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桜田門外の変 ①(江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸文化歴史検定今年のお題「幕末」の記事ですが、3月は安政7年(1860)3月3日の桜田門の変と嘉永7年(1854)3月3日の日米和親条約締結について取り上げたいと思います。

 まずは桜田門外の変から取り上げます。 
 安政7年(安政7年3月18日に万延に改元)3月3日に、桜田門外の変が起きました。
 水戸浪士17名と薩摩藩士1名の合計18名により時の大老井伊直弼が暗殺されたのです。
 そこで、今日から数回にわたって井伊直弼について書いていきます。
 今日は、井伊直弼の彦根藩藩主になるまでの青年時代について書いていきたいと思います。
【14男で父50歳の時の子供】
c0187004_1454224.jpg 左の井伊直弼銅像は、彦根市の玄宮園に隣接する金亀児童公園にあるものです。
 井伊直弼は、文化12年(1815)、彦根藩第11代藩主・井伊直中の14男として、彦根場内の「槻(けやき)御殿」生まれました。幼名は鉄之介、後に通称は鉄三郎といいました。
 父の直中は歴代の藩主の中で名君の一人に数えられた人物です。
 直弼が生まれたときには、父の直中は50歳で、すでに家督を長兄の直亮(なおあき)に譲っていました。

【槻(けやき)御殿】
 直弼が生まれた槻御殿は4代の直興が、藩主の家族が生活する下屋敷として延宝5年(1677)に建てたものです。
c0187004_1442222.jpg 現在は建物部分が楽々園、庭園部分が玄宮園と呼び分けられています。
 建物には、当時としては珍しい耐震構造の「地震の間」と呼ばれている部屋があります。

 直弼は、父がここで隠居していたため、ここで生まれたのです。
 直弼は、ここでいろいろな学問・技芸をみにつけていたが、17歳のときに、父直中がなくなったため、この御殿を出て、尾末町屋敷に住むことになり、「部屋住み」生活が始まりました。

【直弼だけが部屋住み】
 井伊家の家風では、嫡子以外の子は、他の大名家を継ぐか家臣の家を継ぎ、そうならない者は部屋住みとして、わずかな宛行扶持(あてがいぶち)で生活するのが通例でした。
 直弼の兄弟で言うと、直中には15人の男子がいましたが、3男の直亮が藩主となり11男の直元が世子となっていました。
 そして、7男直教が豊後岡藩、8男直福が三河挙母藩、9男勝権下総多古藩、8男直福の跡を継いだ13男直与がそれぞれ大名家を継ぎました。その他、6男、10男、12男が家老家を継ぎました。長男、次男、4男、5男は若くしてなくなっています。
 このため、直中が死んだ時点で、残されたのは14男の直弼と15男の直恭だけでした。
 その4年後の天保5年(1835)、弟の直恭が、日向延岡藩の養子となるの及んで、部屋住みとして残されたのは直弼ただ一人でした。

 そこで、直弼は一生を埋木で朽ち果てることを覚悟し、住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけます。
 そして、17歳から32歳まで15年間「埋木舎(うもれぎのや)」で暮らすことになります。
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by wheatbaku | 2010-02-26 06:13 | 『幕末』 | Trackback
神田橋門 (「三十六見附」)
 今日は、「三十六見附」のうち「神田橋門」です。

 神田橋門は、古くは江戸六口の一つで、芝崎口、神田口と呼ばれました。

c0187004_21253132.jpg【別名 大炊橋門】  
 神田橋門は、門内西側に土井大炊頭利勝の屋敷があったので、寛永年中までは大炊橋門といいましたが、その後に神田橋門に改めました。
  江戸名所図会でも「大手より神田への出口に架(わた)す御門あり。昔、この地に土井大炊候の第宅(ていたく)ありしゆえに、大炊殿橋とも号したるとなり。この御門の外の町をすべて神田と号(なづ)く。」と書いています。
 

