<   2009年 09月 ( 24 )   > この月の画像一覧
世田谷八幡宮 (世田谷の寺社 ⑤)
 世田谷八幡宮は、豪徳寺の西に位置します。歩いて5分程度です。
 豪徳寺にお参りする前に参拝しました。

 c0187004_20581743.jpg世田谷八幡宮は、寛治五年(1091年)後三年の役の帰途、源義家が、この宮の坂の地で豪雨に会い天気回復を待つため、滞在することとなり、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請しお祀りしたのが最初です。

 後に世田谷城主の吉良頼貞が天文15年(1546年)社殿を再興させました。このときに寄進された太刀一振が社宝として残っているとのことです。
 その後、江戸に入城した徳川家康から11石の社領が寄進され、将軍家からも代々崇敬されました。
 明治時代には、社名を宇佐神社と改めたが、第二次大戦後、世田谷八幡宮の名に復元したそうです。

c0187004_20584946.jpg 源義家が勧請した際に、兵士に奉祝相撲をとらせたことから、現在も奉納神事として伝えられているとのことです。
 そのため、境内には土俵や力石があります。
 今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われているそうです。




 現在の社殿は昭和39年に建てられていますが、その中に文化10年(1813)に造られた本殿が納められているとのことですが、昇殿されている人がいたので、そこまでは確認できませんでした。

  なお、世田谷八幡宮は東急世田谷線「宮の坂」駅の駅前に鎮座していますが、この駅名は八幡宮の脇にある宮の坂に由来しています。
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by wheatbaku | 2009-09-30 10:26 | 神社参拝 | Trackback(1)
松陰神社② (世田谷の寺社 ④)
 今日も 「松陰神社について書いていきます。

 この吉田松陰の銅像が、松陰神社の参道左手、手水舎のうしろにあります。

c0187004_1641209.jpg 吉田松陰は、文政13年(1830)8月4日、長州藩士の杉百合之助の次男として生まれました。天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となりますが、大助が死去したため、叔父の玉木文之進の指導を受けました。
 藩校明倫館を経て、平戸、熊本など諸国を遊学し、江戸の佐久間象山のもとで指導を受けます。
 ペリーが再来航した安政元年(1854)に海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、アメリカ側から拒絶されたため自首し、小伝馬町牢屋敷に入牢します。
 のち萩の野山獄に移されますが、翌年、実家杉家に幽閉の身となります。
 その後、安政の大獄が始まると、老中間部詮勝の暗殺を企てたことにより、再び、小伝馬町牢屋敷に投獄され、安政6年(1859)10月27日に、牢屋敷で斬首されました。

 
【松下村塾】 
 松陰は実家の杉家で謹慎している間に松下村塾を再開し、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら幕末から明治にかけて活躍した人材の育成をしました。

c0187004_16415632.jpg 松蔭神社には、本殿の右脇に、松下村塾があります。
 これは、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。

 松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。
 玉木文之進が公務多忙の間、久保五郎左衛門が引継ぎました。その後、松陰が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木文之進、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
c0187004_16422597.jpg 松陰は、安政2年(1855)26才の冬出獄してから、杉家(松陰の実家)で子弟を教育しました。
 安政4年(1857)11月に、八畳一間の小さな塾舎が完成し、松蔭はこの塾に起居し塾生に対し教育指導しました。
 塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。

 松陰が実際に塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。

 この短い期間に、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を育成したことに驚かざるをえません。

【吉田松陰と乃木将軍は親戚】
c0187004_16393852.jpg 参道の左手には、手水舎の後ろに「松陰神社道」の大きな道標石があります。
 これは、旧大山道(矢倉沢往還・現世田谷通り)から松蔭神社に至る道の入口に建てられていた道標で、世田谷通り拡幅工事の際にこの境内に移設されたもので、明治45年乃木希典の寄進によるものだそうです。
 乃木希典は、松陰の叔父の玉木文之進を介して、松陰と親戚関係になります。
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by wheatbaku | 2009-09-29 06:27 | 神社参拝 | Trackback
松蔭神社 (世田谷の寺社③)
 今日から、「松陰神社」 です。 松陰神社へは、世田谷線「松陰神社」駅が最寄駅ですが、今回は、豪徳寺から、歩いて、「松蔭神社」に向かいます。
 国士舘大学や若林公園を過ぎて約10分で到着します。
 吉田松陰は、安政の大獄で刑死しましたが、その安政の大獄を指揮したのは、井伊直弼です。
 安政の大獄の当事者同士が、広い大江戸のなかで、歩いてたった10分のところに眠っているのも不思議な感じがしました。

