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装束榎の大晦日の狐火 (江戸の歳時記)
 いよいよ、平成21年も明日が大晦日になってしまいました。
 この一年間ブログ」を読んでいただきありがとうございました。
 一年前は、よちよち歩きのブログでしたが、今では、大勢の人が読んでくれるようになり、多くの人から声援をいただけるようになりました。
 来年もどうぞよろしくお願いします。
 さて、今日は大晦日の一日前ですが、大晦日の話題として、「装束榎の狐火」のお話です。 

c0187004_2134730.jpg【王子装束えの木 大晦日の狐火】
 これは広重の名所江戸百景「王子装束えの木 大晦日の狐火」です。
 絵の左側真ん中にある大きな木が「装束榎」と呼ばれた榎です。
 大晦日に、関東一円の狐が集まってきて、装束を改めて、右手遠くの森にある王子稲荷神社に向かいました。
 東都歳時記にも、「大晦日 今夜 王子稲荷のかたわら、装束榎の木へ狐多く集まる」と書かれていて、「関八州の命婦ここに集まり、官位を定めるよしにて、狐火おびただし。その狐火、山路をつたい、川辺をつたう様を見て、明年の豊凶を占うとぞ」と書かれています。
 また、江戸名所図会にも
 「装束畠 衣装榎 毎歳12月晦日の夜、諸方の狐 おびただしくここに集まり来ること恒例にして、いまにしかり。そのともせる火影にて、土民明くる年の豊凶をうらなうとぞ、このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし」  と書かれています。 

c0187004_2004191.jpg【装束榎のあった地の現在の様子】 
 装束榎は、王子駅近くの北本通りのこの交差点の真ん中あたりにあったとのことです。
 昭和4年に装束榎は道路拡張のため切倒されてしまいました。
 この写真は、北本通りの北側から、王子稲荷の方向をとったものです。
 広重の絵とのギャップの大きさに驚かされます。

c0187004_200484.jpg【装束稲荷神社】 
 装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所から北西に60mのところに移されました。
 その後、装束稲荷社が設けられたそうです。
 平成5年からは、王子「狐の行列」が始められました。
 毎年大晦日に、装束稲荷から王子稲荷まで、狐のお面をかぶった人々が練り歩るきます。
 「王子・狐の行列の会」の公式ホームページ「王子・狐の行列【2009】」では行列の時間や行列順路等がわかります。

c0187004_200253.jpg【王子稲荷神社】 
 こちらは王子稲荷神社です。
 稲荷神社の関東総社と言われています。
 創建の時代ははっきりしませんが、社伝では源頼義が信仰したと伝えているそうです。
 現在の社殿は、文化5年(1808)に建てられたものです。
 正面から撮りにくかったので、脇から撮ってあります。


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by wheatbaku | 2009-12-30 13:35 | 江戸の歳時記 | Trackback
外濠の石垣 (虎ノ門③ 三十六見附)
 虎ノ門にある文部科学省周辺には、江戸城外濠の石垣が残っています。
 今日は、その紹介をします。

c0187004_1013386.jpg 【地下展示室前の石垣】 
 昨日紹介した虎ノ門駅の外濠地下展示室の前の石垣を地上からみるとこうなります。
 地上からだと石垣の高さが7mもあるようには見えません。
 後ろ側に見える建物が文部科学省です。


c0187004_14465291.jpg 【4箇所の石垣跡】 
 虎ノ門周辺には、外濠の遺稿が4箇所に残っています。
 虎ノ門三井ビル前の外濠の説明板にあった地図ですが、上の写真が青の部分にあたります。
 その他に2箇所あります。
 緑の部分が旧教育会館があった場所にある石垣の遺構です。
 ピンクが、文部科学省の中庭にある石垣の遺構です。
 なお、赤い部分については、先日紹介した外濠最西南の石垣跡です。
 
