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デジカメ教室のツアーガイド (大江戸散歩)
 先週の土曜日、 小学館アカデミー主催の「『サライ』カメラマンと撮る幕末~明治 日帰りデジカメツアー」 が開催され、ツアーガイドとして幕末のガイドをおこなってきました。

c0187004_17404642.jpg デジカメの撮影教室の場所は、午前中に旧岩崎邸庭園、午後が桜田門でした。
 その目的地に向かうバス車中で、幕末を中心として史跡の案内を行うというのが私たちの仕事でした。
 東京駅前の鍛冶橋駐車場をスタートし、江戸城を一周し、桜田門→半蔵門→乾門→平川門→大手門を紹介しました。
 その後、本郷通りを北上し、将門塚→神田橋→ニコライ堂→神田明神→旧岩崎邸庭園とご案内しました。

c0187004_17384336.jpg【旧岩崎邸での撮影教室】
 旧岩崎邸庭園で、早速、撮影教室が開催され、講師による撮影指導が行われました。
 お客様はデジタルカメラ撮影教室の受講者の皆さんで、日ごろは教室内でデジカメの撮影の勉強しているので、野外での撮影教室を楽しみにしていた方も多く、非常に熱心にお話を聞いていました。
 右の写真は、西洋館の前で先生の話を聞かれる参加者の皆さんの様子です。

c0187004_17391864.jpg【枝越しにみる和館】
 私も、ここでは、参加者として教室に参加させてもらいました。
 ここで、指導いただいたのは、手前に葉や枝を入れて、遠景を撮影するテクニックなどでした。
 これは、そうしたテクニックで旧岩崎邸の和館を撮ったものです。


 帰りは、上野公園→御徒町→玄武館道場跡→小伝馬町牢屋敷跡→金座跡を通り、東京国際フォーラムまで案内しました。

c0187004_17393819.jpg【「龍馬御膳」】
 お昼は、江戸時代には土佐藩上屋敷であった東京国際フォーラムの中にあるレストラン「宝」の「龍馬御膳」でした。
 土佐に関係する食材を利用したもので、かつおの塩たたきやかつおのコロッケなどがありました。
 味も素晴らしいうえにボリュームも満点で、大満足でした。
 参加者の皆さんも大喜びでした。
 食事の合間に、「初がつおの話」や「江戸時代にも鳥肉や牛肉を食べていた話」など、江戸の食材のお話をさせてもらいました。

【午後は桜田門で指導】
 午後の部は、桜田門での「サライ」のカメラマンによる撮影教室です。
 皇居外苑を、楠木正成の銅像→二重橋→桜田門と散策しながら直接指導を受けました。
 プロの先生の指導を受けられるので、参加者の人たちも、風景をカメラに収めた後、熱心に個別指導を受けていました。
 指導を受けるための行列ができるほどでした。
 
 私も指導をしてもらいました。その成果を3枚ほど紹介します。
 まず、最上部上の写真は、先生の指導を受けて、桜田門の高麗門を撮ったものです。

c0187004_1740140.jpg【二重橋】
  これは、皇居の定番撮影場所の二重橋です。
 カメラマンの先生の「水面と手前の柳とを入れて、風と水の感じられる二重橋を撮ろう」というテーマに沿った写真です。
 定番となっている二重橋の写真とは違う趣の写真になったような気がします。

c0187004_17402770.jpg【桜田門の壺金・肘金】
 桜田門では、まず最初に「桜田門は300年以上の歴史を持っていますが、それが感じられるものを撮りましょう」というテーマを先生が出されました。
 そのテーマに沿うように各自が撮影して、先生に指導してもらいました。
 この写真は、その際に撮影したものです。
 櫓門の壺金と肘金を撮影したものです。上の部分を壺金といい、下部を肘金と言います。
 この二つで門の扉を支えます。先生にお褒めの言葉をいただいきました。

 参加者の皆さんは、それぞれの教室で顔なじみの人もかなりいるようで、なごやかな雰囲気のツアーでした。
 旧岩崎邸庭園と桜田門でのデジカメ教室では、皆さん、講師の先生に熱心に指導をお願いしていましたので、時間が足りないほどでした。

 江戸のお話は、わかりやすいガイドを心がけて行いましたが、多くの方に、江戸のことに興味をもっていただいたようです。そして、江戸文化歴史検定に挑戦してみようといってくれる方もいらっしゃいました。 楽しい一日でした。
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by wheatbaku | 2010-05-31 05:24 | 大江戸散歩 | Trackback
上野の攻防(上野戦争③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、いよいよ 上野での新政府軍と彰義隊の攻防 です。

