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西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』⑨)

西郷隆盛の結婚(大河ドラマ『西郷どん』)

昨日の『西郷どん』第7回「背中の母」では、西郷家の悲劇が描かれていました。

 西郷隆盛は、嘉永5年に、あいついで家族を失っています。
 祖父の龍右衛門、父吉兵衛、母まさと、連続してなくなりました。

 26歳の西郷隆盛は、一家の責任のすべてを負うことになり、後年、「自分の一生で最も悲しかったのはこの年である」と追憶させるほどの年でした。

 

 さて、今回の『西郷どん』では西郷隆盛の結婚も描かれているので、今日は西郷隆盛の結婚の話をさせてもらいます。

西郷隆盛は三度結婚をしています。

 最初の妻が、伊集院兼寛の娘です。『西郷どん』で「須賀」で呼ばれていましたが、記録として名前は残っていないようです。

 西郷隆盛と結婚して、間もなく、次々と義理の父と母がなくなり、「須賀」」も大変だったと思います。さらに、西郷隆盛には大勢の弟や妹がいましたので、これらの小姑や小姑を相手にしたのですから、「須賀」の苦労が思いやられます。

 そのため、しばらくしてから、伊集院家から離縁の申し出があり、西郷隆盛はそれを受けざるをえませんでした。

 心優しい西郷隆盛は、のちのちまでこのことを気にかけていたそうです。

二番目が、西郷隆盛が、奄美大島に流されていた時の妻「愛加那」です。

『西郷どん』でも描かれると思いますが、西郷隆盛は、安政の大獄が始まると、幕府からの追及を逃れるため、薩摩藩は、西郷隆盛を奄美大島に島流しにします。

 この時、島妻となったのが「愛加那」です。「愛加那」とは穏やかな生活を送り、子供を2人もうけました。男の子が、明治になって京都市長となった菊次郎です。

 女の子は、菊子と名付けられています。

 西郷家は、肥後国の豪族菊池氏の子孫という伝承があるため、西郷隆盛は奄美大島では菊池源吾という変名を使っていました。子供の命名も菊池氏から菊の一字をつけたといわれています。

 しかし、西郷隆盛が、許された薩摩に戻った際に、「愛加那」は薩摩についていけませんでした。それが、当時の島妻のしきたりだったようです。
 子供たちは、のちに鹿児島の西郷家に引き取られています。

なお、林真理子の「西郷どん」の冒頭は、西郷菊次郎が京都市長に着任する場面です。



 三番目の妻が、『西郷どん』でしばしば登場している岩山糸子です。

 西郷隆盛と岩山糸子との結婚は、ずっ~と後の慶応元年のことで、西郷隆盛は39歳の時でした。

 岩山糸子は、岩山直温の次女として生まれました。そして、一度結婚をしていましたので、糸子も再婚ということになります。

 糸子との間には、3人の男の子を授かりました。

 寅太郎、午次郎、酉三です。それぞれ、生まれた年の干支が使用されているのでわかりやすい命名です。

 このうち、寅太郎が、西郷隆盛の嫡男となりました。

奄美大島で生まれた菊次郎のほうが年上ですが、庶子であったので寅太郎が嫡男となったようです。

 この寅太郎の子供が、参議院で法務大臣も務めた西郷吉之助氏です。

 現在も、田町にあるNEC本社の敷地内に「薩摩屋敷跡」と書かれた石碑がありますが、この文字を書いたのが西郷吉之助氏です。

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by wheatbaku | 2018-02-19 10:50 | 大河ドラマ | Trackback
ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』⑧)

ジョン万次郎と薩摩(大河ドラマ『西郷どん』)

 『西郷どん』の第6回は「謎の漂流者」でした。タイトルの漂流者とは、ジョン万次郎のことでした。

そこで、今日は、ジョン万次郎と薩摩の関係について書いていきます。
 下写真は、雑司ヶ谷霊園にあるジョン万次郎のお墓です。
 墓表には中濱萬次郎を刻まれています。

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ジョン万次郎は、多くの人が御存知の通り、15歳の時に漁に出たところ暴風雨にあって遭難し、伊豆七島の一つ鳥島に流れつき、アメリカの捕鯨船にすくわれ,アメリカで教育を受け、捕鯨船の船員として暮らしていましたが、望郷の念が抑えきれず、ついに帰国することにします。

 そこで、ハワイで、上海行きの商船「サラ・ボイド号」に漁師仲間2人と共に乗り込みました。

嘉永4年(185112日、琉球近くまで来た段階で、琉球への上陸をめざし「アドベンチャー号」という小船に乗りこみ商船を離れました。

 翌日お昼頃、万次郎たちの乗ったボートは、無事、琉球の摩文仁の海岸に到着しました。

 海岸には、村人たちがいたので、比較的日本語を覚えていた漁師仲間の伝蔵を先頭に上陸しましたが、見慣れない姿の人間に驚いた村人の中でも、3人の日本語を理解した人がいて、ようやく話が通じました。

