カテゴリ:江戸に関する本( 19 )
「吉田松陰の恋」(古川薫著)
 今日も時代小説について書きましょう。
 今日は、古川薫氏著「吉田松陰の恋」です。
 これは、同名で文春文庫から出版されていますが、その中の短編ですので、短時間で読み切れます。

c0187004_10341861.jpg 吉田松陰は、数多くの手紙や著述を残しますが、女性の影が見えないと言われています。
 司馬遼太郎氏は、「世に棲む日日」の中で「筆者はこの小説松陰のくだりを書きつづけ、女性の登場がきわめてすくないことに筆者自身ときにぼう然とする思いがある・・・・」
と書いています。

 こうした女性とのつきあいがほとんどなかった吉田松陰の交際関係の中で、唯一例外といえるのが、萩の野山獄で知り合った「高須久子」です。

 「吉田松陰の恋」は、この数少ない吉田松陰の恋愛を真正面から取り上げた小説で、高須久子が一人称で、松陰との出会いから別れまで語る内容となっています。
 高須久子は、野山獄に収監された罪人の中で唯一の女性でした。
 松陰より一回り上で、安政元年12月に松陰が入獄した時に37歳でした。
 長いこと収監されていた人々は生気がなくなっていきますが、松陰は、獄の中で勉強会や句会を開き、野山獄の淀んだ雰囲気を一変させます。
 そうした中で、高須久子は、次第に松陰に魅かれていきます。松陰も高須久子を慕うようになります。
 しかし、獄内であり、周りの人々の眼もあり、はっきりとその意思を表すことはできず、吉田松陰は、安政2年12月に野山獄を出獄することになります。
 出獄の前夜、囚人一同で送別の句会が開かれます。
 その際に、高須久子が送った句が次の句です。

  鴫(しぎ)たって あと淋しさの 夜明けかな

 実は、吉田松陰は、「松陰」という号のほか、「子義(しぎ)」という号を持っていました。
 これがわかると、この句の意味は明瞭です。
 「吉田松陰の恋」の中では、次のように高須久子に語らせています。

  鴫は、寅次郎様のもう一つの号が「子義」であることに思いつき、ひそかに准(なぞら)えたものです。

 3年後の安政5年12月、吉田松陰は、野山獄に再入獄します。
 そして、高須久子と再会します。
 しかし、二回目の野山獄での生活は、短いものでした。
 吉田松陰は、安政6年5月 江戸に送られることになりました。
 送られる前々夜、高須久子は手布巾(てふきん)を松陰に送ります。
 翌日、吉田松陰は、高須久子に歌を返します。
 「吉田松陰の恋」では、次のように描かれています。

 午すぎ、房の前を通りかかったというふりをして、「高須さん。これを・・」と、一枚の紙片を格子の間から、寅次郎様が差し出されました。「高須うしのせんべつとありて汗ふきをおくられければ」と前詞して、歌が書きとめてありました。
  箱根山 超すとき汗の出やせん 君を思ひて ぬぐい清めむ

 そして、いよいよ、吉田松陰が江戸に送られる日、高須久子は次の句をおくります。

 手のとはぬ雲に 樗(おうち)の 咲く日かな

c0187004_10382590.jpg 「とはぬ」とは「届かない」という意味です。
 「樗(おうち)」は「せんだん」という木の古い名前です。
 「せんだん」は、「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳( かんば)し」のことわざでよく知られています。
 右写真が、「せんだんの花」です。

 これに対して、吉田松陰が高須久子に渡した句が次の句です。

  一声を いかで忘れん ほととぎす

 これについての「吉田松陰の恋」の中では、高須久子は何も語っていません。

 しかし、北海道大学教授田中彰氏著の「松陰と女囚と明治維新」の中に、詳しく書かれています。ちょっと長くなりますが引用します。

c0187004_8143780.jpg ここにいう「郭公(ほととぎす)」は松陰自身とみてよい。(中略)
 いま、永遠の別れとなるかもしれぬ別離の際の「汗ふき」に久子の心をみた松陰が、ほととぎすに己れを託し、「一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす)」といいきったのは、いかにも鮮烈な愛の表出ではないか。獄中に苦悩する松陰と久子との間に、お互いに通ずるものがなかったならば、この一句があろうはずはない。
 久子にとって松陰は、所詮、手の届かぬ雲に映えてさく樗(おうち)であり、それだけ思いはつのったのであろうし、いま江戸送りを前にした松陰にとっての久子は、おのれの汗を女の心の「汗ふき」ににじませて、男としての愛の昇華をはかる以外に手立てのなかった存在だったのであろう。それだけに「一声をいかで忘れん郭公」はかつて久子が松陰に与えたあの「鴫たってあと淋しさの夜明けかな」の一句への万感の思いをこめた返句のように思えてならない。