 彰義隊討伐の準備が整い江戸城に終結した約2000の新政府軍(東征軍)は、5月15日早朝、江戸城大下馬(二重橋)から出陣しました。
 一方、彰義隊は、3000人といわれていましたが、この日に上野の山にいたのは1000人程だったと言われています。

【彰義隊攻撃の布陣】 
 大村益次郎は、上野を正面の黒門口、側面の団子坂方面、西側の本郷台の三方向から攻撃する戦術をとりました。
 主攻撃部隊となる黒門口攻撃担当は薩摩・熊本・鳥取の各藩です。
 団子坂方面は長州・大村・佐土原の各藩が担当です。
 本郷台には、佐賀、津・岡山藩が布陣しました。佐賀藩は最新のアームストロング砲を持っていました。
 このほか、江戸市中の一橋、水道橋、吾妻橋、千住大橋、さらには武蔵の戸田・忍・川越、下総の古河方面にも兵を派遣しました。
 このように、上野を包囲した布陣を敷きましたが、東側の根岸・日暮里には、兵をまったく配置しませんでした。あえて逃げ道をつくっておいたのです。

【午前中は一進一退】 
 湯島天神を経由して広小路に到着した黒門攻撃隊の薩摩・熊本・鳥取藩兵は、午前7時過ぎに、黒門口で早速攻撃を開始します
c0187004_2264115.jpg  彰義隊は黒門から出て忍川に掛かる三橋(みつはし 現在の下町風俗資料館付近)に畳と俵を積んだ程度の陣地を設けていましたが、この簡易陣地に新政府軍は攻撃を開始します。
 この簡易陣地は、あっけなく破れ、残存兵は黒門内に逃げ込みます。
 そして、彰義隊は上野山内の山王台(現在西郷銅像があるあたり)に砲台を築き、ここから黒門を攻撃する新政府軍に砲撃を開始します。広小路と御徒町通りから黒門に進軍した新政府軍は、この山王台からの砲撃と黒門内からの銃撃に阻まれ、中々黒門に迫れないでいました。
 
 一方、長州藩などの側面攻撃隊は谷中門を目指しました。
 藍染川が氾濫していたため思うように進めませんでした。
 しかも、長州藩兵はこの戦いに先立ち新鋭銃のスナイドル銃が配布されていましたが、、長州藩兵はこのスナイドル銃を配備されても十分な訓練を受けていなかった為、この高性能銃の扱いに慣れていず、この戦闘中に一旦後退してスナイドル銃の訓練を行うという失態を演じます。

 こうして、午前中は、一進一退の攻防が続き、勝敗は行方はわかりませんでした。

 ☆右の写真は、三ノ輪にある円通時に現存する寛永寺の黒門です。

【黒門口突破】 
 黒門口攻撃が進まずにいる時に、熊本藩兵と鳥取藩兵は広小路を横断し御徒町通りに移動、この御徒町通りを北上し、黒門口を正面から攻撃する薩摩藩兵を援護する為、山王台に向けて、料理屋の2階から、砲撃をおこない、彰義隊の砲撃を遮断しました。
c0187004_2271859.jpg  一方、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲による砲撃を行っていましたが、その砲弾が上野の山内の諸堂に命中するようになりました。
 こうした状況の中で、正午頃、西郷は、突撃許可を求めてきた篠原国幹に突撃を命じます。
 黒門内からは彰義隊が激しく銃撃をするのにも関わらず、薩摩藩兵は黒門に突撃し、遂に黒門を突破します。
 この戦いのなかで、山岡鉄舟と駿府に行った益満休之助は戦死しました。
 
 ☆円通時に残る黒門には銃弾の跡がくっきりと残っています。

c0187004_22185883.jpg【大村益次郎、富士見櫓から指揮】 
 一方のこの作戦を指揮した大村ですが、彼は佐賀藩砲兵隊の砲撃が上野山内に着弾し始めた正午頃から、江戸城富士見櫓に移って戦況を見守っていたのです。
 正午になっても戦況が一進一退なのを見たこの上野攻撃に反対だった林や海江田らが大村を追求します。
 しかし、砲兵隊の砲撃が着弾し始めた以上いずれ黒門と谷中門を突破すると確信していた大村は懐中から時計を取り出し、「もうすぐ上野は落ちる心配は無用です」と彼等に言います。
 やがて上野の方向から黒煙があがり、それが猛火に代わると大村は「これで戦いは終わりました、我軍の勝利です」と言い、それに呼応するように伝令が到着し、上野が陥落した旨を伝えたのでした。
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by wheatbaku | 2010-05-28 06:26 | 『幕末』 | Trackback
彰義隊討伐準備(上野戦争② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 上野戦争の2回目は、 彰義隊の討伐準備をする東征軍(新政府軍)の対応 について書いていきます。

