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鍛冶橋狩野家 (鍛冶橋門② 「三十六見附」)
 鍛冶橋門の2回目です。
 鍛冶橋門外には、狩野探幽の系統の狩野氏、いわゆる鍛冶橋狩野家の屋敷がありました。 そこで、今日は狩野家関連の話題です。

【鍛冶橋狩野屋敷跡】 
 狩野探幽は狩野永徳の孫で、元和7年、探幽が20歳の時に鍛冶橋門外に約1000坪の屋敷をあたえられたことから、鍛冶橋狩野家と呼ばれました。

c0187004_20393528.jpg 鍛冶橋狩野家は江戸切絵図を見ると、鍛冶橋の斜め前の内濠沿いに屋敷がありますが、道路も拡張されていることから、鍛冶橋交差点の角にある常陽銀行が入っている八重洲三井ビル付近にあったものと思われます。
 史跡説明板等も設置されていませんので、正確とはいえませんが、写真正面のビル近辺だと思います。



 鍛冶橋狩野家は探幽の系統で名家ではありますが、この系統からは探幽以後見るべき絵師は出ませんでした。

【奥絵師と中橋狩野屋敷跡】 
 奥絵師の狩野四家とは探幽の系統の鍛冶橋家、木挽町家、中橋家、浜町家でした。
 探幽の弟の尚信(次男)と三男の安信もそれぞれ独立しました。
c0187004_20404936.jpg 尚信の系統は木挽町家と呼ばれ、安信の系統は中橋家とよばれました。
 さらに、尚信の孫の岑信(みねのぶ)が別家をたてて、浜町家と呼ばれました。
 この四家が奥絵師と呼ばれました。奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されました。
 四家の中で、幕末にかけて、狩野派の主流となったのは、次男の尚信の系統の木挽町狩野家です。

 狩野家の宗家は中橋狩野家でした。
 中橋狩野家の屋敷は、鍛冶橋からそう遠くない大鋸町(現在、千代田区京橋1丁目)にありました。
 現在は、ブリジストン美術館の裏側にある全国信用組合会館の付近が、中橋狩野家の屋敷跡と言われています。


【歌川広重住居跡】 
 その中橋狩野家の隣に歌川(安藤)広重が住んでいました。その住居跡の説明板が、東証コンピューターシステムの建物の脇にあります。
 こちらは、中央区教育委員会が設置した説明板がありますので位置がわかりやすいです。

c0187004_20411274.jpg 説明板の解説は次のようです。
 「浮世絵師歌川広重「安藤広重」(1797~1858)が、嘉永二年(1849)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。
 広重は、幕府の定火消組同心安藤源左衛門の長男として、八重洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。
 十三歳のとき父母を失い、父同様定火消同心になりましたが、文化八年(1811)十五歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
 天保三年(1832)霊岸島の保永堂から出した「東海道五十三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺しています。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町(京橋)と呼ばれていたこの地での代表作です。
 住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。」

 赤印が鍛冶橋狩野家屋敷跡、青が中橋狩野家屋敷跡、ピンクが安藤広重住居跡です。
 

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by wheatbaku | 2010-01-29 06:25 | 三十六見附 | Trackback
鍛冶橋門 (「三十六見附」)
今日の「三十六見附」の紹介は、 「鍛冶橋門です。

c0187004_23324387.jpg 鍛冶橋門はJR東京駅八重洲南口から歩いて4分の鍛冶橋交差点近辺にありました。
 鍛冶橋門は寛永6年(1629)に東北の諸侯により建設されました。
 明暦の大火の時に焼失し、万治2年に再建されましたが、明治になって、明治6年に枡形が撤去されました。
 現在の鍛冶橋交差点からJRの高架の間あたりにあったものと思われますが、鍛冶橋の説明板が鍛冶橋交差点の南西角に設置されています。


c0187004_23331379.jpg【現在の鍛冶橋交差点】 
 鍛冶橋門は、高麗門と渡櫓門が平行に設置された喰違枡形でした。また、枡形が外濠の中に出ている外枡形となっていました。
 鍛冶橋門は門前が鍛冶町と呼ばれていたので、その名を取って鍛冶橋門と名づけられたと言われています。
 この写真は、鍛冶橋交差点から西方面を撮ったものですが、現在は鍛冶橋門の面影はまったくありません。

 写真中央奥に遠く見えるのが、東京国際フォーラムです。


c0187004_23333627.jpg【東京国際フォーラム】 
 鍛冶橋の門内には、土佐藩山内家の上屋敷がありました。
 今話題の坂本龍馬は、江戸に修行に来ていて、上屋敷から千葉道場に通ったと、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や豊田穣の「坂本竜馬」に書かれています。
 ただし、坂本龍馬は上屋敷でなく、中屋敷に居たという説もあるようです。