 「花燃ゆ」では、高須久子は、井川遥が演じるようです。
 なお、「世に棲む日日」では、司馬遼太郎氏は、「一声をいかで忘れんほととぎす」を高須久子の句としています。







 
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by wheatbaku | 2014-12-12 10:29 | 江戸に関する本 | Trackback
「花冠の志士」(古川薫)を読む
 今日は、「花燃ゆ」の主人公、杉文(ふみ)の最初の夫であった久坂玄瑞について書いた古川薫著「花冠の志士」について書いていきます。

 久坂玄瑞は、高杉晋作と並んで、松下村塾の龍虎と呼ばれる英傑ですが、その人物像は意外に知られていません。
c0187004_1031364.jpg そして、久坂玄瑞を描いた小説もあまり多くありません。
 そんな中で、「花冠の志士」は、数少ない久坂玄瑞について描いた小説の一つです。
 作者の古川薫氏は、直木賞作家ですが、下関で生まれ、山口新聞編集局長の経歴もある方で、吉田松陰に関係する著書も数多く出されています。
 先ほど、久坂玄瑞の小説が少ないといいましたが、この「花冠の志士」も1991年に出版されていますが、その後、絶版となっていて、今年9月に再刊された本です。
 このように、これまで、あまり知られていなかった久坂玄瑞ですが、今回の大河ドラマでは、「文」の夫ですので、出番が多くなり、かなりスポットライトを浴びるのではないでしょうか。

 久坂玄瑞は、萩藩医の久坂良迪の三男として生まれ、幼名「秀三郎」と名付けられました。
 両親と兄を幼いうちになくしたため、藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めました。
 玄瑞と云うのは、医者としての名前で、後に士分となった際には「義助」と名乗っていますが、玄瑞の方が、はるかに有名です。

 久坂玄瑞が吉田松陰に入門したのは、安政4年です。
 入門にあたって、松陰と玄瑞との間では、激しい手紙での論争がありました。これは、玄瑞の能力の高さを認めた松陰が、大いに鍛えてやろうという考えがあったためだったそうです。
 そして、松陰は、久坂玄瑞を見込んで、妹の文の夫にと望むようになります。
 「花冠の志士」では、文が玄瑞を慕う場面もあり、この話を受けるかどうか迷う玄瑞の姿も描かれています。
 このあたり、「花燃ゆ」でどう描かれるのか、楽しみの一つです。
 そして、松陰の申し出を受けた玄瑞は、文と結婚し杉家に同居するようになります。

 その後、久坂玄瑞は、江戸に遊学した後、萩に戻ります。
 そして、吉田松陰の江戸檻送の際には、萩で松陰を見送ります。
 江戸へ松陰を送るように幕府の命令が届いた後の場面で、古川薫氏は次のように書いていま

 玄瑞は、やはり松陰をけしかけている自分を意識している。同じ助からないものなら、卑屈に遁れる努力をすることもあるまいという気持ちが、そういわせたのである。
 きびしい訊問を用意して待ち構える幕吏の前に、意を決して歩みよろうとしている松陰の背を、後ろから突き出す思いがあった。
 松陰が、評定所で必ずしも自白するまでもなかった間部暗殺計画を公言し、そのために死罪になったということを、後日玄瑞らは知るのである。
 松陰の刑死後、その門下生たちが、まるで師のあとを追うように死を急いだのは、このようないきさつも手伝っていたにちがいない。少なくとも玄瑞は、そうだった。

 この古川薫氏が書いている通り、久坂玄瑞は、吉田松陰が刑死した6年後、元治元年(1864)に起きた蛤御門の変で敗れ、鷹司邸で自刃をして果てます。
 享年25歳でした。
 「花冠の志士」には、勝ち目のない戦いに出撃する事情も描かれています。

