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北桔橋門 (「三十六見附」)
 平川門の北側の見附は、「竹橋門」ですが、こちらは、すでにご案内してありますので、今日は、竹橋の隣の 「北桔橋門(きたはねばしもん)」 を紹介します。

【橋をはねあげていたので桔橋門】 
c0187004_10115826.jpg 北桔橋門の辺りは、大田道灌時代、城の大手であったという話もあります。
 江戸時代、北桔橋門は本丸から外部に直接通じる門であったため、橋を桔(は)ねあげて遮断していました。
 そのため、「桔橋門」の名前があります。
 また、同様な「桔橋門」が本丸と吹上方面をつなぐ場所にあり西桔橋門と呼ばれています。
 こちらは、本丸の北側にあるため、「北桔橋門」と呼ばれます。
 かつては、渡櫓門もある枡形門でしたが、現在は高麗門だけとなっています。

【雄大な石垣】 
北桔橋門付近は本丸のすぐ近くにあるため、防備を厳重にしました。
 そこで、石垣を高くし、濠も広く深くしてあります。江戸城のなかで最も堅固で雄大な箇所となっています。
 そのため、この付近の石垣は見ごたえがあります。
c0187004_10121766.jpg 上写真は、平川濠側の石垣。
 下の写真は乾濠側の石垣です。
 それぞれ、北桔橋門の前から撮っています。 
 西側の乾濠側の水位は高く、東側の平川濠の水位は非常に低くなっています。
 また、東側の平川濠に面する石垣は水面から役21メートルもあり、日本の高石垣では五指に入る高さだそうです。
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by wheatbaku | 2010-07-30 06:16 | 三十六見附 | Trackback
平川門 (「三十六見附」)
 今日は、大手門を飛ばして平川門にいきたいと思います。

【別名は「お局門」または「不浄門」】 
 平川門は三の丸の正門になります。
 平川門は、太田道灌のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあったためその名まえがあります。
c0187004_1730168.jpg 平川門は、奥女中の通用門でもあったため、「お局(つぼね)門」とも呼ばれました。
 奥女中との関係で有名なお話は、春日局が門限に遅れ入門することができなかった話です。
 このときの門番は小栗又一郎という旗本でした。春日局は実力者、その春日局を締め出したのですからお叱りを覚悟したと思いますが、逆に役目を守ったとしてお褒めにあずかり500石の加増を受けたそうです。
 この人は、幕末の動乱期に、勘定奉行等を歴任しその後官軍によって斬罪となった小栗上野介の先祖に当たる人物です。

【木橋は江戸城に二つ】 
c0187004_1723531.jpg また、平川門は不浄門といわれ、元禄14年 (1701)の松の廊下で刃傷事件をおこした浅野内匠頭や正徳 4 年(1714)に大奥女中の絵島が送り出された歴史もあります。
 門前の橋は木橋となっていて平川橋と呼ばれています。江戸城の木橋としては、現在は、平川橋と和田倉橋だけとなっています。
 木橋には擬宝珠(ぎぼし)があり、江戸のおもかげを残してくれています。


c0187004_8362560.jpg【帯曲輪門】 
  ここは大手門・北桔橋門(きたはねばしもん)とともに皇居東御苑の出入口になっていますので、橋を渡って門を入ることもできます。
 橋を渡ると右手に高麗門があります。高麗門を入ると、枡形になっていて左に渡櫓門がある左折枡形門となっています。
 その渡櫓の右端に帯曲輪門(おびくるわもん)という小さな門があります。
 近づけないので詳しいこともわかりませんが、帯曲輪につながっているとのことです。

c0187004_17242379.jpg【帯曲輪】  
 帯曲輪はここから平川濠を細長く渡り廊下のように竹橋まで続いています。
 ここが本丸に近く、最も防備を要する地点であるため、二重三重に堀をめぐらせたものといわれています。
 雉子橋門にはすぐ竹橋門を配置し、一ツ橋には平川門を配し、わずかな距離に二重に堀をめぐらし、さらに帯曲輪で堀を三重にしています。
 このようにな至近距離に三重に堀をめぐらしているのはここだけです。
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by wheatbaku | 2010-07-29 06:19 | 三十六見附 | Trackback
内桜田門 (「三十六見附」)
今日は、坂下門の東にある内桜田門について書いてみます。

