カテゴリ:大奥ゆかりの寺( 25 )
お玉の方(大奥の人)
 昨日の「お夏の方」に続いて「大奥」関連で、今日は「お玉の方」について書いていきます。 

 「お夏の方」の競争相手は「お玉の方」です。
 「お玉の方」はいうまでもありません5代将軍綱吉の生母です。名は玉と言いました。
 幕府祚胤伝によると、父は二条関白光平公家司本庄太郎兵衛宗利(初めの名宗正)とされています。
c0187004_1382647.jpg 本庄宗利は前妻がなくなったため後妻をもらいました。
 この後妻は八百屋仁左衛門の妻でしたが、夫がなくなったため、本庄家に奉公に出ました。この仁左衛門の妻が非常に美人だったため本庄宗利の手がつき妻となりました。
 この仁左衛門の妻には連れ子が二人いました。その一人がお玉だったようです。
 「お玉の方」については、よく「八百屋の娘」と言われますが、こうした経緯があったようです。
 「お玉の方」は母親以上の美人だったようです。「面長で一重まぶたのいわゆる京美人だった」と書いてある本もあります。
 成長したお玉は13歳の時に家光の側室となった「お万の方」と縁があり江戸に下りました。初めはお万の方の部屋子となりましたが、あまりにも美しいので春日局の目にとまり家光のお側近く仕えました。
 18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。
 正保2年(1645)2月29日に亀松を、正保3年(1646)1月8日に徳松を生みます。亀松は、家光41歳の子、徳松は42歳の子になります。
 亀松は早世しますが、徳松は無事成長しました。
 慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して桂昌院と名乗ります。
 徳松は慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに15万石を拝領しました。承応2年(1653年)8月に元服し将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改めました。
 寛文元年(1661年)上野国館林藩25万石を拝領し、参議に叙任され「館林宰相」と呼ばれるようになりました。
 そして、延宝8年(1680年)には将軍家綱が40歳で死去したため5代将軍となりました。

 綱吉が将軍になると、桂昌院は綱吉の治世にも影響を及ぼし始めます。
c0187004_1383520.jpg 桂昌院は、神仏を信仰し、盛んに神社仏閣を建立します。
 3代将軍家光の時代に創建された寛永寺の本堂(根本中堂)が建立されたのも、綱吉の時代です。
 また、新たに創建された神社仏閣の代表が神田にあった「護寺院」と大塚の「護国寺」です。
 護国寺は、綱吉が、桂昌院の願いにより亮賢僧正を招き開山とし、幕府薬草園の高田薬園の跡地に建立しました。
 護国寺のご本尊は、桂昌院念持仏の天然石の琥珀如意輪観世音菩薩像です。
 右上段の写真は護国寺本堂です。左上は護国寺の山門です。

 また、湯島にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称しました。
 護持院は、綱吉と母桂昌院の参詣は前後数十度にもおよび,大変栄えましたが、享保2年に焼失した後は再建されず、幕府の命令ににより護持院は護国に合併され、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになりました。
 しかし、明治になって、護持院は廃寺となり、現在は護国寺が残ることとなりました。

 桂昌院は、元禄15年(1702)には女性最高位の従一位の官位に上り、宝永2年(1705年)6月に79歳で亡くなりました。
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by wheatbaku | 2012-11-23 13:10 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
お夏の方(大奥の人)
 テレビドラマ「大奥」の影響かなと思いますが、最近、「お夏の方」の検索で訪問いただく方が多くなりました。
 テレビドラマ「大奥」は、漫画が原作で、「将軍は女、仕えるのは美男3000人」という男女が逆転した大奥を描いているようです。
 映画「大奥」も12月に公開されるようです。
 このドラマや映画のストリーがどうかは別として、今日は歴史上のお夏の方について書いてみます。

