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「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 ② (江戸に関する本)
 今日は、、瀧川政次郎氏著の 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 から、注目すべき長谷川平蔵のことについての2回目です。

 c0187004_15533120.jpg 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享2年(1745)に生まれています。
  実母は、寛政重修諸家譜によると、「母は某氏」となっています。諸家譜中の某氏とは農民・町人の娘をさすそうです。
 そのため、瀧川先生は、平蔵の母親は長谷川家の領地であった現在の千葉県山武郡から長谷川家に奉公にあがった女性ではないかと推測しています。
 右の写真は、戒行寺の写真です。
 正面が本堂、参堂右手に「長谷川平蔵供養之碑」があります。
 
 【『本所の鐵』は事実らしい】 
 平蔵は、父の京都西町奉行就任により、一旦京都へ行きますが、父は8ヶ月あまりで急死したため、江戸に戻ってきます。
 そして、安永2年(1773)に30歳で家督を継ぎますが、小普請組にとどまります。
 この時期に、平蔵宣以は、深川で放蕩無頼の遊びをしたようです。
 これは、京都の岡藤利忠という浪人が文政年間に書いた「京兆府尹記事」という本に書かれています。
 「遊里へ通ひ、あまつさえ悪友と席を同うして、不相応のことなど致し、・・・本所の鐵と仇名せられ・・・」と書かれているそうです。
 従って、「鬼平犯科帳」でよく「本所の鐵」と言われたという場面がでてきますが、これは事実であったようです。

【田沼的性格があだ!】
 その後、安永3年(1774)の西の丸御書院番組入り後、順調に出世していきます。
 天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられました。
c0187004_8435755.jpgそして、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられたのは42歳の時です。
 さらに、寛政の改革では、石川島人足寄場の設立を建議し、その実現や経営などで功績を挙げました。
 しかし、老中松平定信との関係はうまくはなかったようです。
 松平定信は自伝「宇下人言]の中で、長谷川平蔵の名前を明記せず「長谷川某(なにがし)」とだけ書いて、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べています。
 平蔵は、田沼時代には、西の丸御書院番組の番士を振り出しに順調な昇進を続けましたが、定信の時代になると、彼の昇進はなくなりました。
 このように、松平定信が、長谷川平蔵を嫌ったのは、平蔵宣以は闊達な江戸っ子肌の豪傑で小事に拘泥しないことなどの田沼的性格が嫌だったのではないかと、瀧川政次郎先生は書いています。

 
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by wheatbaku | 2010-06-30 06:14 | 江戸に関する本 | Trackback
「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」① (江戸に関する本)
 土曜日の四谷散策で案内したお寺の中に戒行寺がありました。
 戒行寺には「鬼平」で有名な「長谷川平蔵供養碑」がありますので、当然長谷川平蔵について説明しました。
 その準備のため、 長谷川平蔵宣以(のぶため) について、事前に調べました。
 その中では、瀧川政次郎氏著の 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 が大変参考になりました。
 そこで、 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 に書かれていたことで気がついたことをいくつか書いてみます。

 【長谷川氏の系譜】 
c0187004_15534270.jpg 長谷川平蔵宣以は、は、延享2年(1745)400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれる。
 長谷川氏の発祥地は奈良の長谷川とされ、藤原秀郷系とされているようです。
 しかし、確かに分かる長谷川氏の先祖は、長谷川正長とされています。
 長谷川正長は今川義元に仕える徳一色城(のちの田中城)の城主でしたが、義元が桶狭間で死に、義元の子の氏真も武田信玄に対抗できなくなってきたため、今川氏についていることをやめ、徳川家康に仕えました。
 家康に仕えた長谷川正長は三方ヶ原で武田軍に突入し討ち死にしました。
 正長の長男正成は、秀忠に仕え、秀忠の三女勝姫が松平忠直に輿入れする際、付け人となっています。
 その後、この正成の家系が長谷川氏の本家となります。
 正長の次男は、宣次といい将軍家康に近侍します。これ以後、この家系は、宣の字を通り名として継承していきます。
 この8代目が宣以で、池波正太郎が描く鬼平のモデルの長谷川平蔵ということになります。
従って、長谷川平蔵は、長谷川家の分家の出身ということになります。