 内桜田門は、桜田郷にあり、外桜田門に対して内桜田門と称しています。

【たくさんの呼び名のある内桜田門】 
 c0187004_1625177.jpg内桜田門は桜田大手門とも言います。大手門の名のつくのは、「大手門」「西の丸大手門」「桜田大手門」の三つがあります。
 この三つの門は、御三番所といい、門番の頭を番頭と書いて、他の門番の頭は伴頭と書いたそうです。やはり格が違っていたのでしょう。
 その他、たくさんの名前をもっています。太田道潅が築城した頃、海水がこの門まで打ち寄せていたので「泊船門」と呼ばれたり、門の瓦に太田家の桔梗の門をつけたので「桔梗門」と呼ばれたり、桔梗ではなく「吉慶門」だとか、「吉祥寺の旧地だから「吉祥門」だとかいろいろな呼び名があります。
内桜田門は、三の丸と西の丸下を結ぶ門で慶長6・7年ごろは枡形はなかったようですが、慶長12・3年の図では枡形になっているそうです。
 土橋の正面には高麗門があり、それを入って右の渡櫓門からなる枡形形式となっています。ここも関東大震災で大破しましたが復元されました。
 この門も警備が厳重で通常は入門できませんが、新年と天皇誕生日の一般参賀の退出門です。そして、皇居参観の時の集合場所で、ここで受付が終わると、内桜田門から入城するようです。

【桜田巽櫓】 
c0187004_16253169.jpg 桔梗濠の東南隅にたっている櫓は、桜田巽櫓と言います。
 巽櫓というのは、本丸の東南すなわち辰巳の方向にあるからつけられた名前です。
 また、二重櫓ですので、桜田二重櫓とも呼ばれています。 二重櫓としては日本で最大級のものです。
 三の丸には、櫓は、この櫓しかなったそうです。たった一つの櫓が現在まで残っているのですから貴重だと思います。
 江戸城には19の二重櫓・三重櫓があったそうですが、現在は三つしか残っていません。つまりこの桜田巽櫓と伏見櫓そして富士見櫓です。
 
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by wheatbaku | 2010-07-28 05:26 | 三十六見附 | Trackback
坂下門 (「三十六見附」)
今日は、西の丸大手門の東にある坂下門 について書いてみます。

【坂下門】 
 坂下門は、西の丸と西の丸下を結ぶ門で、坂下に位置しているので坂下門と呼ばれます。
 また、城内の紅葉山に通じる門なので山の門ともいいました。
c0187004_1646689.jpg 現在の坂下門は、正面からみると豪快な大きな門です。しかし、江戸時代には、坂下門はこのような形をしていませんでした。
 江戸時代には、坂下門も高麗門と渡櫓門のある左折枡形門でしたので、土橋から入れば、まず高麗門があり左に渡櫓門がありました。
 明治になってから高麗門や枡形を取り除き、渡櫓門を北面から東面に90度向きを替え、高麗門の場所に移築したのです。
 ですから、明治以降、現在のような形に変わりました。そして、現在の門は、関東大震災後、鉄筋コンクリートに改造されたものです。

【厳しい警戒】 
c0187004_1646393.jpg 現在は宮内庁通用門となっており警備は厳重で土橋の部分にも入れません。
 この写真では、人が通行していますが、皇宮警察官が一人ひとりチェックしてから門内に入っていきました。
 しかし、正月・天皇誕生日の一般参賀の際の出口の1つとして指定されているそうですので、その際には、坂下門を間近にみることができますが、私はまだその機会がありません。


【坂下門外の変】 
 下の写真は、長崎大学付属図書館蔵の明治初年の坂下門ですが、左端に高麗門と渡櫓門があるのがわかるだろうと思いますがいかがでしょうか?