【警備は厳重】 
c0187004_21261143.jpg  ここから 常磐橋までの石垣は大阪冬の陣の起こる前の構築ですが、神田橋御門は、寛永6年に高麗門と右折枡形が、東北諸侯により築かれました。
「神田橋御門 は、将軍が上野・寛永寺に参拝するための御成道でもあったので、非常に警備が厳重であったという
 江戸時代の神田橋は、現在の橋より少し東に架けられていたとのことです。現在の神田橋は大正14年に架けられたものです。


c0187004_21262582.jpg【鎌倉河岸】 
 江戸時代は物の輸送の多くは水運に頼りました。河岸とは、物資の運搬輸送のために、河川などに造られた船着場や荷揚の施設を指します。

 鎌倉河岸は神田橋のすぐ近くにありました。
 家康が江戸城に入城した頃から、この付近には多くの材木や石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から北材木商が築城に使う建築部材を取り仕切っていたそうです。
 そこから、鎌倉河岸と呼ばれるようになりました。
 神田橋交差点近くに、鎌倉河岸と鎌倉町についての説明板がありました。 

  

c0187004_21264723.jpg【物揚場跡】 
 これは神田橋の交差点の南東側にある「物揚場跡」の碑です。
 河岸には、町屋敷に付属したものは「荷揚場」といい、武家屋敷に付属したものは「物揚場」という説もあるようです。その説によれば、ここは武家屋敷にあったものなのでしょうか!
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by wheatbaku | 2010-02-25 06:21 | 三十六見附 | Trackback
渋沢栄一像 (常盤橋門② 「三十六見附」)
 こちらの銅像は、渋沢栄一の銅像です。
 常盤橋門の石垣の南側に立っています。
 渋沢栄一は常盤橋の保存に尽力したため、ここに銅像が建てられているようです。 

c0187004_18493866.jpg【一橋慶喜に仕える】 
 渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市に生まれました。
 一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により一橋慶喜に仕えることになりました。
 主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れました。
 パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行することになり、西欧の近代的産業設備や経済制度を見聞しました。 
 帰国した後、明治新政府に出仕したものの、明治6年に退官し、以後実業界で活躍します。 


【資本主義の父】  
 渋沢栄一がかかわった会社は、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされています。
c0187004_751375.jpg そのため、日本の資本主義の父と呼ばれます。
 また、一橋大学や日本女子大学の設立にもかかわっています。

 渋沢栄一が他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことです。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためと言われています。

【ノーベル平和賞候補】 
 渋沢栄一は昭和元年(1926年)と昭和2年(1927年)のノーベル平和賞の候補にもなっています。
 また、肖像が千円札の図案の候補に挙がったこともあります。この時のもう一人の候補が伊藤博文で、伊藤博文が採用されました。

c0187004_16581542.jpg 渋沢栄一は、埼玉県の深谷市の豪農の長男として生まれたことから、埼玉県では、渋沢栄一賞を設け、社会に貢献した渋沢栄一の精神を今に受け継ぐ全国の企業又は企業経営者に渋沢栄一賞を贈っています。
 東京駅のレンガは埼玉県深谷市に渋沢栄一が設立した煉瓦工場で製造されたレンガを使用しています。

 この渋沢栄一の銅像の製作者は朝倉文夫です。
 朝倉文夫は「東洋のロダン」とも称された彫刻家です。現在休館中ですが、谷中に朝倉彫塑館という美術館がありますので行かれた方もいらっしゃると思います。
 有楽町の東京国際フォーラムの大田道灌像や早稲田大学の大隈重信像の製作者でもあります。
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by wheatbaku | 2010-02-23 05:55 | 三十六見附 | Trackback
常盤橋門 (「三十六見附」)
 江戸文化歴史検定1級合格者の定例会は、大森散策のあと池上散策と続くのですが、池上散策は、いづれ書くこととして、今日から「三十六見附」シリーズに戻ります。