 【父 長谷川宣雄】 
 平蔵の父の宣雄も火付盗賊改役を拝命していて、有能な火付盗賊改役であったようです。
c0187004_1612565.jpg 明和9年(1771)に起こった目黒行人坂の火事は、死者一万人と言われ目黒行人坂の大円寺から出火し浅草や千住辺りまで焼く大火事でした。
 そのため、江戸三大大火の一つとされた大火事でした。ちなみ江戸三代大火とは「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「芝車町の大火」を言います。
 この目黒行人坂の大火の放火犯を捕らえたのが、長谷川平蔵の父の宣雄でした。
 犯人は、熊谷無宿の真秀という坊主でした。
 この取調べの調書も残されているようです。
 その功績から父宣雄は、安永元年(1772)10月に京都西町奉行に昇進し、平蔵も妻子と共に京都に赴きました。
 上の写真は、現在の大円寺です。JR目黒駅から歩いて5分ほどのところにあります。
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by wheatbaku | 2010-06-29 06:16 | 江戸に関する本 | Trackback
四谷散策 (大江戸ガイド)
 6月26日の土曜日は、江戸検定1級合格者の定例研修会があり、四谷・新宿を案内しました。
 参加者は16名でした。
 案内したコースはJRの四ツ谷駅から新宿まででした。
 四谷というのは、あまり目だ立たない町ですが、寛永11年の江戸城拡張工事のため、麹町から移転したお寺が多く、歴史のあるお寺がかなりあります。
 そうしたお寺を中心に、四ツ谷駅から新宿まで散策しました。

 四谷寺町で文化財のあるお寺はほとんど拝観しましたが、そうしたお寺の中で、日ごろはあまりお目にかかれないものを拝観させてもらいましたので、今日は、それらの紹介をします。

【西念寺の服部半蔵の槍】 
c0187004_15264584.jpg 西念寺では、服部半蔵の槍を拝見することができました。
 服部半蔵は、徳川家に仕えた譜代の武将で徳川十六神将の一人です。
 半蔵は槍の名手としても知られ、当時「槍の半蔵」の異名もありました。
 西念寺に残る槍は、半蔵が徳川家康から拝領した槍です。
 先端が30センチ、尻150センチを戦災で損壊したそうですが、それでも全長が 258センチ、重量7.5キロもあるそうです。
  本堂の床の間に飾ってあります。仏像画の下に見える黒い横棒が「半蔵の槍」です。


【本性寺の北向毘沙門天】
c0187004_1534334.jpg 本性寺の山門と毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物です。
 その毘沙門堂に上がらせていただき、毘沙門天像を拝観させていただきました。
 毘沙門堂内に安置されている毘沙門天像は江戸城本丸にあったもので、「五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともに本寺に寄進されました」とされています。

c0187004_15345080.jpg この像は別名「北向毘沙門天」といわれ、家康が仙台の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の 守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説からそう呼ばれています。

 左写真は毘沙門堂の前で、ご住職から、毘沙門堂や本性寺のお話を聞く参加者です。
 毘沙門天のお話は、毘沙門堂の中で聞かせてもらいました。


【笹寺の「めのう観音」】 
c0187004_15351952.jpg 笹寺では、「めのう観音像」を拝見させてもらいました。
 笹寺は正式名称は四谷(しこく)山長善寺といいます。
 天正年間に創建されたそうで、四谷山という名前がついていることから、四谷地区では最も早い創建だと考えているとの説明でした。
 笹寺の名称は徳川三代将軍家光が鷹狩の際に立ち寄り、周辺に笹が生い茂っていたため命名したと伝えられています。(秀忠という説もかなり有力です)
 その笹寺にめのうでできた「めのう観音像」があります。これは、2代将軍秀忠の念持仏で、秀忠の妻崇源院よりたまわったそうです。
  高さ4.9センチの小さなお像ですがすばらしいものでした。

c0187004_15353469.jpg 本堂に上がらせていただき、お坊さんから説明をいただいた上で拝観させていただきました。
 小さなお堂に安置されていますので、参加された皆さん、近づいてゆっくり拝見させてもらいました。
 写真右端の小さなお堂が「めのう観音」を納めたお堂です。


