カテゴリ:江戸の祭礼歳事( 83 )
鷗稲荷と半田稲荷(江戸の祭礼と歳事)

「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に書かれている能勢稲荷と半田稲荷を夏に訪ねていましたが、まだ、このブログに書いてないので、まとめて書きます。

鷗稲荷は、錦糸町から徒歩12~13分の距離にある能勢妙見山東京別院の境内に鎮座しています。

c0187004_13403059.jpg能勢妙見山東京別院は、関西の能勢妙見山の東京における別院です。

能勢妙見山東京別院は、旗本能勢頼直の本所の下屋敷に、安永3(1774)年に建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。

 鷗稲荷は、江戸時代には、外神田にあった旗本能勢家の上屋敷に鎮座していました。

c0187004_13403970.jpg 能勢家の上屋敷は、切絵図をみると津藩藤堂上屋敷の東側にありますので、現在でいうと秋葉原駅の東側にあったことになります。

 この鷗稲荷は、狐憑きに霊験があるといわれ、ここで出される札は、表面を黒く塗りつぶした札で「能勢の黒札」と呼ばれていました。

この札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があるとして人気があったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。



 半田稲荷は、金町駅から徒歩10分程度で住宅街の中に鎮座しています。

c0187004_13404963.jpg 半田稲荷の創建は、和銅4年(711)とも永久年間(111317)ともいわれています。

和銅4年とすると1300年も前に創建されたという古い神社です。

c0187004_13421177.jpgこの神社が、疱瘡や麻疹に霊験があるとして広く信仰された神社です。

金町は、現在では、上野からそれほどかかりませんですが、江戸時代は徒歩ですので、一日がかりだったと思います。

しかし、麻疹流行のたびに多くの人がお参りしました。

半田稲荷は、赤い衣装を身に付けた「願人坊主」が、赤い幟を持って鈴を鳴らしながら江戸市中を廻りました。

c0187004_13405646.jpgこの「願人坊主」は、「江戸の祭礼と歳事」によれば、疱瘡にかかっていない子どもがいる家の前で、いくらかの金銭で稲荷の真言を唱え、祝言を述べて踊り、病除けの一文人形を置いていく、一種の芸人だったようです。

半田稲荷の境内には、願人坊主が神仏に祈願する際に水垢離した神泉遺構が残されています。

井戸枠には注連縄(しめなわ)が掛けられています。

 。

青印が半田稲荷神社です。

周囲の石柵の柱をよくみると、市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も刻まれています。

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赤印が能勢妙見東京別院です。
この境内に能勢稲荷(翁稲荷)があります


青印が半田稲荷神社です











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by wheatbaku | 2015-10-29 12:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
住吉神社(江戸の祭礼と歳事)

 先日の「鬼平散歩(in鉄砲洲・佃島)」では、「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」に載っている「住吉神社」もご案内しました。

 そこで、今日は「住吉神社」をご紹介します。

 ところで、江戸検を受検される方も「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」のどこに載っているのという疑問のある方もいると思いますが、157ページに小さく「佃島住吉明神祭礼」として載っています。(念のため)

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。

c0187004_09074126.jpg徳川家康が上方にのぼった際に、神崎川を渡れずに難渋していた時、佃村の漁師が漁船をだして助けたことから、徳川家康が江戸に入府した際に江戸に招かれて、江戸湾での漁業の特権をえたと言われています。

 この佃村から来た漁師たちが、正保元年に幕府から鉄砲洲東側の干潟を拝領し、その半陸地を埋め立て陸地としました。そして、故郷に因んで「佃島」と命名したと伝えられています。

そして、正保3年には、佃村の鎮守であった住吉神社を勧請しています。

住吉神社というとすぐに思い起こすのが、現在の大阪市住吉区にある住吉大社ですが、佃島の住吉神社は、住吉大社から直接分霊を受けて勧請したのではなく、佃村の住吉神社を勧請したようです。

現在、昔の佃村の住吉神社は、田蓑神社と名前を変えているようです。

住吉神社は、江戸時代には「住吉明神」と呼ばれていました。

「江戸名所図会」には、「住吉明神社」として次のように書かれています。

佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ、神主は平岡氏奉祀す。正保年間、摂州佃の漁民にはじめてこの地を賜りしより、ここに移り住む。本国の産土神なるゆえに、分社して、ここにも住吉の宮居を建立せしとなり。(後略)

その祭礼は「佃祭」とも呼ばれていました。

「佃祭」は、歌川広重「名所江戸百景」の「佃しま住吉の祭り」にも描かれていますし、落語に「佃祭」という演目にもあるぐらいですので、昔から有名だったのだと思います。

佃祭は、江戸時代には、6月28日と29日に祭礼が行われました。

c0187004_09080352.jpgこれは、住吉神社が鎮座したのが正保3年の8月29日であったことによるそうです。

また、東都歳事記によると、龍虎の頭と神輿の海中渡御が有名だったようです。

六月二十八日 佃島住吉明神祭礼 

今明日修行(神主平岡氏 、小の月は名越祓と同日なり、龍虎の頭渡す。二十九日未の刻、神輿を海中に舁き入れ奉る) (後略)

龍虎の頭は、現在も残されていて、住吉神社近くの展示館に展示されていて、常時見ることができます。(右上写真)

c0187004_09075695.jpgまた、広重の「佃しま住吉の祭り」をよくみると海中に神輿が向かっていく様子が描かれています。

中央の幟旗の左手奥に神輿が見えます。

この絵は、住吉神社の境内から海方向を見て描かれています。

ですから、神輿が海に入ろうとしている場面だと思います。

住吉神社の神輿は「八角神輿」と呼ばれる八角形の神輿です。

八角神輿は、東都歳事記には「八角形」とは載っていないのですが、江戸時代のものが社殿奥の御神輿庫に展示されています。

説明板によると、天保9年(1838)に芝大門の万屋利兵衛により製作されたそうです。
c0187004_09081011.jpg 八角の神輿は関東では珍しく、天皇の高御座を模したと言われています。

