カテゴリ:京都幕末史跡めぐり( 27 )
薩摩寺と松林院(京都幕末史跡めぐり)
 昨日ご案にした薩摩寺(大黒寺)には、寺田屋事件の九烈士の墓のほかに重要な人物のお墓がありました。
c0187004_9162680.jpg それは、江戸時代中期の宝暦年間の木曽川改修工事に携わり、多大な出費を招き多くの人材をなくしたとして責任を取り切腹した平田靭負(ひらたゆきえ)の墓です。
 幕末の人物ではありません。
 しかし、岐阜県では小学校の副読本にも取り上げられている程、郷土にとって大切な人物です。
 さらに杉本苑子が「孤愁の岸」の主人公として描いているということを御存じの方もいらしゃるでしょう。
 そこで、平田靭負のお墓を紹介しておきます。

 
c0187004_9551744.jpg 平田靭負(ひらたゆきえ)は、薩摩藩家老で宝暦治水の総奉行を務めました。宝暦治水とは、9代将軍家重の代の宝暦年間に幕府の命令により、宝暦4年(1754 )2月から薩摩藩が行った木曽川治水工事です。
 この工事は、木曾三川と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川を分流しようという難工事であるうえに幕府の妨害もあり、大勢の人が亡くなり費用も約40万両もかかりました。
この難工事が終わったのは宝暦5年5月22日でした。この日に幕府の検査がすべて終わったのです。そして、 平田靭負は工事完了報告書を国元に送った後、5月25日早朝、日の出を拝し、薩摩のある西に向かって薩摩藩の安泰を祈り切腹して果てたそうです。
 辞世の句は
 「住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずろう 美濃の大牧」でした。


c0187004_9172158.jpg  切腹した平田靭負の遺骸は、伏見まで送られ、薩摩寺(大黒寺)に葬られました。
 平田靭負のお墓は本堂裏手あり、九烈士のお墓と向かいあい、西を向いてたてられていました。
 薩摩の方を向いているのでしょう。
 説明板によれば、平田靭負は地下4メートルの石棺に眠っているようです。


c0187004_9175113.jpg 大黒寺の向かい側に、寺田屋のお女将お登勢のお墓のある松林院があります。
 山門は、閉じられていましたが、脇が空いていたので、境内に入らさせてもらいました。


c0187004_9184920.jpg 山門からまっすぐ進んだ墓所のなかほどに池田屋の墓地がありました。
 池田屋お登勢の墓という案内板がありましたのですぐにわかりました。

 池田屋の墓所の中の最も手前のお墓にお登勢が合祀されていました。 
 四名の男女の戒名が刻まれていましたが、「喜道院妙持信女」がお登勢のようです。

 この墓所には平成6年に14代寺田屋伊助が建立した「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔もありました。

c0187004_9333743.jpg 寺田屋では、有馬新七らが殺害された部屋の奥が、寺田屋の女主人お登勢の部屋でした。(写真)
 中庭に面していて、写真手前が寺田屋事件のあった部屋です。
 鴨居には、お登勢の写真がかけられていました。

 さて、お登勢は6代伊助の妻でしたが、夫が若死にしたため、彼女が寺田屋の経営を取り仕切りました。
 世話好きだったようで坂本龍馬を始め多くの尊攘派の志士を支援してきました。
 なお、龍馬の妻となったお龍はお登勢の養女でした。
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by wheatbaku | 2012-09-13 10:05 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
寺田屋事件と薩摩寺(京都幕末史跡めぐり)
 幕末に寺田屋で坂本龍馬の襲撃事件が起こる前にも大きな事件が起きています。
 それがいわゆる「寺田屋事件」です。
 江戸検1級仲間のOさんからも「寺田屋事件と薩摩寺を書いて!」と連絡がありましたのでアップします。

 時は文久2年(1862)4月23日、坂本龍馬の襲撃事件が起こる4年前のことです。
 「寺田屋事件」は、有馬新七らの薩摩藩の尊王攘夷過激派の侍が、彼らの突出をやめさせようとした島津久光の命を受けた奈良原繁らに殺害された事件です。

