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葛  (秋の七草 3 江戸の花)
 秋の七草の三回目、今回は 「葛」 です。

 葛では、次の学生時代に覚えた釈迢空(しゃくちょうくう)つまり折口信夫の和歌の葛の花が鮮明なものとして今でも印象に残っていて、c0187004_2342935.jpg葛と聞くとすぐに思い浮かびます。

葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり 釈迢空

 葛は、万葉の時代から歌に詠まれていますが、ほとんどが葛の葉を詠んだ歌だそうで、葛の花を詠うようになったのは、近代になってからだそうです。万葉集には、葛が20首詠まれているそうですが、葛の花は1首だけで、残りは葛の葉を詠った歌だそうです。

 現在は、葛の花は、秋の深まりを感じさせる花と言われることが多いので、近代以前は、葛の葉を詠う歌が多かったということに意外な感じがしました。 

c0187004_872775.jpg その葛ですが、葉は3つの小葉からなり、幅広く大きい。小葉は裏面に白い毛を密につけるので白く見えます。
 花は、穂状で蝶の形をした紅紫の豆の花を咲かせます。花の後枝豆に似た実をつけます。それもそのはず、葛はマメ科の植物なんです。
 つるは年がたつと太くなり、やや木質化し、地面を這うつるは、節から根を出し、あちこちに根付きます。
 根は非常に深く、太って長芋状となります。その根からデンプンが取れます。

 葛の名前は、かつて大和国の国栖(くず)が葛粉の産地であったことに由来するという説や漢名の葛(かつ)が転訛したという説、コス(粉為)に転訛などの諸説があります。

c0187004_235480.jpg 葛は、根からでる澱粉が、いろいろ利用されています。
 江戸時代の貝原益軒の「菜譜」や大蔵永常の「製葛録」に記されている通り、もともとは救荒食糧としてして認められていました。

 葛の根から取れるデンプンを精製することによって作られるのが葛粉で、葛切りや葛餅などの原料となります。
 葛粉は、葛根を潰してデンプンを取り出し、水にさらす作業を何度も繰り返してアクと不純物を取り除き、最後に塊を自然乾燥させて作ります。

 葛粉を湯で溶かしたものを葛湯と言い、熱を加えて溶かしたものは固まると半透明もしくは透明になることから和菓子等の材料として古くから用いられています。

  c0187004_2315684.jpg くずもち(葛餅) は、葛粉から作られる和菓子ですが、混じり気のない葛粉100%の本葛からつくるくずもちは、西日本中心に作られます。
  しかし、江戸後期に入り、小麦粉を発酵したものから作られた菓子も  くずもち(久寿餅) とよばれるようになりました。
  両者とも同じくずもちと呼ばれるので同じものと思いますが、東日本の小麦粉澱粉を発酵させて作る久寿餅と西日本の本葛から作る葛餅は製法・歴史的経緯含め全く別のものだそうです。

 東日本のくずもち(久寿餅)は小麦粉から精製したデンプンを乳酸菌で発酵させたものであり、独特の風味があります。
 江東区亀戸天神前の船橋屋のくずもち(上の写真)が有名ですが、川崎大師と池上本門寺のくずもちも有名です。

 葛切り(くずきり)は、葛粉を水で溶かしてから加熱し、冷却して板状に固めたものをうどんのように細長く切った麺状の食べ物です。
 冷して蜜をかけて食べたり、乾燥したものを鍋料理の具として用いたりします。

 葛の根を干したものを生薬名葛根(かっこん)と呼ばれます。発汗作用・鎮痛作用があるとされ、漢方剤の葛根湯などの原料になります。
 葛根湯は、カゼのひき始めや、肩こりなどに用いられる漢方薬です。
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by wheatbaku | 2009-08-31 06:19 | 江戸の花と木 | Trackback
尾花  (秋の七草2  江戸の花)
 秋の七草の2回目は  「尾花 つまりススキ」  です。