 その屋敷跡は、東京都庁となり、現在は東京国際フォーラムとなっています。
 都庁が最初にここに設置されたのは明治27年でした(当時は府庁)。
 そして、平成3年に都庁が新宿に移転し、現在は東京国際フォーラムとなっています。


c0187004_23335881.jpg【太田道灌像】 
 東京国際フォーラム内には、ここが都庁であった関係で、大田道灌の銅像があります。
 この像は、ここに都庁舎があった昭和33年に設置されましたが、都庁の移転後、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰しました。以前と同様に旧江戸城を望んでいます。
 銅像の製作者は朝倉文夫です。
 この太田道灌像は実は2代目で、初代は第2次大戦中に供出されてしまいました。
 初代銅像の製作者は朝倉文夫の実兄渡辺長男です。
 つまり兄弟で2代の太田道灌像を制作したことになります。

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by wheatbaku | 2010-01-28 06:11 | 三十六見附 | Trackback
数寄屋橋門 (「三十六見附」)
 「三十六見附」、今日は数寄屋橋門を訪ねます。
  数寄屋橋は、昭和の時代に「君の名は」で有名になりましたが、JR有楽町駅銀座口から2分のところにあります。

c0187004_20352026.jpg 数寄屋橋門は、有楽町マリオン付近にありました。
 数寄屋橋門は初め芝口門と言っていましたが、宝永7年(1710)、芝口門を新たに築くにあたり数寄屋橋門と改めたと言われています。
 数寄屋橋門は寛永6年(1629)に仙台藩主伊達政宗により築かれました。
 数寄屋橋門という名前は、織田信長の弟の織田有楽斎(うらくさい)長益の数奇屋屋敷があったからと言われ、有楽町の名前も有楽斎からきているとよく言われます。しかし、異論もあるようです。
 学術的にはそうかもれしれませんが、通説のほうが納得感があります。
 


c0187004_21114787.jpg 数寄屋橋門は南に高麗門、西に渡櫓門がある、左折枡形門でした。
 現在高速道路が通っている所が外濠でした。その外濠を渡る部分が数寄屋橋で、その内側にあたる、現在は晴海通りと有楽町マリオンになっている場所近辺に数寄屋橋門がありました。
 c0187004_21201338.jpg

    
      数寄屋橋は、高速道路建設に伴い昭和33年に取り壊されました。
 「君の名は」の作者菊田一夫の「数寄屋橋此処にありき」と書かれた「数寄屋橋の碑」が、道路脇の数寄屋橋公園にあります。
 この碑の石材は数寄屋橋の石を利用したものだそうです。


【南町奉行所】 
 数寄屋橋門内には、南町奉行所がありました。
 宝永4年(1707年)に常盤橋門内にあった奉行所が、数寄屋橋門内に移転してきてから南町奉行所と呼ばれるようになりました。
 南町奉行には有名な大岡越前守忠相がいます。
 南北町奉行というのは、奉行所の所在地が南にあるか北にあるかの違いで、江戸の町を南北に分けて管轄したわけではありません。訴訟等は毎月交代で担当しました。これを月番と言います。
 南町奉行所跡は、現在、有楽町マリオンや有楽町イトシアとなっています。

c0187004_20375019.jpg【イトシア展示コーナー】 
 有楽町イトシアは平成19年に開業した新しい再開発ビルです。
 ここは、江戸時代に南町奉行所があった場所ですので、再開発に伴って埋蔵文化財の発掘調査が実施されました。
 その調査では、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土したそうです。
 遺跡発掘の際に発見された穴倉を利用した展示コーナーがイトシアの地下1階に設置されています。
 また、奉行所の石組材を利用した石のベンチも地下1階に作られています。
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by wheatbaku | 2010-01-27 05:40 | 三十六見附 | Trackback
山下門 (「三十六見附」)
 今日は、「三十六見附」のうち、「山下門」について紹介します。

c0187004_21483469.jpg 山下門は、JR有楽町駅日比谷口から線路沿いに5分歩いた場所で帝国ホテルのすぐ近くにありました。
 現在は、JRの高架と道路となっていて幸橋門と同じように、遺構はまったくありません。
 左の写真は、帝国ホテルプラザ前から、JRの高架を見たものですが、このあたりに山下門がありました。
 事前に承知していないと、江戸時代に、城門があったことなど全くわかりません。
 江戸城の多くの門が寛永13年までに築かれていますが、山下門は、寛永14年以降に築かれています。
 熊本藩主の細川忠利が築いたものです。
 

c0187004_21184189.jpg 【山下橋架道橋の表示】 
 普通の門は渡櫓がありますが、山下門は渡櫓がない小規模の門でした。三十六見附の中で最も小さな門でした。 
 帝国ホテルの前の道路がJRの高架を抜けるガード下(上の写真の真ん中のガードの右手壁面)に、山下橋架道橋とあり、わずかに山下門の名前が残っています。



