カテゴリ:江戸検お題「徳川将軍15代」( 155 )
祈合格
 本日、毎日文化センターさんの講座「赤穂浪士ゆかりの地を行く」で赤穂浪士の引揚コースのうち築地本願寺まで歩いてきました。
 参加された皆様お疲れ様でした。

 そして、そのコースにはいくつかの神社やお寺がありましたので、江戸文化歴史検定を受験される方が合格されることを願ってきました。
 そこで、取り急ぎ、赤穂浪士引揚コースにある神社やお寺の名前と写真をアップします。
 明日頑張ってください。そして素晴らしい結果になりますように・・・・。


c0187004_23293820.jpg松坂稲荷神社

c0187004_23301144.jpg江島杉山神社

c0187004_23303425.jpg正木稲荷神社

c0187004_23304767.jpg芭蕉稲荷神社

c0187004_1052106.jpg鉄砲洲稲荷神社

c0187004_23323549.jpg築地本願寺

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by wheatbaku | 2012-10-27 23:33 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
歌舞伎と寄席の禁止(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、天保の改革の中の文化統制について書いて行きます。
 水野忠邦が進める天保の改革は、松平定信の行った寛政の改革より統制色の濃いものとなりました。
 今日は、その統制がいかに厳しいモノだったかについて歌舞伎と寄席を例に書いていきます。
 天保の改革は、庶民の生活にまでおよび、庶民の奢侈禁止が徹底され、庶民の娯楽も禁止されました。
  
 歌舞伎については、特に厳しい統制が加えられました。 
c0187004_927518.jpg 天保12年(1841)10月、中村座から出火し全焼しました。さらに、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災しました。
 芝居小屋が焼けたことは、幕府にとって願ってもいない好機でした。
 奉行所は中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁止し、浅草に移転させることにしました。
 この際、水野忠邦は、江戸三座は取り潰すつもりでしたが、町奉行遠山金四郎が反対したため取り潰し案がなくなり移転させることとなったという説もあります。
 天保13年正月には、浅草にあった丹波園部藩小出家の下屋敷を収公して、一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
 そこは新たに芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町と名付けられました。
 これには、歌舞伎が江戸市中の風俗に悪影響を与えているという考えに基づく隔離政策の面もありました。
 そのため、今後、一般市民と交際してはならないとか外出時には編み笠をかぶれといった制約も課せられました。
c0187004_9273827.jpg
 これだけではなく、天保13年6月には七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸十里四方所払いにしたり、三都から巡業に出た役者を抱えて興業を行わないことを各地の城下や寺社に命じたり、旅役者が御府内で興業することも禁止しました。

 まさに歌舞伎を目の敵にしている感があります。

 また、寄席も弾圧されます。
 天保13年2月12日にお触れが出され、従来500以上のあった寄席が、15軒だけに制限されてしまいます。
 さらに、演目では、神道講釈、心学、軍事講釈、昔話以外は上演してはならないこととされ、話の中に鳴り物などをいれることも厳禁とされました。
さらに、人気のあった女義太夫、女浄瑠璃も厳しく統制をされました。

 このように江戸っ子の楽しみであった歌舞伎や寄席まで統制を加えられ、江戸の庶民文化は、まさに火の消えたような状況になってしまったのでした。

 右上、左上の写真は、ともに現在の浅草6丁目にある、猿若町であったことを示す標柱と石碑です。
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by wheatbaku | 2012-10-26 09:34 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
感応寺と天王寺(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 天保の改革が始まった早々に家斉の肝いりで建立された鼠山感応寺の破却が行われました。これは、水野忠邦が寺社奉行阿部正弘に命じて行わせたものです。
 先日天王寺の案内を案内しましたが、天王寺は元は感応寺といい、感応寺から天王寺への寺号が変更されました。
c0187004_9234660.jpg これにも関連するので、今日は鼠山感応寺について書いていきます。
 右写真は、天王寺の本堂です。左下写真は、天王寺の露座の大仏です。 元禄3年に建立されたものです。

 谷中感応寺は元禄年間に不受不施派問題に絡んで、天台宗に改宗させられました。
 鼠山感応寺は、谷中の感応寺の日蓮宗への帰宗を悲願とした池上本門寺の願いを容れる形で、将軍徳川家斉の特別の思し召しによって、天保4年(1833)に取り立てられた寺院でした。

