カテゴリ:江戸の大変( 30 )
地震火事と浄閑寺(江戸の十大大火⑩ 江戸の大変)

江戸検が明後日に迫ってきました。

江戸検を受検される皆さん頑張ってください。

さて、江戸の十大大火ですが、最後は「地震火事」です。

地震火事は、安政江戸地震に関連して発生した火事です。

安政江戸地震は安政2年10月2日に江戸を襲った地震です。

この地震直後に起きた火災が、江戸の十大大火の一つに数えられています。

地震が起きたのは、午後10時ごろでしたが、火災が江戸市中各所から起きました。

江戸検お題のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」では、この時の死者は3800人と書かれています。これは当然地震による死者も含めたものだと思います。

この中で、安政江戸地震で特に被害が大きかったのが、吉原です。

「武江年表」には、

吉原町の焼あるは他所より早し、京町2丁目・江戸町1丁目より火起こり、其余、潰れたる家々より次第に焼出て、一廓残らず焼亡す

と書かれています。


 吉原は、遊女の逃亡を防ぐため、遊廓の周囲は、いわゆる「おはぐろどぶ」と呼ばれた堀によって外界から遮断されていて、出口は大門だけでした。

 『実録大江戸壊滅の日』(荒川秀俊著 教育社刊)によると、この日、遊廓ではまだ宵の口の午後9時ごろ、入口に近い江戸町一丁目で火事があり、その火事が、まだ鎮火しない時間帯に安政江戸地震が起こったと書いてありました。

そのため大門付近の火災によって遊廓内の人々は外部への逃げ路が亡くなりました。

また、非常時のために設置されているおはぐろどぶの跳ね橋を下ろすこともできなかったようです。こうしたことから、大勢の焼死者がでることとなりました。

『安政江戸地震』(野口武彦著 ちくま学芸文庫)に載っている江戸町方の死者数は第1回では江戸全体で3950人うち685人、第2回調査では、江戸全体で4293人うち630人となっています。

この資料によれば深川地区の死者も多いのですが、吉原は3町四方という狭い範囲となりますので、安政江戸地震の際の実質的な最大の被害地は吉原ということになります。

吉原の大見世の三浦屋では、かせぎのよい遊女を選んで穴蔵へ入れて助けようとしましたが、火が入って全員焼け死んだという悲劇も起きました。

c0187004_12004687.jpgこれらの遊女たちの死骸は、三ノ輪の浄閑寺境内の穴の中に投げこまれたといわれています。右写真は浄閑寺の山門です。

浄閑寺は、東京メトロ「三ノ輪」駅から徒歩3分程度の至近距離にあります。


浄閑寺には、遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が本堂裏に建立されています。(右下写真)

c0187004_11593299.jpg浄閑寺の説明によれば、現在の塔は、安政江戸地震で亡くなった500余人を含めた寛政5年以来の遊女の供養塚を昭和4年8月に改修して形を改め、名前も「新吉原総霊塔」としたものだそうです。

新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は2万5千に及ぶと浄閑寺のHPに説明されています。

 また、浄閑寺には安政江戸地震と、それにつづいて起こった火災のためなくなった遊女の過去帳が現在も残っているそうです。



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by wheatbaku | 2016-11-01 11:49 | 江戸の大変 | Trackback
文政の大火と神田佐久間町(江戸の十大大火⑨ 江戸の大変)