【強硬派が江戸へ】  
 当初、東征軍は、勝海舟の知略により、融和策をとっていました。
 そのため、彰義隊も、市中取締りを任されていました。
 しかし、京都では、東征軍のこの対応に異論がでて、大村益次郎が派遣されてきました。
 大村益次郎は、閏4月4日に東京に着任します。
 東征軍の参謀の対応は冷たいもので、特に、上京中の西郷隆盛に代わって、東征軍の中心人物となっていた海江田忠義の態度は冷たいものでした。

【彰義隊討伐方針決める】  
 その後、三条実美が関東監察使として東下してきました。c0187004_22572214.jpg  閏4月25日には、三条実美は、徳川家を70万石に減封して静岡に移す処分を内定しました。
 この方針のもと、彰義隊討伐が具体化してきました。
 まず、5月1日、徳川家から江戸市中の取締権を取り上げ、大総督府みずから行うこととしました。
 この処置に彰義隊は激昂しました。
 彰義隊の暴発を恐れた勝海舟は、上野に山岡鉄舟を派遣して彰義隊の解散を促しましたが、もはや受け入れられる状況ではありませんでした。
 上の写真は、現在の寛永寺の根本中堂です。

 東征軍は、武力討伐にあたって必要な戦費は50万両でしたが、そのめどがたっていませんでした。
 しかし、アメリカに発注していた鋼鉄艦の引き渡しをアメリカが拒んだため、その購入費が余ることとなりました。
 このお金と江戸城の宝物を売って調達したお金により、ようやく戦費が整いました。
 そこで、武力討伐が行えるようになりました。

【大村 独壇場】 
 しかし、即時決戦を主張する大村に対して、「兵力が少なすぎる」と海江田が反対しました。
 この時、大村益次郎は、「兵力は十分だ」と言い、「あなたは戦争を知らない」とまで言いました。
 これに対して、海江田信義は大いに怒りました。このことが、後の大村暗殺につながったという説もあります。
 この時、西郷は、「大村に任せよう」述べて、その場をおさめました。
c0187004_22575342.jpg また、布陣をみると、激戦が予想される黒門に薩摩藩が配置されていたため、西郷と大村との間でやりとりが起きました。
 「薩摩兵を皆殺しにするつもりかと詰め寄る西郷に対して、大村は「さよう」と平然と答え、西郷を驚かせたという話もあります。

 軍議の席では、出席者の多くが夜襲により一気に勝敗を決すべきだ主張しました。
 しかし、大村は「官軍である以上、賊徒は正々堂々と討伐すべきである」と言い、夜襲は採用しませんでした。
 彰義隊が夜陰にまぎれて市中に火をつければ、江戸が灰燼に帰す怖れがあることも考慮したと言われています。

 こうして大村益次郎主導により、彰義隊討伐計画がつくられ、5月15日が上野総攻撃の日と決められました。
 
 明日は上野戦争について書きます。
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by wheatbaku | 2010-05-27 06:18 | 『幕末』 | Trackback
彰義隊 (上野戦争① 江戸検定今年のお題「幕末」)
 勝海舟についての記事は一段落して、今日からは、上野戦争と大村益次郎について書いていきます。
 今日はまず 彰義隊 について書きます。

 【彰義隊結成】 
c0187004_2245094.jpg  徳川慶喜は、2月12日上野寛永寺に蟄居し、恭順の意を表しました。
 これに不満をもった幕臣の本多敏三郎と陸軍調役の伴門五郎が11日に同志を募りました。
  翌12日から3回の会合をもった後、2月23日に浅草の東本願寺で結成式が行われました。
 結成式では、「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が選ばれました。
 渋沢成一郎は、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の豪農の出身で、一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍になると奥右筆となり、上京していて、鳥羽・伏見の戦いに参戦しています。
 なお、渋沢成一郎は、渋沢栄一の従兄弟です。
 天野八郎は、上野甘楽郡の庄屋の子供で、幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となりました。
 徳川方は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締を任せました。

 【寛永寺が本拠】 
c0187004_22361575.jpg 4月3日に彰義隊は本願寺から寛永寺へ拠点を移動します。
 4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へ退去した後も、彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けました。