 先日まで呉服橋門まで案内しましたので、今日は、「常盤橋門」について紹介します。

c0187004_1827436.jpg【元々は大橋と呼ばれた常盤橋】
 常盤橋門は、寛永6年(1629)に東北の諸侯により築造されました。
 常盤橋門の前に架かっていた常盤橋は、はじめ、天正18年(1590)に橋が架けられ、慶長年間には浅草口と呼ばれ、外郭の正面であることから大手口とも言われ、当時江戸最大の橋であったことから大橋とも呼ばれました。


c0187004_18281082.jpg【常盤橋の名の由来】
 しかし、橋の名前を改名するよう幕府から町年寄の樽屋に下命がありました。
 多分、大橋というのが一般名称で紛らわしかったからではないでしょうか
 そこで、樽屋は、樽屋に寄宿していた浪人から提案された金葉和歌集の大夫典侍の「色変えぬ、松によそへて 東路の 常盤の橋に かかる藤なみ」からとった「常盤橋」の名前を具申しました。 それが了承されて、この橋は常磐橋となったとのことです。
【皿でなく石の常磐橋】
 さて、常磐橋という字ですが、写真をみていただけるとわかりますが、石になっています。皿だと壊れやすいので、壊れにくい石にしたという話があります。江戸の人はユーモアがあると思いませんか。
 この橋は、明治10年に、常盤橋門の材料を使って建設された石橋です。



c0187004_1829944.jpg【常盤橋御門の石垣】
 常盤橋門は右折枡形門です。常盤橋側から入ると右に渡櫓門があり、右に折れて進みました。
 大正はじめまで、外郭唯一の枡形門として残っていましたが、 関東大震災で相当の被害を受け、その後修復整備され、現在は常盤橋公園となり、櫓台等の一部の石垣が残っています。
 しかし、外郭門では数少ない当時の石垣が残っている見付跡となっています。 
 
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by wheatbaku | 2010-02-22 06:15 | 三十六見附 | Trackback
二つの大森貝塚碑 (大森③ 江戸の史跡)
 
 大森といえば、大森貝塚がすぐ浮かびます。
 大森貝塚は江戸のものではないのですが、あまりにも有名です。
 また、大森貝塚の碑が二つあります。そこで、今日はその大森貝塚のお話です。

c0187004_11204810.jpg 大森貝塚を発見したのは、アメリカ人の動物学者エドワード・モースです。
 明治10年に、横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝塚を発見し発掘調査を行いました。
 大森貝塚の発掘調査は、日本の近代的考古学の出発となるもので、このことから大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。

【大森貝墟碑】 
 実は、大森貝塚の碑は2つあります。品川区と大田区にあるのです。 一つは、NTTデータ大森山王ビルの敷地内に「大森貝墟」という碑があります。こちらは、大田区にあります。大森駅から 3分です。 
 貝墟碑は昭和5年に建てられたものです。

c0187004_1120667.jpg【大森貝塚遺跡公園】 
 品川区のものは、大森貝塚遺跡庭園の中に「大森貝塚」という碑があります。
 大森貝塚遺跡庭園は遺跡一帯を整備して作られた公園です。
 公園の中には、「大森貝塚」の碑や貝層の見本などがあります。
 こちらも最寄駅は大森駅で北口で下車し徒歩10分ですが、住所は品川区になります。
  

c0187004_11202798.jpg 【大森貝塚碑】 
 左の写真が、「大森貝塚碑」で、大田区側のものより1年早い昭和4年に建てられたものです。

 当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在したのは、モースが論文に発掘場所の詳細を書かず、所在地が荏原郡大森村と記述されたことによるものだそうです。
 そのため、品川区と大田区にそれぞれ別に碑が建てられたとのことです。

【大森貝塚は品川区側説が有力】 
 しかし、発掘調査について土地の所有者が承諾した文書が見つかったので品川区側が有力との説明を同行のH氏がしてくれました。
 帰って調べると、昭和52年に大森貝塚発掘時の「発掘補償金」に関する文書が、東京都公文書館で発見されていて、その住所は大森貝塚遺跡公園近辺であるということがわかりました。

c0187004_11211776.jpg また、その後の再発掘で、貝塚碑周辺では貝層が確認されたものの、貝墟碑周辺では見つからなかったそうです
 右の写真は、大森貝塚遺跡公園の中にある貝層の見本です。確かにしっかりと貝層が見えます。

 こうした理由で、現在ではモースが調査したのは品川区側であったといわれています。
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by wheatbaku | 2010-02-19 06:07 | 江戸の史跡 | Trackback
大井の地名の由来地 (大森② 江戸の史跡)
 今日は大森散策の2回目ですが、「大井」の名前の由来の源となった光福寺の案内です。

