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「花燃ゆ」第25回「風になる友」(大河ドラマ)

 昨日の「花燃ゆ」は、8月18日の政変後、長州藩が冤罪をどうはらすかという動きが描かれていて、その中で起きた池田屋事件で死亡した吉田稔麿が中心人物でした。
 そこで、今日は池田屋事件について書いてみます。
 池田屋事件は、幕末の重要な事件でしたので、幕末を描く際には、ほとんどもれなく描かれています。
 大河ドラマ「新撰組」で描かれていたのは当然として、「龍馬伝」「八重の桜」でも描かれています。
 それほど幕末における重要な事件だったわけです。

 池田屋事件は、元治元年(1864)6月5日に起きました。
 先日、祇園信仰について書きましたが、江戸時代、祇園祭は6月7日に行われていましたから、祇園祭のムードが高まる中で起きました。

 吉田稔麿は、池田屋で襲われた仲間を助けるために池田屋に戻る途中で殺されるというストーリーでした。
 吉田稔麿は、池田屋での会合中に新選組に襲われたが、何とか脱出して長州藩邸までたどり着きますが、門が閉じられていたため自刃したという風に書いたものが多いのですが、昨日は、ちょっと違う描き方でした。

c0187004_09575778.jpg 吉田稔麿がどのような経緯で死んだのかというのは諸説がありますが、昨日の「花燃ゆ」の展開に近いと思われる説を書いてあるのが中村武生氏の「池田屋事件の研究」です。「池田屋事件の研究」によると 当時の長州藩の京都留守居役乃美織江が書いた「乃美織江覚書」では、池田屋事件当日、吉田稔麿が白帷子に黒羽織の服装をして外出したと書かれていて、事件の翌日、藩邸付近で白帷子・黒羽織を着用した吉田稔麿らしい人物が発見されたので、ただちに遺体を藩邸内に収容したと記されているそうです。

 また、吉田稔麿が定宿としていた塩屋から稔麿の叔父に送られた手紙によれば、事件の起きた当日早朝から、吉田稔麿は池田屋にいて、一旦長州藩邸に戻った後、新撰組に襲われ、長州藩邸近くの加賀藩邸の前で殺害されたと書いてあるようです。

 こうしたことから、中村武生氏は、吉田稔麿は、池田屋から逃げてきて長州藩邸まで戻ったが藩邸の門が閉ざされていたので、そこで自刃したのではなく、加賀藩邸前で殺害されたのだろうと書いています。

 この殺害されたと思われる場所である河原町御池交差点南西側に、平成25年11月に「「此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と書かれた石碑が建てられたそうです。
 これが、ドラマの最後に「花燃ゆ紀行」に紹介されていました。
 この碑は、まだ、見たことないので、7月に京都に行った際にはできれば見てこようと思います。
 
 最後に、「池田屋事件の研究」には、池田屋事件の際の桂小五郎の行動も書かれていますので、紹介しておきます。
 池田屋事件の当日、池田屋に早めに到着した桂小五郎は、まだ同志が集まっていなかったため、対馬藩邸に行き、新選組の襲撃を逃れたというのが通説となっています。
 しかし、「乃美織江覚書」では、「桂は襲撃時池田屋に居たが、屋根を伝って対馬藩の屋敷に逃げた」と記されているそうです。




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by wheatbaku | 2015-06-22 09:50 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第23回「夫の告白」(大河ドラマ)
今回の「花燃ゆ」では「八月十八日の政変」が取り上げられていました。
 この「八月十八日の政変」は、幕末史では非常に重要な事件なのですが、その取扱いが簡単で政変の推移より長州での文の話題が中心となっていることに今年の大河ドラマがホームドラマのように描かれているという特徴を如実に表していると思いました。

 今日は、幕末政治史の重要事件である「八月十八日」の政変について概略を書いておきます。

 「八月十八日の政変」は、文久3年(1863)8月18日に会津藩と薩摩藩が提携して、それまで朝廷を牛耳っていた長州藩を中心とした「急進尊王攘夷派」を排除して、公武合体派が権力を奪取したクーデターです。

 文久3年の夏の京都の政局は、長州藩および三条実美らの攘夷派公卿によって動いていました。
攘夷による異国船砲撃を実施し攘夷を決行したのは長州藩だけでした。
c0187004_10332748.jpg しかし、長州藩は手痛い異国からの反撃を受け攘夷の難しさが明らかになりました。 こうした攘夷派にとって不利な情勢を挽回するために久坂玄瑞らによって計画されたのが「大和行幸」です。
 孝明天皇が大和に行幸し伊勢神宮での祈願の後、勅使を幕府に派遣し攘夷を命じようという計画です。
 もし幕府が勅命を拒絶すれば討幕まで進めようと秘めた狙いもありました。
 こうした計画を長州藩が朝廷に建白し、「大和行幸」の実施の勅命が8月13日に発布されました。

