カテゴリ:江戸の災害( 12 )
定火消の体制(定火消屋敷 江戸の災害)
 定火消しについて書いた本を探しましたが、なかなか見つかりませんでしたが、岩崎美術社から出版された「江戸三火消図鑑」という本が見つかりました。

c0187004_12102347.jpg この本には、町火消し、定火消、大名火消の三火消しについて書かれています。
 今日は、「江戸三火消図鑑」に基づき、定火消の体制について、書いてみます。

  
 定火消の指揮者は火消役ですが、火消役は、4千石以上の旗本を充てました。
 「江戸三火消図鑑」に書かれている火消役は次の通りです。

 なお、この火消役がいつの時点のものなのか書かれていません。
 また、火消役がどういう人物かも書かれていませんので名前と石高だけ書いておきます。


  四谷御門内  室賀兵庫   7千石
  駿河台    内藤外記   5千500石
  赤坂御門外  小笠原大膳  5千石
  飯田町    坪内惣兵衛  5千500石
  小川町    武田刑部   5千700石
  八代洲河岸  皆川左京   5千石
  麹町御門外  近藤宮内   4千500石
  市ヶ谷佐内坂 大久保宗三郎 5千石
  御茶ノ水   久世三四郎  5千石
  赤坂溜池   斎藤頼母   5千石 

  なるほど、すべて4千石以上ですね。

 その火消役の下に、与力、同心、そして火消人足の「臥烟(がえん)」が配属されました。
 与力は6名配属され、内訳は、 使番1人、纏(まとい)番正副各1名、梯(はしご)番1名、小纏1名、水番1名 でした。

 同心は 30人いました。 上番10人、下番5人、水番10人、残番5人でした。

 実際の消火活動にあたるのが臥烟(がえん)です。
 臥烟は、合計で110人配属されました。
 内訳は纏番12人、玄蕃桶持6人、梯番16人、龍吐水持8人、鳶口持10人、籠長持2人、用箱持1人、部屋頭3人、役割2人、他に中間50人 でした。
 
 「江戸三大火消」によると、臥烟について「江戸乃華」では次のように書いているそうです。

火消卒をがえんという。即ち臥烟の音称なり。この臥烟というものは江戸者多し、極寒といえども邸の法被一枚の外衣類を用いず。消火に出る時は満身の文身(いれずみ)を現し、白足袋はだし、身体清く、男振美しく、髪の結様、法被の着こなし、粋にして勢よく、常に世間へは聊(いささ)かの無理も通りければ、寒の苦を忘れて、身柄の家の子息等の 臥烟に身を誤るもの少しとせず、此者共皆大部屋に一同起臥し、部屋頭の取締りを受く。又義侠ありて、よく理非を弁う。火事無き時は三飯の外吾身の掃除なり。夜中臥すに長き丸木を10人~15人一同枕とす。櫓太鼓鳴るや枕木の小口を打ちて起こせば、直ちに飛出て火に赴くという、火中命を捨てる者ままあり。
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by wheatbaku | 2011-12-23 12:16 | 江戸の災害 | Trackback
平河天満宮(定火消屋敷⑧  江戸の災害)
 昨日ご紹介した半蔵御門外の定火消屋敷跡近くに平河天満宮があります。
 今日は 平河天満宮をご案内します。

【平河天満宮の由来】 
 平河天満宮は、慶長11年(1606)から現在の地にお祀りされています。
c0187004_11334829.jpg もともとは、文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われています。
 この江戸城内の天満宮のまわりには、多くの梅の木が植えらたため梅林坂と呼ばれるようになりました。今も皇居東御苑内に梅林坂の名が残っています。また、同じく東御苑内に天神堀という名前も残っています。
 江戸城内の天満宮は徳川家康の江戸城入城後間もなく、築城のため平川門外に遷座されました。
 さらに、慶長12年(1607)2代将軍秀忠の時代に麹町貝塚(現在地)に遷座されました。
 この辺りの地名が平河町と呼ばれるのは平河天満宮に因むものです。
 なお、平河と書き、平川ではありませんので、ご注意を!

