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大手三の門 (三十六見附)
 大手門を入り、渡櫓門を抜けて左に曲がると正面に 「大手三の門」 があります。
 今日は、この「大手三の門」のご案内です。

 大手三の門は三の丸から二の丸に入る正門で、寛永6年に酒井忠世など8名の大名により築かれました。

【ここで下乗したので別名下乗門】 
 大手三の門も枡形門で、門前は、江戸時代には、二の丸と三の丸を別ける濠がありました。
 その濠が大正8年に埋め立てられたため、現在は濠も橋もなくなっています。c0187004_202917.jpg 江戸時代には、その濠に架かった橋の外側には「下乗」と書かれた札がありました。
 ここで、大手門の「下馬」でも駕籠を降りる必要のなかった「乗輿」以上の格の大名・旗本も、御三家と日光門主など以外は、全員、駕籠をおりなければなりませんでした。
 このため、大手三の門は、別名下乗門とも呼ばれます。
 また、大名とともに城内に入れる供連れの人数もさらに減らされました。
 御三家は10人、四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子で5人、1万石から10万石の大名は4人になってしまいました。
 
【三の門の由来(私見)】 
 なぜ三の門と呼ばれるのか明確に書かれたものがありません。
 あえて推測で言えば、本丸御殿の前の「中雀門」が一の門、次の「中の門」が二の門、そして、その次にあるので、三の門と呼ばれたのではないかということも考えられます。

【同心蕃所】 
c0187004_20293338.jpg 枡形の中には同心番所があります。
 これは元々は門外の濠の外にあったようです。
 説明板には
「番所は、警備の詰所のこと 百人番所、大番所、同心番所の3つが残っている。同心番所には同心が詰め、おもに登城する大名の供の監視に当たっていた。」
と書かれています。
 三の門の警護は、鉄砲組が担当していましたので、この同心番所の同心が監視していたのは、大名や旗本が登城した後に残されたお供の人たちのようです。


【供はどこで待っていたのか】 
 ところで、下乗門で入場を制限された供連れはお殿様が下城してくるまでどこで待っていたのでしょうか。
 最後の殿さまと呼ばれた浅野長勲の話では、「供の者は登城している間、下乗門の外で待っているので、随分難儀なものです」と言っているので、下乗門の外で待っていたようです。
 一方、小川恭一氏の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると「残された従者は大手橋前の広場で乗物とともに待ちます」と書かれています。これによると供も駕籠も大手門外で待っていたことになります。
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by wheatbaku | 2010-08-31 23:46 | 三十六見附 | Trackback
下馬(げば) (大手門② 三十六見附)
 大手門の門前には、江戸時代には 「下馬(げば)」 という札が立てれていました。
 今日はその「下馬」についてのお話です。

【大手門は大下馬と呼ばれた】
 大名や旗本が江戸城へ登城する時には、本丸に登城する場合には大手門、内桜田門、西の丸に登城するには西の丸大手門を利用しました。
c0187004_22333377.jpg これらの門前は「下馬」と呼ばれ、特に大手門前は「大下馬」と呼ばれました。
 右の写真は現在の大手門交差点すなわち「大下馬」の様子です。遠くに大手門が見えます。
 大手門の前の橋の外側に「下馬」と書かれた立て札が立てられていました。
 これは文字通り、ここで馬を下りることを意味していました。ここから先は、大名や役高500石以上の役人・高家・交代寄合など「乗輿(じょうよ)以上」の格をもつ者以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。
 下馬から先に連れていける共連れの人数は、三家や四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子は13人、1万石から10万石の大名は10人~11人に制限されました。
 「下馬」という文字は足利将軍以来の伝統筆法で記されたもので、はじめは曾我尚佑が任じられました。そして、これの伝法には時の将軍の認可が必要だったそうです。

【下馬評の由来】
  通常の時は大手門、内桜田門、西の丸大手門が下馬でしたが、登城人数が多くなる式日には、大手門より外側の鍛冶橋、呉服橋、常磐橋が下馬となります。
 (なお、和田倉門、馬場先門、外桜田門が人数が多い日は下馬となると書いてある本〔田村栄太郎著「江戸城」など〕もあります。)
 多くの大名は、下馬までは多数の家臣と共に登城しますが、家臣の多くは下馬先で待たざるをえませんでした。
c0187004_1763659.jpg  ここで、家臣たちは、大名が下乗してくるまでの時間を幕府内での出世話や人の評判・噂話をしてつぶすことが多くなりました。
 このことから「第三者が興味本位にする噂や評判」を意味する『下馬評』という言葉が生まれました。

