<   2009年 06月 ( 26 )   > この月の画像一覧
梅の実 (江戸の歳時記)
 梅の実のなる季節になりましたので、今日は、梅の実のお話です。

 c0187004_17262510.jpg梅は、バラ科サクラ属の植物で、アンズやスモモと近縁です。
 梅は、中国原産で、 奈良時代以前に、遣唐使が、中国から日本に持ち帰ったものといわれています。
 中国では国花にもなっています。
 
 渡来以来、花を観賞する目的で植えられ、「万葉集」では梅の花を詠んだ歌が110首以上あります。万葉集では、花と言えば梅の花を指しました。

 実の利用を目的とする梅は、「実梅(みうめ)」と呼ばれ、江戸時代から本格的に栽培が始まりました。現在では、花を観賞するのが目的の「花梅」は約300種類、「実梅」は約100種類もの品種があるそうです。

 梅は、アジアの一部で栽培される果実で、生食はせずすべて加工して利用されています。
 梅は、日本では、梅干しに加工され、おにぎりやお弁当など日本食に切っても切れない関係にあります。
 しかし、世界的に見ると、梅を食べる人は少数派で、欧米人はほとんど食べていないとのことです。


c0187004_11571988.jpg 江戸時代の有名作家である曲亭(滝沢)馬琴は、庭に植えた梅の実を採って、梅干しを作る様子を「馬琴日記」に記しています。 
文政10年(1827)6月3日 
 丙午 快晴 夕方より少し風立つ 薄曇
 1  昼前 宗伯、神田須田町 池田やへ罷越(まかりこし)、梅2斗5升(45リットル)紫蘇5わ買い取り、池田や こぞうに荷(かつが)せ、昼飯前に帰宅
 1  其の後、予(よ)、并(ならび)に宗伯手伝い、庭の梅、野梅・豊後梅等の実、これを採る。ぶんご3升5合(6.3リットル)・野梅2升(3.6リットル)あった。野梅の枝、庇(ひさし)へかかり候分、ことごとくこれを結ぶ。
 紅梅9、青軸2、鴬宿梅2の実もこれをとる。
 1  右の梅、惣(すべて)合せ3斗5升、お百これを着け畢(おわる)。むらこれを手伝。物置の薪過半とり出し、縁脇下へおく、予もこれを手伝い畢(おわる)

  注 宗伯:馬琴の長男  お百;馬琴の妻   むら:女中か(?)

 これを見ると、馬琴は3斗5升(63リットル)の梅の実を漬物にしています。すごい量です。 

 この日記にでてくる「豊後」「野梅」「紅梅」「青軸」「鴬宿梅」は、すべて梅の品種名で、現在も栽培されています。
c0187004_17265230.jpg 特に豊後梅は江戸時代から有名です。
 「本朝食鑑」にも「豊後産の梅がすぐれており、肥前の産がこれに次ぐ。豊後の梅の木は大きく、(中略)実は極めて大きく、丸く肥え、生のうちは青紅であるが、熟せば黄紅になる。近ごろ諸州でもこの豊後の梅の樹の枝を挿し接ぎしたり根を移したりして子を採っているので、その他の地でもこれを豊後梅というのである。一株に一・二升から七・八升取れる。」と書かれています。

 豊後梅は、その名のとおり豊後(今の大分県)発祥とされています。

 また、江戸時代には、豊後杵築藩主松平家から毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上されており、そのおいしいこと、果実の大きいこと、更に花の優美なことで非常に珍重されました。
 こうしたことから、「豊後梅」は「大分県の県の花」や「杵築市の市の木」となっています。

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by wheatbaku | 2009-06-30 05:43 | 江戸の歳時記 | Trackback
かわせみ  (江戸の鳥3)
 前回は、現代ではあまり馴染みのない「クイナ」(江戸時代ではメジャーですが)を取り上げましたので、今回はよく知られている 「カワセミ」 を取り上げます。
 カワセミは、 俳諧歳時記栞草では、夏之部にのっています。

 c0187004_14331926.jpgカワセミはカワセミ科の鳥です。  
 全長約17センチメートルで、スズメより少し大きいくらいです。
 頭部は暗緑色、背中は美しい空色をしています。
 くちばしは太く、長さは約4センチメートルにもなります。
 尾は短く、足は赤い。川や池沼のそばにすみ、川魚、カエル、昆虫などを食べます。
 土手や崖に横穴を掘って営巣します。