c0187004_22514586.jpg【山下門付近の絵図】 
 山下門の門外の町名は山下町でしたので、その門前の町名から、山下門という名前がついたと言われています。
  山下門の門内には、嘉永3年の切絵図では、板倉周防守の上屋敷がありました。
 しかし、安政3年ごろは奥州白河藩の阿部正耆(あべ まさひさ)の上屋敷になっているのでしょう。説明板では阿部正耆となっていました。
 この屋敷跡が、現在の帝国ホテルです。
 帝国ホテルは、外国の賓客接待のためのホテルの必要性を痛感した外務卿井上馨が、新ホテル建設を渋沢栄一、大倉喜八郎らに諮って建設したもので、 明治23年(1890)に開業しました。


c0187004_15305487.jpg  【明治期の帝国ホテル】 
 これは、初代の帝国ホテルです。
 現在と同じ場所にありますが、今と違い西の日比谷通り側でなく、北側が正面でした。手前には日比谷門と山下門を結ぶ堀がありました。
 この堀は、明治36年(1903)の日比谷公園開園の時に埋め立てられました。
 宝塚劇場やスカラ座は、この堀のあった場所に建てられています。
 この建物は大正11年(1922)4月16日に全焼しました。
 この後に立てられたのが有名なライト設計の帝国ホテルです。


上の写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています
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by wheatbaku | 2010-01-26 05:47 | 三十六見附 | Trackback
幸橋門 (「三十六見附」)
 江戸城三十六見附の案内は浅草橋門をスタートして、外濠を順に巡って虎ノ門までいきました。
 今日はひさしぶりに三十六見附の案内で 「幸橋門」 です。

c0187004_1741874.jpg 幸橋門は、JR新橋駅の近くにありましたが、現在は、幸橋門の遺構はまったくありません。
 現在の第一ホテル東京の前あたりに門があったと言われています。
 写真の奥の建物が第一ホテル東京です。
 幸橋門は、寛永13年(1636)に、熊本藩主細川忠利により築かられました。
 将軍が増上寺にいく時に通った門なので、寛永年間は御成門とも呼ばれたそうです。

c0187004_17412930.jpg 【新幸橋】 
 幸橋門は、明暦3年(1657)の明暦の大火で櫓門が焼失し万治2年(1659)に再建されました。
 そして、明治になって明治6年にわずか15日間で幸橋門は撤去されてしまったそうです。
 幸橋門跡はJRの高架や道路になっているため、門があったという名残りはあまりありません。
 高速道路の高架下に「新幸橋」の石柱がありますが、新幸橋は昭和初年にできた橋で江戸時代のものではありません。
 しかし、この石柱の先にある「新幸橋交差点」とともに此の辺り「幸橋門」があったことを感じさせる数少ない名残りです。
 そうそう内幸町も幸橋の内側という意味で、幸橋門から生まれた地名です。

c0187004_17425193.jpg 【外濠の石垣遺構】 
 日比谷セントラルビルの虎ノ門寄りの道路沿いに外濠の石垣の遺構が保存されています。
 物産ビル別館の増築工事の際に地下4メートルから見つかった石を使用して外堀の石垣が復元されたものです。
 この付近の外濠の石垣は、寛永13年(1636)の工事で築造されたもので、柳川藩主立花宗茂、久留米藩主有馬直純などが担当しました。

c0187004_20245934.jpg 【桜田神社】 
 日本中央競馬会のショーウィンドウに桜田神社のお神輿や太鼓などが飾ってあります。
 ここ西新橋一丁目は、昔桜田郷と呼ばれ8千本ものの桜があったそうです。
 桜田神社は、治承5年(1181)に渋谷庄司重国が、現在の霞ヶ関(今の桜田門のあたりと言われています)に建立し、文明年間(1470年頃)、大田道灌が新しく造営しました。 

c0187004_17421660.jpg 江戸幕府になって、桜田神社は、慶長7年(1602)赤坂溜池に移し、さらに寛永元年(1624)に現在の西麻布に移されました。
 しかし、神社は移転したものの、このあたりは桜田八ヶ町として、「桜田」の名がかぶせられていました。
 そして、昭和の時代にも、戦前・戦後、秋祭りの際には、日本中央競馬会のビルの前に御神酒所を設け、麻布のお宮から御神輿巡業が行われたそうです。
 そうしたことから、日本中央競馬会のビルに桜田神社のお神輿や太鼓などが飾ってあるそうです。 
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by wheatbaku | 2010-01-25 05:18 | 三十六見附 | Trackback
寺田屋騒動~龍馬寺田屋で襲撃される (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日1月23日は、薩長同盟の成立を見届けた坂本龍馬が、伏見の寺田屋で、幕府の捕り手から襲撃された日です、

c0187004_1451420.jpg 坂本龍馬は、京都から定宿としていた伏見の寺田屋に1月23日に帰ってきます。
 坂本龍馬が、寺田屋に入ったことは、密偵の探索により伏見奉行所の知るところとなります。
 そして、伏見奉行所の捕り手が寺田屋に向かい襲撃しました。