c0187004_19534174.jpg 【旧教育会館前の石垣】 
 これは旧教育会館にあった石垣ですが、再開発により、現在は歩道の脇に残されています。
 延長9.5mで2段の石垣です。
 この石垣自体は、江戸時代のものではないそうですが、石垣の下には、江戸時代の石垣が残って、史跡に指定されているそうです。


c0187004_1952759.jpg 【文科省中庭の石垣】 
  こちらは、文部科学省の中庭にある、外濠の石垣です。
 濠の底に降りていくように階段が設置されています。
 石垣の反対側のコンクリートの壁面には、外濠の歴史や工法を説明したパネルが掲示されています。
 なお、文部科学省の中庭には自由に入れます。




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by wheatbaku | 2009-12-29 10:12 | 三十六見附 | Trackback
虎ノ門駅地下展示室 (虎ノ門 ② 「三十六見附」)
 東京メトロ銀座線の「虎ノ門」駅の構内に、「江戸城外濠跡地下展示室」 があります。
 虎ノ門近くの外濠が修復されていて、間近に石垣が見ることができます。

c0187004_19335434.jpg 【展示室の案内板】 
 虎ノ門駅の赤坂見附寄りの改札を出て11番出口に向かうと地上に出るためのエスカレターとエレベーターと階段があります。
 右手に階段があり、その階段を上っていくと地下展示室に行きます。
多くの人がエスカレターで地上に向かいますので、つい見落とされてしまうと思います。
 左の写真の案内が出ていますので、それに沿って向かってください。

c0187004_19345347.jpg 【展示室の全景】 
 階段を上りきったところから見た展示室の全景です。
 正面が外濠の石垣です。
 窓があるように見えますが、窓はなくは吹き抜けになっています。
 右と左の壁面には、説明資料が掲示されています。


c0187004_19354830.jpg 【外濠の石垣】 
 展示室から見た石垣の様子です。
 石垣は、長さ25mあり、高さは、ほぼ15段で約7.4mあり、築城当時の高さにしているとのことです。
 また石垣は、丸の内一丁目遺跡から出土した鍛冶橋北側の堀の石垣を利用して修復したそうです。


c0187004_19412136.jpg 【明治初期の虎ノ門】 
展示室の壁面に貼られている説明資料の中に、明治初期の虎ノ門を写した写真が掲示されていました。
 高麗門が右手にあり、門前の橋は土橋のようで、間が切られて水が流れ落ちています。
 奥の屋敷は、延岡藩内藤家の屋敷だそうです。





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by wheatbaku | 2009-12-28 05:43 | 三十六見附 | Trackback
虎ノ門 (「三十六見附」)
 今日は、 虎ノ門 の紹介です。

c0187004_22433966.jpg【虎ノ門】 
 外桜田門から芝西久保方面に出る門です。
 寛永13年に、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が築きました。
 明暦3年(1657)に焼失し、万治2年(1659)に再建されましたが、享保16年(1731)に焼失した後は、櫓門は再建されませんでした。東京メトロ銀座線の虎ノ門駅の8番出口の裏側に記念碑があり、虎がのっています。

c0187004_21401581.jpg【虎ノ門の由来】 
 虎ノ門の名前の由来は、四神思想では、西を白虎と称し、虎ノ門の位置は白虎の方向あたるからとか、太田道灌が出陣する時に自分を虎に見立てて「千里行くとも千里帰る」と祝って名づけたとか、虎口(こぐち)の要所なので名づけられたとかいろいろ説がありますが、確かなことはわかりません。
 現在は、虎ノ門の遺構はまったくありません。しかし、虎ノ門の名前は、町名をはじめ東京メトロの駅名や交差点の名前になっています。  