 島津久光の基本的な考えは公武合体派でした。
 そのため、幕政改革を目指して、文久2年4月、一千の兵を率いて入京しました。尊攘過激派は、これを契機に、倒幕のため挙兵しようと考えました。
c0187004_11532289.jpg しかし、久光は尊攘過激派の考え通りにはいかず、久光の命令を無視して入京した西郷隆盛を厳罰(帰国させ沖永良部島に島流し)に処するなど逆に過激派を抑えようとしました。
  そこで、有馬新七らは、久留米の神官真木和泉や田中河内介らと連絡をとり決起を決め、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を襲撃することを計画しました。
 有馬新七たち尊攘過激派は、4月22日夜、大坂藩邸をでて、伏見寺田屋に集合しました。
 その知らせを受けた久光は、浪士鎮撫の命令を朝廷から受けていながら自分の藩から暴発者を出すわけにはいかないと考え、自ら説得するので首謀者を呼ぶよう指示しました。
 それとともに、「命令に応じなければ仕方ないから臨機の処分をするよう」に言い、上意討ちも許しました。
 鎮撫に行く藩士は特に剣術に優れた藩士を選び、奈良原繁・大山綱良・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助。さらに途中から加わり上床源助計9人が鎮撫に行きました。
c0187004_11534492.jpg 9人が寺田屋に着いた時には、志士たちがまさに出発しようとするところでした。
 奈良原、道島、江夏、森岡の4名が寺田屋に入り、有馬新七に面会を求めました。応対に出た橋口傳蔵は、有馬新七はいないと偽りましたが、江夏・森岡が2階にあがり、有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口傳蔵をつれて、1階に降りてきました。
 奈良原繁は、久光の命令でここにきているが、久光はみんなと会いたがっているので同行してほしいと申し入れました。
 これに対して有馬新七は、青蓮院宮の屋敷に行かなくてはならないので、その後に行くと答え同行を拒否しました。
c0187004_11481352.jpg  この後、数回、押し問答がされました。
 そして、埒があかないと思ったのか、道島五郎兵衛が、「やむえない場合には上意討ちの許しを受けている」というやいなや、田中謙介の眉間に斬りつけました。
 これをきっかけに、この後は、同じ藩士の激しい同士討ちが展開されました。
 この乱闘の中で、有馬新七は刀が折れてしまい、道島五郎兵衛を壁に押し付け、同志の橋口吉之丞に「オイゴト刺セ」と叫びながら壮絶な最期を遂げたと言われています。
 2階には、真木和泉らがいました。当初、伏見奉行の襲撃と思っていましたが、薩摩藩の鎮撫使であるとわかり、手を出せずにいました。
 その時、全身を鮮血で染めた奈良原が、2階にあがり、刀を投げ捨て、静まるよう要請しました。
 2階の志士たちも激昂しており、すぐには静まりませんでしたが、首領の有馬新七を失った一同に対して、真木和泉・田中河内介が、一時中止すべしとの意見をいい、ついに一同が京都藩邸に行き、久光に後事を任せることに決まりました。
c0187004_11491162.jpg 
 この戦いにより、尊攘過激派は6名が殺害され、2名が重傷(翌日切腹)となりました。討手側も一人死亡しました。
 この事件によって自藩内の尊攘過激派を処分した島津久光の信望は大いに高まり、久光は勅使大原重徳を擁して公武合体政策の実現のため江戸へと向かったのでした。

 この寺田屋事件の起きた場所も、寺田屋には残されていました。(左2段目の写真)
 1階の台所脇の配膳室で戦闘が行われたとのことです。
 ガイドの説明では、ここ有馬新七たちが会合していて、ここで斬り合いが行われていたと説明があり、なぜ、こんな狭い場所で会合しているのか疑問に思いました。
 しかし、2階にいた有馬新七たちを奈良原たちが呼び出し、ここで説得がおこなわれたのだと考えると十分納得がいきました。
 しかし、この狭い場所で20人あまりが斬り合った戦いは壮絶だっただろうと思います。
 見学者たちは、寺田屋の解説を、この部屋で聞きましたが、壮絶な斬り合いが行われた場所での説明にはちょっと微妙な気持ちがしました。

c0187004_11492762.jpg  さて、殺害された人は、寺田屋から900メートルほど北にある薩摩寺とも呼ばれる大黒寺に葬られました。(右3段目がお寺の入り口の写真)
 大黒寺は真言宗の寺で、元は長福寺という名でしたが、江戸時代初め、薩摩藩邸が近くに置かれ、島津義弘の守本尊「出生大黒天」と同じ大黒天がこの寺にある事から、元和元年(1615)薩摩藩の祈祷所となりました。 大黒寺では、大黒天を本尊とし、寺名を大黒寺と改められ、通称、「薩摩寺」とも呼ばれるようになりました。

 本堂の脇を通って裏手に回ると、本堂のすぐ裏に寺田屋事件の犠牲者の墓があります。
 「伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建立之書亦直筆也」と刻まれた石柱が建っているのですぐわかります。(右4段目の写真です)
 九烈士とは有馬新七、田中謙助、橋口傳蔵、柴山愛次郎、弟子丸龍助、橋口壮介、西田尚五郎、森山新五左衛門、山本四郎です。
 石柱の脇に9人のお墓があります。向かって右から上の名前の順に並んでいます。 
 左上写真は、有馬新七のお墓です。

 赤印が寺田屋です。  青印が大黒寺です。 
 地図を拡大してみてください。


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by wheatbaku | 2012-09-12 11:36 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
寺田屋と坂本龍馬(京都幕末史跡めぐり)
 京都から戻りました。
 現在、「徳川将軍15代」について書いている途中ですので、「京都幕末史跡めぐり」は後日書こうと思っていましたが、mikawaさんから、寺田屋と坂本龍馬についてコメントで質問を頂戴しましたので、急遽、寺田屋について書きましょう。

