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日米文化交流 (日米和親条約 ③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約の調印に至る間、日米間の交渉は、単に政治交渉だけが行われた訳ではありませんでした。
 文化交流も行われました。饗応や贈り物を通じた文化交流もかなり盛んに行われました。
 今日は、日米の饗応の様子を書いてみます。

【アメリカ側の饗応】 
 アメリカ側では、3月27日に交渉団を旗艦ポーハタン号の上でパーティーを開催し接待しました。
 牛肉、羊肉、鶏肉の料理が準備され、スープやシチューが用意され、ハムも出され、お酒はワイン、シャンパン、リキュールなどが出されたようです。

 「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
 また、右の写真のように日本側を招待しての黒船艦上での接待の図も掲載されています。(下田「了仙寺」蔵)
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 甲板の日本人一行は、各艦船から集まった大勢の士官に歓待され、シャンペン酒、マディラ酒、パンチを浴びるほど振舞われて、すっかりにぎやかになった。彼らはこれらの酒が大いに気に入ったようだった。日本人たちは率先して健康を祝う乾杯の音頭をとり、斗酒なお辞せず飲み干した。彼らの張り上げる声のかたたましさたるや、勇壮で軽快な曲を奏で続けて宴を盛り上げている軍楽隊の音楽もかき消してしまうほどだった。要するに、それはいぎやかな歓楽の光景であり、お客に大いに楽しんでもらえたということだ。

 非常ににぎやかに宴会が進み、交渉団が大いに楽しんだ様子がよくわかります。
 どうやらドンチャン騒ぎになったような気もします。 
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 最後には、日本人はご馳走の残り物をふところにいれて持って帰り、酔っ払ってペリーに抱きついた人もいたことも記録されています。

【日本側の饗応】 
 これに対して、日本側は、刺身、焼き魚、野菜の煮物、ご飯、吸い物といった純和風料理で接待したそうで、そのレベルは、将軍が食べる料理のレベルだったようです。
 それを今忠実に再現すると一人当たり30万円以上はかかるような御馳走だったそうです。

 右写真は、天狗のような容貌から「天狗ペリー」と呼ばれているペリー像です。(下田「了仙寺」蔵)
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by wheatbaku | 2010-03-30 05:49 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約② (江戸検定今年のお題「幕末」)
 日米和親条約について今日も書いていきたいと思います。
 ペリーと日本全権交渉団の交渉が1ヶ月間にわたり行われた後、日米和親条約は嘉永7年(1854)3月3日に調印されました。

【和親条約の内容】  
c0187004_816368.jpg 日米和親条約は、全体で12条からなっています。
 その主な内容は
 ①下田と函館への寄港を認める。
 ②船員と漂流民を保護する。
 ③下田に領事の駐在を認める。
 ④治外法権を認める。
 ⑤最恵国待遇を認める 
というもので、不平等条約でした。
 
 右写真は、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号です。「下田了仙寺蔵」


【日米和親条約は、4ヶ国語で書かれている】 
c0187004_8162333.jpg 日米和親条約の原本は日本では焼失してしまっていますが、アメリカ側の原本は、ワシントンの国立公文書館に残っているそうです。
 それによると、条約文書は、日本語、英語、オランダ語、中国語で書かれている4種類のものがあるそうです。
 そして、英語の文書には、ペリーだけのサインで、林大学頭の署名はなく、日本語の文書には、林大学頭の署名だけで、ペリーのサインはないそうです。
 それは、林大学頭が、外国語で書かれたものには署名できないと頑強に主張したため英語の文書に林大学頭の署名はないんだそうです。

 このことについて、ペリー艦隊日本遠征記においても、次のように書かれています。
 1854年3月31日、金曜日、提督はいつもの随員を伴って条約館に赴き、到着するやさっそく英語で書かれた条約の写し3通に署名し、それを合衆国の通訳ウィリアムズ氏とポートマン氏が認証したオランダ語、中国語の訳文の写し3通とともに、委員たちに手交した。同時に日本委員は、同国政府を代表して、それぞれ日本語、中国語、オランダ語で書いた条約の写し3通を提督に手交した。そこには皇帝がそのためにとくに選んだ4人の委員の署名が入っていた。
 (日本側が署名をして渡した条約の写しに英語のものが入っていないとことに注目してください)
 上の写真は西郷隆盛に似ているところから「西郷ペリー」と呼ばれているペリー像です。「下田了仙寺蔵」