 「花冠の志士」には、久坂玄瑞の唯一人の子供秀次郎を生んだ「タツ」との恋愛などまだまだおもしろい場面があります。
 350ページ程の分量で、久坂玄瑞の生涯がわかる読みやすい本ですので、大河ドラマ「花燃ゆ」にご興味のある方にはおすすめの本だと思います。
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by wheatbaku | 2014-12-10 10:26 | 江戸に関する本 | Trackback
「松風の人」(津本陽)を読む
 昨日紹介した「世に棲む日日」は既に読んでいるので、別の本を読もうと考えて、まず読んだ本が「松風の人」です。
 これは、津本陽氏が書いた物です。

c0187004_9545227.jpg 「松風の人」は、吉田松陰の一生を書いたものですが、吉田松陰の手紙や書いた物などを津本氏が現代語訳したものを多く使用しています。
 松陰自身の手紙などにより、吉田松陰の姿を、読者に際立たせようとしているように思います。
 この本を読むと、吉田松陰が多くの手紙などを残していると感じます。

 この本を読んで、私自身、新たに確認できたことがあります。
 それは、安政の大獄が始まり、江戸に召喚された吉田松陰が、嫌疑がかかっていなかった老中間部詮勝の殺害計画をやすやすとしゃべった理由です。

 吉田松陰が召喚されたのは、主に梅田雲浜との関係からでした。
 そして、江戸の評定所で、吉田松陰に問いただされたのは、梅田雲浜とどのような密議をしたかたということと、京の御所にあった落し文を書いたのが松陰ではないかという2点でした。
 これらについて、吉田松陰は、申開きをし、幕府の疑念は解消されました。
 その後で、吉田松陰は、老中間部詮勝を殺害しようとしたことを、聞かれもしないのにしゃべってしまったのです。
 これを聞いた奉行たちは、大変驚き、松陰は、その場で小伝馬町牢屋敷入りを命じられます。
 そして、このことが、吉田松陰の命を縮めることになったのです。

 松陰が自白をする事情について、「世に棲む日日」で、司馬遼太郎氏は次のように書いています。

 (松陰は)かれがやったり企てたりした反幕府活動のいっさいを語った。
 あほうといえば、古今を通じてこれほどのあほうはいないであろう。
 松陰は、吟味役の老獪さを見ぬけず、むしろ他人のそういう面を見ぬかぬところに自分の誇るべき欠点があると思っていた。

 司馬遼太郎氏によれば、吉田松陰が、間部詮勝殺害計画を自白したのは、吉田松陰の欠点によるものだとしています。
 しかし、津本陽氏は、吉田松陰は、死を覚悟して、自白したといっています。
 津本陽氏は、松陰が間部詮勝殺害計画を自白した事情を次のように書いています。

 幕府の松陰に対する嫌疑は、すべて氷解した。このままひきさがれば、松陰はふたたび萩に帰ることができる。
 だが松陰の身中で、憂国の熱情が、突然はじけ、炎を噴いた。
 松陰はペリー来航以来の政情につき、詳細に批判を陳べ、日本のとるべき方策につき意見を語りはじめた。その内容は、幕府重職が耳にしてもおどろくほど、海外の事情を網羅していた。
(中略)
 松陰はここで口をつむぐべきであった。だが幕府要人に時勢を論じ、よるべき国策を開眼させるべきであると思った。
 「僕は死に値する二つの罪を犯しているので、自首いたします」
 「それはいかなることか」
 松陰は大原三位西下策と老中間部詮勝要諫策をくわだてたこと事実をうちあけた。
 (中略)
 松陰は奉行たちが彼の意見を聞きとり、天下の大計、当今の急務を知り、一二の措置をすれば、自分は死んでもいいと考えていた。