 伏見は古くから京~大阪を結ぶ水運として、たくさんの船が行き交い栄えた町でした。
c0187004_0422288.jpg 寺田屋は、伏見の船宿でした。
寺田屋の前には南浜という船着場がありました。現在も寺田屋正面の道の向こうには川(宇治川派流)が流れていて、三十石船の船着場(右写真)となっています。
 ここは寺田屋浜乗船場 と呼ばれていて、ここを出発し40分で伏見の水路を巡ります。

 寺田屋は慶長2年(1597)に山城国寺田村出身の伊助が始めました。
 初代伊助が出身村の名をとって、寺田屋と号したそうです。
 寺田村は、現在は京都府城陽市になっています。

 寺田屋は、木造二階建て間口は狭く見えますが、奥に深い京都の町屋づくりです。
c0187004_0424136.jpg 寺田屋は、内部を公開していて、大人400円で見学できます。館内見学時間は10時から午後4時(受付3時30分)までです。
 これは、寺田屋が旅館として営業しているためだそうです。宿泊は素泊まりで6500円だそうです。

 玄関の格子戸が入口となっています。中に入ると土間があり、受付の窓口があります。ここで料金を支払い、靴を脱いで袋に入れて持っていきます。

 まず2階から見学するように案内されます。
c0187004_0425986.jpg 2階は7間あります。そのうちの梅の間が龍馬がよく泊まっていた「龍馬の間」です。
 この寺田屋は薩摩藩の定宿だったので、薩摩藩の紹介で、ここを龍馬は定宿としていました。
 慶応2年1月21日に京都で薩長同盟の盟約を実現して2日後の1月23日寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方に襲撃された時も龍馬は梅の間にいました。
 梅の間には、上の写真のように坂本龍馬の肖像画、愛用のピストルのレプリカなどが飾られていたり、弾痕があったりします。

c0187004_0452534.jpg ここで、坂本龍馬は、用心棒の長州藩の三吉慎蔵とともにいるところを襲撃されます。
 三吉慎蔵と一緒にいましたが、風呂からあがりそろそろ寝ようとしていた時でした。
 この伏見奉行所の襲撃をいち早く通報したのが、のちに龍馬の妻となるお龍です。
  龍馬が襲撃されたのは日が変わって24日の深夜3時ごろだったといわれています。
 お龍はお風呂に入っていましたが、窓の外に異常に気が付き、すぐに龍馬に通報します。

c0187004_0455043.jpg 寺田屋には、当時のお風呂が1階の奥に残されていました。(左上写真)いわゆる五右衛門風呂ですね。
 お龍はお風呂を出ると奥の階段を駆け上がり龍馬に通報したといわれています。
 その階段も残されていましたが、お風呂のすぐそばでした。
 そして、2階から1階に下りる順路として使用されていました。
 右写真は下から撮った写真ですが、結構急な階段であることがわかりますでしょうか。


 通報を受けた龍馬は用心棒の長州藩三吉慎蔵とともに捕り方と戦います。
 龍馬は護身用に高杉晋作からもらったピストルで応戦し、三吉慎蔵は槍の名人でしたので槍で応戦します。
 龍馬がピストルを発射すると捕り方は一瞬ひるみましたが、捕り方の数が多く両手を斬られ重傷を負いました。 

c0187004_0465850.jpg  そこで、三吉慎蔵は龍馬とともに裏の物置を抜け隣家を通り抜けて、寺田屋を脱出し薩摩藩伏見屋敷に逃れようとしました。
 しかし、龍馬が受けた傷が深く薩摩屋敷まで行き着けないので途中の材木小屋に隠れました。
 三吉慎蔵は、傷ついた龍馬を気遣いながら、単独で薩摩屋敷に救援を依頼にいきます。薩摩屋敷には、三吉より先にお龍が龍馬が襲撃されたことを通報していました。

 c0187004_0471859.jpg そのため、薩摩屋敷の留守居役大山彦八(大山巌の実兄)が救援に向かおうとしていた時で、三吉慎蔵かっらの通報で龍馬の居場所がわかったため、大山彦八自ら丸に十字の薩摩藩の紋を掲げた船で豪川をくだり材木小屋にいた龍馬を無事救出しました。
 現在、豪川(ほりかわ)の大手橋の西詰・北側に「坂本龍馬避難の材木小屋跡」の石碑が建っています。(左上写真)
 しかし、坂本龍馬が避難した材木小屋は、実際には石碑のある場所でなく大手橋の東詰より南側にあったと伝えられています。
 右写真は、大手橋の上から、東側下流を撮った写真ですが、月桂冠のHPによると写真左手の「富翁」と書かれている辺りに材木小屋があったようです。


c0187004_9134531.jpg 寺田屋には、龍馬が隠れた材木小屋の古写真が掲示されていました。
 珍しいので写真に撮ってきました。
 材木小屋の所有者は「近江屋三郎兵衛」で、濠川東岸の「村上町」にあったそうです。