 ススキ(芒、薄)は、イネ科ススキ属の植物で、イネ科の代表植物とも言われます。
c0187004_200135.jpg 尾花は、ススキの花穂が獣の尾に似ていることからのついた名称です。
 カヤともいいますが、カヤとは、屋根を葺く草本の総称です。
ススキは一種類かと思いましたが、ススキのほか、トキワススキ、ハチジョウススキなど10種類ほどあるそうです。

 万葉集には、薄(ススキ)で17首、尾花で18首、茅で8首の歌があるそうです。

c0187004_7575564.jpg また、枕草子では、次のように書かれています。
  『これにすすきを入れぬ、いみじうあやしと人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさはすすきこそあれ。  穂先の蘇枋のいと濃きが、朝露にぬれて、うちなびきたるは、さばかりの物やはある。
  秋の果てぞ、いと見所なき。いろいろに乱れ咲きたりし花の、かたちもなく散りたるに、冬の末まで、頭のい と白くおほどれたるも知らず、昔思ひ出顔に、風になびきてかひろき立てる、人にこそいみじう似たれ。よそ  ふる心ありて、それをしも あはれと思ふべけれ。』
 よく読むと、清少納言のススキについての思い入れがわかります。

 徒然草には、「ますほの薄(ススキ)」の語義を知ろうとする登蓮(とうれん)法師の説話が書かれています。

 江戸時代、武蔵野はススキの原でした。それを、明治の文豪 国木田独歩は、名作「武蔵野」の中で、
 『昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたように云い伝えてある』  と書いて、ススキが武蔵野の原一面に生えていたことを教えてくれます。

c0187004_19402869.gif その風景は、江戸名所図会の広尾原(ひろおのはら)にもうかがえます。
 
 斎藤月岑(幸成)のコメントはありませんが、長谷川雪旦の絵をみると、ほとんどススキの原の光景になっています。

 俳句でもかなりススキは詠まれていますが、江戸時代ではなく近代の作になりますが、最も有名な俳句は次の句ではないでしょうか。
  をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏

c0187004_2005366.jpg さて、十五夜にとってススキは欠くことのできない植物ですが、神様に秋の収穫を感謝するために、稲穂に見立てたススキを飾るといわれています。
またススキは魔よけの力があるともいわれ、人の病気予防や、稲が丈夫に育つようにという願いが込められているという説もあります。
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by wheatbaku | 2009-08-29 08:00 | 江戸の花と木 | Trackback
萩  (秋の七草1  江戸の花)
 秋の七草の最初は、「萩」 です。

 c0187004_19174586.jpg萩という漢字は、草冠に秋ですから、まさに秋を代表する植物ということになると思います。
 しかし、萩という字を使用するようになったのは平安時代からで、それまでは、「芽」「芽子」と書いて「ハギ」と読んでいたようです。従って、万葉集では「ハギ」に対して「萩」という文字は使われていません。

 ハギという名前の由来は、毎年古い株から芽を出すという意味の「ハエキ(生芽)」からという説や「葉黄(ハキ)」の意味からという説、早く黄ばむという意味の「ハキ(早黄)」からなど諸説あります。


 萩の種類は約40種ありますが、ヤマハギの仲間とメドハギの仲間に分かれていて、ヤマハギは木本系でメドハギは草本系です。しかし、観賞の対象になるのは、ヤマハギの方で、ヤマハギにはキハギ、シラハギ、ヤマハギ、ミヤギノハギ、ツクシハギなどがあります。


 c0187004_22525234.jpg萩は、古くから日本人に親しまれており、『万葉集』では最も多く詠まれている花で、141首の歌がみられ、万葉集に登場する160種の植物の中で、最も歌が多いそうです。
 また、当時は、「花見」と言えば、春は梅を見て、秋は「萩」を楽しむものだったそうです。

 枕草子では、[草の花は]の段に、
  『萩、いと色深う、枝たおやかに咲きたるがあさ露に濡れてなよなよとひろごり伏したる。さお鹿のわきて立ちならんも、心ことなり』 と記されています。