 この攘夷派の動きを苦々しく思っていた薩摩藩と会津藩が密らに提携の話し合いを行なました。
 当時、会津藩は藩主松平容保が京都守護職として京都の政治・治安維持の幕府側の中心藩でした。
 この両藩の提携がきまり公武合体派の中川宮を中心にクーデターの計画が進められます。
 そして8月16日に中川宮は参内して孝明天皇に攘夷の排除を奏上しました。
孝明天皇は、徹底した異国嫌いでしたので、攘夷の実施を幕府に求めてきましたが、実際に攘夷を実行してみて、その困難さを認識したとも言われています。
 また、孝明天皇は、討幕の意思はありませんでした。
 そうしたことから、長州藩の過激な攘夷論には必ずしも賛成していなかったといわれています。
 そうした中での中川宮からの攘夷派排除の奏上であったため、これに孝明天皇が同意しました。

 一夜明けた翌日17日の深夜、中川宮、近衛前関白、近衛忠房、二条右大臣、徳大寺内大臣らが参内し、禁門はすべて閉ざされ、会津藩兵と薩摩藩兵、所司代の兵がそれを守りました。
そして、大和行幸を取りやめ、三条実美はじめ議奏、国事掛の人々二十余人に禁足、他人との面会を止めるという勅令が決定されました。
 18日に、いつものように長州藩が警備のため堺町御門(右上写真)に行くと、薩摩藩と会津藩の軍勢が堺町御門を固めていて入門を拒みました。
  長州藩側は、長州清末藩主毛利元純家老益田右衛門介らは兵を率いて堺町御門に押しかけましたが、勅諚を示され、堺御門近くの鷹司邸に移りました。
 そこに、失脚した三条実美たち公家も鷹司邸に集まりました。
 そこで、勅使柳原公愛が、鷹司邸に赴き、解散退去を命じました。
 午後3~4時ごろ、三条実美や長州勢は方広寺に退いた後、夕刻に妙法院に入りました。
 そして、翌19日夜半に、長州藩士、三条実美をはじめ三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七卿が長州へと下るため、妙法院を発ちました。
 これがいわゆる七卿落ちです。
 降りしきる雨のなか蓑笠を着け草鞋ばきのみじめな姿だったと伝えられています。

 久坂玄瑞は七卿および長州藩兵2千人を兵庫まで見送った後、8月21日京都に戻り9月10日頃まで潜伏し、京都の情勢を見極めていました。
 この時に、文に義兄小田村伊之助の次男を養子にもらいたいという手紙を書いています。
 これは「花燃ゆ」にも描かれていましたが、この頃、明確に死を決意したということだと思います。





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by wheatbaku | 2015-06-08 10:31 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第22回「妻と奇兵隊」(大河ドラマ)
  昨日の「花燃ゆ」は、女台場と奇兵隊がドラマの中心でした。
 そこで、今日は「奇兵隊」について書いていきます。

 高杉晋作と言えば「奇兵隊」と言われるごとく、高杉晋作を語る時には「奇兵隊」が必ず出てきます。

 「奇兵隊」というと奇妙な軍隊という意味に思われがちですが、奇兵とは正規兵に対する言葉として命名されたと言われています。

 有名な兵法書『孫子』の中に、「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ」という言葉もあり、「正」に対して「奇」が対置されています。

 長州藩は、文久3年(1863)5月10日にアメリカ商船を砲撃します。この後も関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えます。
 これに対して6月1日にアメリカとフランスの艦隊が来航し長州の艦船と砲台を破壊します。

 長州藩は、圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、なすすべもありませんでした。
 そうした状況下で呼び出されたのが高杉晋作です。6月5日のことです。

 「花燃ゆ」では、この場で、「奇兵隊」の構想として身分の違いにとらわれず志あるもので戦うと述べています。
c0187004_10045151.jpg 実際の戦い方について「花燃ゆ」では述べられていませんが、高杉晋作は「すくない兵力で敵の虚を撞き、神出鬼没に戦い相手を悩ます」と定義しているようです。 つまり、現在でいえばゲリラ戦を行うとしています。

 こうして高杉晋作は6月7日に、下関の白石正一郎宅で奇兵隊を結成します。右上写真は「奇兵隊結成の地」の碑です。

 奇兵隊に志願した人たちは、文久3年の暮れには300人に達したといいます。
 隊士たちの身分は、約半数が武士、4割が農民、残りが商人などでした。
 しかも武士といっても上級武士は少なく、多くは下級武士でした。農民は庄屋が3分の1を占め、それに引率された百姓の次男・3男が多かったようです。