現在の住吉神社の例祭は毎年8月6日、7日に行なわれます。

しかし、3年に1度行われる本祭りは、8月6日7日に近い土曜日曜を含む4日間行われます。

この時、獅子頭の宮出しや八角神輿の宮出し、神輿を船に載せて氏子地域を廻る船渡御が行なわれます。

現在は、江戸時代のものは文化財として保存するため、新しい八角神輿が作られ渡御しています。

昭和37年までは海中渡御が行なわれていたそうですが、現在は、船渡御となっています。

You Tubeに今年の「佃祭り」の様子が投稿されていました。

それによると、八角神輿が住吉神社の鳥居を通って担がれ、人足寄場跡を示す灯台がある佃公園の岸から船に乗せられた渡御していました。



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by wheatbaku | 2015-10-28 09:15 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
鉄砲洲稲荷神社(江戸の祭礼と歳事)

 土曜日の「鬼平散歩in鉄砲洲佃島」では、鉄砲洲稲荷神社をご案内しましたが、鉄砲洲稲荷神社は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されてある神社ですので、今日は詳しく紹介しようと思います。

 鉄砲洲稲荷神社は、「八丁堀駅」から約5分の所にあります。

c0187004_09542979.jpg鉄砲洲稲荷神社は、古い歴史をもつ神社ですが、何度も遷座しています。

社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)に江戸湾の奥にお祀りしたのが最初のようです。

その後、埋め立てが進行して、現在の京橋のあたりへ遷座し、さらに室町末期の大永年中に今の新京橋の近くに遷座し、八町堀稲荷神社と呼ばれました。(私見ですが、八丁堀が築造されたのは、徳川家康が江戸に入府した後ですので、それ以降に八丁堀稲荷神社と呼ばれたものと思います)

c0187004_09544018.jpgその後も埋め立てが進行して海岸が東へ移りましたので、寛永元年には鉄砲洲に遷座しました。

鉄砲洲といっても、現在の場所ではなく、八丁堀と現在の亀島川の合流点の南岸です。


鉄砲洲の由来については2説あります。

一つは地形説です。徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島だったので、その名がついたという説です。

右上の幕末の切絵図の本湊町から明石町まであたりが鉄砲洲ですが、確かに鉄砲の形にみえますね。

もう一つは、寛永のころ、幕府の鉄砲方井上氏と稲富氏により、ここで大砲の試射場があり、射撃演習をしていたので、この名が生まれたという説です。

c0187004_09544872.jpg江戸時代の鉄砲洲稲荷神社は、広重の名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」と「江戸名所図会」に描かれています。

右が名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

手前の帆柱の奥左手に赤く描かれているのが鉄砲洲稲荷神社です。

 その右の橋が、八丁堀に架かっていた「稲荷橋」です。

稲荷橋は、鉄砲洲稲荷のそばにあるので稲荷橋と名付けられたと思われます。

現在は、道路脇に「稲荷橋」の橋標が残されています。

下の絵が「江戸名所図会」に描かれている鉄砲洲稲荷神社です。
 「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも掲載されています。
 お持ちの方は、そちらもご覧ください。

 鉄砲洲稲荷が稲荷橋の橋詰にあることや南を向いていたこと、富士塚もあることがわかります。

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江戸時代、鉄砲洲の先の隅田川河口は、江戸第一の港で、江戸で消費する米などの物資を運ぶ船のほとんどが集まってきました。そのため、鎮座地周辺は江戸湊と呼ばれました。

そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。

鉄砲洲稲荷は、江戸時代は大変有名なお稲荷さんで、お稲荷さんの番付でも西の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。

このことは、「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されています。

 鉄砲洲稲荷神社 が、現在地に移転してきたのは、明治元年です。

 江戸時代の鎮座地が川のすぐそばであったので、水の被害が少ない場所に移転したいといった事情もあったようです。

社殿の西北隅に富士山の溶岩で築いた富士塚があります。

c0187004_09550786.jpgここの富士塚は、寛政元年9月に富士講の人たちが、稲荷橋のたもとにあった場所にお祀りされたものです。

明治になって、鉄砲洲稲荷が遷座したのに伴い、明治7年にこちらに移り、その後、何度か移転を重ねたうえで、昭和3年にここに造られました。

 高さは5.4メートルあります。

 東日本大震災で被害を受けたため、現在は、登拝禁止となっていますが、近いうちに修復工事が開始される予定です。


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by wheatbaku | 2015-10-26 09:52 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
日枝神社宝物殿(日枝神社⑤ 江戸の祭礼と歳事)
今日は、日枝神社についての最後の記事です。
今日は宝物殿について書きます。

c0187004_09244325.jpg 日枝神社の宝物殿は、神門の手前にある手水舎の脇にあります。(右写真)

 その宝物殿には、貴重な日枝神社の宝物が展示されています。

 今日は、それら宝物の中から主要なものをご紹介いたします。

 宝物殿に展示されている宝物の撮影は禁止されていますが、このブログへの画像の掲載については日枝神社様のご許可をいただいて掲載させていただいております。(従って、画像の転載は固くお断りさせていただきます。)

 この掲載に際してご尽力いただいた権禰宜伊久様に改めて御礼申し上げます。

 まず、初代将軍徳川家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光の朱印状をご紹介します。

 先日の模擬試験でも出題しましたが、日枝神社は、家康から江戸城内に5石の神領を拝領し、2代将軍秀忠の時に、その5石と引き換えに100石寄進を受け、3代将軍家光の時に、さらに500石の寄進を受け、合計で600石となっています。