 この出来事については、坂本龍馬、寺田屋の女将お登勢、そして後に龍馬の妻となるお竜の証言がそれぞれあります。
 龍馬について書いた多くの本が、襲撃の様子がよくわかるとして、そのまま引用していますので、ここでも手紙等を引用します。

【龍馬の兄あての手紙】 
 まず、龍馬自身が、襲撃の約10ヵ月後の慶応2年12月4日に兄の坂本権平にあてた手紙で、襲撃のことを書いています。
 「上ニ申伏見之難ハ去ル正月23日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉 此時二階居申候 人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人 名は龍今妻也。勝手より馳セ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来たりしなり。鑓持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。
 連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき槍を持ちて是も腰掛にかかる。間もなく,壱人の男 障子細目に明ケ内をうかがふ。見れば大小指込なれバ、何者なるやと問しに、つかつかと入り来れバ、すぐに此方も身がまへ致セバ、又引取りたり。早次ギの間もミシミシ物音すれバ龍女に下知して、次の間又後の間のからかみ取りはづさし見れバ、早拾(10)人斗(ばか)り槍持て立並びたり、又盗賊燈灯二ツ持、又六尺棒持たる物其左右に立ちたり。」

 【お龍の証言】 
 龍馬の妻のお龍は寺田屋の養女です。左の写真は32歳ごろのお龍ですが、典型的な京美人だったそうです。

c0187004_1455614.jpg さて、龍馬襲撃の時お龍は、裸で龍馬に急を知らせたということになっていますが、それは、どうも眉唾のようです。
 当の本人は「千里駒後日譚」で、捕り手が来たときの様子を次のように語っています。
 「お登勢は次の室で小供に添乳をし乍ら眠って居る様子ですから、私は一寸と一杯と風呂に這入って居りました。
 処がコツンコツンと云う音が聞こえるので変だと思って居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態(わざ)と二階へ聞こえる大声で、女が風呂に入って居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云うと、静にせい騒ぐと殺すと云うから、お前さん等に殺される私ぢゃないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引っかけ、帯をする間もないから跣足(はだし)で駆け出すと、陣笠を被って槍を持った男が矢庭に私の胸倉を取て (中略) 裏から二階へ上がれるかと云うから、表から御上がりなさいと云えば、ウム能く教えたとか何とか云って表へバタバタと行きました。
 私は裏の秘密梯子から駆け上がって、捕り手が来ました。ご油断はなりませぬと云うと、よし心得たと三吉さんは起き上がって手早く袴をつけ槍を取って身構へ、龍馬は小松さんが呉れた6連発の短銃を握って待ち構えましたが、敵の奴等は二階梯子の処まで来て、なにやらガヤガヤ云う斗進んでは来ないのです。」
 ここで一寸注釈、龍馬が持っていてピストルについて、お龍は小松帯刀がくれたと言っていますが、高杉晋作がくれたものとも言われています。

【お登勢の龍馬あて手紙】 
 さらにもう一人。寺田屋のお登勢(右の写真)は、勝海舟によれば「寺田屋は龍馬このやどに居ることしばしばなり、此の時の主婦は奇女にて龍馬を能くしれり」と言われた人です。

c0187004_1462167.jpg そのお登勢が龍馬にあてた慶応2年1月下旬推定の手紙では次のように書かれています。
 「その夜八ツ時ごろ風呂からあがって火鉢にあたっていると、ちょっと頼むと表から戸を叩くものがあり、あけてみると、うしろはちまき抜身の槍にて大よそ百人計もならび居り誠に々々びつくり致し居り候へ共、何事にて御座候と尋ね候へば、其方の二階に両人のさむらひが居るよしたしかに聞候。ありていに申すべしと申ゆえ、もはやかくすこともならず真の通り二階においでなされ候と申候へば、どうして居ると尋ね候故、まだねずにお咄しなされ候へば、夫れより捕手の人が大いに心配致し、どうしよこうしよといろいろ恐れ、だれいけかれいけとそのこんざつはいはんかたなく、其女が思ひ候には、こんな人が幾万人捕手にかかるとも其両人の人にはしょせんかなはずという事、心の内に思い、此だん安心致居申候」
 と書いてあるそうです。