c0187004_16484512.jpg 坂下門に関係する事件で有名なものに坂下門外の変があります。
 坂下門外の変は、文久2年(1862)1月15日、坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士たち6名が老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件です。
 坂下門外の変については、過去にブログに書きましたので、 「坂下門外の変」をご覧ください。
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by wheatbaku | 2010-07-27 08:14 | 三十六見附 | Trackback
二重橋 (西の丸大手門② 「三十六見附」)
 今日は、有名な「二重橋」についてのお話です。

c0187004_18204714.jpg【二重橋】 
 二重橋とは、一般的には、右の写真の橋を指して二重橋と呼ばれています。
 それは、二重橋は、手前の橋と奥の橋が二つ架けられていることから二重橋といわれているからだとか、手前の橋と奥の橋が二重に重なって見えるところから二重橋とか、手前の橋がめがね橋になっているからだとかいろいろな説があります。
 しかし、実は、そうした説は間違いです。

【二重橋は橋脚が二階建てだから】 
本当は、奥にみえる橋が二重橋なのです。
c0187004_18215618.jpg  江戸時代には、手前の橋は、前回書きました通り西の丸大手橋と呼ばれ、奥の橋は西の丸下乗橋が本名でした。
 現在は、手前は「正門石橋」、奥が「正門鉄橋」が正式名称となっています。
 西の丸下乗橋は、慶長19年(1614)に架けられました。
 西の丸下乗橋は、現在は鉄橋ですが、改造前の木橋の時代には、堀が深かったため、橋桁が二階建てになっていました。そのため、二重橋と呼ばれたのです。
 現在の橋は明治21年になって鉄橋に架け替えられ、さらに昭和39年に新宮殿の建設にあわせて架けなおされたものです。
 
【伏見櫓】 
c0187004_1821460.jpg  二重橋の奥に見える櫓が伏見櫓です。別名「月見櫓」とも呼ばれています。
 西の丸の築城にあたって伏見城の櫓を解体しここに移築したと伝えられていて、それにより「伏見櫓」と名づけられたと言われています。
 しかし、伏見城の櫓を移築したという記録はないということであり、伏見城からの移築したという説は信憑性は低いようです。
 ところで、櫓とは「矢倉」のことで、武器を貯蔵するのが主な目的でした。
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by wheatbaku | 2010-07-25 18:11 | 三十六見附 | Trackback
西の丸大手門 (「三十六見附」)
 今日の「三十六見附」は、和田倉門から皇居外苑を渡って、 「西の丸大手門」 に行きたいと思います。

【今の正式名称は「正門石橋」】 
 「西の丸大手門」は、西の丸の正門でいわゆる二重橋と呼ばれている二つの橋の手前の橋を言います。
 この橋は、現在は正式には「正門石橋」といいます。
c0187004_14162273.jpg 江戸時代は、西の丸大手門を渡った先の枡形は、高麗門と櫓門が同一方向に並んだ形になっていました。従って、高麗門をくぐるとその正面に櫓門が見えたことになります。
 右の写真は長崎大学付属図書館蔵の二重橋の写真ですが、写真左端に枡形が写っていて、橋を渡った先に高麗門があり、その直ぐ後ろに櫓門があるのがわかるだろうと思います。
 その枡形の先には的場曲輪があり、右折して再び櫓門をくぐりさらに右折して(つまりUターンする形になります)、二重橋と通称されている「西の丸下城門(げじょうもん)」を渡り、書院門をくぐって西の丸にはいるようになっていました。
 現在も、正月・天皇誕生日の一般参賀客はこのルートで西の丸にある宮殿に向かうようです。
 この辺の縄張りは西の丸に対する防御として2代将軍秀忠が自らおこなったといわれます。

c0187004_14245075.jpg 【正面は櫓門】 
 江戸時代に橋の正面にあった高麗門と櫓門のうち、高麗門は明治21年に皇居を新築する際に撤去され、後方にあった櫓門が前に移動されて残されました。
 従って、現在の橋の正面にみえるのは、昔の櫓門です。

【西の丸の役割】 
 西の丸は主に将軍職を譲った大御所の住居や将軍世嗣の住居として使われました。
 大御所として、西の丸に居住した将軍は、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、11代将軍家斉の3人でした。
 9代将軍家重も大御所となりましたが、家重は二の丸に居住して西の丸には居住しませんでした。
 しかし、西の丸に大御所が居住した年数は3代合わせても15年程度にすぎず、西の丸の性格は将軍世嗣の住居としての性格の方が強いといえます。
 4代将軍家綱以降の将軍世嗣のほとんどが西の丸に住んでおり、世嗣として西の丸に居住したことのない将軍は、8代将軍吉宗と15代将軍慶喜のみです。
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by wheatbaku | 2010-07-22 05:55 | 三十六見附 | Trackback
和田倉門 (「三十六見附」)
今日は、馬場先門の隣にある和田倉門をご案内します。

