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初音の里 (浅草橋門 ③ 三十六見附 4 )
 
 浅草橋門(浅草見附)があった辺りは、門ができるまでは、初音の里と呼ばれていました。
 そして、その里の楠等が生い茂っている森は、初音の森と呼ばれていました。
 その名前を持った神社が、初音森神社です。
 本社は、現在、墨田区千歳にあり、以前、 「森のつく神社 初音森神社」で紹介しましたが、浅草橋の南の旧地にも、初音森神社があります。

【初音森神社】 
c0187004_12294165.jpg 初音森神社の創建は、元弘年間(1331~34)で、文明年間(1469~86)に太田道灌により社殿が建てられました。
当時は、初音稲荷と称していたそうです。
 天文20年(1551)社前に馬場ができましたが、初音稲荷にちなんで初音の馬場と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたといいいます。
 また慶長5年(1600)関ヶ原の合戦へと出陣する徳川家康は、この馬場で馬揃えをしたといいます。
 しかし、浅草見附門の建設のために境内地の半分が削られ、さらに明暦の大火の後、別当寺の用地も郡代屋敷用地となったため、現在本社がある墨田区千歳へ替え地を拝領し遷座しました。
 そして、昭和23年に、かつての初音の里に神社を建立。さらに昭和48年神殿・儀式殿を備えたビルとしたのが、浅草橋の初音森神社です。

【初音乃馬場】 
c0187004_12332373.jpg 浅草橋の手前にある馬喰町には、歌川広重の名所江戸百景の一つ「馬喰町 初音乃馬場」に書かれている「初音乃馬場」がありました。

 江戸名所図会には次のように書かれています。なお、江戸名所図会では、「馬喰町馬場」と呼んでいます。
 馬場  馬喰町3丁目の西北の裏通りにあり。
 江戸馬場のうち、もっとも古し。慶長5年(1600)関ヶ原御陣のとき、御馬揃えありしところなりといひ伝う。
 御馬工郎(おんばくろう)高木源兵衛、これを預り奉る(この地を馬喰町というも、この御由緒によりてなり)

 初音の馬場があり、馬を扱う博労たちが集まったので、馬喰町という名前がついたようです。

 名所江戸百景「「馬喰町初音乃馬場」の中央に書かれている建物は、火の見櫓です。
 定火消屋敷の火の見櫓には、中央に大太鼓があり四隅に半鐘が下がっていました。
 大名屋敷の火の見櫓には板木が下がっていました。
 町方の火の見櫓に半鐘が下がっていました。
 このことから、描かれている火の見櫓には半鐘が下がっていますので、町方の火の見櫓だとわかります。
 季節は、馬場の土手の柳が芽吹いているので早春ということになります。乾されている布は、紺屋が染めた布なのでしょうか・・・・

 なお、 初音の馬場は明治始めまでは残っていたそうですが、現在は問屋街の一角となりここに馬場があった事を思わすものは何もありません。


【浅草橋門周辺の史跡】 
赤印が初音森神社青が初音の馬場のあった場所緑が郡代屋敷跡の説明板


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by wheatbaku | 2009-10-31 12:26 | 三十六見附 | Trackback
郡代屋敷跡 浅草橋門 ② (「三十六見附」 3)

  今日10月30日は、 「十三夜」 です。十五夜にだけ月見をして、十三夜に月見をしないことを 「片月見」 と言って江戸時代の人は嫌いましたので、十五夜をご覧になった方は、今夜、月見をしてください。 

 さて、今日も浅草橋門に関係する話の続きです。
 浅草橋門の門内には、関東郡代の 「郡代屋敷」 がありました。
 「郡代屋敷跡」の説明板が、浅草橋の南たもとの小公園に建てられています。

 c0187004_23381350.jpg【関東郡代】 
   関東郡代は、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つで、 関八州の幕府直轄領の年貢徴収・治水・裁判などの民政を管理する地方官です。
 伊奈忠次を代官頭に任じたことを端緒とし、寛永19年(1642)に伊奈忠治が関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まり、その後10代150年間に渡って伊奈氏が世襲しました。
 関東郡代は、他の郡代や代官の5~6倍にあたる約30万石を管轄しており、他の郡代とは別格の存在でした。