 お夏の方は、三代将軍家光の側室で、家光の次男である甲府宰相綱重を産みました。家光が亡くなった後は落飾し順性院と名乗りました。
c0187004_222272.jpg 将軍の妻妾と子供たちの略歴を書いた「幕府祚胤伝(そいんでん)」という資料によると
 「岡部八左衛門重家の女(むすめ)、藤枝日向守重昌の姉」と書かれていて、武士の娘のように書かれていますが、元々は、京都の町人弥市郎の娘と言われています。
 岡部八左衛門重家というのは、父が出世して武士になった後の名前のようです。

 お夏は、寛永8年、京都の公卿鷹司家へ仕えました。そして鷹司家の娘孝子が家光の正室となったため、孝子の御伴で江戸に下向しました。
 そして、本丸大奥に勤めている間に、家光の目にとまり(というより、入浴の世話をしていた時に、家光の手がついたようですが)、家光に愛されるようなりました。

 そして、生まれたのが、綱重です。綱重が幼名長松と言いました。
 しかし、綱重が生まれた時、家光が40歳の厄年であり、当時厄年に生まれた子供は父によいことがないと考えれられていたことから、家光の姉である千姫(天樹院)の養子とされることとなり、お夏の方も天樹院の屋敷に移り、そこで長松を産みました。

 長松は、6歳で竹橋に屋敷を拝領し、8歳の時には15万3千石と賜り、10歳で元服し綱重と名乗ることとなりました。
 そして、万治4年(1661)に17歳で甲府25万石を賜り、そして参議に任ぜられ甲府宰相と呼ばれるようになりました。
 宰相とは、参議に任ぜられた人の呼ぶ名前です。
 しかし、延宝6年(1678)に綱重は兄の4代将軍家綱に先立って35歳の若さで亡くなってしまいました。
 、延宝8年(1680)に家綱が亡くなっていますので、もし、もう少し長生きしていれば、5代将軍は綱重になったはずです。
 しかし、綱重が亡くなっていたため、お夏の方の競争相手のお玉の方が生んだ綱吉が5代将軍となりました。

 お夏の方の父や弟は、お夏の御蔭で出世しました。 
 父の弥市郎は、一旦岡部八左衛門となのりましたが、綱重が甲府25万石の大名になると 藤枝摂津守重家と名乗り甲府宰相家の家老となりました。
c0187004_13323378.jpg また、お夏の方の弟も重昌と名乗り、甲府家の家老となりました。
 このように側室の力によって出世した大名を「蛍大名」と言いました。
 お尻の光で出世した大名という意味のようです。 
 しかし、側室のお夏の方の力によって5千石の旗本となった藤枝家ですが、江戸時代中期の天明年間に、また世間の注目をあびることになります。
 重昌から7代目になる藤枝安十郎教行は、天明5年(1785)7月13日に吉原京町2丁目大菱屋の遊女綾衣と、千束村で心中し藤枝家は改易となってしまいました。

 江戸では次のように唄われました。
  君と寝ようか五千石取ろか 何の五千石君と寝よ

 この心中を題材に岡本綺堂が「箕輪心中」という小説を書いているようです。
 旺文社文庫の岡本綺堂「江戸情話集」の中に載っています。

 「箕輪心中」について、忍び駒様から豊かな内容の次のコメントをいただきましたので掲載させていただきます。
 
 天明5年、旗本藤枝外記が吉原大菱屋の遊女綾衣と心中し、本文にあるように小唄に唄われました。この事件を題材とした歌舞伎が、岡本綺堂の『箕輪心中』ですね。
 ご存知のように岡本綺堂の心中ものの第一作として大評判になったものです。
 藤枝外記は武芸にも優れた武士でありながら、家を捨て、遊女への愛に命を掛け、廓を抜けた綾衣の隠れ住む箕輪の乳母の家で心中します。お盆の十三日の夜のことです。
 明治44年の初演で、藤枝外記は二代目市川左団次、綾衣は四代目澤村源之助でした。
 そして、澤村源之助といえば浅草田圃に住んで「田圃の太夫」と呼ばれた女形ですが、本人も某銀行頭取の妾と悶着を起こしています。
 この相手の女が有名な花井梅で、他にもいろいろあって、川口松太郎の『明治一代女』の主人公となるなど、多くの歌舞伎、新派、歌謡曲で採り上げられて大きな話題になった女性です。