 その3代の朱印状をはじめ歴代12代の朱印状を日枝神社は現在も所蔵されているそうです。

 そのうち、初代家康の朱印状と3代家光の朱印状が宝物殿内のガラスケースに展示されています。 
 鬼平散歩の時にご案内しましたが、参加者の皆さん「本物の朱印状をみたのは初めてです」と大変喜んでいただきました。

 なお、家康・家光の朱印状の後ろ側には、墨摺りの祭礼番付が展示されていますが、宝物殿を訪ねたら、祭礼番付もご覧なってください。
家康の朱印状

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秀忠の朱印状
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家光の朱印状
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 宝物殿には、獅子頭が一対展示されています。

この獅子頭は、3代将軍家光の習字に用いる帳面・冊子を貼って作ったといわれる獅子頭です。
 山王祭では、神輿とともに獅子頭が渡御しました。

山王祭の行列でこの獅子頭が見えると江戸っ子は土下座したので、「土下座の獅子頭」と呼ばれたそうです。

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 また。山王祭山車人形が2体展示されています。
 神功皇后像と竹内宿禰像で文政5年に製作されたものだそうです。

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 楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ)の浮世絵も展示されています。

楊洲周延とは、明治時代に活躍した浮世絵師で、本名は橋本直義で、楊洲は号です。

高田藩の武士出身ですが、歌川国芳や三代歌川豊国に学び、代表作として「千代田の大奥」「千代田の御表」があります。

宝物殿には「千代田御表 山王祭礼上覧」と「江戸風俗十二ヶ月之内 六月 山王祭」が展示されています。
「千代田御表 山王祭礼上覧」

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以上、主要な宝物を紹介しまたしたが、そのほか、宝物殿には、刀剣が多数展示されています。

 私は、あまり刀剣の知識がないので解説することができませんが、お好きな方もいらっしゃると思いますので、お好きな方はご注目ください。



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by wheatbaku | 2015-10-22 09:05 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback(1)
第10回「江戸の祭礼と歳事」模試正解

 今日は、先週金曜日に出題した模擬試験の正解をアップします。

 今回は、間違がっている説明を指摘する問題を多くしました。

 そのため、幅広い知識が必要なので、正解を見つけるのが結構大変だったことだろうと思います。

 今回は、問題を難しくするために、間違い指摘の形式にしたのではありません。

 多くの知識を確認していただき、総復習していただこうと思ったのです。

 ですから、正解の数が少ないとがっかりしないで下さい。

 知らないこと・不確かなことを確認して復習するきっかけとしてください。

1

山王権現については、夏検には出題されていませんが、本試検では必ず出題されると思っていますので、要注意です。

①山王権現の神領は、合計で600石でしたので間違いです。参考図書参照P14

②山王祭の行列が初めて江戸城内に入ったのは寛永12年で将軍家光の時ですので間違っています。参考図書参照P16

③山王祭の行列は山車行列の最後に神輿3基が渡りましたので間違っています。参考図書参照P26

④御雇祭についての説明は正しいので、答えはこれとなります。参考図書参照P33

2

夏検では「取り締る人々」からは出題されていませんが、1級で出題される可能性が高いので、よく勉強しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P30

②説明文の通りです。参考図書参照P36

③説明文の通りです。参考図書参照P37

④天下祭の行列の江戸城内への繰り入れには、徒目付と小人目付が立ち会うと参考図書に書いてあります。徒目付・小人目付は目付の下僚で、目付とは異なる役職です。これが間違いです。 参考図書参照P37

3

浅草蔵前牛頭天王は、「団子天王」と呼ばれていました。参考図書参照P52

過去のブログでも紹介してあります。
 団子天王 をご覧ください。 

4

富くじについての参考図書の説明はかなり詳しいので、江戸の富くじの知識として読むという面でも大変参考になります。よく読んでおくとよいと思います。

①江戸で富くじが最初に行われたのは牛込戸塚の宝泉寺でしたので間違いです。参考図書参照P60

②説明文の通りです。参考図書参照P60

③説明文の通りです。参考図書参照P61

④説明文の通りです。参考図書参照P62

5

相撲もかなり出題しやすい項目だと思っています。よく勉強しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P66

②説明文の通りです。参考図書参照P66

③説明文の通りです。参考図書参照P67

④同じ藩の抱え力士同志の取り組みはありませんでしたが、同部屋対決はありましたので、この説明文は間違っています。参考図書参照P68

6

寄席は、江戸時代後期に非常に盛んになりましたが、天保の改革を大きな制限をうけています。

それについて詳しく参考図書にかいてありますので、その部分を選択肢の中に織り込んであります。

①説明文の通りです。参考図書参照P73

②天保の改革で、演じるのが許された出し物は神道・心学・軍書講釈・昔噺でした。軍書講釈が漏れていますので、これが間違っています。参考図書参照P73

③説明文の通りです。参考図書参照P73

④説明文の通りです。参考図書参照P74

7

「聖と俗の空間」は、浅草と吉原・猿若町の関係について今まであまり触れられていない視点で書かれていると思います。ちょっと注目です。

①説明文の通りです。参考図書参照P81

②説明文の通りです。参考図書参照P82

③浅草寺は、浅草に三座が移転してくることに当初は反対していたので、この説明が間違いです。参考図書参照P82

④説明文の通りです。参考図書参照P82

8

「江戸神仏願懸重宝記」は、これまで馴染みのない書物ですので、結構難しい項目です。

しかも夏検では出題されていません。だからといって油断は禁物だと思います。

ここは、要注意です。よく読んでおいたほうがよいと思います。

①「錐大明神」- 説明文の通りです。参考図書参照P86

②「源覚寺」- 説明文の通りです。参考図書参照P86

③「笠森稲荷」- 疱瘡平癒を願う際には土の団子を供えますので、これが間違いです。P87

④「高尾稲荷」- 説明文の通りです。参考図書参照P88

 