 【和親条約の全条文】 
 さて、最後に、江戸文化歴史検定1級を受験しようとしている人など関心のある方のために、日米和親条約の全条文を、万来舎の「ペリー艦隊日本遠征記」から記載しておきます。
 時間のある時にお読みください。
 
 次にあげるのが承認された条約である。
 アメリカ合衆国と日本帝国とは、両国民間に確固として永続する誠実な親睦を確立することを願い、条約または一般的な和親協約をもって、今後両国が交際する際に相互に守るべき規定を明確に定めることを決定した。このきわめて望ましい目的のため、合衆国大統領は、その委員として遣日特命大使マシュー・カルブレイス・ペリーに全権を与え、日本の偉大なる君主は、その委員として林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔に同じく全権を与えた。
 また、上記の委員らは、その全権を取り交わし、適切に前述の諸事項を考究したのち、次の諸事項を取り決めた。

第1条 アメリカ合衆国と日本帝国、および両国民の間には、人格または場所の例外なく、完全かつ永久なる普遍的平和と誠実かつ懇篤なる和親とが存するものとする。
第2条 伊豆国の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し、箱館港は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。
ただし、提供すべき物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする。
第3条 合衆国の船舶が日本の沿岸において座礁または難破した場合、日本船はその船舶を救援し、その乗組員を下田または箱館に護送し、身柄の受け取りに任じられた同国人に引き渡すものとする。同様に避難者の所有する物品はすべて返還されるものとし、両国いずれかの海岸に打ち上げられたアメリカ人および日本人の救助と扶養の際に生じた出費は弁済するには及ばない。
第4条 合衆国の遭難者およびその他の市民は、他の国におけると同様自由であり、監禁されてはならないが、公正な法律には従うものとする。
第5条 下田および箱館に一時的に居留する合衆国の遭難者および他の市民は、長崎におけるオランダ人および中国人のように拘束および監禁に服することなく、ここに添付された付図に描かれている、下田港内の一小島より日本里程で7マイル(里)の範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。同様に箱館においても、合衆国艦隊が同地を訪問したのちに定められる範囲内では、随意の場所に赴く自由を有するものとする。
第6条 ほかに必要とする物品、または取り決めを要するなんらかの業務があれば、その事項を決定するため、両当事国間で慎重に審議するものとする。
第7条 開港された港に寄港する合衆国の船舶は、金、銀貨および物品と他の物品との交換を、日本政府がこの目的のために暫定的に定めた規則に従い行うことができる。ただし、合衆国の船舶は、日本人が交換を欲しない物品はすべて持ち帰ることができるものとする。
第8条 薪水、食料、石炭および必要な物品は、この目的のために任命された日本役人の周旋によってのみ調達することとし、他の方法によってはならない。
第9条 他日、日本政府がこの条約において合衆国およびその市民に許容していない特権と便益を、他の一国民または諸国民に許容する場合には、なんらの協議も遅滞もなく、合衆国およびその市民にも同じ特権および便益を許容することを取り決める。
第10条 遭難した場合、または荒天に強いられた場合を除き、合衆国の船舶が下田および箱館以外の日本の港に渡来することを許可しないこととする。
第11条 もし両国政府のいずれかが、その取り決めを必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヶ月を経たのちに、合衆国政府はいつでも下田に駐在する領事または代理官を任命することができる。
第12条 この約定を取り決め、しかるべく調印されたうえは、アメリカ合衆国および日本、ならびに両国の市民および臣民は義務として、忠実にそれを遵守するものとする。また上院の協議と同意を得たうえは、合衆国大統領によって批准認可され、また日本の尊厳なる主権者によって批准認可されるものとする。その批准は調印の日より18ヶ月以内、または可能ならばさらに早期に交換されるものとする。