上陸した3人は、番所で簡単な取り調べを受け、那覇に送られることになりましたが、那覇の手前で、翁長(おなが)に留まることになりました。

翁長では、琉球王朝の役人による尋問が行われた後で薩摩藩の取り調べが行われました。

万次郎たちがいた屋敷の周りには竹囲いがされ軟禁状態でした。

しかし、待遇は非常に良くて、地元の人たちのとの交流も盛んに行われたようです。

『西郷どん』では、西郷家の人たちが、万次郎を歓待している場面がありましたが、あのような歓待ぶりだったのではないでしょうか。

そして、ジョン万次郎たちは、711日に那覇に行き薩摩に向かいました。

翁長には、約6か月滞在したことになります。

薩摩の山川港には、730日に到着し、翌日鹿児島に入港しました。

西田町下会所が宿舎とされました。

この段階までに、ジョン万次郎たちのことは、島津斉彬に報告されていて、島津斉彬からは丁重に処遇するよう指示がでていました。

万次郎は、島津斉彬からも呼び出されて、外国の事情を聞かれたこともありました。

『西郷どん』で描かれたいた通りだったと思います。

薩摩藩では、万次郎のもとに船大工たちを通わせ、「アドベンチャー号」や万次郎の情報を元に、洋式船のひな形を造りました。

このひな形をもとに薩摩藩では、試験的に日本初の小型洋式船をつくりました。この船は「越渡船(おっとせん)と呼ばれ、越通船は湾内での輸送用に使われました。

こうした、万次郎たちは、48日間、薩摩に滞在し厚遇された後、918日に長崎に送られました。

万次郎たちは、長崎でも取り調べを受けましたが、鹿児島での待遇とはうってかわり、罪人として牢屋に入れられました。

しかし、長崎での取り調べの最後に踏絵が行なわれ、万次郎たちは、帰国が許され無罪放免となり、嘉永56月に土佐藩に引き渡されました。

その後、万次郎は、土佐藩での取り調べも無事終わり、嘉永5105日、母親と無事再会を果たしました。

今回、ジョン万次郎を演じたのは劇団ひとりさんですが、たった1回の出演のため、劇団ひとりさんが演じるはずはないと思います。

ジョン万次郎は、のちに薩摩藩の開成所の教授となって、薩摩藩士の教育指導にあたっていますので、『西郷どん』では、西郷隆盛と再会場面があるのではないかと思います。



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by wheatbaku | 2018-02-12 18:59 | 大河ドラマ | Trackback
島津斉彬、初のお国入り(大河ドラマ『西郷どん』⑦)

 島津斉彬、初のお国入り(大河ドラマ『西郷どん』⑦)

『西郷どん』第5回「相撲じゃ!相撲じゃ!」では、島津斉彬がようやく藩主に就任し、初のお国入りを果たしたエピソードが描かれていました。

 そこで、今日は、島津斉彬の初のお国入りについて書いていきます。

島津斉彬は、嘉永4年(1851)2月2日に無事に薩摩藩主に就任しました。

そして、就任後まもない3月9日に江戸をたち、5月8日、藩主として初めてお国入りしました。

島津斉彬は、安政5年(1858)7月16日に亡くなっていますので、約7年間、藩主の座にありました。

その間、3回、薩摩にお国入りしていますが、嘉永4年のお国入りした際がもっとも長期間で嘉永5年8月23日に出発するまで、約1年4か月、薩摩に滞在しました。

その滞在期間中に、新藩主として、民生・勧業・造船・洋式産業など様々な施策に着手しています。

島津斉彬は、緊迫する海外情勢をみて、軍備の近代化が不可欠と考えていました。

そこで、嘉永4年には、洋式帆船をつくりはじめます。

これが実って、安政元年には、「伊呂波丸」と名付けられた洋式帆船が建造されました。

この技術をもとに、嘉永6年5月には軍艦の建造に着手することになります。

これが安政元年(1854)に完成し、安政2年には幕府に献上され「昇平丸」となります。

また、嘉永4年冬には、反射炉の雛形を作り始め、翌年夏には完成しています。

この反射炉は小型であったため温度が不十分で失敗でした。

そこで、斉彬は、磯邸に大反射炉を築造するよう命令し、嘉永6年に完成しました。

この反射炉築造をきっかけとして、磯邸に、近代的な工場群「集成館」ができることになります。

こうした新政策を進める一方で、島津斉彬は人事問題にほとんど手をつけませんでした。

島津斉彬の藩主就任にあたっては、お由羅騒動で、多くの藩士が切腹を命ぜられ遠島処分となりました。

斉彬が藩主に就任したからには、切腹を命じられた人たちの名誉回復や遠島処分になった人たちのご赦免があり、お由羅側にたった人たちの処分があるものと多くの藩士が思いました。

