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二の丸散策 (二の丸③ 江戸城ツァー)
 台風14号が日本に接近中です。
 明日から、関東地方は大荒れの予報です。
 31日の日曜日は、「江戸文化歴史検定」の試験日ですね。
 受験される皆さんもヤキモキされていることでしょう。でも、そんなことを気にせず、明日の土曜日一日、最後の試験準備にがんばってください。 

 さて、今日も  「二の丸」 のお話を続けます。
 二の丸は、皇居東御苑として整備されて昭和43年に公開されました。
 そのため、江戸時代のものではありませんが、見るべきものがありますので、今日はそれをご案内します。

c0187004_151215.jpg【雑木林】 
 白鳥堀沿いに雑木林が広がっています。
 これは武蔵野をかつて覆っていた雑木林を都心に復元しようと昭和天皇の発案で、昭和58年から昭和60年にかけて作られたものです。
 もう、ずっと昔からある雑木林の雰囲気になっています。


c0187004_1512851.jpg 【都道府県の木】 
 また、ここを少し行くと、全国の都道府県の木が植えられた一画があります。ここは昭和43年の東御苑公開の時に全国の都道府県の木が集められたのです。
 昭和47年には沖縄県のリュウキュウマツが加わりました。

 現在31種、約260本の樹木が植えられていてます。種類では、マツが最も多く9県、次いでスギが6府県となっています。東京・神奈川はイチョウ、埼玉はケヤキ、千葉はイヌマキが植えられています。 

 
c0187004_1514969.jpg【諏訪の茶屋】 
 都道府県の木の東側に「諏訪の茶屋」があります。
「諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上にありました。この建物は、明治45年に再建されたものです。明治期の茶屋風の建物として優雅な外観をもっているため、皇居東御苑の整備にあたりここに移されました。」(説明板より)


c0187004_1521114.jpg【二の丸庭園】  
 茶屋の前には庭園が広がります。
 3代将軍家光の時代には、名園を数多く作ったという小堀遠州作の庭園がこの場所にあったといいますが、現在のものは絵図面が残る9代将軍家重時代のものを参考に、昭和43年の東御苑整備の際、復元したそうです。

 特にサツキ、ショウブ、紅葉の季節がすばらしいようです。
 ショウブは、昭和41年に明治神宮のショウブを譲り受けたもので、現在約130株あるそうです。


c0187004_153141.jpg【皇居正門石橋旧飾電灯】 
 これは皇居正門石橋をかつて照らしていた電灯です。
 皇居正門石橋とは、多くの人が「二重橋」と思っている橋です。しかし、本当の二重橋は、その奥にある皇居正門鉄橋です。
 このことは、前に書きましたので、 「二重橋」 をご覧ください。
 台座の部分が獣の足になっていてるのが変わっていると思います。
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by wheatbaku | 2010-10-29 05:48 | 大江戸ツアー | Trackback
汐見坂 (二の丸② 江戸城ツァー)
 今日も江戸城「二の丸」の話を続けます。
 今日は汐見坂周辺についてご案内します。

【汐見坂】 
 本丸と二の丸の境には、江戸時代始めには堀があり、本丸と隔てられていましたが、明暦の大火の後、本丸の拡張工事の際、堀が一部埋め立てられて汐見坂が作られました。
c0187004_1457737.jpg 徳川家康が江戸城に入城したころは、今の日比谷辺りまで海でした。
 そのため、現在では埋立てやビルにさえぎられて海は見えなくなってしまっていますが、かつては坂の上から海が望めましたので汐見坂と名前がつけられました。
 もちろん今ではビルしか見えません。なお、都内の各所からもかつては海が見えたようで、他にも「汐見」や「潮見」の名前が残っています。
 汐見坂は非常に急な坂です。 
 汐見坂の下に幕末には冠木門があり、坂の上には渡櫓門がありました。

【白鳥堀】 
 汐見坂の脇にある堀は「はくちょうぼり」といいます。 江戸時代はじめの江戸城では、本丸と東側の二の丸との間には掘が南北に造られていました。
c0187004_14573634.jpg しかし、明暦の大火後の本丸の拡張に伴い、白鳥堀の部分を除き堀の大部分が埋め立てられました。
 家光が最初に造営した二の丸御殿では、白鳥堀の中に能舞台が造られていて、御殿から能を鑑賞することができました。
 白鳥堀には「財宝伝説」があるそうです。それは、明暦の大火の際に、本丸から金銀財宝を放り込んだのに違いないという伝説だそうです。
 また、この白鳥堀は独立した堀となっていて、水が流れ込む流路がありません。しかし、堀には豊かな水量があります。この堀の水源はほとんどが湧き水だそうです。
 上の写真は、台所前三重櫓であったところに設置されている展望台から撮ったものです。
 奥の坂が汐見坂です。