c0187004_16382851.jpg  松蔭神社のある場所はかつて長州毛利藩藩主毛利大膳大夫(だいぜんだゆう)の別邸のあったところで大夫山(だいぶやま)と呼ばれていました。

 吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日、安政の大獄により、江戸小伝馬町の牢屋敷にて30歳の若さで刑死しました。
 吉田松陰が亡くなったのが1859年ですので、今年は松蔭没後ちょうど150年目にあたります。
 刑死の4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作や伊藤博文など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が現在の墓所に改葬されました。

c0187004_1639152.jpg 松陰の改葬と同時に、安政の大獄で刑死した頼三樹三郎、小林民部良典(よしすけ)も同じく回向院より改葬されました。
 禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手によって、明治元年(1868)に松陰以下の墓を修復しました。


 松陰神社は、明治15年(1882)に、門人を中心に墓の側に松陰を祀る神社として創建されました。
 現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されました。

 【吉田松陰の墓】  
 吉田松陰の墓は、松陰神社の西側の墓所の中にあります。
 吉田松陰は独りでねむっているのではなく、多くの人とねむっています。
 墓所の説明板「吉田松陰先生他烈士墓所」は次のように説明しています。

c0187004_16441186.jpg 『文久3年(1863)正月。
 高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三(やまおようぞう、白井小助、赤根武人(あかねたけひと)等は、松陰先生の亡骸なきがらを千住小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)よりこの世田谷若林大夫山(だいぶやま)の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。
 同時に小林民部(こばやしみんぶ)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)も同じく回向院より改葬。(中略)
 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。(中略)
 昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。』

 頼三樹三郎は、頼山陽の子供で、安政の大獄で逮捕され、松蔭が処刑される前の10月7日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。
 小林民部良典(よしすけ)は、鷹司家の諸太夫(しょだいぶ)で、関白鷹司政通が攘夷派へ変わったキーパーソンです。 安政の大獄で捕えられ、遠島刑となり、後に肥後人吉藩預かりに減刑されましたが、獄中で病没した人物です。

 【吉田松陰終焉の地の碑】 
c0187004_22295944.jpg 吉田松陰終焉の地の碑が、小伝馬町牢屋敷跡である十思公園にあります。
 先日の日本橋散策ツァーでもご案内しました。
 この碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたものです。
 碑には、「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」という辞世の歌が刻まれています。


 ところで、松陰のお墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。
 
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by wheatbaku | 2009-09-28 06:22 | 神社参拝 | Trackback
豪徳寺② (世田谷の寺社②)
 昨日に続いて、豪徳寺についてのご紹介です。
 ところで、豪徳寺へは、小田急線「豪徳寺」駅から歩いて12分かかります。歩くのが大変でしたら、豪徳寺駅から、豪徳寺駅の傍にある世田谷線「山下」駅で世田谷線に乗り換えて「宮の坂」駅から歩くと3分で到着します。

 c0187004_21402142.jpg豪徳寺は、招き猫発祥の地と言われます。それは、井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避けることができたことを大いに喜んだことによると言われています。
 豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」が仏殿の西側にあります。
 招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されていました。
 右手を挙げている猫は金運を招き、左手を挙げている猫は人(客)を招くとされています。

 ゆるきゃらで有名な「ひこにゃん」のモデルは、ここの招き猫です。

 c0187004_2144543.jpg「招猫殿」の前を通り、さらに西に向かうと、井伊家墓所になります。
 彦根藩井伊家の2代藩主直孝はじめ6代直恒、9代直禔、10代直幸、13代直弼、14代直憲の6代の墓所があります。
 