 鼠山感応寺の取り立ての背景には、当時江戸城大奥で家斉の寵愛をもって大きな勢力を有したお美代の方の影響がありました。
 お美代の方の実父は下総中山智泉院の日啓でしたが、その美貌に目を付けた中野碩翁が養女して、大奥に奉公させました。
 お美代の方はまもなく将軍家斉のお手付きとなり、3人の娘を産みました。
c0187004_9235814.jpg お美代の方の実父日啓は、弁舌にもすぐれ政治的手腕もあったようです。
 文政初年に家斉が病気になった時に、何かのたたりではないかと日啓に相談すると、日啓は、10代将軍家治の嫡男で将軍世子でありなが突然死去した家基のたたりだと申し立てました。
 家基の怨霊を怖れた家斉は、文政10年に、家斉自身と家基の木像を作らせ智泉院に下賜して祈祷させ、翌年文政11年は家基の50回忌にあたるため、下総国中山の法華経寺境内にある徳岡八幡社の社地に新たに若宮八幡の社殿を建立させ、その別当寺として守玄院を建て、日啓を別当としました。
 こうして、日啓は自分のお寺の智泉院を将軍家の祈祷所にすることに成功しました。
 
 そして、天台宗に改宗さえられていた谷中感応寺の再興を願いました。
 しかし、輪王寺宮舜仁法親王により日蓮宗への改宗は中止となり、長耀山感応寺から護国山天王寺へと寺号を改称しました。
 そして、新たに天保7年(1836)目白に鼠山感応寺が建立されることになりました。
 この感応寺は壮大な伽藍を誇ったものでした。
 鼠山感応寺は開創以来、家斉やその子供たち、そして大奥女中たち、さらには諸大名の祈願寺として、大いに信仰されて繫栄しました。
 しかし、大奥の女中たちが、参詣にかこつけて、お寺の僧たちと風紀を乱しているという噂が立ち始めました。
 そこで、水野忠邦が、新任の寺社奉行阿部正弘に調査を指示しました。
 それをうけて天保12年、阿部正弘が、まず中山の智泉院に踏み込み日啓たちを捕縛し取り調べると奥女中たちの無軌道な行為のほか、日啓が大奥にとりいった経緯がわかりました。
 そこで、日啓は女犯の罪で遠島を申し渡されました。また日啓の息子日尚も日本橋で3日晒し、妻の妙栄は押込とされました。
 そして、鼠山感応寺は、破却を命じられました。
 鼠山感応寺は、建立さえてから僅かに五年間で、その歴史を閉じました。
 そして、感応寺という名前はなくなり、元の感応寺であった谷中の天王寺は、護国山天王寺として現在まで続いています。 
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by wheatbaku | 2012-10-25 09:25 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
天保の改革開始(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、水野忠邦の続きです。
 寺社奉行となった、水野忠邦は、その後順調に昇進していきます。
 文政8年(1825)に大坂城代となりました。水野忠邦は、大坂城代に昇進することを「青雲の要路」といっています。
c0187004_1174694.jpg 文政9年(1826)には、京都所司代となって越前守となりました。
 文政11年(1828)に西の丸老中となって将軍世子家慶付となりました。
 老中になるまでの間2400両の昇進運動費を使ったと言われています。
天保5年(1834)に水野忠邦を引き上げ出てきた水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられました。41歳でした。
  天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となりました。
 家斉は50年間も将軍職にあり、引退した時は66歳でしたが、引退したといっても、まだまだ元気で、厳寒の朝でも小袖2枚に胴着のほかには重ね着をしなかったそうです。
 家斉は、側室40人、そのうち17人から55人の子供が生まれました。
 しかし、美童も好み、水野忠邦を引き上げた水野忠成も美童の一人であったとも言われています。
 こうした家斉の周辺には、側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)などの側近が権勢をふるい続けました。
 このため、天保10年(1839)に老中首座となりましたが、幕政改革は進みませんでした。