 坂本龍馬襲撃事件については、以前「寺田屋騒動~龍馬寺田屋で襲撃される」でも書いていますので、そちらもご覧ください。


c0187004_049645.jpg さて、薩摩藩伏見屋敷は、寺田屋から直線距離で約900メートル北方にあります。
 豪川ぞいにあったため、龍馬を救出するのに船をだすことができました。
 現在は、月桂冠の関連会社・松山酒造が操業していて、松山酒造の正門近くに石碑が建てられています。
 説明板によると、江戸時代、幕府は諸大名の上洛を禁じました。西国大名も、本国と江戸を参勤交代する際にも、京都に立ち寄ることを禁止ました。そのため、江戸と本国を往復する際の藩主の滞在地として、伏見に屋敷が設置されたとのことです。
 天璋院篤姫も、江戸に向か途中滞在していいたそうです。


c0187004_0502934.jpg 坂本龍馬が持っていたピストルはスミス&ウエッソンのピストルです。
 右写真は寺田屋に掲示されていたものです。龍馬の間にはレプリカも置いてありました。
 高杉晋作が上海で購入したものを龍馬に贈ったとされています。
 龍馬はこのピストルで応戦しましたが、襲撃された際に手を斬られたため、ピストルをとりおとして紛失したと思われます。
 龍馬から兄にてあてた手紙には、「ピストルの弾倉を取り外し2丸まで込めたけれど、左の指は斬られていて、右手もいためて居り、手元思うようにならず、つい手より取り落としたり」と書いています。
 


 赤印が寺田屋です。
 青印が薩摩藩伏見屋敷の碑です。
 緑が「坂本龍馬避難の材木小屋跡」の碑です。
 地図を拡大してご覧ください。

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by wheatbaku | 2012-09-10 21:24 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
標的中岡慎太郎説(龍馬暗殺犯⑧)
龍馬暗殺犯の最後に、近江屋で暗殺の標的だったのは坂本龍馬ではなく中岡慎太郎であったという説を紹介します。
 この説を書いているのは、作家の阿井景子氏です。

 阿井景子氏の結論は
   標的は、中岡慎太郎
   実行犯は、京都見廻組
   命令者は 幕府要職者
 というものです。


 阿井景子氏が、標的が龍馬ではなく、中岡慎太郎だと考えるのは、中岡慎太郎のほうがはでな動きをしていたからだと言い、思想も、龍馬が和の構えに傾いた龍馬と異なり中岡慎太郎は一貫して武力討伐であったと言います。
c0187004_1001870.jpg
 中岡慎太郎は、他藩士からも「土佐武断党の中心となりて、当時の大立者なり」と評されていました。
 それにもかかわらず、幕府に逮捕されなかったのは、名前を次々と変えていたためで、中岡慎太郎は5度も名前を変えているのは、それだけ危険だったからだろうと阿井景子氏は推測します。

 ラジカルで大胆な中岡慎太郎が幕府要職者の目にとまらないはずはありません。
 勝海舟が名前を挙げている榎本対馬守かどうか確認できないが、それに近い幕府要職者が命令し、幕府要職者の「御指図」を受けて出動した京都見廻組の佐々木只三郎らは、11月15日に、中岡慎太郎を尾行したのではないかと阿井景子氏は推測しています。

 11月15日、八ツ(午後2時ごろ)白川の陸援隊本部を出た中岡慎太郎は、河原町四条上ガルの菊屋を訪ね息子の峯吉に薩摩藩への使いを頼んだ後、谷守部(干城)の下宿に立ち寄りますが、谷が不在のため、六ツ半(午後7時ごろ)坂本龍馬がいる近江屋に到着しました。
 坂本龍馬を訪ねたのは、三条大橋制札事件で逮捕された宮川の処置を、土佐藩大監察の福岡藤次(孝弟)から任された中岡慎太郎は、宮川を陸援隊に引き取る考えで龍馬と協議するために近江屋を訪問しました。
 そして、龍馬と中岡慎太郎が話している時に、十津川郷士を名乗った人物が近江屋を訪れます。そして、偽の手札を出して、「先生に面会したい」旨を申し出ます。
 阿井景子氏は、訪問客が「先生」といっただけで固有名詞を述べていないのが、中岡慎太郎を標的にしたと考える根拠に一つであるといっています。
 こうして、訪れた人物たちは2階に上がり、協議中であった中岡慎太郎と坂本龍馬に躍りかかりました。
 