江戸の十大大、今日は「文政の大火」について書いていきます。

文政の大火は、文政12年3月21日 神田佐久間町から出火した火事です。

そのため「佐久間町火事」とも呼ばれます。

佐久間町は、現在の秋葉原駅の東側の神田川の北側一帯で、現在も、神田佐久間町1丁目~4丁目の名前が残されています。

武江年表には、次のように書かれています。

三月二十一日(陽歴四月二四日)、北風烈しく、已の刻過、神田佐久間町弐丁目河岸の材木小屋より火出て、神田川を飛て東神田武家・町屋一円に焼、夫より東は両国橋際・浜町辺武家方より永代橋手前迄、西は須田町通り西側残り、東側より今川橋向本銀町・本町河岸・御堀端通・数奇屋橋外迄、南は新橋・塩留迄を限りとし、其間の町々は本町・石町・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町辺一円・堺町・葺屋町両座芝居・牢屋敷辺・小網町・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲・築地武家方・西門跡より先、海手に至り佃島迄、木挽町芝居・京橋・新橋辺町屋類焼に及び、翌二十二日朝鎮火す。武家方類焼夥しく、南北凡一里余、東西二十余町。焼死・溺死の輩千九百余人と聞り。御救の小屋九ヶ所を建て、類焼の貧民を救せらる

これによると、出火した日は、北風が強くて、佐久間町2丁目で発生した火事は、神田川を飛び越えて、東神田から京橋・新橋あたりまで延焼し、東側は、 両国橋の西際から八丁堀から築地を焼失させ、佃島まで延焼しています。

21日の午前10時ごろに発生した火事は、翌日で燃え続け、朝にようやく鎮火したようです。

この文政の大火は、第9回の江戸検1級の第100問目で記述問題として出題されています。

第100問 文政12年(1829)年3月に中村座や市村座を焼いた「文政の大火」は、その年の干支から「己丑の大火」とも呼ばれました。これに対し、その5年後の天保5年(18342月に中村座や市村座を焼いた火事は、「(  )火事」と呼ばれます。(  )に入る干支を漢字2字で書いてください。

 この正解は「甲午」なのですが、甲午火事も大きな火事でした。

 江戸検のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の「江戸時代のおもな大火」の中にも「甲午火事」として書かれています。

 この火事は、「武江年表」には、

二月七日(陽暦三月十六日)、北風烈しく、昼八時、神田佐久間町二丁目琴師の家より出火して、即時に神田川を越て東神田お玉が池の辺へ移り、一円に焼広がり、東は両国矢の倉(旧名なり)辺にいたる。西は神田お玉が池より今川橋向・本銀町・石町・本町・室町迄東側一円、伝馬町牢屋敷・油町・塩町・堺町・葺屋町両座の芝居・住吉町・難波町・大坂町・小網町辺。この間に挟りたる町は、少しも残る所なし。日本橋より先は、通り町筋東側・八丁堀・霊巌島の辺・新川・新堀・永代橋際迄、鉄畑洲・築地門跡より海手まで、木挽町芝居・佃島等悉く焼亡す。方域、去ル丑年三月の火事に大やうたがはず。

このように、甲午火事も、文政の大火と同じように神田佐久間町から出火しています。

こうしたことから、「またも火元は佐久間町」とも言われ、佐久間町でなく「悪魔町」と呼ばれることもあったそうです。

こうした汚名をそそぐため、佐久間町では防火に力をいれ、何がなんでも火はださないと消防訓練に努め、関東大震災のときには、周辺地区大部分が、地震後に発生した火事により焼失するなかで、佐久間町町民は町内からは火を出さず、町を守り抜いたそうです。

c0187004_09212609.jpgそれを記念した「防火守護地」碑が秋葉原駅東にある和泉小学校校庭の前に建てられています。

防火守護地の碑文には次のように刻まれています。

この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります

佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部

昭和四三年四月二四日佐久間小学校 地元有志 秋葉原東部連合町





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by wheatbaku | 2016-10-31 09:15 | 江戸の大変 | Trackback
丙寅の大火と芝車町(江戸の十大大火⑧ 江戸の大変)

 江戸の十大大火、今日は文化3年3月4日に起きた大火です。

この大火は、この年の干支が丙寅(へいいん:ひのえとら)であったことから丙寅の大火とよばれています。また、芝車町から出火したことから車町火事とも言います。また芝車町は牛町とも呼ばれたことから牛町火事ともいいます。