 身分を問わないといいながら、半数が武士以外であり、奇兵隊の目的は「国家のため働く」ということであり、当時の長州における庶民の「志」が高かったと思われます。

 こうして下級藩士や農民中心に結成された奇兵隊ですが、上級藩士中心の先鋒隊との関係がうまくいかず小競り合いがしばしば起きていました。
 そして、ついに8月16日、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、 隊士を斬り殺すという事件いわゆる「教法寺事件」が起きました。

 高杉晋作は、この事件の責任をとるとともに、京都で起きた8月18日の政変の影響で奇兵隊総督を解任されます。

 高杉晋作が奇兵隊総督として指揮をとっていたのはわずか3か月あまりの短い期間だったのです。

 最後に、あまり書かれることのない、明治になってからの奇兵隊について追記しておきます。
 奇兵隊は、戊申戦争で、各地を転戦して活躍しました。
 しかし、明治2年になって、長州藩は、諸隊あわせて5000人以上いたうち、約半数を常備軍として残して、その他は解雇しました。解雇された多くは農民や町人の出身者たちでした。
 解雇された隊士は、御田尻に結集した後、山口の藩庁を包囲しました。
 これに驚いた木戸孝允は、追討軍を派遣し、鎮圧します。
 この戦闘による死傷者は130名あまり、斬首・遠島など処罰されたものは100名を超えると言われています。
 奇兵隊は、悲劇的な結末を迎えたのでした。



 



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by wheatbaku | 2015-06-01 10:02 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第21回「決行の日」(大河ドラマ)
  昨日の「花燃ゆ」は、文久3年(1863)の正月から5月までの動きが描かれていましたが、あまりにも急展開ですので、なかなか難しいとも思われます。
 そこで、時間を追って、概略を振り返ってみたいと思います。

 まず、正月5日には、江戸の高杉晋作は、吉田松陰の遺骨を世田谷若林に改葬する場面がでてきていました。
c0187004_11003208.jpg 一昨日、松陰神社の松陰のお墓をお参りしたので、「花燃ゆ」の展開と絶好のタイミングとなりました。 一昨日の散歩でも話題となりましたが、松陰神社と豪徳寺はあまりにも至近距離にあり、距離が離れていない場所に、吉田松陰と井伊直弼が眠っていることに驚く人が多いのです。
 この埋葬地を決めたのは高杉晋作だろうと思われますが、はっきりと誰でどのような理由で決めたのか書いた物は私が調べた限りではありませんでした。
 この改葬の途中で、上野寛永寺前の忍川に架かっていた三つの橋の中央を押し渡ったというエピソードは大変有名ですが、「花燃ゆ」で冒頭の場面で描かれていました。
 三つある橋の中央の橋は、将軍が寛永寺にお参りする際にだけ渡れる橋ですので、その橋を渡るということは、重大なことでした。
 ですから、高杉晋作はあえてその暴挙を行ったのでしょうが、幕府がそれを問題にした形跡はないようです。
 しかし、長州藩内では、「高杉を江戸に置いておいては何をするかわからん」ということになり、京都に呼び寄せることになり、高杉晋作は、京都に上ります。
 ちょうど同じ頃の3月4日、14代将軍家茂が上洛しました。
 そして3月11日に、上賀茂神社と下鴨神社へ孝明天皇が行幸し、攘夷祈願を行い、そのお供を家茂にさせました。
 この賀茂行幸を画策したのが、久坂玄瑞を中心とした長州藩でした。
 この行幸に家茂にお供をさせるということは、天皇の方が将軍よりもえらいのだということを人々に知らせることになります。
 また、将軍の移動は駕籠によるのが通常ですから、騎馬姿でお供するというのも異例です。
 この行列の最中に、高杉晋作が「いよう、征夷大将軍」と声をかけました。
 この行動によって長州藩が進める攘夷実行策に悪い影響があると考えた周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞たちは、高杉晋作を詰問したのです。
 その後、突然、高杉晋作が出家して、3月26日に京都を発って萩へ向かいました。
 出家の理由はなぜかということはよくはわかっていないようです。
 そうして、高杉晋作が出家している中でも、攘夷実行の動きは急速に進み、長州藩では、下関での外国船砲撃の準備を進めます。
 4月15日久坂玄瑞は帰国を命じられ、萩から政庁の移っていた山口に行った後、4月26日下関に向かいました。
 久坂玄瑞らは、光明寺を屯営として「光明寺党」を名乗ります。
 攘夷期限の5月10日、関門海峡にアメリカ商船のベングローブという船がやってきます。
 これに、長州藩は砲撃を加えることになります。
 もちろん、その中心となったのは久坂玄瑞です。

c0187004_11042887.jpg 文久3年から翌年の元治元年まで、下関戦争、8月18日の政変、池田事件、禁門の変、第1次長州征伐と、長州藩を中心に政局が目まぐるしく変わります。 こんな激動の時代を女性の文の立場からどう描けるか脚本家の力量が問われることになりそうです。
 先日の世田谷散歩の際にも視聴率も低いそうですねという話もありましたので、これから「花燃ゆ」に是非頑張って欲しいですね。
 そういえば、東急世田谷線には「花燃ゆ」電車も走っていました。
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by wheatbaku | 2015-05-25 10:53 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第20回「松陰、復活!」(大河ドラマ)
 「花燃ゆ」を昨日観ることができましたので、今日は「花燃ゆ」について書きます。