 羽色が鮮やかで、翡翠(ひすい)のような体色から、飛ぶ宝石ともいわれ、その美しさは昔から注目されていました。

 c0187004_10382474.jpg和漢三才図会では、 「鴗(かわせび)は各地の水辺にいる。大きさは燕くらい。くちばしは尖って長く、足は紅で短い。背毛は翠色に碧を帯びている。 本性、よく水上で魚を取る。」と書かれています。

 また、冒頭で書いたように、俳諧歳時記栞草では、夏之部に載っています。
 「大きさ燕の如く、くちばし尖りて長し。足紅にして短し。背の色、翠色、碧を帯ぶ。」と書かれています。
 そして、「この鳥、魚を害する故に、鴗(かわせび)天狗、水狗、魚虎、魚師 等の名あるなり」とも書かれています。

 カワセミは、俳諧歳時記栞草に書かれている通り、魚を捕るのが上手です。
c0187004_10385725.jpg 川や池沼などの近くの木の枝に静かにとまっていて、水中の獲物をとったり、水面をかすめて一直線に速く飛んだりしています。
 餌をとるときは水辺の石や枝の上から、獲物をめがけて、一気に水中に飛び込んで、魚や水生昆虫をくちばしでとらえます。
 時には空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともあります。
 捕獲後は再び石や枝に戻って獲物をくわえ直し、頭から呑みこみます。大きな獲物は、数回叩きつけ、殺してから呑みこみます。

 カワセミは、留鳥[りゅうちょう、年間を通して同じ場所に生息し、季節による移動をしない鳥]です。従って、季節に関係なく、川や池や沼の近くで見ることができます。
 最近は、都心でも水の浄化が進んできたので、カワセミも都心に戻ってきているということです。 そのため、都心でも見ることができるようです。
 明治神宮、新宿御苑、石神井公園、練馬区の光が丘公園の池などで、カワセミが見られるようです。 
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by wheatbaku | 2009-06-29 00:20 | 江戸の鳥 | Trackback
クイナ   (江戸の鳥2)
 昨日までで江戸六地蔵めぐりのお話が終わりました。今日は、鳥の話をしたいと思います。

クイナという鳥がいるのをご存じですか?
 ヤンバルクイナは多くの人が知っていると思いますが、その名前に使われているクイナですが、クイナという鳥はあまり知られていないと思います。

c0187004_10464097.jpg クイナは、クイナ科の鳥で、全長30センチメートルぐらい。体形はシギに似ています。

 クイナの語源は、①クヒナキ(喰い鳴き)の義、②鳴きはじめにクヒクヒと聞こえ、ナは鳴きの略という説などいろいろあります。

 クイナが、一般になじみが薄いのは、非常に人見知りの行動をするからです。水辺で葦の間をひっそりと歩いていて。警戒心がつよく、なかなか人前に姿を現さないからです。
 日本では、北海道で繁殖し、10月ころ本州以南に渡ってきます。だからフユクイナとも言いいます。

c0187004_21304899.gif 現代では、あまりなじみのないクイナですが、江戸時代には、いろいろな本に出て来ます。

 東都歳時記   5月の景物に次のように書かれています。  
 「秧鶏(くひな)  (立夏より40日頃より) 橋場、佃島、寺島、根岸、標芽が原(しめぢがはら)辺(あたり) (少しく曇りたる日よし。5月中頃より8月始の頃までなり))

 江戸名所花暦  夏の部に次のように書かれています。
 「水鶏(くいな) 
 ・標茅が原(しめじがはら)    玉姫稲荷の辺り(あたり)、 この社は山城国稲荷山のいなりを移せしなり。王子村岸稲荷と神縁ありと言ひ伝ふ。御玉姫いなりといふもゆえあることなり、正慶二年新田義貞朝臣、鎌倉の高時を追討のみぎり、弘法大師直筆の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃(るり)の玉塔にこめて当所におさめまつり給ふゆえに、御玉ひめの稲荷と称すよし
 ・佃島 さつきのころ 船をうかめて、よもすがら聞く人あれども、雨のよくふる時節なればいとうかるべし。」
といった具合です。
 なお、2つの本に出てくる 「標茅が原(しめじがはら)」 は玉姫稲荷のあたりと書かれています。現在の玉姫稲荷神社のあるところは、東京都台東区清川2-13-20ですので、隅田川にほど近い所です。江戸時代は、湿地だったのだろうと思います。

c0187004_10465999.jpg クイナは古来かなり文学に取り上げられています。
 しかし、文学に取り上げられたクイナは、実はヒクイナのことだと言われています。

 ヒクイナは、全長22センチメートルくらいで、右の佐久間長夫氏撮影の写真のように赤っぽい茶色の体で胸と足が赤いのが特徴です。
 日本には夏鳥として渡来、繁殖するのでナツクイナともいいます。
 沼沢地にすみ、繁殖期にはキョッキョッとなき、鳴き声は詩歌などに「門の戸を敲く」と形容されます。