 それぞれのお寺では、私たちがお邪魔するのを住職や副住職の方がお待ちいただき、丁寧に説明をしていただきました。大変ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2010-06-28 00:23 | 大江戸散歩 | Trackback
山岡鉄舟 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の追加で、今日は勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される「山岡鉄舟」について書いていきます。
 
【飛騨で育つ】 
c0187004_8111254.jpg 山岡 鉄舟は、天保7年(1836)江戸本所で旗本小野朝右衛門の四男として生まれまれました。
 父が飛騨郡代になったため、幼ない時期を飛騨高山で過ごしました。
 そして、弘法大師流入木道(じゅぼくどう)の書を学ぶとともに、父が招いた井上清虎より剣術を学びました。
 17歳の時に、父が死んだため江戸へ帰りました。この後、生活に窮して「ボロ鉄」などと呼ばれました。
 安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学びました。
 この頃には、腕が上達し、「鬼鉄」と呼ばれるようになったそうです。

【山岡静山の妹と結婚し山岡家を継ぐ】 
 その頃、当時日本一の槍の名人といわれていた山岡静山に槍術を学びました。
c0187004_2149692.jpg しかし、山岡静山が急死したため、静山の実弟でもあった高橋謙三郎(後の高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹の英子(ふさこ)と結婚しました。
 この時、高橋泥舟は、既に、山岡家から母方の高橋家の養子となっていたため、山岡家を継ぐことができなかったので、鉄舟に養子となるようお願いしたようです。
  右の写真は、小石川播磨坂の桜並木の向かい側の山岡の旧居跡です。高橋泥舟の屋敷と隣り合っていました。
  安政4年(1857年)、清河八郎らと尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成しています。
 文久3年(1863年)には、清河の建議により結成された浪士組の取締役となり浪士234人を連れて、将軍徳川家茂の先供として中山道を通り上洛しますが、間もなく清河八郎の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰ります。そして、清河八郎が暗殺された後は謹慎処分を受けます。
 この頃、中西派一刀流の浅利又七郎義明と試合をするがとても勝てず、浅利に弟子入りし、明治になって免許皆伝を受けます。

【西郷と交渉する】 
 慶応4年(1868年)、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、勝海舟の指示のもと、益満休之助とともに3月9日官軍の駐留する駿府に辿り着き、西郷隆盛と面会し、江戸開城の5つの条件の提示を受けます。この中の一つ慶喜を備前藩に預けるについては断固反論し、西郷に認めさせることに成功しました。

 【明治天皇の侍従となる】 
 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に居住します。
 明治4年(1871)、廃藩置県に伴い新政府に出仕し、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任しました。
 そして、明治5年には、西郷のたっての依頼により、10年間の約束で侍従として宮中に出仕し明治天皇に仕えました。そして10年たった明治15年には、西郷との約束どおり致仕しました。
 明治21年胃がんのため、皇居に向かって、白装束で座禅を組んだまま絶命しました。享年53歳でした。

 【あんぱん大好き】 
 身長188センチ、体重105キロと大柄な体格でした。
 アンパンは、明治初年に木村屋総本店の木村安兵衛が考案したものですが、山岡鉄舟はアンパンが大好きで、アンパンを明治天皇に献上されるよう取り計らっています。
 また、山岡は書は頼まれるとほとんど断ることはなかったそうです。そのため、相当の書が残っています。
 木村屋総本店の看板の字も山岡の字です。
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by wheatbaku | 2010-06-24 05:26 | 『幕末』 | Trackback
榊原健吉(幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪の最後は、「最後の剣客」と呼ばれた「榊原鍵吉」 を取り上げます。