 これを読むと、吉田松陰は、間部詮勝要諫策をしゃべって、それにより死罪となってもよいと、覚悟していたということになります。

 私には、「松風の人」に書かれた吉田松陰像のほうが、幕末の志士にふさわしいように感じられました。
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by wheatbaku | 2014-12-09 09:52 | 江戸に関する本 | Trackback
将軍の葬儀 (江戸に関する本)
 増上寺での将軍の葬儀の様子を前回書きましたが、もっと詳しく書いた本を、江戸検一級仲間の百街道一歩さんから紹介されました。
 それは、寛永寺の執事長をされている浦井正明氏が書かれた「上野寛永寺 将軍家の葬儀」という本です。
 確かに、この本には、家綱と綱吉の葬儀の様子が詳しく書かれています。
 そこで、今日は、家綱の葬儀の様子を、「上野寛永寺 将軍家の葬儀」に基づいて書いていきます。
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 4代将軍家綱は、延宝8年(1680)5月8日に40歳でなくなりましt。
 5月14日に遺骸の移送が行われました。
 まず申(さる)の刻(午後4時ごろ)に遺骸を迎える僧たちが、寛永寺を出発します。
 午後5時ごろに、江戸城の北桔橋門で乗り物をおり、城内に向かいました。
 遺骸は、酉の刻(午後6時ごろ)に出発し、北桔橋の手前で読経した
のち東叡山に向かいました。

 戌の刻(午後8時ごろ)に遺骸が無事本坊の黒書院上段の間に安置され最初の法要が行われました。
 その後、26日の葬儀まで、毎日3回の法要が行われました。
 後夜(午前6時ごろ)、日中(正午ごろ)、初夜(午後4時ごろ)の勤行が行われました。
 この間、霊廟の建築も進んでいました。
  霊廟の準備が整うと本坊から霊廟の惣門にいたる間を布幕で仕切り、1間半に一つの間隔で高張提灯が架けられます。そして、本坊から霊廟までの道筋には白布が敷かれました。
c0187004_13554420.jpg
 葬儀当日には、午後4時すぎに、僧が本坊に参集し、幕閣以下の人々が着座し、供茶、供膳とすすんで法要に入ります。
 一連の読経が終わると、大導師以下参列者一同全員が庭に降りて整列し、遺骸の出御を待ちます。遺骸が出御すると三羽の鷹が放されます。
 その放鷹が終わると、行列を整えて霊廟に向かいます。

 遺骸は霊堂前に安置されます。次いで出仕者中の長老の焼香があり、いくつかの作法のあと、大導師の下火之文を唱え終わると、遺骸は石槨中に納められます。

 この後、出仕の僧は、石槨の周り廻りながら読経し逐次正面で焼香します。
 最後に、将軍の名代である酒井忠清が焼香をします。
 この後、拝殿で霊膳を供える作法等が行われ埋葬の儀式が終わります。

 以上が、葬儀の概要です。
 将軍の葬送儀礼は、夕方から夜間に行われました。これは、夜儀(やぎ)と呼ばれ、家康の時代から行われていました。
 また、本堂から霊廟まで、白布が3本敷かれましたが、これも夜儀とともに天皇家の儀式に倣ったものだそうです。
 そして、普通の葬送儀礼を大きく異なることは、本来喪主である将軍綱吉や御三家など一門の人々が、葬儀・中陰などのすべての法要が終わるまで、まったく参詣しないことだそうです。
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by wheatbaku | 2011-07-05 12:50 | 江戸に関する本 | Trackback
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」④ (江戸に関する本)
 今日は、「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」の4回目です。
 今日は、火付盗賊改という仕事について書いてみます。

【火付盗賊改は、元は火付改と盗賊改】 
 火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改、博打改とそれぞれが別個の役職でした。 
 まず、「盗賊改」を寛文5年(1665)に設置しました。
 その後天和3年(1683)に「火付改」が設置されました。
c0187004_2034173.jpg 元禄12年(1699)には盗賊改と火付改は廃止され、両職が所管していた仕事は、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の管轄になりました。
 しかし、元禄15年(1702)に盗賊改が復活し、博打改が加わりました。翌年には、火付改が復活しました。
 宝永6年(1709)に、盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて、享保3年(1718)には、博打改も兼任することになりました。
 幕末の文久2年(1862)には先手頭兼任から独立しました。
 右写真は、都営地下鉄「本所」駅近くの歯科医院の前に建っている長谷川平蔵の旧居跡のモニュメントです。お屋敷の東南隅にあたるそうです。
 ここの屋敷は長谷川平蔵の孫の代に、遠山金四郎の屋敷になっています。