9

「稲荷信仰と稲荷社」について夏検では出題されていません。

しかし、江戸では「伊勢屋・稲荷に犬の糞」と呼ばれるほど多い神社です。

これも出題可能性が高いのでよく勉強しておいてください。参考図書参照P91

c0187004_16282879.jpg選択肢①三囲稲荷は東之方大関で、過去何度も出題されています。

選択肢②鉄砲洲稲荷が西之方の大関です。鉄砲洲稲荷は、24日の「鬼平散歩in佃島」でご案内する神社です。

選択肢③能勢稲荷は鷗稲荷とも呼ばれる稲荷です。

選択肢④下谷稲荷は現在下谷神社と名前を変えています。

10 

「流行神」というのは、あまり馴染みのない項目ですので、理解しにくい項目だと思います。しかも夏検では出題されていません。しかし、この項目は要注意だと思います。

 覚えるのが難しいからといって軽視するのは危ないと思います。

よく読んでおきましょう。

 嘉永2年の流行神は②翁稲荷 ③正受院の奪衣婆 ④お竹大日如来です。

選択肢①半田稲荷は麻疹流行のたびに人々が群参しましたが、嘉永2年の流行神ではありません。

参考図書参照P96

11

 伊勢参りは、過去にも出題されていますので、要注意です。

①伊勢御師の最大の収入源だったものは、檀家の人々を伊勢神宮へ導き、自分が経営する宿坊に宿泊させることでした。参考図書参照P103

②説明文の通りです。参考図書参照P103

③説明文の通りです。参考図書参照P104

④説明文の通りです。参考図書参照P105

12

 富士講は、江戸で非常に盛んでした。そこで、富士山信仰についても復習しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P107

②説明文の通りです。参考図書参照P108

③説明文の通りです。参考図書参照P109

④富士山の山開きは、現在は7月1日ですが、江戸時代には6月1日でした。富士講の部分だけでなく年中行事の方にも書かれていますので覚えておいてください。参考図書参照P109、P134

13

「厄災と慰霊」もあまりなじみのない項目です。なんで「江戸の祭礼と歳事」の参考図書に載っているのだろうと疑問に思った方もいるかもしれません。

 そういう疑問のある項目こそ要注意だろうと考えこの問題を出題しました。

①惣五郎が直訴したのは4代将軍家綱です。参考図書参照P114

②説明文の通りです。参考図書参照P114

③説明文の通りです。参考図書参照P114

④説明文の通りです。参考図書参照P115

14

 「江戸のおもな祭礼と歳事」から、夏検で「くらやみ祭」とも呼ばれる「府中六所明神祭礼」が出題されています。

 そこで、東京で有名な神社の祭礼を覚えてもらうため選択肢としてあります。 

①水天宮参り  説明文の通りです。参考図書参照P151

②湯島天神祭礼  説明文の通りです。参考図書参照P153

c0187004_16291642.jpg③佃島住吉明神祭礼では龍虎の頭が巡行しました。24日に開催する「鬼平散歩in佃島」では、これをご案内します。その前に右の写真でご案内です。参考図書参照P156

④王子権現祭礼 説明文の通りです。参考図書参照P157

15

今年は大阪でも江戸検が行われるので、西日本の祭礼にも念のため注意しておいたほうがよいと考えて、西日本の祭礼に関心をもってもらうため、あえて西日本の祭礼を選びました。

①和歌祭 説明文の通りです。参考図書参照P167

②津和野の鷺祭 説明文の通りです。参考図書参照P167

③小倉祇園太鼓 八坂神社に参籠した小倉藩主は細川忠興です。小笠原忠真は細川家が熊本に転封された後に入封した小倉藩小笠原家の初代藩主です。参考図書参照P169

④長崎くんち  説明文の通りです。参考図書参照P169


 以上、長い文章で、すみませんでした。

 読んでいいただいてお分かりになると思いますが、問題と選択肢とも、参考図書に記載されている順に並べてあります。

 総復習しやすいように、そうしてありますので、是非活用してください。


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by wheatbaku | 2015-10-20 09:38 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
第10回「江戸の祭礼と歳事」模擬試験問題

 今日は、江戸検のお題に関する今年最後の模擬試験を出題します。

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 夏の江戸検では、2級3級のみとはいえ、参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」から、ほとんどの問題が出題されています。

 そこで、今回は、参考図書から、全問題を出題します。

参考図書の総復習として利用下さい。
 
従来出題していない項目からも出題したため、問題数が15問となっています。そのため、今年の模擬試験問題は、総数で105問出題したことになります。
 いくらかでもお役にたったのなら幸いです。

正解は、来週火曜日にアップします。

1、山王権現と山王祭について書いた次の説明で正しいものはどれでしょう?

①山王権現の神領は、徳川家康が五石、2代将軍秀忠が百石を寄進し、さらに3代将軍家光が五百石を寄進し、合計で650石であった。

②山王祭の行列が初めて江戸城内に入ったのは元和元年で将軍秀忠の時である。

③山王祭の行列は山車行列の途中に神輿をはさむ形式であった。

④御雇祭は、幕府が氏子以外の町に命じて出させる出し物である。

2、天下祭は、大規模な祭礼であったため、幕府も取締を強化していました。

天下祭の取り締まりについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①祭礼番付は、事前の取り決め通り祭礼が行なわれているかチェックするものだった。

②天下祭では、町奉行所は祭礼取扱掛名主を任命し氏子町の出し物全般を監督させた。

③町奉行所の祭礼出役は山王・神田・赤坂氷川の祭礼当日、行列の巡行に際して取り締まりを行なうのが主な任務だった。

④天下祭の行列の江戸城内への繰り入れには目付が立ち会った。 

3、浅草蔵前の牛頭天王の祭礼は、6月8日に行われました。

 神輿には、榊と四神鉾の行列が加わり、氏子の家々では団子を付けた笹を神前に奉納しました。

 この祭礼のため、浅草蔵前牛頭天王は、別名で呼ばれましたが、その別名は次のどれでしょう?