また、徒然草では、
 c0187004_22563973.jpg『家にありたき木は、・・・(中略)。(家にありたき)草は、山吹・藤・杜若・撫子。池には、蓮。秋の草は、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・竜胆・菊。黄菊も。蔦・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、さゝやかなる、墻に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくゝ、花も見馴れぬなど、いとなつかしからず。 」
と書かれています。   なでしこ以外の秋の七草が挙げられていますね。


 c0187004_22394710.jpg 江戸時代の萩の名所は、向島百花園亀戸の龍眼寺です。
江戸名所花暦の中で、
向島百花園は、
 『向じま花やしき。 秋草の中にも七草と唱えて愛玩するを、この園中にはみなそろえて植込みたり。』
と、七草すべてがそろっていると紹介されています。
 今でも、七草が植えられていますが、その中でも萩のトンネルが有名ですね。

 そして、龍眼寺については
 『竜眼寺 庭に萩を多く植えたり。もとより、池水清らかにして、萩の花ざかりには、にしきをつらねたり。いまはことさら数千叢(すうせんそう)になりて、貴賤群をなして歩行(あゆみ)をはこぶ。俗よんで萩寺といふ』
 と書かれています。

  龍眼寺は、現在も萩の寺として有名ですが、まだ訪ねたことがないので、行ってみたいですね。萩の時期に・・・。

 最後に、宮城県では、宮城野萩(ミヤギノハギ) を県の花に指定しています。「なるほど、やはり宮城県」と思います。
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by wheatbaku | 2009-08-28 08:46 | 江戸の花と木 | Trackback
秋の七草  (江戸の花)
  「秋の七草」 は、東京では、向島百花園や殿ヶ谷戸庭園が有名で9月に入って本格的なシーズンですが、東京近郊では、埼玉県長瀞町の七草寺が有名です。
 こちらの方は、既にシーズン入りのようで、来週の土曜日9月5日は、JR東日本と秩父鉄道の共催の「駅からハイキング 初秋の長瀞 七草寺めぐり」が開催されます。

 そこで、十社巡りをちょっとお休みして、「秋の七草」について書いていきます。

 秋の七草は、山上憶良が詠んだ次の2首の歌がその由来とされています。

 秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花                 (万葉集・巻八 1537)

 萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花(おみなへし) また藤袴 あさがほの花     (万葉集・巻八 1538) 
 このうち、「あさがほの花」が何かについては、朝顔、木槿(むくげ)、桔梗など諸説ありますが、桔梗とする説が最も有力のようです。

 秋の七草を一覧にすると次のようになります。写真は「季節の花300」より掲載

☆萩(はぎ)                マメ科
c0187004_15423324.jpg ☆尾花(おばな:ススキのこと) イネ科
c0187004_1540922.jpg  

☆葛(くず)           マメ科
c0187004_15421558.jpg ☆撫子(なでしこ)        ナデシコ科
c0187004_154131.jpg 

☆女郎花(おみなえし)   オミナエシ科
c0187004_15391410.jpg  ☆藤袴(ふじばかま)      キク科
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☆桔梗(ききょう)       キキョウ科
c0187004_15403882.jpg  春の七種が摘んだり食べたりする野草であるのと違い、秋の七草は、それを、観て楽しむものです。
 秋の七草に何かをする行事は特にありませんが、野の花が咲き乱れる野原を「花野」(はなの)といい、花野を散策して短歌や俳句を詠むことが、古来より行われていました。