 主イエス・キリストの1854年3月31日、嘉永7年3月3日、神奈川にて。
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by wheatbaku | 2010-03-29 06:20 | 『幕末』 | Trackback
日米和親条約 (江戸検定今年のお題「幕末」)
 嘉永7年(1754)3月28日に、吉田松陰が密航しようと黒船に乗り込んだものの失敗した事件が起きました。
 そこで、この話を中心に幕末の記事について書きますが、吉田松陰の密航事件のまえに、嘉永7年(1854)3月3日に日米和親条約が締結されましたので、日米和親条約の話を先にします。
 嘉永7年(1854)1月16日に再来航したペリーとは、約1ヵ月後の安政元年2月10日に条約交渉が始まりました。
c0187004_153736.jpg【交渉団のメンバー】
 日本側の委員は、林大学頭(林復斎)が交渉団の筆頭、そして北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘いどさとひろ)、浦賀奉行の伊沢美作守(伊沢政義)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭うどのながとし)、そして儒者の松崎満太郎でした。
 そして通訳として森山栄之助、堀達之助というオランダ通詞が参加しました。
 アメリカ側の交渉団は、ペリー提督が全権 アダムズ参謀長、中国語通訳のウィリアムス、オランダ語通訳のポートマン、さらに秘書でペリー提督の息子のO・H・ぺりーでした。
左の写真はペリー艦隊の従軍画家ハイネによるペリーの肖像画です。最も本物に近いペリー像と言われているそうです。下田の了仙寺さんの所蔵です。


【「ペリー艦隊日本遠征記」に書かれた人物像】
 日本側の委員たちについて、「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
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 林大学頭が首席委員であることは間違いなかった。重要事項はすべて彼に委託されたからである。この人物は55歳くらいで、立派な風采をそなえ、やさしげな容貌ときわめて丁重な物腰とは裏腹に顔の表情は重々しくむしろむっつりしていた。

 井戸対馬守はおよそ50歳くらいの、太った背の高い人物だった。彼は年長者の林にくらべれば、多少は快活な表情をしていた。

 三番目のいちばん若い諸侯が伊沢美作守で、40歳さほど超えていないようで、3人のうちでとびぬけて美男だった。彼はまったく陽気な人物で、冗談やお祭り騒ぎが好きで、道楽者との評判だった。

 鵜殿は、(中略)背が高くまずますの容貌だが、顔立ちがきわめて特徴的で、いかにもモンゴル系らしかった。
 松崎満太郎についても書かれてありますが略します。

【複雑な通訳手順】
 この交渉団では、日本語から英語、英語から日本語に通訳できる人は一人もいませんでした。
 そのため、ペリーの要求は、英語からオランダ語に訳され、ポートマンが日本側に伝えます。
 それを聞いた日本側のオランダ通詞が日本語に約して、林大学頭に伝えます。
 そして、林大学頭の回答は、また逆の手順を通ってペリーに伝えられるという非常に厄介な手順をとらざるを得ませんでした。

【ジョン万次郎交渉団に参加できず】
  実は、日本には英語が理解できる人がいました。有名なジョン万次郎です。ジョン万次郎が通訳に参加していれば、こんな複雑な手順は不要でした。
 しかし、水戸斉昭が、万次郎はアメリカから恩を受けているので寝返る可能性があるから交渉団に参加させないほうがよいと言う意見を具申したため、ジョン万次郎は交渉団に参加できませんでした。
 万次郎にとっては大変残念だたのではないでしょうか!
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by wheatbaku | 2010-03-26 06:16 | 『幕末』 | Trackback
浅草寺の由来② (浅草寺③ お寺めぐり)
 昨日に続いて、浅草寺の歴史について書いていきます。

【源氏の帰依】
 平安時代末期の頃、源義朝が浅草寺に帰依し、承暦3年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納しました。
 この像が現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれているそうです。

c0187004_15394645.jpg 源頼朝は治承4年(1180)伊豆で兵をあげます。しかし、敗れて安房に逃れ、千葉常胤らの協力を得て隅田川を渡り、待乳山あたりに本陣をかまえて兵団を編成しました。
 浅草は、多くの軍兵で満ち、やがて頼朝は平氏討滅を浅草寺に祈願し、大軍を引きいて西へ進発していきました。

【「吾妻鏡」に初めて出る】
 鎌倉幕府が開設された後、治承5年(1181)に鶴岡八幡宮造営のため浅草の宮大工を召し出したと「吾妻鏡」にあるのが文献上確認できる浅草寺の記述だそうです。
 また建久3年(1192)には、後白河法皇の49日法要を鎌倉で営むにあたり、浅草寺の高僧3人を招いたと記されているそうです。

 室町時代には、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建されました。
 戦国時代の天文8年(1539)には、小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって堂塔が再建されています。