【伊奈忠次】 
c0187004_23393828.jpg  伊奈氏はもともと信濃国伊奈郡(伊那郡)の出自であると伝えられる三河譜代の家系です。
 伊奈忠次は、駿・遠・三の奉行として活躍し、小田原征伐では小荷駄による兵粮の輸送などを一手に担い、代官としての地位を固めました。
 家康が江戸に移封された後は、代官頭として家康の関東支配に貢献し、各地で検地、新田開発、利根川や荒川の付け替え普請、河川改修を行いました。
 そして、武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)および鴻巣において一万石を与えられ、大名になっています。

【伊奈忠治】 
c0187004_23414276.jpg  伊奈忠次の次男忠治は忠次の死後、関東郡代となります。
  忠治も父の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、関東の治世に大きな貢献をしました。

 埼玉県北足立郡伊奈町、現在つくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は、ともに伊奈忠次、忠治に由来するものです。

 伊奈忠次、忠治の墓所は、忠次の領地であった埼玉県鴻巣市の勝願寺にあります。
 上の写真2枚が勝願寺の山門と墓所の説明板の写真です。

 こうして、関東郡代として世襲された伊奈氏も10代忠尊がお家騒動と讒言によって罷免されてしまうと関東郡代の世襲制は廃止され、関八州は勘定奉行と代官による分治となります。
 そして文化3年(1806)には、関東郡代そのものが廃止されてしまいました。
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by wheatbaku | 2009-10-30 08:44 | 三十六見附 | Trackback
浅草橋門 (三十六見附 2)
  今日は「三十六見附」の初回として 「浅草橋門」 を紹介します。

【浅草橋門】 
 浅草橋門は、現在の浅草橋の南たもとにありました。
 下の浅草橋は北側から撮っていますので、橋の先にあったことになります。
c0187004_2311499.jpg 浅草橋門は、奥州街道の出入り口の関門として、神田川が隅田川に流れ込む部分に建てられました。
 浅草橋門の浅草は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。
 「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附(浅草橋門)の真北が浅草寺になります。
 門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。
 開幕当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。

c0187004_2303381.jpg【浅草見附跡の碑】 
 浅草見附(浅草橋門)は橋の南側にありましたが、浅草見附跡の碑は、橋の北側に設置されています。
 ちなみに、浅草橋の南側は中央区で、北側は台東区です。
 碑だけ建っていて、説明板もないのがさびしいですね。

 浅草橋門の門外には高札場がありました。
 また、門内には郡代屋敷が置かれました。

 江戸の三大大火の一つである明暦の大火の時には、この門が閉じられたため、ここで2万3千人もの人が死亡するという惨事も起きています。


【江戸名所図会】 
 江戸名所図会には、門でなく浅草橋について次のように書かれています。
浅草橋
 神田川の下流、浅草御門の入口に架(わた)す。このところに御高札を建てられる。馬喰町より浅草への出口にして、千住への官道なり。
この東の大川口にかかる柳橋と号(なづ)く。柳原堤の末にあるゆえに名とするとぞ。

【柳橋】 
 ここに書かれている柳橋の現在の様子が下の写真です。
c0187004_2314614.jpg 江戸時代中ごろまで、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年に完成しました。

 明治維新後は、新橋とならぶ花街となりました。新橋は各藩からでて政府の役人になった人が利用したのに対して、柳橋は、江戸以来の商人や旗本が利用すること多かったようです。

c0187004_1392444.jpg 右の写真の撮影時期は不明ですが、幕末から明治にかけての柳橋の写真です。
 柳橋の北側から隅田川方向に撮った写真です。
 手前が柳橋で奥にかすかに見えているのが両国橋です。

 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から
画像を転載させていただいています。
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by wheatbaku | 2009-10-29 06:25 | 三十六見附 | Trackback
「三十六見附」とは (三十六見附 1)
 これから、随時 「江戸城三十六見附」について順に紹介していきたいと思います。

 江戸城は、徳川幕府の本拠地で、幕政の中枢であるとともに将軍の住まいでもありました。
 そのため、大名の城の中で最大のものであり、多くの城門を整備し防備を固めました。
 江戸城の城門は俗に「三十六見附」と言われます・
 見附という言葉は、「赤坂見附」「四谷見附」などに使われています。
 この「見附」とは、城門のことを指します。語源は、「見つける」という言葉からです。
 従って、「赤坂見附」とは、赤坂にある城門ということになります。「四谷見附」は四谷にある城門です。
 