 忍び駒様ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2012-11-22 08:23 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
麟祥院 (大奥ゆかりの寺)
 今日は、大奥ゆかりの寺として「麟祥院」を紹介します。


 麟祥院は、春日局が開いたお寺であり、春日局の菩提寺でもあります。
 東京メトロ「湯島」駅3番出口から 徒歩6分、又、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目」駅2番出口から徒歩7分の場所ににあります。
 拝観は、午後3時までですので、ご注意ください。

 麟祥院は臨済宗妙心寺派のお寺です。
 寛永元年に創建されました。
 境内の周囲に枳殻の木を植えていたので、別名「枳殻(からたちでら)」とも呼ばれました。

【麟祥院は春日局の法号】  
 開基「春日局」は徳川三代将軍家光の乳母として知られています。
c0187004_1145212.jpg 春日局は、幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ち、将軍家光から本郷湯島の土地を拝領しました。そして寛永元年(1624または寛永2年)に創建され、お寺の名前は「報恩山天沢寺」と名づけられました。
 寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
 寛永11年(1634)、天沢寺の渭川和尚から「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」という法号が贈られました。
 これを喜んだ家光は、春日局んp法号をもって寺号とするように命じたため、春日局が死んだ後。「天沢山麟祥院」と号するようになったと言われています。

【春日局の略歴】 
 春日局の生涯を簡単に紹介します。
 春日局は名を福といいました。
 春日局という名前は、寛永6年(1629年)に大御所秀忠の内意を受け上洛した際に、御所に参内して天盃を賜り春日局の号を許されたものです。
c0187004_11473578.jpg
 春日局の父は明智光秀の家老であった斎藤利三(としみつ)です。
 明智光秀が本能寺の変を起こしたため、父は首を斬られ、お福も苦労します。
 成人して、母方の一族稲葉重通(しげみち)の養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。
 慶長9年(1604)家光が生まれ、乳母を捜していたことから、京都所司代板倉勝重の推挙により乳母となります。
 家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
 忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、大御所家康に訴えました。
 これより家光は後継者になりました。また家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願いました。
 こうしたことから、軍家光に対しても強い影響力をもち、お江がなくなった後、春日局は大奥を統率し、絶大な権勢を振いました。

c0187004_11455340.jpg 【墓石には穴が貫通】 
 こうした春日局は寛永20年(1643年)9月14日になくなりました。64歳でした。
 そして、麟祥院に葬られました。
 春日局の墓石に四方から穴が貫通している大変めずらしい形をしています。
 これは局が「黄泉(よみ)からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言によってこのような形に建立されたものだそうです。
  春日局の家紋は隅切角に三(すみきりかくにさん)という家紋です。

 春日局は、稲葉家の出身ですが、稲葉家も繁栄します。
 長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主となり、その子孫からは老中が何人も輩出し、幕末は、淀藩の藩主として明治を迎えました。




c0187004_11461136.jpg 文京区には春日町という町名がありますが、これは春日局に由来するものです。また、麟祥院の前の通りを通称春日通りとも言います。

  麟祥院は、東洋大学の前身である哲学館創立の場所でもあります。
  そのため、山門脇に、東洋大学発祥の地の碑が建っています。
  哲学館は明治20年に井上円了(えんりょう)によって創設されました。
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by wheatbaku | 2011-07-19 11:58 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
自證院② (大奥ゆかりの寺)
 今日は自證院の2回目です。

 【輪王寺宮公現法親王が隠れる】
 c0187004_10541459.jpg 明治維新の時、自證院の住職であった亮栄僧正は、輪王寺宮公現法親王 に従って、駿府の有栖川宮を訪ねて、徳川慶喜の赦免をお願いしました。
 また、上野戦争で彰義隊が敗北した際に、輪王寺宮公現法親王は、江戸湾にあった幕府軍艦の「長鯨丸」に乗って、東北に向かいいました。
 この時に、長鯨丸に乗る直前に隠れていたのが、この自證院でした。