 この火事は明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大火の一つに数えられています。

文化3年3月4日四ツ刻過ぎ、芝車町の材木屋付近から出火しました。

その日は、南西の風が強く吹いていて、火はたちまち札ノ辻へ延焼し、芝、京橋、日本橋を焼いて、神田川を越えた火事は、浅草門外から浅草辺りまで延焼していきました。

そして、翌日の5日は大雨となり、さしもの大火も昼四つ時(午前10時ころ)には鎮火しました。

類焼した長さは、「武江年表」によれば、長さ2里半といいいますから10キロほどの街並みが燃えたことになります。

焼死溺死した人が1200人と「武江年表」と書いてあります。

この火事に、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが遭遇しています。

ヘンドリック・ドゥーフは、蘭和辞典の「ドゥーフハルマ」(長崎ハルマとも呼ばれる)の著者です。

さて、火元となった「車町」(通称牛町)について説明しておきます。

c0187004_14102338.jpg「車町」は、高輪にありました。泉岳寺の近くです。

 寛永11年の増上寺の安国殿を建立するなどの際に、資材の輸送のため、江戸にはなかった牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋を江戸に呼び、材木や石類の運搬に当たらせました。

工事終了後、褒美として、高輪での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えました。

この人たちが居住した場所が「車町」です。

歌川広重の名所江戸百景の中の「高輪うしまち」(右上写真)は、車町を描いたもので、手前に大きな車輪が描かれていて、いかにも頑丈そうな車だということがわかりますし、犬も描かれてるのが広重らしいと思います。

 遠景は、高輪と品川の海ですが、よく見るとお台場が描かれています。


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by wheatbaku | 2016-10-27 14:08 | 江戸の大変 | Trackback
小石川馬場火事と護持院ヶ原(江戸の十大大火⑤ 江戸の大変)

 江戸の十大大火の一つ「小石川馬場火事」について書きます。

 小石川馬場火事は、享保2年1月22日に小石川馬場近くから出火した火事です。

 名前の由来となった小石川馬場というあまりなじみがない場所なので小石川馬場がどこにあったのか調べました。

 小石川馬場は、名前の通り小石川にありました。下の図が万延2年の江戸切絵図「小石川谷中本郷絵図」の一部を拡大したものです。

 緑色の部分が小石川馬場と書かれています。
 絵図の上部に白山権現というのがあります。これが現在の白山神社ですので、小石川馬場は、
現在で言うと、白山下交差点の少し南東側辺りだと思います。

c0187004_10015589.jpg

『武江年表』享保2年正月22日の項には、

「小石川馬場脇井出某殿より出火、湯しま・護持院の荘厳、神田橋御門内・鍛冶橋御門まで諸侯の藩邸数宇、通町・八丁堀・築地まで武家・町屋とも夥しく焼亡あり」

と書かれています。白山下から神田・日本橋に延焼し、八丁堀や築地まで燃えていったようです。

 この火事で燃えた大きな寺院に護持院があります。

護持院は、元禄元年(1688)、5代将軍徳川綱吉が柳原にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称したことに始まるお寺です。

この大寺院が焼失し、さらに江戸城にも火がおよぶかもしれない状況だったことから、大火の後、護持院は大塚の護国寺に移され、その跡は、広大な火除地とされました。

『武江年表』(ちくま学芸文庫)享保2年正月22日の項には

「災後、護持院を小日向の末に移され、その跡幷雉子橋外武家屋敷跡、畾地(らいち)となれり。」と書いてあります。

そして、この『武江年表』(ちくま学芸文庫)の校訂をした今井金吾の補訂として「畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。」と書いてあります。

護持院ヶ原は、広大な原っぱで、江戸名所図会によれば、冬から春にかけては、将軍家の猟場として使用されましたが、夏から秋にかけては、江戸の市民に開放され、市民の憩いの場とされていたようです。