【三十六見附】 c0187004_20542951.jpg 江戸城の城門のことを、「三十六見附」と言いますが、江戸城の城門の数は、実際は、36以上ありました。
 枡型になっていたもののみでも40以上あったとも言われています。
 しかし、「三十六」は、三十六歌仙や三十六峰と呼ばれるように響きがよい数字ですので、「三十六見附」という風に呼ばれるようになったようです。
 (左の写真は西の丸大手門です。)

 
【三十六見附とはどこ?】 
 三十六見附は、どの城門を言うかについては、諸々な説があります。

 「江戸城三十六見附を歩く」 (鈴木謙一著、わらび書房)は、隅田川に近い外堀から渦巻状に、次の城門を三十六見附としています。c0187004_18351523.jpg  

 1、浅草橋門   2、筋違門橋 
  3、小石川門   4、牛込門
 5、市ヶ谷門   6、四谷門
  7、喰違門    8、赤坂門 
 9、虎ノ門    10、幸橋門 
11、山下橋門  12、数寄屋橋門 
13、鍛冶橋門  14、呉服橋門 
15、常盤橋門  16、神田橋門 
17、一ツ橋門  18、雉子橋門
19、竹橋門    20、清水門 
21、田安門    22、半蔵門 
23、外桜田門  24、日比谷門 
25、馬場先門  26、和田倉門
27、西の丸大手門 
28、西の丸下乗門
29、坂下門    30、内桜田門=桔梗門
31、大手門     32、下乗門 
33、中之御門   34、中雀門  
35、北桔橋門   36、平川門 

 
 現在一番手軽に入手できる 「江戸城三十六見附を歩く」 に載っている見附を「三十六見附」として、順に訪ねていきたいと思います。
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by wheatbaku | 2009-10-28 09:24 | 三十六見附 | Trackback
柿の葉すし (柿 番外 江戸の味)
 柿の生産量が多いのは、第1位は和歌山県、第2位が奈良県となっています。
 この大量に生産される柿の葉を利用したすしが 「柿の葉ずし」 です。
 
【柿の葉ずしとは】
c0187004_2204929.jpg 柿の葉ずしは西日本に多く、特に奈良県の吉野地方から和歌山県の紀ノ川沿いの村でよく見られます。
 柿の葉ずしの始まりは、江戸時代中期と考えられています。

 作り方は、まず、合わせ酢をして冷ましたご飯を堅く握ります。この上に、酢を数時間あてた塩さばの皮をむいて身を薄くそいだものを載せます。これを柿の葉で包み、すし桶に並べて押し蓋をして、重石を載せて一昼夜おいておきます。こうすることにより柿の葉のほのかに甘い香りが酢飯に移っていきます。

 吉野地方では、7月上旬の夏祭りには必ず作られたそうです。酢飯の味つけは家々により少しずつ異なり、それがその家独自の柿の葉ずしの味となったそうです。

【柿の葉はどうするの?】 
c0187004_22104690.jpg 柿の葉は、主に渋柿の代表的品種である平核無(ひらたねなし)が使用されます。
 渋柿の葉は、甘柿に比べて軟らかく包みやすいことから渋柿が使われているそうです。
 柿の葉ずし店では、多量の柿の葉を毎年用意する必要があり、近くの柿農家から大量の柿の葉を手にいれます。5月末から9月中旬が葉を採る時期で、7月~8月がピークとなり、採った葉の大部分が塩漬けされます。


【柿の葉は食べられるの?】 
 c0187004_2211922.jpgところで、柿の葉ずしの柿の葉は食べられるのか疑問に思いましたので、少し調べてみました。そうしましたら、柿の葉ずし御三家の一つと言われる平宗のHPには
 『柿の葉に栄養素が多く含まれているため、一緒に食べるものと思われている方が多いですが(中にはそういう主義の方もおられます)、食味の上からも取り除いて召し上がって頂く方がよりおいしいと思います。
 勿論柿の葉はきれいに洗浄して使用しておりますので一緒に召し上がって頂いても何ら差し支えはありません。』
 と書いてありました。