 ①榊天王 ②四神天王 ③笹天王 ④団子天王

4、富くじについての次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①江戸で富くじが最初に行われたのは谷中感応寺であった。

②「御免富」が開始された時の将軍は8代将軍吉宗だった。

③「銭富」から「金富」へ移行された元文~宝暦期の富札1枚の販売価格は金一分であった。

④「江戸の三富」(感応寺・目黒不動・湯島天神)で富くじが開始されたのは、輪王寺と寛永寺の経営を救済するためだった。

5、相撲について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①勧進相撲は集客力の高い寺社で行われ芝神明宮でも行われたことがある。

 ②当初、勧進相撲には土俵がなく人垣のなかで取り組みをした。

 ③土俵に近い土間より桟敷席が高級な席であった。

 ④同部屋対決や同じ藩の抱え力士同志の取り組みはなかった。

6、寄席は江戸っ子に大変人気があり、天保の改革直前には211軒の寄席が確認されているほどでした。

それでは、寄席について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①文政~天保期の寄席は、昼夜交代制で7日目が区切りだった。

 ②天保の改革で、出し物は神道・心学・昔噺に限られた。

 ③天保の改革では江戸市中の15か所と、9か所の寺社境内での営業だけが認められた。

 ④天保の改革では寺社における寄席は各々1か所に制限されたが、浅草寺だけは3か所の設置が許可された。

7、浅草は吉原が近くにあるうえに、新たに造成された猿若町に江戸三座が移転させられました。そのため、浅草は、聖と俗の渾然とした町でした。

 これについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①スイスから来日したエメェ・アンベールは、浅草寺に吉原遊女たちの絵馬が飾られていることに興味を抱いた。

 ②吉原の仮宅が浅草寺と関係のある町に設置されたこともある。

 ③浅草寺は、参拝客が増えるので、当初から浅草に江戸三座が移転してくることに賛成していた。

 ④猿若町に移転後の中村座の初日に上演された演目は浅草寺に伝わる伝説をもとにした「金龍山誓礎(きんりゅうざんちかいのいしずえ)」だった。

8、「江戸神仏願懸重宝記」には、いろいろな願懸け対象が載っています。

それを中心に願懸けの方法として供物・断ち物・返礼などを決められた方法で行われたものがあります。次の組み合わせで間違っているのはどれでしょう?


 ①「錐大明神」- 3年間「鰯・ひしこ・ごまめ・たたみ鰯」などを口にしない。

 ②「源覚寺」- 願懸けする際に、「こんにゃく」を供える。

 ③「笠森稲荷」- 米の団子を供えて疱瘡平癒を願う。

 ④「高尾稲荷」- 祠に供えられた櫛を借りて、平癒後は櫛を倍にして奉納する。

 

9、「江戸の稲荷大明神番付」は、天保期ごろの江戸市中の稲荷を格付けしたものです。

 行事は、妻恋稲荷など5稲荷で、勧請元は王子稲荷となっています。

 それでは、西之方の大関となっている稲荷は次のどれでしょう?

 ①三囲稲荷 ②鉄砲洲稲荷 ③能勢稲荷 ④下谷稲荷  

10、江戸時代も幕末に近づくと異国船の接近が頻発したり天保の改革が失敗するなどして、漠然とした社会不安のなかで流行神現象が起こりました。

嘉永2年には複数の神仏が流行神となりましたが、次のなかで嘉永2年の流行神でなかった神仏はどれでしょう?

①半田稲荷 ②翁稲荷 ③正受院の奪衣婆 ④お竹大日如来

11、伊勢参りについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①伊勢御師は、いわば旅行斡旋業者であるが、伊勢神宮の神職だったものが商人化したもので、大神宮の御札が最大の収入源だった。

②伊勢参りする女性は嫁に家の実権を譲った40代~50代の人が多かった。

③オランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペルは、抜け参りの様子を「江戸参府旅行日記」に書き残した。

④犬だけの伊勢参りも行われ、1年ほどかけて会津の白犬が伊勢にお参りし帰国した例も記録されている。

12、富士講について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①江戸で富士講を拡大させたのは食行身禄(伊藤伊兵衛)である。

②富士講は江戸庶民に熱狂的に迎え入れられ、俗に「江戸八百八講、信者八万人」と呼ばれた。

③江戸の富士塚の初めは、高田藤四郎らが10年近くかけて築いた「高田富士」である。

④富士山の山開き(7月1日)には多くの参拝客が富士塚を訪れた。

13、佐倉惣五郎義民伝説について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①惣五郎は佐倉藩領の村役人で藩の苛政を3代将軍家光に直訴した。

②惣五郎を祀る「口の明神」が建てられた場所は平将門が城を築いた地とされている。

③惣五郎の百回忌に「宗吾道閑居士」の諡号を与えたのは堀田正亮だった。

④神田明神に祈願した時にみた夢に導かれ3代目瀬川如皐と佐倉に出向いて「東山櫻荘子」をつくった歌舞伎役者は市川小団次である。

14、江戸では特徴のあるさまざまな祭礼と歳事が行われました。その特徴ある祭礼・歳事について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①水天宮参り ― 参詣者は水難除け・安産を願い、錠または錠と椿を描いた額を納めた。
 ②湯島天満宮祭礼 ― 砥餅という砥石の形の餅を神前に供え氏子にも配った。