【龍馬助かる】 
 3人の証言からすると伏見奉行所の捕吏たちは恐る恐る襲撃に向かったようですね。
 しかし相手は大勢ですので、坂本龍馬と護衛役の長州の槍の使い手三吉慎蔵は、斬り死にするのではなく襲撃から逃れることにして、隣家の庭に飛び降り、隣家を走りぬけ、辛くも逃げることができました。
 二人は貯木場に隠れ、龍馬は負傷していたため、三吉慎蔵が伏見の薩摩屋敷に助けを乞いに走り、伏見屋敷の留守居役大山彦八が龍馬を助けに貯木場に出向き、救出しました。
 京都の薩摩屋敷にいた西郷はみずから救出に出向こうとしたが皆から止められ、京都屋敷の留守居役吉井幸助が銃で武装した歩兵一個小隊を連れて京都の薩摩屋敷に保護しました。

 その後、坂本龍馬とお龍は結婚し、3月に鹿児島に一緒に旅行しています。これが日本の新婚旅行の第一号と呼ばれています。
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by wheatbaku | 2010-01-23 14:26 | 『幕末』 | Trackback
薩長同盟② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は薩長同盟の2回目です。薩長同盟締結に至る経緯について今日は書いていきます。

【薩長同盟とは米ソが手を結ぶようなもの】 
  司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、薩長同盟がどのような意味を持ち、龍馬の価値がどういうものかについて、次のように書いています。 c0187004_20362646.jpg 
  「この当時、薩長連合というのは、龍馬の独創的構想ではなく、すでに薩長以外の志士たちのあいだでの常識になっていた。薩摩と長州が手をにぎれば幕府は倒れる、というのは、たれしもが思った着想である。(中略)
 しかし、しょせんは机上の空論で、例えば1965年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力ができる、とか、米国とソヴィエト連邦が握手すれば世界平和はきょうにでも成るという議論とやや似ている。
 龍馬という若者は、その難事を最後の段階でただひとりで担当した」
 薩摩と長州は、20世紀における米ソであるという表現はすごくわかりやすいと思いますので、抜書きしました。
  長州は、文久3年(1863)8月18日に公武合体派が尊王攘夷派を追放したいわゆる「8月18日の政変」や「禁門の変」以来、薩摩を不倶戴天の敵と見なしていました。その両藩が同盟するということは、20世紀においてアメリカとソ連を同盟させるに等しい至難の業だったのだと司馬遼太郎書いています。

 
 それでは、その至難な同盟がどのようにして実現したか、簡単に書いていきます。

c0187004_222223100.jpg【薩長同盟の発端は勝海舟】 
 薩長同盟のきっかけとなる方向性を坂本龍馬や西郷吉之助(隆盛)に指し示したのは勝海舟であると言われています。
 勝海舟は、元治元年(1864)9月11日に西郷吉之助にあった時に、もはや幕府には政権を担当する能力がない、これからは薩摩等の雄藩が力を合わせて政治を行う時代だと思い切って西郷吉之助に伝えます。 
 これにより西郷吉之助は深く悟るところがあり、第一次長州征伐の総督参謀を務めることとなった西郷吉之助は、これ以後、意識的に長州に寛大な方針をとるようになりました。
 勝海舟のこの考えが、薩長同盟のきっかけとなったと言ってよいかもしれません。

 ※上の勝海舟の銅像は墨田区役所の「うるおい広場」にあります。


【薩長同盟までの下地づくり】 
c0187004_20432692.jpg しかし、仇敵同士の薩長両藩の接近をはかり、同盟まで進めた立役者は坂本龍馬です。
 坂本龍馬は、勝海舟が神戸に設立した海軍操練所の塾頭になりますが、海軍操練所が閉鎖されると活動のの拠点を失います。
 そこで、薩摩の家老小松帯刀と西郷吉之助は、坂本龍馬を中心とする海軍操練所の人々を大阪の薩摩藩邸に引き取って彼らの航海技術を利用しようと考えました。
 慶応元年(1865)、坂本龍馬は小松帯刀と長崎に行き、「亀山社中」を設立し海運事業を開始しました。
 そして亀山社中の活動として、薩摩の力で購入した小銃等を、武器の購入を欲していた長州に運びました。
 続けて坂本龍馬は、汽船ユニオン号を薩摩名義で購入し、長州に引き渡しました。
 その代金は長州が支払いました。
 一方薩摩の西郷は上京するにあたって下関で米を売ってくれるように長州と交渉するよう坂本龍馬に依頼しました。これに対して長州は快諾しました。
 こうした実績を積み重ねていく中で両藩は次第に接近していったのです。