c0187004_21404951.jpg【外濠最西南の石垣】 
 現在、赤坂見附から虎ノ門、新橋にかけて、かつての外濠はすっかり埋め立てられて、濠は残っていません。しかし、ほんの少し、外堀の名残りがあります。それが虎の門周辺にある外濠の石垣です。
  霞ヶ関ビルの向かい側に虎ノ門三井ビルがありますが、そのビルと外堀どおりの間で歩道橋の下に、ほんお狭いに外濠の石垣が残されています。
 外濠通りからは全くみえないので、ほとんどの人が知らないのだろうと思います。

c0187004_15195651.jpg
 虎ノ門三井ビル前の石垣の跡が左の図の赤字で囲った部分です。
 江戸城の外濠の最西南にあたる部分になります。

 この他、文部科学省周辺の三箇所に外濠の石垣の遺構があります。
 左の図で、水色に塗られている部分が、かつての外濠です。
 黒く塗られている部分が石垣の残されている場所です。
 


 石垣跡はわかりにくい場所にあるので、地図を用意しました。


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by wheatbaku | 2009-12-25 06:11 | 三十六見附 | Trackback
赤坂桐畑 (赤坂門 ③ 「三十六見附」)
 赤坂を描いた名所江戸百景に 「赤坂桐畑雨中夕けい」があります。
 名所江戸百景は、初代歌川広重の作が118枚で、二代目広重の作が1枚あります。
 二代目広重の作が、この「赤坂桐畑雨中夕けい」です。

c0187004_2163619.jpg【名所江戸百景の描く赤坂】  
 赤坂門から南の虎ノ門に向かって、ひょうたん型の池があり、ため池と呼ばれました。
 この絵は、溜池の西側から赤坂門方面を描いた絵です。
 この池の北西の部分は湿地帯で、水田として利用されていました。
 そこは後に、埋め立てられて町屋ができ、赤坂田町と呼ばれました、
 この町には1丁目から5丁目まであり、5丁目の空き地では、桐が植えられていました。
 その桐畑がこの絵の前景に描かれています。桐畑の奥にあるのが溜池です。
 溜池の北岸は赤坂門に向かう道があり、坂道となっていました。
 激しく降る雨の中、傘をさして坂道を往来する人々が描かれています。



c0187004_18524358.jpg【現在の赤坂見附】  
 現在の赤坂見附の様子です。
 正面に見えるのが、グランドプリンスホテル赤坂で、右手に写っているのが 赤坂エクセルホテル東急です。
 
 溜池の水が枯れ始めたのは、明治初年に、工部大学校を建設にするあたって、落ち口の石垣を取り除けてからだそうです。
 その後、明治19年から43年にかけて埋め立てが行われ、溜池は消えていきました。
 現在は、細長かった溜池の跡地を貫く形で外堀通りが走っています。写真の最下端が外堀通りです。
 そして、溜池の名前は交差点の名前としてのみ残っています。

c0187004_22552611.jpg【明治初期の溜池】  
 溜池は、慶長11年に当時和歌山藩の藩主であった浅野幸長(あさのよしなが)が、虎ノ門に堰を築いて水をためたと言われています。
 写真は、明治初期の溜池の落し口の様子です。
 明治初期には、溜池から大量の水が流れ落ちていた様子がよくわかります。
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by wheatbaku | 2009-12-24 09:40 | 三十六見附 | Trackback
紀州和歌山藩徳川家屋敷跡 (赤坂門② 三十六見附)
 今日は赤坂門の2回目です。
 赤坂門内には、紀伊和歌山藩徳川家の屋敷がありました。

c0187004_2204615.jpg 【紀伊徳川家屋敷跡の碑】
 これは、弁慶橋の北のたもとにある「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の碑と説明板です。
 説明板の内容は、紀伊和歌山藩徳川家の歴史について書いてあります。
 紀尾井町にある紀伊和歌山藩の屋敷を上屋敷と書く本と中屋敷と書く本があってどちらが正しいのかということが、江戸検定1級の仲間の中で議論になり、その際は、上屋敷だろうという意見が大勢でした。
 

c0187004_2212399.jpg【グランドプリンスホテル赤坂】
 現在の紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡は、グランドプリンスホテル赤坂になっています。
 これは、弁慶橋ごしに見たグランドプリンスホテル赤坂です。
 地上40階建ての超高層ホテルです。