 墓所の入り口には、大きな説明板と墓所の地図が設置されています。
 なお、初代彦根藩主、井伊直政の墓所は彦根清涼寺にあります

 13代藩主の井伊直弼は、万延元年(1860)の桜田門外の変で暗殺されました。
 直弼も、豪徳寺に葬られています。(下の写真は墓碑の脇にある説明板です)

 桜田門外の変については、かなり知られていますが、桜田門外の変以後のあまり知られていない話題を三つご紹介します。

 c0187004_21443413.jpg1、桜田門外の変の起きたのは、3月3日ですが、井伊家の家名存続と井伊家と水戸家の騒乱が激化することを防ぐため、直弼の死亡はしばらく伏せていたそうです。そのため、井伊直弼の墓にも命日は、閏3月28日となっているそうです。
 直弼の墓は墓所修理中で詳しくは墓碑をみることはできませんでした。

2、井伊家墓所には、桜田門外の変で殉難した八士を奉る桜田殉難八士之碑が建っているとのことです(参拝の当日は、墓所が修理中だったため、実物は確認できませんでした)
 この人たちは、桜田門外の変で死亡した人たちですが、生き残った人たちには、厳しい処置が下されました。
 重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉されました。
 軽傷者は全員切腹が命じられました。
 無疵の者は全員が斬首され、家名断絶となりました。

3、直弼の失政を理由に彦根藩は石高が35万石から25万石に減らされてしまいました。

 桜田門外の変は、日本の政治だけでなく、彦根藩井伊家の人たちにも大きな影響を与えたことがわかります。

 豪徳寺は、広い境内で、多くの建物が建っています。
c0187004_22402729.jpg こちらが、豪徳寺の本堂です。仏殿の北側にあります。昭和42年に建立されました。
c0187004_22405055.jpg 







 山門から仏殿に向かう参道の左手に、真新しい三重の塔 がありました。
 平成18年5月に完成しました。
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by wheatbaku | 2009-09-26 09:32 | お寺めぐり | Trackback
豪徳寺 (世田谷の寺社 ①)
 ホテルニューオータニさんの日本橋散策ツァーも無事終了しました。
 19名の方にご参加いただき、楽しい時間を過ごすことができました。
 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
 
 日本橋散策ツァーの見所は、パートナーを務めてくれた月猫さんが書いてくれますので、そちらにお任せして、いつもどおりブログを書いていきます。

 日本橋散策ツァーに際して、案内場所は当然下見をしましたが、それに関連する場所も下見をしました。
 その一環で豪徳寺や松蔭神社なども訪問しましたので、今日から紹介していきたいと思います。

 今日は井伊家の菩提寺や招き猫発祥の地として有名な 豪徳寺 の紹介です。

c0187004_21195520.jpg 豪徳寺は、元々「弘徳院」と言われました。
 文明12年(1480年)吉良政忠が伯母である弘徳院のために庵を結んだのが最初です。
 寛永10年(1633年)彦根藩2代藩主井の伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。
 寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によります。

 豪徳寺は、小田急線の駅名にもなっているので、前々からなじみのある名前でしたが、お寺の名前が井伊直孝の法名に由来するというのは、今回のお参りで初めて知りました。新しい発見でした。 
 なお、世田谷を領した吉良氏は、吉良上野介義央で有名な三河吉良氏と同族ながら系統の異なる奥州吉良氏の系統です。
 江戸時代には、家格の高さから、高家として取り立てられますが、三河吉良氏との関係から、蒔田氏として称しています。そして、赤穂事件によって三河吉良氏が断絶した後は、「吉良」に復姓しています。

c0187004_2120226.jpg  山門から入るとまず明に入るのは正面にある仏殿(上の写真は正面から、右の写真は脇からとったものです)です。仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物です。

c0187004_8202933.jpg  この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりだそうです。
 仏殿は、掃雲院が3代藩主直澄の菩提を弔うために延宝4年(1676)に建設に着手し、翌延宝五年(1677)に完成しました。
当寺流行した黄檗様式が随所に取り入れられているとのことです。
 仏殿前の石灯篭(左上の写真)も、仏殿と同じ時期に建立されたものとのことです。



c0187004_21212027.jpg  山門から仏殿へ向かうと東側に鐘楼があります。
 この梵鐘は、延宝7年に完成しています。製作者は、藤原正次という江戸の鋳物師とのことです。
 高さは約148センチあります。