 クイナ(実はヒクイナ)は、江戸時代だけでなく、それ以前でも、文学にいろいろ取り上げられています。
  
主なものは次の通りです。c0187004_21211078.gif 源氏物語の明石には、 
   「くひなのうちたたきたるは、たが門さしてとあはれにおぼゆ」とあります。
  更級日記では、     
    「たたくとも 誰かくひなの 暮れぬるに 山路を深く 尋ねては来む」とうたわれています
  徒然草には、       
    「五月あやめふくころ早苗とるころ、水鶏のたたくなど心ぼそからぬかは」と書かれています。 

 このように、古くから文学に取り上げられてきたため、東都歳時記や江戸名所花暦にも取り上げられたものと思います。
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by wheatbaku | 2009-06-26 06:01 | 江戸の鳥 | Trackback
永代寺    (江戸六地蔵の6)
 江戸六地蔵めぐりもいよいよ最後となりました。6番目は、深川の「永代寺」 です。
 永代寺は、以前に「御府内八十八ヶ所巡り」で案内しましたが、東京メトロ東西線「門前仲町」駅から歩いて2分です。
  
 c0187004_21392117.jpg永代寺の地蔵菩薩像は、深川地蔵坊正元の勧進によって江戸六地蔵の最後の一体が、享保5年(1720年)7月に造立されました。
 しかし、明治元年の廃仏毀釈の中で壊されてしまいました。
 そのため、現在、永代寺の地蔵菩薩像はありません。
 
c0187004_22335523.jpg






  江戸六地蔵の代わりというわけではありませんが、本堂のすぐ脇に地蔵堂があり、子育地蔵尊と取持地蔵尊がいらしゃったので、そちらのお参りもしました




 永代寺は寛永4年(1627)に富岡八幡宮別当永代寺として、長盛上人によって永代島(現在の永代橋の東側一帯)に創建されました。当寺の永代島は、隅田川河口にあった6万坪の砂州で、長盛上人が開発し、永代寺を建立しました。
c0187004_22381672.jpg  江戸時代、永代寺の庭園は、普段は一般の人には公開されていませんでしたが、毎年3月21日からの7日間は「山開き」と称し庭園が公開され、その様子は江戸名所図会にも描かれております。
 江戸時代には、出開帳(でがいちょう お寺が秘蔵の仏像などを、境内から他所に出張して公開すること)の会場として盛んに利用されるなど、江戸で大変有名なお寺でした。
 しかし、明治元年(1868)の神仏分離令を契機に行なわれた廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。
 明治29年(1869)に、永代寺の塔頭(たっちゅう、大きなお寺の中にある小さなお寺)であった吉祥院が永代寺の名称を継いで現在に至っています。

         
永代寺はこんなに広い。  
 現在の富岡八幡宮、深川不動堂、深川公園すべてが、江戸時代には、永代寺の寺域でした。江戸時代の永代寺は非常に大きなお寺であったことがわかると思います。

c0187004_154721.jpg 富岡八幡宮は,寛永4年(1627)に創建された江戸最大の八幡宮です。「深川の八幡さま」と親しまれています。毎年8月15日を中心に行われる祭礼は、江戸時代から、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一に数えられています。
 また、江戸勧進相撲発祥の神社としても知られており、歴代横綱の名を刻した横綱力士碑があります。
 
c0187004_15472560.jpg 深川不動堂は、成田山新勝寺の東京別院です。 成田不動の「出開帳」は永代寺で江戸時代を通じて12回開かれました。これが深川不動堂の始まりです。
 永代寺が廃寺となった後、、明治3年(1870年)に現在の場所に「深川不動堂」として存続することが認められました。現在の本堂は明治15年(1882年)に完成していますが、隣地に新本堂を建設中です。
c0187004_15474692.jpg 
 さらに、深川公園も、永代寺の寺域でした。深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の1つです。
 深川公園は永代寺をはさんで、東と西にありますが、西の深川公園には、下の写真の「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑が建てられています。


江戸六地蔵と街道の関係に関心のある方は、もう少しお読みください。

千葉街道はどこですか? 
c0187004_22433564.jpg 永代寺のご住職に、江戸六地蔵は街道沿いに建立されたと言われていて、永代寺の場合は千葉街道と一般に言われていますが、千葉街道はどこでしょうかと尋ねました。
 ご住職は、「街道とは関係ないと思います。正元さんは、深川正元坊という名がついているように、深川に小さな庵をもって、そこに住んでいたのではないでしょうか。その場所というのは、永代寺の境内の中ではないかと推測しています。そこで、お世話になった永代寺に地蔵菩薩像を建立したのではないでしょうか。正元さんはあれだけ大きな地蔵菩薩像を6体も建立するのだからすごい人だったと思っています。」と話してくれました。正元さんとさん付けで言われているのが印象的でした。