これらのことは「西郷どん」に描かれていた通りです。

しかし、斉彬は、こうした人事には手をつけませんでした。

これに対する、斉彬擁立を願った藩士からは不満が出るのは当たり前です。

このように、斉彬が人事に手をつけなかったのは、前藩主斉興の影があったからのようです。

お由羅騒動の処罰者が、許されるには、さらに数年が必要でした。大久保利通の父治右衛門が許されたのは安政2年(1855)のことになります。

なお、「西郷どん」に、北川景子さん演ずる「於一(おかつ)」(後の篤姫)が出ていました。

 於一(おかつ)は、島津家の分家である今和泉島津家の島津忠剛の長女として生まれました。

 島津忠剛は島津斉興の弟ですので、於一(おかつ)は島津斉彬の従妹ということになります。

 『島津斉彬』(芳即正著)によれば、12代将軍家慶の御世継家定の継室を、島津家からお願いしたいという話が将軍家からありました。

しかし、島津本家には、適当な女性がいませんでした。そこで分家の今和泉家の於一(おかつ)に白羽の矢があたり、於一(おかつ)を将軍家に輿入れさせようという話は、斉彬が初のお国入りをしたころに決まったようです。

 ただ、於一(おかつ)が、正式に島津斉彬の養女になるのは 嘉永6年のことです。
 「西郷どん」で描かれた時期よりは、もう少し後のことになります。



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by wheatbaku | 2018-02-06 17:43 | 大河ドラマ | Trackback
島津斉彬の藩主就任(大河ドラマ『西郷どん』⑥)

 島津斉彬の藩主就任(大河ドラマ『西郷どん』⑥)

 

日曜日の『西郷どん』第4回「新しき藩主」では、いよいよ島津斉彬が新藩主となりました。

 『西郷どん』では、島津斉彬が新藩主になるにあたり、島津斉興との勝負にロシアンルーレットが利用されています。こんなやり取りがあったのかどうかわかりませんが、ドラマとしては、おもしろい場面でした。

 しかし、多くの本では、島津斉彬が新藩主になるにあたっては、福岡藩主黒田斉溥の支援があったと書いてあります。

 そこで、大河ドラマの展開とは少し異なりますが、お由羅騒動で、斉彬派の藩士が多く罰せられるなかで、どのように斉彬は巻き返していき新藩主となれたのかについて、『島津斉彬』(芳即正著)を参考に書いていきます。

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 「お由羅騒動」は、「高崎崩れ」や「近藤崩れ」とも呼ばれます。処罰された斉彬派の藩士の中心人物が船奉行高崎五郎右衛門や町奉行近藤隆左衛門であったためです。

 嘉永2年(1849)12月3日に、船奉行高崎五郎右衛門や町奉行近藤隆左衛門が藩の評定所からの呼び出しを受けた際に、鹿児島城下の諏訪神社の神官井上正徳に、福岡藩主黒田斉溥に訴えて善後策を立てるよう依頼しました。

 黒田斉溥は、島津重豪の十三男として生まれ、福岡藩主黒田斉清の養子となり、天保5年(1834)に福岡藩主になっていました。

島津斉彬にとっては大叔父ということですが、斉彬より2歳年下でしたので、兄弟同様な仲であったといいます。

 

 嘉永2年12月4日に脱藩し福岡に亡命した井上正徳ら4人は、福岡に到着早々、藩主黒田斉溥宛に嘆願書を提出しました。

 嘆願書を見た黒田斉溥は、島津斉彬に連絡するとともに井上を保護しました。

その後も、薩摩藩士が脱藩して福岡に亡命してきたため、それを保護するとともに老中阿部正弘にも事情を報告しました。

その一方で、翌嘉永3年(1850)5月1日に江戸にいる宇和島藩主伊達宗城に、事件の処理を依頼しました。

伊達宗城の夫人の母親は、斉彬の母周子の姉でしたので、伊達宗城は島津斉彬とは義理の従兄ということになります。

これを受けて伊達宗城は6月2日と11日に阿部正弘と対談し、薩摩藩の状況を報告しています。

こうした報告を受けて、阿部正弘は、島津斉興は隠居しなければならないと思うと述べてようです。

8月には、中津藩主奥平昌高や八戸藩主南部信順ら親族大名が集まり協議しますが、島津斉興に引導を渡せる適当な人物がおらず隠居勧告できず、10月に出府してきた島津斉興に対して、ようやく「、11月、南部信順を通じて、阿阿部正弘が隠居勧告の意向を伝え、12月3日に、江戸城に登城した際に、将軍から赤衣肩衝(あけのころもかたつき)という茶入を下賜されました。