 大手門前には、大名が下城するのを待つ人や大名の登城風景の見物客が大勢集まっているので、自然と彼らを相手にした商売が行われたとも言います。いなり寿司やそばや甘酒などの飲食物をうる屋台が多く出たという話もあります。

【大手門の警備は最高に厳重】
 大手門の警固は、十万石以上の譜代大名が受け持ち、江戸城にある城門のうちで最高位にありました。
c0187004_177315.jpg 『徳川盛世録巻之二』によると、鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていました。
 そして大手門は将軍の出入りする門でしたので次のように警備方法も厳重でした。
「御規式御成ノ節ハ其番所の詰番大名衣服 熨斗目半袴着、通御ノ節不残人払当主面番所中程土間へ、盛砂致シ左ノ場所ヘ平伏、枡形ニ家老壱人、御門扉際ニ留守居役壱人蹲踞罷有候事」
 大手門の開閉時間は、享保6年(1721)の定めによると「卯の刻(午前6時ころ)から酉の刻(午後6時ころ)まで」と決められていました。
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by wheatbaku | 2010-08-30 22:27 | 三十六見附 | Trackback
大手門 (「三十六見附」)
 今日から、また、「三十六見附」を始めたいと思います。
 今日からは大手門から江戸城に入って、天守台まで紹介していきたいと思います。
 まず今日は 「大手門」  です。
 
 大手門は、大手町交差点から土橋をわたったところにあります。
 JR東京駅の丸の内北口から歩いて10分です。

【大手門は江戸城正門】
 大手門は江戸城の正門になります。大名や旗本が本丸に登城する際には、主に大手門と内桜田門から登城しました。
c0187004_22193027.jpg  かつて門前には大手門橋がかけられていましたが、大正年間に埋め立てられて、現在は土橋となっています。
 「慶長図」という慶長年間の古地図には大橋と書かれていて、また「寛永図」には元大橋口とあるそうで当初から正門だったと思われます。
 大手門は慶長年間に藤堂高虎が縄張りし、その後元和年間に築いたのは伊達政宗で延べ42万3千人余の人力と大判2千600枚あまりの黄金を費やして築いたといわれています。
 この伊達政宗が築いた大手門は明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失したので、万治2年(1659)に再建されました。
 
【大手門は外桝形門】
 第一の門は高麗門です。これを入ると、四角に囲われた桝形と呼ばれる広場があり、右奥に重厚な渡櫓門がある右折枡形門です。
c0187004_22201478.jpg 桝形とは、広場が正方形で枡の形をしているからそう呼ばれると言います。
 また、城から討って出る軍勢の数をこの広場を利用して、枡でもの計るように計算することができるので桝形と呼ばれるようになったという説もあります。
 桝形には、城の内側に構えた内桝形と外側に構えた外桝形があり、大手門は外枡形です。
 右の写真は大手門をパレスホテル方向から撮ったものですが、大手門の部分が出張っている形になっています。

【鯱は明暦3年の作】
c0187004_22204289.jpg 枡形の中には、鯱が置いてあります。
 この鯱は、渡櫓門の屋根に飾られていたもので、「明暦三丁酉」と刻まれていますので、明暦3年(16577)に起きた明暦の大火の後に渡櫓門が再建された時に製作されたものと推定されています。
  渡櫓門は、関東大震災で倒壊し、戦災で焼失しましたが、昭和43年に再建されました。
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by wheatbaku | 2010-08-29 22:50 | 三十六見附 | Trackback
済海寺 (幕末の公使館 江戸検定今年のお題「幕末」)
 「幕末の公使館」シリーズももう8回となりました。
 今日はフランスの最初の公使館となった済海寺(さいかいじ)について書いていきます。

c0187004_2123152.jpg【ロッシュがここを拠点として活動】 
 済海寺は、JR田町駅から徒歩11分の聖坂を登った東側にあります。
 本堂・庫裡は平成9年に改築され、近代的な建物となっています。江戸三十三観音札所でもあります。
済海寺は、浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。


