カテゴリ:江戸屋敷にあった神社( 18 )
能勢妙見山東京別院
 「能勢妙見山東京別院」は、妙見大菩薩を祀っていますので、神社ではありませんが、旗本能勢氏の屋敷内に祀られていましたので、「江戸屋敷にあった神社」シリーズの最後に記します。

c0187004_21374681.jpg 「能勢妙見山東京別院」は、JR「錦糸町」駅から歩いて15分のところにあります。

 「能勢妙見山東京別院」は、安永3年 (1774年)に、旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷に、妙見堂を建立して摂津国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。大阪能勢妙見山の全国唯一の別院です。。
 大阪の能勢妙見山には鳥居があり「妙見宮」とも呼ばれますが、実は日蓮宗のお寺です。

c0187004_21465769.jpg 妙見菩薩の話  妙見菩薩は、北斗七星または北極星を神格化した仏さまです。
 妙見菩薩は、もとは北辰=北斗星・北極星の信仰に始まるものです。中国では、昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇められていましたが、これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになりました。
 妙見菩薩は日蓮宗のほか、真言宗・天台宗などでも取り入れられています。


c0187004_2138284.jpgc0187004_21381844.jpg矢筈紋章
こ の紋章は能勢頼次から使用された「矢筈(やはず)」が寄り合ってできたものです。
 この紋章は能勢妙見山の独自のものとされていますが、境内のあちこちでこの紋章を見かけることが出来ます。



c0187004_2214247.jpg 能勢妙見山東京別院は、勝海舟の父である勝小吉が、麟太郎のちの海舟の開運勝利を水垢離をとって祈願した場所です。
 その由縁により、勝海舟の胸像が、境内にあります。フロックコートを着た晩年の姿です。
 この胸像は、妙見堂の開創2百年を機に、昭和49年5月に地元有志によって建られたとのことです。








 江戸屋敷にあった神社を訪ねてきましたが、改めて、邸内社(屋敷にある神社)が多いことに驚きました。有名な神社ばかりでなく、初めて邸内社だと知る神社もありました。
 しかし、有名・無名にかかわらず、どの神社も整備されていました。 また、お参りする人も大勢見かけました。
 今も、邸内社が地元に溶けこみ、地元の人に大事に守られていることがよくわかる参拝でした。
 
 

緑印が「能勢妙見山東京別院」です

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by wheatbaku | 2009-06-11 06:17 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
太郎稲荷神社   (江戸屋敷にあった神社16)
江戸屋敷にあった神社、今回は、太郎稲荷神社です。

c0187004_18342754.jpg 太郎稲荷神社は、柳川藩立花家の屋敷にあった神社です。 

 柳川藩立花家の江戸屋敷は、上屋敷が下谷徒町、中屋敷が浅草鳥越、下屋敷が浅草末(下谷)にありました。
 中屋敷にあったのが、「西町太郎稲荷神社」(右の写真)で、下屋敷にあったのが「太郎稲荷神社」 (下の写真)です。

西町太郎稲荷神社
 西町太郎稲荷神社は、東京メトロ日比谷線「仲御徒町」駅から歩いて5分です。神社の鳥居の脇に由来を書いた案内板があります。それには、「当町は江戸時代の万治年間(1658~61)、九州地区後柳川藩10万9千6百石の太守立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、同邸内の現在地に建立されたものです」と書かれています。
 
太郎稲荷神社
c0187004_18384563.jpg 太郎稲荷神社は東京メトロ「入谷」駅から歩いて5分のところにあります。
 神社の鳥居の脇にある旧光月町の由来板の中に「太郎稲荷神社は新堀川沿いにある立花家の下屋敷にあった。生い茂る樹木の奥に社殿があり、参拝する人でにぎわっていた」と書かれています。 

柳川藩立花家 
 立花氏は、九州の戦国大名大友氏の一門と言われます。豊臣秀吉の九州平定の際に、大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により、筑後柳川13万石の城主となりました。 その後、関ヶ原の戦いの際に西軍に味方した立花宗茂は、柳川を追われ、かわって柳川に田中吉政が入封しました。しかし、田中家が改易されると、20年後の元和6年(1620年)、再び立花宗茂が城主となり、以後、明治維新まで、立花家が柳川を治めました。

c0187004_18213556.jpg 
 明治維新の際に多くの大名が東京に移り住む中で、立花家は、柳川に留まり、第2次大戦後には、16代当主の 立花和雄氏が、立花家の別邸を利用し、料亭・旅館「御花」を始めました。そして現在も「御花」は、立花家17代宗艦氏三兄弟により経営されているとのことです。
 右の写真は、その「御花」の庭園「松濤園」です。