③佃島住吉明神祭礼 ― 2体の獅子頭が巡行し神輿を海中に担ぎ入れた。

④王子権現祭礼 ― 参詣人は神前に小さな鎗を納め、ほかの人が納めた鎗を火災盗難除けの守りとして持ち帰った。

15、日本全国で江戸時代に起源・由来をもつ祭礼が現在も多く行われています。

その祭礼について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①和歌祭 ― 紀州東照宮の完成の翌年元和8年に、紀州藩主の徳川頼宣が、徳川家康の霊を慰めるために行ったのが最初の紀州東照宮の大祭 

②津和野の鷺祭 ― 戦国時代に起源を持ちながら一時中断していたものを寛永20年に津和野藩2代藩主亀井茲政(これまさ)が復活させたもので、弥栄神社の例大祭で奉納される。

③小倉祇園太鼓 ― 元和4年の干ばつ・疫病・水害を憂えた小倉藩主小笠原忠真が八坂神社に参籠したところ平穏を取り戻したためお礼として催したことに始まる八坂神社の例大祭

④長崎くんち ― 寛永11年に二人の遊女が神前に謡曲「小舞」を奉納したことに始まる諏訪神社の秋季大祭 



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by wheatbaku | 2015-10-16 11:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
山王鳥居と社紋(日枝神社③ 江戸の祭礼と歳事)

  日枝神社の3回目は、山王鳥居と日枝神社の社紋について書きます。

c0187004_09235842.jpg 日枝神社は、永田町側の表参道と赤坂側の参道が主な参道です。

この参道に、大きな鳥居がありますが、この鳥居の形式が山王鳥居と呼ばれる日枝神社独特の鳥居です。
 右上が永田町側の山王鳥居で、右下が赤坂側の山王鳥居です。

c0187004_09253875.jpg神社にはご存知の通り鳥居がありますが、その鳥居もよくみると微妙に違っています。

 鳥居の形もいろいろあって、細かく分けると20近くの形式になるようですが、大きく分けて「神明鳥居」と「明神鳥居」に分けられます。

c0187004_09264297.jpg 「神明鳥居」というのは伊勢神宮の形式です。
 東京では芝大神宮の鳥居が代表的です。
(右写真)

「明神鳥居」というのは「神田明神」の鳥居です。
 (右下写真)
c0187004_09273461.jpg 神明鳥居と明神鳥居を見分けるポイントの一つは鳥居の一番上の横木(これを笠木といいます)が直線であるものが「神明鳥居」で、反っているのが「明神鳥居」です。


 山王鳥居は、明神鳥居の一種で、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしています。

 この鳥居は、合掌をしている形に見えることから「合掌鳥居」とも呼ばれるそうです。

 また、この「山王鳥居」には「山王」という文字が隠されているとも言われます。

鳥居の上の三角形の上の2辺を左右に開くと山という字になります。

また三角形の2辺の左右の端を上にあげると王という字になります。

 あわせて山王となります。

 なるほど「山王」という文字が隠れていますね。

 先日の鬼平散歩(赤坂)で、日枝神社にお参りした際には、宝物殿の前に、「フタバアオイ」の鉢植えがありました。右下写真参照。

c0187004_09280207.jpg フタバアオイは馬の鈴草(ウマノスズクサ)科の植物で、ハート形の葉を二つつけるのでフタバアオイの名がつけられました。

 フタバアオイですぐに思い出すのは徳川家の「三つ葉葵」ですが、「ミツバアオイ」という植物はなく、「フタバアオイ」を図案化したものと言われています。

鬼平散歩に参加された皆さんは大変興味深そうに眺めていました。

 なぜ、日枝神社に「フタバアオイ」があるのかというと、日枝神社の社紋が「丸に二葉葵」と呼ばれる紋だからです。

c0187004_09284708.jpg 日枝神社の社紋は、社殿の回廊の外にある山車庫に描かれています。

 こうした社紋を見て、山王権現は「将軍家の産土神」であったし、山王祭を将軍が上覧していたことを考えて、参拝者は「丸に二葉葵」の社紋を将軍家から拝領したのではといった推測をするようです。

 現に下見でお参りしていた際に、こうした考えを声高に説明している人もいました。

 しかし、「丸に二葉葵」の社紋は、徳川家とは関係がありません。 

c0187004_09375113.jpg「二葉葵」の社紋といえば京都の賀茂神社の紋が有名です。

 右写真は下鴨神社の境内図ですが、そこに「二葉葵」が描かれています。

 日枝神社と賀茂神社は、お祀りされている神様に関係があります。

日枝神社の主祭神は、「大山咋神(おほやまくひのかみ)」ですが、この大山咋神(おほやまくひのかみ)の妻が「下鴨神社」の祭神「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」です。

そして、大山咋神(おほやまくひのかみ)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)の間にできた子供が「上賀茂神社」の祭神「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」です。

 こうしたこともあって、日枝神社では「丸に二葉葵」の紋を使用しているようです。


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by wheatbaku | 2015-10-14 09:20 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
将軍の上覧と社参(日枝神社② 江戸の祭礼と歳事)

 今日は、日枝神社の2回目ですが、将軍の社参など将軍家との関係について書いていきます。

c0187004_10044686.jpg 日枝神社は、徳川家康が将軍となることにより「将軍家の産土神」となりました。

 そこで、しばしば歴代将軍は、初宮詣で、社参、山王祭上覧などを行っており、山王権現は将軍家とは特別の関係となっています。

これらについて、「日枝神社史」に基づいて書いていきます。

 最初に、江戸検の今年のお題にも関係する山王祭の将軍上覧回数を書いておきます。

 山王祭を初めて上覧したのは、寛永12年(1635)の3代家光が最初とされています。江戸時代を通じて、将軍の上覧は75回にわたっています。

家光は6回上覧していて、その後、4代家綱12回、5代綱吉13回、6代家宣2回、7代家継1回、8代吉宗12回、9代家重7回、10代家治13回、11代家斉9回と歴代将軍が上覧をしています。