【汐見坂脇の石垣】 
 梅林坂と汐見坂の間の石垣は、平成14年から平成17年にかけて修復されました。
c0187004_1457572.jpg この石垣の下からは、紅葉山に移転した東照宮の遺構が見つかり、また明暦の大火の際の大量のがれきも見つかりました。
 ここにあった東照宮は、元和4年(1618)に紅葉山に創建された東照宮が本丸天守台下に分祀され、さらに寛永14年(1637)にここに移されたものです。
 また、寛永20年の二の丸御殿造営の時にも北東の位置に東照宮が造営されていて、一時期江戸城には3つの東照宮がありました。
 これらは、貞応3年(1654)に紅葉山東照宮が造り変えるときに統合されて、再び一か所となりました。

 ここの石垣も火災などで傷んだものは新しい石と交換されました。
 石材は昔と同じ東伊豆産の安山岩を使っていますが、長年の風雨にさらされたものと新しい石材とはやはり表面の色が異なり、取り替えた方が白っぽくなっています。
 白い交換された石は汐見坂の側に多くなっています。これは火災などで焼けて傷んだ石が汐見坂の側に多かったためのようです。
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by wheatbaku | 2010-10-28 05:53 | 大江戸ツアー | Trackback
江戸城二の丸 (江戸城ツァー)
 江戸城の本丸はご案内しましたが、その他の江戸城内についてもご案内します。
 今日からは、「二の丸」をご案内したいと思います。 

 二の丸は本丸の東側の低地にあり、本丸とは汐見坂と梅林坂でつながっています。
 大手門を入ると次に大手三の門があり、それを通り過ぎたらUターンをする感じで北に向かうと二の丸になります。
c0187004_158870.jpg 写真は百人番所前の広場から二の丸方向をとったものです。
 ここには、本丸を小さくした御殿が築かれ、大奥もありました。
 3代将軍家光は、二の丸を遊興のための別邸として寛永7年(1630)に造りました。しかし資料が残されていないので庭園や建物の詳細は不明です。
 寛永13年には、それをさらに東の三の丸側に拡張し、本格的な御殿と庭園が完成します。

c0187004_1574682.jpg 二の丸東側の中央には広い庭園が配置され、黒書院や御座之間などの表を西側にまとめ、南の白鳥堀の中には水舞台を設け、さらにお茶屋を点在させるなどして、全体として将軍が政務を離れてくつろぐ御殿として造られました。
この庭や建物の設計には、小堀遠州が関与したと言われています。
 現在の二の丸庭園の一部は、この時代に造られた庭園の遺構であると書いた本もあります。
 ただし、二の丸庭園に設置されている説明板には、9代将軍家重の時代の庭園を再現したと書かれています。

 家光は寛永20年には、ここを世継の家綱のための御殿に建て直します。
 構成は本丸御殿に準ずるもので、表を西に配置し大奥とは2本の廊下で結んでいました。
 以降、何度も焼失と再建を繰り返しますが、基本的な構成に変化はありませんでした。
 2の丸は、9代将軍家重の大御所時代の御殿や天璋院の御殿として利用されました。

 なお、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失した二の丸御殿のかわりに、越谷に建てられ、53年間、徳川家康、秀忠、家光と3代の将軍が鷹狩りで訪れた越ヶ谷御殿が移築されているそうです。
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by wheatbaku | 2010-10-27 05:53 | 大江戸ツアー | Trackback
謹慎生活(徳川慶喜⑥ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 連続して書いて来た「徳川慶喜」ですが、今日で一区切りにしたいと思います。
 今日は、慶喜の謹慎生活  について書いてみたいと思います。 

 主戦論の高まりの中で、幕府軍は、慶応4年1月2日、京都に向け進発します。
 そして、鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍は、官軍に敗北します。
 慶喜は、戦うポーズをとりながら、こっそり大阪城を抜け出して、幕府軍艦「開陽丸」で、老中板倉勝静・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬などを連れて、江戸に戻ってきます。
c0187004_22524129.jpg
 徳川慶喜が「開陽丸」から、下船したのが、旧浜離宮恩賜庭園の「将軍お上り場」です。
 ここで、勝海舟が、慶喜を出迎えたそうです。
 旧浜離宮から慶喜は馬に乗って江戸城に戻ります。
 右の写真は、旧浜離宮恩賜庭園の「将軍お上り場」です。
 なお、14代将軍家茂の亡骸もここから上陸しています。