【平河天満宮銅鳥居】

 平河天満宮の銅鳥居は、高さ5mにもなる鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に建設・奉納されたもので、千代田区内最古の鳥居だそうです。
c0187004_1134884.jpg
 また、製作者について千代田区教育委員会の説明板に丁寧に説明されていますので、その部分を書き抜きます。

 銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。
 「西村和泉」というのは、「文政年鑑」に「御鋳物師 西村和泉 並御錺(かざり)師かんたかち丁1丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。
 彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。
 なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし、平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。

【狛犬】
 また、本殿前の狛犬についても丁寧な説明がありますので、こちらも抜書きします。

c0187004_11345089.jpg 本殿向かって右側の石像(右写真)の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。

 一方左側(左下写真)にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。
c0187004_11343489.jpg これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖(けんじょう)障子」といわれるものであると思われます。
 「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。
 日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。
 平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば狛犬」(左側)と「「獅子」(右側)との対になっているといえます。

c0187004_12255037.jpg【常夜灯】
 境内には、常夜灯もあります。
 この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げたものです。高さ約3.45m、幅・奥行ともに1.26mだそうです。
 装飾は、火袋の左面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。
 この常夜灯は、麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあった雲龍堂と松田町(現在の鍛冶町2丁目)にあった龍海堂という寺子屋の関係者から、嘉永5年(1852)閏2月に奉納されたものです。


赤印が 平河天満宮 です。 

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by wheatbaku | 2011-12-16 11:32 | 江戸の災害 | Trackback
靖国神社(定火消屋敷⑥ 江戸の災害)
 飯田町定火消屋敷の跡にある富士見小学校からは、靖国神社はすぐ近くになります。
 かつての九段高校(現在は中高一貫校の九段中等教育学校になっています)の脇を通って靖国神社に向かいます。この土地は、関東大震災までは、琉球王朝の国王だった尚泰の屋敷跡です。

【靖国神社】  
c0187004_1643639.jpg 靖国神社は明治2年(1869)に、国内外での戦争などで戦没した軍人などを祀るための神社として創建されました。初めは東京招魂社と呼ばれました。
 この東京招魂社の建設にも、大村益次郎が関わっていて、九段の場所を提案したのが、大村益次郎だそうです。ちなみに、社地は旧幕府歩兵屯所跡です。
 東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称されました。
 「靖国」という社号は、明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

【大村益次郎銅像】  
 靖国神社には、東京三大銅像の一つ大村益次郎の銅像があります。
 ちなみに他の二つは上野の西郷隆盛像、皇居外苑の楠木正成騎馬像です。
 この銅像は、大村益次郎が彰義隊を討伐するときの姿をモデルにしているそうで、陣羽織を着て左手に双眼鏡を持って東北の方向つまり上野の方向を見ています。
c0187004_1645822.jpg 大村益次郎の銅像は、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。
 製作者は大熊氏廣です。
 大熊氏廣は、埼玉県川口市に生まれました。
 明治9年に設立された工部美術学校彫刻科に第1期生として入学し、明治15年首席で卒業しました。
 明治18年に大村益次郎の銅像の制作を委嘱されると、依頼の重要性に鑑みて西洋彫刻を深く学ぶためヨーロッパに留学します。帰国後、大村益次の銅像を完成させてからは、日本を代表する彫刻家として活躍しました。
 代表作品は、「大村益次郎像」のほか、東上野公園の「小松宮彰仁親王騎馬像」、有栖川宮記念公園の「有栖川宮熾仁(たるひと)親王騎馬像」、浅草公園の「瓜生岩子像」などがあります。

【神道無念流道場練兵館跡】  
 靖国神社の南門近くに 「神道無念流練兵館跡」 の石柱があります。
 練兵館は、幕末の剣豪斎藤弥九郎の開いていた道場で、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれています。
c0187004_165359.jpg 斎藤弥九郎は、越中の農家の生まれですが、江戸に出てで旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となりなり、神道無念(しんとうむねん)流岡田十松吉利(よしとし)の撃剣館に入門しました。
 弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、息子の利章を補佐して道場の経営にありました。
 岡田十松道場では江川太郎左衛門英龍も剣術を学んでいて、江川の援助により、文政9年(1826)に独立して九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし、天保9年(1838)三番町に移しました。 これが、現在は靖国神社の境内となっています。
 練兵館には、全国から入門者が集まりました。特に長州藩の出身が多く、塾頭を務めた桂小五郎(木戸孝允)が最も有名ですが、そののほか、高杉晋作・伊藤博文らも学んでいました。
 斎藤弥九郎は剣術だけでなく、兵学や砲術も学んでいて、西洋銃隊調練や品川台場の築造あるいは尊王攘夷運動に関係するなど、剣術以外の分野でも幅広い活躍しました。
斎藤弥九郎については、詳しくは こちら  斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」) をご覧ください。