【火付盗賊改の本役・助役とは】 
 火付盗賊改には、本役、助役、増役があります。
 助役は火災などが多い10月から翌年3月まで増員して本役を助けることです。
 長谷川平蔵が、最初に命じられたのも助役です。
 増役は、本役や助役だけで人数が不足するときに御先手組から短期の間、増員して手助けすることです。

【火付盗賊改と町奉行の関係】 
 火付盗賊改は本来犯人の捜査と逮捕に従事すべきもので、逮捕した犯人は、これを町奉行へ引き渡し、裁判は町奉行においてこれを行うべきものでした。
 しかし、後には、犯人を引き渡すことなく、火付盗賊改の裁判が確定判決となって刑が執行されるに至りました。
 こうなっては、全くの二重組織であって、町奉行所と火付盗賊改の裁判ができてしまいました。
 従って、火付盗賊改の屋敷には、白州、仮牢が設けられ、裁判所の体裁を整えるに至りました。
 町方与力は世襲ですから、いずれも審理の専門家でその訊問は堂に入ったものです。
 拷問などは殆ど用いず犯人に泥を吐かせる術を心得ています。
 ところが、火付盗賊改の方は本来が武人ですから、やることが泥臭く、何かといえば拷問を用いたようです。

【自分の屋敷が役所となる】 
 火付盗賊改に付いた与力は10人、同心30人ですが、時期によりそれを超える場合もありました。長谷川平蔵の後任の森山孝盛の例では同心40人だそうです。
c0187004_20424541.jpg  これら与力同心をどう配置したか森山孝盛の場合が、「徳川禁令考」に載っています。
 それによると、与力は役所詰与力3人、召捕方廻り与力7人となっています。
 召捕方廻り与力が最も重要な役で、同心1人をつれて、江戸市中を巡邏しました。
 火付盗賊改自らが巡邏するのは、長谷川平蔵の頃までだったそうです。
 火付盗賊改の決められた役所は無く、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用しました。
 従って、長谷川平蔵の本所の屋敷には、白州、仮牢、訴所、腰掛まで設けられ、小さいながら裁判所の体裁を整えていたようです。
 右写真は、都営地下鉄「菊川」駅出口にある長谷川平蔵の旧居跡の説明板です。
  お屋敷の北西隅に建てられているそうです。 ここで、長谷川平蔵が容疑者の取り調べをしたのですね。
 
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by wheatbaku | 2010-07-02 06:23 | 江戸に関する本 | Trackback
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」③ (江戸に関する本)
 今日は、「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」の3回目です。

【平蔵、火付盗賊改任期中に死亡】
 長谷川平蔵は、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられました。
c0187004_11183265.jpg その後、石川島人足寄場の設立に尽力しましたが、その経営が軌道にのると、人足寄場取り扱いを免ぜられ、また火付盗賊改に戻ります。
この間、的を得た裁判を行いました。そのため、平蔵を評して今大岡という記事が「江戸懐古録」に書かれているそうです。「わすれ残り」という随筆には、「人々今の大岡殿と称して、本所の平蔵様とて世にかくれなし」と書かれています。
 平蔵は、寛政7年(1795)、に火付盗賊改の任期中に病に倒れます。
 死の直前、11代将軍家斉から、「瓊玉膏」(けいぎょくこう)という高貴な薬を下賜されています。
 その4日後の5月10日に平蔵はなくなりました。しかし、長谷川家では、その喪を秘し、5月14日に御役御免を願いでて、16日に御役御免が許されました。


【なぜ、平蔵の墓がないか】
 そして、四谷の戒行寺に葬られました。
 四谷の戒行寺は、長谷川家の菩提寺ですので、歴代の長谷川平蔵が眠っていました。
c0187004_11205444.jpg  しかし、現在は、長谷川平蔵宣以をはじめ、長谷川家のお墓はありません。
 これは、不思議なことなのですが、瀧川政次郎氏はその事情を「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」に次のように書いています。
 「平蔵の子孫も、子宣義・孫宣茂の時代までは栄えたらしいが、その曾孫の時代に至って戊辰の変に遭遇し、すっかり没落してしまったようである。・・・(曾孫)の鐵五郎はその半生が旗本であったので、辛うじて戒名に院号がつけられているが、それ以後の長谷川氏の戒名には院号が除かれている。その子孫が落魄したことが察せられる。(中略) 明治41年、戒行寺内にあった墓は、日蓮宗寺院共同墓地に改葬移転せられた。 この時に、長谷川の遺族は立会わなかったので、墓は無縁のものとして処分されてしまったという」