これは表向きは「ご苦労様」という賞賛ですが、武将に茶器を下賜するのは「引退しろ」という謎かけでした。

しかし、島津斉興は、従三位昇進の願いがダメになることを怖れて、すぐには隠居願いを出しませんでした。

 翌嘉永4年(1851)年正月になって、隠居後も従三位に昇進した例があるとの連絡が京都からあり、やっと島津斉興は隠居願いが出されました。

 高崎崩れが起きてから1年以上たって、ようやく島津斉彬は藩主となりました。


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by wheatbaku | 2018-01-30 14:48 | 大河ドラマ | Trackback
お由羅騒動(大河ドラマ「西郷どん」⑤)

お由羅騒動(大河ドラマ「西郷どん」⑤)

 『西郷どん』第3回「子供は国の宝」では、調所広郷が服毒自殺しました。

 「お由羅騒動」の始まりです。

お由羅騒動は、幕末の薩摩藩で起きたお家騒動で、嘉永朋党(かえいほうとう)事件、近藤崩れ、高崎崩れともいわれています。

 今日は人物叢書『島津斉彬』(芳即正著)を参考に、お由羅騒動について書いていきます。

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藩財政立て直しのため抜擢された調所広郷によって、薩摩藩の財政改革が成功しました。

しかし、曽祖父重豪に似て蘭学に強い関心をもち、洋式軍制を取り入れようとする斉彬が藩主に就任すると、藩財政が悪化すると危惧した斉彬の父島津斉興と調所広郷は、斉彬の藩主就任に消極的でした。

そうした中で、斉彬の藩主就任を望んでいた老中阿部正弘が、琉球に駐留している薩摩藩兵の数に嘘があることを知り、さらに薩摩藩が密貿易を行っていることも探知し、それを根拠に島津斉興の引退を求めました。
 そこで、調所広郷は、島津斉興に累が及ばないようにするため、調所広郷は密貿易の責任を取り服毒自殺しました。これは『西郷どん』に描かれていました。

それに続き、薩摩藩内の調所派も処分も行われました。

こうしたことについて、人物叢書『島津斉彬』には「島津斉彬は、側近への手紙で、万事が斉彬らの計画通りに進んだと書く。(中略)斉彬の念願した調所追放はこうして幕府権力の介入という形で実現したが、それはあきらかに斉興隠居をみすえた動きで、当然斉彬の藩主就任とむすびつく。すなわち斉彬は琉球外交問題をきっかけとして斉興隠居工作を積極的に展開し、第一関門を突破したのである。」と書いてあります。

嘉永元年(1848)に斉彬の次男寛之助、そして嘉永2年(1849)三男篤之助と斉彬の子が相次ぎ没しました。

これは、島津斉興の側室お由羅が呪詛調伏(じゅそちょうぶく)したものだという噂が広がりました。

呪詛調伏したとされる側室お由羅は、船宿または大工の娘で江戸生まれと言われています。20歳ごろに側室となり、久光以下3人の子供を産んでいます。斉興の正室周子(斉彬の母)が亡くなった後は、正室同様にふるまっていました。

そのお由羅が呪詛調伏しているという噂に斉彬派の家臣は怒りました。

島津斉彬自身にもお由羅が呪詛調伏しているという情報が伝えられていて、お由羅を闇討ちにでもしたらよかろうと思うほどだと家臣への密書に書いているそうです。

こうした状況の中で、島津斉興によって、嘉永2年、町奉行近藤隆佐衛門、船奉行高崎五郎右衛門、鉄砲奉行山田清安らが切腹させられました。
 翌年には3人の遺体が掘り返されて磔刑、鋸刑(鋸びきの刑)にされるなど徹底した処罰が行われました。

この騒動で処罰されたのは、切腹13名、病死1名、自殺1名、遠島17名、その他の処罰をあわせて総計約50名にもなりました。

切腹したものの中には、西郷隆盛・大久保利通の先生であった赤山靱負がいます。

また、大久保利通の父大久保治右衛門も遠島処分となり、大久保利通自身も免職となっています。これらは、次回の『西郷どん』で描かれることになるのだと思います。

お由羅騒動は、側室お由羅が、自分の子供の久光を藩主としようとしたために起きたお家騒動で、お由羅が張本人で悪女のように伝わっていて、私もそうだろうと思っていました。
 しかし、『島津斉彬』(芳即正著)を読むと、島津斉彬は「幕末の名君」と評価されていて、西郷隆盛などは神格化しているため、伝記類もあまりなかったそうです。
しかも、お由羅騒動に関して残された資料も斉彬派のものばかりだそうです。