 今回の「花燃ゆ」では、久坂玄瑞の恋人(?)となる辰路が出てきますが、結構、年上に見えるので驚きました。
 しかし、演じている女優の鈴木杏さんは、文を演じる井上真央さんとは同い年なんですね。こちらも驚きました。
 それはさておき、今日は「英国公使館焼き討ち事件」について書こうと思います。

c0187004_16293392.jpg 「英国公使館焼き討ち事件」は、文久2年(1863)12月12日年1月31日に起きていますので、吉田松陰が刑死してから4年が経っています。 井伊大老が暗殺された後、幕府は公武合体策を推進し、和宮の降嫁を実現します。 しかし、文久2年(1862)1月15日に坂下門外の変が起き、推進者の老中安藤信正が襲撃され、その後罷免されると、全国的には攘夷運動が強まります。
 そうした情勢のなかで、長州藩は、長井雅樂の「航海遠略策」つまり公武合体をベースにした開国論から攘夷論に舵をきりました。

 こうした中で、計画されたのが「英国公使館焼き討ち事件」です。
 当初、高杉晋作は、外国人の殺害を計画しました。
 そして、外国人公使を暗殺するため、高杉晋作たちは神奈川の宿屋に集合しましたが、この計画が漏れていて、毛利定広から説得されて、暗殺計画は未遂に終わりました。

 この後、高杉晋作は「御盾組」という攘夷決行のための組織を作りました。
 高杉晋作が大将で、久坂玄瑞が副将でした。

 この「御盾組」が次に計画したのが「英国公使館焼き討ち事件」です。
c0187004_16295557.jpg それまでは、麻布の善福寺がアメリカ公使館として利用されていたように外国の公使館は、お寺を利用していました。 こうしたお寺では容易に襲撃されるため、文久元年(1861) 2月、幕府は公使館を品川の御殿山へ建設することで各国公使と合意しました。 御殿山公使館は、これまでの寺院を間借りしたものとは異なり、洋風建築であり、周囲に深い空堀と背の高い柵をめぐらして、跳橋を設けるなど、嬢夷派の襲撃に備えた構造だったようです。
 御殿山の公使館用地には、各国の公使館が建設される予定でしたが、最初に建設が始まったのは御殿山東南の英国公使館です。
 この英国公使館が、文久2年12月には、ほぼ完成に近づいていました。
 ここを襲撃しようというのが高杉晋作たちの計画でした。

 襲撃を実行したのは、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(後の井上馨)、伊藤利助(博文)
たちです。
c0187004_16315247.jpg 文久2年12月12日の夜九時半(午前1時)に、品川宿の旅籠屋土蔵相模 に集合した高杉晋作や久坂玄瑞ら13名は、英国公使館に忍び込み、焼き討ちを実行しました。 彼らは、空堀と柵を越えて館に侵入し、爆弾に火をつけて公使館を全焼させました。 襲撃側には、負傷者はいませんでした。

 焼き討ち事件は、当然、幕府を驚かせましたので、犯人の捜索が行われました。
 その結果、長州藩士の仕業らしいということを突きとめました。
 しかし、厳しく追及をしていくと長州藩を敵に回すこととなり、それを怖れた幕府側の判断で、犯人追究はうやむやになってしまいました。




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by wheatbaku | 2015-05-20 16:23 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第18回「龍馬!登場」(大河ドラマ)
 まだ、今週日曜日の「花燃ゆ」についてコメントしてありません。
 そこで、今日は「花燃ゆ」について書きます。

 前回の「花燃ゆ」では、吉田松陰が処刑されてしまい、準主役級が欠けてしまい、 これから、幕末の激動の時代のまっただなかで久坂玄瑞や高杉晋作が活躍していくわけですから、彼らから描く描き方には興味があるものの、女性から見た幕末史をどう描くのか、不安視しながら、とちあえず見ていこうと思います。