この護持院ヶ原で思い出すのが、森鷗外の「護持院原の敵討」です。
c0187004_10014561.jpg 新潮文庫にも収録されている短編ですが、印象深いので良く覚えている小説です。

これは天保年間に姫路藩酒井家の大金奉行であった山本三右衛門が藩邸の小使いに殺害され、これを三右衛門の息子・娘が敵討を志し、それに加勢する三右衛門の実弟が九州まで探し歩いた末に、江戸の護持院ヶ原で見事討ち取る話です。

敵討ちの旅の途中で、息子が脱落する場面があり、そうした事態にもめげす江戸に残された娘のりよが、叔父からの「敵見つかる」の知らせを受け、護持院ヶ原で見事敵討ちをする場面が印象的でした。

この小説を森鷗外が実話に基づいて書いたものかどうか調べましたが確証はとれませんでした。

しかし。鷗外は、この小説の最後に

「この敵討のあった時、屋代太郎弘賢(ひろかた)は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。

『又もあらじ 魂祭(たままつ)るてふ 折に逢ひて 父兄の仇討し たぐひは』」 

と書いています。

 確かに屋代太郎弘賢は実在の人物で和学講談所の会頭まで勤めた人物ですので、鷗外は護持院ヶ原での敵討に関する何らかの資料を持っていて、この小説を書いたものだろうと思っています。

 護持院ヶ原は、明治以降は文教地域になりました。

まず、幕末の文久2年蕃書調所が洋学調所と改称して護持院ヶ原に移り、翌3年開成所と改め、明治2年大学南校となりました。さらに6年開成学校、7年東京開成学校と改め、明治10年東京医学校と統合し東京大学が創立されました。 

c0187004_10370463.jpg さらに、広大な敷地には、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の前身となる東京外国語学校、華族学校、東京商業学校などの学校が次々の開設され、これらの大学の発祥の地になっています。 
 学士会館の入り口近くに「我が国大学発祥の地」の説明板(右上写真左)と「東京大学発祥の地」の石碑(右上写真右)が設置されています。




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by wheatbaku | 2016-10-20 09:53 | 江戸の大変 | Trackback
水戸様火事(江戸の十大大火④ 江戸の大変)

江戸の十大大火、今日は「水戸様火事」についてです。

「水戸様火事」は元禄16年11月29日に、水戸藩徳川家の小石川の上屋敷から出火した火事です。

 「水戸様火事」というのは、水戸藩邸が出火元による呼び名だろうと思います。

 元禄16年11月23日に元禄地震が江戸を襲いました。

 そして、その後の余震は連日続きました。

そうした中、11月29日の午後7時ごろ大きな震動がありました。

そのころ小石川の水戸藩上屋敷から出火しました。

火事は東に進み湯島聖堂や神田明神を焼いた。そして本郷に広がり加賀藩前田家上屋敷(現在の東大本郷キャンパス)から駒込近辺までを延焼しました。

ここで風向きが北西に変ったので、猛火は進路を変えて不忍池のほとりにあった寺院を燃やした後、谷中から上野の寛永寺に迫り、西側の子院が炎上しました。

不忍池付近の火は池之端から湯島天神に接近し、さらに現在の秋葉原・御徒町一帯を火の海にしました。

 午後10時ごろから季節風がいっそう強くなり、浅草橋も焼失し、両国橋も焼け落ちてしまいました。

 火災はさらに隅田川を越えて本所・深川に広がり、回向院・霊厳寺などの寺社が灰になりました。
 この水戸様火事が鎮火したのは翌12月1日の早朝でした。

 焼失した大名・旗本屋敷は275、寺社は75にのぼりました。

火災の間にも地震が5,6回あり、人々は。地震火事”とも呼びました。

 水戸様火事は地震と火災の複合災害であったと言われています。


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by wheatbaku | 2016-10-17 10:16 | 江戸の大変 | Trackback
勅額火事(江戸の十大火事③ 江戸の大変)