 赤印が大村益次郎銅像  青印が神道無念流練兵館跡の石柱 緑印が富士見小学校 です。

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by wheatbaku | 2011-12-14 08:44 | 江戸の災害 | Trackback
心法寺 (定火消屋敷④  江戸の災害)
今日は、番町小学校のそばにある「心法寺」のご案内です。

 「心法寺」というお寺はあまり有名ではないんですが、私たち江戸検1級2期会の仲間の中では、増上寺や寛永寺と同じくらい名前が知れ渡っているお寺です。
c0187004_1036758.jpg というのは、江戸検1級合格早々に、ホテルニューオータニさんから江戸城外堀ガイドの依頼があった時に、案内先に入っていたお寺です。 心法寺は、千代田区内で江戸時代から続く墓地のある唯一のお寺であること、村垣淡路守や井沢弥惣兵衛のお墓があることで江戸通の中では有名なお寺でした。そのために、江戸城外堀ガイド先に選ばれていました。
 しかし、当時は、さすがの1級仲間でもほとんどの人が知らないお寺でした。
 このことがきっかけで、1級仲間内で「心法寺」は一気に有名になり、現在では、「心法寺」といえば、すぐにあぁあのお寺とわかるお寺の一つとなっています。

【千代田区唯一の江戸時代からあるお寺】 
c0187004_10391218.jpg さて、その心法寺は、もともとは推古天皇の時代に、三河国で「秦宝寺」として創建されたお寺と言い伝えられているそうですが、江戸麹町に創建されたのは、慶長2年(1597)です。
 江戸の地は、北と南は比較的深い谷で区切られていて、東は海に面していました。しかし、西側は武蔵野台地がなだらかに続くだけで、防衛上手薄でした。
 そのため、西方の防衛線を強化するために、寛永13年に外堀工事が行われ、江戸城の西側の外堀が築造されました。
 その際に、外堀の内側にある寺院の多くが外堀の外に移転を命じられました。
 そのため、千代田区内には、江戸時代の初めに創建されたお寺はほとんどありません。
 その中で、心法寺は千代田区で江戸時代はじめに創建されたお寺であり墓地もある唯一のお寺です。
 
 心法寺には、右上の写真の銅鐘をはじめ文化財がかなりありますが、あまり紹介されることの少ない村垣淡路守範正と井沢弥惣兵衛のお墓を今回はご案内します。

【村垣淡路守の墓】 
 村垣範正(むらがきのりまさ)は、万延元年に日米修好通商条約批准書交換のため幕府がアメリカへ派遣した使節団いわゆる万延元年遣米使節の副使を勤めました。なお、この時の正使は新見正興、目付は小栗忠順です。
c0187004_10363837.jpg  村垣家は、もともと、お庭番の家柄です。範正の代に別家として取り立てられることとなり、天保2年(1831)に小十人格(こじゅうにんかく)庭番となりました。
 安政元年には、勘定吟味役として、川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、下田(しもだ)に来航したロシア使節の応接係を担当しました。
 安政3年(1856)には箱館奉行となり、さらに安政5年(1858)には外国奉行となり、翌年神奈川奉行も兼帯しました。
 外国奉行兼神奈川奉行であったため、遣米使節の副使に任命されました。
 アメリカに無事到着した一行は、ブキャナン大統領に謁見し批准書を渡した後、大西洋を横断し喜望峰を通過しインド洋を通って帰国しました。
 この功績により、村垣範正は300石の加増を受け合計500石となっています。
真ん中のお墓が村垣範正のお墓と言われていたお墓ですが、別人で、範正の祖父定行の墓です。