【薩長同盟成立前日の動き】 
c0187004_20431141.jpg 慶応元年には、いよいよ第2次長州征伐が開始されようとしていました。
 このような時期にふたたび坂本龍馬は、薩摩と長州に同盟を働きかけました。
 龍馬の説得に応じて、桂小五郎は京都に向かいました。
 しかし、龍馬が遅れて、慶応2年(1866)1月20日に京都に入ると、桂は帰り支度をしていました。
 西郷らは桂を歓待するが、同盟の話は一向に口にしないので、桂は帰ろうとしていたのです。
 坂本龍馬はあまり怒号を発したことはなかったそうですが、この時ばかりは非常に怒ったと言われています。。
 坂本龍馬は、桂を説得し、次いで西郷を説いて、薩摩側から同盟の話を持ち出すようにして、1月21日の会談がセットされて、ついに、薩長同盟が結ばれたのでした。

【ほくそ笑む勝海舟】 
 豊田穣の「坂本龍馬」によると、勝海舟は愛弟子である坂本龍馬の成功にほくそ笑んだそうです。
 そして海舟は氷川日記(慶長2年2月1日)に次のように書いているそうです。
 「薩、長と結びたりと言う事。実なるか。坂竜、今長に行きて是等の扱いを成すかと。左(さ)もこれあるべくと思わる」
 勝海舟の喜んでいる姿が目に浮かびます。

 こんな大事をした坂本龍馬に幕府の捕吏の手が近づいていました。明日はそのお話です。

 上記の坂本龍馬、小松帯刀、西郷隆盛の写真は、「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-01-22 05:50 | 『幕末』 | Trackback
薩長同盟① (江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸文化歴史検定の今年のお題は「幕末」です。そこで、幕末の主要出来事を発生日に書いています。
 今日1月21日は、幕末いや日本史における画期的な出来事である「薩長同盟」が成立した日です。
 「薩長同盟」は慶応2年1月21日に成立しました
 坂本龍馬の業績は数々ありますが、その中で最も大きな業績の一つにといってよいでしょう。
 現在放映されている大河ドラマ「龍馬伝」で必ず出てくると思いますが、龍馬が暗殺される2年前の功績ですので、放映は、多分、秋以降になると思います。

 【薩長同盟締結場所・当事者・概要】 
c0187004_1724994.jpg  さて、薩長同盟締結のための会談は、京都の薩摩藩邸で行われました。(ただし、小松帯刀邸という説もあります。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」では小松邸となっています。)
 薩摩の代表は、家老の小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)で、長州の代表は桂小五郎(木戸孝允)でした。

 会談内容は文書化されませんでした。(個人的には、同盟内容が当事者同士で文書となっていないことにビックリしました。)
 しかし、翌日つまり1月22日に、桂小五郎が整理してあります。
 それによると6か条あります。
 概略で書くと、第2次長州征伐が、「戦」になったとき(第1条)、それに長州が勝つ場合(第2条)、長州が負ける場合(第3条)、また「不戦」の場合を想定して、それぞれ対応を決めてあります。
 そして、第5条でどうしても長州の復権が実現しないときには、幕府との決戦の覚悟を述べており、最後の第6条では「皇国」の概念を述べています。

 【薩長同盟の盟約内容詳細】 
 江戸検定で出題されるかどうかわかりませんが、江戸検定を意識して、薩長同盟の各条項の内容を書いておきます。
c0187004_1732239.jpg
1、長州が戦争となった時には、薩摩は兵を京阪に送り、京阪を固めること
 [一、戦と相成候時は、直様2千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置、京阪両処相固め候事]
1、戦いが長州藩の勝利になりそうな時は、薩摩は朝廷に申し上げ尽力すること
 [一、戦自然も我勝利と相成 候気鋒これあり候とき其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事]
1、万一 敗色であっても1年や半年で壊滅することはないであろうから薩摩はいろいろ尽力すること
 [一、万一戦負色に有之候とも、1年や半年決而(けっして)壊滅致し候と申事は無之に付、その間には必尽力次第屹度有之候との事]
1、幕府の兵が引き上げた場合には、すぐに長州藩の冤罪がとけるように尽力すること
 [一、是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力との事]
1、兵士を上京させた上でも、一橋、会津、桑名等が朝廷を擁し、周旋尽力の道をさえぎるような時には、決戦する。
 [一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今のごとき次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を拒み、周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これなきとの事]
1、冤罪がとけた場合は、両藩が皇国のために尽力する。
 [一、冤罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、イツレの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相暉 き、御回復に立至り候を目途に、誠心を尽し、屹度尽力致すべきとの事]

 この条文を読むと、半藤一利氏が「幕末史」の中で
 「薩長同盟といえばふつうお互いに攻守同盟を結んだように思われやすいのですが、そうではなく、あくまで長州が攻撃された時には薩摩が全力をあげて助けることを明示すると同時に、両藩が一緒になり、皇国のため、国威を輝かすために全力を尽くすことを約束したのです」
 と書いてある意味がよくわかります。 つまり、薩長同盟は攻守同盟ではないようです。