こうしたことを知ると、お由羅騒動は、久光を担ぐお由羅と斉彬の戦いではなく、長く藩主に留まりたいと思っている父斉興と早く藩主になりたい斉彬との戦いだったとも思いますし、斉彬派によって、お由羅は実像以上に悪女にされている面もあるかもしれないと感じました。


人物叢書『島津斉彬』で、芳即正先生は、

これまで斉彬が山口(斉彬の家臣)らに出して密書をよむと、藩士層を刺激し扇動したとも思える面があったことは事実である。その点斉彬の事件発生に対する責任は避けることはできないといえよう。むしろはやくから調所政権の破滅をはかり、それに連動して斉興引退をもくろんでいたのは斉彬だと考えられることから、この事件の仕掛人は斉彬だといっても言い過ぎではない。

と斉彬に手厳しく書いています。


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by wheatbaku | 2018-01-24 20:26 | 大河ドラマ | Trackback
薩摩藩の偽金(にせがね)造り(大河ドラマ『西郷どん』④)

薩摩藩の偽金(にせがね)づくり(大河ドラマ『西郷どん』④)

調所広郷が、偽金づくりまで手を出したと前回書きました。

これらは、『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』(佐藤雅美著)や中公新書『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)に書かれている話です。

 「薩摩藩の偽金づくりとは面白い!」、「薩摩藩もすごいことをやるなぁ!」と思いました。

 そこで、この薩摩藩の偽金づくりが本当であったのか、調べてみました。

 まず、人物叢書『調所広郷』(芳即正著)を読んでみました。

この本は幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)の研究をさらに進めたとされている名著ですが、調所広郷が偽金づくりをしていたとは一言も書いてありませんでした。

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そこで、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜著)を読みました。

この本に、薩摩藩の偽金づくりがどのように行われていたか詳しく書いてありましたので、『偽金づくりと明治維新』を参考に、薩摩藩の偽金づくりについて書いていきます。

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『幕末の薩摩』では、次のように、島津斉興と調所広郷が偽金造りを行ったと書いています。

 貨幣に不自由しきった斉興と調所は、大胆にも偽金造りを始めた。鹿児島花倉に、「御金方の跡」という化物屋敷がある。(中略)天保4,5年のころ、斉興は鹿児島の花倉に別邸を営んだ。世人これを花倉お仮屋とよんだが、落成後斉興が一夜泊ったところ、“天狗喝(おど)し”といってさまざまな怪異が起こった。そこで急に御仮屋を廃して、新たに玉里に代わりの別邸を営み、その(お仮屋)あとを「御金方」にしたと伝えられる。

偽金造りも密貿易も同様国禁であるから記録が残るわけがない。しかし調所の死後も相当大規模に続けていた。


そして、『調所笑左衛門』(佐藤雅美著)でも、偽金作りを準備する場面が描かれています。

しかし、『偽金づくりと明治維新』(徳永和喜著)によれば、芳即正氏が、『随筆かごしま号』で、次のような趣旨のことを書いているそうです。

花倉御殿が存在したのは弘化4年(1847)から文久3年(1863)であって、天保年間には、花倉御殿はなかったから、原口虎雄氏の花倉での偽金作りは、文久2年に、磯鋳造所で開始した琉球通宝鋳造と誤解したのではないか 

 しかし、徳永和喜氏は、慶応年間にも偽金が作られていたとして、芳即正説では、薩摩で「天ぷら金」と呼ばれている二分金の偽金が作られていたことを見落としていると指摘しています。

 つまり、徳永和喜氏によれば、幕末の薩摩藩では、偽天保通宝と偽二分金が造られたそうです。

  

さて、琉球通宝というは、文久23月、当時薩摩藩の支配下にあった琉球救済を名目に幕府に3年の期限付きで鋳造する許可を正式に得て発行された貨幣です。

ところが、琉球通宝は幕府の許可をえたものですが、薩摩藩では、琉球通宝を鋳造する技術を利用して偽の天保通宝を大量に鋳造したと言われています。

次の写真は、『偽金づくりと明治維新』の裏表紙ですが、左が琉球通宝、中央が正式な天保通宝、右が薩摩藩が作った天保通宝だそうです。

これをみると琉球通宝の「琉球」部分を『天保』に替えれば、偽の天保通宝が容易に造れただろうと想像することができます。

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また、「天ぷら金」というは、薩摩藩が作成した二分金の偽金で、本来の二分金は金と銀の混合比率が金22パーセント、銀78パーセントですが、「天ぷら金」は、金メッキした銀でした。