 天保12年(1841年)に大御所家斉が死去しました。これを好機として、水野忠邦は改革抵抗勢力であった家斉側近の御側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)を罷免・左遷しました。
 また。家斉の御伽を務めた中野石翁も奥勤めを禁止され、寺島村の粋をこらした抱屋敷を没収しました。
 さらに、大奥に対する粛清を行い、多くの奥女中を罷免しました。
 こうして天保の改革が開始されました。
 天保12年5月15日に将軍家慶の誕生日に老中以下布衣以上の役人全部が集められ、享保・寛政の改革に倣った幕政改革の上意が家慶自ら伝えられ、天保の改革の実施が宣言されました。
 そして、「水野の三羽烏」と呼ばれた、
 目付鳥居耀蔵、天文型見習兼書物奉行支渋川六蔵、御金改役後藤三右衛門
 さらに、「幕府の三人兄弟」と呼ばれた
 小普請奉行川路聖謨、勘定吟味役羽倉外記、韮山代官江川英龍
を活用し、綱紀粛正と奢侈禁止を柱として天保の改革を始めました。
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by wheatbaku | 2012-10-24 11:08 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
水野忠邦と浜松城(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日から、水野忠邦について書いていきます。

 水野忠邦は、寛政6年(1794)6月23日、唐津藩第3代藩主水野忠光の次男として生まれました。長兄が早世したため、文化2年(1805)に唐津藩の世子となりました。
c0187004_1144667.jpg 唐津藩水野家は、8代将軍吉宗の時に勝手掛老中を勤めた水野忠之の系統です。
 右写真は唐津城です。
 水野忠之の時代には、岡崎藩主でしたが、その3代後の水野忠任の代に、唐津藩に転封となりました。
 水野忠邦は、文化9年(1812)に父忠光が隠居したため、家督を相続しました。19歳の時でした。
 水野忠邦は、文化13年(1816)に22歳で奏者番を拝命しました。
 水野家は、将軍家の外戚として、譜代の大名の名門でありながら、忠之以降老中を輩出していなかったため、歴代藩主は、それを気にしていたようです。
 そのため、忠邦はこれを機に昇進の希望を強くもったようです。
  しかし、昇進をめざす上で、唐津藩主であることが、障害となることに気が付きました。
 唐津藩は、長崎警護という重要な任務があるため、唐津藩主は、幕閣に登用されることはありませんでした。
 また、多くの幕閣の昇進と領地が関連していることが多く、藩主が幕閣に昇進した藩主はを経験する必要もありました。
 そこで、水野忠邦は、猛烈な昇進と転封実現のための運動を行いました。

 そうした時に、水野忠邦に幸いした人事が行われました。
 文化14年(1817)同族の水野忠成(ただあきら)が老中首座となったのでした。
 水野忠成は、田沼意次の盟友であった沼津藩主水野忠友の養子となり、若年寄・側用人を歴任し、将軍家斉の側近でした。
c0187004_11451021.jpg これにより、忠邦は寺社奉行を命じられるとともに、唐津から浜松への転封を命じられました。
 左写真は浜松城です。
 この時の転封は、「三方領知替え」でした。
 浜松藩主井上正甫が陸奥国棚倉へ、唐津藩主水野忠邦が浜松へ、棚倉藩主小笠原長昌が肥前国唐津へ転封しました。

 これは、忠邦の運動によって行われたと言われていますが、浜松藩主井上正甫の懲罰という面もあります。
 文化13年(1816)、井上正甫は同僚である信濃高遠藩主の内藤頼以に招かれ、高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で遊びました。そして酔ったあまり、農家で留守番をしていた女房を犯してしましました。そこに戻ってきた夫に見つかり、夫は大いに怒って井上正甫を殴りつけました。
 近臣が農夫をなだめお金を与えて口封じをしましたが、やがて噂は江戸中に知れ渡り、正甫が登城の際は他に登城する大名の足軽らからからかわれたりしました。
 この事が幕閣にも知れ、正甫は奏者番を免ぜられ、棚倉藩に懲罰的な転封を命じられました。