【和田倉門の由来】 
c0187004_2215713.jpg  慶長12年ごろの図に、この門内に和田倉と称する蔵が2棟あったため和田倉門と呼ばれたそうです。
 和田倉の名前は、「わた」から出たと言われています。「わた」とは海のことで、「わたつみ」「わたの原」という言葉になっています。
 「わたつみ」とは海神のことで、太平洋戦争で戦没した学徒兵の遺書を集めた「きけ わだつみのこえ」が有名です。
 日比谷の入り江がここまで入り込んでいて、その入り江に倉が並んでいたので、「わたくら → 和田倉」と呼ばれるようになったのだろうと言われています。
 この蔵は、後に厩と馬預役宅となりました。

【門は大震災まで残る】 
 和田倉門は元和6年の改築で東北の諸大名により枡形が構築されました。
c0187004_2204445.jpg 渡櫓門、高麗門は大正12年の関東大震災まで残されていましたが、渡櫓は関東大震災で大破したので、大正13年に破却されました。
 高麗門も解体され保存されていましたが、戦後半蔵門に移築されました。
 木橋は戦後復元されたもので、現在の江戸城の木橋は、平河門と和田倉門の二つだけです。
 この橋の擬宝珠(ぎぼし)は元の橋のものを使用しているそうです。
 
 明治天皇が、初めて江戸城に入城する際には、呉服橋を通った後、和田倉門を通ったそうです。


【会津藩上屋敷】 
 現在の和田倉橋を渡っていくと、昭和36年天皇陛下(当時皇太子殿下明仁親王)のご成婚を記念して造られ和田倉噴水公園があります。
 訪れた日は、たまたま噴水がとまっていました。
c0187004_21555673.jpg このあたりに、江戸時代は会津藩松平家の上屋敷がありました。
 9150坪と伝えられる大きな敷地に上屋敷が置かれていました。
 藩祖保科正之の頃には桜田門内に藩邸があったそうですが、宝永6年3代藩主正容の代にこの和田倉門内に屋敷を賜りました。
 周辺の屋敷は老中や若年寄の役宅でしたので、主人が頻繁に変わりましたが、会津藩は、戊辰戦争までここに上屋敷がありました。
 松平容保や藩の重職が、京都守護職の就任という苦渋の選択をしたのも、この上屋敷でした。
 松平容保の悲壮な決意での受諾の経緯については「京都守護職(松平容保)」をお読みください。
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by wheatbaku | 2010-07-21 06:26 | 三十六見附 | Trackback
明治生命館 (馬場先門② 三十六見附)
 今日は、馬場先門の目の前にある明治生命館についてお話します。

 馬場先門交差点の東北角に「明治生命館」があります。
 明治生命館が竣工したのは、昭和9年3月です。そして終戦後にはアメリカ極東空軍司令部として使用するために接収された歴史もあるそうです。
 そして平成9年に、昭和の建築物としては初めて重要文化財に指定されました。
c0187004_2213171.jpg  この明治生命館のある場所が、江戸時代は定火消屋敷でした。そして、そこで安藤広重が生まれています。

【定火消とは】 
 安藤広重はご存知だと思いますが、定火消という言葉はあまり聞かない言葉だと思いますので、定火消から説明します。
 定火消というのは、江戸幕府の職名で、若年寄の支配に属した火消しです。万治元年(1658)4組を設置、のち、10組となったため、十人火消しとも呼ばれたそうです。
 江戸最大の大火と呼ばれる「明暦の大火」の翌年、消防活動をおこなうため、4000石以上の旗本4名を選び、それぞれに与力6名、同心30名を付属させて設置した幕府直轄の消防組織でした。
 4名の旗本には、火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇っていました。
 当初置かれた4ヶ所の火消屋敷は、御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西でした。
 翌年正月の1月4日には、老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なった。これが出初式のはじまりとなり、以降毎年1月4日には上野東照宮で出初が行なわれるようになったそうです。