 江戸六地蔵は、それぞれ六街道沿いに建てられ、5番霊巌寺は水戸街道、6番永代寺は千葉街道と言われています。しかし、本当にそうなのか前から疑問に思っていました。

 ①千葉街道は、江戸時代に、竪川(たてかわ)に沿って作られた街道ですので、深川・本所地区を通過しています。でも、永代寺より、霊巌寺の方が近くなります。
 ②水戸街道が深川を通っていたかについて調べました。江戸検定1級合格の皆さんからも、「文政11年の須原屋茂兵衛版の絵図によると、水戸道口は浅草真崎より新宿へ出るとある」というご意見や「水戸街道は、現在の三ツ目通りではないかと思う」というご意見等をいただきました。
  しかし、水戸街道が深川・本所地区を通っていたという確認はとれませせんでした。
 ③そして、霊巌寺と永代寺のご住職は、お二人とも街道とは直接関係はないと言われました。

 これらの話を総合すると、5番霊巌寺は水戸街道の入り口、6番永代寺は千葉街道の入り口といった明確な根拠はないように思います。
 深川の霊巌寺と永代寺は、街道沿いのお寺として選ばれたというより、地蔵坊正元が住みお世話になっていた深川にあるお寺として選ばれたのではないのでしょうか。
 それがいつしか、水戸街道沿い、千葉街道沿いと呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 私は、そんな風に推測してみました。
 

 ☆今日は、江戸六地蔵シリーズの最後で、非常に長くなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。また、江戸検定1級合格の皆さんご協力ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2009-06-25 06:09 | 江戸六地蔵 | Trackback
霊厳寺(れいがんじ)  (江戸六地蔵の5)
 江戸六地蔵めぐりの5回目は、深川の「霊巌寺」 です。
 
c0187004_1520990.jpg  霊巌寺は、東京メトロ「清澄白河」駅から5分です。
  現在、霊厳寺のある町名は「白河」と呼ばれています。
 元々は、霊岸寺の門前だったので「深川霊岸町」といいましたが、霊岸寺が白河藩主だった松平定信の菩提寺であったため、昭和45年に白河町と名づけたそうです。
 従って、「白河」という町名は、つい最近につけられた名前になります。その町名と隣の清澄を一緒にしたのが「清澄白河」という駅名です。

 六地蔵菩薩像は、門を入って、参道中程の左手に鎮座しています。
 六地蔵の5番目として、享保2年(1717年)4月に建立されています。
 像の高さは、2.73メートルで、今までお参りしてきた六地蔵像とほとんどかわりませんが、台座が低いため、見上げる感じではなく、身近に感じられます。仏身には、金箔がかすかに残っているそうです。


c0187004_15152871.jpg 霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島(現在の東京都中央区新川)に霊厳寺を創建したのが始まりです。
 その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。
 霊厳寺は、明暦3年(1657)のいわゆる振袖火事によって焼失し、現在の深川の地に移転しました。元の創建の地は霊巌島という霊厳由来の地名が残されました。(現在の交差点の名前は、「霊岸島」)
 霊巌上人は、のち浄土宗総本山の知恩院32世に就任しています。


c0187004_15161147.jpg 霊巌寺には、松平定信の墓所(左の写真)があります。
 松平定信は、御三卿の田安宗武の7男で8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。c0187004_15163246.jpg 
 白河藩主の松平(久松)定邦の養子となり、天明3年(1783年)に白河藩主となります。折からの天明の大飢饉にも、領内から餓死者を出さず、名君と言われました。
 そして、天明7年(1787)、老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。
 その松平定信の墓(右の写真)は、本堂のすぐ脇の塀に囲まれた区画の中にあります。

 松平定信の墓だけ独立してありますので、その他の桑名藩藩主の墓はどうなのか、ご住職に尋ねました。なお、松平(久松)家は文政6年に白河から桑名に転封しています。
 ご住職のお話は、「桑名藩の歴代藩主の墓もあります。また、桑名藩松平家のほか、高田藩榊原家、膳所藩本多家の菩提寺でもあります」とのことでした。