平成25年5月1日追加訂正
 上記、村垣淡路守範正の墓と言われていた墓が、祖父の村垣定行の墓とのことで、日比谷図書文化館から下記のような修正依頼がありました。村垣淡路守範正の墓は谷中天王寺にあるようです。

史跡説明板の記載修正
 麹町六丁目4番地2の常栄山心法寺門前に設置している説明板「心法寺」の記述について、次のとおり、誤記載がありました。
(誤記載の内容)
 村垣淡路守は、遣米副使を勤めた村垣範正ではなく、その祖父にあたり勘定吟味役・松前奉行・勘定奉行を歴任した村垣定行でありました。

 関係者の皆さまには、大変ご迷惑をおかけしました。平成25年度に、説明板を修正いたします。
 説明板からの引用により、「心法寺に村垣範正の墓所がある」という内容の記事を掲載されている方は、修正をしていただきたく、お願いいたします。



【井沢弥惣兵衛の墓】
 井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は、名前は為永(ためなが)といい、8代将軍吉宗の下で大きな実績を挙げた江戸時代屈指の治水家です。
c0187004_10365152.jpg 紀州藩士でしたが、徳川吉宗(よしむね)が将軍就任した後、幕臣となりました。
 享保7年(1722)に幕府の勘定所に召し出され、享保16年(1731)には勘定吟味役、享保20年(1735)には美濃国郡代にも就任して活躍しました。
 吉宗に重用され、享保の改革の際に治水、農業開発に敏腕を発揮し、紀州流の開祖といわれます。
 特に埼玉県の見沼代用水(みぬまだいようすい)60キロメートルを完成させ、農業開発・水運に大きなな貢献をしました。
 また、木曽川三川分流の宝暦治水も井沢弥惣兵衛の設計だそうです。

 赤印が心法寺 青印が番町小学校 です。心法寺は四ツ谷駅からは徒歩3分の至近距離です。

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by wheatbaku | 2011-12-12 08:22 | 江戸の災害 | Trackback
定火消  (定火消屋敷① 江戸の災害)
今日から、定火消屋敷について書いていきます。
 火消というと町火消が有名ですが、その他、大名が担当する「大名火消」、旗本が担当する「定火消」もあります。

 定火消は、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に設置されました。
 旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置されました。
c0187004_227441.jpg そして、万治2年に2組、万治3年に2組、さらに寛文2年(1662)に2組に増加され、合計で10組となりました。
 そして、元禄8年(1695)に、さらに5組増設され、合計で15組となりました。
 しかし、宝永元年には、5組減らされ10組となりました。その後、幕末まで10組が維持されました。
 そのため、定火消は10人火消とも呼ばれます。
 上の写真は、消防博物館に展示されていた定火消の装束です。(左が夏の装束、右が冬の装束です。)


 定火消の火消屋敷は、消防博物館によれば
 ①飯田町、②四谷御門内、③小川町、④赤坂御門外、⑤市谷左門坂、⑥駿河台、⑦半蔵門御門外、⑧赤坂溜池、⑨お茶の水、⑩八代洲河岸 にありました。
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 これらの火消屋敷が江戸城北西部に重点的に置かれているのは、江戸の火災が北西の季節風の激しく吹く冬に多発していたことに関係しています。
 この地域から出火した場合、江戸全域が風下となって大火に発展する危険が大きく、江戸城も危険にさらされるからです。


 これから順に、この定火消屋敷跡が現在どうなっているか訪ねていきます。
 ただし、上の番号の順ではありませんので・・・・
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by wheatbaku | 2011-12-06 08:19 | 江戸の災害 | Trackback
大名火消 (明暦の大火⑧ 江戸の災害)
 旗本による定火消が整備される前は、大名が消火の中心でした。これを大名火消といいます。
 今日は、大名火消について書いていきます。
 
 江戸時代初期には大火の時には、老中が老中奉書により大名に消火を命じました。これが奉書火消と呼ばれるものです。
 消防博物館には、老中奉書が展示されていました。
c0187004_1453371.jpg
  