 【明治生命館は定火消屋敷跡】 
 宝永元年(1704)以降は、定火消は10組となりました。 このため、十人火消などとも呼ばれたそうです。
c0187004_8464584.jpg 10ヶ所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。
 このうち、八重洲河岸のものが、現在の明治生命館のところに設置されていました。
 定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住しました。
 火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていました。
 屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝しました。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動したそうです。

【安藤広重は元火消同心】
 ところで、なぜ定火消屋敷が安藤広重の誕生地かという疑問があると思いますが、実は安藤広重は、火消し同心の子供として生まれました。c0187004_823625.jpg 安藤広重は、寛政9年(1797)、八代洲河岸の定火消同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれました。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門のち徳兵衛と言いました。
 文化6年(1809)13歳のときに相次いで両親を失い、火消同心の職を継ぐことになりました。
 しかし、幼い頃から絵が好きで15歳の時に、初代歌川豊国に入門を望みましたが、すでに大勢の門人がいたため、入門が許されず、豊国とは同門の歌川豊広の門人となりました。入門した翌年の文化9年(1812)には師匠の一字「広」に俗名の一字「重」を加えた「広重」の号を許されました。
 そして、数え年27歳になる文政6年(1823)には、家業の火消同心を辞め、祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵絵師を専門の職業としました。
 そして、天保4年(1833)には「東海道五十三次」で非常な評判を得て、風景画家としての確固たる地位を確立しました
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by wheatbaku | 2010-07-20 05:49 | 三十六見附 | Trackback
馬場先門① (三十六見附)
 今日は久しぶりに「三十六見附」についてご案内します。
 前回までで日比谷門までご案内しましたので、今日は馬場先門をご案内します。
 馬場先門は、東京メトロ「二重橋」2番またはB6番出口を出た場所にあります。JR東京駅または有楽町駅からは意外と時間がかかり徒歩10分ほどかかります。

【名前は朝鮮馬場があったことに由来】 
c0187004_15175740.jpg 馬場先門は、開幕当時は門はありませんでしたが、寛永6年(1629)に、枡形と門が浅野長晟と加藤忠広により構築されました。
 枡形は、右折枡形となっていました。
 馬場先門の名前は、3代将軍家光が、寛永12年に、朝鮮人の曲馬を門内の馬場で見たことから朝鮮馬場と呼ばれ、それがいつのまにか馬場先と呼ばれるようになったためといわれています。
 その後、門は閉じたままで士分の通行も許さなかったので、不開門(あかずのもん)と呼ばれていましたが、寛文8年(1668)の大火後開放し通行できるようになりました。
 門は、明暦の大火で焼失し、万治3年(1660)に再建され、その後明和9年(1773)にも焼失し翌年再建されました。その門も明治9年に撤去され、現在は、鍛冶橋から内堀通りにいたる道路が拡幅されており、門の遺構はありません。

【八重洲はヤン・ヨーステンから】 
 右の写真は、馬場先門跡から見る帝国劇場や第一生命ビルです。
 この写真の日比谷門から馬場先門に至る内濠は、江戸時代、八代洲(やよす)河岸と呼ばれていました。
c0187004_15181333.jpg 八代洲とは、オランダ人航海士のヤン・ヨーステンにちなむ名前です。
 ヤン・ヨーステンは、慶長5年(1600)に豊後国に漂着したオランダの商船リーフデ号の船員です。
 リーフデ号は、オランダのロッテルダムを出航した5隻の船団の中の一隻でしたが、5隻の船は、太平洋で離れ離れになってしまいました。その内の一隻のリーフデ号が豊後に漂着したのでした。
 リーフデ号の漂着者は24名いましたが、船長クワッケルナックらはオランダに帰るため日本を離れました。
 そして、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムス(三浦按針)だけが日本に残り、徳川家康の外交顧問になりました。
 なお、リーフデ号は日本に来たはじめてのオランダの船で、ウィリアム・アダムスは、日本に初めて来たイギリス人です。
 ヤン・ヨーステンは、内堀沿いに屋敷を拝領したので、このあたりが、八代洲(やよす)河岸と呼ばれるようになり、八代洲(やよす)がいつのまにか「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになりました。
 従って、現在は、東京駅の東側が八重洲となっていますが、本来の八重洲は東京駅の西側です。それがすこしずつ東に移動し、現在のように東京駅の東側が八重洲と呼ばれるようになりました。
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by wheatbaku | 2010-07-19 00:01 | 三十六見附 | Trackback
鳥羽伏見の戦い (松平容保⑧ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日まで8回にわたり松平容保について書いてきましたが、今日でとりあえず最後とします。
 今日は、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に帰ってくるまでを書きます。 
 それまで、会津藩は京都で非常に苦労してきましたが、江戸帰還後、更なる苦労が降りかかることとなりますが、そのことは、別の機会に書くこととしたいと思います。