『偽金づくりと明治維新』によれば、これらの偽金づくりを主導したのは小松帯刀と大久保利通であったとしています。
 



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by wheatbaku | 2018-01-17 20:16 | 大河ドラマ | Trackback
調所広郷(大河ドラマ「西郷どん」③)

調所広郷(大河ドラマ「西郷どん」③)

「西郷どん」の第2回は、もう西郷隆盛役が鈴木亮平さんになっています。

早い展開でいいですね。というより、西郷さんの小さいころのエピソードがあまりなかったのではないでしょうか。

 さて、第2回「立派なお侍」では、薩摩の百姓が大変貧しいということが描かれていましたが、貧しかったのは百姓だけではありませんでした。武士も貧しく、薩摩藩自体も大変貧しい藩でした。

その薩摩藩を救ったのが、竜雷太さんが演じていた調所広郷です。

そこで、今日は、調所広郷について書いていきます。

 調所広郷について書いた本の中で、お勧めは小説『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』(佐藤雅美著)です。

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 その『調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚』も参考にしていると思われる名著が中公新書『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』(原口虎雄著)です。

 調所広郷について初めて正当に評価した本とされています。
 これらの本を参考に、調所広郷について書いていきます。

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調所広郷は、ともかく「500万両を踏み倒した人物」として有名です。

しかし、幕末の回天を実現できたのは、調所広郷が天保の改革で、薩摩藩の財政改革と成功させたからだと言われています。

それほど、功績のある調所広郷ですが、島津斉彬の藩主就任を抵抗した人物として、あまり評判は良くないようです。

調所広郷は、鹿児島城下の下級武士川崎家の次男として生まれました。

のち調所清悦の養子となりました。寛政10(1798)に江戸で藩主島津斉宣の奥茶道方となり、隠居した前藩主重豪(しげひで)の側に仕える茶坊主となり笑悦と名乗りました。

のちに茶道頭となったのち、小納戸勤めとなり、蓄髪して笑左衛門と改名しました。

調所広郷は、前藩主島津重豪付きの茶坊主として重豪にお気に入られ、出世していき御側用人(おそばようにん)となりました。

薩摩藩では島津重豪の蘭癖や、重豪の娘茂姫が11代将軍の正室となっていたことなどからとかく物入りで、文化4年(1807)に126万両であった借金は、どんどん増加していきました。

そして、文政10年(1827)調所広郷は、島津重豪から財政改革を託されましたが、その時の薩摩藩の借金は500万両の巨額に達していました。

その対策として、奄美大島、徳之島、喜界島三島の砂糖専売政策をとり、三島砂糖の自由な売買を厳禁し、生産された砂糖をすべて薩摩藩が買い上げ、違反した者は死刑などの極刑が課せられました。

買い上げ代金は金銭でなく現物で交換され、黒糖についても島民の日用品と交換する仕組みで、それを大坂市場価格の4分の1ぐらいで引き取った。

さらに、琉球を通して清との貿易を幕府に許してもらうほか、蝦夷地産の昆布などの密貿易を行うなどして、利益をあげていきました。

さらに、調所広郷は、贋金づくりにまで手を染めています。

こうした政策をとって収入を安定させたうえで、天保6年(1835)大坂・京都の銀主に対しては藩の借金500万両を25年で返済するという実質借金踏み倒しを言い渡し、債務整理を強行しました。

調所広郷といえば、この500万両の借金の踏み倒しが有名ですが、一度借金を踏み倒せば、次のお金に困った時には絶対借金ができなくなるので、安易に借金踏み倒しができるわけではありません。

ですから、調所広郷が財政改革を任せられて、すぐに借金踏み倒しを実行したわけではなく、周到な準備をしたあとで、断行したことに留意しておく必要があるように思います。

この借金踏み倒しで、大坂の両替商たちから大坂の町奉行に訴訟が起こされていますが、調所広郷自身は、処罰されることはありませんでした。

こうしてみごとに財政改革に成功し、天保末期には藩庫に備蓄された金50万両のほか、貧窮の際にはまったく手が付けられなかった藩邸などの修理や営繕を行ない、その費用は200万両余に達したといいます。

こうした財政改革の功により家老となり、島津斉興を助けました。しかし、嫡男島津斉彬とは意見があいませんでした。

今後、「西郷どん」でも、史実通り、島津斉彬とは対立を深めていく展開になるものと思います。


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by wheatbaku | 2018-01-15 23:28 | 大河ドラマ | Trackback
西郷隆盛銅像(大河ドラマ『西郷どん』②)