水戸街道はどこですか? 
 この写真は、霊巌寺の門前から撮ったものです。門前の道を少し右手にいけば、深川江戸資料館があります。しかし、街道という雰囲気ではありません。
c0187004_15154692.jpg ご住職に、霊巌寺は水戸街道沿いにあると多くの本などに紹介されていますが、水戸街道はどこを通っていたのでしょうかと質問しました。
 それに対して次のように教えてくれました。
 「霊巌寺では、水戸街道ではなく、千葉街道と伝わっているけれども、街道が、お寺のそばを通っていたわけではないと思います。
 他の4ヶ寺は、明らかに街道の入り口ですが、霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に地蔵菩薩像が安置されたのは、水戸街道や千葉街道がそばを通っているということではなく、、正元坊が深川に住んでいて、深川では霊巌寺と永代寺の2ヶ寺が参詣者が非常に多かったため、大勢の人が参詣する霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に寄進したのではないでしょうか」
というお話でした。
 前からの疑問が氷解した気持ちがしました。



江戸名所図会に書かれた「霊巌寺」 
 浄土宗関東18壇林の1室にて、広壮の梵刹ない。本尊は阿弥陀如来。開山は霊厳和尚たり。台旨によりて寺産を附せらる。寮舎僧坊甍を連ねて巍然(ぎぜん)たり。
 正元坊が造立せし銅像の地蔵尊は、大江戸六地蔵の一員にして、総門の内正面に対ふ(むかう)‐‐‐後略‐‐‐
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by wheatbaku | 2009-06-24 06:38 | 江戸六地蔵 | Trackback
眞性寺(しんしょうじ)  (江戸六地蔵の4)
 江戸六地蔵めぐりの4回目は、巣鴨の「眞性寺(しんしょうじ)」 です。
 眞性寺は、JR「巣鴨」から歩いて5分です。
 c0187004_1434265.jpg
 眞性寺の地蔵菩薩像は、中仙道の入り口として、4番目に作られたものです。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)です。
 建立は4番目ですが、参拝順序は3番目になります。
 高さ2.68メートル、蓮花台座を含めると3.45メートルあります。 

 「門を入ると、境内の正面、本堂の左手に、地蔵菩薩像が、鎮座しています」と書きたいのですが、実は、地蔵菩薩像は、現在は修理のため、京都に移っているため、残念ながら22年4月まで拝むことができません。
 今回の地蔵菩薩像の写真も、「巣鴨百選」さんに提供してもらいました。

 c0187004_1563168.jpg
 京都に移った江戸六地蔵の地蔵菩薩像の代わりに、「身代わり地蔵尊」が本堂の前に鎮座しています。
 そこで、今回はそちらにお参りしました。
 地蔵菩薩像は、関東大震災の時の破損の修理など一部分の修理は過去にありますが、本格的な修理は初めてだそうです。
 既に、六地蔵様は、お参りしたことがありますが、戻られたら、再度お参りしようと思います。
 お寺のお話では、来年4月24日には、戻られた最初の法要を行う予定とのことでした。



c0187004_1435425.jpg 眞性寺の開基は不明ですが、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が開いたものと伝えられています。そして、江戸初期の元和元年(1615)に祐遍法印により中興されました。
 江戸六地蔵の第4番の他にも御府内八十八箇所、九品仏、三十箇所弁財天にも数えられ、眞性寺への巡礼が巣鴨発展の基になったとも言われているそうです。
 また江戸幕府8代将軍徳川吉宗もたびたびこの寺に立ち寄ったとされています。


c0187004_15034.jpg 眞性寺の目の前が旧中仙道です。
 現在は巣鴨地蔵通りとなっています。
 巣鴨地蔵通りは、眞性寺の「江戸六地蔵様」と高岩寺の「とげぬき地蔵様」という2つの有名なお地蔵様があることから、巣鴨地蔵通りと名前がつけられたということです。

c0187004_14474854.jpg今では、高岩寺のとげぬき地蔵の方が有名なような気もしますが、高岩寺は,慶長元年(1596)に湯島に開創され、その後下谷に移った大変古いお寺ですが、明治24年に下谷から巣鴨に移転してきたものです。ですから、巣鴨では、江戸六地蔵のほうが古いのです。おばあちゃんの原宿といわれる通り、大勢の方の参拝でにぎわっていました。


 芭蕉の句碑
c0187004_14562379.jpg 眞性寺の門を入って左手に芭蕉の句碑があります。
そこには
 「志ら露も古保連ぬ萩のう禰里哉」(白露もこぼれぬ萩のうねりかな)
とあります。
 碑の裏面によると、これは寛政5年(1793)、芭蕉の百年忌に採荼庵梅人(さいとあんばいじん)とその社中により建てられ、芭門十哲の1人、杉山杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」の句も裏面に刻まれているとのことですが、裏は確認できませんでした。


