお墓は最前列の東側にあり大きなお墓でなのでよ目立ちます。

奥平家昌は、信昌と徳川家康の長女亀姫(加納御前)との間に生まれた長男です。

元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗りました。

長じて、父の奥平信昌とは別家をたて、宇都宮藩10万石を賜りました。

奥平家昌の戒名は『六通院殿天眼道高大禅定門』です。

奥平家の墓所には数多くの墓碑がありますが、そのうち奥平昌鹿(まさか)と奥平昌高を紹介します。

c0187004_18222645.jpg奥平家が中津に入ったのは江戸時代中期の享保年間(享保2年)でした。それ以降から幕末まで、九州の中津藩の藩主でした。

この中津藩出身の有名人の一人に前野良沢がいます。

前野良沢は、「解体新書」を出版したことで有名です。

歴史の教科書では、「解体新書」は杉田玄白が出版したとなっていますが、杉田玄白は、オランダ語がよくわからず、実際に翻訳したのは前野良沢だと言われています。

この前野良沢保護し支援したのが、中津藩3代藩主奥平昌鹿(まさか)です。

c0187004_18290628.jpg前野良沢は、中津藩の藩医でしたが、蘭学に興味をもち、蘭学を学び始めます。

良沢が長崎遊学を願い出ると昌鹿は快く許可しました。

また、良沢が「ブラクテーキ」という高価な医書を入手したいが貧乏であるため入手できないでいると、昌鹿は、それを購入して下賜しました。

また、前野良沢は、「蘭化」という号を持っています。これは「オランダ語の化けけ物」という意味ですが、これをつけたのも、昌鹿が良沢を「オランダ語の化け物」と言っていたことによるものです。

これらのエピソードは、吉村昭著「冬の鷹」にも描かれています。

3代藩主の昌鹿を上回るほど、オランダに傾倒した藩主が5代藩主の奥平昌高です。

c0187004_18223059.jpg「蘭癖大名」の一人として知られています。

奥平昌高は薩摩藩主の島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。

島津重豪は大変な蘭学好きでした。

実父も蘭学好き、養家先も蘭学好きですので、昌高も蘭学に非常に興味をもちました。

中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ屋敷」と呼ばれる建物を造り、そこに出島に舶来したオランダ製品を陳列したりしたといいます。

また、オランダ語を勉強し、オランダ商館長と親交を結ぶようになり、商館長ヘンドリック・ズーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっています。

また、オランダ商館付医師シーボルトとの交流は深くて、シーボルトの「江戸参府紀行」に出てくる人物で最も多いのは、奥平昌高の名前だそうです。


今日で2016年のブログの投稿納めとさせていただきます。
この一年、ブログを愛読頂きありがとうございました。良いお年をお迎えください。

 


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by wheatbaku | 2016-12-30 18:12 | 大江戸散歩 | Trackback
堀田正盛(東海寺に眠る人々⑥)

今日は堀田正盛たちが眠る東海寺について書いていきます。

東海寺は、寛永15年に将軍家光が沢庵のために建立した寺ですが、明治になってからは衰退してしまい、現在は江戸時代に数多くあった塔頭の一つであった玄性院が、東海寺の名前を継いでいます。

その東海寺には、堀田正盛など堀田家の墓や丹波篠山藩青山家の墓があります。

 まず、東海寺の歴史について書いていきます。

c0187004_10062221.jpg 東海寺は、臨済宗に属し京都大徳寺の末として朱印寺領500石を拝領し、歴代の将軍や諸大名の帰依をうけていました。

お寺の広さは4万8千坪もあったといい広大なお寺でした。.

東海寺は、寛永15年(1638)に、3代将軍徳川家光が、沢庵和尚のために建立したものです。

 家光が、品川は景色もよいし、自分もときどき鷹狩に行く場所であるから、品川で良い場所を選んで住まいを建てるように沢庵にすすめたのだそうです。

 家光は、事前に沢庵と供に品川に下見に来ているそうです。

寛永14年、家光は、長徳寺ほか三力寺の境内地全部と、北品川稲荷社(現在の品川神社)の境内の一部を収公し、その跡地約4万8千坪を沢庵に下げ渡しました。

 翌年寛永15年に東海寺が完成しました。

東海寺は、はじめは寺というより、山門も本堂もない普通の屋敷風に造られていたため、沢庵屋敷とも呼ばれたそうです。

c0187004_10065049.jpg 東海寺が創建されてまもなくは広大な境内は空地のままになっていましたが、東海寺創建の翌年の寛永16年に境内の一郭に、時の老中堀田正盛が塔頭臨川院を建立しました。