 招き猫の話や井伊家の墓所については明日書きます。
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by wheatbaku | 2009-09-25 06:30 | お寺めぐり | Trackback
熊野神社 (神社参拝)
 十二社熊野神社は、新宿にありますが、新宿中央公園の西側でもあり、新宿駅からは歩いて10分以上かかることもあり、なかなか参拝できない神社でしたが、思い切って参拝してきました。

 c0187004_1023046.jpg十二社熊野神社は、新宿の総鎮守となっています。
 室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます。
 鈴木家は、紀州で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたり、熊野三山より若一王子宮を祠りました。
その後、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。

 江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 享保年間には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の景色は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。

 明治維新後に、熊野神社と改称しています。


c0187004_1113445.jpg 十二社の池は、もともと田畑の用水溜として開発されたもので、現在の熊野神社の西側、十二社通りをへだてたて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
 水源は湧水であったようです。
江戸時代には、池の周囲には多数の茶屋ができ景勝地として振るわいました。
 右の浮世絵は、歌川広重の名所江戸百景のうちの「角筈熊野十二社」です。
 名所として評判だったことを裏付けていると思います。

明治時代以後は料亭・茶屋やボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われたそうですが、昭和43年に埋め立てられました。
 
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by wheatbaku | 2009-09-22 10:03 | 神社参拝 | Trackback
愛宕神社 (神社参拝)
 今週は、23日(水曜日)にホテルニューオータニさんの日本橋散策ツァーがあるため、ブログの記事が短めになりますが、ご容赦ください。

 今まで、参拝しておきながら、ご紹介できていない神社をご紹介します。

 愛宕神社は、御府内八十八ヶ所巡りで真福寺にお参りした際に参拝しました。
 愛宕神社は真福寺の隣りになります。
 愛宕神社への最寄り駅は、東京メトロの神谷町駅(日比谷線)、虎ノ門駅(銀座線)、都営地下鉄の御成門駅(三田線)、JRの新橋駅といろいろ最寄り駅があります。

c0187004_21125241.jpg 愛宕神社は、慶長8年(1603)に、江戸の防火のために徳川家康の命令で祀られた神社です。.
 京都の愛宕神社も、ここ東京の愛宕神社と同じご祭神ですが、「どちらが本社とかではなく、同格扱いとする」との幕府からのお達しがありったそうで、現在も同格扱いのようです。


【出世の階段】  
 愛宕山は標高26メートルで、東京23区内ではもっとも高い山です。
 c0187004_21132679.jpgそのため、神社正面の男坂は急斜面となっていて、急な石段となっています。
 「男坂」の急な石段は「出世の石段」とも呼ばれています。
 これは、増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ています。
 この話は講談の「寛永三馬術」として有名です。
 いや、86段もある石段は急で、こわごわ降りる感じでした。

 愛宕神社は歴史の重要場面に何度か登場してきます。
【水戸浪士集結の場所】 
 その一つは、井伊直弼を討った水戸浪士集結の場所であったことです。
 c0187004_21131057.jpg万延元年、3月3日、大老井伊直弼を水戸浪士が討った桜田門外の変は有名ですが、その水戸浪士が集結したのは、この愛宕神社だったのです。
 浪士たちは神社内の絵馬堂(現存せず)に集結し、神前に祈願したのち、歩いて桜田門に向かったのです。
【勝海舟・西郷隆盛の会談の場】  
 また、江戸城明け渡しのための勝海舟・西郷隆盛の会談の場所でもありました。
 江戸城明け渡しについて勝海舟と西郷隆盛の会談が、行き詰まり状態にあった明治元年3月13日に2人は愛宕山に登り、江戸の町を見渡しました。
 そして、どちらから言い出すともなく、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」 と話し合います。
 そのあと、三田の薩摩屋敷で歴史的な会談が行われ、江戸城の無血開城に重要な役割を果たしたと言われています。

c0187004_21133484.jpg 右は、下から見た男坂です。
 下からみても急な石段です。
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by wheatbaku | 2009-09-21 09:12 | 神社参拝 | Trackback
源清麿と榊原鍵吉  (四谷の有名人 ④)
 四谷の有名人 今日は2人、幕末期の刀工と剣客をご紹介します。