江戸名所図会に書かれた「眞性寺」 c0187004_14481870.jpg
  眞性寺は「江戸名所図会」にも描かれています。 絵だけで文はありませんが、絵の上部に「巣鴨真性寺 江戸六地蔵の一員なり」と付記されています。 
  境内には江戸六地蔵尊の姿も見えます。 絵の一番下の部分の道が中山道です。

  これも、「巣鴨百選」さんの提供です。

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by wheatbaku | 2009-06-23 06:20 | 江戸六地蔵 | Trackback
明神甘酒 天野屋 (江戸の老舗の味6)
 江戸六地蔵めぐりの間に、今日は、天野屋の「明神甘酒」 で一休みです。

 右の写真で、神田明神の鳥居のすぐ脇にあるのが、天野屋です。
c0187004_21262229.jpg  JR「秋葉原」駅から歩いて約10分、「御茶ノ水」駅からは5分、東京メトロ「末広町」駅からは7分といろいろなアプローチができます。
 天野屋は江戸後期の弘化3年(1846)創業のお店です。
 初代は、京都・丹後の宮津藩の出身で天野新助といい,弟の仇を討つためにを江戸に出てきて、江戸の総鎮守の神田明神にいれば仇に出会えるだろうと茶店を出しましたが、結局、仇には出会えず、茶店が家業になったということだそうです。


c0187004_22562157.jpg 小売と喫茶があり、写真の右の小売のほうでは、納豆や味噌を販売しています。
 左の喫茶の方で、甘酒が飲めます。
 お店の外観からして昔の茶店の雰囲気がただようつくりで、ほっとした気分になります。
 ホームページでは、営業時間が6時までとなっていますが、注文は5時30分までですので、気をつけてください。
 
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 さて、肝心の甘酒ですが、今の時期は、熱い甘酒と冷たい甘酒があります。 冷たい甘酒を頼んでみました。
 口当たりがすっきりして、熱くないので、一気に飲める味ですが、味わって、ゆっくり飲みました。
 すごく甘みがありますが、砂糖は使用せず、 現在でも、お店の地下6メートルの室(むろ)で作っている糀を使用しているそうです。
  口直しとして、なめ味噌の「久方味噌」がついています。
 甘酒は、アミノ酸やビタミンを多く含んでいるので、 江戸っ子は甘酒を飲んで夏の暑さを乗り越えたそうです。
 

c0187004_225723100.jpg 店の奥には、打ち水を十分にした坪庭があり、甕には金魚が泳いでいました。


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 店内には、古い時計も飾ってあり、 レトロな感じがかもし出されています。ついゆっくりしたくなるお店です。


天野屋 (甘味処 / 御茶ノ水、末広町、新御茶ノ水)


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by wheatbaku | 2009-06-22 06:48 | 江戸の老舗 | Trackback
太宗寺(たいそうじ)  (江戸六地蔵の3)
 江戸六地蔵めぐりの3回目は新宿の「太宗寺(たいそうじ)」 です。

c0187004_22142197.jpg 大宗寺は、東京メトロ「新宿御苑」駅から2分の至近距離にあります。
 大宗寺の地蔵菩薩像は、甲州街道の入り口として、六地蔵の3番目として正徳2年(1712)に造立されました。制作者は神田鍋町の鋳造師太田駿河守正儀です。像の高さは2.67メートルあります。

 建立は3番目ですが、東都歳時記では、参拝の順番は2番目とされています。江戸名所図会でも2番目とされています。江戸時代、巡拝は、品川寺から、時計廻りに行われたからです。  

太宗寺は、太宗という僧が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。 c0187004_22155848.jpg 
太宗は、現在の新宿御苑一帯を下屋敷としていた高遠藩内藤家の信頼を得て、寛永6年(1629)内藤家第5代正勝の葬儀を行い、墓もここに置くことになりました。 内藤正勝は、関東総奉行をつとめた徳川家康の側近内藤清成の3男です。
寛文8年(1668)に、正勝の子の重頼から寺領7396坪の寄進をうけ創設したのが、現在の太宗寺です。
 以後、内藤家の歴代藩主が太宗寺に葬られるようになりました。

c0187004_22145894.jpg  右のお堂が閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像が安置されている閻魔堂です。閻魔大王と奪衣婆の像は、「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれました。今も、毎年お盆の7月15・16には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開帳が行われています。



c0187004_22152164.jpg 左は、不動堂です。太宗寺のお不動様は、額の上に銀製の三日月をもつため、三日月不動と呼ばれています。
寺伝によれば、高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立ち寄った太宗寺境内で盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられているそうです。