 今回の「花燃ゆ」のコメントは、何についてしようかなと見ながら考えていました。
 坂本龍馬もあるなぁと思っていましたが、今回の「花燃ゆ」では、短時間しか取り上げられていませんでしたが、井伊大老と桜田門外の変について書こうと思いました。
 そこで、井伊大老が眠っている豪徳寺にお参りしてから書こうと思っていました。
 結果的に、豪徳寺に行くことができたのが昨日でした。
 そこで、「花燃ゆ」第18回のコメントが今日になってしまいました。
 
c0187004_19441408.jpg 昨日は、良い天気で、5月の毎日文化センターの気ままに江戸散歩「吉田松陰ゆかりの地を歩く」の下見を兼ねて、豪徳寺・松陰神社など世田谷を歩いてきました。
 世田谷地区の御案内は別に紹介する機会もあるかと思いますが、今日は「花燃ゆ」関連記事ですので、井伊大老のお墓だけ紹介します。

 井伊大老は、安政7年(1860)3月3日に、水戸浪士たちに襲撃され、命を落します。 
 この桜田門外の変については、過去に詳しく書いてありますので、桜田門外の変  をご覧ください。

 時の大老が白昼公道で暗殺されるということは、幕府の力が弱まっていることを如実に表すことですので、幕府にとって大問題でした。
 当然、幕閣にとって、襲撃者たちの捕縛および原因究明は重大なことでした。
 しかし、当面の手当てとして、緊急に処置しなくてはならないことは、別のことでした。
 それは、何かというと、彦根藩と水戸藩の武闘を避けるということです。
 藩主を殺害された彦根藩では、激昂した藩士たちが「水戸撃つべし」と叫びます。
 このまま放置すれば、激昂した彦根藩たちが水戸藩に討入りすることになります。
 彦根藩は譜代筆頭の名門、一方の水戸藩はいうまでもなく御三家の一つで、ともに幕府を支えるべき重要藩です。
 この二つの藩が争うことは、弱体化した幕府を一層弱体化させるのは確実です。
 
 これを避けるため、時の老中安藤信正が考えたのが、「井伊大老は襲撃されたが負傷した」ことにするという策です。
 そのため彦根藩にその趣旨を伝え、彦根藩から「拙者儀取押え方等指揮致し候処、怪我致し候に付きひとまず帰宅致し候」と書かれた届を提出させます。
 翌日4日には小納戸頭取塩谷豊後守を派遣し高麗人参が見舞いの品として届けられています。

 しかし、実際には、有村次左衛門によって、井伊大老の首は斬り取られて持ちさられていました。
 そこで、彦根藩では、必死になって、井伊大老の首を探し、近江三上藩遠藤家にあることを突き止め、その首の返還をお願いすることになります。
 しかし、井伊大老は負傷しただけで生きていることとなっています。
 そのため、井伊大老の首を返して欲しいとは言えません。
 そこで、井伊太郎と背格好が良く似ていた家来の加田九郎太が現場でなくっていたことから、その加田九郎太の首として、遠藤家に返還要請し、引き渡してもらいます。
 そして、藩医岡島道隆が首と胴体を縫合しました。
 幕府の強い要請により彦根藩の水戸藩への討入りも抑えることができ、いくらか沈静化した後、井伊大老の死去が幕府に届けられます。
 そのため、豪徳寺にある井伊大老のお墓に刻まれた命日には、3月3日ではなく閏3月28日となっています。
 井伊大老のお墓参りをする機会がありましたら脇の日付をみてください。

c0187004_19444319.jpg また、井伊大老の墓碑には、「宗観院殿前羽林羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と刻まれています。前羽林中郎将」は官職名で、戒名は「宗観院殿柳暁覚翁大居士」です。
 この戒名ですが、生前に、直弼が彦根に送った書状になかに添えられていたものだそうです。
 すでに、死を覚悟して政権運営にあたっていたということなのだと思います。
 そういえば、襲撃される当日には、彦根藩邸に、襲撃の計画があるので注意するようにと書いて投げ文があり、井伊大老はその忠告をあえて無視して登城していったという話も残されています。
 井伊大老の死は覚悟の死だったのだと思います。

 昨日は、そうしたことを頭に浮かべながら井伊大老のお墓参りをしてきました。
 



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by wheatbaku | 2015-05-07 17:18 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第17回「松陰、最期の言葉」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」では、吉田松陰がついに処刑されてしまいました。
 「花燃ゆ」は、いくら杉文が主人公と言っても、やはり、役不足は否めないと思いますので、吉田松陰がかなり話題を提供してくれていました。
 この「花燃ゆ」についてのコメントも、吉田松陰中心に書いてきましたので、約4ヶ月間、勉強の題材を提供してもらいました。
 これからは、久坂玄瑞や高杉晋作中心にコメントすることになると思います。

 さて、昨日の「花燃ゆ」では、江戸に送られたら、すぐに小伝馬町牢屋敷に入れられたように描かれていました。
 しかし、江戸に送られた松陰は、6月25日に江戸に到着し長州藩江戸屋敷に入りました。そして、7月9日に、評定所に呼び出され取り調べが行われました。
 評定所は、最高の審判機関で、松陰の取り調べには、寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清(あつきよ)などがあたりました。