【牧野家、久松松平家の菩提寺】 
c0187004_2115460.jpg  元和7年(1621)念無上人を開山として創建されました。開基は越後長岡藩2代目藩主牧野忠成で、以降牧野家の菩提寺となりまりました。
  寛文2年(1662年)伊予松山藩第2代藩主松平定頼が江戸藩邸三田中屋敷で落馬しなくなりました。遺骸は済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山古町大林寺、分骨が高野山に葬られました。これ以降、松山藩松平家(久松家15万石)の菩提寺ともなりました。
 なお、ご住職の奥さまのお話では、開基牧野家の墓所は、昭和58年の墓地改修工事に伴って、長岡に移転したそうです。

【亀塚】   
 聖坂を上がって済海寺に隣接する亀塚公園に古くから古墳として知られる亀塚があります。
c0187004_212582.jpg  港区教育委員会等の学術調査が行われ、古墳時代以降に築造されたものとわかったそうですが、内部の構造が確認できていないため、古墳であるとは断定できていません。しかし、その可能性は高いと言われています。
 
 また、ここは平安時代中期に書かれた「更級日記」の竹芝寺伝説の地とも伝えられています。
 江戸時代にこの地を下屋敷としていた上野沼田藩第2代藩主・土岐頼煕(よりおき)が、寛延3年(1750年)に建てた「亀山碑」(上の写真)が亀塚の頂上にあります。
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by wheatbaku | 2010-08-27 08:02 | 『幕末』 | Trackback
高輪接遇所(幕末の公使館⑦ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 
 幕末の公使館の7回目で、今日は、イギリスの公使館となった 「高輪接遇所」を案内します。

 高輪接遇所は、泉岳寺の門前にありました。現在は、泉岳寺前児童遊園となっています。
 有名な泉岳寺は多くの人が御存知だと思いますが、その門前に幕末から明治にかけてイギリス公使館があったと知っている人はほとんどいないのではないのでしょうか。

【英国公使館は東禅寺・御殿山と襲撃が続く】 
c0187004_14421569.jpg イギリスの最初の公使館は、以前書いたように東禅寺でした。
 しかし、東禅寺は、第一次東禅寺事件、第二次東禅寺事件と連続して、攘夷派に襲撃されました。そこで、イギリス公使館は危険をさけるため一旦横浜に退去します。
 さらに、御殿山に建設中であった公使館も文久2年(1863)12月12日に、高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され炎上してしまいます。
 
 右上の写真が、高輪接遇所のあった現在の「泉岳寺前児童遊園」です。

【泉岳寺を希望】 
 そこで、慶応元年(1865)2月イギリスの代理公使ウィンチェスターは高輪泉岳寺を公使館とするよう幕府に要求しました。
c0187004_14424517.jpg そして、慶応元年(1865)閏5月に着任した公使パークスは、泉岳寺中門前の敷地に公使館を建設するよう要求しました。
 この要求に応じて幕府は泉岳寺門前に高輪接遇所を建設し、イギリス大使館としました。
 攘夷派の襲撃をさけるために、イギリス公使館とよばず「高輪接遇所」と呼んだようです。
 敷地は2659坪で、ここに平屋建て2棟の公使館が建築され、1棟がパークス用、もう1棟が公使館員用にあてられました。
 また、泉岳寺には外国人を警護する別手組の屯所が設けられました。.
 
【パークスは江戸城無血開城の裏の立役者】 
 パークスは、オールコックの後を受けて、慶応元年(1865)に駐日公使となりました。
 幕末から明治にかけて、幕府や明治新政府に大きな影響をあたえました。特筆されることは、江戸城総攻撃の際、東征軍の東海道鎮撫総督参謀木梨精一郎を通じて西郷隆盛に圧力をかけ、江戸城無血開城の道を開いたことです。
 なお、イギリスは横浜にも慶応3年(1867)に公使館を建設しており、江戸と横浜の両方に公使館がありました。 パークスと木梨精一郎との会談は慶応4年3月13日に横浜で行われています。
 パークスは、明治16年まで日本に駐在しました。
 