 右の写真は、太宗寺前の旧甲州街道です。
c0187004_22251314.jpg 甲州街道の最初の宿場は、元々は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8町(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草にすむ名主喜兵衛たちが、元禄10年(1697)に、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。 
 この願いは翌年元禄11年(1698)に許可となり、「内藤新宿」は元禄12年(1699)に開設されました。
 しかし、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれます。
 その後、度重なる再興の願いにより、昭和9年(1772)には宿場は再興されました。

c0187004_22163147.jpg 信濃高遠藩内藤家の下屋敷の跡が、現在の新宿御苑です。
 甲州街道をはさんで太宗寺の反対側にあります。
 現在でも御苑の敷地は約58ヘクタールありますので、江戸時代の広さは相当あったことになります。




江戸名所図会に書かれた「太宗寺」 
 内藤新宿右側中程、大木戸より2丁余りに有り。浄土宗にして縁山に属す。本尊は阿弥陀如来にして恵心僧都の作。開山念誉故心学玄(ねんよこしんがくげん)和尚と号す。昔はわづかなる草庵なりしを、寛永の頃内藤大和守重頼この地を賜りし時、この地に住める道心者ありしに、重頼若干(そこばく)の地を与へられしが、広豁(こうかつ)なるを以て 太宗なりと云ひしかば、重頼とりあへず、さあらんには寺号を太宗と付けよとありしより号(な)とすと。当寺の本尊弥陀善逝の像は、鎌倉仏師の作なりといへり。門の内に沙門正元坊が造立する所の、銅像の地蔵尊あり。(江戸六地蔵の第2番目なり)
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by wheatbaku | 2009-06-20 00:18 | 江戸六地蔵 | Trackback
東禅寺 (江戸六地蔵の2)
 江戸六地蔵巡りの2回目は、東浅草の「東禅寺」 です。

 「東禅寺」をお参りするには、通常はバスを利用します。東武浅草駅から都バスに乗り、東浅草バス停留所から2分です。
c0187004_20244324.jpg  しかし、東京メトロ「三ノ輪」駅から歩くと約15分ほどかかりますが、ほどよい散歩になります。

 地蔵菩薩像は、本堂の前に鎮座しています。門に立つと、見上げる形になります。
 東禅寺の地蔵菩薩像は、奥州街道の入り口として、2番目に建立されました。
 建立は宝永7年(1710年)8月です。
 来年は2010年ですので、地蔵菩薩像が建立されてちょうど300年になります。

c0187004_21482972.jpg  建立は2番目ですが、品川寺から時計回りに巡拝すると4番目になります。
 そのため、巡拝する人も、2番目に朱印をお願いする人と4番目に朱印をお願いする人がいるそうです。
 そこで、現在、「東禅寺」では、順番は書かずに、「奥州街道」とのみ書いていますと話してくれました。
 像の高さは、2.71メートルあり、鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造されました。平成11年に修復工事を行っています。

  「東禅寺」の縁起について尋ねましたところ、「東禅寺」は曹洞宗のお寺で、現在は、吉祥寺や河童橋通りに近い松ヶ谷の祝言寺の末寺とのことですが、先代のご住職が縁起をまとめようとし資料もそろえましたが、現在は、資料がなくて、詳しいことはわからないとのことでした。
 c0187004_20291573.jpg
 非常に残念そうに話されながら、「江戸東京都の禅宗(曹洞宗)古刹巡礼」という本を提供してくれました。
 この本にも、「東禅寺」の縁起は書かれていませんでしたが、六地蔵のシリーズの最初に書いた当国六地蔵造立之意趣」が挟まれていました。
 これを作成されたのは、先代ご住職のようで、先代ご住職の名前が書かれていて、「謹呈」とされていました。貴重なものをいただきありがとうございました。

 
c0187004_2236687.jpg   東禅寺の地蔵菩薩像は奥州街道を向いて鎮座しています。現在は、昔の奥州街道との間には、民家が立ち並んでいますので、街道自体は見えなくなっていますが、嘉永6年の江戸切絵図を見ると、、「東禅寺」は奥州街道に面しています。
 奥州街道は、現在は吉野通りとなっています。地元の人は、東武浅草駅からのバスが通っているため、バス通りと呼んでいるようです。


c0187004_1547167.jpg
  「東禅寺」の入り口左、お地蔵様の脇に、老夫婦の銅像があります。どなたの銅像かと思う人が多いようですが、銀座の「木村屋總本店」の創業者であんぱんの発明者の木村安兵衛とブン夫婦の銅像です。安兵衛夫婦のお墓も「東禅寺」にあり、毎年祖先祭が行われているとのことです。