c0187004_1156258.jpg 【栗本鋤雲は平蔵の親戚】
 なお、最後に、幕末に幕府の外国奉行などを歴任しフランス通として知られていた栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、長谷川平蔵と親戚関係のようです。
 栗本鋤雲の書いた「匏庵(ほうあん)遺稿」の中に、「予が母方大伯父は長谷川平蔵」と書いてあるそうです。
 これによれば、栗本鋤雲の母方のお祖父さんの兄が長谷川平蔵ということになりますが、瀧川政次郎氏は、詳細は調査はしていないと書いています。
 なお、栗本鋤雲は、破天荒な経歴をもっていますので、また別の機会に書いてみたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-07-01 06:15 | 江戸に関する本 | Trackback
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 ② (江戸に関する本)
 今日は、、瀧川政次郎氏著の 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 から、注目すべき長谷川平蔵のことについての2回目です。

 c0187004_15533120.jpg 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享2年(1745)に生まれています。
  実母は、寛政重修諸家譜によると、「母は某氏」となっています。諸家譜中の某氏とは農民・町人の娘をさすそうです。
 そのため、瀧川先生は、平蔵の母親は長谷川家の領地であった現在の千葉県山武郡から長谷川家に奉公にあがった女性ではないかと推測しています。
 右の写真は、戒行寺の写真です。
 正面が本堂、参堂右手に「長谷川平蔵供養之碑」があります。
 
 【『本所の鐵』は事実らしい】 
 平蔵は、父の京都西町奉行就任により、一旦京都へ行きますが、父は8ヶ月あまりで急死したため、江戸に戻ってきます。
 そして、安永2年(1773)に30歳で家督を継ぎますが、小普請組にとどまります。
 この時期に、平蔵宣以は、深川で放蕩無頼の遊びをしたようです。
 これは、京都の岡藤利忠という浪人が文政年間に書いた「京兆府尹記事」という本に書かれています。
 「遊里へ通ひ、あまつさえ悪友と席を同うして、不相応のことなど致し、・・・本所の鐵と仇名せられ・・・」と書かれているそうです。
 従って、「鬼平犯科帳」でよく「本所の鐵」と言われたという場面がでてきますが、これは事実であったようです。

【田沼的性格があだ!】
 その後、安永3年(1774)の西の丸御書院番組入り後、順調に出世していきます。
 天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられました。
c0187004_8435755.jpgそして、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられたのは42歳の時です。
 さらに、寛政の改革では、石川島人足寄場の設立を建議し、その実現や経営などで功績を挙げました。
 しかし、老中松平定信との関係はうまくはなかったようです。
 松平定信は自伝「宇下人言]の中で、長谷川平蔵の名前を明記せず「長谷川某(なにがし)」とだけ書いて、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べています。
 平蔵は、田沼時代には、西の丸御書院番組の番士を振り出しに順調な昇進を続けましたが、定信の時代になると、彼の昇進はなくなりました。
 このように、松平定信が、長谷川平蔵を嫌ったのは、平蔵宣以は闊達な江戸っ子肌の豪傑で小事に拘泥しないことなどの田沼的性格が嫌だったのではないかと、瀧川政次郎先生は書いています。

 
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by wheatbaku | 2010-06-30 06:14 | 江戸に関する本 | Trackback
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」① (江戸に関する本)
 土曜日の四谷散策で案内したお寺の中に戒行寺がありました。
 戒行寺には「鬼平」で有名な「長谷川平蔵供養碑」がありますので、当然長谷川平蔵について説明しました。
 その準備のため、 長谷川平蔵宣以(のぶため) について、事前に調べました。
 その中では、瀧川政次郎氏著の 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 が大変参考になりました。
 そこで、 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 に書かれていたことで気がついたことをいくつか書いてみます。