【徳川幕府が保護】
 そして、天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられました。
 慶長5年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たのでした。
 c0187004_15365923.jpgそこで、徳川家康は、浅草寺を徳川家の祈願所と定め厚く保護しました。
 家康死去の年の元和2年(1616)には持仏の聖観音像が浅草寺に寄進されています。
 2代将軍秀忠は元和4年に浅草寺境内に東照宮を建立しました。
 今の影向堂あたりで、池にかかる石橋は日光東照宮の神橋になぞらえて、浅野長晟が寄進したものです。
 右の写真が石橋です。

 c0187004_15372851.jpg浅草寺は、寛永8年(1631)、同19年(1642)に相次いで焼失しましたが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。
いく度もの火災を逃れることのできた本堂と五重塔も昭和20年の戦災で焼け落ちてしまい、現在の本堂は昭和33年に五重塔は昭和48年に再建されました。


 浅草神社(上記写真)も慶安2年に、家光によって再建されました。
 現存する本殿、弊殿、拝殿は、家光が再建したもので、国の指定重要文化財に指定されています。

 以上が江戸時代までの浅草寺の歴史のあらましです。
 こうした歴史を見てみると浅草寺のすごさを改めて感じさせられます。
 
 一番上の写真は、幕末・明治期の浅草寺の写真でベアトが撮ったものです。現在の五重塔は宝蔵門の西側にありますが、幕末期には、五重塔がが仁王門の東側にあるのがよくわかります。
 この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
 長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています。
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by wheatbaku | 2010-03-24 05:53 | お寺めぐり | Trackback
浅草寺の由来① (浅草寺② お寺めぐり)
 3月18日の浅草寺「金龍の舞」は浅草寺の縁起に由来しているということでしたので、浅草寺の歴史を見ていきたいと思います。

 浅草寺は約1400年の歴史があるという大変古いお寺です。

c0187004_18195379.jpg【本尊の示現は628年】
 浅草寺の起源は、飛鳥時代の推古天皇36年(628)と言われています。
 この年の3月18日の朝、檜前(ひのくま)浜成・武成(はまなり・たけなり)兄弟が隅田川で漁をしていると、投げ網の中に小さな仏像がかかりました。
 「これは尊い物に違いない」と兄弟は漁をやめて、陸へ上がりました。その地点が、今の駒形です。
 ここで郷司(村長)の土師中知(はじのなかとも)と出会います。土師中知は、仏像を一見して観世音菩薩像であることを知り、直ちに岸辺に安置して拝みました。
 駒形堂(上写真は現在のもの)はこの縁起により建立されたものです。雷門も最初のころは、駒形あたりにありました。
 その後、土師中知は自宅を寺に改造して、観音像をまつって礼拝供養の生涯を送ったそうです。

c0187004_18205256.jpg【浅草神社は浜成・武成・中知を祀る】
 浅草寺の隣に建つ浅草神社の祭神は、観音像を拾い上げた檜前浜成・武成兄弟とそれを最初に祀った土師中知の三者です。
 三社祭は、昔は観音が示現した3月18日でしたが、明治5年から5月に変更されました。

 大化元年(645)に巡錫中の勝海上人が観音堂を大きく建て替えて、夢告により本尊を秘仏と定めました。
 大化元年という年は、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が滅ぼされ、大化の改新が行われた年です。すごい歴史がありますね。

c0187004_1822433.jpg【慈覚大師が中興開山】 
 平安時代初期には、慈覚大師円仁が浅草に来山し、秘仏のご本尊を模して、お前立(まえだち)のご本尊をつくりました。
 お前立ちとは秘仏の代わりに人々が拝むための像のことを言います。

 慈覚大師は3世比叡山天台座主で、浅草寺では中興開山とされています。なお、浅草寺の開基は勝海上人です。

【伽藍を整備したのは平公雅】
 浅草寺の伽藍を再建したのは天慶5年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)と言われています。
 天慶5年といえば、平将門の「天慶の乱」が終息した2年後です。
 平氏の一族の平公雅は、乱の当時は安房守でしたが、将門の側につかず、政府軍に与して将門撃滅に功がありました。これにより藤原秀郷の後に武蔵守に昇進しました。
 平公雅は、かねて浅草寺に参詣し、「われ、武蔵の太守となりければ、本堂および宝塔、鐘楼、楼門、経蔵ことごとく建立し、田園数百町を寄進して長く聖観音を崇拝するだろうと祈願していたそうです。
 それが成就したので伽藍を再建しました。
 ところで、平公雅(たいらのきんまさ)ですが、日本史ではあまり有名ではないかもしれません。平将門の従兄弟になります。