 水野忠成は、水野忠邦を同族だからといって引き揚げただけでなく、忠邦が優秀であることを見ぬき昇進させたとも言われますが、これ以降、忠邦は水野忠成派の一人として出世していくことになりました。
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by wheatbaku | 2012-10-23 11:48 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
定信と築地市場(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 江戸文化歴史検定試験もいよいよ今度の日曜日となりました。
 受験される皆さんにとっては最後の一週間となりました。
 この一週間は総復習の一週間だと思います。
 一月から書いてきた「徳川将軍15代」関連の記事も松平定信まできましたが、総復習の一週間の時期に、新しい情報を提供するのも如何とは思いました。
 そう思いましたが、ここで止めるのも中途半端だと考え、今週一週間も従来同様に書いていくことにしました。
 受験される皆さん、今週は総復習に注力していただいて、私の記事は新聞のコラムを読むようなつもりでお読みください。

 今日も、松平定信の続きについて書いていきます。明日以降、水野忠邦について書いて「徳川将軍15代」は終了しようと思います。

c0187004_9403827.jpg さて、松平定信は、寛政5年(1793)7月23日老中ならびに将軍補佐役を辞職を申し出認められました。
 昨日書いたように光格天皇が実父典仁親王に太上天皇の称号を贈ろうとしたことに対して定信が反対しました。
 当時、将軍家斉は実父一橋治済を大御所に迎えようとしていましたが、これについても同じ理由で定信は反対しました。
 このことを将軍家斉は不興に思い、これが定信の老中解任に大いに絡んでいるといわれています。

 しかし、その他、いろいろな事情がありそうです。
 その一つが将軍家斉の実父一橋治済との対立です。
一橋治済は、定信が老中になる直前に当主のいなくなっていた田安家に治済の五男の慶之丞を養子として押し込みました。実兄の治察がなくなった際に、定信が当主になろうしましたが、それが実現せず、田安家は当主がいませんでした。
c0187004_940588.jpg その当主に、定信が戻るのを阻止した黒幕とも思われている一橋治済の子供がなるのですから、定信は良い気持ちがするはずがなく、治済とは溝が生じていました。
 家斉が将軍となった後、一橋治済は、隠居したうえで将軍の後見に専念し、できれば二の丸居住したいと考えたいたようです。
 定信はそれに反対し治済の願いは結局実現しませんでした。
 さらに一橋家に対する幕府からの拝借金の繰り延べ返済の実施など財政支援に対して制約を設けました。
 こうしたこたから定信に対して治済は不満を募らせました。この治済の気持ちは当然家斉にも伝わったと思われます。

 第二に大奥との対立があります。
 松平定信は、大奥にも倹約を指示しましたが、倹約を徹底するため、田沼政権時代から力を持っていた奥女中や留守居をはじめとする広敷役人を大幅に更迭しました。
 また、大奥の将軍への影響力排除のため、将軍を西の丸時代から育ててきた年寄高橋の姪於万が竹千代を生んだため、高橋の家斉への影響力が大きくなることを懸念して年寄高橋を排除しました。この高橋の排除は、大奥に対する倹約の貫徹の障害をなくすという側面もありました。
 こうして大奥に対する統制が強まる中で、当然のことながら、大奥の不満は強まることとなりました。
 また、馴染みの女中を排除されたことに対する家斉の定信に対する反感も強まったと言われます。

 最期に、改革に対する世間一般の不満があります。
 有名な次の狂歌が世間の不満を如実に表しています。
 白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
 その他、次のようなものもありました。
 孫の手の痒い所へ届きすぎ 足の裏までかきさがすなり
 こうした改革に対して様々な層から不満・批判がでてきた結果、松平定信は失脚することとなりました。
 
 定信は、老中解任後は、白河藩政に力をいれました。
 そして、文化9年(1812)嫡子定永に家督を譲った後は、築地の下屋敷浴恩園に住んで悠々自適の生活を送りました。
 浴恩園は、一万七千余坪の広さがあり、園内には春風池、秋風池、池を囲む築山などがあり、素晴らしい庭園だったといわれています。
 定信が悠々自適の生活を楽しんだ浴恩園は、現在の築地市場になっています。
 浴恩園のあった場所は、明治になって海軍省の敷地となり、関東大震災後は、日本橋から魚市場が移転してきて築地市場となりました。
 そのため、築地市場の正門近くの塀にに、その面影を刻んだ銅版画と教育委員会の説明板が設置されています。(右最上段と左中段の写真)

c0187004_9413177.jpg なお、定信が書いた「宇下人言」は定信の自伝ですが、その書名は、定信の定を宇と下に分け、信を人と言に分解したもので、まとめると定信の名前になります。