【江戸の名所となる】 
c0187004_14431296.jpg 泉岳寺は赤穂義士の墓がある寺として、江戸時代から名所となっていましたが、明治以後は門前のイギリス公使館も新たな名所となり、錦絵にも描かれています。
 イギリス公使館としての役割を終えた後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉などに使用されました。
 
【岡本綺堂にも関係あり】 
 岡本綺堂といえば「半七捕物帳」で有名ですが、この岡本綺堂の父親岡本敬之助は明治2年から高輪のイギリス公使館に雇われました。
 そして綺堂は、明治5年に泉岳寺近くの高輪北町で生まれました。
 
 右写真は泉岳寺にある大石内蔵助の銅像です。高輪接遇所の目の前ですので撮ってきました。
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by wheatbaku | 2010-08-26 06:39 | 『幕末』 | Trackback
西応寺と長応寺 (幕末の公使館⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 一級2期会の8月例会の報告のため中断していた「幕末の公使館」を再開します。
 今日は、オランダ公使館となった 「西応寺」と「長応寺」 です。

【最初のオランダ公使館となった西応寺】
c0187004_16444030.jpg 西応寺は、JR田町駅から歩いて13分ほどの住宅地の中にあります。
 「西応寺」に行くのには、少し苦労しました。
 田町駅前から、日比谷通りを行き、中央三井信託銀行本店横の交差点を右折するところまでは簡単です。
 そこから、道を東に向かいます。そして250メートルほど行ったら北に向かいます。そしてその道を100メートルほどいき、西側の住宅街のなか路地の先に西応寺があります。
 現在は、西応寺が経営する幼稚園になっておいて、少しみたところでは、お寺にみえません。
 境内が幼稚園の園庭を兼ねているため、通常は門が閉められています。
 最初のオランダ公使宿館跡の石碑も園庭内に建てられています。

【日英修好通商条約を締結・西応寺】
 この西応寺は、最初のオランダ公使館であるとともに、イギリス使節の最初の宿舎となりイギリスと日英修好通商条約を締結した場所でもあります。
c0187004_1645092.jpg  安政5(1578)年7月8日、イギリス使節エルギン卿一行は江戸に上陸し、西応寺に滞在して幕府との交渉に当たりました。
日米修好通商条約をモデルとしたため交渉は順調にすすみ、同年7月18日には締結されています。
 その後、西応寺は最初のオランダ公使宿館となりました。
 安政6年9月1日に公使宿館が設置され、初代公使クルチウスらが駐在しました。
 当時の建物は慶応3(1867)年12月25日に起きた幕府側の庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に類焼しました。その後再建されましたが、太平洋戦争で焼失しました。
 現在の本堂は、瀟洒な造りになっています。

【次の公使館となった長応寺】
c0187004_16453241.jpg  慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、伊皿子の長応寺が公使館となりました。
 現在、長応寺はなくなっていて、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくありません。
長応寺は伊皿子坂に面した高台にあって参道には石段があったようです。現在もマンションは高台にあり、そこにいく道路が坂になっていて地形は大きな変化はないようです。
 写真は、マンションの敷地入り口からマンションを撮ったものです。
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by wheatbaku | 2010-08-25 06:23 | 『幕末』 | Trackback
一級2期会の8月例会② (大江戸散歩)
 今日は、一級2期会の定例会の報告の後編です。千駄木・駒込のおもな所を紹介します。
 千駄木:駒込地区は次のようにまわりました。
 須藤公園→観潮楼(森鴎外旧居)跡→千駄木ふれあいの杜→駒込大観音→養源寺→高林寺→目赤不動尊→吉祥寺 です。
 
【須藤公園】  
c0187004_19323922.jpg 須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の下屋敷があった跡です。
 明治になって、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年に 須藤家が公園用地として東京市に寄付し、昭和25年に文京区に移管されたものです。
  説明を聞いている参加者の後ろ側の藤棚はかなり大きくシーズンには見事な花を咲かせるそうです。

【観潮楼跡】  
 観潮楼は、森鴎外が明治25年から大正11年7月9日60歳で亡くなるまで30年間住んでいた家です。
c0187004_19333196.jpg  森鴎外は、「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」などの代表作のほとんどをここで書いています。
 本郷図書館鴎外記念室となっていましたが、現在は休館中です。ここに(仮称)森鴎外記念館を建ててる予定だそうです。庭園も開放さていないないので、「藪下通り」に面した所に残っている「観潮楼の玄関の門柱の礎石と敷石」と外からでも見える「三人冗語の石」を見てきました。
 写真は、礎石と敷石を見ながら説明を聞く参加者たちです。