 【大政奉還】  
 慶応2年12月(1867年1月)に、公武合体派の孝明天皇が崩御すると、薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きが急速に進みます。
c0187004_16175562.jpg こうした中で土佐藩から提出された大政奉還の建白書を受けた徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月14日、二条城(右写真)にて大政奉還をおこないました。
 この時期、岩倉具視らの動きにより討幕の密勅が下されようとしていた時でした。慶喜は彼らの先手を打って大政を奉還することで、討幕の口実を失わせることとなりました。

 【王政復古】  
 大政奉還により、倒幕の口実を失ったものの、あくまでも倒幕をめざす岩倉具視や薩摩・長州藩は、慶応3年12月9日に倒幕のためのクーデターを起こし、「王政復古の大号令」を発令しました。
 その内容は、 「幕府および.摂政・関白を廃止し、.新たに総裁、議定、参与の三職をおく。 」というものでした。
 これにより京都守護職や京都所司代も廃止されました。
 これに対して、5年にわたる長い間京都守護職として苦労してきた会津藩や容保の弟松平定敬が京都所司代として任命されていた桑名藩は激怒し、薩摩・長州と戦うべしという主戦論が強まります。
c0187004_16181827.jpg そこで、慶喜は、それらの意見を押さえるため、二条城から大坂城に入り、戦争を回避しました。
 しかし、江戸の薩摩藩邸焼き討ちに触発された幕府軍は、翌年1月3日に、巻き返しを図るため京都に進軍を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
 鳥羽伏見の戦いでは、会津藩は、伏見街道で幕府軍の先鋒として戦いますが、幕府側は新政府軍に敗北します。

 【江戸に脱出】  
 敗北の報が伝わると、大阪城にいた慶喜は、反攻を宣言しながら、夜間に大阪城を抜け出し、幕府軍艦開陽丸に乗って江戸に脱出してしまいます。
 慶喜に従ったものは、松平容保、松平定敬、老中の板倉勝静、酒井忠惇など数名でした。
 この経緯について、慶喜は、明治になって、「昔夢会筆記」に
 「大坂を出る時に会津藩の松平容保と桑名藩の松平定敬を一緒に連れて帰ったのは、彼らを大坂に残しておけば、戦争が始まるからである」と述べています。
 会津や桑名の主戦派により鳥羽伏見の戦いが始まったことを悔いた慶喜は、神保修理の「速やかに東帰して前後の策をめぐらすべし」という建言にもとづき江戸に帰ることを決意したといいます。
 なお、神保修理は会津藩家老神保内蔵助の子で当時軍事奉行添役で、若手の俊英といわれていました。

 結果的に、会津藩兵を見捨てる形となった容保は、彼らからの非難を受けて、 「公(将軍慶喜)に随行して東下すれば、臣下に義を失い、臣下に対して義をたてんとすれば、公に義を失う」。両立することはできないので、「遂に公に従って密かに発航した」と苦しい心情を吐露しているそうです。
 そして、東帰を進言したといわれる神保修理に切腹を命ずるとともに、容保自身も家督を養子の慶徳に譲って隠居することにしました。
 こうして恭順の意を表しますが、時すでにおそく容保は新政府の追討の対象となり、悲劇の戦争に突入することになるのです。
 
 戊辰戦争における会津の戦いは、またの機会に書くこととして、ひとまず松平容保についての記事は一区切りつけたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-07-16 05:40 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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