 ところで、弁慶橋は、江戸時代にはありませんでした。
 弁慶橋は、もともとは、神田にありました。
 神田お玉ヶ池の東、藍染川の下流にありました。
 それを明治22年に移築したものです。
 弁慶橋の名前は、この橋を架けた大工の弁慶小右衛門に由来しているそうです。 


c0187004_2215084.jpg【旧李王家】
 これはグランドプリンスホテル赤坂の旧館です。
 旧館は李氏朝鮮の王族であった李王家のお屋敷で昭和5年に建てられたものです。
 紀伊和歌山藩邸は、明治維新後、北白川宮邸となり、その後に李王家邸となりました。
 現在は、 2階がフレンチレストラン「トリアノン」となっています。
 
 
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by wheatbaku | 2009-12-22 06:16 | 三十六見附 | Trackback
赤坂門 (「三十六見附」)
 今日は、「三十六見附」のうち、「赤坂門」  について書きます。
 東京メトロに「赤坂見附」駅があり、「赤坂門」というより、「赤坂見附」の方が有名です。
 「見附」という言葉が自然と出てくる門は、「三十六見附」のうちで「赤坂門」だけかもしれません。
 
c0187004_21425815.jpg【赤坂門の石垣】 
 赤坂門は、江戸城から相模大山方面に通ずる大山街道に建てられた門です。
 赤坂門は、溜池を見下ろす高台上に右折枡形門として築かれ門前の橋はありませんでした。
 赤坂門は、寛永13年(1636)に、筑前福岡藩主黒田忠之によって枡形の石塁が築かれ、寛永16年に、櫓や門が築かれました。
 

c0187004_21432841.jpg【江戸名所図会の赤坂門】 
 左の写真は、衆議院議長公邸前の青山通りに架けられた歩道橋からみた現在の赤坂見附の石垣です。
 江戸名所図会には、
 「赤坂御門 麹町の方より青山に行く道、赤坂への出口なり、この門は北斗の景勝とて、江戸お城のお構え多い中にも殊更すぐれたる縄張りという」 と書かれています。 


c0187004_15571718.jpg【明治初期の赤坂門】 
 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真で明治はじめの赤坂門です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています。
 写真のコメントを見ると「英人ブラックの撮影(明治4年)とある。」と書かれています。
 正面に見えるのが、高麗門です。門を出た橋が土橋になっている様子がよくわかると思います。
 
c0187004_2145107.jpg 【弁慶濠】
  赤坂門の門前の橋が土橋になっていたのは、赤坂門の西は弁慶濠で、南の溜池とは水位差があったためで、土橋で水位を保っていました。
 これは、弁慶橋から見た弁慶濠です。
 現在は、弁慶濠に流れ込む水も流れ出す流路もなくて、濠の水は、ほとんど雨水だそうです。
 

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by wheatbaku | 2009-12-21 05:51 | 三十六見附 | Trackback
喰違の変 (喰違門 ④ 「三十六見附」)
 昨日書いた「紀尾井坂の変」の4年前の明治7年(1874年)に 「喰違の変」 が起きていました。

 「喰違の変」 とは、喰違門で起きた時の右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件です。

c0187004_1522983.jpg 【喰違の変】 
 岩倉具視が襲われたのは、不平士族の強い恨みからでした。
 前年明治6年(1873年)10月に政府内で起きたいわゆる征韓論争に敗れて、征韓派参議の西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野しました。
 このことにより、不平士族らは一層の不満を高め、征韓論争を主導した岩倉具視や大久保利通に対する恨みは特に強くなりました。