 この奉書には次のように書かれています。、
 小石川火事の節
 松平伊豆守殿 
                      大久保加賀守
                       阿部豊後守
  貞享二年丑十二月二十日    戸田山城守

 火事出来風列候間
 早々罷出可消候被
 仰出候可被得其意候
 以上
  
  十二月二十日          大久保加賀守
                       阿部豊後守
                       戸田山城守
松平伊豆守殿 

 しかし、これだと、火事が起きたときに出動を要請するため、迅速に対応できないという弱点がありました。
 また、 寛永18年(1641)の桶町火事の際には、諸大名が老中奉書により、消火にあたりましたが、江戸の大半を焼く大火となりました。
 その反省から、幕府は大名火消を整備し防火消火にあたらせました。
 大名火消は、6万石以下の大名16家を4組に編成し、1万石につき30名の人足を出し、1組が10日ずつ防火にあたることにしました。
 大名火消は、華麗でものものしい火事場装束に身をかため整然とした隊列で出動したそうです。
 消防博物館には、大名火消の華麗な出動の様子が模型で展示されていました。
c0187004_14413592.jpg


 大名火消には「所々火消」と「方角火消」という組織もありました。 
 「所々火消」は、幕府の重要施設の防火・消火にあたる大名を事前に決めておくものです。
 例えば、元禄年間には、上野寛永寺は5名の大名、芝増上寺は2名、湯島聖堂は1名の大名が定められていました。

 「方角火消」は、明暦の大火の跡、12名の大名を桜田、下谷、山手の3隊に分けて防火を命じたのが最初です。
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by wheatbaku | 2011-06-24 15:01 | 江戸の災害 | Trackback
定火消 (明暦の大火⑦  江戸の災害)
 明暦の大火で大火の怖さを知らされた幕府は、防火体制の強化を図ります。
 その一つが、定火消(じょうびけし)の制定です。今日は、定火消について書いていきます。

【定火消は旗本が任命された】 
 明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に、定火消が設置されました。
 旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置された。
 これらの火消屋敷がすべて江戸城北西部に置かれているのは、えどの火災が北西の季節風の激しく吹く冬季に多発していたことに関係しています。この地域から出火した場合、江戸全域が風下となって大火に発展する危険が大きく、江戸城が危険にさらされることとなるからです。
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 定火消役は、それぞれ与力6名と同心30名が付属され、火消人足を抱えるための役料300人扶持が給されました。
 定火消は、火事羽織を着て騎馬に乗り出役しました。与力は騎馬で、同心は徒歩でこれに従いました。
 実際に消火活動にあったたのは、臥煙と呼ばれる火消人足で、彼らは屋敷内の臥煙部屋と呼ばれる大部屋に寝起きしていました。夜寝るときには、細い丸太棒を枕として寝て、火災が起こると不寝番丸太棒の端を槌でたたいて起こしたといわれています。
 臥煙は真冬でも法被一枚で駆け回り、全身の彫り物を自慢にしていました。
 また、火災のない時には、商家をまわって銭緡(ぜにさし)の押し売りを行い、決して評判の良いものではありませんでした。
 上の写真は消防博物館に掲示されている「武家火消の図」です。左が火事に出動する定火消です。

【10組の定火消】 
c0187004_10281148.jpg その後、定火消は万治2年に6組、万治3年に8組、寛文2年に10組、元禄8年には15組になりました。
 そして宝永元年には、御茶ノ水、伝通院前(のちに小川町)、麹町半蔵門外、飯田町、駿河台、八代州河岸、市谷佐内坂、赤坂御門外、溜池上、幸橋外(のち四谷御門)の10組となりました。
 宝永元年(1704)以降は、幕末まで10組で活動を行いました。そのため、定火消しは「十人火消」とも呼ばれました。
 
 火消屋敷は、約3000坪の広さを持ち、高さ5丈(約15メートル)の火の見櫓が設置されていました。
 定火消の火の見櫓には、太鼓と半鐘が備え付けられていました。
 火の見櫓のなかで、定火消の火の見櫓が最も格式が高く、定火消の太鼓が鳴らない限り、他の火の見櫓が火事を発見しても、半鐘を鳴らすことはできませんでした。 