 これ以降の歴史は明日書きます。
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by wheatbaku | 2010-03-23 06:09 | お寺めぐり | Trackback
金龍の舞 (浅草寺 お寺めぐり)
 3月18日は浅草寺のご本尊「聖観世音菩薩」さまが示現した日です。
 この日に、浅草寺においては 「金龍の舞」が演じられます。
 ホテルニューオータニさんの「花の大江戸散歩『江戸のお花見名所めぐり~墨堤・浅草』」のがイドが4月4日に控えているので、浅草寺で「金龍の舞」を観て来ました。

c0187004_15164973.jpg【観音さま示現にちなむ舞】
 「金龍の舞」は、昭和33年(1958)、本堂再建を記念して創始奉納されたものです。
 浅草寺の山号「金龍山」から名をとったこの舞は、『浅草寺縁起』に、観音示現の時「寺辺に天空から「金龍」が舞い降り、一夜にして千株の松林ができた(現世利益ともなる五穀豊穣の象徴)」とあることから創作されたものだそうです。
  当日は、午前11時、午後2時、午後3時と三回演じられました。
  午後2時の部では、「金龍」は、伝法院で出番を待っていました。
  午後1時40分に、伝法院前を出発し境内を練ります。

c0187004_15131813.jpg【貫首(かんす)の練り行列】
 「金龍」に先立ち、伝法院から参道の仲見世を通り本堂まで、浅草寺の貫首(かんす)をはじめ一山住職総出による練行列が行われます。
 傘の下を歩いていらっしゃるのが、浅草寺の清水谷 孝尚(しみずたに こうしょう)貫首です。
 威厳のあるなかにも優しさが感じられるお姿でした。


c0187004_15151715.jpg【仲見世を練り歩く金龍】
 伝法院を出て、仲見世を「金龍」が練り歩きます。
 「金龍」は長さ約18メートル、重さ約88キロあるそうです。
 これを8人が操るそうですので、一人あたり11キロになります。
 この重さの龍を練るのは大変だと思います。


c0187004_15153339.jpg【宝蔵門を抜ける金龍】
 宝蔵門の真ん中を、金龍が通っていきます。
 宝蔵門には、いつもは「小舟町(こぶなちょう)」寄進の大提燈が掲げられていますが、今日は、半分ほどたたまれていて、その下を「金龍」が通り抜けていきます。


c0187004_15155161.jpg【本堂前での2匹の龍の競演】 
 現在、本堂(観音堂)は修復中です。
 本堂にかかる囲いシートには、山本寛斎がプロデュースした大きな龍の絵が描かれています。
 その前を「金龍」が練り歩きました。
 2匹の龍の競演です。


c0187004_15161652.jpg【五重塔の前で金龍の舞】
 境内を練り歩いた後に、五重塔の前で、「金龍の舞」が披露されます。
 午後2時にちょうど始まりました。
 浅草組合花組のお囃子の中、勇壮華麗な舞が行われます。
 大勢の人が観ていました。
  日本人だけでなく、アメリカ人、オーストリア人、中国人、韓国の人など外国の人も「金龍の舞」を観ていました。
 浅草が国際的な観光地であることを実感しました。

c0187004_23165319.jpg【浅草組合花組のお姐さん方】
 「金龍の舞」のお囃子をするのは浅草芸者の浅草組合花組のお姐さん方です。
 「金龍」の後ろを山車に乗って移動します。
 この写真は、宝蔵門を通っているところを撮りました。
 「金龍の舞」の時も、この山車の上でお囃子を奏でていました。
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by wheatbaku | 2010-03-21 02:30 | お寺めぐり | Trackback
御府内八十八ヶ所巡り 沼袋②
 今日は昨日に続いて、御府内八十八ヶ所の沼袋のもう1ヶ寺「密蔵院」を巡ります。

  禅定院のご住職に密蔵院までの近道を教えていただいたので、3分で到着しました。

41番 密蔵院(みつぞういん)

c0187004_20263396.jpg【冠木門がお出迎え】 
  密蔵院は、禅定院の真北にあります。
 目の前は百観音公園となっていて、公園に面して、お寺には珍しい冠木門が建っています。
 密蔵院は、創建時期ははっきりしないそうですが、戦国時代、小田原城内に創建され、北条氏直の祈願寺だったそうです。
 慶長16年(1611)江戸の矢ノ倉(現在東日本橋1丁目)に移り、さらに正保元年(1644)浅草の新寺町に移転しました。そして、明治43年(1910)現在地に移転したそうです。