 写真は竹の台の噴水です。竹の台は、江戸時代根本中堂があったところで、両側に竹の台(うてな)があったことに由来します。根本中堂は、戊辰戦争で焼失してしまいました。
 また寛永寺の本坊も焼失し、その跡へ国立博物館が建設され、その前庭として噴水が造られました。

 【江戸市民に人気となる】 
 詔義隊士たちは、朱文字で「彰」や「義」と書いた提燈を手にして、江戸市中の見回りと行い、盗賊を捕まえ、庶民の人気を集めたそうです。c0187004_22452783.jpg 
 また、吉原では、「情夫(いろ)にもつなら彰義隊」といわれてもてはやされたそうです。
 
 彰義隊は、慶喜が江戸を退去した後、穏健派の渋沢成一郎と強硬派の天野八郎とで意見が対立しました。
 穏健派の渋沢は彰義隊を離脱し、飯能の能仁寺で「振武軍」を結成し独自に活動を展開しました。
 これにより、強硬派が彰義隊を指揮することとなりました。

 写真は、国立博物館です。国立博物館は、寛永寺の本坊の跡に建てられました。

 【彰義隊討伐決定】 
 勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍と一戦交えようと各地から兵が参加し最盛期には3~4千人になりました。
 東征軍は、当初、兵力不足から攻撃を控えていましたが、三条実美と大村益次郎が江戸着任した後は、彰義隊を討伐することを強く主張しました。
 そして、5月1日には彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告しました。
 これにより彰義隊との衝突事件が頻発します。
 これ以後、軍務局判事兼江戸府判事として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が行われることとなります。
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by wheatbaku | 2010-05-26 06:20 | 『幕末』 | Trackback
江戸開城後の勝海舟 (勝海舟⑩ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 江戸城明け渡し後の、勝海舟の動きと新政府側の対応について書いていきます。


【海舟、政府軍を手玉にとる】 
 江戸城明け渡し後、新政府は、徳川側に対して、融和策を展開しました。
 昨日のべた、榎本武揚による、幕府艦隊の引渡し拒否に対して、軍艦4隻の引渡しで妥協していることなどです。
c0187004_2301871.jpg  この中心に座ったのが勝海舟です。
 勝海舟は、軍艦引渡しに際して、東征軍参謀の海江田信義と協議し、新政府側に、4隻の引渡しですむよう認めさせました。
 新政府側が一度譲歩した降伏条件をさらに緩和させたのです。
 『政府軍当局が海舟の手玉にとられていた』(石井孝著「勝海舟」)のです。
 右の写真は、江戸城大手門です。
 
【西郷も押される】 
 さらに、閏4月2日には、大総督府は、徳川慶頼と大久保一翁と勝海舟に江戸の鎮撫方万端取締」を委任しました。
 これを踏まえて、勝海舟は閏4月4日に、大総督に、慶喜が江戸に戻ってくれば、慶喜の人格により江戸の平穏を保つことができるという嘆願書を提出しました。
 さらに、19日に静寛院宮にも、慶喜の帰還について朝廷に懇情するよう嘆願書を提出しています。
 融和政策の展開は、西郷隆盛も認めていました。
 西郷隆盛は、勝海舟の知略にじわじわ押されていたのです。
 江戸の市中警備も彰義隊に任されたままでした。 

【京都は強硬】 下の写真は、京都御所の小御所です。
c0187004_2312932.jpg これに対して、京都は強硬でした。
 4月28日、西郷は、徳川処分問題について協議するため京都に向かいました。
 徳川処分問題について、京都では、100万石以下、江戸以外へ移封と考えていました。
 そのため、意見がなかなか一致せず、結局、三条実美を関東大監察に任命して、江戸に派遣し、徳川氏の処分を決定することになりました。
 このことは、京都の朝廷が、東征総督府を信頼していないことの現れでした。
 西郷は、三条に従って東下することになりました。この時も、三条と大久保利通が東下するはずであったのを、ひとまず西郷がいくこととなったようです。

【大村益次郎登場】 
 そして、長州出身の軍防事務局判事大村益次郎も江戸に派遣されます。
 大村の派遣は、東山道先鋒総督府参謀の板垣退助を代表とした長州・土佐関係者から「西郷が勝にだまされて軟化した」という非難があがっていたことに対する京都の対応でした。
 大村益次郎は、新政府側で、勝海舟に劣等感を持たない唯一の人物でした。
 ここに、上野戦争の指揮を、西郷隆盛でなく大村益次郎がとった理由があります。