 青印が「西町太郎稲荷神社」  、緑印が「太郎稲荷神社」 です。拡大してご覧ください。

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by wheatbaku | 2009-06-10 06:02 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
亀住稲荷神社  (江戸屋敷にあった神社15)
  江戸屋敷にあった神社ですが、今回は、外神田の 「亀住稲荷(かめずみいなり)神社」 をお参りしました。
 「亀住稲荷神社」はJR御徒町駅から4分、東京メトロ「末広町」からも4分のところにあります。
c0187004_22225634.jpg
 亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀った神社です。

 江戸時代は、この地域には、 豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。嘉永4年の江戸切絵図には小笠原左京太夫と載っています。
 
小倉藩小笠原家
 小倉藩小笠原家は、戦国時代に、武田信玄と戦った信濃守護の小笠原長時の血を引いた家です。
 もともと、小笠原氏は八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光の系統の名門で、甲斐国巨摩郡小笠原(現在山梨県南アルプス市)が出身地と言われています。
 室町時代には、信濃守護として信濃に進出し土着しました。しかし、武田信玄に敗れ、信濃から追われましたが、後に、徳川家康に仕えて、有力譜代大名になっていきます。
 
 そして、寛永9年、細川忠興が肥後に転封した後に、小笠原忠真が播磨国明石藩より小倉に入封し、小倉城主として15万石を領しました。
 忠真は徳川家康の曾孫(母が徳川信康の娘)であり、以後、小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行っていきました。

  こうした役割を小倉藩は負っていたため、幕末の長州征伐では幕府側の九州側の先鋒として長州藩と戦いました。しかし、慶応元年(1865年)の第二次戦争の際には奇兵隊により門司が制圧された後、小倉城に火を放ち、撤退するという悲劇を味わいました。


c0187004_22232092.jpg 亀住という地名は江戸時代にはありません。千代田区の資料によると、神田亀住町は、明治2年に合併してできた町のようです。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
 明治44年の町名変更で、町名はいったん亀住町となり、昭和22年にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和39年の住居表示の実施で、現在の外神田五丁目になりました。
 こうして亀住町という町名はなくなりましたが、亀住町会と書かれた木札が社殿に掛けられているのを見ると、亀住町は、亀住稲荷神社とともに、現在も活きているようです。



 青印が亀住稲荷神社です。

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by wheatbaku | 2009-06-06 07:01 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
上野東照宮   (江戸屋敷にあった神社14)
 今回の「江戸屋敷にあった神社」は「上野東照宮」 です。 c0187004_192514100.jpg
  先日、江戸検定1級合格者の人たちと参拝してきました。上野東照宮は、藤堂高虎が、自分の屋敷に、寛永4年(1627年)に造営したのが始まりです。
 東照宮の社殿は、21年の1月から修理中とのことで、実物は見ることができませんでした。その替わりに、大きな写真が掲げられていました。そこで、それをパチリ。写真の唐門と本物の唐門が二重のように映りました。

c0187004_19253286.jpg これは本物の唐門です。 唐門は、慶安4年(1651年)に建築された国指定重要文化財です。
 柱の両側には、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎作の「昇り龍・降り龍」の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。
 ところで、東照宮ですから徳川家康が祀られていますが、その他、徳川吉宗と徳川慶喜も祀られていることは今回初めて知りました。

  c0187004_19244074.jpg
 大鳥居は、案内してくれた1級合格者の人の解説では、「奇跡の鳥居」と呼ばれているそうです。寛永10年(1633年)に建立されて以来、江戸の大火、上野戦争、関東大地震、戦災等さまざまな風雪、大火、地震にもかかわらず、現代まで、建立当時の姿をとどめているので、そう呼ばれているということでした。c0187004_19262592.jpg
 鳥居の柱を良く見ると、寄進者の酒井忠世の名前が「厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」として確かに刻まれていました。