 文政6年(1823)に松平家は白河から桑名に転封になりました。桑名は、久松松平家にとって旧地です。この転封のためには、松平家から相当幕府に働きかけがされたと思われます。
この時の転封は桑名藩主松平忠堯を忍へ、忍藩主阿部正権を白河へ、白河藩主松平定永を桑名へ転封とする三方領地替えでした。

 有名な「楽翁」と名乗ったのは、文政9年からで、亡くなるまでの3年間のことでした。
 そして,文政12年5月13日になくなりました。72歳でした。
 墓は、深川の霊岸寺にあります。山門を入り、本堂西側の塀に囲まれた一画の中にあります。(右上写真)
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by wheatbaku | 2012-10-22 09:55 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
京都御所と尊号事件(江戸お題「徳川将軍15代)
 今日は、松平定信と朝廷との関係を書きます。
 9月に京都御所の参観に行ってきましたが、現在の京都御所は松平定信の造営した寛永2年度の御所をベースにしているとの説明がありました。

 御所は、定信が老中であった寛政2年(1790)に再建されていました。
 天明8年(1788)正月30日の京都で起きた火災は、京都の町の大部分を焼く大火で「天明の大火」と呼ばれるほどの大火でした。この大火で御所が炎上してしまいました。時の天皇、光格天皇はしばらく行在所を聖護院に置いていました。
c0187004_14343791.jpg 朝廷は、御所の再建にあたって、旧制に則った御所の再建を幕府に要求しました。
 従来から、御所の再建費用は、幕府が負担する必要がありましたが、その費用は多額になるため  定信は自ら京都に赴き、朝廷と交渉しました。
 そして、20万両を超える巨額な費用を投じて、寛政2年(1790)の秋、幕府の手によって御所が再建されました。

 その後、重大な問題が起きました。
c0187004_14345814.jpg それが「尊号事件」です。
 後桃園天皇が22歳で亡くなり嫡子がいなかったため、閑院宮家の兼仁親王が皇太子となり、光格天皇が安永9年(1779)に9歳で即位しました。
  閑院宮家がつくられたのは、宝永7年(1710)で新井白石の建言によるものでした。東山天皇の第6皇子直仁親王が閑院宮家の初代です。
 光格天皇は即位早々から、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に「太上天皇」の尊号を宣下したいと考えていて、寛永元年に、その意向が定信のところに届きました。
 幕府の定めた「禁中並びに公家衆諸法度」によれば、親王の地位は、右大臣、左大臣の下でしかありません。従って、閑院宮典仁(すけひと)親王は光格天皇の実父でありながら、公卿より下として扱われます。
c0187004_14353058.jpg 光格天皇はこれを嘆き、太上天皇の尊号を送ることにより解決しようと考えました。
松平定信は、典仁(すけひと)親王が皇位についたことがなく前例がないことを理由に拒否しました。
しかし、朝廷側は、寛永3年に、参議以上の群議をもとに尊号宣下実現を強硬に申し入れた。
 これに激怒した松平定信は、中山愛親・正親町公明を江戸に召喚し尋問し、中山愛親を閉門、正親町公明を逼塞の処分としました。
その結果、光格天皇も尊号の宣下を取りやめました。
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by wheatbaku | 2012-10-21 14:48 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
人足寄場と石川島(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 土曜日は出かけることが多いため、いつもは、ブログは休載としているんです。
 しかし、来週は、もう江戸検の試験日で受験する人たちは、お休みなどという状況ではないでしょう。
 そこで、今日は休まず、寛政の改革の内の人足寄場はについて書きます。

 七分積金と並んで民政上の功績としえ評価されている定信の政策に人足寄場があります。
c0187004_10482172.jpg 寛政2年(1790)に、無宿人に対して授産・更生の道をひらき、江戸市中から無宿人を一掃して治安の向上をはかるため、人足寄場を開設しました
 人足寄場は、高校の教科書でも出てくると思いますが、江戸大好きな人はご存じだと思いますが、テレビの「鬼平」で有名な火付盗賊改の長谷川平蔵の建議を受けて設置されました。
 長谷川平蔵は、江戸に集まってくる無宿人が犯罪の温床と考えました。そのため、無宿人対策が大切と考え建議したようです。
 石川島近くの1万6030坪の地を埋め立てて建設しました。後には、隣接する石川大隅守の屋敷1万6700坪が寄場に編入されています。
 設置当初は、設置を建議した長谷川平蔵が責任者として管理しましたが、寛政4年(1792)には任を解かれ、寛政6年には、人足寄場は町奉行の管理下に移されました。