【兜割りの妙技】 
 榊原鍵吉は、明治20年11月11日に伏見宮邸で行われた明治天皇の行幸のもとの剣技披露の席にて、兜割りを行ったことで知られています。時に57歳でした。c0187004_1653888.jpg 
 兜割りに挑戦したのは3人でした。
 一人は、鏡心明智流桃井春蔵門下の名人であり、警視庁の撃剣師範を務めていた逸見(へんみ)宗助でした。失敗でした。
 もう一人は、逸見と同じ桃井道場門下であり、その兄弟子にあたる上田馬之助でした。
 彼は桃井道場随一の俊才として名高く、竹刀の突きで道場の四分板を破ったという逸話の持ち主でした。
 しかし、やはり兜は割れませんでした。
 そして、最後に榊原鍵吉が挑戦しました。鍵吉は同田貫で見事に三寸五分切り込みました。
 これをご覧になった明治天皇は、大変賞賛したそうです。

【男谷精一郎に薫陶を受ける】 
  榊原鍵吉は、文政13年(1830)、御家人榊原益太郎友直の長男として生まれました。
 そして、13歳の時、麻布狸穴(まみあな)にあった男谷精一郎信友の門下となりました。
 剣聖と呼ばれた男谷精一郎は、鍵吉に対してもやさしい人でした。
 鍵吉の父が転居し、道場に通うのに不便になっても、鍵吉は男谷の道場に通いつづけました。
 それを見かねて、精一郎は、通うのに便利な近い道場に変わってもよいと言いました。それでも、鍵吉は精一郎の道場に通いつづけました。
 鍵吉は、進歩がめざましく非常に上達しましたが、貧しい彼は、免許状の申請をしませんでした。
 当時は、免許皆伝のお礼として、師匠にお礼を贈り、さらに披露の宴を開いて師匠や先輩をもてなすのが、慣習でした。健吉はその費用が工面できないので固辞していたのです。
 それを見かねた精一郎は、自ら費用その他の面倒を一切みて、固辞する鍵吉に対して、鍵吉の免許皆伝を許したのでした。
 鍵吉が、安政3年(1857)27歳の時に講武所教授方に就任しました。これも、精一郎の推薦があったからです。 
 
【高橋泥舟を破る】 
 徳川家茂が第14代将軍となると、鍵吉は講武所の教授方から師範役に昇格し、将軍に近侍するようになりました。
 c0187004_22464075.jpg そして、安政7年(1860)、鍵吉は家茂の御前試合で高橋泥舟と試合をし、泥舟を破っています。
 高橋泥舟は、勝海舟、山岡鉄舟とならんで幕末三舟の一人で、日本第一の槍の名人といわれました。
 高橋泥舟は、山岡鉄舟の義理の兄でもあります。
 ところが、家茂は慶応2年に、第二次長州征伐の途中、大阪城内で病死してしまい、鍵吉は官職を辞しました。 鍵吉は、家茂の後を継いで将軍となった徳川慶喜には仕える気が起きなかったのだそうです。。
 上野戦争では、彰義隊から再三入隊の誘いがありましたが参加しませんでした。
 しかし、この戦いの中で輪王寺宮公現法親王を、戦火の中から救い出しました。

【維新後の榊原】 
 維新後は、徳川家達に従って駿府に赴きました。
 しかし、廃藩置県により、駿府七十万石の存続も危なくなると、迷惑をかけぬよう、早々に辞職しました。
c0187004_2248714.jpg 明治5年に、廃刀令が出ると、剣の代わりに杖を腰に差し、明治6年には、窮乏する道場の資金稼ぎとして、撃剣興行を始め、維新後衰退した剣術の再興と普及に取り組みました。
 これは大変好評で、これを真似る見世物が氾濫しましたが、剣術を見世物にすることに耐えられなかった鍵吉は興行は止めてしまいます。