 奥様は明るくやさしい方で、親切にいろいろ教えていただきました。また、折角だからということで本までいただきました。本当にありがとうございました。
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by wheatbaku | 2009-06-19 06:26 | 江戸六地蔵 | Trackback
品川寺(ほんせんじ)  (江戸六地蔵の1)
 江戸六地蔵巡り、まず第1回目は、品川の「品川寺(ほんせんじ)」 です。
 品川寺(ほんせんじ)は京浜急行「青物横丁」駅から歩いて5分です。

c0187004_21395415.jpg  地蔵菩薩像は、品川寺の門を入ったすぐ左に石の台座の上に鎮座しています。
 宝永5年(1708年)9月、江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって浄財が集められ、像の高さ2.75メートルの地蔵菩薩像が、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義によって鋳造され寄進されました。建立されてから既に300年がたったことになります。
 六地蔵のなかで、品川寺の地蔵菩薩像だけ、笠をかぶっていません。 
 江戸名所図会には、「門を入りて左の方にあり。石を畳みて台座を設く。宝永5年戌子(1708)沙門正元坊建立するところにして、江戸六地蔵の一員なり」と書かれています。


c0187004_21381762.jpg  地蔵菩薩像は目の前の東海道を行く人を見守るがごとく、旧東海道のある東を向いて鎮座しています。
 地蔵菩薩像は写真の右の奥にあります。前の道路が旧東海道です。
c0187004_20383270.jpg 品川は、東海道五十三次の第一番目の宿場町で、日本橋から2里のところにあります。旅籠の数は180軒を数える時期もあるほど栄え、江戸後期の人口は、6000人、家数1200件を数え、約130件の旅篭屋ありました。

c0187004_20393855.jpg 品川寺は、ホームぺージによると、平安時代に開創された品川で最も古いお寺だそうです。
 そして、長禄元年(1457年)、太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称しました。その後荒廃しましたが、江戸時代に入り、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、品川寺となりました。
 また、水月観音・聖観音両菩薩像を本尊とするそうですが、水月観音は秘仏で、現在の住職もみられていないそうです。
 江戸名所図会では、さらに品川寺を詳しく説明しています。下に書き上げましたので、お時間のある方はお読みください。

 c0187004_23275324.jpg
 鐘突堂に昇らせてもらい、大梵鐘を目近にみることができました。
 c0187004_2331967.jpg  
 大梵鐘は、明暦3年(1657年)9月に、4代将軍・徳川家綱によって寄進されたものです。
 大梵鐘には徳川家康、秀忠、家光の3代にわたる将軍の号(東照宮、台徳院殿、大献院殿)と6観音像(聖・千手・十一面・准胝・如意輪・馬頭)が浮き彫りにされていました。右の写真のように観音像がきれいに彫られていて、素晴らしいものでした。

 さらに、境内には、樹齢600年の大銀杏(下の写真)もあり見所がいっぱいあります。

 江戸名所図会に書かれた品川寺
 本尊縁起に云く、往古(そのかみ)、弘法大師東国遊化(ゆうげ)の頃、この地の押領氏 品川氏に附属せられ、品川左京亮(しなかわさきょうのすけ)まで、その家に伝へて、尊信せり。
 c0187004_21415065.jpg遙かの後、応永年間に至り、鎌倉公方足利持氏と上杉禅秀合戦におよびし頃、品川の一族ことごとく討ち死にす。そのとき、本尊は深く草堂の内に秘め置きしを、その後、太田道灌、品川の地を領せし頃、深くこの本尊を崇信し、一宇を建立して大円寺(だいえんじ)と号す。 --中略--
 永禄9年(1566年)、小田原の北条氏政、今川家へ加勢ありて、信玄と戦うとき、信玄、武蔵の北の方より不意に押し寄せ、江戸および品川を追捕し、民家を焼き払う。
 このとき、甲州方の二人の侍、品川観音の御堂を焼きて、本尊を奪ひ、甲州に帰りけるに、その者おほいに狂乱し、本尊元の地へ遷すべき旨威霊の示あり。
 されど、武蔵は敵地なれば、その便りを得ず。一人の乞食(こつじき)の聖を頼み、元の地に遷座なし奉るといへども、御堂も焼け亡びたりければ、その礎石の残りし地を求めて、形ばかりの草堂を営み造りて、安置なし奉りしを、遥かに年月隔たりて後、承応元年(1652)、法印 弘尊、堂宇を建立し奉り、海照山普門院と号す。   ---後略---
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by wheatbaku | 2009-06-18 06:25 | 江戸六地蔵 | Trackback
  

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