 人足寄場に収容されるのは、無宿人のほか、入墨や敲きなどの処罰を受けた啓犯罪者のうち引き取り手のいない人々でした。
c0187004_10482984.jpg 人足寄場は、犯罪者の収容施設(いわゆる牢屋)ではありません。手に職を持たせて自立させようというのが本来の趣旨です。
 そのため、寄場内には手業場があり、大工や建具師の養成のほか、精米、紙漉(す)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい)製造、炭団(たどん)作りなどの作業を行わせました。
そして、その作業に対しては賃金が支払われました。そして、出所した時に正業につくための資金にするため賃金の3分の1は強制的に積み立てさせました。
 さらに、精神教育にの力が入れられ、中沢道二による石門心学の講義も行われました。こうした精神訓話により、出所後も、犯罪を起こさせないようにしようとしました。

 石川島に、現在、灯台が復元されています。右上写真は、佃大橋から見た石川島の遠景です。大きく写っている高層マンション群は大川端リバーシティ21です。左上写真が石川島灯台です。
 この灯台は、もともと、慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたものでした。

 赤印が石川島灯台です。 

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by wheatbaku | 2012-10-20 10:53 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
七分積金と和泉橋(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 寛政の改革は、文武振興や出版統制などの文教政策、物価の引下げや米価の調節など経済政策のほか、社会政策にも力が入れられています。
 
 社会政策では、飢饉に備え囲米制度をつくり各地に籾蔵(もみぐら)を設けるなど備荒貯蓄を行いました。
 その中で、江戸で行われた「七分積金(しちぶつみきん)」は、意外と知られていないので、今日は、この「七分積金」について書きます。
c0187004_1113884.jpg 江戸では、田沼意次政権の末期に天明のうちこわしが起きました。これにより松平定信政権が発足しましたので、定信にとって個人的にも印象深い事件でした。
 定信は、各地に囲米制度を作らせましたが、最も必要であったのは、大規模な打ちこわしが起きた江戸でした。
 そこで、寛政3年(1791)に、浅草向柳原に米蔵を建てて、江戸の町方人口を約50万人と見積もり、男25万人、女・子供25万人として、男一人に1日5合、女子供一人に1日4合として、30日分6万7500石を目標に米を蓄えることとしました。
 そして、その役所を「江戸町会所」と言いました。

 また、一方で、松平定信は、物価引き下げのため、家賃店賃を引き下げさせようとしました。
 家賃や店賃の引き下げは土地を借りている人や家を借りている人には喜ばれますが、地主や家持は収入が減って困ることになります。
 そこで、地主や家持が負担することとなっている町入用を減額させることにしました。
この提案を元に町々から町入用の節減見通しを提出させたところ総額で3万7千両が可能との回答が出されました。
 そこで、3万7千両のうち7分(しちぶ)にあたる2万6千両を毎年積立させることにしました。
 町方からの積立金だけでなく、幕府からは1万両の補助金が支出されました。
 これが、節約金額の七分(しちぶ)を積み立てることから「七分積金」と呼ばれました。
 そして、その積金で備荒米を買い入れていきました。

c0187004_11131573.jpg さらに、備荒米の買い入れ以外の金は、沽券状を担保に御家人や零細家持層に低利で貸し出され運用されました。

 この七分積金と町会所によって、多くの江戸市民は天保の飢饉やその他の大火、病気の蔓延、風水害の際に救われました。
 そして、幕府は財政が非常に厳しい中においても、莫大な積金や米穀を転用することなく、積金・米穀はあくまで市民のものとして保存され、明治新政府に引継がれました。引き継がれた際の残高は140万両にもなっていたと言われます。すごい金額ですね。
 その後、東京市によって、養育院の設立をはじめとする社会救済事業や、道路橋梁の営繕事業など、さまざまな方面に使用され、維新混乱の際の東京市民に対して大きな貢献をしたと言われています。