【目赤不動尊(南国寺)】  
c0187004_19435827.jpg 南谷寺は五色不動尊のうちの目赤不動尊があります。
 本堂に向かって参道の左手にあります。
 目赤不動尊は、もともと赤目不動と呼ばれていましたが、3代将軍家光により「目赤不動」と変えるように言われて目赤不動と呼ばれようになったそうです。
 五色不動尊とは目赤不動尊の他、次のお不動様を言います。
   目黄不動尊 平井最勝寺と三ノ輪永久寺
   目白不動尊 目白金乗院
   目青不動尊 世田谷教学院
   目黒不動尊 目黒龍泉寺
 この中で五色不動尊の中で、なぜ目黄不動尊は2つあるのかということが議論になりました。
 五色不動尊については過去にブログで書いていますので、「五色不動尊(1)」 「五色不動尊(2)」 (目赤不動尊はここで書いています)「五色不動尊(3)」 をご覧ください。


【吉祥寺】  
c0187004_2153531.jpg 吉祥寺は,太田道灌が江戸城を築いた際に,井戸から「吉祥」と書かれた金印が発見されたので、現在の和田倉門内に庵を建てて祀ったのが始まりといわれています。
 天正19年(1591)には現在の水道橋一帯に移転しました。
 明暦3年(1657)に起きた江戸最大の大火である明歴の大火により吉祥寺は全焼してしまいました。
幕府は火災後の江戸復興を兼ねた大がかりな都市計画事業を展開します。これに従って吉祥寺は現在の駒込に移転しました。
c0187004_1940343.jpg 中央線の駅名にある吉祥寺の町名は,この吉祥寺が移転移転した際に,吉祥寺の門前町が寺とは別の武蔵野に移住させられて,新しく町が作られたたことに由来します。
 吉祥寺は昭和20年の東京大空襲により,山門,経堂を除いてことごとく焼けてしまいました。
 本堂,書院,庫裏などが再建されたのは昭和39年です。
 写真は、空襲で焼け残った経蔵と山門の前で説明を聞く参加者たちです。
 経蔵は文化元年(1804)建立、山門は 享和2年(1802)建立です。
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by wheatbaku | 2010-08-24 05:39 | 大江戸散歩 | Trackback
一級2期会の8月例会① (大江戸散歩)
 江戸検定一級2期会の定例会が昨日8月22日に行われたので、今日はその様子を取り急ぎ書きます。
 今回はハカマオー氏が案内役で、谷中・千駄木・駒込地区で開催されました。
 昨日は東京地区の最高気温33度の炎天下でした。熱中症が心配されましたが、帽子などの準備を万全にして水分も一杯とって無事終了しました。、
 大江戸散歩は午後1時日暮里駅集合で、谷中地区から始めました。コースの概略は次の通りです。
 谷中霊園→長安寺→観音寺→天竜院→全生庵→大円寺→須藤公園→観潮楼(森鴎外旧居)跡→千駄木ふれあいの杜→駒込大観音→養源寺→高林寺→目赤不動尊→吉祥寺
 
【最初は、天王寺】
 天王寺は、元々日蓮宗のお寺でしたが、元禄11年に天台宗に改宗されました。
c0187004_10113119.jpg その後、11代将軍家斉の側室お美代の方を中心に日蓮宗への改宗の動きもありましたが、その動きはうまくいきませんでした。ただこの時に寺号は「天王寺」に変わりました。これについてはなかなかおもしろいお話がありますので、機会があったら大奥の話として書いてみたいと思います。
 江戸時代、ここの境内では幕府公認の富くじが興行され、「江戸の三富」の一つとして大いに賑わいました。 他の二つは目黒不動と湯島天神です。
 しかし、天保の改革により天保13年(1842)幕府により禁止されてしまいました。
 写真は天王寺の山門前で天王寺の歴史を聞く参加者たちです。