臨川院はのち玄性院と改称しました。(これが現在の東海寺です。)

この後沢庵に帰依している大名らによって、境内に塔頭が次々と建立されました。

塔頭というのは、末寺の中の一つの形態ですが、一般の末寺とは異なり、大寺の山内に本寺を中心として、これに密接して建立されている寺院のことをいいます。

 束海寺の塔頭の数は.最盛期には17ヵ院ありました。

 この塔頭も、現在は春雨庵(現在は春雨寺)、清光院、髙源院(現在は世田谷区烏山に移転)、そして玄性院(現在の東海寺)の四つが残るだけとなりました。

創建当時は東海寺には本堂も山門も有りませんでした。

c0187004_10064526.jpg山門や本堂が建立されたのは、東海寺が元禄7年に火災で焼失した後のことでした。

 東海寺には、沢庵の死んだ後、大覚寺から紫衣以上の高僧が一年ずつ東海寺に輪番とし派遣され、大徳寺派の関東触頭として関東の大徳寺派寺院を管掌しました。

 しかし、明治維新になって東海寺が品川県の県庁に指定されたことや将軍や諸大名の庇護を失って衰退したことによって、境内の建物は次々に壊され、広大な敷地は他の用地に変わっていきました。

東海道線は昔の東海寺の境内を通過したいますし、山手通りも昔の東海寺の境内を通っています。

本堂があった場所は、現在は品川区立の小中一貫校の品川学園となっています。

現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだものです。

玄性院は、寛永16年に老中堀田正盛が建立したものです。

 そのため、ここには堀田正盛のお墓がありますので、堀田正盛について書いていきます。

c0187004_10065870.jpg 堀田正盛は、家光が寵愛・信頼した老中です。

堀田正盛は、旗本堀田正吉の長子と生まれました。

堀田正吉堀田正盛は春日局の義理の孫にあたります。

 そのため、13歳の時に家光の近習として取り立てられ可愛がられました。

33歳の時に老中格となり、若くして松平信綱などとともに家光を支え、川越藩主、松本藩主、佐倉藩の藩主を歴任しました。

そして、家光がなくなった慶安4年4月20日に殉死しました。
 享年44歳の若さでした。

 堀田正盛の出世は継祖母が春日局であったことを考慮に入れても異常な早さで、家光と正盛は男色関係にあったという説が有力です。

そのために殉死したと言われています。

正盛の遺体は、家光が亡くなった時に殉死した阿部重次たちと共に寛永寺の現龍院に葬られています。そのため、東海寺にあるお墓は供養墓のようです。
お墓正面には「臨川院殿前拾遣賀州大守心穏宗卜大居士」と刻まれています。
 塔頭の最初の名前「臨川院」は、堀田正盛の戒名からとった名前なんですね。

堀田正盛のお墓の隣の区画に近江宮川藩9代藩主の堀田正養(まさやす)戒名本光院のお墓があります。

c0187004_10070340.jpg堀田正盛の後を継いだのは、長子の堀田正信です。

堀田正信は、老中松平信綱ら幕閣を批判する上申書を提出し、無断で帰国してしまいました。

このため、幕府は、堀田正信が狂ったとして、佐倉藩堀田家を改易とし、正信は飯田藩へお預けとしました。

その後、正信の子供正休の代に、堀田家は吉井藩主とし手再興された後近江宮川藩に移封され、明治維新を迎えました。堀田正養は近江宮川藩の最後の藩主です。
 墓碑正面には「本光院殿瑞嶽宗峻大居士」と刻まれています。

 堀田家というと佐倉藩堀田家が有名です。

 幕末の老中堀田正睦が有名です。

 この堀田家は、堀田正盛の次男堀田正俊から始まる家柄です。
 堀田宗家はあくまでも近江宮川藩藩主であった堀田家です。

堀田家の北側には、丹波篠山藩の青山家の墓地があります。

c0187004_10070833.jpg青山家の墓地は、青山家の墓」と刻まれた墓碑を中心に整備されていますが、右奥に4代藩主の忠裕の墓碑が独立しています。

青山忠裕は文化元年(1804)に37歳の若さで老中となっています。

 その後、老中を30年以上勤め、相馬大作事件の裁判や、桑名藩・忍藩・白河藩の三方領知替えなどを処理しています。



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by wheatbaku | 2016-12-28 09:44 | 大江戸散歩 | Trackback
賀茂真淵(東海寺に眠る人々⑤)