【龍馬の裏書】 
 さらに、桂は帰国の途中23日に大阪から龍馬に手紙を書いて保証を求めました。
 それに対して、龍馬は朱書きで、手紙の裏に次の文を書いて保証しました。

 c0187004_21424836.jpg「表に御記被成(おしるしなられ)候六条ハ、小(小松帯刀)、西(西郷吉之助)両氏及老兄(桂小五郎)、龍(坂本龍馬)等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛(すこし)も相違無之(そういこれなく)候。将来といへども決して変わり候事無之(これなき)ハ、神明の知る所ニ御座候。
丙寅(ひのえとら) 二月五日 坂本龍」

 この裏書は、慶応2年2月に京都から西下した長州藩士村田新八らによって桂にわたされたそうです。


 上記の坂本龍馬と桂小五郎(木戸孝允)の写真は「国立国会図書館蔵」です。
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by wheatbaku | 2010-01-21 06:21 | 『幕末』 | Trackback
下谷七福神③ (七福神めぐり)
 今日は下谷七福神の最後です。
 今回は3箇所ご案内しますが、ボリュームがありますので、最後までお付き合いください。

英信寺(えいしんじ) (大黒天) 

c0187004_20435359.jpg 英信寺は法昌寺から2分の至近距離にある江戸時代の初めに創建された浄土宗のお寺です。
 英信寺の名前の由来ですが、4代将軍家綱の小姓だった京都の亀山城主の三男だった松平英信(ふさのぶ)が23才で逝去され、この寺に葬られた際に、英信のお姉さんが、逝去を深く悲しみ嘆かれ、英信の木像を造り当寺に安置し、寺号を英信寺と改めたことによるそうです。

c0187004_20445880.jpg 三面大黒天
 当寺の大黒天は、弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天が本堂左側の大黒堂に安置されています。
 三面大黒天は、向かって右に弁財天、左に毘沙門天の三つの顔を持つ大黒さまです。
 延暦寺を開いた最澄が深く信仰したと言われています。
 東京23区内では、目黒の大円寺とことの2箇所しかないと言われています。

c0187004_20452571.jpg 大石灯篭
 英信寺は松平三家の菩提寺として、亀山藩の松平家の他に、大分県の杵築藩松平家およぴ静岡県の小島藩松平家の藩主のお墓もあります。しかしお参りはできないそうです。
 その松平家の関係から、大灯籠が二基あります。この大灯籠二基は、上野寛永寺にあったものを戦后整理の折に当寺に移置したものだそうです。
 境内中ほどのものは、亀山の松平家の藩主従五位下紀伊守松平信岑(まつだいら のぶみね)、山門を入ってすぐのものは杵築の松平家の藩主従五位下市正松平 親盈(まつだいら ちかみつ)が、8代将軍吉宗(有徳院殿)がなくなった後、寛延4年(1751)奉献されたものです。


眞源寺 (福禄寿) 

c0187004_2047339.jpg 「恐れ入谷の鬼子母神」で知られている入谷の鬼子母神です。
 お寺の正式な名前は、「眞源寺」と言います。
 眞源寺は、英信寺からは4分で、東京メトロ「入谷」駅からは1分です。
 万治2年(1659)日融上人により創建されました
 鬼子母神は、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、子どもを奪い取っては食ってしまう悪い神様でした。
 そこで、釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたといいます。
 以後、子供を守る安産・子育の神として信仰されるようになりました。
 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない鬼の字を使っています。

c0187004_20482645.jpg江戸三大鬼子母神
 鬼子母神がお祀りしたあるお寺は日蓮宗のお寺が多いそうです。
 それは、鬼子母神が法華経というお経の中にでているからだと言います。
 入谷の鬼子母神の他に雑司ケ谷の鬼子母神が有名ですが、さらに千葉中山の鬼子母神とが江戸三大鬼子母神と言われています。


c0187004_20485813.jpg福禄寿さま
 
 七福神でお祀りしてあるのは、福禄寿さまです。
 上の写真のお堂にまつってありあますが、お堂は山門を入ってすぐ右手にあります。
 やさしくかわいい福禄寿さまです。


c0187004_2242983.jpgあさがお
 これは正岡子規の句碑です。
  漱石来る  蕣(あさがお)や君いかめしき文学士
  入谷から出る朝顔の車かな    の句が刻まれています。

 この句にうたわれていますように、入谷といえば朝顔が有名です。
 7月7日の七夕前後3日間、名物の朝顔まつりが開かれ、非常に賑わいます。鬼子母神の境内も朝顔で一杯になります。
 朝顔まつりは、大正初期、市街化により朝顔市は途絶えましたが、昭和23年復活したものです。