 そんな昔の人の気持ちになって、花を愛でる気持ちで、秋の七草について、明日から個別にゆっくり書いていきたいと思います。
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by wheatbaku | 2009-08-26 13:53 | 江戸の花と木 | Trackback
王子神社  (十社巡り 5)
 王子神社 はJR王子駅から徒歩3分です。王子駅の南側の高台は、飛鳥山ですが、その北西方向の高台にあります。

c0187004_22211755.jpg  王子神社は、この一帯の「王子」という地名の由来となっています。

 王子神社の創建ははっきりしませんが、源義家の奥州征伐の折、王子神社で霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。
 その後、元亨2年(1322年)、豊島氏が熊野権現を勧請して、改めて「若一王子宮」としてお祀りしました。それから、このあたりの地名が、王子という地名となりました。

c0187004_22215235.jpg 戦国時代の小田原北条氏も篤く敬い、朱印状を与えて社領を安堵しています。
 江戸時代に入ると、徳川家康は天正19年(1591年)、朱印地200石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。  
 3代家光は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」3巻を作らせて当社に寄進しました。その後も5代綱吉が元禄16年(1703年)、10代家治が天明2年(1782年)、11代家斉が文政3年(1820年)と造営修繕するなど、代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなりました。

 特に8代吉宗は紀州徳川家の出身で、この地に紀州ゆかりの神社があることを喜んで、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進したそうです。そして、飛鳥山に桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。
 その飛鳥山は、神社の東側の高台ですが、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています

【関神社】
c0187004_22221995.jpg 境内に「関神社」があります。御祭神は 蝉丸とその姉逆髪姫、そして侍女の古屋美女 です。
 蝉丸は、百人一首の「これやこの行くも帰るも別れても知るも知らぬも逢坂の関」で有名ですが、延喜天皇の第4皇子という説もあり、和歌が上手なうえに琵琶の名手としても知られました。
 蝉丸は、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉のために侍女の古屋美女に命じて「かもじ(かつら)」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並びに「髪の祖神」と崇敬され、「関蝉丸神社」として、滋賀県大津の逢坂山に祀られています。
 江戸時代に「かもじ業者」を中心とした人々により、王子神社境内に祀られていましたが、昭和20年の戦災により社殿焼失した後、昭和34年に再建されたのが、この社殿です。

【大イチョウ】
c0187004_2223013.jpg 王子神社から音無親水公園へと降りる階段の途中に、大イチョウがあります。
 豊島区教育委員会の説明板には次のように書かれています。

 『荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現(王子神社)がある。
 かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と異なる風致地区を形成している。
 大正13年の実測によると、目通り幹囲は6.36メートル、高さは19.69メートルであったという。枝はあまり多くないが、うっそうとしており、樹相はきわめて立派である。
 当社は豊島氏の旧跡であり、このイチョウも、その当時植えられたものであると伝えられている。』

 【音無川親水公園】 
c0187004_22234564.jpg 王子神社の境内の下を流れる石神井川は、江戸時代は滝野川と言われるくらい滝が多かったそうですが、現在は、「音無川親水公園」となって、静かに流れています。
c0187004_22232341.jpg 






 こちらは、親水公園に流れ落ちる小さな人工の滝です。
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by wheatbaku | 2009-08-26 10:50 | 十社巡り | Trackback
氷川神社 (十社巡り 4)
 赤坂氷川神社は、東京メトロの「赤坂」駅または「六本木一丁目」駅が最寄駅になります。

c0187004_21453154.jpg 赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951年)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故ヶ岡)に祀られました。
 江戸時代、紀州徳川家の赤坂の屋敷の産土神の由縁から、8代将軍徳川吉宗が享保元年(1716年)将軍職を継いだ際に、享保14年(1729年)に老中水野忠之に命じ、現在地(赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われました。
 そして4月28日には吉宗の直々の参拝があったそうです。
 その後も幕府の保護は篤く、8代から14代家茂まで歴代の朱印状が残っているそうです。

c0187004_21511461.jpg 本殿は、東京都の重要文化財ですが、残念ながら漆の塗り替え工事中でした。
 氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから分霊し、各地に氷川神社が祀られました。
 出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。
 「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられています。

 河川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社があります。 それぞれ利根川・元荒川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られています。
 氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布しますが、この地域は十世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようです。

【南部坂】c0187004_21463728.jpg 
 現在社殿のある場所は、忠臣蔵の浅野内匠頭の夫人瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討ち入り前に訪れて別れを告げたといわれています。c0187004_21471095.jpg   そして、神社の近くには「南部坂雪の別れ」で有名な『南部坂』があります。