 阿井景子氏は、京都見廻組の今井信郎や渡辺篤の証言から、この襲った人物たちを京都見廻組と考えています。

 そして最後に次のように述べています
 「見廻組は中岡を標的にしたことで、龍馬も惨殺することができた。思いがけない収穫に彼らは喜びを抑え切れなかったにちがいない」

 いままで、坂本龍馬の暗殺犯は誰かということについてのいろいろな説を紹介しました。
 幕府側の京都見廻組や新撰組説、味方と思われている倒幕派の薩摩藩や長州藩、さらには非常に親しくしていた身内とも言うべき後藤象二郎や中岡慎太郎説、その他紀州藩説などもあります。 そして、今日紹介したように、標的は坂本龍馬ではなく中岡慎太郎だったという説まであります。
 こんなに諸説あるということは、坂本龍馬の人気の高さを表しているのかもしれないと感じました。


 
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by wheatbaku | 2011-10-03 10:01 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
土佐藩関係者説(龍馬暗殺犯⑦)
 昨日は、龍馬暗殺犯人についての土佐薩摩連合説について書きました。
 先日のハカマオーのコメントに中岡慎太郎が犯人という説があると書かれていました。 
 ハカマオーの言う通り中岡慎太郎をはじめ土佐藩関係者が暗殺犯であるという説がありますので、今日はそれを紹介します。

 新人物往来社の菊池明氏著「龍馬暗殺完結変」の中で陸援隊士犯行説と後藤象二郎説が取上げられています。

【陸援隊犯行説】 
 まず、陸援隊犯行説について書きます。

 坂本龍馬が暗殺された直後から、薩摩藩や土佐藩が関係しているという情報は流れていたそうです。
c0187004_13351083.jpg 肥後藩士の上田久蔵という京都留守居役であった人物が、事件を知らされた後の12月4日の「日録」に次のように書いているそうです。

 坂本龍馬、暗殺に逢う。後藤象二郎、走免のこと、けだし龍馬を刺すは土州人なり。

 上田久兵衛は龍馬が暗殺されたと聞き、刺客は土佐人と直感しました。それは、公武合体を進めてきた土佐藩だけれども、武力倒幕派が台頭してきたため、大政奉還論者の坂本龍馬が排斥されたと考えたのです。

 また、鳥取藩の「鳥取藩慶応丁卯筆記」には次のように書かれているそうです。

土佐藩の内聞を探索候ところ、藩士二気にあい分かれ、一途は白川組諸浪士あい集まり、しきりに暴論の徒のみ建て論じ増長にて、今一途は後藤象二郎同意周旋の徒は右の暴論の徒を取り鎮めおり候よし。(中略)いまだ事件発せず候えども、隔論あいなり候様子にて、梅太郎(龍馬)となお今一手とは、たちまち不和を生じ、ほとんど殺伐の次第に及ばんとするの事情に基づき候よし。

 
「白川組諸浪士」というのは中岡慎太郎が率いる陸援隊のことであり、武力倒幕派の陸援隊は、後藤象二郎や龍馬の一派と、いずれは殺し合いに発展しかねない状態だったようです。

 こうした情況だったので、陸援隊が邪魔者の坂本龍馬を襲撃したというのが、「陸援隊犯行説」となります。
 しかし、武力倒幕派の中岡慎太郎はじめ陸援隊が坂本龍馬を排斥しようというのはわかるが、中岡慎太郎まで襲撃しなければならない理由がわからないと菊池氏はいい、この説に否定的です。

【中岡慎太郎犯人説】 
 これに関連して中岡慎太郎犯人説について触れておきます。
 9月22日付けのハカマオーのコメント通りですが、中岡慎太郎は武力倒幕派、坂本龍馬は平和的倒幕派です。坂本龍馬と中岡慎太郎は意見がちがったわけです。
 そこで、龍馬を説得するために、近江屋を訪問し議論しますが、龍馬が考えを変えぬため、龍馬に突然に斬りかかったというものです。

 この説を読者のみなさんはどう思われますか?・・・

【後藤象二郎黒幕説】 
 土佐藩が暗殺に関係しているという説の中には、後藤象二郎が事件の黒幕であるという説もあります。
 それによると、土佐藩の藩論を大政奉還論にまとめあげた後藤象二郎は、その発案者が龍馬であったことが公になり、自分の権威が失墜することをおそれ龍馬殺害指令を出したという説です。
 これに対して、菊池氏は、後藤象二郎が提案者として認定されるという前提そのものが間違っているといいます。
 大政奉還策のもととなった「船中八策」を文書にしたのは長岡謙吉でした。だから、長岡謙吉は大政奉還は龍馬の発案であることを知っていました。
 また、大政奉還を土佐藩が建白するにあたって、6月22日に、後藤象二郎は、料亭で薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通と面談し薩摩藩の了解を取り付けていますが、その席に、坂本龍馬と中岡慎太郎も同席しており、小松帯刀や西郷隆盛は大政奉還の発案したのが坂本龍馬であることを知っており、後藤象二郎が自分の独創であると主張できる情況ではありませんでした。