 このように剣術で生きていくのが難しくなる時代に、明治20年に明治天皇行幸の席で、鍵吉の晴れ姿を見せることができたのでした。
 榊原鍵吉は、明治27年9月11日に亡くなりました。65歳でした。
 鍵吉は死ぬまで髷を解かなかったそうです。
 鍵吉の墓は、四谷西応寺にあります。

 明治になって、坂本龍馬暗殺の犯人であると証言した今井信郎( のぶお)は榊原鍵吉の弟子です。
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by wheatbaku | 2010-06-22 05:34 | 『幕末』 | Trackback
男谷精一郎 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末の剣豪で最も有名な三大道場については、先週書きましたが、幕末の剣豪をあと二人紹介したいと思います。
 その中で、今日は「剣聖」と呼ばれた 「男谷精一郎信友」 について書いていきます。

【勝海舟の義理の従兄弟】  
c0187004_18224838.jpg 男谷信精一郎友は、寛政10年(1798)、男谷信連の子として生まれました。
 20歳の時に同族の男谷彦四郎の婿養子となります。
 彦四郎の父は男谷平蔵で、平蔵の長男が彦四郎で、三男が小吉すなわち勝海舟の父です。
 従って、男谷精一郎と勝海舟は義理の従兄弟ということになります。
 ただし、勝海舟が生まれたときに、男谷精一郎は25歳ですので、だいぶ年の差がある従兄弟ということになります。
 勝海舟も剣術の指導を精一郎から受けています。
 右の勝海舟の写真は国立国会図書館蔵

【他流試合を拒まない】  
 文化2年(1805)、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12代の団野源之進(真帆斎)に入門し、さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術も熟達した。
c0187004_17154211.jpg 文政6年(1824)に麻布狸穴に道場を開き、31歳の時に直心影流13代を継承しました。
 文政12年(1830)、男谷彦四郎の養子となりました。
他の流派の多くは、他流試合を禁じていましたが、男谷精一郎は積極的に他流試合を行いました。
 精一郎は、申し込まれた試合は一度も拒まず、江戸府内に立ち合わなかった者はいないといわれるほどでした。
 そして、試合では、どんな相手でも三本のうち一本をとらせ、相手に花を持たせました。
 その性格はきわめて温厚であり、門弟や女中達にも平等に、穏やかに接する人物でもあったそうです。
 また、実力もすごく、作家の直木三十五は、史上最強の剣豪に新陰流の祖である上泉伊勢守をあげ、第二位に男谷精一郎が挙げています。
  こうした人間性と実力の高さと合わせて「幕末の剣聖」と呼ばれました。
  作家の中里介山や心母澤寛も、幕末の剣客の第一人者は男谷精一郎であると言っているそうです。
  右写真は男谷家があったと言われている「両国公園」です。

【講武所で活躍】  
 安政2年(1855)、講武所が開設されました。講武所の開設は、水野忠邦の時代から、精一郎が度々建議をしてきたものでした。 精一郎は講武所頭取並となり、剣術師範役を兼務しました。
 文久2年(1862)には、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられ、文久3年(1863)の将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねました。
そして、その翌年元治元年(1864)67歳でなくなりました。
 
【有名な弟子たち】  
 精一郎の門弟には、勝海舟の剣の師匠となる島田虎之助、兜割りで有名な榊原鍵吉、彰義隊の中心人物となる天野八郎などがいました、
 
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by wheatbaku | 2010-06-21 05:39 | 『幕末』 | Trackback
桃井春蔵 (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
今日は、江戸三大道場の最後に、鏡新明智流「士学館」の桃井春蔵について書きます。