 このように、『戦争を勝に封じられた後の西郷は、最初の輝かしさを失ったかに見えるのであった。』(田中惣五郎著「勝海舟」)そして、『西郷の後退は、いまや勝をも後退せしめつつある』(田中惣五郎著「勝海舟」)のでした。
 こうして、江戸城明け渡し後の勝海舟の役割も小さくなってしまいました。

 そうした中で、江戸総攻撃の代理戦争とも言われる上野戦争が始まります。
 次回から、上野戦争について書きます。
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by wheatbaku | 2010-05-25 06:03 | 『幕末』 | Trackback
江戸城明け渡し(勝海舟⑨ 江戸検今年のお題「幕末」)
今日は、 江戸城の明け渡しについて書いていきます。

 【徳川家処分案】 
 勝海舟との会談を受けて江戸を発った西郷隆盛は急ぎ上京し、西郷の提議で海舟の出した徳川側の新条件が検討されました。
 その結果、次のようになりました。
 第1条、慶喜の謹慎先は水戸藩となりました。
 第2条、田安家に江戸城を即刻返すという勝海舟案は却下されたが、大総督に一任されることになりました。
 第3・4条の武器・軍艦引き渡しに関しては、一旦新政府軍が接収した後に、改めて徳川家が必要とする分を渡すことになりました。
 第5・7条は原案通りとなりました。
 第6条の慶喜を支えた人々の処分については三条実美が強く反対し、特に松平容保・松平定敬に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張したそうでうす。
 そして、会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正されました。このことが後の会津戦争に繋がることになったようです。

c0187004_19152142.jpg 【池上本門寺】 
 3月22日、修正された7ヶ条を携えて、西郷は再び江戸へ下りました。
 3月28日、西郷は横浜にパークスを訪問し、新政権の処分案について説明し、パークスは処分案についてに満足しました。
 西郷が処分案を徳川家に通告する前にパークスに説明するほど、パークスの圧力は強かったようです。
 4月1日に、東海道先鋒総督橋本実梁は池上本門寺に入り、2日、甲州方面からきた副総督柳原前光と合流しました。
 右写真は、池上本門寺の理境院です。ここが西郷隆盛の宿舎になりました。
 総門を入ると左手にあります。朱塗りの山門が目立ちます。


 【城明け渡しと慶喜の水戸退去】 
 c0187004_1916687.jpg 4月4日には、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光は勅使として、参謀西郷隆盛、海江田信義らを率いて江戸城へ入城しました。
 この日、田安慶頼は、大広間の上段に、勅使を迎え、自身は下段に着座しました。
 西郷ら参謀と大久保一翁たちも下段に座りました。しかし、勝海舟は、江戸市中の警備にあたっていたため、この場にはいませんでした。

 そして、次の5ヶ条が勅使から下され、実行期限が4月11日とされました。
  第1条、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸で謹慎する。
  第2条、城明け渡し、尾張藩に相続する。
  第3条、軍艦、銃砲を引き渡し、追って相当分を返還する。
  第4条 城内住居の家臣は城外に出る。
  第5条 慶喜を支えた人たちは、死一等は減ずるが相当の処置をする。
 
 いよいよ4月11日が江戸城明け渡しです。
 そして、同じ日に、徳川慶喜が謹慎していた寛永寺から水戸へ出発しました。
 江戸城には、薩摩、長州、尾張、肥後、備前、砂土原、大村7藩の兵が入城し、無血開城され、東征軍が接収しました。
 この明け渡しの式典中に、西郷が居眠りをしたので、その人物の大きさにという逸話があります。
 江戸城が明け渡しされる前日に、天璋院は一橋邸へ、同じ日に静寛院宮(和宮)は清水邸に移りました。

【榎本艦隊抵抗】
 一方、抵抗する人たちもいました。
 海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦引き渡しを拒否し、4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに7隻の軍艦を率いて、館山沖に逃れてしまいました。
 海舟の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協が成立しました。
 後に、榎本武揚は、8月19日に開陽ほかの軍艦8隻を率いて、品川を脱出してしまいます。そして、榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗することなります。
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by wheatbaku | 2010-05-24 06:13 | 『幕末』 | Trackback
江戸城無血開城②(勝海舟⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日も、江戸城無血開城について書いていきます。
 山岡鉄舟との交渉を受けて、西郷隆盛は3月11日に駿府を発ち、12日に江戸の薩摩藩邸に入りました。そして、3月13日と14日に勝海舟と西郷との会見が行われました。
 今日は、この両雄の会見について書いていきます。

c0187004_852169.jpg【海舟の作戦】 
 海舟は、西郷ら新政府との交渉にあたって、「彼が進みに先んじ、市街を焼きて、その進軍を妨げ」る焦土作戦を考えていたと言われています。
 そのために、江戸の町火消し「を組」の頭の新門辰五郎の協力を得たうえで、その他の火消し・博徒等の親分の所に四つ手駕籠に乗って訪問し、協力を依頼し、了解をとりつけていました。
 しかし、これはあくまでも最終の策として考えられていました。