 柿の葉は取り除いて食べた方がよさそうですね。

 ところで、柿の葉ずしの御三家とは、上記の「平宗」の他「ヤマト」「たなか」だそうです。それぞれ、取り寄せが可能なので取り寄せて食べ比べしてみたい気がします。

 
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by wheatbaku | 2009-10-27 06:10 | 江戸の味 | Trackback
甘柿 (柿 ④ 江戸の味)
 今日は甘柿のお話です。
 甘柿は渋柿の突然変異種と考えられており、日本特産の品種です。
 未熟時は渋いが、熟すに従い渋が抜け、甘みが強くなっていきます。
 建保2年(1214)に神奈川県川崎市麻生区の王禅寺で偶然発見された禅寺丸が、日本初の甘柿と位置づけられています。

 甘柿は、果実に種が無くても熟すと常に甘みを持つ完全甘柿と、種の有無・多少により成熟時に渋が残ることがある不完全甘柿に分類できます。
 不完全甘がきの品種では種の少ない果実では渋味が残ることがあります。
 完全甘がきは果肉内の褐斑が少なく、不完全甘がきには多くの褐斑が入るのが特徴です。

 完全甘柿の代表的な品種は、富有次郎です。

富有(ふゆう)  c0187004_18195449.jpg
 完全甘柿の代表品種で、生産量は市場の半数以上を占めます。
 安政4年(1857)から栽培されている歴史の長い柿です。
 原産は岐阜県で、岐阜県瑞穂市居倉に原木があります。
 形はふっくらと丸みがあり、果皮はオレンジ色。果肉はやわらかくて果汁も多く、甘みが強いのが特徴です。 日持ちは良く10月下旬頃から出回ります。

次郎  c0187004_22104299.jpg
 背が低く四角張った円形をした完全甘柿です。
 静岡原産で天保15年(1844)頃から栽培されています。次郎は静岡県森町に住んでいた松本次郎吉に由来する柿です。
 「富有」に次いで人気のある柿で、種はほどんどなく、果実はややかためで甘く歯触りの良い食感です。
 収穫時期は10月下旬頃からです。


不完全甘柿の代表的な品種は、上記の禅寺丸や愛知県が発祥の筆柿などがあります。

筆柿  c0187004_22154322.jpg
 愛知原産の柿で、果形が筆の先の部分に似ていることからこの名前で呼ばれるようになりました。
 不完全甘柿のため甘みが出ると果肉にゴマ(黒い斑点)が入ります。
 大きさは80~130gくらいと小ぶりで種があり、やさしい甘みがあります。時期は9月中旬頃からです。




 この3種類を食べてみました。「富有」と「次郎」の外見で区別するのは、なかなか難しいですね。また、味で区別するのも難しいと思います。
 しかし、「筆柿」は外見を見て区別はできます。どれが好きかは、人それぞれだと思いますが、私は筆柿が気に入りました。
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by wheatbaku | 2009-10-26 05:42 | 江戸の味 | Trackback
渋柿 (柿 ③ 江戸の味)
 今日は、「渋柿」についてお話します。
 柿の品種数は数が多く、1,000を超えるとも言われますが、大まかには、渋柿と甘柿とに分かれます。
 渋柿は実が熟しても果肉が固いうちは渋が残る柿です。渋柿なんか市場に出ていないなんて思っていましたが、意外と渋柿が市場に出ています。
 現在、柿の生産量が一番多い品種は、「富有」「平核無(ひらたねなし)」「刀根早生(とねわせ)」「次郎」の順なのですが、このうち、「平核無(ひらたねなし)」と「刀根早生(とねわせ)」が渋柿なんです。

【平核無(ひらたねなし)】 
c0187004_14445229.jpg 渋柿の代表的な品種は、「平核無」です。この字で「ひらたねなし」と読みます。
 「種なし柿」としてよくスーパーで売られている品種です。
 「平核無」は、新潟県では八珍(はっちん)、山形県では庄内柿、佐渡ではおけさ柿など、産地によって別名を持っています。
 「平核無」の原産地は新潟県です。
 原木は新潟県新潟市秋葉区(旧新津市)古田にあり、樹齢約300年、高さ16m、幹周り2mの巨木で県指定天然記念物となっています。
 種のない柿であるということから、越後の七不思議に次いで八番目に不思議なものとして「八珍(はっちん)」と命名されたそうです。
 庄内柿は、庄内藩家老酒井了明(のりあき)の次男の酒井調良(ちょうりょう)が、明治の中ごろ、友人が、越後の行商人から買った種がない不思議な柿を栽培し育成し産地化したものです。
 おけさ柿は、昭和初期になって佐渡郡羽茂村の技術員が庄内柿の穂木を佐渡に導入し産地化したものです。

c0187004_21172761.jpg 不完全渋柿ですが、出荷時に渋抜きを行うことで甘くなります。
 果汁が多くてやわらかく、甘くてまろやかな口当たりで人気があります。形は、「平核無」の名前のとおり四角張った扁平な形をしています。10月中旬~11月頃に出回ります。
 写真をみていただいてわかると思いますが 名前のごとく、種がありません。