 


c0187004_19264792.jpg  こちらは、お化け灯篭です。戦国武将柴田勝家の甥で、佐久間盛政の弟でもある佐久間勝之が寛政8年(1631年)に奉納したものです。高さが6.8mもあります。前に立ってくれた参加者の人と比較するとその大きさがよくわかると思います。このお化け灯篭は、勝之が奉納した京都南禅寺、名古屋熱田神宮の大灯篭を合わせて「日本三大灯篭」と呼ばれているそうです。これも参加者から説明がありました。


 参道両脇に整然と並んでいる石灯籠は200基以上あるそうですが、、今回はそれを丹念にみることができました。1級合格者の集まりでないとこれほど丁寧に石灯籠の寄進者を確認できることはないと思いました。
 また、みんな、さまざまな知識を持っていて、参加者の質問に対して、誰かが即座に答えるという状況で、非常に理解が深まる見学会でした。みなさんお世話になりました。

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by wheatbaku | 2009-05-23 11:46 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
宝珠稲荷神社   (江戸屋敷にあった神社13)  
  宝珠稲荷神社は、東京メトロ日比谷線の「東銀座」駅から3分で、銀座のど真ん中に鎮座しています。c0187004_22322548.jpg 
 宝珠稲荷神社は、深溝藩主板倉重昌の江戸屋敷内にあった神社です。
 神社に設置されている由来書きで江戸屋敷に関する部分は次のように書かれています。  
 「宝珠稲荷神社は1615年の頃、三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり (中略) その後1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり 」
 1615年は、慶長20年で、大阪夏の陣があった年ですので、江戸幕府が開かれてまもない頃から祀られていたことになりますので、非常に古い神社になります。

c0187004_2343994.jpg また、板倉重昌についても、「内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇の御代天正13年の頃の生まれである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍令として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年齢50才にして戦死したるものなり 
 時の将軍は家光であり第110代後光明天皇の御代である 内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国席宿の城主なり 」と書かれています。
 板倉重昌は、由緒書きに書かれているように、島原の乱の総大将として、鎮圧にあたりましたが、戦いの中でなくなってしまいます。しかし、重昌の子孫は、江戸時代14代続き、福島藩主として、明治維新を迎えています。


c0187004_22333661.jpg 宝珠稲荷神社は、建て替えのため、まもなく取り壊される「歌舞伎座」の東側の通りを少し北へ行った所にあります。
 歌舞伎座は平成22年4月の公演をもって終了となる予定です。新しい歌舞伎座は、劇場とオフィス棟を併せ持つ複合建物となる予定だそうです。




 青印が宝珠稲荷神社です。

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by wheatbaku | 2009-05-22 19:17 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback(2)
銀杏岡八幡神社   (江戸屋敷にあった神社12 )
  銀杏岡八幡神社 は、JR「浅草橋」駅から1分のところにあります。江戸通りから1本西側の小さい通りに面してありますが、古い歴史を持ち、江戸時代は福井藩の邸内社でした。

c0187004_12394668.jpg 当社の社殿に掲げてある由緒書には、次のように書いてあります(要約してあります)
 「平安中期、後冷泉天皇の御代の創建と伝えられます。
 陸奥の豪族の阿部貞任・宗任が反乱を起こした前九年の役の際、源頼義と義家が陸奥に向かう途中、当地にて一休止した時に、隅田川の川上より流れ来るものを拾い上げみると銀杏の枝でした。義家は「朝敵退治のあかつきには、枝葉栄ふべし」と祈願し、奥州に旅立ちました。
 阿部一族を平定した義家が、この地に再び立ち寄ったところ、銀杏の枝葉が大きく繁茂していたので、神恩に感謝して、太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが当社の始めです。
 江戸時代になると、元和4年(1618年)、当地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として祀られておりましたが、享保10年(1725年)に屋敷が収公され、屋敷の跡地は、町奉行大岡越前守忠相により福井町と名付けられ、当地の氏神様として崇敬されてきました。」
 嘉永6年の江戸切絵図を見ると、町屋の中に「(銀)杏八マン」とはっきり書かれています。


c0187004_12392591.jpg 越前福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が藩祖です。秀康は、豊臣秀吉の養子となった後、下総国結城の名族を継ぎ、「結城秀康」と名乗りました、そして、越前一国68万石を与えられ、秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家を興しました。
 藩祖が、2代将軍秀忠の兄であるため、越前松平家は御三家に次いで家格の高い家として処遇されました。