 光福寺は大森駅から16~17分の住宅地の中にあります。住所は大田区ではなく品川区大井6-9-17になります。
 このお寺の境内にある泉が大井の地名の由来になっています。

c0187004_13183955.jpg【大井の地名の由来】 
 光福寺は麻布善福寺の中興の祖である了海上人が誕生した地でもあるそうです。
 了海上人が誕生した際に、泉が湧き出し、その泉の名前を「大井」と呼び、それが「大井」の地名にもなっています。
 その泉は光福寺の本堂の裏にある墓地の中に現存しています。
 この泉は、横穴があり、そこから湧き出ていたそうです。説明板には、現在も湧き出ていると書いてありますが、冬のせいか水が湧き出ているようには見えませんでした。
 案内人のOさんによれば、元々は「横」の字を使って「横井(おうい)」と書いたのが、いつしか「大井」になったのではないかということです。
 なるほど説得力のある説だと思って聞きました。

c0187004_131855100.jpg【大イチョウ】 
 本堂の前には、品川区の天然記念物となっている大イチョウがありました。
 幹の回り6.4メートル、高さ約40メートルで、推定の樹齢は約800年とのことです。
 麻布善福寺の「さかさイチョウ」と兄弟との説もあるようです。
 真冬ですので、葉はまったく茂っていません。
 しかし、写真でははっきりしませんが、古木であること示す乳根(にゅうこん)がよくみえました。

 今日は短めの記事でごめんなさい。
 明日は大森貝塚について書きます。
 ピンクが光福寺青が大森駅です。


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by wheatbaku | 2010-02-18 06:25 | 江戸の史跡 | Trackback
磐井神社・鈴ヶ森刑場跡 (大森① 江戸の史跡)

 大森散策はJR大森駅からスタートしました。主な見所を順にご紹介します。
 今日は、磐井神社と鈴ヶ森の刑場跡です。

c0187004_15373861.jpg【磐井神社】
 大森海岸駅からの方が近く3分のところに磐井神社があります。私たちは大森駅から歩いて行きましたが10分程度です。
 磐井神社は、社伝によれば、敏達天皇の2年8月の創祀と伝え、貞観元年官社に列した延喜式内社という古い神社です。
 磐井神社の社名は、「磐井の井戸」と呼ばれる霊水があったことによるものだそうです。


c0187004_1538865.jpg【磐井の井戸】
 その磐井の井戸は、神社の前の、第一京浜国道の歩道に残されています。 
 もとは神社境内にあったそうですが、第一京浜国道の拡幅で境内の一部が削り取られ、今は境内から外れて歩道の端に取り残されることになったそうです。
 この井戸の水は、心正しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となるという伝説があるそうです。


c0187004_15382863.jpg【鈴石】
 鈴石(すずいし)は神功皇后ゆかりの石で、これを打つと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になったそうです。 磐井神社は、別名「鈴ヶ森八幡」と呼ばれていたそうですが、鈴ヶ森の名は鈴石の名に因んだものだと伝えられています。
 社殿右側にある鈴石等の説明板によると、鈴石は屋内(社殿の中という意味か?)に保管されているそうで見ることはできませんでした。


c0187004_15384746.jpg【鈴ヶ森刑場跡】
 こちらが名高い鈴ヶ森の刑場跡です。慶安4年(1651)に開設されています。
 ここでの最初の処刑者は慶安事件の丸橋忠弥であるとされています。
 東海道に面していて、元禄8年(1695)には間口が40間(約74メートル)奥行9間(約16メートル)の規模で、東海道に面している方が広かったようです。
 このように人通りの多い東海道に面して設置したのは、刑罰を公開しすることにより犯罪を抑えようという幕府の考えによるものです。千住の小塚原の刑場が奥州街道近くに設置されていたのも同じ理由です。
 鈴ヶ森の刑場は、明治4年に廃止されています。
 現在は、両脇を道路が通っている狭い場所に案内板等が設置されて、わずかに面影が残っています。
 写真の右側の道路が旧東海道です。
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by wheatbaku | 2010-02-17 05:55 | 江戸の史跡 | Trackback
浅野屋のくずもち (江戸からの和菓子)
 江戸文化歴史検定1級合格者の定例会が、先日の日曜日に、大森・池上本門寺周辺で行われました。
 その様子は別途書こうと思いますが、今日は、池上本門寺散策の中から、「江戸からの和菓子」として、「浅野屋のくずもち」を紹介します。
 