【刀根早生(とねわせ)】 
 刀根早生(とねわせ)は、江戸時代に開発されたものではなく、昭和55年に登録された渋柿というごく最近にできた品種です。しかし、生産量3番目なので、少しコメントします。
 刀根早生は平核無の枝変わり品種です。
 奈良県で発見され、平核無より2週間程度早く収穫されます。
 9月末~10月中旬にかけて、平核無に先駆けて出回る品種です。
 昭和55年に登録された新しい渋柿ですが、生産量の伸びは著しいものがあります
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by wheatbaku | 2009-10-24 12:32 | 江戸の味 | Trackback
渋柿の渋抜き (柿② 江戸の味)
 柿の実の 甘きもありぬ 柿の実の 渋きもありぬ 渋きぞ うまき 
 柿が大好きであった正岡子規の短歌です。

 柿には「甘柿」と「渋柿」がありますが、これらの違いは渋味成分「タンニン」が口の中で溶けるかどうかできまります。溶けると渋くなり、溶けなければ甘くなります。

 【渋柿はなぜ渋い】 c0187004_13294158.jpg 
 まだ柿の実が小さいうちは、全ての柿に渋があります。
 ところが甘柿の場合は、果実が大きくなるにつれてタネが育ったり渋が変化したりして、食べたときに渋味を感じなくなります。
 甘柿は渋柿の突然変異種と考えられており、日本特産の品種です。
 これに対して渋柿は、収穫期になっても渋が残り、そのまま食べると渋く感じます。

  渋味の原因は、正確には、シブオール(タンニンの一種)です。このシブオールが消えるか、あるいは水溶性から不溶性(唾液にとけない形)になると渋くなくなります。
 不溶性になって固まったのが、俗にいうゴマ(褐斑)です。ゴマが入っていれば渋が抜けた甘い柿であるといえます。

c0187004_13301959.jpg【渋抜き法】 
 可溶性のタンニンを、人工的にすべて不溶性タンニンに変化させれば、渋味を感じなくなり、おいしく食べられるようになります。
 渋を取り去る人工脱渋法には湯抜き法・アルコール法・炭酸ガス法・干し柿法などがあります。
【湯抜き法】  
 「湯抜き法」は江戸時代の初めから行われている方法です。 40℃ぐらいのお湯に半日~1日程度つけておくと渋が抜けます。

【アルコール法】  
 「アルコール法」という方法もあります。
 江戸時代末に考えられた方法で、酒が空になったばかりの酒樽に渋柿を詰めてておいたところ偶然に渋が抜けていたところから始まったとされています。そのため「樽ぬき法」とも呼ばれていました。
 焼酎をヘタの部分に塗ってからビニール袋に入れ(あるいは布や新聞紙に焼酎を含ませて一緒に入れる)、中の空気を追い出すようにしてビニールの口を縛ります。そのまま4~5日置いておくと渋が抜けます。

c0187004_14245760.jpg【炭酸ガス法】  
 市場に流通する柿で最も一般的な渋抜きの方法は、「炭酸ガス脱渋法」です。
 大きな産地では脱渋室の中にコンテナに入れた柿を入れ、炭酸ガスを注入します。そのまま1日ほど置いてから脱渋室から出し、2~3日ほど置いておくと渋が抜けます。


【干し柿法】   干し柿にすると、渋みは自然に抜けます。
 干し柿については、「正倉院文書」の天平宝字年間のものには、「干柿子」を購入した記録があるそうです。  また、10世紀はじめの「延喜式」の中では、祭礼の折に使う菓子類の中に熟柿と一緒に「干柿子」が挙げられているそうです。
 従って、奈良時代の昔から干し柿が食用として利用されていたことになります。
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by wheatbaku | 2009-10-23 06:15 | 江戸の味 | Trackback
柿 ①  (江戸の味)
 今年は柿が豊作なのでしょうか。 柿の木に、一杯、柿がなっています。
 柿が一杯実っていると、秋だなぁという気分になりますね。
 江戸時代には、いろいろな柿の品種が開発されました。また、10月26日は「柿の日」とされています。そこで、今日から、柿について書いていきます。 