【春蔵は4人いる】 
 三大道場の中で、最も早く開設されたのは、桃井春蔵の「士学館」でした。 
 桃井春蔵というのは、鏡新明智流の初代から4代まで4人います。
 鏡新明智流は初代桃井春蔵直由(なおよし)が創始した流派です。初め鏡心明智流と書いたそうです。
 直由は大和郡山藩柳沢家の臣でしたが、浪人となり諸国をまわり、戸田流居合術、一刀流、柳生流、堀内流の4流を修め、戸田流の秘太刀を基本に、槍術山本無辺流の長所を加えて一流を編み出したといいます。
 安永2年(1773)江戸へ出て、日本橋南茅場町に道場「士学館」を開きました。
c0187004_1775520.jpg  そして、芝神明社への掲額事件で評判をとりました。
 2代目春蔵は、初代の門人で養子となった春蔵直一(なおかず)で、直一が寛政年間に「士学館」を築地蜊(あさり)河岸に移しました。
 3代春蔵直雄(なおかつ)は2代目直一の実子です。3代目の時代には、道場もますます盛況を示しました。
 
【4代目春蔵が有名】 
 そして、4代目春蔵が「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評された直正です。
 4代目春蔵直正は、駿河沼津藩士・田中十左衛門の次男として生まれました。
 天保9年(1838)、江戸に出て3代目桃井春蔵直雄に入門し、鏡新明智流を学びました。
 直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、天保12年(1841)、17歳で養子となりました。
 嘉永元年(1848)には免許皆伝の腕を持つようになり、25歳で4代目桃井春蔵を襲名しました。
 文久元年(1861)に、は講武所の教授方に登用されています。

【新撰組も恐れをなす】 
 この頃、春蔵は、新撰組も恐れをなしたと言われています。
 慶応元年ごろ、春蔵は弟子を連れて京都を歩いていると、新撰組の隊員に出くわし、「道を譲れ。譲らぬと斬るぞ」と難癖をつけられ、相手は抜刀しました。
 このとき、春蔵は「わしは剣で腕を鳴らした桃井春蔵だ。お望みなら相手になるぞ」と告げました。
 すると、新撰組隊士は、慌てて謝罪し、退散したと言われていうことです。

【晩年は大坂で過ごす】 
 c0187004_8452691.jpg 慶応3年(1867)には遊撃隊頭取並に任じられ、春蔵は将軍慶喜と共に大坂入りしています。
 しかし、薩長軍との戦闘に反対し辞職しました。
 その後、大坂に残り、大阪府羽曳野市にある誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の宮司となりました。
 誉田八幡宮(右写真)は応神天皇陵のすぐ近くにあり、日本最古の八幡宮といわれているそうです。
 明治18年、コレラにより死去しました。61歳でした。

【門弟は土佐藩関係者が多い】 
 玄武館は水戸藩との関係が深く、練兵館は長州藩と関係が深いのですが、士学館は土佐藩との関係が深いようです。c0187004_2015343.jpg 
 安政4年頃には、龍馬伝に出てくる武市半平太が塾頭を勤めています。
 また、後に「人斬り以蔵」と呼ばれる土佐藩の岡田以蔵も士学館で修行しました。
 その他の門弟としては、四天王の一人浜松藩の上田馬之助もいました.
 さらに、期間は短いのですが佐倉藩出身で明治になって上田馬之介とともに警視庁の撃剣世話掛となった逸見宗助も士学館に入門した一人です。

 写真は、武市半平太や坂本龍馬が暮らした土佐藩中屋敷があった跡に現在たっている中央区役所です。
 ここからは蜊(あさり)河岸までは、5分程度の近距離にあります。
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by wheatbaku | 2010-06-18 08:23 | 『幕末』 | Trackback
斎藤弥九郎② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、斉藤弥九郎の2回目です。

 斉藤弥九郎は、剣術だけでなく、政治などにも深くかかわります。
 これは、岡田十松の弟子に、伊豆の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山等の名士がいて、かれらと交際していたことが大きな影響を及ぼしていると思います。