江戸の十大大火のお話ですが、今日は勅額火事について書いていきます。

勅額火事は、元禄11年9月6日に起きた火事です。

勅額とは上野の東叡山寛永寺の根本中堂の正面に掲げられた額をいいます。

 寛永寺全体の本堂にあたる根本中堂は、将軍綱吉が、柳沢吉保を普請の総奉行に命じ、工事御手伝いを島津綱貴に命じて建立させました。

 高さ30.8メートルの根本中堂は、元禄11年7月に完成し、根本中堂の落成式は9月3日に盛大におこなわれました。

なお、根本中堂建設の余った材木で隅田川下流に永代橋が架けられました。

根本中堂は完成しましたが、東山天皇御宸筆の勅額が間にあいませんでした。

c0187004_10352241.jpg勅額が江戸に着いたのは9月6日でした。

勅額は大きな横額で、黒塗りの上に金で「瑠璃殿」の三文字を草書で入れ、縁は雲の模様でした。

その勅額は、現在も寛永寺の根本中堂に掲げられています。(右上写真)

その日の午前10時近く、数寄屋橋門外の南鍋町から火が出た火事が千住まで延焼する大火となりました。

勅額が江戸に到着した日に起きた火事であるため、勅額火事または中堂火事と呼ばれています。

南鍋町で出火した火事は、激しい南風が吹いていたため、数寄屋橋門内から鍛冶橋門内に広がり、吉良上野介義央の屋敷をはじめ多くの大名屋敷を焼失させました。

その中には、呉服橋門内にあった熊本藩細川家の上屋敷も焼失しました。

この時、熊本藩主細川綱利は神田橋外にあった護持院の防火を命じられて出動していました。護持院は無事でしたが、留守中、自分の屋敷は焼失してしまいました。

また、南町奉行所も炎上し、柳沢吉保の常盤橋門内の屋敷も焼失しました。

柳沢吉保はいったん屋敷にもどったが、夜になって寛永寺にまで火事が延焼したと聞いたので、江戸城に出仕しました。

 上野にあった林羅山以来の林家の別荘や旧孔子廟・墓地なども焼失しました。

余談ですが、のちに、林家の土地は寛永寺領になり林家には牛込に代地が与えられました。また、湯島天神下の新井白石の屋敷も焼失しました。

寛永寺では、黒門と仁王門が焼け、つぎに本坊が表門と御成門を残してすべて焼け、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟も焼けました。

当時の寛永寺の防火担当は秋田藩藩主佐竹義処でした。

佐竹義処のまさに合戦さながらの活躍で、完成したばかりの根本中堂の焼失は免れました。

しかし、佐竹家では、上屋敷はじめ屋敷四か所を焼失しまったそうです。

この時の佐竹義処の活躍ぶりを、寛永寺の防火のため出動していた水戸藩の徳川綱条は褒め称えたと記録が残されています。
c0187004_10353513.jpg この時、焼失を免れた根本中堂は、その後の多くの火災にも焼失することなく幕末まで残されました。 しかし、慶応4年の上野戦争で焼失してしまい、現在は、明治12年に川越喜多院の本地堂が移築され再建されています。(右上写真)

この火事で、浅草の三十三間堂も焼けてしまいました。この後、三十三間堂は、深川に再建されました。

火事は、千住の掃部宿まで延焼し、ようやく鎮火しました。



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by wheatbaku | 2016-10-14 10:22 | 江戸の大変 | Trackback
お七火事(江戸十大火事①  江戸の大変)

 十大大火という言葉あるごとく江戸は火災の多い町で、しばしば大火が発生しています。江戸検お題テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の第一章の「大火」では、最も大きな被害があった明暦の大火について説明してあります。