しかし、12代家慶以降の歴代将軍はどういう事情かよくわかりませんが上覧していません。

 

 2番目にお宮参り(初宮詣で)について書きます。

c0187004_10054743.jpg産土神とは「生まれた土地の守護神」ということです。

徳川家康や秀忠は江戸で誕生していませんが、3代家光以降は江戸で生まれています。

現在でも、「お宮参り」といって、産土神にお参りしますが、将軍家で子供が生まれた場合の「お宮参り」(正式には「初宮詣で」といいます)が山王権現で行われました。

 初めて山王権現に初宮詣でした将軍は、3代将軍家光です。

その後、4代将軍家綱、5代将軍綱吉の初宮詣でが行われました。

6代家宣、8代吉宗、9代家重は、誕生した場所が江戸城内でないため、山王権現では初宮詣でをしていないようです。

7代家継は、江戸城で生まれているはずですが「日枝神社史」には初宮詣でをしたとは書かれていませんでした。

その後、10代将軍家治および家治の嫡子家基も初宮詣でを山王権現で行っています。

11代将軍家斉は、一橋徳川家の出身で一橋徳川家で誕生していますが、山王権現に初宮詣でしています。

12代将軍家慶は江戸城内で生まれているのですが、日枝神社の社史には初宮詣での記載がありません。

13代将軍家定は、山王権現に初宮詣しています。

14代家茂は、紀州和歌山徳川家出身ですし、15代慶喜は水戸徳川家出身ですので、山王権現での初宮詣ではありません。

3番目に、社参について書きます。

初宮詣でをしているくらいですので、将軍の社参もしばしば行われています。

 「日枝神社史」によると、将軍の社参がはじめて行われたのは5代将軍綱吉です。

 綱吉は、合計で12回山王権現にお参りしています。

以後、6代家宣が2回、8代吉宗が2回、9代家重、10代家治、12代家慶が1回社参しています。

11代家斉は50年間も将軍に在位していましたが、1度もお参りしていないようです。

最後に、年初の初詣です。

年初の初詣には、将軍の社参はなかったようですが、老中などによる代参が行われました。

 こうやって見てきますと、やはり、山王権現は将軍家にとって特別な神社だったようですね。




 


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by wheatbaku | 2015-10-13 09:59 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
日枝神社の歴史(日枝神社① 江戸の祭礼と歳事)

 先週は、江戸検受検のための基礎知識を覚えるための記事を書きました。

 これも暗記、これも暗記」という記事が続くと疲れると思いますので、今週は史跡案内の記事を書いていきます。 

先日の鬼平散歩では、日枝神社をご案内しました。

c0187004_19540790.jpg 日枝神社は、今年の江戸検のお題にも関係する神社ですので、今日から数回にわたって日枝神社について書いていきます。

 今日は、日枝神社の歴史について書きます。

日枝神社は、以前は、川越の山王宮(現日枝神社)を太田道灌が江戸に勧請したと言われていました。

 江戸名所図会を読むと「日吉山王の社」として書かれていますが、その中で、

文明年中(1469~87)太田道灌、この(武蔵国入間郡仙波にある星野山無量寺にある=現在の川越の喜多院)山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る。

 と書いてあり、斎藤月岑も喜多院から勧請されたと理解していたようです。

しかし、近年は、「千代田区史」や「日枝神社史」に書かれているように、太田道灌が勧請する以前に江戸氏が勧請した山王宮が江戸郷に鎮座していたと考えられるようになっています。

 その後、太田道灌が改めて川越の喜多院から山王宮を勧請したと考えられています。

c0187004_19543844.jpg 太田道灌が勧請した山王宮は、江戸城内の梅林坂にあったと考えられています。

 梅林坂は、現在も江戸城内に残されています。

右上写真が現在の梅林坂です。

c0187004_19544506.jpg右下写真は、梅林坂の説明板です。

 そして、徳川家康が、天正18年に江戸に入府します。

 その際に、徳川家康は、江戸城内に山王社が鎮座していることを知って大変喜んだそうです。

 そのことが、徳川実紀東照宮御実紀附録巻六に書かれています。

 御遷移のころ榊原康政をめして。この城内に鎮守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎮守の神にもあらん。御覧あれとて。康政嚮導してその所に至らせ給ふ。小さき坂の上に梅樹数株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと、直に御拝礼ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ当城に鎮守の社なくば。坂本の山王を勧請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも当城うごきなくして。御家運の栄えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城塁開拓せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半蔵門外に移し。明暦の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてて。当家歴朝の産神とせられ。

 
 このように徳川実紀には徳川家康は山王権現が江戸城内に鎮座していることを大変よろこんだと書いてあります。こうして、徳川家康は山王権現を「産土神」と定めます。

 この後それほどの時間をおかずに江戸城内の紅葉山に遷座したと考えられています。

c0187004_19554580.jpg そして、江戸城の大改造が行われましたが、この影響で、山王権現は、半蔵門外に移されました。

 山王権現が遷座した場所は、現在国立劇場がある近くで、ホテルグランドアーク半蔵門の西側の警視庁隼町住宅隼寮あたりと考えられています。

 右写真はホテル グランドアーク半蔵門です。

 