【江川英龍と強い関係】 
 その中でも、特に江川太郎左衛門英龍と深い交際関係を築いています。
c0187004_15142119.jpg 江川英龍は18歳の時に「撃剣館」に入門し、その時江川より3歳年上の21歳であった弥九郎から指導を受けます。そして、2年後には免許皆伝を受けています。
 弥九郎が俎板橋に「練兵館」を開く際に、江川はそれに対して資金援助をしています。
 弥九郎は、江川が天保6年(1835年)伊豆国韮山の代官となると、江戸詰書役として仕えました。
 天保9年(1838)には、江川は老中水野忠邦の命令により江戸湾の測量の実施に鳥居耀蔵とともに任命されました。
 この時に、弥九郎は渡辺崋山と相談して、測量の専門家の推薦を高野長英の弟子の内田孫太郎を江川に推薦しています。また、この測量に弥九郎自身も江川の手代として参加したといわれています。
 なお、この測量の際の江川と鳥居の対立が、後に「蛮社の獄」のきっかけになっています。

【お台場築造にも関与】 
 嘉永5年にぺりーが来航したことを受けて、江川は、江戸湾防備のために品川台場の築造を建議しました。
c0187004_1514025.jpg  そして、建議した江川が台場の築造を命じられます。この時も、弥九郎はその実地測量や現場監督を行ったとされます。
 品川台場は、わずか8か月で完成します。しかし、当初は11基の予定であった台場は、まず第1~3、次いで第5~6、さらに陸続きの御殿山下台場と、合計6基だけが竣工し、残りは築造が中止されました。
 安政2年(1855年)に江川英龍が死去しても、弥九郎は後継の江川英敏からも引き続き助力を要請されました。
 同じ年の10月には安政の大地震で藤田東湖が水戸藩邸内の自邸で圧死しました。
 『斎藤弥九郎伝』によると、この時弥九郎は東湖の遺骸を自分の長持に納めて水戸へ送り届けたとあるそうです。

【明治新政府にも出仕】 
 安政3年(1856)長男の新太郎が2代目弥九郎となり、練兵館を継ぎました。弥九郎自らは斎藤篤信斎と名乗り隠居しました。
 新太郎も腕がたちましたが、その弟の歓之助も突きを得意として鬼歓とよばれるほど強く、大村藩の指南役として迎えられています。
 弥九郎は、文久3年(1863)には、長州藩の依頼を受け、門人の中から十数名を選抜し、勇士組と称して長州へ派遣したりしています。
 明治になってからは、明治政府に出仕し会計官権判事となって大坂に赴任し、明治3年、造幣寮が火事になった折りに猛火の中に飛び込み、大火傷を負いながらも重要書類を運び出しました。
 そして、その時の火傷がもとで、明治4年10月に死去しました。74歳でした。
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by wheatbaku | 2010-06-17 05:46 | 『幕末』 | Trackback
斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 千葉周作に続いて神道無念流「練兵館」の「斎藤 弥九郎」について書いてみます。
 
 斎藤弥九郎は、寛政10年(1798年)に越中国射水郡仏生寺村(現在の氷見市)で農民の子供として生まれました。
 小さい頃、高岡で油屋の丁稚や薬屋の小僧となりましたが、思うようにならなかったので、一度帰郷した後、銀一分をもって江戸に出ました。

【岡田十松に弟子入り】 
 江戸で、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕として働きながら、19歳の頃、神道無念流の岡田十松吉利に入門しました。
 岡田十松は神田猿楽町で「撃剣館」という道場を開いていました。
 岡田十松の弟子には、伊豆の代官の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山、新撰組局長の芹沢鴨ら有名人が大勢いました。
 弥九郎は剣の腕をあげ、28歳の時、師範代となり、十松の没後には、その後継の岡田利貞を後見しました。

【練兵館を設立】 
c0187004_15145166.jpg そして、文政9年(1826)には独立し、江戸九段坂下の俎橋(まないたばし)近くに「練兵館」を開きました。この時、江川英龍が資金援助をしています。
 この練兵館は火災にあったため、その後天保9年(1838)三番町に移転しました。
  ☆現在、靖国神社の南門脇に、千代田区設置の史跡説明板があります。
 しばらくすると、2代目十松岡田利貞が、「撃剣会」を3代目十松岡田利章に引継ぎ、自分は練兵館にやってきて師範代として斉藤を助けることになりました。