 こうしたことから後藤象二郎黒幕説も否定されると菊池氏は言っています。
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by wheatbaku | 2011-09-30 13:39 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
犯人土佐薩摩藩連合説(龍馬暗殺犯⑥)
 今日も龍馬暗殺犯の続きです。龍馬暗殺犯については、京都見廻組説が有力と思われますが、薩摩藩黒幕説もかなり主張されています。
 しかし、龍馬暗殺犯のついては、京都見廻組説や薩摩藩黒幕説のはかにも、本当に様々な説があります。
 その中には、坂本龍馬の出身である土佐藩が関与しているという説もあります。
 今日は、薩摩藩が黒幕ですが、実行犯は土佐藩士と薩摩藩支藩の佐土原藩脱藩士という「犯人土佐薩摩藩連合説」について紹介します。
 これは立命館史学会の西尾秋風氏が書いています。

西尾秋風氏の結論は
  ・標的は坂本龍馬
  ・実行犯は、宮川助五郎ほか陸援隊士5名と佐土原脱藩士3名からなる「土佐・薩摩連合刺客団」
  ・命令者は中村半次郎
  というものです。


 西尾氏は、海援隊士の佐々木多門が旗本松平主税の家臣岡又蔵あてに書いた密書に「才谷(坂本龍馬の変名)殺害人、姓名まで相分り、是に付き薩摩藩の所置等、種々愉快の義これあり」と書かれていることから、龍馬暗殺に薩摩藩が関与していたという「薩摩藩説」に確信を持つにいたったと言っています。
c0187004_11351950.jpg その行動隊長には在京藩士の中では中村半次郎しか考えられず、その中村半次郎が刺客団を結成するとすれば、薩摩藩は手を汚さずにいつも面倒をみている連中に眼をつけるだろうと推測しています。

 そこで浮上するのが昨日も書いた伊東甲子太郎の高台寺党であるが、西尾氏は、中村半次郎であれば高台寺党より「三条大橋制札事件(さんじょうせいさつじけん)」で薩摩藩邸に逃げ込んできた土佐藩の5名を利用したのではないかと考えています。
 「三条大橋制札事件」は、前年の慶応2年8月21日に、新選組が三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士を襲撃した事件です。右上写真は、現在の三条大橋西詰

 この時、リーダーの宮川助五郎が逮捕されて、2名が殺害され、残りの土佐藩士たちは薩摩藩邸に逃げ込んでいました。  西尾氏は、この土佐藩士たちは、薩摩藩に恩義を感じているはずだから、この人たちを利用したと考えています。
 さらに、11月15日には首領の宮川助五郎も釈放され土佐藩邸の牢屋に収容されました。

 こうして、土佐藩士宮川助五郎以下6名さらに佐土原脱藩士3名を加えた合計9名の刺客団が結成されたのではないかとしています。
 釈放されたばかりの宮川助五郎ではなく、中村半次郎自身が刺客団に加わった可能性も否定できないとも西尾氏は書いています。
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by wheatbaku | 2011-09-29 11:33 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
実行犯高台寺党説(龍馬暗殺⑤)
坂本龍馬暗殺犯の黒幕は薩摩藩だという説の紹介が続きます。
 黒幕は薩摩藩だと言うのが百瀬明治氏でした。黒幕はズバリ言って大久保利通だと言うのが山村竜也氏の説でした。
 しかし、両氏とも直接の実行犯ははっきりさせていませんでした。
 この実行犯は高台寺党だという説が作家の大浦章郎氏です。しかも黒幕は大久保利通です。

大浦章郎氏の結論は
  標的は坂本龍馬
  実行犯は、伊東甲子太郎の配下  
  黒幕は、筋書を木戸孝允が書き、大久保利通が伊東甲子太郎に要請、 実行指令は伊東甲子太郎が出した。
 というものです。


c0187004_1041131.jpg 大浦氏は、
 大政奉還後の政局は、慶喜派と勤皇派が競い合い、勤皇派も武力革命派と平和革命派に分かれて競い合っていた。
 坂本龍馬は、徳川家擁護論者であり、幕府幹部や親徳川諸侯が龍馬暗殺を指令することはありえない。
 一方、長州の木戸孝允、薩摩の大久保・西郷は武力倒幕革命を考えており、龍馬の存在は目障りだったろう
 と考えています。

【筋書は木戸孝允、黒幕は大久保利通、下手人は伊東甲子太郎一派】 
 薩摩藩は、薩長同盟とともに平和革命路線の土佐藩とも盟約を結んでいました。
 これに対して不快感を感じた長州の木戸孝允は、龍馬をどうするのか西郷隆盛にねじ込みます。
 処置に困った西郷隆盛は大久保利通に相談します。
 大久保利通は、中村半次郎を通じて、伊東甲子太郎を知っていたので、伊東甲子太郎に「龍馬を武力革命側に説得してもらいたい。説得できなくてもせめて12月初旬には京都にはいないよう仕向けたもらいたい」と依頼します。 
 そして、それらがうまくいかなかった場合には、暗殺もやむ得ないことを示唆します。
 伊東甲子太郎は、新撰組に参加したものの、その頃は新撰組から分離し、同志10数人と高台寺党を名乗っていました。