 福井藩では幕末の藩主松平慶永(春嶽) が有名です。
 橋本左内を登用し藩政改革を推進した慶永は四賢侯の一人といわれ、幕末の政局で重要な役割を果たしています。文久の改革の時に、慶永がついた政事総裁職は、それまでの大老と同じ職責だといわれています。
 ところで、このように活躍した慶永は、実は、田安家出身で13代将軍徳川家慶の従兄弟という血筋であることはあまり知られていないかもしれません。。




青印が銀杏岡八幡神社です。

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by wheatbaku | 2009-05-21 18:08 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
津軽稲荷神社   (江戸屋敷にあった神社11)
 江戸屋敷にあった神社、今回は錦糸町の 「津軽稲荷神社」 です。
c0187004_22231442.jpg  津軽稲荷神社はJR錦糸町駅から約7分。東武ホテルレバント東京を少し越えた場所にあります。

 案内板には「青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にあったので、津軽稲荷という。一万坪は明治43年の大水害と共に払い下げられ、太平町一丁目町会の所有となる。昭和7年町名変更で錦糸一丁目町会の守護神となった。」と書いてあります。津軽為信は弘前藩の初代藩主です。

c0187004_22235337.jpg  津軽氏は、元は大浦氏といい、南部氏の支族であったといわれています。初代藩主となる為信は、南部家の混乱に乗じて独立し、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が津軽地方を治めました。こうした経緯から、南部藩と津軽藩の間で争いが絶えず、文化5年(1808年)には、南部藩士の下斗米秀之進が津軽寧親の暗殺を計画したいわゆる「相馬大作事件」が引き起こされたこともありました。

c0187004_22254980.jpg 津軽稲荷神社のすぐそばに 「大横川親水公園」 があります。昔の横川を一部埋め立てて親水公園として整備したものです。公園としては1993年4月1日に開園したそうです。川は埋め立てられ、せせらぎがあり、樹木が植えられていて、憩いの場となっています。かなりの人が歩いていました。

 ところで、地図を見る時は、普通、南北を縦、東西を横といいますが、横川は南北に流れる川(運河)でありながら横川(現在の大横川)と名づけられています。これは、川が作られた時に、川の縦横が、江戸城から見て付けられたからです。
 だから南北に流れる川が横川、東西に流れる川が竪川となっています。

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 青印が津軽稲荷神社、赤印が大横川親水公園です。

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by wheatbaku | 2009-05-19 16:12 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
江戸屋敷にあった神社(10) 秋葉神社
 矢来町にある秋葉神社は東京メトロの神楽坂から5分です。c0187004_2155338.jpg 
 アディダス本社の真向かいの路地を入ってすぐの住宅街にありますので、アディダス本社が目安になります。

 矢来町は神楽坂のすぐ隣町です。矢来町は江戸時代、若狭小浜藩主 酒井讃岐守忠勝の下屋敷があった所です。矢来町の町名の由来は、周囲の土手を竹矢来で囲んでいたためとされています。江戸時代の矢来町は、ほとんどが酒井邸でした。  
 c0187004_2210378.jpg
 秋葉神社は、寛永年間まで牛込寺町に鎮座され、火除の神として崇められていましたが、同所の住民の願いにより、矢来町の小浜藩酒井家の下屋敷へ遷座し、以来、酒井家の邸内社でしたが、昭和27年に酒井家より無償贈与されました。


  c0187004_2212429.jpg秋葉神社にある正雪地蔵は、小浜藩酒井家屋敷内にあったものが酒井家が移転したとき町内にゆずられたもので、本来はキリシタン灯篭であったといわれます。
 この灯篭に正雪の名前がついたのは、この近くの天神町一帯が慶安の変の首謀者であった由比正雪の屋敷があった事から結び付けられたといわれていますが、この近くには、豊後の大友宗麟の子孫義乗の屋敷があった事と地中に隠されていた点などよりこれがキリシタン灯篭ではないかといわれています。