 しかし、その他の大火は、表1ページに説明さているだけです。

 そこで、これから、江戸の十大大火について、順に説明していきます。

 まず、江戸の十大大火とは『江戸学事典』では、次の10個の火事が十大大火だとしてあります。

 1、明暦の大火 2、お七火事 3、勅額火事 4、水戸様火事 5、小石川馬場火事 

6、目黒行人坂の火事 7、桜田火事  8、丙寅の大火(車町火事、牛町火事)

 9、文政の大火(佐久間町火事) 10、地震火事

 

 これらについて、順に説明していきます。

 「明暦の大火」については、「天下大変」に十分説明されているので、ここでは、「お七火事」から説明していきますので、今日は、まず「お七火事」について説明します。

 「お七火事」と呼ばれている火事は、天和2年12月28日に起きた火事です。

 「お七火事」の火元は駒込大円寺です。駒込大円寺は、慶長2年い創立された曹洞宗のお寺です。

 午前11時過ぎに、境内の塔頭から出火したと言われていて本堂や庫裏は無事でしたが、隣の同心屋敷に火が移り、一気に本郷まで燃え広がりました。

 本郷の加賀藩前田家上屋敷や支藩の富山藩・大聖寺藩の上屋敷を焼失させました。

 その火は神田から浅草橋まで広がり、隅田川を飛び越えて本所から深川まで延焼し、富岡八幡宮焼失させた後、海にあたり、ようやく鎮火しました。

 この火事で松尾芭蕉の芭蕉庵が焼失しています。

 深川の芭蕉庵は、芭蕉の弟子の杉山杉風の生簀(いけす)屋敷座興庵の一隅にありました。

 松尾芭蕉自身は、近くの六間堀にまで逃れ、川の中から頭をだして助かりました。

「武江年表」にも「深川の芭蕉庵、急火にかこまれ、翁も湖にひたり烟中をのがれしというは此時の事なるべし」と書いてあります。 

これがいわゆる「お七火事」と呼ばれる大火です。

「お七火事」というと八百屋お七が放火した火事と思われることが多いのですが、「お七火事」と八百屋お七が放火した火事とは別の火事ですので、そちらについても書いておきます。

八百屋お七の放火事件が起きたのは天和3年3月2日です。

お七の父は市左衛門といい、本郷の森川宿で大きな八百屋を営んでいました。

お七は自宅近くの軒板の隙間に綿くずを藁に包み火をつけました。

しかし、これはボヤ程度で済んでいます。

従って、八百屋お七が起した放火は大火とはなりませんでした。

しかし、放火犯は重罪です。そのため八百屋お七は火罪となりました。

うら若い美女が火罪になるというので、江戸で大評判となりました。

これが井原西鶴の「好色5人女」に取り上げられたり、歌舞伎にも取り上げられました。
 歌舞伎の演目としては河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」が有名です。





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by wheatbaku | 2016-10-10 12:19 | 江戸の大変 | Trackback
お玉ヶ池種痘所の再建と浜口梧陵(種痘⑥ 江戸の大変)

 お玉ヶ池種痘所は、江戸の蘭方医たちの努力により安政5年5月7日にようやく開設されました。

 開設後、種痘を順調に行っていたお玉ヶ池種痘所ですが、開設後半年あまりたった11月15日に起きた神田界隈の火災によって類焼してしまいました。

一日といえども体むわけにはいかない種痘事業なので、神田川の北岸にある和泉橋通の伊東玄朴宅と下谷練塀小路の大槻俊斎宅を仮種痘所として種痘を再開しました。

種痘所の再建は急務でしたが、半年前に種痘所建設のために多額の資金を提供した蘭方医たちには、再建のための資金を調達する余力はありませんでした。

そこで、種痘所開設の発起人の一人である三宅艮斎は銚子の豪商浜口梧陵に助力をあおぎました。

浜口梧陵は、ヤマサ醤油の7代目浜口義兵衛のことです。

浜口梧陵は、紀州有田郡広村の浜口家の分家に生まれ、12歳の時に銚子で醤油製造を営む本家浜口義兵衛の養子となり、銚子にうつって醸造業に専念していました。
 ここで、浜口梧陵は
、三宅艮斎と出会いました。