 大久保利通の依頼を受けた伊東甲子太郎は龍馬を訪問し説得しますが、失敗します。
 そこで、京都を離れることも勧告しますがこれも失敗します。
 そのため、伊東甲子太郎は最後の決断をせざるをえなかったと大浦氏は推測しています。

 大浦氏は、最後に、「筋書は木戸孝允、黒幕は大久保利通、下手人は伊東甲子太郎一派だ、というのが私の論である。」と念押しています。
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by wheatbaku | 2011-09-28 10:35 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
黒幕大久保利通説(龍馬暗殺犯④)
 昨日は、薩摩藩黒幕説を書きましたが、黒幕はズバリ大久保利通だとういう説を唱えるのが維新史研究家の山村竜也氏です。

c0187004_11402486.jpg山村氏の坂本龍馬暗殺犯の結論は
   ・標的は、坂本龍馬のみ
   ・直接実行犯は、特定できない。
   ・黒幕は、大久保利通
   (右写真、国立国会図書館所蔵)
 というものです。


【暗殺犯は幕府方ではない】 
 山村氏は、坂本龍馬を暗殺した犯人は、どう考えても幕府方ではないと言います。
 幕府方の暗殺犯としては、新撰組と京都見廻組が考えられるが、新撰組は倒幕派に対しては斬殺を第一の目的としてはいなかったといいます。
 剣客集団の新撰組でさえこうなのであるから、旗本御家人の子弟で構成されている京都の治安維持を目的とする京都見廻組は暗殺を目的に行動することはありえないと言います。
 もう一つ、犯行声明が出されていないことも幕府方ではないと断定できる根拠だと言います。

【黒幕は大久保利通である】 
 だから、山村氏は倒幕派が怪しいと言います。
 断固武力倒幕を主張する強硬派にとって、平和革命の最大の推進者坂本龍馬が邪魔になります。
 武力倒幕派が龍馬を亡き者にしようとすることは十分考えられ、暗殺命令を下したのは薩摩藩だろうと言います。
 薩摩藩の武力倒幕派には西郷隆盛と大久保利通がいますが、その中で、命令を下したのは山村氏は大久保利通だと推測します。
 西郷隆盛は、元治元年に初対面して以来二人は同志として付き合ってきました。
 二人の交遊の深さから考えて、たとえ政治情勢がかわったとしても、相手を暗殺するなどとは考えられない。また、西郷隆盛の人柄からは同志を暗殺するなどとはとても考えられない。
 しかし、坂本龍馬と大久保利通は、不思議なほど接点は少ないそうで、大久保利通日記や書簡に、暗殺されるまで龍馬の名前は出てこないそうです。
 そして、坂本龍馬が暗殺された11月15日、大久保利通は在京し、西郷隆盛は京都にいないことも、大久保利通の方が怪しく考えさせる要素だと言います。
 龍馬が暗殺された後、大久保が岩倉具視に4日連続して龍馬暗殺に関する書簡を送っているのは偽装工作ではないかと書いています。
 目的のために手段を選ばない男大久保利通にとって武力倒幕に立ちふさがる坂本龍馬という障壁を排除するなどは彼にとっては当然のことであったのかもしれないと言います。

 黒幕犯は大久保利通と推測できるものの、実際の暗殺犯は特定できないと言います。
 なぜならば、万が一襲撃に失敗し返り討ちにあっても正体が判明することのない人物が選ばれたはずだからだと言います。
  有力な説として高台寺党を挙げる説があるが、山村氏からみても考えられない説ではないと言います。

 以上が山村竜也氏の考える、「大久保利通黒幕説」です。

 山村氏が触れていた暗殺犯高台寺党説については、明日書こうと思います。

 
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by wheatbaku | 2011-09-26 15:01 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
薩摩藩黒幕説(龍馬暗殺犯③)
 昨日書いた「湯島本郷散歩」に関連する記事ついては、後日、書きます。 
今日は、龍馬暗殺犯の話題に戻ります。
前回までは、京都見廻組説を紹介しましたが、今日は、龍馬暗殺には黒幕がいるのではないかという話題を書きたいと思います。
 黒幕についても諸説がありますが、薩摩犯黒幕説がよく言われます。
  「別冊歴史読本1993年春季」号で、薩摩犯黒幕説を書いているのは、作家の百瀬明治氏です。

 百瀬氏の結論は
  標的は、坂本龍馬
  実行犯は、京都見廻組
  坂本龍馬の動向について情報を流した黒幕は薩摩藩(西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視か)
 というものです。


【黒幕説諸説】 
 百瀬氏は、いろいろな坂本龍馬暗殺犯説を検証して、新撰組説を否定し、暗殺したのは京都見廻組と考えています。
c0187004_1057222.jpg  しかし、京都見廻組が単独で実行したのではなく、坂本龍馬の動向を教えた黒幕がいたという考えです。
 そして、いろいろな黒幕説を検証しています。