【観音寺】
 ここは観音寺の南側の築地塀です。
c0187004_10115983.jpg 瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいたものであり、江戸時代から続く寺町谷中の風情がよく感じされます。平成4年に「台東区まちかど賞」を受賞したそうです。
 写真は塀の前に立ち止まり、東京都は思えない風情を堪能する参加者たちです。
 なお観音寺は赤穂浪士ゆかりのお寺です。四十七士の近松勘六、奥田貞右衛門がこのお寺の第六世朝山大和尚と兄弟であったことから、赤穂浪士らの会合などに使用されたそうです。 境内には赤穂浪士慰霊塔が本堂脇に建てられています。

【全生庵】
 本日の目玉の一つ幽霊画展が開かれている全生庵に入る参加者たち。
c0187004_10122962.jpg 全生庵は幕末の剣豪山岡鉄舟が明治13年に明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願し、明治16年に創建したお寺で、鉄舟自身のお墓もあります。
 幽霊画展は全生庵が所蔵している三遊亭円朝遺愛の幽霊画コレクションを、毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、公開しているものだそうです。大勢の人が拝観していました。
 三遊亭円朝のお墓も全生庵にあります。

 なお、山岡鉄舟については、 「清河八郎と龍馬・鉄舟」 の中で触れていますのでご覧ください。

【大円寺】c0187004_10165825.jpg
 大円寺には、「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木晴信の碑」があります。
 笠森お仙は、笠森稲荷神社門前あった水茶屋「鍵屋」の看板娘で、明和の江戸三大美人の一人でした。
 錦絵の開祖鈴木晴信は、その笠森お仙を錦絵に書いて評判をとりました。
 大円寺は笠森稲荷を合祀している関係から、大円寺に2人の碑が大正8年に建てられました。
 写真は本堂に向かって右側に並んでたっている二つの碑の説明を聞く参加者たちです。

c0187004_10185269.jpg この大円寺の本堂の前で、参加者全員で集合写真を撮りました。
 大変暑い中の大江戸散歩お疲れ様でしたぁ。
 特に用意周到な準備をしていただいたハカマオー氏に感謝!感謝!

 
 この続きは明日書きます
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by wheatbaku | 2010-08-23 06:32 | 大江戸散歩 | Trackback
真福寺 (幕末の公使館⑤ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 幕末に公使館が設置される前、各国の代表使節の宿泊施設を幕府は準備しました。
 アメリカのハリスの宿泊施設は蕃所調所、イギリスに対しては西応寺、そしてオランダ、ロシア、フランスの宿泊施設としたのが今日紹介する真福寺です。

 真福寺は、真言宗智山派の東京別院です。東京メトロ「虎ノ門」駅1番出口から歩いて8分、「神谷町」駅3番出口からも8分です。
 このお寺は、ご本尊が薬師如来で「愛宕の薬師様」と呼ばれていますが、幕末にオランダ、ロシア、フランスの使節が宿泊しました。

【江戸城に最も近いので選ばれた】 
  安政5年6月に日米修交通商条約を結んだ後、幕府は同様の条約を7月中にイギリス・オランダ・ロシアとそして9月にフランスと結びました。
c0187004_211367.jpg  真福寺は、オランダ、ロシア、フランス三国の使節を順に宿泊させました。
 こうした外国使節の宿泊場所として真福寺が選ばれたのは、港に近い上に、真福寺が江戸城に最も近い寺院であるということのようです。真福寺と江戸城の間には確かにお寺はありません。

 オランダとは、江戸時代初期から、貿易をおこなっており、長崎のオランダ商館長が参府した際には、日本橋の長崎屋にとまっていました。
 これは、オランダから幕府に貿易のお礼を言上しかつ貿易の継続をお願いするための参府でした。
 日蘭修交通商条約締結の際のオランダ側当事者は長崎の商館長クルチウスでした。従来のやり方ですと長崎屋ということになりますが、通称条約を締結するための使節であることから、従来の長崎屋は適当ではないと判断し、真福寺を宿泊施設とすることとしたようです。
 クルチウスは3月10日から6月4日までの約3ヶ月間真福寺に滞在しました。
 ロシアの使節はプチャーチンでした。
 プチャーチンは7月4日に真福寺に入りました。
 フランス代表はグルーでした。グルーは8月20日に真福寺に入りました。そして日仏修交通商条約は9月3日に調印されました。