 松陰の容疑は、2つありました。
 一つ目の容疑は、安政3年に、梅田雲浜が萩を訪ねた際に政治的な謀議を行ったのではないかということでした。
 二つ目の容疑は、御所に幕政を批判した投げ文(投書)したのではないかということでした。
 松陰は梅田雲浜と合ったことはありますが、松陰は梅田雲浜に対する印象は良くなかったようですし、投げ文もまったく関わりのないことでした。
 そのため、幕府の疑いは、なんなく反論でき、容疑を解くことができました。

c0187004_09594411.jpg このままで終われば、松陰は、重い罪にならずに、萩に生きて帰れたでしょう。しかし、この場で、幕府の探索機関も把握していなかった老中間部詮勝の要撃計画を自ら告白してしまいます。
 この重大計画を聞いた奉行たちは、事の重大さに驚き、松陰を小伝馬町牢屋敷に投獄しました。
 松陰が投獄されたのは、小伝馬町牢屋敷の西奥揚屋でした。ここの牢名主が、昨日も再三登場していた沼崎吉五郎です。
 沼崎吉五郎は、松陰の遺書「留魂録」を長く預かっていた人物ですが、沼崎吉五郎が、あれほどクローズアップされるとは思いませんでした。

「花燃ゆ」では、松陰は井伊大老と直に話をするために、老中間部詮勝要撃を自白したと小田村伊之助に述べていました。
 そして、松陰の狙い通りに井伊大老が評定所に現れました。
 これもフィクッションと言ってよいと思います。
 開幕以来200年以上がたっている幕府は、組織だって政権運営が行われていました。
 重大な事件といえども、最高法廷は評定所とされていて、その席に、大老が出座するということはありえません。
 また、井伊大老が、吉田松陰を直に取り調べたという記録も残されていません。

 どうして井伊大老が取り調べの場に出座するという思いがけないストーリーにしたのかと私も疑問に思いましたので、ちょっと考えてみました。

 最後の場面で、井伊大老が、松陰の罪名を、「遠島」から「死罪」に書き換える場面がありました。
 当時の刑罰の決定には、遠島以上の重い刑罰については老中の決裁が必要でした。さらに死刑は将軍の許可が必要でした。
 そのため、評定所で取り調べた案件に対すす刑罰案が、評定所から上伸されますが、多くの場合は、その刑罰案通りに裁決されることが多いのです。
c0187004_10003097.jpg しかし、吉田松陰の場合には、それが井伊大老の段階で、重くなったのではないかという説があります。 その説に沿ったストーリーにするためには、罪名の書き換え場面だけでは、視聴者が理解できないので、あえて、井伊大老と吉田松陰との対決という場面を入れたのではないかと思います。

 以上書いたように、昨日の「花燃ゆ」は、一般に書かれている吉田松陰の江戸の評定所での取り調べとは大幅に異なったストーリーであり、昨日の展開の多くはフィクションになっているように思います。
 しかし、大河ドラマ「花燃ゆ」はおくまでも「ドラマ」ですので、フィクションであっても良いのだろうと思います。

 ただし、史跡案内では、フィクッションばかり話している訳にはいかないので、土曜日に行われた小塚原回向院にある吉田松陰のお墓(右上写真)の案内では、「吉田松陰と井伊大老との対決なんてありませんでしたよ」と解説しておきました。

 なお、吉田松陰の遺書「留魂録」については、以前に詳しく書いてあります。
 ご興味のある方は 「留魂録」 をお読みください。



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by wheatbaku | 2015-04-27 09:52 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第16回「最後の食卓」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」は、いよいよ、吉田松陰の江戸に送られる場面が描かれていました。

 吉田松陰は、老中間部詮勝を襲撃しようと計画していましたが、そのことを幕府がキャッチしていたはずもなく、明確に罪人として召喚されることはありませんでした。
 ですから、長州藩として、吉田松陰の江戸召喚を強く拒めば、それは防げたかもしれないとも言われています。
 「花燃ゆ」では、小田村伊之助が、藩の重臣長井雅楽頭なら松陰を犠牲にしても藩を守ろうとするだろう」と言っていましたが、そうした面が実際にもあっただろうと考える意見もあります。

 しかし、江戸藩邸では、幕府の命令をそのまま受け止め、松陰は江戸に送られることとなります。
 江戸に送られる日は5月25日ですが、その前日、司獄福川犀之助の配慮により、松陰は自宅に戻り、親子と水いらずの時間を過ごします。
 なお、福川犀之助は、この後で10日間の謹慎処分を受けています。