【開放的な本堂】 
 関東大震災では本堂ほかの建物が全焼し、その後、壇信徒の協力により再建されましたが、第二次大戦の戦災により再び焼失し、昭和25年(1950)現在地に本堂が再建されました。
 その本堂は開放的で、本堂に昇って読経できました。
  ご朱印をお願いしたら、ご住職が「南無大師遍照金剛」と御法号をお唱えしていただいた後に渡してくれました。
c0187004_20265821.jpg
 密蔵院の宗派は御室派ですので、大変珍しいですねとご住職に尋ねると、東京では湯島の圓満寺(御府内八十八ヶ所の32番札所です)とともに2ヶ寺だけだそうです。
 また、ご住職の話によると、東京には江戸時代には御室派の寺院はたくさんあったそうですが、多くの寺院が豊山派に転じたそうです。
 また、醍醐派の寺院は智山派に転じたところが多く、これを称して、「豊山は御室、智山は醍醐」というとのことでした。

【ご本尊は勝軍地蔵】 
 密蔵院のご本尊は勝軍地蔵菩薩です。
 勝軍地蔵菩薩とは、地蔵菩薩の一で、これに念ずれば、戦いに勝つといわれ、鎌倉時代以降特に戦国時代に武家に信仰されたお地蔵様です。
 密蔵院の勝軍地蔵菩薩は甲冑を着て、馬に乗っていました。残念ながら写真撮影は遠慮しました。
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by wheatbaku | 2010-03-19 05:56 | 御府内八十八ヶ所 | Trackback
御府内八十八ヶ所巡り 沼袋①
 最近、知人から「御府内八十八ヶ所」は最近はお参りしていますかと質問がありました。
 そういえば、他用で忙しく、お参りできていませんでしたので、久しぶりに 『御府内八十八ヶ所巡り』 に行ってきました。
 今回は、西武新宿線の沼袋駅近くの2ヶ寺 『禅定院』『密蔵院』 を回ってきました。

48番 禅定院(ぜんじょういん) 

c0187004_20234472.jpg【江戸時代の山門】
 禅定院は、西武新宿線「沼袋」駅北口から徒歩3分のところにあります。
 商店街を歩いていくと、山門が正面に見えてきます。
 この山門は、天明元年(1781)に造られた山門だそうです。
 禅定院は戦災でほとんどの建物が焼失しましたが、この山門だけは焼失を免れたそうです。


c0187004_20241779.jpg【南北朝時代の創建】
 禅定院は南北朝時代の中期、貞治元年(1362)の開創と伝えられる寺院です。
 草創期のご本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)であり、「瑠璃光山(るりこうざん)」という山号と「薬王寺」という寺号はこのことに由来してとのことです。
 現在のご本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像だそうです。
 本堂の前でお参りしました。
 本堂は、戦災で焼失した後、昭和44年に再建されたものです。

c0187004_20245929.jpg【牡丹園】
 境内はよく整備されていて牡丹が植えられていました。
 まだ、新芽もでていませんでしたが、初夏のころは非常に見事なものになるものと思います。
 見頃の様子が禅定院のHPに載っていました。盛りにはこのように見事なものになるようです。

c0187004_20251777.jpg【銀杏の巨木】
 山門を入ったところに大きな銀杏の木がありました。遠くから見ても大きな木なのでよく目立ちます。
 樹齢600年を超えるそうです。
 江古田の東福寺の銀杏と夫婦銀杏と呼ばれているそうです。

 ご住職は大変気さくな方で、お出かけ前のお忙しいのにもかかわらず、御朱印を丁寧に書いてくださいました。
 そして、タクシーが待っているのにもかかわらず、次の密蔵院までの道順を丁寧に教えてくださいました。
 大変ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2010-03-18 06:22 | 御府内八十八ヶ所 | Trackback
井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)

 「井伊直弼と桜田門外の変」の最後に、井伊直弼ついての評価が書かれた文を紹介して、このシリーズを終わります。
 本からの紹介ですので、ちょっと読むのが大変かもしれませんがお付き合いください。