【勝軍地蔵菩薩像】
 真福寺は愛宕神社と関係が深かったため、庭内に愛宕神社に祀られていた将軍地蔵菩薩像が銅像で復元されています。
 珍しい地蔵菩薩様ですので紹介します。
c0187004_1111399.jpg  勝軍地蔵菩薩とは、地蔵菩薩の一つで、これに念ずれば、戦いに勝つといわれ、鎌倉時代以降特に戦国時代に武家に信仰されたお地蔵様です。
 真福寺にあったとされる勝軍地蔵菩薩像は、天正10年(1582)徳川家康の伊賀越えの際、近江信楽の多羅尾四郎右衛門から献上され、その霊験によって無事に三河へ帰還できた
という仏像でした。
 徳川幕府が開かれた後、愛宕神社の別当寺円福寺に安置されていましたが、円福寺が廃寺となり真福寺で像をおまつりしました。その像が関東大震災で焼失してしまったので、この銅像をたてたそうです。
 勝軍地蔵菩薩は、甲冑をつけ、左手に宝珠を持ち、馬に乗る姿で現されることが多く、この像もその形となっています。
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by wheatbaku | 2010-08-22 10:23 | 『幕末』 | Trackback
東禅寺 (幕末の外国公使館④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
今日の「幕末の外国公使館」はイギリスの公使館が置かれた東禅寺です。

 東禅寺は、JR品川駅から田町方面へ第一京浜を歩いて7分のところにあります。 門前には「最初のイギリス公使宿館跡」という石碑が立っています。

c0187004_1414620.jpg【東禅寺の旧地は霊南坂】 
 東禅寺は慶長14年(1609)日向国飫肥藩の2代藩主伊東祐慶(すけのり)が嶺南崇六(れいなん・すうろく)を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂溜池付近の邸宅をもとにして創建しました。
 現在アメリカ大使館からホテルオークラまで伸びる坂を霊南坂と呼びますが、その坂名は東禅寺を開山した嶺南和尚に由来したものです。
 溜池の土地がのちに幕府用地となったため、寛永13年(1636)現在地に移転しました。

【オールコック、東禅寺を気に入る】 
 安政6年(1859年)6月4日にイギリス初代総領事ラザフォード・オールコックが駐在し、日本初のイギリス領事館が東禅寺に置かれました。11月にオールコックは公使に昇格しました。
 オールコックはその自著「大君の都」で「江戸にある最大かつ最良の寺のひとつ」「これほど美しい草庵を選べたことは幸いだ」と絶賛するほど東禅寺を気に入っていました。

【東禅寺事件】  
 しかし、オールコックが気に入った東禅寺は、攘夷派の襲撃を受けることになります。c0187004_1425226.jpg 文久元年(1861)、攘夷派の水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件がおきます。
 オールコックは難を逃れましたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出ました。
 また、翌文久2年(1862)には護衛役の信濃松本藩藩士によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害された第二次東禅寺事件が起きています。
こうした襲撃事件が起きたため、オールコックは一旦安全な横浜に移ります。その後、泉岳寺前に建設された高輪接遇所に公使館を移します。

 そんな事件があったとは思えない程、東禅寺の境内は緑豊かで、東京とは思えない静寂な雰囲気があります。
 イギリス公使館として使用された奥書院は現在も保存されているそうですが未公開のため拝見することはできませんでした。
 また、東禅寺は伊東祐慶をはじめ岡山藩池田家、鳥取藩池田家、宇和島藩伊達家など諸大名の墓があるそうですが、これらも未公開とのことでした。

【東禅寺の今昔】 
c0187004_144116.jpg こちらはベアトが幕末から明治にかけて撮った東禅寺の山門です。
 かなり立派な寺院であったことがわかります。
 参道を写真の手前に戻ってくると、そこは東海道で、その先はもう海だったそうです。
 この写真は長崎大学付属図書館所蔵です


c0187004_1432387.jpg こちらは現在の山門で仁王様が鎮座しています。
 この山門を入った両側はうっそうとした樹木が茂っています。

 最後にオールコックの話題を一つ。
 オールコックは、初めて富士山に登った外国人です。
 万延元年(1860)7月のことでした。オールコック一行の富士登山は耳目を集め、一行が通過する東海道筋では見物制止命令が出されるほどだったそうです。
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by wheatbaku | 2010-08-19 21:17 | 『幕末』 | Trackback
  

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