 帰ってきた松陰は風呂に入れられ母親の滝に背中を流してもらいます。
c0187004_12033442.jpg この時、滝は、もう一度元気な顔を見せてくれるように言い、松陰は「帰ってくる」と約束します。
 これは、「花燃ゆ」で描かれていました。
 しかし、ご存知の通り、吉田松陰は、小伝馬町牢屋敷で斬首され、当然、戻ってこれませんでした。

 しかし、松陰は、なくなった時に、両親の夢枕にたったと言われています。
 ある時、母は寅次郎が元気よく帰ってきたので、声をかけようとすると突然寅次郎が消えた夢を見、父百合之助は、自分の首を斬られたが非常に気持ちよかった夢を見たそうです。
 それから20日ほどたつと、江戸から松陰が刑死したとの知らせがきました。
 両親が数えてみると、先日夢をみた時刻は松陰が斬首された時刻だったそうです。
 後に、滝は「寅次郎は、元気で帰ってくるという約束が果たせないので、夢で会いにきて、元気な顔をみせてくれたのだろう」と語り、父の百合之助は「首を斬られながら気持ちよく感じた夢は、寅次郎が首を斬られた時に心にわずらいがなかったことを告げようとしたのだろう」と語ったそうです。

 そして、5月25日早朝に、松陰は野山獄を発ちます。
 野山獄で再会した高須久子に対して、吉田松陰は、恋情を懐いていたと考えられていますので、もう少し詳しく描かれるかと思いましたが、意外とあっさりだったという気がしないでもありません。

 古川薫氏の「吉田松陰の恋」の方がドラマチックだと思います。
 高須久子との恋について、以前書いた 「『吉田松陰の恋』(古川薫著)」 をお読みください。






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by wheatbaku | 2015-04-21 12:08 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第15回「塾を守れ!」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」は、吉田松陰の激しい行動に、家族や弟子たちが大いに戸惑う姿が描かれていました。

 吉田松陰が、江戸の久坂玄瑞や高杉晋作に出した手紙は、松陰自らが老中の間部詮勝を撃つつもりであり、久坂玄瑞や高杉晋作に、それを手伝うように指示した手紙でした。
 こうした内容の指示に対しては、いくら松下村塾の龍虎と呼ばれた久坂玄瑞と高杉晋作でも賛成しかねるものでした。
 そのため、二人は、それを思いとどまるように手紙を書きましたが、それに対して、松陰は、絶好の手紙を送ったのです。
 これは、前半で描かれていた内容です。

 江戸にいる弟子たちと絶交した松陰は、萩にいる弟子たちに、「伏見要駕策」という策を立案して弟子たちに指示しました。
c0187004_09515599.jpg 「伏見要駕策」というのは、3月に参勤交代で江戸に上る藩主の毛利敬親を伏見で迎え、大原重徳たちの革新派公卿を擁して京都に入り、勅を奉じて幕府の失政を正そうという計画でした。 こうした激しい計画に対して、弟子のほとんどは賛成しませんでした。
 その中で、唯一賛成したのが入江九一でした。
この入江九一は、足軽の長男でしたが、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿とともに松下村塾の四天王と呼ばれる俊英です。
 しかし、実際に行動を起こしたのは入江九一の実弟野村靖(右写真:「花燃ゆ」では、大野拓朗が演じています)でした。
 野村靖は、親戚の養子となっていたため姓が異なっているようです。
 昨日の「花燃ゆ」で兄たちを止めていたのが、妹のすみ子ですが、すみ子は、後に伊藤博文の妻となっています。

 野村靖は、2月下旬に脱藩して京に上りましたが、大原重徳は、時機が熟していないといって賛成せず、動こうとしませんでした。
 やむなく、野村は京都藩邸に自首し、萩に護送され岩倉獄に入獄しました。
 野村靖の脱藩はすぐに露見したため、兄の入江九一も岩倉獄に繋がれました。
 ここまで、昨日の「花燃ゆ」に描かれていました。

 入江九一は、・野村靖の兄弟二人は、後に許されて、岩倉獄を出獄した後、尊王攘夷運動に身を投じます。
 そして兄の入江九一は、禁門の変で、自刃をして命を落します。
 一方、弟の野村靖は、明治維新を生き残り、第2次伊藤博文内閣の内務大臣に、の第二次松方内閣の逓信大臣など顕職を歴任しています。