 刀工は、四谷正宗と言われた源清麿、剣客は、最後の剣客と言われた榊原鍵吉です。

 【源 清麿】 
c0187004_22143565.jpg 長谷川平蔵の碑がある戒行寺の向かい側に、宗福寺があります。
 この宗福寺に、四谷正宗の異名を持つ名刀工源清麿の墓があります。
 清麿は信濃国小諸の藩士山浦信風の次男で環といい、文化10年(1813)に生まれました。信濃国上田の刀工河村寿隆の門に入って鍛冶を学び、やがて江戸に出て幕臣窪田清音に兵学を学ぶ傍ら刀工として精進しました。
 その後、四谷伊賀町稲荷横丁(現在の三栄町辺り)に住み、名を源清麿と改めて、名刀を打ち出しました。

c0187004_2215614.jpg 江戸時代後期の刀工の第一人者として、天保弘化年間に活躍しました。その切れ味は正宗のようだと言われ、世の人は「四谷正宗」と呼びました。
 清麿の作風は、相州伝、美濃伝に属する力強いもので、作品の一部は刀剣博物館や国立博物館に保存されているとのことです。

 源清麿の墓は本堂の脇にあります。



 【榊原 鍵吉】 
c0187004_22133234.jpg 宗福寺の前の道を西に向かい、まもなく南側に西応寺があります。
 この、西応寺に幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原鍵吉の墓があります。
 榊原鍵吉は、天保元年(1830)麻生広尾に生まれました。
 12歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷(おだに)精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許をうけます。
 安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、万延元年(60)築地から小川町に移転した講武所の開場式の際、模範試合で槍術方の高橋伊勢守(後の泥舟)を打ち込んで名をあげました。
 文久元年(61)将軍家茂の上洛を警護して、その信任を受け、文久2年(1862)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開きました。

c0187004_221411.jpg 慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍しますが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住し、その後、明治政府より再三招かれますが、断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めました。
 明治20年には、明治天皇天覧のもと、伏見宮邸において、見事に兜(かぶと)割りの特技を実演に供して名声を博しました。

 なお、鍵吉が指導を受けた男谷精一郎信友は、勝海舟とは従兄弟の間柄になる人物です。

 西応寺の向かい側に、山田浅右衛門が眠る勝興寺があります。
 山田浅右衛門については、別の機会に紹介します。
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by wheatbaku | 2009-09-19 09:03 | お寺めぐり | Trackback
本性寺と萩原宗固 (四谷の有名人 ③)
 本性寺(ほんしょうじ)は、東京メトロ「四谷3丁目」から歩いて6分です。
 本性寺は、戦前は四谷の毘沙門様として賑わいをみせていたそうです。
 四谷の有名人の3回は、その本性寺と萩原宗固です。

c0187004_2115823.jpg 本性寺は、日蓮宗のお寺で、本土寺(千葉県松戸市)の末寺です。
徳川家康の江戸入府に従って 来た三田佐兵衛尉守綱が麹町9丁目あたりに営 んでいた隠居所を、寛永18年(1641) 観智院日泳上人に譲渡し、 三田氏の没後、寛文10年(1670) その菩提を弔う為、創設さ れたと伝えられています。




c0187004_2113472.jpg 本性寺の山門と毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物です。
 山門の奥に毘沙門堂が見えています。
 山門も毘沙門堂も総檜で、釘を一本も使わない切組造り、手斧削りで、建築年代は元禄年間といいます。
 毘沙門堂は桁行二間、梁間二間、屋根は切妻造、瓦葺のつくりのしっかりした建築物です。
 堂内に安置されている毘沙門天像は江戸城本丸にあったもので、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともに本寺に寄進されました。
 この像は別名「北向毘沙門天」といわれ、家康が仙台の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の 守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説から、そう呼ばれているそうです。