 西郷隆盛銅像(大河ドラマ『西郷どん』②)

 「西郷どん」の冒頭は、西郷隆盛の銅像の序幕式の場面からスタートしました。

 そこで、今日は、上野の西郷隆盛の銅像について書きます。

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 西郷隆盛は、西南戦争を起したため、朝敵とされていましたが、明治22年に大日本帝国憲法が発布された際に大赦が行なわれ正三位の追贈が決定したのを期に、銅像建立の動きが本格化しました。その中心となったのが西郷隆盛の親友の吉井友実です。 

 西郷隆盛の銅像が上野公園に建てられるには紆余曲折がありました。

西郷隆盛の銅像は、当初、皇居外苑に設置したいという計画もありましたが、最終的に上野公園に建てることとなりました。

服装も、当社は陸軍大将の軍服を着た銅像が検討されましたが、最終的には、現在のような服装となりました。

西郷隆盛の銅像の除幕式は明治311218日に時の総理大臣、山県有朋、勝海舟、大山巌、東郷元帥等800名が参加して盛大に行われました。

その除幕式でこの像を見た西郷の妻である糸子は、「うちのひとはこんなひとじゃなかった」とつぶやいたといわれています。

これが「西郷どん」の冒頭場面です。 

このつぶやきは、西郷隆盛の顔が違うという意味だとも、人前に着流しででることはなかったという意味だとも言われています。

さて、この西郷隆盛の銅像は散歩をしているように見えますが、実は散歩をしている姿ではありません。

これは、愛犬をつれ、腰に兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿です。
 下写真は、腰まわりの拡大写真ですが、帯に兎を捕るための罠がはさんであるのがわかるでしょうか?

c0187004_13573639.jpg

この姿は大山巌が思いつたそうです。

軍服姿ではなく、こうした姿であるため、逆に庶民的になったともいえると思います。

西郷隆盛の銅像は、高村光雲により作られたと思う人が多いようですが、実は二人によって作られています。西郷隆盛は高村光雲、犬のほうは後藤貞行が作成したものでうす。

また、西郷隆盛の銅像は、東京三大銅像の一つに数えられています。

三大銅像とは、西郷隆盛の銅像のほか、靖国神社の大村益次郎像、 皇居外苑の楠木正成像です。

皇居外苑の楠正成像も高村光雲と後藤貞行のコンビで作られていて、大村益次郎の銅像は大熊氏広によって作られています。



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by wheatbaku | 2018-01-11 13:28 | 大河ドラマ | Trackback
第1回「薩摩のやっせんぼ」(大河ドラマ「西郷どん」①)

第1回「薩摩のやっせんぼ」(大河ドラマ「西郷どん」①)

いよいよ「西郷どん」が始まりました。

久しぶりの江戸がらみの大河ドラマですので、今年は「西郷どん」についても、このブログで書いていこうと思います。

c0187004_10013629.jpg

昨日は、西郷隆盛の少年期における島津斉彬との出会いが重要な場面ですが、この時期に西郷隆盛は島津斉彬とは巡り会っていないようですので、フィクションとして楽しませてもらいました。

西田敏行さんのナレーションで「この年、島津斉彬が薩摩に居たという記録はありません。小吉があったのは天狗だったのか、影武者だったのか、それとも・・」と非常に良心的なコメントをいれてあるのが印象的でした。

さすが時代考証に原口泉先生が入られているだけに、丁寧に作られているという印象で、今後のドラマの展開が楽しみとなりました。

西郷隆盛は、文政10年(1827)鹿児島の下鍛冶屋町で生まれました。

この下鍛冶屋町で生まれた西郷隆盛と同世代の人々が、のちに幕末から明治にかけて大活躍します。

そこで、今日は、どんな人々が、同じ下鍛冶屋町で生まれ育ったのか、『評伝西郷隆盛』(安藤英男著)『図解でわかる西郷隆盛』(木村武仁著)を参考に紹介しようと思います。

まず、なんといっても大久保利通です。いうまでもありません。西郷隆盛の盟友で、西郷隆盛とともに維新三傑に数えられていますし、「西郷どん」でも重要は役回りとなるようです。

大久保利通の号は、「甲東」といいますが、これは、下鍛治屋町の脇を流れる甲突川の東という意味だそうで、育った下鍛冶屋町に愛着を感じていた証拠のように思えます。なお,大久保利通は生まれたのは、下鍛冶屋町の対岸の高麗町です。

大山巌は、西郷隆盛の従兄弟です。幕末には砲術家として活躍し「弥助砲」という大砲を考案したりしています。明治になっては、日露戦争の際に満州軍総司令官となるなど陸軍で活躍しました。