 この野村靖は、明治になって、吉田松陰の遺書を預かるという重要な役割を果たしました。
 野村靖の所に、明治9年(1876)、ある人物から届けられたのが、吉田松陰の遺書「留魂録」です。
c0187004_09521250.jpg 吉田松陰は、死刑が確実視された安政6年(1859)の10月25日に遺書「留魂録」を書きました。 慎重な松陰は、「留魂録」は二冊書いたそうです。
 そして、一部は、松陰の死後、弟子たに渡り、写本もされ、弟子たちに回覧されました。
 残りの一部は、同獄であった牢名主沼崎吉五郎に預けられました。
 沼崎吉五郎は、三宅島に遠島となりますが、その間も「留魂録」を大切に肌身はなさず守りとおしました。
 沼崎吉五郎は、明治7年に許されて東京に戻りました。
 そして、神奈川県権令となっていた野村靖に、明治9年に17年間大事に保管していた「留魂録」を渡したのです。
 その「留魂録」が、現在、萩の松陰神社に残されているものです。
 弟子たちに渡った「留魂録」は、写本はありますが、現物は残されていません。
 沼崎吉五郎が、長い間大事に守り、それが、野村靖に渡されなければ、「留魂録」現物はなかったことになります。

 この「留魂録」については、古川薫氏が現代語訳して講談社学術文庫「留魂録」として出版されています。
 吉田松陰にご興味のある方のご一読をお勧めします。







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by wheatbaku | 2015-04-13 10:30 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第14回「さらば青春」(大河ドラマ)
今回の「花燃ゆ」は、安政の大獄が話題の中心でした。
 梅田雲浜が逮捕されたのは、安政5年(1858)9月7日です。
 そして、吉田松陰に、野山獄への投獄の命令が下ったのが12月5日、実際の野山獄に入獄したのが12月25日ですので、今回は、3月程度の間の展開です。

 安政の大獄の直接のきっかけは、「戊午(ぼご)の密勅」です。
 「戊午(ぼご)の密勅」というのは、安政5年8月8日付けで水戸藩に下された勅諚(ちょくじょう)のことです。
戊午というのは安政5年の干支が戊午((つちのえうま、ぼご)であり、通常であれば勅諚というのは幕府に下さされるものですが、前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられたので「戊午の密勅」といわれます。
この異例の勅諚は、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、攘夷の推進を促しています。そして諸藩へ伝達せよという添書が付されていました

c0187004_16060369.jpg この勅諚は、10日に、幕府にも通知され、勅諚の内容および通知の仕方が異常であることについて怒った大老井伊直弼は、戊午の密勅を推進した人々たちの弾圧を決意することになりました。 
こうして始まった弾圧事件が安政の大獄です。
 安政の大獄の狙いは、主に戊午の密勅に関与した人々および一橋慶喜の擁立を計った人々でした。 
そして、真っ先に捕縛された一人が梅田雲浜でした。
 「花燃ゆ」では、梅田雲浜の逮捕の時に、久坂玄瑞は同席していたように描かれていましたが、久坂玄瑞は直前まで京都に滞在していましたが、安政の大獄が始まる前には京都を去って江戸に戻っていたようです。
 右写真は、台東区松が谷の寺町の一画にある海禅寺にある梅田雲浜のお墓です。

 この弾圧の陣頭指揮を執るために、江戸から京都に送られてきたのが老中の間部詮勝でした。
 10月の末に、尾張、水戸、越前、薩摩の四藩が、井伊大老の襲撃を企てているという情報を得た松陰は、老中間部詮勝の襲撃を計画します。
 なぜ、井伊大老でなく間部詮勝なのか少し疑問に思う点ですが、これについて触れた本は、私がみる限りはありません。
 昨日の「花燃ゆ」でも、吉田松陰はいきなり老中の間部詮勝を撃つと言っていましたね。
 そして、松陰は、塾生の中から同志を募ります、
 海原徹氏の「吉田松陰」では17名の同志を得たとなっています。
 そして、「花燃ゆ」では、同志が血判を押した建白書を周布政之助に提出したとなっています。
実は、松陰は、「花燃ゆ」で描かれていた建白書以上の物騒なお願い書を藩政府に提出しています。
 松陰がお願いしたのは、銃砲と弾薬の借用願いです。これで、間部詮勝を襲撃しようというのです。

 この借用願いを受取った藩首脳は大いに驚きました。
 この願いに応じるということは、長州藩として幕府要人を襲撃するということであり、幕府に弓を引くことになります。
  当時の藩政府には、討幕などという考えは全くありません。
  そのため、当然、こうした松陰の願いなど聞きませんし、逆に、長州藩にとって害をなす人物と考えるようになります。
 吉田松陰に対して、前々から好意的に対応し、様々な局面で松陰を擁護してしいた周布政之助でさえ、ここまできたら、野山獄に投獄するしかないと判断しました。
 「花燃ゆ」では、小田村伊之助が進言したとなっていましたね。

 この松陰の野山獄投獄は、長州藩を守るとともに、松陰自身を守るという側面ももちろんありました。

 こうして、吉田松陰は、再び、野山獄に入獄することとなります。




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by wheatbaku | 2015-04-06 21:09 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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