青印が秋葉神社。赤印がアディダス本社です。

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by wheatbaku | 2009-05-15 19:20 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
江戸屋敷にあった神社 (まだある邸内社)
 江戸屋敷にあった神社(邸内社と呼ぶそうです)をこれまで9社巡りました。c0187004_22314972.jpg ほぼ有名な神社は、上野の東照宮を残すのみとなり、 ほとんどお参りしましたので、今日は一服一休みです。
 邸内社を巡るきっかけとなったのが、「江戸屋敷300藩いまむかし」です。
 読みやすくわかりやすい内容で、現在に残る江戸屋敷の様子を、名園、大学・官庁、邸内社などにわけて説明してくれています。

 さて、邸内社はそのほかにもあるだろうと思いながら調べましたら、まだ数多くあることがわかりました。
 今のところわかっている邸内社は、上野東照宮のほかに次のとおりです。
 順不同で書き上げますが、これらも機会をみてお参りしたいと思っています。
 ①津軽稲荷神社  弘前藩津軽家   墨田区錦糸1-6-12
 ②能勢妙見神社  旗本能勢家    墨田区本所4‐6‐14
 ③銀杏岡八幡神社 福井藩松平家  台東区浅草橋1-29-11
 ④亀住稲荷神社  小倉藩小笠原家 千代田区外神田5-4-8
 ⑤西町太郎稲荷神社 柳川藩立花家 台東区東上野1‐23‐2 
 ⑥太郎稲荷神社  柳川藩立花家   台東区入谷2‐19
 ⑦宝珠稲荷神社  深溝藩主板倉家 中央区銀座3-14-15
 ⑧大塚住吉神社  桑名藩松平家   文京区大塚4‐49
 ⑨秋葉神社     小浜藩酒井家   新宿区矢来町3-1
 ⑩京極稲荷神社  丸亀藩京極家   品川区小山2‐15‐4
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by wheatbaku | 2009-05-08 21:17 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
江戸屋敷にあった神社(9) 金丸稲荷神社

 今回は東京メトロ四谷三丁目駅から5分のところにある金丸稲荷神社を訪ねます。c0187004_18564227.jpg 
 金丸稲荷神社は、美濃高須藩松平家上屋敷にあった神社です。高須藩は、御三家筆頭である尾張藩の支藩です。天和3年(1683)美濃高須藩藩祖の松平摂津守義行が、現在の新宿区荒木町一帯を幕府より拝領し、上屋敷としました。義行は尾張藩2代藩主徳川光友の次男です。 



 c0187004_1942246.jpg 
荒木町に接している「津の守(つのかみ)坂通り」も、高須藩に由来しています。「津の守(つのかみ)」の名の由来は、松平摂津守義行からきています。つまり、摂津守が略されて「津の守」となりました。だから「つのもり」ではなく「つのかみ」と読みます。藩主の守護神として建立され上屋敷に鎮座していた金丸稲荷神社は、現在も、氏子の人たちに崇敬されています。





 c0187004_18572480.jpg
 金丸稲荷神社の鳥居の前の細い道を道なりに50m進むと、「津の守(つのかみ)弁財天」が池のほとりに鎮座しています。江戸検定のテキスト「博覧強記」に、高須藩の屋敷跡のランドマークとして載っている弁財天です。




 c0187004_1857279.jpg 
弁財天は「策(むち)の池」のほとりにあります。この池で徳川家康(松平摂津守という説もある)が乗馬用の策(むち)を洗ったことから「策の池」と呼ばれました。 「策の池」は「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並ぶ江戸八井と呼ばれていましたが、現在は規模がかなり縮小していますが、住宅街の中のオアシスとして憩いの場となっています。

 c0187004_20405665.jpg
 「最後の会津藩主 松平容保 四谷松平邸に生まれる。美濃国高須藩松平義建6男」と書かれた写真が、金丸稲荷神社の前に貼ってありました。 松平容保は、ここ高須藩上屋敷で生まれたのですね。
 ところで、高須藩は幕末に、高須4兄弟といわれる有名人を輩出しています。尾張藩第14代藩主徳川慶勝、尾張藩第15代藩主徳川 茂徳(とくがわ もちなが) 、京都守護職の会津藩主松平容保、京都所司代の桑名藩主松平定敬の4人です。いずれも、幕末に活躍した人たちですが、実の兄弟というのがすごいですね。

青印が金丸稲荷神社、赤印が津の守弁財天
 
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by wheatbaku | 2009-05-07 05:30 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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