 【海舟と西郷との会見】 
 江戸に到着した西郷隆盛と勝海舟との間で、第一回目の交渉が、13日に行われました。
 一回目の交渉では挨拶をかわした後、和宮の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認した程度で、突っ込んだ話は行われませんでした。
c0187004_9202671.jpg  翌14日、第二回目の交渉が行われました。
 第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示されました。
 1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
 2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
 3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
 4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
 5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
 6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。

 西郷が山岡に示した処分案と勝海舟が示した回答とは、相当ひらきがありました。
 西郷の案は無条件降伏案ですが、海舟の回答は、条件付降伏案です。
 14日は、海舟はひたすら嘆願につとめたと言われています。
 西郷は自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約束しました。
 そして、村田新八と桐野利秋を東海道・東山道先鋒総督府に派遣し翌日の江戸城総攻撃を中止するよう指示しました。
 西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、総攻撃を中止した背景には、英国公使パークスからの圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説があります。

 c0187004_222359100.jpg【会見の場所】 
 二人が会談した薩摩屋敷がどこの薩摩屋敷であったかについては議論があるそうです。
 海舟は日記に高輪薩州の藩邸と書いていて、下屋敷で会見したとしています。
 その一方で海舟は芝田町の薩摩藩蔵屋敷とも書いているようです。
 また、13日は下屋敷で、翌14日は蔵屋敷という説もあるようです。
 さらには前年に焼き払われた三田の屋敷の片隅で会見したとの記録もあるそうです。
 現在の「西郷南州・勝海舟会見の地」の記念碑は、芝田町の薩摩藩蔵屋敷跡に建っています。

 そして、西郷は、16日に駿府に帰還し、大総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に報告しました。
 同時に、この日、江戸城進撃の延期が、東海道・東山道・北陸道の先鋒総督に伝えられました。
 西郷は、徳川家の処分案を決定するため、京都へ向かい、20日に到着しました。
 そして、ただちに朝議が開かれ、海舟の嘆願書を大幅にいれた処分案が決定されたのでした。
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by wheatbaku | 2010-05-21 06:16 | 『幕末』 | Trackback
江戸城無血開城①(勝海舟⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 いよいよ勝海舟が最も活躍した 江戸城無血開城 について書いていきます。
 無血開城は、ボリュームがあるので2日間にわたってかきます。

【大政奉還・鳥羽伏見の戦い】
辞表を提出して江戸に帰ったものの許されなかったため、勝海舟は軍艦奉行として普通の事務を行っていました。
 江戸で勝海舟がそうしている時期、京都では、慶応3年(1867)10月14日に、徳川慶喜が大政奉還により政権を朝廷へ返上しました。
 慶喜は、諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛が主導した12月9日の王政復古の大号令が発せられ、小御所会議によって慶喜の辞官納地が決定されます。
 慶喜はいったん大坂城に退きますが、薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、幕府軍が京都へ進撃し、慶応4年正月3日鳥羽・伏見の戦いが起きます。
 しかし、薩摩・長州藩は優勢な砲火を用い、幕府軍を圧倒します。さらに薩長軍に錦旗が翻り、幕府軍は朝敵となって、大敗してしまいます。
 慶喜は6日、幕府軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走しました。

【大久保一翁・勝海舟連立政権発足】
c0187004_20403650.jpg 正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入りました。
 江戸でも、恭順派と抗戦派の争いがありました。勝海舟は恭順派でしたが、勘定奉行小栗上野介忠順らは抗戦論を主張しました。
 慶喜は、15日に小栗小栗上野介を罷免し、恭順することを鮮明にしました。
 23日、老中若年寄を除き、恭順派の旗本を各行政部門の正副総裁とする人事の変更が行われました。
 ここで、勝海舟は陸軍総裁となります。その他、海軍総裁は 矢田堀鴻、副総裁は 榎本武揚 、そして、会計総裁大久保一翁、副総裁成島柳北 という体制になりました。
 この政権は、陸軍総裁勝海舟と会計総裁大久保一翁の2人が、事実上の最高指導者であり、恭順派の勝・大久保連立政権でした。
 2月12日、慶喜は江戸城を退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送りました。