 まず、最初は、江戸文化・風俗の研究家として有名な三田村鳶魚の「井伊大老の家族」の中から紹介します。
c0187004_14333498.jpg これは中公文庫の「鳶魚江戸文庫16 大名生活の内秘」の中に載っています。

【水戸・彦根両側からみる必要がある】
 「(井伊直弼については)今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説にする。それと反対の資料、反対の解説を聴いたら、何となる。また、両端を叩けばどんな音がするか、何人も考慮したほうがよい

 と書いて、後段に次のようなエピソードを紹介しています。

「質素な生活を忘れられない中将(井伊直弼)は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味噌を拵(こしら)えることがあった。それへ『御礼之儀は申上置候』という書付を添えて、度々臣下に与えられた。
 いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉でもあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない。ここを察して、御礼済の書付を添えて下さる。それで別段お礼に出なくても済んだ。
 一通(側近の三井孫太夫のこと)はお手製の柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大カボチャを、縄からげで奥へ提(ささ)げ込み、手作りのカボチャというので献上した。
 中将はすぐに『八朔や もろたかぼちゃの 礼をさき』と書いて与えられた。式日の御礼口上よりも先へ、この方からカボチャの礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも気軽な様子がよく現われている。
 こうしたこぼれ話によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、豪も鋭いところがなかったのが知れよう。」


 最後に、東京大学名誉教授小西四郎氏の井伊直弼評を書いておきます。
 小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19  開国と攘夷」の中で、次のように述べています。

c0187004_15371636.jpg 【吉田松陰斬首が悪評の原因】
 「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。

 あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。
 しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。

 遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。勤皇志士の弾圧も同様である。
 とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。
 その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。

 わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。

 最後までお読みいいただきありがとうございました。
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by wheatbaku | 2010-03-17 06:19 | 『幕末』 | Trackback
直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 12回にわたり、「井伊直弼」および「桜田門外の変」について書いてきましたが、 今日は、「井伊直弼は襲撃されることを事前に承知していて、襲われることを覚悟していた」という話をしたいと思います。

c0187004_21211977.jpg【友人の忠告を無視】 
 井伊直弼は、桜田門外で非業の死を遂げましたが、意外に知られていませんが、その死は直弼自身があらかじめ覚悟していたものだったとも考えられています。
 井伊直弼は。事件の数日前、友人の矢田藩主松平信和(のぶやす)を始めとした何人かから忠告を受けていたのです。
 信和(のぶやす)の意見は、水戸を脱藩した浪士たちの不穏な動きを警戒しなければならない。事態が落ち着くまで大老を辞してはどうかというものでした。
c0187004_2114155.jpg  これに対して直弼は、国家の危機の一身の保全を図る事などできないとし、その友情に感謝の意を示しつつ申し出を断っています。
 それでもなお彼の身を案じる信和は身辺の警護を厚くするように強く薦めました。
 しかし直弼はこの進言すら受け入れなかったそうです。
 諸侯の従士の数は幕府により定められているもので、大老の自分がそれを破ることはできないというのです。
直弼は自分の身よりもあくまでも幕府の権威を再度確立させることを第一に考えていたからです。

 左上の写真は、井伊家の菩提寺である世田谷豪徳寺の山門です。ここに直弼もねむっています。


c0187004_2194410.jpg【襲撃の投げ文も無視】 
  3月3日の事件当日、直弼が屋敷を出た直後に、側役の宇津木左近が直弼の部屋で封の切られた書を発見しています。
 この日の早朝に何者かが投じたもので、密かに覗き見ると、水戸浪士に注意するよう忠告した封書でした。
 直弼は書を読み自らの危険を知りながら誰にも知らせることなく出発した後でした。
 宇津木はびっくり仰天し同僚に告げ、対策を講じようとした矢先に飛び込んできたのが直弼遭難の知らせでした。
 井伊直弼は、投げ込まれた投書を確実に見ていたに違いありませんが、側近にも告げず、屋敷を出発したのでした。
 井伊直弼、覚悟のうえでの遭難であったのだろうと言われています。

  以上のことは余り知られていませんが、これが事実であれば、井伊直弼に対する見方も変わっていいように思います。

 右上の写真は井伊家上屋敷表門外西にあった「桜の井」の跡です。井伊直弼もこの脇を通り登城していました。
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by wheatbaku | 2010-03-16 06:17 | 『幕末』 | Trackback
  

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