 明治7年1月14日の夜、公務を終え、赤坂の仮御所から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、喰違門にさしかかった際、高知県士族の武市熊吉ほか8名の襲撃者が、手に手に太刀を引き抜いて一斉に岩倉具視を襲いました。
 岩倉具視を襲撃した者は西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人だそうです。c0187004_2233469.jpg 
 駆者は斬られ、岩倉具視も身に数箇所の傷をうけたものの、真田濠にのがれ、襲撃者達が岩倉具視の姿を見失ったため、一命を取り留めることができました。
 (上記の岩倉具視の画像は、国立国会図書館ウェブサイトからの転載です。)

 岩倉具視が姿を隠した真田濠(別名四ツ谷濠)は、現在は、右の写真のように上智大学のグランドとなっていて水は全くありません。

 


c0187004_15253695.jpg【井伊直弼もいた井伊家中屋敷】 
 来年の江戸文化歴史検定のお題が「幕末」ですので、最近、幕末関連の本を読むようにしています。
 現在は母利美和氏著の「井伊直弼」を読んでいます。
 その中で、井伊直弼が、弘化3年(1846)に彦根藩12代藩主直亮(なおあき)の世子となって、江戸に出府してきますが、世子の時代には、井伊直弼は彦根藩中屋敷に住んでいたという記載がありました。
 彦根藩中屋敷とは、先日紹介したホテルニューオータニのあるところです。
 そうしますと、現在もホテルニューオータニの庭園にある「イヌマキ」や「カヤ」の木を井伊直弼も眺めたことがあったのかもしれません。



最後に
 江戸文化歴史検定の受験データーが発表されました。
 今年は1級の合格者が16名で合格率が1.7%ということですので、本当に狭き門ですね。
 合格された皆さんおめでとうございます。
 一方、涙をのまれた皆さんの悔しさもよくわかります。一度、心を整理して捲土重来を期してください。

 第5回の「今年のお題」は『幕末』ということですので、「三十六見附」シリーズの後、東京における幕末の史跡を巡るなどして、幕末関連の記事を、随時、書いていきたいと思います。
 江戸文化歴史検定の受験者や合格者がもっと増えるといいなぁと思っていますので、受験される皆さんに、いくらかでもお役に立てばうれいしいですね。
 

 
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by wheatbaku | 2009-12-18 05:38 | 三十六見附 | Trackback
紀尾井坂 (喰違門 ③ 「三十六見附」)
 麹町側から喰違門に通じる坂道は「紀尾井坂」と呼ばれています。
 今日は、この坂に関する話題です。

c0187004_2236646.jpg 【紀尾井坂】
 江戸時代、喰違門に通じる坂の北側には尾張名古屋藩徳川家、南側に紀伊和歌山藩徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことから、一字ずつ取って紀尾井坂と呼ばれました。
 現在の紀尾井坂は、ホテルニューオータニへ向かうメイン通りとなっています。


c0187004_22371183.jpg【紀尾井坂の変】
 明治11年(1878)5月14日、時の参議兼内務卿大久保利通が、紀尾井坂で暗殺されました。これは、「紀尾井坂の変」と呼ばれています。
 大久保利通は馬車で自邸から赤坂仮御所へ向かう途中、紀尾井坂で、待ち伏せていた石川県士族島田一郎ら6名に暗殺されました。
 紀尾井坂の近くの清水谷公園に、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されています。

c0187004_20231780.jpg【大久保利通】
 大久保利通は、鹿児島の下級藩士の家に生まれ、長じて、島津久光の側近となり、公武合体運動を推進しましたが、やがて討幕へと転じ、岩倉具視らと結んで慶応3年(1867)12月、王政復古のクーデターを実行しました。
 明治維新後は、版籍奉還や廃藩置県を推進した後、参議、大蔵卿を経て、明治4年(1871)岩倉遣外使節団に随行し、帰国後、内政整備を主張し、西郷隆盛ら征韓派と対立し、下野させました。
 その後、参議兼内務卿となり、地租改正、殖産興業の推進し、西南戦争を代表とする士族の反乱も抑えるなど、重要施策を実行し、暗殺された当時、明治政府の最高実力者でした。