【西郷隆盛は強硬派】
c0187004_20393199.jpg  新政府側でも徳川家に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と寛典論の両論が存在しました。
 薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、2月9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命され、参謀には西郷隆盛が任命されました。
 2月15日、東征大総督は京都を進発して東下を開始し、3月5日には駿府に到着し、翌日には江戸城総攻撃の日付が3月15日と決定されました。

【山岡鉄舟、駿府に行く】
 差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた精兵隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、3月6日、駿府まで進撃していた東征大総督府に赴くこととなりました。
 3月5日海舟は山岡と会いました。海舟は初対面でしたが、一見してその人物を大いに評価し、西郷への書状を書きました。
 そして、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を同伴させて送り出しました
c0187004_2135254.jpg  6日に山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、9日に西郷と会見しました。
 すでに江戸城総攻撃の予定は3月15日と決定していましたが、山岡は西郷に慶喜への寛大な処置を要望しました。

【新政府側の条件】
 これに対して、西郷は、戸城総攻撃の回避条件として山岡に以下の7ヶ条を提示しました。
 1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
 2.江戸城を明け渡すこと。
 3.軍艦をすべて引き渡すこと。
 4.武器をすべて引き渡すこと。
 5.城内の家臣は向島(東京都墨田区)に移って謹慎すること。
 6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
 7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
 山岡は上記7ヶ条のうち第1条を除く6ヶ条の受け入れは示したが、第1条のみは絶対に受けられないとして拒否し、立場を変えて西郷と島津公との関係として考えてみたらどうだと主張したと言われています。
 西郷も山岡の立場を理解して折れ、第1条は西郷が自分にまかせろと保証したといわれています。
 山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告しました。
 西郷も11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入りました。
 江戸城への総攻撃を予定されていた15日のわずか2日前のことでした。

 明日は、いよいよ勝・西郷会談です。

 本日使用した3人の写真は「国立国会図書館」蔵です。
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by wheatbaku | 2010-05-20 05:48 | 『幕末』 | Trackback
長州征伐停戦交渉 (勝海舟⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
勝海舟、今日は「第2次長州征伐」 と海舟の関係について書いていきます。

【薩摩と会津の調停を行う】 
 元治元年(1864)12月に軍艦奉行を罷免された勝海舟は、しばらく、赤坂氷川下の自宅で閑居していました。
 ところが、慶応2年(1866)、突然軍艦奉行に復帰します。
 復帰後、大坂に行くと、待っていたのは、会津藩と薩摩藩の調停でした。
 第2次長州征伐について、薩摩藩は出兵を拒否しました。それは、既に、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれていたからです。
 これに対して、8月18日の政変以来の盟友の会津藩は、薩摩藩の消極的な態度に怒りを顕にして、薩摩を討つとまで言っていました。
c0187004_9928100.jpg これを納めるために、海舟が必要とされたのでした。
 勝海舟は、会津の重臣たちを説き伏せると、薩摩藩もなだめました。
 そして、出兵拒否の届出書は海舟が一旦預かることにしました。
 これで、両藩の関係は落ち着きました。
 
【第2次長州征伐】 
 しかし、第2次長州征伐は実行されました。
 幕府軍は、大島口、芸州口、石州口、小倉口の四方面から、長州に攻め込みます。
 しかし、長州藩は、村田蔵六(大村益次郎)による兵制改革により装備・戦術が進んでいたことと階級の別がなく志気が高かったことにより、幕府は負け続けてしまいます。
 石州口は、村田蔵六(大村益次郎)の指揮のもと浜田城が落とされます。小倉口では、小倉城が焼け、幕府軍の総指揮者小笠原長行(ながみち)も逃げ帰ってくる状況でした。
 上の大村益次郎の写真は、「国立国会図書館」所蔵です。
  
【宮島大願寺で停戦協議】 
 そして、14代将軍徳川家茂が、大阪城でなくなります。
 そこで、幕府側は、停戦を決意します。
 この停戦交渉について、またも、海舟は慶喜から任されます。
c0187004_064139.jpg  海舟が停戦交渉を任されたのは、海軍操練所で長州、薩摩、土佐など諸藩の藩士を教えていて、その名が知れ渡っていたことと当初から長州再征に反対していたからです。
 そこで、海舟は単身宮島の大願寺での談判に臨みます。
 長州藩の広沢平助らと会談したのは、慶応2年(1866)9月2日でした。長州の代表団の中には、刺客に襲われて九死に一生を得た井上聞太も加わっていました。
 代表団は、海舟に大いに敬意を表して会談はスムーズに終了したようです。
 上の写真は停戦交渉を行った大願寺の書院大広間です。