 JR秋葉原駅の東の昭和通りに和泉橋があります。(右上写真)
 その橋のたもとにに「柳原土手跡」の説明板(左上写真)があり、次のように書かれています。
 「『江戸名勝志』に“柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1km)つづけり。柳樹多くあり”とあり、昔このあたりは土手で柳の並木がありました。『柳森神社記』による長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。
 又享保(1976~35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。
 昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。
 寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てました。
 安政3年(1856)この籾蔵は葛飾群小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町家ができました。以下略

赤印が和泉橋です。神田川にかかる橋です。

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by wheatbaku | 2012-10-19 11:24 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
松平定信の文武振興策(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 松平定信といえば寛政の改革ということになります。
 寛政の改革を皮肉った次の狂歌は非常に有名です。

 「世の中に蚊(か)ほどうるさきものはなしぶんぶ( 文武)というて夜も寝られず」

 これは、寛政の改革のうちの特に文武振興策を皮肉ったものです。
 こう詠まれるほど、定信は、文武振興に力をいれました。

 では、なぜ、文武振興が必要だと考えたのでしょうか。
 松平定信は、田沼意次の時代には、武士が奢侈で怠慢な生活を送り、遊惰な風潮に染まっていたと考え、幕臣の士風刷新が必要と考えました。

 そこで、松平定信は次のような文武振興策を講じました。
c0187004_10344344.jpg まず「湯島の聖堂の充実」です。
 湯島の聖堂は、もともとは、上野にあった林家の私塾でした。
 その後、綱吉の時代に湯島に移転しました。(右写真は現在の湯島の聖堂です。)
 林家は幕府の儒者で、大学頭として聖堂で教えていました。しかし、享保8年(1723年)に林鳳岡が死去した後  には林家には優秀な人が出ず朱子学は衰え聖堂も無用の長物とされていました。
 そこで、松平定信は、聖堂を幕臣の教育センターとするため、天明7年(1787)に徳島藩の儒臣であった柴野栗山を聖堂付の儒臣とし、岡田寒泉、尾藤二洲も幕府の儒臣としました。

 そして、「寛政異学の禁」です。
 寛政2年(1790)5月24日朱子学以外の学問を教えることを禁止しました。
 朱子学が、風俗取締りを進める松平定信にとって都合がよかったと言われています。
 この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものでしたが、各藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学以外の学問を異学として禁じる傾向が一般化していきました。

そして、林家の私塾であった聖堂は寛政2年(1790)に幕府の正式は教育機関となり昌平坂学問所とよばれるようになりました。
c0187004_10491114.jpg さらに寛政5年(1793)に大学頭林信敬が死ぬと林家の血統が絶えたため、美濃岩村藩松平薀( のりもり)の三男乗衡(のりひら)に継がせ林述斎となりました。
 左写真は、聖堂内の入徳門で、宝永元年(1704)に建てられたものです。右下写真は聖堂内の仰高門です。

 また、寛政4年(1792)から旗本・御家人層を対象に「学問吟味」を実施しました。
 試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせることでした。また、官吏登用にも利用しました。
年少者を対象にした素読吟味も寛政5年から行われました。

 武については、武芸を励ますため、将軍の御前で武術を披露する上覧が毎年行われ、優れた武芸者には名誉が与えられました。

c0187004_10344785.jpg  このような文武振興政策を、改革早々に批判したのが有名な朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の黄表紙『文武二道万石通』と恋川 春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』です。
 朋誠堂喜三二は秋田藩の江戸留守居役であった平沢常富のペンネームで、幕府からの処罰をおそれた藩主の指摘により、それ以降、黄表紙から手を引きました。
 恋川 春町は倉橋 格(いたる)は駿河小島藩滝脇松平家藩士で、江戸藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けたと言われています。
 恋川春町は、幕府からの呼び出しに病気を理由に出頭せず、,間もなく死亡しました。そのため、自殺とする説もあります。

 松平定信の文武振興策の底流にも田沼憎しの考えがあるように感じますし、「寛政異学の禁」や改革への批判を封じるための出版統制などをみると、現代的に言えば、「リベラル」とは言えず、やはり「保守」の範疇にある政策なんだろうと思います。
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by wheatbaku | 2012-10-18 10:54 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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