 東海寺に眠る人々の5回目は賀茂真淵です。


c0187004_08590679.jpg 賀茂真淵のお墓は、沢庵の東側にあります。

 東を向いた鳥居が建てられていますので、容易に見つけられます。

 

 賀茂真淵は、国学の大家です。

 国学というのは、中国の書物を研究する漢学に対して、古事記・日本書紀・万葉集などの日本の古典を研究する学問です。

c0187004_08591373.jpg 江戸時代の初期の契沖を祖とし,荷田春満 (かだのあずままろ) ,賀茂真淵を経て本居宣長によって完成され、平田篤胤が発展させました。

 これらの人々のうち、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を四大人(しうし)と言います。

 賀茂真淵はこのように国学の大家であるため、お墓は神式のお墓になっています。

c0187004_08591939.jpg 賀茂真淵は、元禄10年遠江国敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(今の浜松市中区東伊場)に生まれました。

生家は賀茂神社の神職岡部家の分家で,岡部家は京の賀茂神社の摂社の神職を始祖とするとされています。

賀茂真淵は従兄の岡部政長の養子となりますが、妻と死別したため実家にもどり,享保10年浜松の脇本陣梅谷家の養子になりました。


享保18年に京都に上り荷田春満を先生として国学を学びました。

しかし、師匠の春満が死去したため、一旦浜松へ戻った後、江戸に出て、国学の研究と弟子の育成に専念しました。

真淵は、特に『万葉集』の研究に力をそそぎ、その研究は、『万葉解』『万葉考』にまとめられています。

 その他に真淵は、『語意考』『歌意考』『国意考』『文意考』『書意考』のいわゆる『五意考』などがあります。


賀茂真淵が教えた弟子は300人を超えると言われています。

有名な門人として、8代将軍徳川吉宗の次男で御三卿の一人田安宗武や楫取魚彦、加藤千蔭、村田春海らがいます。

そのほか、塙保己一、平賀源内なども賀茂真淵に教えを乞うています。

弟子の中で特に有名なのが本居宣長です。

本居宣長が、宝暦13年、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた話は、「松阪の一夜(ひとよ)」」として大変有名です。

第二次世界大戦終結までは、小学校の国語教科書に載っていて、戦前の人々には有名な話でした。


 賀茂真淵、明和6年(1769)73歳でなくなりました。
 






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by wheatbaku | 2016-12-24 08:52 | 大江戸散歩 | Trackback
渋川春海(東海寺に眠る人々④)

今日は、大山墓地に眠る渋川春海について書きます。

大山墓地内の沢庵のお墓からあまり離れていない線路に近いところに渋川春海のお墓があります。

c0187004_09593865.jpg(右写真の左から2番目の墓碑が渋川春海の墓ですが、後ろ側に東海道新幹線の線路が写っています)

渋川春海は、江戸時代における天文学上の大人物ですが、意外と質素なお墓です。 戒名は「大虚院透雲紹徹居士」と彫られています。

渋川春海は、日本人の手により作られた最初の暦「貞享暦」を作りました。

また、「八十八夜」や「二百十夜」を定めたことも有名です。

 しかし、渋川春海の伝記を探しましたが、渋川春海の伝記はありませんでした。
c0187004_10070856.jpg その中で新潮選書『江戸の天才数学者』(鳴海風著)の中で、吉田光由や関孝和らとともに書いてあります。

また、2011年の本屋大賞を受賞した「天地明察」は、渋川春海が主人公の小説です。

この小説は、映画化され、岡田准一が渋川春海を演じていました。

この「天地明察」はもちろん時代小説ですが、渋川春海の生涯もわかります。

伝記がない中で、作者の冲方丁が渋川春海の生涯をよく書いたと感心しました。

『江戸の天才数学者』や『天地明察』も参考にして渋川春海の生涯について書いてみます。

渋川春海は、もともとは、囲碁棋士で、安井算哲と名のっていました。

そうした環境下ですが、渋川春海は暦に興味を持ちました。

当時の日本では、中国製の暦「宣明暦」を使用していました。

宣明暦は、800年以上も使われたため間違いが生じていました。

何が違っているかというと、日食とか月食が起こる日が違っていました。

c0187004_10060613.jpg当時は、旧暦でしたので、日食は新月の時つまり一日に起き、月食か満月つまり15日に起きるはずでしたが、その日食や月食がずれて起きたわけです。