【10月26日は柿の日】 
c0187004_1763343.jpg 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 
 正岡子規がこの句を詠んだのは、明治28(1895)年10月26日の奈良旅行の際と言われています。
 「柿の日」は、その日にちなんで、全国果樹研究連合会カキ部会が2005年に制定したものです。
 日本記念日協会の認定も受けているそうです。

【柿の名前の由来】 
 c0187004_1784564.jpg 柿の木は、主に中国、朝鮮、日本に分布しており、原産地は中国の長江流域と言われています。
 カキという名前は「アカキ」のアを略したものという説が有力です。
  「アカキ」は「赤木」とも「赤き実」とも「赤黄」とも言われますが、大言海には、「『赤木』の上略にて実についての名」と書かれていて、「赤木」説をとっています。

 柿の学名は Diospyrtos kaki です。そう、日本語の Kaki がそのまま学名になっています。
 日本から寛政元年(1789)にヨーロッパへ、明治2年(1870)に北アメリカへ伝わりました。
 このことから、学名にも  kaki  の名が使われるようになりました。 

【柿の利用は弥生時代から】 
 柿の種や杭として利用された柿の木が弥生時代の遺跡から見つかっているので、その頃には柿は食料や用材として利用されていたといわれています。
 また、奈良時代の天平宝字年間の東大寺の書物には、柿購入の記録が残っているそうですので、奈良時代には、柿が売買されていたようです。

 このように、柿は日本古来から利用されています。
 しかし、不思議なことに、万葉集の和歌では、柿は歌われていないそうですし、古事記と日本書紀には地名や人名の一部として出てくるだけだそうです。

c0187004_1795042.jpg カキが最初に登場するのは、平安時代の日本現存最古の薬物辞典(本草書)である「本草和名(ほんぞうわみょう)」という本で、「加岐」と書かれているそうです。
 柿という字は、この「加岐」という名前に、漢名の「柿」(シー)の字をあてたものです。

 日本での栽培は、10世紀、平安時代中期ころに始まったようです。
 品種改良や栽培法は主に日本で発達してきました。

 江戸時代初期の「毛吹草」には11種類の柿があげられています。
 しかし、果樹として本格的に栽培されるようになったのは明治時代になってからです。
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by wheatbaku | 2009-10-22 06:12 | 江戸の味 | Trackback
青山善光寺  (高野長英の史跡 ⑥)
 東京に残る高野長英の史跡めぐりも今日で最後です。
 今日は、高野長英の最後の地(青山百人町)の近くにある 青山善光寺にある「高野長英の碑」 を紹介します。

 その前に、昨日の記事に追加です。高野長英を捕らえたのは、南町奉行所の与力・同心ですが、これを指揮した南町奉行は遠山左衛門尉景元すなわち「遠山の金さん」 でした。

c0187004_22254838.jpg【青山善光寺】 
 青山善光寺は、東京メトロ「表参道」駅から3分のところにあります。
 信州善光寺の東京別院です。
 慶長6年(1601)徳川家により谷中に信州善光寺の別院として設けられましたが、火事で焼失したため、現在の青山に移されました。
 高野長英の最期の地である「青山スパイラル」からは約400メートル、歩いて5分で到着します。
 
【高野長英の碑】 
 高野長英の名誉が回復されたのは没後48年たった明治31年のことで、正四位が授与され、北青山の善光寺には勝海舟の撰文による顕彰碑がつくられました。
c0187004_2226199.jpg その碑は、戦災で破損したため、現在の碑は、元の碑の一部を活用し新たに造られたものです。
 善光寺の山門を入り、本堂に向かって左手の築山のなかに建っています。

 撰文をした勝海舟は、高野長英と会ったことがあるという話も伝えられています。
 「長英逃亡」の中にも、高野長英と勝海舟が会う場面が取り入れられています。
  
【碑文】  碑には次のように書かれています。
高野長英先生
 c0187004_22264156.jpg先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である 
 その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた 最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治参壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた
 よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する
 昭和三十九年十月
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by wheatbaku | 2009-10-21 05:38 | 江戸の史跡 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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