三宅艮斎は、肥前国に生まれ、4歳のときに長崎に留学して、蘭方医楢林栄建(楢林宗建の父)についてオランダ医学をおさめました。その後、江戸の薬研堀で父英庵の後を継いで医者となりました。

しかしこのころはいわゆる天保の改革によって江戸は不景気のどん底にあったので、伝手をえて銚子に移って開業医となりました。

ここで、浜口梧陵と三宅艮斎が知り合い、親交を深めました。

 弘化2年4月三宅艮斎が佐藤泰然の推薦によって佐倉藩医となって銚子をはなれたのちも親交はつづいていました。
 
 三宅艮斎と浜口梧陵はこのような関係にありました。 
 そこで、三宅艮斎から要請を受けた浜口梧陵はよろこんで承知して、梧陵は三百両を寄附しました。
 これが誘い水となって、他の有志からの寄附があつまり種痘所再建のめどがたち、和泉橋通付近に適当な地所を探し求めたところ、大御番内甲王殿頭組白井謙太郎屋敷地240坪と、小普請組初鹿野河内守組山本嘉兵衛屋敷地170坪を借用して建築にかかり、安政6年9月に竣工しました。(『伊東玄朴』から)

c0187004_11574282.jpg 建物は建ちましたが、そこで使用する図書や器械類が不足していたので、浜口梧陵は図書や器械の購入費としてさらに四百両を追加寄附しました。
 右写真は、台東区教育委員会が設置した「伊東玄朴邸跡。種痘所跡」の説明板です。秋葉原駅の北東方向の歩道脇に設置されています。

 本来なら再建にあたっても焼失前の地をもとめるのが普通ですが、そうではなく、別の場所で再建されています。
 これには次のような事情がありました。

このとき伊東玄朴たち蘭方医はすでに奥医師に取りたてられていたが、それを推進した中心人物は井伊直弼でした。
 そこで、井伊大老によって勘定奉行を罷免された川路聖謨の拝領地を再び借り受けようとは伊東玄朴は考えなかったのだろうといわれています。
 また、再建しようとした時には、お玉ヶ池種痘所のあった土地は、川路聖謨が失脚していたため、すでに川路聖謨の拝領地ではなかったという事情もあるようです。

 なお、浜口梧陵は、安政元年に起きた安政南海地震により紀伊国日高郡が大津波におそわれたときに、梧陵は自らの稲村に火を放って村人に津波の来襲を知らせて救いました。

 この実話をもとに創作された物語が「稲むらの火」で、戦前の小学校5年の国語の教科書に掲載されていました。
 このことは、お題のテキスト『天下大変 江戸の災害と復興』にも書かれています。



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by wheatbaku | 2016-09-26 10:15 | 江戸の大変 | Trackback
大坂の緒方洪庵、分苗を受ける(種痘③ 江戸の大変)

 今日は、大坂の緒方洪庵への分苗について書きます。

 「天下大変 江戸の災害と復興」では、京都の日野鼎哉から大坂の緒方洪庵に種痘が比較的簡単に分苗されたように書いてありますが、実際は簡単ではなかったようです。

 嘉永2年11月1日に京都の除痘館を、緒方洪庵は日野鼎哉の弟日野葛民、さらに小林安石という医師とともに訪れます。

 一行は、一人の幼児を伴なっていました。

 京都の日野鼎哉が成功した痘苗を接種したもらうためです。

 しかし、この日、三人の願いは拒否されました。

 それは、京都の除痘館で使用されていた痘苗は、もともと、越前藩の医師笠井良策が、藩主松平慶永の許可・支援を受けて入手しようと取り組んでいたもので、その意向を知った日野鼎哉が協力して長崎の穎川四郎左衛門から入手したものです。