 上の写真は、消防博物館に展示されている定火消の火の見櫓の模型です。
 消防博物館は、東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」2番出口直結しています。  
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by wheatbaku | 2011-06-22 10:29 | 江戸の災害 | Trackback
回向院(明暦の大火⑥ 江戸の災害)
今日からは、一時中断していた「明暦の大火」関係の記事を書いていきます。
 
【明暦の大火犠牲者慰霊の寺】 
 明暦の大火で亡くなった人は、「本所回向院記」では10万8千人とされているそうです。
 この亡くなった人たちの慰霊のために建立されたのが両国の「回向院」です。

c0187004_10354042.jpg 回向院のHPでは、次のようにかかれています。
 「この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。」

 一方、黒木喬氏著の「明暦の大火」では、保科正之の発案だとしています。
 保科正之が、4代将軍家綱の代参で芝の増上寺におまいりした帰途、京橋・中橋の通りにに出て、焼死体が貴賎男女の別なく積み重なっている光景に驚きました。
 家臣に調べさせると、浅草門の近辺まで同じような光景との報告でした。
 保科正之は、さっそく登城して、大老の井伊直孝や老中たちに話しをし、「死骸を1ケ所に集め埋葬するようにしたい」と提案しました。
 井伊大老や老中たちは、その意見に賛成し、死体を収容し、当寺牛島新田と呼ばれていた、現在の回向院の地に掘られた二十間四方( 別の資料によると五十間四方と書いたものもあります)の大きな穴に埋葬しました。

 その上に、無縁塚を築き、時の寺社奉行松平勝隆は、2月26日から増上寺の23世遵誉貴屋に7日間の法要を盛大に実施させたそうです。
 埋葬塚の上には金銅の阿弥陀如来像安置され、念仏堂や庫裏も整備されたそうです。

 回向院は、埋葬者の宗派が様々であっため、最初、諸宗山回向院無縁寺といわれましたが、その後、増上寺の末に組み込まれて国豊山(こくほうざん)と改められたそうですが、現在の回向院の山門脇には諸宗山と書かれています。(上の写真の左下の碑に諸宗山と刻まれています)
 
【明暦の大火供養塔】 
 c0187004_10363457.jpg回向院境内には、明暦の大火の供養塔が建てられています。 
 本堂東側で、馬頭観音堂の南側の墓碑の一群の中でひときわ大きな供養塔です。
この供養塔は正式には「石造明暦大火横死者等供養塔」といい、東京都の有形文化財に指定されています。
 東京都教育委員会の説明板には次のように書かれています。 
「明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3・05m、延宝3年(1675)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存」


 この供養塔の銘文は、次のように書かれています。
  一万日数 三界万霊六親眷属七世父母
  奉回向  明暦三丁酉孟春十八日十九日 為焚焼溺水諸精霊等贈進仏果
  別時念仏 蠢蠢群生有情非情悉皆成仏
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by wheatbaku | 2011-06-20 06:28 | 江戸の災害 | Trackback
江戸城炎上(明暦の大火⑤ 江戸の災害)
  江戸城は、明暦の大火で、本丸、二の丸、三の丸をはじめ天守までも燃えました。
  江戸城が燃えたのは、3月20日、小石川新鷹匠町から出火した火事によります。

【竹橋門内、北の丸がまず焼失】 
 江戸城では、まず竹橋門内にあった天樹院の屋敷が炎上しました。天樹院とは、2代将軍秀忠の長女の千姫のことです。
 その後、将軍家綱の弟の徳川綱重と徳川綱吉の屋敷も全焼させました。
 江戸城が黒煙に包まれ危なくなってくると、将軍を東叡山に移そうという議論が盛んになりました。
 この時、保科正之は
 「本丸にひがかった場合は、西の丸にうつり、西の丸がまた焼けたら本丸の焼け跡に陣屋をたてるべきである。東叡山などに立ち退くなどはもってのほかである」としかりつけたそうです。