 まず、和歌山藩の公用人三浦休太郎黒幕説について、三浦は坂本龍馬のアジトを知る立場になかったとして否定しています。
 
 ついで、後藤象二郎黒幕説とは、後藤象二郎が大政奉還の功を独占するために龍馬を暗殺を計画したのではないかという説があるが、後藤は龍馬のアジトを知りえる立場にいたが、龍馬を暗殺する動機が薄弱すぎると否定しています。

【薩摩藩黒幕説】 
 そして、黒幕の候補は、旧幕府上層部か討幕派が可能性が高くなる、しかし、旧幕府上層部は、反幕戦線のハト派の龍馬を血祭りにあげる必要はなく、龍馬が邪魔だったのは倒幕派であり、黒幕の可能性がより高いのは倒幕派であると言います。

 龍馬が大政奉還策に動きだした時点で、倒幕派にとって、龍馬は御用済みで、むしろ屋厄介者扱いする風潮がひそかに広がっていたのは否定できないだろう。そして、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視などは、坂本龍馬のアジトを京都見廻組にリークし、京都見廻組が坂本龍馬を襲撃したのだろうと推測します。
 そして、実行犯の京都見廻組には、アジトをリークする際に、厳重なかん口令を要求したのではないかと書いています。

 薩摩藩が黒幕であると考える説は、他にもあります。次回も薩摩藩黒幕説をついて書きたいと思います。
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by wheatbaku | 2011-09-26 11:00 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
見廻組説(龍馬暗殺犯①)
 京都の史跡めぐりの記事を書くために本を探していた中に、「完全検証 龍馬暗殺」という特集が、別冊歴史読本の1993年春号でされているのを見つけました。

 龍馬暗殺にはいろいろな説があります。
 この特集号は、諸説を集大成したもののようですので、これを参考に、龍馬暗殺犯についてのいろいろな説を紹介していきます。

c0187004_1262226.jpg まず、霊山歴史館学芸部主任学芸員の木村幸比古氏の犯人見廻組説を最初に紹介します。

 木村氏は
 ①標的は坂本龍馬
 ②実行犯は京都見廻組
 ③命令者は京都守護職松平容保と京都所司代松平定敬

 と結論づけています。

【見廻組とは】  
 まず京都見廻組について説明されています。
 見廻組は元治元年(1864)に組織されました。
 蒔田相模守広孝、松平出雲神康正が京都見廻役となりました。見廻役が総括指揮官で、その下に指揮官として4名の見廻組与頭がいました。
 定員は400名で、御家人から剣術・槍術の腕の立つ人を募集しました。
 見廻組は幕臣集団です。新撰組とは、そこが違いました。
 京都見廻組は京都守護職松平容保の支配下におかれ、京都市中警備と将軍警護にあたりました。

 龍馬暗殺は、京都守護職松平容保と京都所司代松平定警敬(さだあき)は、龍馬に掻きまわされ、西南雄藩に幕府が押しきられれば徳川幕府の存亡にかかわると危惧して、幕府直属の見廻組を動かして暗殺を指示したと木村氏は言います。

 見廻組のメンバーは佐々木只三郎を指揮者として、桂隼之助(はやのすけ)、渡辺篤、世良敏郎、渡辺吉太郎、今井信郎、高橋安次郎、桜井大三郎、土肥仲蔵の面々です。

【龍馬を斬ったのは桂隼之助】 
 11月15日当日、五つ半(午後9時頃)、佐々木只三郎が、十津川郷士を名乗り名刺を出します。
 応対に出た龍馬の下僕の籐吉が取次ます。
 取り次いでいるあいだ、見廻組の面々は店の中に入り1階を固めます。
 2階の登り口は、佐々木、桂、渡辺吉太郎、高橋の4人が固めます。
 このうち、桂隼之助がふすまをあけ、龍馬の前に進み軽く一礼して正座をします。
 桂は龍馬・慎太郎に顔を知られていません。龍馬は桂の顔に目をやり、もう一度行燈に名刺を近づけ目を落としました。
 その時に、佐々木が音もなくスッーと部屋にはいってきました。
 そして、桂は、正座からからゆっくり刀をぬき、渾身の力をこめて、横にはらいました。
 桂の一刀は横から一文字に龍馬のこめかみから額にかけて鋭くなぎり、龍馬はなされるままに面を斬られました。
 龍馬は床の間にある刀を取ろうと手をのばしますが、桂に再び斬られます。さらに三刀目も斬られます。
 こうして、龍馬は暗殺されてしまいました。

 木村幸比古氏の説は、見廻組説は薩摩黒幕説よりはるかに信憑性が高く、資料的にみても見廻組説をくつがえすだけの新資料はいまだ発見されていないと言います。
 そして京都見回組の桂隼之助が暗殺犯という説です。
 
 なお、新撰組説については、近藤勇は当日のアリバイがあるので、近藤勇ではないとも書いています。
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by wheatbaku | 2011-09-19 12:08 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
  

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