 従って、越前藩の笠井良策にとっては、痘苗は越前藩が所有するもので、笠井良策の個人のものではないので安易に分苗できないという考えだったようです。

 痘苗の入手を切望していた緒方洪庵たちは大変困惑しました。

 そこで、話し合いが行われました。
 その結果、痘苗がなくなるのを防ぐためには、多くの痘苗を各地に分苗しておく必要があり、京都だけではなく大坂にも分苗しておくことも大事だということになったようです。


 こうして、「越前侯御用」の牛痘苗を京都除痘館から大坂に分苗するということになりました。

 嘉永2年11月6日、笠原良策は日野鼎哉とともに牛痘苗を腕に接種した子供を連れて京都を出立して大坂に向いました。
 そして、翌11月7日、古手町の種痘所で伝苗が行なわれました。

 こうして、大坂にも種痘が分苗され、大坂にも除痘館が設立され、種痘が普及するようになりました。

 緒方洪庵は、備中足守藩の出身ですが、嘉永3年正月、備中足守藩主木下利恭の命により、郷里の足守で牛痘種痘を普及させるべく帰郷し、足守にも除痘館を開いています。



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by wheatbaku | 2016-09-16 11:10 | 江戸の大変 | Trackback
京都の日野鼎哉に分苗(種痘② 江戸の大変)

 楢林宗建によって成功した種痘は、すぐに各地に伝播していきます。

 お題のテキスト『天下大変』では、京都の日野鼎哉の件が書いてあります。

 そこで、今日は京都へどのようにして種痘が伝わったか書いていきます。

実は京坂への牛痘苗の導入については、いくつかの説があるようです。

長崎でモーニッケ痘勁の接種成功をみた楢林宗建が急飛脚で京都の日野鼎哉、大坂の緒方洪庵、江戸の戸塚静海に送ったという説。

また、藩主鍋島直正が参勤のため嘉永2年9月22日に佐賀を出発して、途中京都で分苗し、29日に江戸に着いて伊東玄朴、大石良英らに分苗したという説。

そして第三が、9月16日には長崎通詞穎川四郎左衛門から京都の日野鼎哉に送られていて、これを緒方洪庵が分けてもらったという説

テキストには、このうちの第3説が書いてあります。

 そこで、このテキストの説に沿って説明します。

 9月16日に京都の日野鼎哉の所に長崎の穎川四郎左衛門が送って来た痘痴は越前藩松平家の依頼によるものだそうです。

越前藩の笠原良策は弘化3年に藩に痘苗取り寄せの請願書を出し、これが取り上げられなかったので、嘉永元年12月に再度の請願書を提出しました。

藩主松平慶永春嶽はこれを採用して幕府に請願し、この要請により老中阿部正弘が長崎奉行大屋遠江守に牛痘苗取り寄せを命じていました。

このことが日野鼎哉の耳に門人の桐山元中から入り、嘉永2年6月にモーニッケ痘苗が長崎に到来して成功したとき、日野鼎哉がよく知っていた通詞の穎川のところに、日野鼎哉や桐山元中から、福井藩の笠原良策が藩主を介して幕府に請願し長崎奉行に下命があったことを報らせ、日野もこれを待望していると書いた手紙が着いていたと考えられているようです。

穎川はモーニッケ痘苗の分与を受けて二人の孫に接種し、この痘痴8粒をびんに納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、9月16日に日野の手に渡ったのでした。
 9月19日、日野鼎哉はただちに孫たちに接種しました。
 しかし、3日たっても効果はありませんでした。
 そこで最後の一粒を桐山元中の子供源三郎に接種したところ、これが見事に成功しました。

そして、10月16日には、京都新町通三条上ル頭町に日野鼎哉が除痘館を開きました。
 この日、鼎哉の弟子たちを中心に総勢22名の医師がかけつけたそうです。



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by wheatbaku | 2016-09-14 11:03 | 江戸の大変 | Trackback
  

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