これは暦学者や朝廷にとって大問題でした。

渋川春海は、中国の経度と日本の経度が違っているため、中国では正しい授時暦が日本では間違えを起すことに気がついたのです。

さらに『天地明察』には、渋川春海は、太陽・地球・月の軌道が正円ではなく楕円形であることにも気がついたと書いてあります。

 こうした研究を積み重ねて、渋川春海は、中国の元の暦であった授時暦を基にした上で、さらに改訂し日本にあった暦をつくりました。

c0187004_10031082.jpgこの暦を渋川春海は大和暦と呼んでいました。

渋川春海が作った暦への改暦が宣下されたのが貞享元年(1684)1029日で、実際に使用され始めたのが貞享2年であるため、その時の年号をとって貞享暦と呼ばれました。


この貞享改暦により、平安時代の貞観4年(862)から800年以上にわたって使用されてきた宣明暦は廃止となりました。

この改暦の功により、幕府は渋川春海を天文方に任命しました。

その後、天文方は渋川春海の子孫が継いでいきました。
 こうした渋川家を継いで、いわゆる旧暦と呼ばれる太陰太陽暦の最高傑作と呼ばれる天保暦を作ったのが、渋川景佑(かげすけ)です。
 この渋川景佑は高橋至時の次男として生まれ、渋川家に養子に入り渋川家を継いだのでした。高橋至時は、有名な伊能忠敬の先生です。


渋川春海は、もとは囲碁士で、安井算哲といっていました。

囲碁の家元には四家(囲碁家元:本因坊家、井上家、安井家、林家の四家)あり、安井家はその一つでした。

渋川春海は、初代安井算哲の長男として生まれましたが、彼が生まれる前に父は養子をもらっていて、その名を算知といいました。安井算知は実力抜群でした。

そのため、安井算哲が義兄算知をたてるときには保井を名のり、囲碁の仕事でない場合つまり暦に関係する仕事の場合には、渋川という姓を使用しました。
 安井から保井には延宝5年(1677)に改めて、さらに、
元禄15年(1702)64歳の時に渋川に改姓しました。

渋川という姓は、安井家の先祖が河内国渋川郡を領していたことに由来するそうです。
 また、春海という名前は
  雁鳴きて 菊の花咲く 秋あれど 春の海べに すみよしの浜 
 という歌からとったものだそうです。


 なお、「天地明察」には、和算家の関孝和が重要人物として登場します。

江戸時代初期の和算家は、確かに改暦問題に関心をもったようで、関孝和の著書にも『授時発明』など改暦に関するものがあるようです。

しかし、和算家の興味はあくまでも数学のほうに興味をもっていたと『江戸の天才数学者」に書いてあります。



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by wheatbaku | 2016-12-21 09:55 | 大江戸散歩 | Trackback
沢庵②(東海寺に眠る人々③)

今日は、沢庵に関連する事項として紫衣事件と沢庵漬けについて書いてみます。

紫衣事件については高校の日本史の教科書にも出てくる有名な事項です。

しかし、事件の全貌についてわかりやすく書いたものが私がみた限りでは少ないように思います。
 そうした中で、『国史大辞典』の説明がわかりやすいように思いますので、『国史大辞典』の説明をもとに書いていこうと思います。

紫衣は紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、もともと宗派を問わず高徳の僧が朝廷から賜ったものです。

c0187004_21125940.jpg寛永4年(1627)7月、幕府は禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣勅許を受けた者に対し、これを取り消すなど、五ヵ条からなる禁令を出しました。

これより以前、慶長18年(1613)には特に大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・粟生光明寺・金戒寺の住持職について『勅許紫衣法度』を出し、勅許以前に幕府に申し出ることを定めました。
 ついで元和元年の『禁中井公家諸法度』と『諸宗本山本寺諸法度』が出され、朝廷の勅許は慎重に行わるべきことを規定しました。