 
 南部坂は、六本木側に下る坂で、左の写真は坂の上から見たところです。右は、六本木一丁目側の坂の下にある石標です。

【天然記念物の大イチョウ】
c0187004_21473355.jpg 境内に大きなイチョウの木があります。地上1.5mの高さ部分の幹の太さが約2.4m、樹齢400年の巨樹です。
 氷川神社が現在地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を越える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられます。
 港区内にあるイチョウでは、最大のものは善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)ですが、それに次ぐ大きさと樹齢を誇る大イチョウです。
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by wheatbaku | 2009-08-25 06:15 | 十社巡り | Trackback
白山神社 (十社巡り 3)
 十社巡りの3回目は、 「白山神社」 です。

 c0187004_14522290.jpg白山神社は、都営地下鉄三田線「白山」駅から徒歩3分、また、白山通りから少し入った所にあります。
 このように、白山神社の周辺には、白山の地名がかなりあります。白山神社自体の住所も、文京区白山5-31-26です。
 実は、この周辺の白山の地名のもとに、白山神社がなっているからなのです。
 白山神社が白山の地名のもとになるとともに、小石川も、加賀国石川郡に倣ったという説もあり、「小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣えるが故なり」と白山神社の説明書に書かれています。

c0187004_14533037.jpg 白山神社の創建は古く、平安時代中期の天暦2年(948)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられています。
 その後、元和2年(1616)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移りました。しかし、慶安4年(1651)徳川家綱の用地となったので  (と神社の由緒書に書かれていますが、徳川綱吉の間違いではないかと思います) 、明暦元年(1655)現在地に移りました。

 本殿のまえに、旗桜と呼ばれている桜があります。この桜は、八幡太郎義家が、御旗を立てて祈願したと伝えられています。古木は枯れてしまい、若木を育てたものだそうです。旗桜はサトザクラの栽培品種で、5枚の花弁のほかに旗弁(きべん)という花弁があるので「旗桜」と呼ばれるそうです。
 今年の1回目にお参りしたのは、桜の季節の前でしたので、写真を撮りませんでした。旗桜の花はまだ見ていないので、一度は観てみたいと思っています。

 現在の白山神社は、あじさいの神社として有名です。 6月には3千株のあじさいが群れ咲き、「文京あじさいまつり」が開かれて大勢の人でにぎわいます。
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 白山神社の本殿の裏側に富士塚があり、その頂上には、浅間神社がお祀りされています。
 この富士塚は、通常は入ることができませんが、あじさい祭りの間だけ開放されます。
 富士塚には、あじさいが一杯植えられています。そのため、浅間神社はあじさいに囲まれていました。
c0187004_15125027.jpgc0187004_1516153.jpg
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by wheatbaku | 2009-08-24 06:16 | 十社巡り | Trackback
日枝神社 (十社巡り 2)
 十社巡りの2回目は、 「日枝神社」 です。
 日枝神社は、明治元年以来、日枝神社と呼ばれていますが、江戸時代には「日吉山王社」「山王権現」等といわれ、「山王さま」の名で親しまれてきました。

c0187004_2384950.jpg 御祭神は、大山咋神(おほやまくひのかみ)と言い、比叡山の神様です。
 比叡山の王ということで、「山王」と呼ばれるようになりました。

 現在は、赤坂に鎮座していますが、もともとは江戸城内に鎮座していました。
 日枝神社は、鎌倉時代初期に、江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌が江戸城をに築城する際に、鎮護の神として川越山王社を勧請しました。その頃の社地は現在の梅林坂あたりだったと江戸名所図会は書いています。

c0187004_22334216.jpg 天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入城した後は江戸城内の紅葉山にありました。
 そして、2代将軍秀忠の時、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外の貝塚(今の隼町国立劇場附近)に定め、社殿を遷しました。
 その後、明暦3年(1657)の大火により焼失すると、4代将軍家綱は赤坂の溜池を望む地に権現造の社殿を造営しました。 これが、現在の日枝神社のある場所です。