【阿弥陀三尊板碑】
 庫裏の前に、新宿の有形文化財に指定されている阿弥陀三尊板碑(いたび)がありました。
c0187004_14555217.jpg その説明板には次のように書かれていました。
 「弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑で、下部は欠損しているが、高さは1.2メートルとかなり大規模のものでsる。
 山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。
 天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。
 当時の市谷付近に有力武将が居住した可能性を示唆し、、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。
 なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。」

【小泉八雲旧居跡】
 自證院の近くに、小泉八雲が明治時代に住んでいました。
 c0187004_1456344.jpg その碑が、成女学園の中にありました。自証院のご住職のご紹介で、成女学園に断り、見させてもらいました。
 成女 園の正門横の高いところにありました。

 小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシャのレフカダ島で生まれました。
 そして、明治23年に来日して松江で教員として務めました。
 その小泉八雲が、明治29年に東京大学文学部の講師として招jかれ上京した時に、東京で初めて住まいを構えたのが、この地です。
 小泉八雲は、隣接する自證院の風致をこよなく愛し、境内を散歩などしていましたが、この地が開発により自然が失われていったため、明治35年に、5年間住み慣れたこの地から西大久保に転居してしまったそうです。



 
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by wheatbaku | 2011-05-25 05:56 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
自證院① (大奥ゆかりの寺)
 大奥ゆかりの寺、今回は新宿区 にある自證院の紹介です。
 自證院は、都営地下鉄「曙橋」駅から徒歩約10分です。

【創建は、家光の長女千代姫】  
 自證院は、はじめ法常寺といって、牛込榎木町にありました。
 寛永17年(1640)に、尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母お振の方(自証院)を供養するため、市谷の現在地に移転し、寺号を自證院に変えました。当初は日蓮宗不受不施派の寺院でしたが、寛文5年(1665)日蓮宗不受不施派が禁止されたため、天台宗に宗旨を改めました。
c0187004_14551098.jpg 自證院という名前は、お振の方の法名に由来する名前です。山号は、鎮護山といいます。
 お振の方は、3代将軍家光の側室です。
 母は祖心尼の娘、父は蒲生家臣の岡重政もしくはその息子の岡吉右衛門と言われています。 祖心尼は春日局の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた人物です。


【お振の方は、家光の初めての側室】 
 お振の方は、徳川家光の乳母である春日局の養女として大奥に入り、家光の手がついて初めての側室となりました。
 男色を好む家光に男装して近づいたという俗説があります。
c0187004_14553281.jpg 寛永14年(1637)には、家光の初めての子である長女千代姫を産みます。
 しかし、その後体調を崩し3年後の寛永17年(1640年)なくなりました。
 お振の方の法名は自証院殿光山暁桂大姉と言います。。
 慶安5年(1652)には、千代姫の発願により、「お振りの方」を祀る霊廟が建てられました。
 現在この霊廟は「旧自証院霊屋」として江戸東京たてもの園内に移築保存されています。

【江戸名所図会に書かれた自證院】 
 江戸名所図会にも次のように書かれています。
 鎮護山自證院
 円融寺と号す。天台宗にて東叡山に属せり。尾州亜相光友卿の御簾中千代姫君の御母堂、 自証院殿光山暁桂大姉御菩提のために開創せし精舎なり。本尊は阿弥陀如来、開山を日須(にちしゅ)上人と号す。
当寺始めは日蓮宗にて、本理山自證寺と唱えしが、元文年間(1736~41)ゆえありて天台宗に改められる。


下の赤印が自證院です。富久小学校の東隣にあります。

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by wheatbaku | 2011-05-24 11:39 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
孝子【家光の正室】の墓(伝通院③ 大奥ゆかりの寺)
 伝通院には、於大の方、千姫のほか、多くの徳川家の関係者が葬られています。
 その多くは、将軍の正室や側室です。
 今日は、3代将軍家光の正室であった鷹司孝子(後の本理院)についてご案内します。