 この半蔵門外の山王権現は、明暦3年に起きた明暦の大火で焼失してしまいました。

 そこで、幕府は溜池の上にある星岡(ほしがおか)の福知山藩松平忠房の上屋敷を収公し、そこを山王権現の新しい用地と定め、社殿を造営しました。

 遷座の理由は、武江年表には次のように書いてあります。

 旧地は御堀端にして、彦根候の御屋敷より道を阻て北に在しが、社地狭く、火災の時、類焼の患あるが故、当時の所、松平主殿頭殿御屋敷にてありしを、災後社地となし給へり

 半蔵門外の山王権現は境内が狭くて類焼しやすかったためと思われます。

 そして、永田の地が選ばれたのは、江戸城の裏鬼門にあたる方角であるためと言われています。

 明暦の大火が起きたころには、すでに表鬼門には寛永寺が造営されていました。

 寛永寺はいうまでもありませんが、天台宗です。

 近江坂本の山王権現(現在は日吉大社という)は、もともと延暦寺を守護する神社でもありました。そのため、天台宗と山王権現と非常に密接な関係をもっていました。
 喜多院も天台宗でした。また、
山王権現の別当寺は寛永寺の末寺でした。
 山王権現の別当寺は当初最教院その後観理院が務めました。
 初代別当の晃海が天海大僧正の愛弟子でした。
 こうしたことをみても天台宗と山王権現の関係がわかるとと思います。

 そこで、明暦の大火後の江戸の大改造の際に、表鬼門の寛永寺と対をなすようにして裏鬼門守護の役割を持つ神社として山王権現が選ばれたのではないかというのが私の推測です。

 それ以降、江戸時代を通じて、山王権現は、永田の地に鎮座していました。

 しかし、明治元年に神仏分離令が発布されました。

 そこで、山王権現は、社名を「日枝神社」と変更しました。

 山王権現の別当寺は観理院でしたが、最後の別当「広深」は退転し常陸国稲敷郡新利根村逢善寺に移りました。

その他の子院の住職たちも還俗したり退転しました。こうしたことと現在は日枝神社周辺に1か寺もないことを考えると、観理院をはじめとした寺院はすべて廃寺になったものと思われます。



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by wheatbaku | 2015-10-12 08:54 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
第9回「江戸の祭礼と歳事」模試正解

 今日は、先日出題した9回目の「江戸の祭礼と歳事」に関する模擬試験の正解をアップします。

 今回もお題の参考図書「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」から出題してあります。

 8月に行われた夏検では、年中行事に関する問題が2級では6問、3級では9問出題されています。

 夏の江戸検講座で受講者の皆さんに「年中行事は要注意」といっていた通りの傾向でした。

そこで、今回は年中行事に関する問題だけを出題しましたが、あまり知られていないことを問題としたため難しかったかもしれません。

たとえ正解に到達しなくても、まだ1か月ありますので、参考図書を勉強する時間は十分あります。

この模擬試験が参考図書精読のきっかけになれば幸いです。

1④薬研堀不動尊

 歳の市は、12月15日の富岡八幡宮から始まりますが、縁日とあわせて開催されることが多かったようです。

例えば、天神様の縁日は25日でした。そこで12月25日26日は平河天満宮で歳の市が開かれています。

28日はお不動様の縁日です。それに合わせて両国(現在の東日本橋)にある薬研堀不動尊で開かれる歳の市が、江戸で最後の歳の市となりました。

参考図書P143を参照してください。

2、②眼病

灌仏会で甘茶をかけるのは良く知られていますが、これは、釈迦誕生の際に帝釈天・梵天および九龍が香水で洗浴したということに由来すると三省堂「年中行事事典」に書かれています。

この甘茶が眼病に効くとされたことが、参考図書P132に書かれています。

3、③皐月狂言

 この問題は間違えた人が多いのではないでしょうか?

 曾我狂言といえば初春狂言と思っている人が多いと思います。

 私もそう思っていた一人ですが、参考図書のP146に詳しくかかれていますので、気を付けて読みなおしてください。

 また、東都歳事記の五月二十八日に「三芝居曾我祭」として書かれていますので、東都歳事記をお持ちの方はこちらも確認しください。

4、①お花講

これは参考図書のP135に書かれています。

「お花講」というのはおもしろい名前だなと思ってインターネットで検索しました。

伊勢原市のニュースリリースに書かれていますが、それによると、「お花講」は、日本橋小伝馬町の講で、大山三大講の一つにかぞえられた大きな講のようです。

5、④灸をすえる 

 参考図書P128を参照してください。 

次のような川柳があります。

可愛さの あまり泣かせる 二日灸  

二日には 母も子のため 鬼になり


6、③4間の座敷に台所が1間ある島市丸

 東都歳事記の五月の「船遊山」という項目に、「熊市丸」「山市丸」「窮屈丸」が書かれていますが、「島市丸」は書かれていません。

東都歳事記をお持ちの方は確認しておいてください。

7、②今戸の硯

 参考図書P129を参照してください。

 初午の日は、江戸では手習い師匠の入門の日とされることが多いということは、1級を受検される人には常識レベルと考え、少し難しくしました。

初午は要注意事項ですので、よく読んでおいてください。

8、①たこ 

参考図書P133をよく読んでおいてください。

今年は大阪でも江戸検を受検できるようになりました。

江戸だけでなく関西の年中行事も要注意と思います。

そこで、関西関係の問題を出題しました。

9、①鶏の絵

 参考図書P142を参照してください。

荒神様については、過去に出題されたこともありますので、よく理解しておいてください。

昨年には、品川の海雲寺の「千体荒神祭り」に行ってきましたが、鶏の絵が描かれた絵馬は売っていませんでした。

そこで、要注意と考えて出題しました。

「鶏の絵馬は何除けのためか?」などという問題が出ると意外に難しいかもしれません。

10、②お中入り

 町入能の実施日についてはコメントで指摘をいただきましたが、江戸検の模擬試験ですので、参考図書P130の記述をもとに出題してあります。

 この記述は町入能についてかなり詳しく書かれていますので、よく読んでおいたほうがよいと思います。

 傘を受取ったことなどは要注意だと思います。





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by wheatbaku | 2015-09-30 11:36 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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