c0187004_23102594.jpg 日枝神社は、標高28メートルの山王台の突端の地にあります。そのことは、左の写真の山王男坂(さんのうおとこざか)の急坂ぐあいや外堀通りからも急階段を登るようになっていることによってよくわかります。山王男坂の階段は52段あり、下から見ると、見上げるようです。

c0187004_2310029.jpg 男坂口、外堀通りに面した山王橋口(左の写真)など日枝神社の入口には、 「山王鳥居」  があります。
 鳥居は神社の象徴であり、その語源は「通り入る」また鶏の止まり木の「鶏居」であるといわれています。   「山王鳥居」は鳥居の笠木の部分の上端に合掌のように破風を付したもので、合掌鳥居ともいわれ、大山咋神を祀った神社に用いられる特徴的な鳥居です


c0187004_2311292.jpg 日枝神社のお使いは「猿」です。本殿の前の両脇に、「神猿像」があります。夫婦の猿で、女猿には愛児をだかせて三猿円満の教えを象徴しているそうです。
 お使いの「猿」は神門にも夫婦の猿の像が安置されています。

 神田祭とともに、天下祭りと言われる山王祭りは、、元和元年より、神田祭と隔年に行われることになり、子(ね)、寅(とら)、辰(たつ)、午(うま)、申(さる)、戌(いぬ)の年に行われました。
 申年(さるどし)には、やはり山王祭りですね。
 寛永12年に3代将軍家光が、江戸城内に入った御神輿を上覧して以来、歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭り」 として盛大行われるようになりました。
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by wheatbaku | 2009-08-21 06:15 | 十社巡り | Trackback
神田神社 (十社巡り 1)
 東京十社と呼ばれる神社があります。明治元年に准勅祭神社とされた神社を言います。
 東京十社は歴史のある神社で、当然江戸時代にも崇敬された超有名神社です。
 この十社をめぐるのが十社巡りです。順に十社を巡っていきます。

第1回は、「神田明神 正式名称・神田神社」 です。

c0187004_22554949.jpg  神田明神は、東京の中心である神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれています。

 神田明神が、現在の場所に鎮座するようになったのは、2代将軍秀忠の時代の元和2年(1616)です。
 それまでは、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)にありました。
 神田明神は、社伝によると、天平2年(730)に創建されました。
 天平年間というのは、奈良時代の聖武天皇の時代ですので、本当に古い神社です。

c0187004_2220508.jpg その後、天慶の乱で平将門がなくなった後は、神社の近くの将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが平将門によるものとして人々を恐れさせたため、時宗の真教上人が手厚く霊を慰めて、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)に一緒にお祀りしました。

 江戸幕府が開かれると、幕府の尊崇する神社となり、江戸城の鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
 以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまで、「神田明神」として、篤く崇敬されてきました。
 そして、明治に入り、社名が神田明神から神田神社に改称されました。

 現在、お祀りしてある神様は次の3人の神様です。
  一之宮は、大己貴命(おおなむちのみこと) だいこく様のこと。天平2年(730)鎮座。
         別名は大国主命(おおくにぬしのみこと)
  二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと) えびす様 商売繁昌の神様。
  三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと) まさかど様 延慶2年(1309)に奉祀。
 
 境内に大きなだいこく様の石像とえびす様の像がありますが、神田明神の祭神だからですね。

 しかし、江戸時代は、だいこく様と まさかど様だけでした。現に、江戸名所図会には、2神のみ書かれています。 えびす様は明治になって祀られたものです。

c0187004_22561329.jpg 神田祭りは、天下祭りと称され、天和元年(1681)以後、山王祭りと隔年で行われるようになったため、丑(うし)、卯(う)、巳(み)、未(ひつじ)、酉(とり)、亥(い)の年に行われました。
 神田祭りは、現在は5月に行われますが、江戸時代には9月15日に行われました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、徳川家康が神田明神で戦勝祈願を行ない出陣しました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し、これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられたことによるものと言われています。