【浅野屋は宝暦2年創業】
 池上本門寺の門前では、「くずもち」が名物で、「くすもち」の名店がいくつかあります。

c0187004_1681715.jpg どこでお土産を買おうか迷いましたら、案内役のOさんが、浅野屋が一番お勧めということでしたので、浅野屋の「くずもち」を買ってきました。

 浅野屋は、東急池上線「池上」駅前にあります。
 創業は宝暦2年(1752)と書いてありましたので、創業以来250年はたっている老舗です。 現当主は11代目だそうです。
 お店はこじんまりしていますが、お客様が大勢いて(そのうち一部は、われわれですが)ゆっくり写真をとる暇もないほどでした。
 
c0187004_1685527.jpg【おいしくてお安いくずもち】
 「くずもち」はお店でも食べられるそうで、お店では450円ですが、時間がないので、お土産として、2人用460円のものを買いました。ボリュームがかなりありお安いとと思いました。一緒に行った人たちもこれを買った人が多かったですね。
 もっちりした餅と甘すぎない黒蜜そして香ばしい黄な粉の組み合わせが良く、「くずもち」があっという間になくなりました。

【関東のくずもち】
 ところで、「くずもち」と呼ばれるものには、関西風と関東風と2種類あります。
 関西のくずもちは、本葛を使用したものです。
 しかし、関東では、池上本門寺のほか、亀戸の船橋屋や川崎大師の門前の「くずもち」が有名ですが、小麦粉デンプンを発酵させて作ったものです。
 ですから、「くずもち」といいいますが、実際は葛は使用していません。
 ただし、食べ方は関西・関東とも同じ様で、きな粉をまぶし黒蜜などで味わいます。
 
 関東以外の地域ではあまり見かけることがないらしいのですが、関東で「くずもち」といえばこちらが主流です。

 

浅野屋 (甘味処 / 池上)
★★★★ 4.0


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by wheatbaku | 2010-02-16 05:47 | 江戸からの和菓子 | Trackback
桶川・板橋 (和宮降嫁③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 京都を10月20日に出発した和宮一行は11月15 日に江戸に入りました。
 今日は、和宮が1月13日に泊まった桶川宿と翌14日に泊まった板橋宿について書きます。 

c0187004_2241878.jpg 桶川旧本陣
 桶川は中山道第6番目の宿場です。ここに文久元年11月13日に和宮が宿泊しています。
 和宮が宿泊した桶川の旧本陣は現在も残っています。
 写真は、中山道から撮った現在の旧本陣の門です。
 門の奥に、旧本陣が残されているそうです。 

c0187004_14564942.jpg【桶川宿旧本陣上段の間】
 旧本陣は埼玉県の有形文化財に指定されていて、和宮が泊まった上段の間も残っています。
 しかし、旧本陣は現在個人の所有となっていますので公開されていません。
 そこで、桶川中山道商店会のHPから上段の間の写真を転載させてもらいました。
 写真でみると8畳程の部屋のように思います。
 上段の間では、毎年秋「桶川本陣・かがり火狂言会」を開催しているそうです。


c0187004_1581869.jpg【桶川市民まつり】
 桶川では、11月3日の市民まつりの際に、和宮行列が行われるようです。
 中山道宿場館という案内所の壁に、昨年の市民祭りのポスターが貼ってありました。
 この写真は桶川市観光協会からの転載ですが、和宮は輿で行列しています。
 実際の行列は輿であったのか駕籠であったのか、はたまた牛車であったのかいろいろ説があるようです。通過する場所や天候によって乗り物は変わったのだとは思います。