【練兵館には長州人が多い】 
 弥九郎の門人も大勢いますが、特に長州藩士の門人が多くいます。
c0187004_1517989.jpg これは、弥九郎の長男の新太郎が、嘉永2年(1849)と嘉永5年(1852)に長州藩を訪れていることが大きく影響しています。
 吉田松陰も、江戸遊学中の嘉永4年10月に斉藤弥九郎と新太郎を訪問しているそうです。
 また 嘉永5年の訪問のあと、長州藩は練兵館に、5名の藩士を藩費で修行のため送っています。
 その時、桂小五郎(木戸孝允、写真は「国立国会図書館蔵」)は私費で江戸へ留学することとなり、練兵館に入門しています。
 桂小五郎は、翌年には、早くも塾頭となり、以後数年間にわたり練兵館の塾頭を務めました。

 その他、長州藩の門下生として、高杉晋作・品川弥二郎・井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)らがいます。
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by wheatbaku | 2010-06-16 06:12 | 『幕末』 | Trackback
千葉周作② (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、千葉周作の2回目です。
 千葉周作は、北辰一刀流を創始した後、千葉周作は、武者修業の旅にでます。
  関東一円から甲斐・駿河、三河などを巡って他流試合を行い腕を磨きました。

【馬庭念流との騒動】 
 廻国修行中、上州で伊香保神社に奉納額を掲げることを企画しましたが、地元の馬庭念流がこれを阻止しようとする騒動が発生し、最終的に掲額を断念しました。
 この話は曲亭馬琴が、「兎園小説」の中で、「伊香保の算額」と題して書いて有名となりました。 この騒動で、掲額はできませんでしたが、周作自身は名を挙げました。

【玄武館を創始】 
c0187004_2142367.jpg 周作は江戸に帰り、文政5年(1822)秋、日本橋品川町に道場「玄武館」を開きました。
 その後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を育てました。
 これが有名な「お玉が池の千葉道場」です。
 玄武館の隣は、儒学者東条一堂の揺池塾(ようちじゅく)であり、玄武館の塾生が儒学を学び、揺池塾の塾生が剣術を学ぶことができ、剣術と儒学が同時に学べると評判でした。
 東条一堂が亡くなった後、玄武館は、揺池塾の敷地もあわせたので、玄武館道場は一町四方の敷地面積になったそうです。
 写真は、玄武館道場跡を示す「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の石碑です。神田の千桜小学校跡にあります。

【北辰一刀流の特徴】 
 北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得ました。
 それまでの中西派一刀流は、習得までの段階が8段階あり費用も時間も多くかかりました。
 しかし、北辰一刀流は、初目録、中目録免許、大目録皆伝の3段階と簡素化しました。
 また、北辰一刀流の基本的な構えとして「鶺鴒の尾」があります。
 下段の構えで、刀の先をセキレイの尾のように動かす特徴的な動きがあります。
 これは、剣先が凝り固まらないようにするため、行動に移すのを早くするため、動作の始まりを相手に気づかれないようにするためだそうです。

【大勢の門弟】 
 玄武館には、多くの門弟が集まり、門弟の数は、浅草観音に奉納した額には3千600人の名前があったそうです。
 門弟は全部では6千人を超えるとも言われています。
 千葉周作の有名な門下生は、浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられます。
 弟の定吉は、当初は兄の周作を手伝っていましたが、京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称されました。
 定吉の弟子で最も有名なのが坂本龍馬です。
 
c0187004_2144508.jpg【水戸徳川家に仕える】 
 周作は、天保3年(1835)に水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けました。
 千葉周作には4人の男子があり、長男奇蘇太郎(きそたろう)、次男栄次郎、三男道三郎、四男多門四郎のいずれも資質に恵まれましたが、とくに栄次郎はすばらしい腕前の持ち主で、千葉の小天狗と称されました。そして、次男の栄次郎成之と三男の道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっています。
 千葉周作は、 安政2年(1855)になくなり、豊島区巣鴨の本妙寺に眠っています。

 
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by wheatbaku | 2010-06-15 06:20 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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