しかし実際にはこの後も幕府に告知することなく勅許される者が続いたので、寛永4年7月、土井利勝・板倉重宗・金地院崇伝が会して五ヵ条の制禁を出しました。

 これは、元和元年以降の五山十刹に出世入院した者の綸旨を無効とし、浄土宗の上人号も取り消しということが主な内容になります。

この禁令により大きな影響を蒙ったのは、大徳寺と妙心寺でした。

大徳寺では、硬軟両派に分れ争い、硬派は北派と呼ばれ、軟派が南派と呼ばれました。

両寺でははじめ強硬論つまり大徳寺では北派が優勢で、翌年の寛永5年春、大徳寺で北派に属する沢庵宗彭・玉室宗珀・江月宗玩は、連名で抗議書を所司代に提出しました。

この起草は沢庵が行ない、辞句の激しい抗議文でした。

この抗議書を読んだ幕府も妥協策を考え、既成の事実をある程度まで認める代りに、詫状を提出させることとしました。

妙心寺では、幕府の命令に従い、七名が連署で詫状を出しました。

大徳寺も南派=軟派が屈服して連署の詫状を提出して大勢は幕府の意向に従いました。
 しかし沢庵たちは屈服せずなお抗議したので、幕府は沢庵らを江戸に呼んで詰問することにしました。沢庵らは寛永6年江戸に下りました。

幕府では崇伝が厳罰を、天海が軽い処罰を主張しましたが、大徳寺と妙心寺の4名が配流となりました。

妙心寺束源慧等は陸奥津軽、同単伝は出羽由利、大徳寺沢庵は出羽上山土岐氏に、同王室は陸奥棚倉内藤氏に預け置かれ、江月は許されました。

これが紫衣事件です。

紫衣事件はこの4名の流罪だけで終わったわけではありません。

紫衣事件により、朝廷では、後水尾天皇が6月に譲位の内意を近臣に伝え、11月に明正天皇に譲位してしまい、江戸時代初期の朝幕対立の最大事件とされています。

『国史大辞典』には、
 紫衣事件は、朝廷の寺社に関する権能を収奪しようとはかった幕府の積極的な動きの一環として把えられるとともに、五山の外に独立していた大徳・妙心両寺を圧迫しようとした崇伝の策謀によるものと推測されている

と書かれています。

上山に流された沢庵は3年後赦された後、徳川家光の帰依を得て、身近に仕え、ついには東海寺の開山となるほどでした。
 この間の沢庵の
努力の結果、紫衣勅許についての制限は、寛永18年に緩和されて、京都所司代の承認を経て勅許することが認められました。

 これは、沢庵の功績であり、家光に擦り寄ったと批判していた大徳寺や妙心寺の僧たちも、沢庵の功績を高く評価したそうです。

次いで「沢庵漬け」について書きます。

c0187004_21124787.jpg沢庵和尚がこの漬物を考案したから「沢庵漬け」の名がついた。
 また、東海寺にある沢庵のお墓は、丸い石を置いただけで、大根を押すために置すための丸い石とよく似ているので、沢庵漬とよぶようになったと『国史大辞典』に書いてあります。
 水上勉の『沢庵』でも、東海寺を訪ねた家光が珍しいものを所望した際に、沢庵が貯え漬けの香の物を出したところ、「これは貯え漬けでなく、沢庵漬けだ」と言ったことが発祥だと書いています。

 しかし、『たべもの語源辞典』では、 「大根の糠漬けは、沢庵が生まれる以前からあったもので、沢庵が発明したという説は間違いである。」 と書いてあります。
 さらに、京都の辛漬(からづけ)や九州の百本漬は「沢庵(じゃくあん)」ともよばれ、それが、「沢庵(じゃくあん)」という文字のよみ方から「たくあん」となったと書いてあります。



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by wheatbaku | 2016-12-18 20:43 | 大江戸散歩 | Trackback
沢庵①(東海寺に眠る人々②)

 東海寺に眠る人々の2回目は、沢庵です。

c0187004_21121018.jpg 東海寺の墓地は、大山墓地と呼ばれています。

 江戸時代には、本坊の裏側にありましたが、現在は、東海道線と山手線に挟まれた三角形の形をしています。

 山手通りからの入口には案内板があります。(右写真)

c0187004_21121942.jpg この大山墓地に沢庵は眠っています。

 入口には、「史跡沢庵墓」と刻まれた石柱が建っています。(右2番目写真)

 石柱脇の石段を登っていくと左手に「開山沢庵和尚の碑」(右三番目写真)がありますが、多くの人が気がつくことはないかもしれません。

c0187004_21123071.jpg その先に、沢庵のお墓があります。

 その周辺は囲いがされています。(右四番目写真)

そのため、沢庵の墓碑に近づくことはできないので、離れたところから見ます。

 離れたところからみても、大変質素なお墓です。(右五番目写真)