 山門は毘沙門堂と同じ頃の建立と伝えられています。形式は薬医門、瓦葺、袖塀潜戸がついた堂々たる山門です。


c0187004_21135512.jpg 本性寺には、国学者塙保己一や老中松平定信などを養成した萩原宗固の墓が毘沙門堂の南にあります。
 萩原宗固は、江戸時代中期の国学者・歌人です。萩原家に養子に入り、幕府の先手組に所属し、与力として勤めた後、隠居して宗固と名乗ります。
 烏丸光栄・武者小路実岳らに学び、のち冷泉為村の門人となり、江戸冷泉派を代表する武家歌人と言われています。
 また内山賀邸と共に「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて天明狂歌の原点に位置したことでも知られています。
 塙保己一が、晩年の加茂真淵に入門し、短い時間とはいえ真淵の学問に接することができたのは、萩原宗固の計らいによるものです。
 
 本性寺は青塙保己一の墓のある愛染院はピンクです。
 こんな近くに師弟がねむっています。



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by wheatbaku | 2009-09-18 06:23 | お寺めぐり | Trackback
戒行寺と長谷川平蔵 (四谷の有名人 ②)
 四谷の戒行寺は長谷川平蔵の菩提寺として有名です。

 戒行寺は、文禄4年(1595)に建立された江戸名所図会にも載っている古刹です。
 江戸名所図会には、
『日蓮宗にて延山(身延山のこと)に属せり。寛永のころまでは、麹町1丁目の御堀端にありて、・・・・、明歴に至りこの地に遷さる。』  と書かれています。

c0187004_2334314.jpg 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれました。
 青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられていたのも事実のようです。
 父の宣雄は火付盗賊改を経て京都西町奉行の役に付き、平蔵も父と妻子と共に京都に赴きます。
 なお、父の宣雄は火付盗賊改の時に、江戸三大大火の一つである目黒行人坂の大火の放火犯を逮捕しています。
 しかし、父の死去に伴って平蔵は江戸に戻り、28歳で家督を継ぎます。
 安永3年(1774)に、31歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられたのを振り出しに、順調に出世していいきます。
 天明4年(1784)に西の丸御徒士頭、天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられ、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられたのは42歳の時です。

c0187004_2363251.jpg そして、寛政の改革では、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げました。
 しかし、老中松平定信との関係はうまくはなかったようです。
 松平定信は自伝「宇下人言]の中で、長谷川平蔵の名前を明記せず「長谷川某(なにがし)」とだけ書いて、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べています。


 その後、寛政7年(1795)に、8年間勤め上げた火付盗賊改の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去しました。
 戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)というとのことです。 これは、江戸検定1級のハカマオー氏に教えてもらいました。
 実は、長谷川平蔵の墓は、戒行寺に確かにあったようなのですが、現在はないのです。
 ご住職の奥様のお話では、父の長谷川宣雄、本人の長谷川平蔵宣以、子の長谷川宣義の三代のお墓があったのですが、現在はございませんということでした。
 前出のハカマオー氏に聞いてみましたが、さすがのハカマー氏にも事情はよくわからないということでした。

 それに代わり、門から本堂に向かう途中の右手に供養碑(左上の写真)があります。
 その碑の脇の石(右下写真)には次のように書かれています。

c0187004_2365577.jpg 『池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6-12の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲洲築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川安置に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕らえて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヶ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
 寛政7年、50歳で病没、当山に葬られた。
 なお、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬れている。
 安部式部信旨、桑島肥後守政恒、山岡豊前守景之
 長谷川備中守宣雄。菅沼主膳正虎常』


c0187004_223854100.jpg 戒行寺へは、JR四谷駅からは、新宿通りを行き、西念寺の脇を通り、真成院の前の観音坂を下りきり、次には、戒行寺坂を登るという道順で行きます。
 アップダウンもあり、ちょっと大変です。
c0187004_235430.jpg
 戒行寺坂は、戒行寺の目の前の坂です。
 この坂についても、江戸名所図会に載っています。
 『このところの坂を戒行寺坂、又その下の谷を戒行寺谷と唱えたり』

 右の写真は坂の下からみた戒行寺坂です。戒行寺坂を登りきった右手が戒行寺です。
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by wheatbaku | 2009-09-17 05:46 | お寺めぐり | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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