 
 鷹司孝子は、初めて、摂関家から将軍正室に迎え入れた人です。
3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」であったため、大名より位の高い摂関家から正室が求めたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
 孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。
c0187004_2147939.jpg 元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼し、御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。
 しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はありませんでした。
 孝子は大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。
 幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。
 このため、当然のごとく、家光との間に子供はありませんでした。
 このように、夫婦仲が円満でなかったのは、家光と孝子の間に子ができ朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が作為的に不仲にしたという説や家光が男色好きであったためという説があります。
 
 慶安4年(1651)4月に、家光が48歳でなくなると、孝子は落飾し「本理院」と名乗りました。
 延宝2年((1674 )に73歳でなくなりました。
 本理院のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に南に面して建っています。

 孝子の弟、鷹司信平は、姉を頼って、江戸に下り、旗本に取り立てられ、松平の苗字を名乗ることが許されました。信平の家系は、鷹司松平家と呼ばれ、上野吉井藩の藩主として幕末まで続きました。
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by wheatbaku | 2011-05-19 05:39 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
千姫の墓(伝通院② 大奥ゆかりの寺)
 伝通院の2回目は、千姫についてです。
 伝通院には、有名な千姫のお墓があります。

 千姫は、2代将軍秀忠の長女です。
 母は、今年の大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」の主人公の江(崇源院)です。
 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのでした。
 慶長3年(1598)病床にあった豊臣秀吉は秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。
c0187004_21554842.jpg 秀吉が死んだ後もこの約束は守られ、慶長8年(1603)7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎました。
 二人は従兄弟関係にありました。
 
 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜脱出し、家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
 翌元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。
 
 大坂城脱出の際、家康が「千姫を救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り救出してきましたが、このとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌い本多忠刻に嫁いだので、騒動を起こし、殺害されたとされています。
 しかし、これは異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされ怒って騒動を起こしたと言う説もあります。

 元和3年に忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住むこととなりました。
 千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。
 寛永3年(1626)、30歳の千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫と二人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。

 ところで、忠刻がなくなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。
 「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡は、千姫の乱行をうたったものと言われています。
 しかし、これはまったく根拠のない話であると言われています。 こんな俗説がなぜたてられたのか疑問に思います。

c0187004_21565459.jpg  寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。
 正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(後の順性院)が三男綱重を懐妊しました。
 この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるため千姫(天樹院)を養母としました。
そのため、お夏の方(後の順性院)と綱重と暮らすようになります。
 
 落飾して天樹院となった千姫は、寛文6年(1666)に70歳でなくなりました。
 法事は、千姫(天樹院)が養母となっていた綱重が執り行ったそうです。
 千姫(天樹院)は、伝通院に葬られています。本堂西北の少し低くなった場所に、千姫の墓があります。
 五輪の大きなお墓です。
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by wheatbaku | 2011-05-17 05:48 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
於大の方の墓(伝通院① 大奥ゆかりの寺)
 久しぶりに 、大奥ゆかりの寺をご案内します。
 今日は、小石川にある伝通院です。
 伝通院は「でんつういん」と呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と呼びます。

【伝通院は於大(おだい)の方の法名】  
 伝通院は、元々は、南北朝時代の、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。
 開山当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
c0187004_22114226.jpg それから200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75才で伏見城でなくなった際に、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。
 そして、於大の方の法名を「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになりました。
 その後、千姫をはじめとした将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。

 伝通院は、教育面でも大きな足跡を残しています。
 江戸時代はじめの慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。
 その伝統から、明治24年(1891)芝三縁山(増上寺)より浄土宗学本校(現大正大学の前身)が無量山へ移転され、更には明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。

 伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その再建都度再建されました。しかし、昭和20年5月の東京大空襲で、すべての建物が焼失しました。
 その後、昭和24年本堂を再建し、さらに昭和63年に再建されたものが、現在の本堂です。

c0187004_22123026.jpg【於大の方】  
 伝通院の名前の由来になっている於大の方は享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれました。
 そして、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(後の徳川家康)を出産しまた。
 しかし、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。
 そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すこととなり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。
 その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁しましたが、於大の方は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。


c0187004_2212794.jpg また、家康が今川義元の人質となって駿府にいた際にも、於大の方も使いを送ってひそかに日用品を届けたと言われています。
 於大の方は、久松俊勝との間に子供を3人もうけました。
 家康は、天下統一の後には、久松家を親戚として尊重しました。
 これが、久松松平家です。
 久松松平家は伊予松山藩や幕末の桑名藩の藩主です。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子となりました。

 於大の方は、夫の久松俊勝が、天正10年(1582)になくなると、天正16年(1588)に髪をおろし「伝通院」と号しました。
 上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせ た肖像画です。
 2枚の画像は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。
 下の像は、天正16年、蒲郡安楽寺で剃髪し伝通院の号を授かった当時の於大の方の姿との説明がありました。於大の方は、2年間、安楽寺に住み俊勝の菩提を弔ったそうです。
 
 上の肖像画(写真)と下の像(実物)は、本堂西側にある観音堂の中にある休憩所においてあります。
 
c0187004_22124887.jpg【於大の方の墓】 
 そして、於大の方は、家康の天下統一を見た後、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城にてなくなりました。
 家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り、伝通院に納骨しました。
 於大の方のお墓は、本堂西側にあり、東向きに立った五輪の大きなお墓です。
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by wheatbaku | 2011-05-16 06:32 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
多宝塔、大黒堂(不動寺⑥ 大奥ゆかりの寺)
 不動寺は、多くの各地の寺社から移築された建物が建っています。
 今日は、それらの建物のうち 第一多宝塔と大黒堂と桜井門 のご案内です。

【第一多宝塔】 
 多宝塔は、大阪の高槻市にある畠山神社から、昭和36年に移築されたものです。
 江戸時代初期の慶長12年(1607)に建てられたことを示す棟札が見つかったそうです。
 現在、埼玉県の有形文化財に指定されています。
c0187004_8344651.jpg

【大黒堂】 
 大黒堂は現在は大黒天が祀られています。
 しかし、もともとは、柿本人麻呂のゆかりの極楽寺境内に建てられた人麻呂の歌塚堂だったそうです。
c0187004_8293522.jpg
 

【桜井門】 
 この門は、奈良県十津川の桜井寺の山門として建立されたものです。
 桜井寺は、幕末には、天誅組の本陣として使われたこともあるお寺だそうです。
c0187004_8395595.jpg

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by wheatbaku | 2011-03-04 06:20 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
弁天堂と羅漢堂(不動寺⑤ 大奥ゆかりの寺)
 不動寺には、各地から建物が移築されています。
 今日は、それらのうちの 弁天堂と羅漢堂 の御案内をします。

【羅漢堂】 
 羅漢堂は、江戸時代の建物ではありません。
c0187004_2039165.jpg これは、明治28年に、明治の元勲井上馨の還暦を祝って、明治天皇・昭憲皇太后の下賜金を基として、伊藤博文、大隈重信などの発起により、井上馨の屋敷内に建立さrたものです。
昭和20年4月の戦災で。この羅漢堂だけが残り、不動寺に移築されました。
 現在は、羅漢像が安置されているので。羅漢堂と呼ばれています。
 この羅漢堂は公開されていないため、柵の中にはいれません。

c0187004_20392774.jpg  羅漢堂の柵の中は、おびただしい数の銅灯篭が置かれています。
 葵の紋があるので、徳川将軍家の霊廟に置かれていたものと思われます。
 しかし、奉納者の名前も刻まれていませんので、詳しいことは不明です。
 ただ、数多くの銅灯篭が並んでいる様は壮観でした。

【弁天堂】 
 本堂の西側に弁天堂があります。
 この弁天堂は、滋賀県彦根市古沢町清涼寺に、井伊直孝の娘が父直孝の追善供養のために建立したものです。
 建立されたのは万治2年(1659)です。
 堂内には弁財天がお祀りしてありました。

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by wheatbaku | 2011-03-02 15:58 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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