 次の日は、桶川を出発した後、上尾・大宮で小休止し、浦和で昼食をとりました。
 さらに、蕨で小休止して、戸田の渡船場を通り、縁切榎をさけるためにつくられた迂回路を通って板橋に入りました。

c0187004_2255152.jpg【縁切榎】
 板橋の板橋宿のはずれ、「縁切榎」(現.板橋区本町)と呼ばれる木が立っていました。
 縁起が悪いということで、和宮下向の際には、縁切榎をさけるための迂回路がつくられています。
そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿 上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
 この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承もありますが、それは、下向の際に出された不浄なものを筵で覆うことを命じた触書の内容が伝わったものと考えられています。

c0187004_2252832.jpg【板橋宿の脇本陣】
 和宮は板橋宿の脇本陣の飯田宇兵衛家に宿泊しました。
 脇本陣の飯田宇兵衛家は、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門に譲っていますが、飯田家の総本家であり、江戸時代を通じて名主、問屋、脇本陣を努めました。
 和宮下向の際には、この飯田宇兵衛家が本陣役を勤め、宿所を提供しています。
 飯田家の屋敷は門構え、玄関つきの建坪190坪という大きなものでした。
 現在は、マンションとなっていて、板橋区教育委員会の説明板と石柱が設置していることがかろうじてその跡であることがわかります。


 翌日は、和宮は風邪気味のため午前11時ごろに本陣を立ち江戸に向かい午後4時ごろに江戸城内の清水邸に着きました。
 清水邸は御三卿の一つで、清水門内にありました。
 現在でいうと、北の丸公園・日本武道館付近にあたります。
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by wheatbaku | 2010-02-15 07:58 | 『幕末』 | Trackback
和宮降嫁 ② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は和宮降嫁の2回目ですが、和宮下向の様子を書きたいと思います。

 和宮の降嫁の行列は、文久元年(1861)10月20日に京都御所北にあった桂宮邸を出発し、中山道を25日間かけて江戸に向かいました。c0187004_1513981.jpg 出発の日は晴天であったそうです。
 孝明天皇は猿が辻の築地の小さな門で和宮の行列を見送ったそうです。
 中山道を利用したのは、東海道は浜名湖の東にある今切関所の「今切れる」や薩埵峠の「去った」という縁起の悪い地を避けたからだという説もあります。
 しかし、宮家や公卿の息女が将軍家に輿入れする際、過去の例ではほとんど中山道を利用しています。
 本当の理由は、東海道は大きな河川が多く、そのの増水による川留めを避けることや桑名から宮までと新居から舞阪までの海路を避けたということのようです。

【和宮降嫁行列の宿泊地】 
 和宮の行列は中山道を25日かけて江戸に到着しました。
 その宿泊場所を挙げると次のようになります。
  10月20日~21日 大津  10月22日     守山
  10月23日    愛知川   10月24日     柏原  
  10月25日     赤坂   10月26日     加納  
  10月27日     太田    10月28日    大久手 
  10月29日    中津川   11月 1日    三留野 
  11月 2日     上松   11月 3日     薮原  
  11月 4日     本山   11月 5日    下諏訪 
  11月 6日     和田   11月 7日     八幡
  11月 8日     沓掛   11月 9日     坂本  
  11月10日     板鼻   11月11日     本庄  
  11月12日     熊谷   11月13日     桶川  
  11月14日     板橋   11月15日   江戸到着

c0187004_19411017.jpg【行列の構成】 
 行列の構成は、2万人とも3万人とも言います。
 多くの本が、京方1万人、江戸方1万5000人が随行したと書いています。
 さらに人足もいますので、行列は相当の人数になったようです。 

 大行列でしたので、行列は次のように4日間にわけて移動しました。
   第1日目 前々日  菊亭中納言、千種中将など
   第2日目 前日   中山大納言 小倉侍従など
   第3日目 当日   和宮、勧行院、橋本中将など
   第4日目 翌日   坊城中納言、岩倉少将など

c0187004_11564926.jpg【和田宿】 
 難所である和田峠は一日がかりで越えました。
 11月5日に和田峠の前の下諏訪に宿泊し、11月6日に和田峠を越えて和田宿に泊まりました。
 和田峠越えの総人数は、京都方は1万人、江戸方は1万5千人、下諏訪宿から和田宿までの沿道警備に高島藩があたり、本山宿から和田宿までの随行警護に上田・高遠藩があたりました。
 写真は、明治期頃と思われる和田宿の様子です。この宿場町を2万5000人以上の人が通行するのですから大変だったろうと思います。
 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています
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by wheatbaku | 2010-02-12 05:44 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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