 【長谷川氏の系譜】 
c0187004_15534270.jpg 長谷川平蔵宣以は、は、延享2年(1745)400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれる。
 長谷川氏の発祥地は奈良の長谷川とされ、藤原秀郷系とされているようです。
 しかし、確かに分かる長谷川氏の先祖は、長谷川正長とされています。
 長谷川正長は今川義元に仕える徳一色城(のちの田中城)の城主でしたが、義元が桶狭間で死に、義元の子の氏真も武田信玄に対抗できなくなってきたため、今川氏についていることをやめ、徳川家康に仕えました。
 家康に仕えた長谷川正長は三方ヶ原で武田軍に突入し討ち死にしました。
 正長の長男正成は、秀忠に仕え、秀忠の三女勝姫が松平忠直に輿入れする際、付け人となっています。
 その後、この正成の家系が長谷川氏の本家となります。
 正長の次男は、宣次といい将軍家康に近侍します。これ以後、この家系は、宣の字を通り名として継承していきます。
 この8代目が宣以で、池波正太郎が描く鬼平のモデルの長谷川平蔵ということになります。
従って、長谷川平蔵は、長谷川家の分家の出身ということになります。

 【父 長谷川宣雄】 
 平蔵の父の宣雄も火付盗賊改役を拝命していて、有能な火付盗賊改役であったようです。
c0187004_1612565.jpg 明和9年(1771)に起こった目黒行人坂の火事は、死者一万人と言われ目黒行人坂の大円寺から出火し浅草や千住辺りまで焼く大火事でした。
 そのため、江戸三大大火の一つとされた大火事でした。ちなみ江戸三代大火とは「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「芝車町の大火」を言います。
 この目黒行人坂の大火の放火犯を捕らえたのが、長谷川平蔵の父の宣雄でした。
 犯人は、熊谷無宿の真秀という坊主でした。
 この取調べの調書も残されているようです。
 その功績から父宣雄は、安永元年(1772)10月に京都西町奉行に昇進し、平蔵も妻子と共に京都に赴きました。
 上の写真は、現在の大円寺です。JR目黒駅から歩いて5分ほどのところにあります。
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by wheatbaku | 2010-06-29 06:16 | 江戸に関する本 | Trackback
江戸名所図会
 江戸を訪ねる時やこのブログを書く時に、常に参考にしている本は「江戸名所図会」「守貞謾稿(もりさだまんこう)」「東都歳時記」「江戸名所花暦」などです。これらの本を読むと、江戸の様子が生き生きと書かれていて、当時の様子がよくわかります。

 これらの本のうち、「江戸名所図会」について、感動的に紹介してある文章に出会いましたので、転載します。「江戸名所図会」がつくられた経緯もよくわかります。
  豊島寛彰著「東京歴史散歩 第一集 江戸城とその付近」からの抜粋です。
 

c0187004_15451778.jpg  『雉子町で思い出すのは「江戸名所図会」の著者斉藤幸雄で、彼は雉子町の草分け名主であった。江戸名所図会は幸雄、その子幸孝、孫幸成と3代にわたって苦心の末完成したものであって、われわれのような東京の歴史を探るものには必要かくべからざる参考書である。
 幸雄は神田雉子町の名主として6ヵ町を差配するかたわら、神田多町青物市場の監督をも兼ねる多忙の身であったが、江戸には完全な地誌がないところから江戸名所図会の刊行を思いたった。それからは暇をつくっては府内近郊の名所旧跡を探り、社寺をたずね、古老を訪い、一方では古書を調べ、ノートすること10数年におよんだが、不幸にも業なかばにして寛政11年に63歳で病死した。


c0187004_15563323.jpg  その子幸孝もやはり名主の忙職にあったが、父の遺業を完成せんものと名所旧跡を探査することになった。その苦心はなみたいていのものではなく、ある時は遺稿の一包み置き忘れて絶望の極に陥ったこともあり、父の頼んだ画家北尾重政は老齢のため絵が一向すすまず、代わりの画家を物色するのに大変苦労したりした。遺稿の包みは本所妙願寺本堂に置き忘れられてあった。住所も名前もわからず、ただ丹念に書き込まれている調査の原稿を見て、どうかして持ち主に届けんものと考えた住職海煉は、諸々方々に手を尽くしてたずね歩いた。これが幸雄の知人神田佐久間町の片岡寛光の耳に入り、ようやく持ち主がわかって手許にもどった。幸孝の躍り上がって喜ぶ顔がうかんでくる。絵の方は長谷川雪旦という無名の画家を知り、これを起用して挿絵を描かせることになった。雪旦の努力も尋常のものではなく、寒暑風雨をいとわず四季の風情をうむことなく忠実に写生して歩いた。文化15年幸孝も完成を見ることなく47歳で歿した。