c0187004_11491063.jpg  海舟は、会談後、護良親王の品といわれる刀を厳島神社に奉納したといわれています。

【慶喜の裏切り】
 実は、停戦交渉がスムーズに終わったのは、海舟が「大政奉還論」つまり慶喜が政権を朝廷に返上することを長州側に伝えたのではないかと松浦怜氏は中公新書「勝海舟」の中で推測しています。
 こうして、海舟は長州の説得に成功しましたが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功するとそれにより長州と交渉し、勝がまとめた停戦の話を台無しにしてしまいました。
 海舟を時間稼ぎに利用し、慶喜は裏切ってしまったのです。
 怒った海舟は辞表を出して江戸に帰ってしまいます。
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by wheatbaku | 2010-05-19 06:25 | 『幕末』 | Trackback
神戸海軍操練所 (勝海舟⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 勝海舟の第5回目は、 「神戸海軍操練所」 について書いていきます。

 アメリカから帰国して、万延元年(1860)6月に、勝海舟は、蕃書調所頭取助に任ぜられます。
 そして、文久2年(1862)の幕政改革で海軍に復帰し、7月に軍艦操練所頭取となり、閏8月には軍艦奉行並(石高1000石)となっています。

c0187004_2336524.jpg 【坂本龍馬が弟子入り】
 坂本龍馬が勝海舟に弟子入りするのは、文久2年の秋から冬の頃の話です。
 弟子入りにあたっての有名な話として、攘夷主義者の坂本龍馬が千葉道場の千葉重太郎とともに海舟を斬ろうと思い会いに行き、逆に説き伏せられて弟子になったという話があります。
 海舟は、「氷川清話」の中で、次のように書いています。
「坂本龍馬。彼れは、おれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつい)てな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。」

【海軍操練所が設立される】
 文久3年(1863)、勝海舟は神戸に海軍操練所の設立を提案しました。
 これは海軍兵学校と海軍機関学校を兼ねたものであり、日本に欧米と肩を並べる海軍を建設するための足がかりを作ろうとしたのです。
 勝が神戸を選んだ理由は、江戸時代の末期に網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が築いた「船たで場(ふなたでば)」(船底に付いた貝殻や船虫などを焼くための施設、現在の「ドッグ」に相当する)の設備を利用できると考えたからでした。 

 元治元年(1864)5月、海舟は軍艦奉行並から軍艦奉行に進みます。石高2000石となります。そして、同じ5月に海軍操練所の人員募集の布告が出されます。
 海舟が、この海軍操練所では、「一大共有之海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指しました。
 勝海舟の名声もあって、諸藩からの入学生徒は相当数に上りました。

c0187004_8472874.jpgc0187004_8484725.jpg  その中には、坂本龍馬のほか、同じ土佐藩からは脱藩した北添佶摩・望月亀弥太らがいました。
 また、薩摩藩からは、後に初代連合艦隊司令長官となり、黄海海戦の指揮をとった伊東祐亨(写真左)が入学しました。
 さらに和歌山藩からは後の日清戦争時、外務大臣となった陸奥宗光(写真右)が参加しました。

c0187004_23372674.jpg 【西郷隆盛がほれる】
 勝海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864)9月11日、大阪においてです。
 この席で、海舟は、幕府にはもう天下の政治をとりしきる力がないから、雄藩の力で国政を動かさなければならないと語ったといわれています。
 西郷は、それまでは、長州を徹底的に処分しようと考えていましたが、この海舟の話を聞いて、長州に対する方針を融和的なものに変えたと言われています。
 また、西郷は、海舟の人柄をほめたたえてひどくほれ申し候と大久保利通に書き送っているそうです。

【幕府上層部により罷免される】
 しかし、こうした勝海舟の動きは、幕府の上層部の反発を呼び、元治元年(1864)10月22日に、大坂城代から帰国命令が伝えれられ、江戸に帰った海舟は11月10日に軍艦奉行を罷免されてしまいます。
 そして、神戸海軍操練所も正式に閉鎖されてしまいます。 
 海軍操練所の閉鎖のため、拠るべきところを失った坂本龍馬たちは、海舟の依頼を受けた薩摩藩に身を寄せることとなり、その後、長崎に亀山社中をつくり、活躍することになります。

 本日の写真は、すべて国立国会図書館所蔵です。
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by wheatbaku | 2010-05-18 05:51 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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