日露戦争で、陸で活躍したのが大山巌であれば、海は東郷平八郎ということになりますが、いうまでもありません。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令長官です。この東郷平八郎も下鍛冶屋町で生まれ育っています。

西郷隆盛の隣家に住んでいたのが、吉井友実です。吉井友実は、西郷隆盛の大親友です。明治になって宮内次官となり明治天皇のそばで仕えました。上野の西郷隆盛の銅像建設にあたっては、中心人物として東奔西走しました。

西南戦争で、西郷隆盛に従って一緒に戦った篠原国幹と村田新八も、同じ下鍛冶屋町出身です。

その他、明治元年の会津戦争の際に新政府軍の参謀として活躍した伊地知正治も、同じ町内で育ちました。また、日露戦争の際に、第一軍司令官として活躍した黒木為楨もここで育ちました。

このように明治になって日本を動かした人々が、下鍛冶屋町の郷中で切磋琢磨しつつ、育っていきましたが、西郷隆盛は年長でしたので、西郷隆盛を中心に強い絆が結ばれていきます。

これが、のちに2回の島流しにあうという悲運にあいながらも、西郷隆盛が復活するエネルギーとなっていったようです。


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by wheatbaku | 2018-01-08 09:55 | 大河ドラマ | Trackback
「花燃ゆ」第25回「風になる友」(大河ドラマ)

 昨日の「花燃ゆ」は、8月18日の政変後、長州藩が冤罪をどうはらすかという動きが描かれていて、その中で起きた池田屋事件で死亡した吉田稔麿が中心人物でした。
 そこで、今日は池田屋事件について書いてみます。
 池田屋事件は、幕末の重要な事件でしたので、幕末を描く際には、ほとんどもれなく描かれています。
 大河ドラマ「新撰組」で描かれていたのは当然として、「龍馬伝」「八重の桜」でも描かれています。
 それほど幕末における重要な事件だったわけです。

 池田屋事件は、元治元年(1864)6月5日に起きました。
 先日、祇園信仰について書きましたが、江戸時代、祇園祭は6月7日に行われていましたから、祇園祭のムードが高まる中で起きました。

 吉田稔麿は、池田屋で襲われた仲間を助けるために池田屋に戻る途中で殺されるというストーリーでした。
 吉田稔麿は、池田屋での会合中に新選組に襲われたが、何とか脱出して長州藩邸までたどり着きますが、門が閉じられていたため自刃したという風に書いたものが多いのですが、昨日は、ちょっと違う描き方でした。

c0187004_09575778.jpg 吉田稔麿がどのような経緯で死んだのかというのは諸説がありますが、昨日の「花燃ゆ」の展開に近いと思われる説を書いてあるのが中村武生氏の「池田屋事件の研究」です。「池田屋事件の研究」によると 当時の長州藩の京都留守居役乃美織江が書いた「乃美織江覚書」では、池田屋事件当日、吉田稔麿が白帷子に黒羽織の服装をして外出したと書かれていて、事件の翌日、藩邸付近で白帷子・黒羽織を着用した吉田稔麿らしい人物が発見されたので、ただちに遺体を藩邸内に収容したと記されているそうです。

 また、吉田稔麿が定宿としていた塩屋から稔麿の叔父に送られた手紙によれば、事件の起きた当日早朝から、吉田稔麿は池田屋にいて、一旦長州藩邸に戻った後、新撰組に襲われ、長州藩邸近くの加賀藩邸の前で殺害されたと書いてあるようです。

 こうしたことから、中村武生氏は、吉田稔麿は、池田屋から逃げてきて長州藩邸まで戻ったが藩邸の門が閉ざされていたので、そこで自刃したのではなく、加賀藩邸前で殺害されたのだろうと書いています。

 この殺害されたと思われる場所である河原町御池交差点南西側に、平成25年11月に「「此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と書かれた石碑が建てられたそうです。
 これが、ドラマの最後に「花燃ゆ紀行」に紹介されていました。
 この碑は、まだ、見たことないので、7月に京都に行った際にはできれば見てこようと思います。
 
 最後に、「池田屋事件の研究」には、池田屋事件の際の桂小五郎の行動も書かれていますので、紹介しておきます。
 池田屋事件の当日、池田屋に早めに到着した桂小五郎は、まだ同志が集まっていなかったため、対馬藩邸に行き、新選組の襲撃を逃れたというのが通説となっています。
 しかし、「乃美織江覚書」では、「桂は襲撃時池田屋に居たが、屋根を伝って対馬藩の屋敷に逃げた」と記されているそうです。




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by wheatbaku | 2015-06-22 09:50 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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