 【天守も焼失】 
 江戸城の天守に火がうつったのは、正午から午後1時ごろでした。
c0187004_1064040.jpg  江戸城の天守は三度建てられていますが、家光の建てた天守は、五層五階地下一階で、棟までの高さが44.8メートル石垣の高さは12.7メートルありました。
 この天守には金の鯱があげられていました。また、屋根は銅板瓦で葺かれ、壁三分の二には黒く化学処理を銅版が貼られていました。これらは火災を防ぐ配慮と考えられています。
 このように防火性に優れていた天守ですが、天守の二層目の北西の窓がどうしたわけか開いて、そこから火を吸い込んで炎上したと言われています。
 上写真は現代の天守台、下写真は、焼失した後に天守の役割を果たした富士見櫓

【将軍家綱西の丸に避難】 
 本丸と二の丸にも火がついたので、午後3時ごろ、ついに将軍家綱は西の丸に動座することなりました。
c0187004_10152723.jpg  この西の丸への移動の際に、松平伊豆守信綱は、表御殿を良く知らない大奥の女中たちが迷わないように、各部屋の畳を一畳づつ裏返して目印としたそうです。そのため、女中たちはそれをたどって、無事に本丸を脱出したといわれています。
 やがて、西の丸にも黒煙がおおいかかり、いまにも危うくみえたので、将軍家綱以下は庭に出ました。
 井伊直孝は井伊家の屋敷に移るよう進言し、松平信綱も東叡山に入ってしばらく様子を見ては勧めたそうです。
 しかし、阿部豊後守忠秋はあくまでも出城説に反対しました。
 そして、家綱も、出城に反対したので、江戸城からでるのはとりやめになったと言われています。
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by wheatbaku | 2011-06-10 06:04 | 江戸の災害 | Trackback
牢屋敷の囚人解放(明暦の大火④ 江戸の災害)
  明暦の大火の際に、小伝馬町牢屋敷の囚人解放(切り放し)が行われました。
  今日は、その囚人解放について書いていきます。

 言い伝えによると、天正年間(1573~92)に常盤橋外に牢屋ができて、それが慶長年間(1596~1615)に小伝馬町に移されたとされています。 
 それが小伝馬町牢屋敷で、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで、江戸時代を通して使用されました。

 c0187004_23192899.jpg【石出帯刀独断で切放】 
 明暦の大火の第一日目1月18日に、本郷から出火した火事が、牢屋敷に近づくと、時の牢屋奉行の石出帯刀が囚人解放(切放)を行いました。
 牢屋奉行とは、町奉行の配下で与力格の役職でしたので、囚人解放などの重要事項を決定する権限はありませんでした。囚人解放は石出帯刀が独断で行ったのでした。

 石出帯刀は、戻った者は罪一等を減じ、逃げたものは雲の果てまで追いかけさがしだす。浅草の善慶寺に3日後に集まるようにといって囚人を解放しました。

 黒木喬著「明暦の大火」によると
 「石出勘助の書上」という記録では、解放された囚人は120から130人で、指示通り19日に全員が善慶寺に戻ったと書かれているそうです。まさに石出帯刀が期待した以上の結果と言えます。
 しかし、黒木喬氏は、解放された囚人は数百人で、何人かは戻らなかったのではないかとも書いています。

【現代まで続く切放】 
 いずれにしても、石出帯刀の処置は、事後、上司から高く評価されたそうです。
 この制度は、その後、正式に取り入れられて、切放後3日以内に北町・南町奉行所または本所回向院に戻れば、罪一等を減じ、戻らなければ、遠島ということになったようです。
 切り放しは、江戸時代、公式的には12回(もしくは14回)行われています。

c0187004_23235983.jpg さらに、この石出帯刀が初めて行った囚人解放(切り放しは)、現代の法律(刑事収容施設法)でも、制度として残っています。
 以下刑事収容施設法に定められた切放の条文です。
(災害時の避難及び解放)
第二百十五条  留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。
2  前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3  前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。


 まさに石出帯刀が実行し指示した通りのことが現代の法律でも定められています。

 上記の写真は、小伝馬町牢屋敷のあった場所にある大安楽寺(上段)と十思公園内の時の鐘(下段)です。
 青印が大安楽寺です。その隣が小伝馬町牢屋敷跡の十思公園です。

 
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by wheatbaku | 2011-06-09 06:35 | 江戸の災害 | Trackback
  

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