 「江戸から気ままに江戸散歩」でご案内した時も参加者の皆さんが異口同音に「質素だ」といっていました。

沢庵和尚は言うまでもありませんが、将軍家光も帰依した天下の高僧です。その高僧のお墓がこんな質素なので驚いたと思います。

 こういう質素なお墓になっているには理由があるようです。

 沢庵は、亡くなったら遺骸は後ろの山に埋めて土をかけるだけにしろと言い残したそうです。つまり、お墓はつくるなということだと思います。

 それだけでなく、お経もあげるな、位牌もつくるなとも言い残したそうです。 

 従って、これほど質素なお墓でも沢庵からすれば沢庵の意思には反していることになります。

  

 沢庵の生涯を『沢庵』(水上勉著、中公文庫)や『沢庵和尚年賦』(荻須純道著 思文閣出版刊)を参考に書いていきます。

 水上勉は作家ですが、この『沢庵』は小説ではなく沢庵の伝記です。

 沢庵は、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、父は出石城主山名宗詮(そうせん)の家臣の秋庭綱典といいました。

10歳で出石の浄土宗唱念寺に入り、その後、東福寺派宗鏡(すきょう)寺塔頭(たっちゅう)勝福寺の希先(きせん)に学び、さらに、希先死亡後、京都から招かれた大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、の下で修業しました。

c0187004_21124001.jpg董甫宗仲が京都に帰るのに随って大徳寺に入り、大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭(そうほう)と改名しました。

その後、堺で文西洞仁の門下に入りましたが文西が亡くなった後は、堺で一凍紹滴に師事し、後に一凍紹滴とともに南宗(なんしゅう)寺に移り、32歳になった慶長9年(1604)、一凍紹滴から沢庵という法号を授かりました。

そして、慶長12年(160737歳で大徳寺153世の住持となりました。

しかし、大徳寺住持は3日間で辞任してしまったそうです。

その後、戦禍に焼けた南宗寺や荒廃した宗鏡寺を再興しました。

寛永年間になると、沢庵の身に大きな苦難が襲いかかりました。紫衣事件です。

c0187004_21125940.jpg紫衣事件については次回、詳しく書きますが、紫衣事件で幕府の対応に鋭く抗議したため、寛永657歳の時にに紫衣事件で沢庵は出羽国上山に流がされることになりました。

出羽国上山に流された沢庵は、配流先で上山藩主の土岐頼行から厚い保護を受けたということは前回の土岐頼行の中で書いた通りです。

寛永9年、沢庵60歳の年に、大御所徳川秀忠が亡くなったことにと、天海、柳生但馬守宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許され、沢庵も江戸に戻り、神田広徳寺に入りました。その後、駒込の堀丹後守直寄の屋敷に住み、寛永11年(1634)に大徳寺に戻りました。

その年、徳川家光が上洛した際に、天海、堀丹後守直寄、柳生但馬守宗矩の強い勧めにより、沢庵は二条城で家光に拝謁しました。

この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。


 寛永12年には、幕命により江戸に下ることになりました。

c0187004_21124787.jpg江戸城に登り、家光の問に対する応対が全て家光の意に叶ったものであり、ますます帰依をうけることになりました。

この後、京都や但馬に帰ることもありましたが、寛永14年に、幕命により江戸に下りました。

この時、家光は、沢庵のために新しい館を造っていましたが、沢庵はそこに入らず麻布の柳生但馬守の屋敷に住んでいました。

沢庵はその庵を「検束庵」と名付けたそうです。まさに「検束された」という意味を込めているそうです。


 寛永16年(1639)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなりました。

 翌年には、東海寺境内に、老中堀田正盛により塔頭臨川院(後に玄性院と改称する。現在の東海寺の名称を継いでいる)、寛永18年に酒井忠勝が長松院、寛永20年に細川光尚が妙解院、正保元年には小出吉親が雲龍院を創建するなど、続々と塔頭が創建されました。


 そして、正保2年(164673歳でなくなりました。

 亡くなる際の遺誡は次のようなものでした。

 全身を後山にうずめて、ただ土を掩い去れ、経を誦することなかれ。

斎を設くることなかれ。道俗の弔 を受くることなかれ。

衆僧著衣喫飯なお平日の如くせよ。

且つ塔を立てる像を安じ牌を立つることなかれ。

真を掛くることなかれ。

諡号を求ることなかれ。

この遺誡は、私には、名誉を捨てるたけでなく、沢庵という名僧の存在さえ無視しろといっているように思えます。驚くべき遺誡です。


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by wheatbaku | 2016-12-15 21:06 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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