c0187004_15565086.jpg その子幸成はわずか15歳の少年であったが、雪旦をはじめ多くの人の説得により、父祖の遺業を継ぐ決心をし、さらに15年を経て天保5年(1834)全巻20冊が刊行の運びとなった。ここに50年のながきにわたった斉藤家3代の苦心は豊かに実ってこの大刊行事業は完成したのであった。幸成はその後も江戸地誌に関係ある武江年表や、東都歳時記その他を著述し、明治11年75歳で歿している。
 また雪旦の努力と真心はこの事業の完成に大きな役割を果たしている。あるときはその熱心のあまり他家の屋上にのぼって写生し、泥棒と間違えられたこともあった。しかし、雪旦は江戸名所図会によって一躍有名になり、のちに絵師として法橋になった。

 雉子橋の項に江戸名所図会の作者について、ことさら書き添えたのはその文化的功績を礼賛したかったからである。』

 現代の私たちが、江戸の様子を手に取るようにわかるのは、斉藤家3代の苦心・努力の結果であることを改めて認識させられた一文です。
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by wheatbaku | 2009-08-13 09:59 | 江戸に関する本 | Trackback
「おうち」と「ほととぎす」 (吉田松陰の恋)
 司馬遼太郎の「世に棲む日日」は、前半で吉田松陰、後半で高杉晋作について書いた小説です。
 この小説の中で、司馬遼太郎は、吉田松陰について、次のように書いています。

 「筆者はこの小説松陰のくだりを書きつづけつつ、女性の登場がきわめてすくないことに筆者自身ときにぼう然とする思いがあるが、ただ高須久子がいる。松陰と同獄のこの女性とのあいだに、双方濃淡はさておき、異性に対する心情の傾斜があったようにおもわれる。

 松陰は一同より早く出獄したのだが、他の11人がこの年若い師のために送別句会を催した。「鴫たつてあと淋しさの夜明けかな」久子の句である。

c0187004_11301846.jpg ただし、松陰はのち再入獄する。やがて身柄が幕府の手に移されることになり、ついに江戸へ檻送(かんそう)されるときまったとき、彼女は獄中自分で縫った手布巾(てふきん)を松陰に贈った。松陰はよろこび、
 『箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてぬぐひ清めむ』 と歌をよみ、彼女に贈った。

 『一声をいかで忘れんほととぎす』 
 久子の句である。」

 一方、吉田松陰と高須久子とのほのかな恋情に焦点をあてた古川薫著の小説「吉田松陰の恋」は、
 高須久子はおうちの句を贈り、松陰が「ほととぎす」の句を返したとしています。
 
c0187004_11322067.jpg あらすじは次のようです。
 松陰が野山獄から江戸に向かうこととなった2日前に、久子が手布巾を餞別にあげると、翌日松陰がお礼にと差し出した紙片には
 『高須うしのせんべつとありて汗ふきおくられければ』と前書きし、
 『箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてぬぐひ清めてん』と書きとめてありました。


 そして 江戸に出発する5月24日の朝、久子が次のはなむけの句を渡します。
  手のとはぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな 
 
 それに対して、松陰は、一通の封書を渡して去っていきました。
 それをあけると 『高須うしに申上ぐるとて』とした後に、次の別れの句が書いてありました
  一声を いかで忘れん ほほとぎす     (松陰)

 吉田松陰は、安政6年(1859年)5月24日、おうちが咲きホトトギスの声の聞こえる梅雨の時期に江戸に向けて旅立って行きました。 
 そして吉田松陰は、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処されました。享年30歳。生涯独身でした。

 一方、「高須久子は、明治のいつごろまでか長命して、つねに松陰のことを語っていたという」
 と司馬遼太郎は「世に棲む日日」の中で書いています。
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by wheatbaku | 2009-06-15 06:26 | 江戸に関する本 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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