元三島神社 (寿老神) 
c0187004_20501388.jpg
 元三島神社はJR鶯谷駅北口から1分の至近距離にあります。JRの電車からも見ることができます。
 鬼子母神からはあるいて7分です。
 瀬戸内海に大三島という島があります。国宝の島と呼ばれたり、しまなみ海道がとおっているのでご存知の方もいると思います。
 そこに古くからある「大山祇(おおやまづみ)神社」から勧請したものです。
 大山祇神は水軍の神として,瀬戸内海水軍の河野一族の氏神でもありました。
 鎌倉時代の弘安4年(1292)蒙古襲来の際,河野通有という人が大山祇-神社で必勝祈願し,戦陣でめざましい活躍をしました。
 その河野通有が戦から帰ってきた際、夢の中に,神のお告げがあり,武蔵国豊島に勧請の願を発し分霊を鎮座したのがこの神社の始まりであるといいます。
 「元三島神社」と「元」がついているのは、三島神社が,同じ台東区の下谷3丁目と寿4丁目にそれぞれ三島神社があるためではないかと思います。

c0187004_20504211.jpg寿老神さま

 お祀りしてある七福神は、寿老神さまです。
 社殿の中の奥にお祀りしていますので、写真が小さくなってしまいました。
 一般的には、寿老人と書くのですが、ここでは「寿老神」としています。
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by wheatbaku | 2010-01-20 06:21 | 七福神めぐり | Trackback
下谷七福神②  (七福神めぐり)
 今日は、下谷七福神の2回目です。
 今日は、朝日山弁天院法昌寺をご案内します。

 朝日山弁天院 (朝日弁財天) 

c0187004_220972.jpg  朝日弁財天は、飛不動から7分です。直接いくには、東京メトロ「入谷」駅から5分です。
 開基は備中松山城主の水谷(みずのや)伊勢守勝隆です。
 不忍池に弁財天が祀られていますが、それを祀ったのが水谷伊勢守です。
 不忍池の弁財天を創建すると同時に、その下屋敷にあった池にも弁財天を祀り、これを姉妹弁財天とし、西の不忍を夕日弁財天、東方の水の谷を朝日弁財天と称しました。

c0187004_2203678.jpg 【弁天池】 
 ところで、弁財天はもともとはインドの水を司る神様でした。水の流れる音から、音楽や弁舌の神様となり、さらに財産の財を使い、財宝の神様として信仰されるようなりました。
 そのために、池などの水辺に祀られることが多いのです。
 説明板によると、実は、ここも、明治の中ごろまで、「水の谷の原」と呼ばれる原っぱで、弁天池は8000坪もある大きな池だったそうです。
 しかし、関東大震災の後、残土処理のため、それも主に浅草十二階の残土をもってして池を埋めたてたそうで、その面影はほとんどありません。

c0187004_221334.jpg 【弁財天さま】 

 弁財天さまは、お堂の中で遠くにお祀りされていたので、残念ながらはっきり撮れませんでした。
 しかし、八臂(はっぴ)の弁財天さまでした。
 八臂とは手が8本あるということです。


 法昌寺 (毘沙門天) 

c0187004_2215788.jpg  毘沙門天をお祀りしている法昌寺は、朝日弁財天からは歩いて7分です。
 東京メトロの「入谷」駅からは 歩いて3分です。
 この法昌寺は、江戸初期の慶安元年(1648)の創建の日蓮宗のお寺です。
 

c0187004_2222190.jpg  【毘沙門堂】 
 
 山門を入ると、左手に本堂があり、正面に毘沙門堂があります。
 この毘沙門堂には毘沙門天像のみならず、最澄ならびに日蓮の作と伝わる鬼子母神(きしもじん)の像をあわせて安置しているそうです。
 私は、確認できませんでしたので、読者の皆さん機会がありましたらよく見てください。


c0187004_2224825.jpg 【毘沙門天さま】 
 毘沙門天は、仏教の守護たる四天王の一でもあり、単独で信仰されるときは「毘沙門天」、四天王の一人として信仰される時は「多聞天」と呼ばれることが多いようです。
 法昌寺の毘沙門天さまは色鮮やかな毘沙門天さまでした。



c0187004_2231431.jpg 【たこ地蔵】 
 たこ八郎というタレントがいたのを覚えている方もいると思いますが、ここは、そのたこ八郎の菩提寺だそうです。
 その関係で、通称『たこ地蔵』という地蔵さまがお祀りされています。
 こちらが『たこ地蔵』で、由利徹や赤塚不二夫や山本晋也といった文化人等がその発起人となり、昭和60年にこの地蔵さまを建てました。
 正面に「迷惑かけてありがとう」という座右の銘が刻まれています。
 
 
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by wheatbaku | 2010-01-19 05:47 | 七福神めぐり | Trackback
  

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