-上の写真は隨神門です。
 昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立されました。
 外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)が、内側には「因幡の白兎」といった大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られています。
 また二層目に「繋馬」の彫刻が飾られているそうですが、この繋馬は平将門の家紋に由来しています。
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by wheatbaku | 2009-08-20 06:20 | 十社巡り | Trackback
柳島の妙見様と「中村仲蔵」
 落語に「中村仲蔵」という話があります。

c0187004_213239100.jpg 初代中村仲蔵は、歌舞伎の門閥外から大看板となった立志伝中の人です。
 中村仲蔵は、浪人の子として生まれ、役者になり、はじめは先輩同輩からいじめられ苦労しますが、その才能を4代目市川團十郎に認められてからは人気が上がり、明和3年(1766年)には「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎を、現在の演出に変えて演じ、生涯の当たり役にし、一代で「中村仲蔵」を大名跡としました。

 その中村仲蔵が、名作仮名手本忠臣蔵の五段目で斧定九郎を工夫して大評判をとった経緯を語る実録談が落語の「中村仲蔵」です。


 この落語「中村仲蔵」の中に、柳島の妙見様に願掛けを行う場面があります。
 あらすじを書くと次のようです。

c0187004_21574685.jpg 中村仲蔵は、「仮名手本忠臣蔵」の五段目の斧定九郎の役だけを与えられえます。
 当時の斧定九郎は、仲蔵のような名題(なだい 幹部級の役者)のやる役ではなく、またその拵えは山賊の拵えでした。
 仲蔵は、拵えを新しくしようとあれこれ考えてみたがどうしても工夫がつきません。この上は神仏の御利益にすがるよりしかたがないと柳島の妙見様に日参します。
  満願の日の帰り道、法恩寺橋までくると、雨が降り出したので蕎麦屋へ入ります。食いたくもない蕎麦をあつらえて、工夫をあれこれ考えているところへ、浪人風の男が入ってきます。その姿をみて、一気に定九郎の拵えを考えつきます。そして、妙見様にお礼参りに戻る。 という場面です。
 そして、話は新しい拵えが大評判をとる場面へと続きます。

 この場面が、すごく印象的でしたので、一度、柳島の妙見様に行ってみたいと思っていましたが、先日実現しました。江戸検定1級合格の人たちも一緒でした。

c0187004_21355983.jpg  柳島妙見山法性寺は、日蓮宗のお寺で天正元年(1573年)の創建。江戸城の鬼門除けとして置かれた北辰妙見大菩薩を安置した妙見堂があります。 江戸名所図会によると、往時は影向松(えこうまつ)、又は星下り松と云われた巨松があったそうですが今はもう無く、鉄筋コンクリートのマンションに変わっています。
 レンガ色のマンションの1・2階部分が柳島妙見山法性寺となっています。


c0187004_2136268.jpg 入口の右手奥には、葛飾北斎の顕彰碑と近松門左衛門の碑があり、その他にも多くの石碑・歌碑が並び、妙見様と親しまれ人々の信仰を集めていた事がわかります。
 葛飾北斎は妙見菩薩を信仰しよく参詣したそうです。そして、法性寺を題材とした作品を数多く残しています。
 また、近松門左衛門は昭和30年代に供養碑の一部が発見され、縁の深かった事が判明、そこで、現住職によって碑が建立されたそうです。

c0187004_21381593.jpg これは、十間橋からみた柳島の妙見様の前の北十間川です。
 右側の橋が柳島橋、その下を流れるのが横十間川。妙見様は、柳島橋のたもとにあります。
 橋の上から、水の流れをみていたら、ボラの子供のイナが一杯泳いでいるのをOさんが見つけました。隅田川も非常にきれいになったのだと実感しました。

 なお、落語の「中村仲蔵」は素晴らしいお話です。ぜひ一度は聞いてみてはどうでしょうか。おすすめの落語です。
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by wheatbaku | 2009-08-19 06:19 | お寺めぐり | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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