 上記の大久保利通の画像は、国立国会図書館ウェブサイトから許可を受けて転載させていただきました。


c0187004_22374452.jpg【清水谷公園】
 清水谷公園は、紅葉の真っ盛りでした。
 ここは紀伊徳川家の屋敷であったところで、清水が湧き出ていたことにちなみ、清水谷と呼ばれたようです。
 「贈右大臣大久保公哀悼碑」を中心に多くの樹木が茂る公園で、秋には、身近に紅葉がみられる大都会の中のオアシスになっています。


 
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by wheatbaku | 2009-12-17 11:56 | 三十六見附 | Trackback
井伊家中屋敷跡 (喰違門 ② 「三十六見附」)
 
 喰違門内には、北側に尾張名古屋藩徳川家の中屋敷、南側には近江彦根藩井伊家の中屋敷がありました。

c0187004_22573572.jpg【井伊家屋敷跡の碑】
 ホテルニューオータニの駐車場前の庭園の一角に「近江彦根藩井伊家屋敷跡の碑」があります。
 元々、ここは肥後熊本藩加藤家の屋敷でした。
 加藤家が改易された後に、井伊家の中屋敷として賜りました。
 井伊家の上屋敷は、外桜田にあり、やはり加藤家の屋敷でした。


c0187004_22542410.jpg【ニューオータニの沿革】
 井伊家の中屋敷跡は、現在ホテルニューオータニとなっています。
 井伊家の中屋敷は、明治になった後、伏見宮家の屋敷となりました。
 戦後に、伏見宮家が手放すことになった時に、この地を購入したのが、ホテルニューオータニの創業者である大谷米太郎氏です。
 

c0187004_22551229.jpg  その後、東京オリンピックを開催するに当たって外国人観光客が増加することが予測されたため、政府のホテル建設の要請に、大谷氏が応え、ホテルニューオータニを開業したという経緯があるようです。
 上がザ・メイン、左は、74年に開業した40階建てのガーデンタワーです。
 この写真は、紀之国坂交差点から撮った写真です。

 ホテルニューオータニは、江戸検1級合格者がガイドを務める「大江戸散歩」という企画で、我々江戸検1級合格者は大変お世話になっています。


c0187004_1317098.jpg【上から見た喰違門】
 ザ・メイン17階のレストラン「スカイ」から見た「喰違門」近辺の様子です。
 ピンクで囲んだ部分が「喰違門」です。
 「喰違門」を左手に行くと迎賓館、右手に行くと紀尾井坂になります。


【ホテルニューオータニの庭園】
 ホテルニューオータニの庭園は、井伊家中屋敷の時代の名残りがあります。
 ホテルの庭園から見ると一段と低い清泉亭のそばにある「イヌマキ」と「カヤ」の2本は、ともに11代将軍徳川家斉の天明年間(1780年代)からこの地に生育していたものと考えられ、江戸時代から伝わる貴重な樹木として、千代田区の天然記念物に指定されています。
 天然記念物に指定されたイヌマキとカヤは皇居以外で確認された区内の樹木の中でも最も古いと見られていて、イヌマキは樹齢222年以上、高さ約21.1メートル、直径85.4センチ、カヤは樹齢218年以上、高さ約17.6メートル、直径93.6センチあるそうです。

 左がイヌマキ、右がカヤです。
c0187004_2325821.jpgc0187004_230343.jpg


 その他、灯籠も数多く置かれています。
 左は「春日灯籠」と呼ばれるもの、右は「寛永寺灯籠」と呼ばれるものです。
c0187004_2119449.jpgc0187004_21192580.jpg



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by wheatbaku | 2009-12-15 11:21 | 三十六見附 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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