【大慈院での謹慎生活】 
 そして、その後は謹慎生活に入ります。
 2月12日、寛永寺の子院大慈院に入り謹慎しました。
 なぜ、寛永寺でしかも大慈院で謹慎したかについて、寛永寺の浦井執事長が書かれているので、要約します。
 可能性の高い増上寺が選ばれなかったのは
  ①増上寺では官軍が攻めてくる方向に近寄ることになるので、それを避けた
  ②謹慎中の慶喜を警護するのが難しい地勢にあること
 これに対して寛永寺は、
  ①江戸を離れる場合、まず第一に考えられるのは水戸であり、ついで日光や奥州です。
   上野は、そのいずれにも近いところにある。
  ②上野は、山であり、警護しやすい場所であった。
 以上のことから寛永寺が選択されたと考えています。
 次いで、なぜ本坊選ばなかったかは、勤皇の志の高い慶喜が、公現法親王に迷惑がかかるのか避けたのではないかと浦井執事長は推測しています。
c0187004_22521011.jpg  また、なぜ大慈院が選ばれたかですが、それは人間関係によると、大慈院は5代将軍綱吉と8代将軍吉宗の別当寺であり、慶喜が時の住職常達と深い面識があったことから選んだと考えています。
 さらに、大慈院は、一般の人の立ち入りが禁止された地域にあり、大慈院の門前は見晴らしがよく、広場の向かい側には多くの学僧が起居している勧学講院がありました。
 こうした条件から部外者が大慈院に近づくのは非常に困難でした。
 さらに、ここからは、千住も近く万一の場合に千住に立ち退くのに便利でした。
 こうした諸条件を検討して、大慈院になったのだと考えています。
 慶喜が謹慎した大慈院の地には、現在、寛永寺の根本中堂(上の写真)が建っています。根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を移築し再建したものです。
 慶喜が謹慎した葵の間は非公開とされています。

【その後の慶喜】 
 慶喜は、慶応4年4月11日まで、大慈院で謹慎し、11日早朝に水戸に立ち退き、水戸では弘道館で謹慎を続けます。
c0187004_2351113.jpg さらに、駿府に転居し、静岡で謹慎しました。1年後に謹慎がとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。
 明治11年に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められた時も、病気を理由に断っています。
 その慶喜が東京に戻ったのは明治30年11月です。そして、皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年3月2日でした。
 明治35年には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にもなりました。

 そして、大正2年11月22日、小日向第六天の自宅において死去しました。
 享年77歳。徳川歴代将軍の中でも最長命でした。
 右の写真は「慶喜終焉の地」の石碑です。
 慶喜の屋敷跡は、現在、「国際仏教学大学院大学」となっています。その正門にあります。
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by wheatbaku | 2010-10-26 05:25 | 『幕末』 | Trackback
薩摩藩邸焼き討ち事件(徳川慶喜⑥ 江戸検定今年のお題「幕末」
 昨日の小学生対象の史跡ツァーも無事終了しました。子供たちも熱心に説明を聞いてくれて楽しい史跡ツァーでした。
 今日は、王政復古クーデターから薩摩藩邸焼き討ち事件まで書きます。

【王政復古のクーデター】 
 慶応3年(1867)10月14日の将軍慶喜の大政奉還により、武力討幕派は倒幕の名目を失くします。
 そこで、武力討幕は「王政復古のクーデター」を実行しました。
 12月9日朝、薩摩・安芸・越前・尾張・土佐の藩兵が宮中に入り、それまで宮門の警備に就いていた会津・桑名の兵に変わって各要所を固めました。
 五藩の兵に守られた宮中の学問所において、明治天皇が「王政復古の大号令」を下しました。
c0187004_17491047.jpg  摂政、関白、幕府が廃止され、さらに国事御用掛、議奏、武家伝奏の廃止ならびに京都守護職、所司代の廃止されました。
 これにより、将軍だけなく摂政・関白を含め旧体制をすべて廃止したことになります。
 そして、新たに、「総裁・議定・参与」の三職がおかれました。
 しかし、どこにも徳川慶喜の名前はありませんでした
 でも、将軍職は廃止されても、慶喜は内大臣でした。
 そこで、 同日夜、小御所(右上の写真)において初めて開かれた三職会議において、岩倉具視と大久保利通は徳川慶喜の辞官納地を主張し、反対する山内容堂、松平春嶽と対立し、会議は紛糾して深夜におよびましたが、慶喜に辞官納地を命ずることが決定されました。

【薩摩藩邸焼き討ち事件】 
 これに対して、慶喜は大阪城に移り、まきかえしをはかります。
 こうした状況下で江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」が起きます。
c0187004_17573523.jpg 幕府側と交戦する大義名分を欲する薩摩藩は、三田の薩摩藩邸に倒幕・尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数集めました。
 ☆左の写真は、旧薩摩藩邸跡(現在、NEC本社)に建つ「薩摩屋敷跡」の碑
 彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、「御用盗」と称してお金を強奪するほか、放火や掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発しました。
 これには、江戸に騒乱状況をつくりだし、民衆の幕府の衰退を印象付け、最後には幕府を挑発し薩摩討伐に踏み切らせ戦争に巻き込むという薩摩藩のねらいがありました。
 
 12月23日午前6時ごろ江戸城二の丸大奥長局から出火し2千坪の建物がすべて焼失しました。
 天璋院は吹上の滝見茶屋に避難し、午前10時すぎに鎮火してから西の丸に入りました。この火災の時には、定火消し2組と町火消し12組が出動しました。
 また、同じ日の夜、庄内藩の屯所に鉄砲が撃ち込まれ使用人が一人死にました。

 ここに至り、老中稲葉正邦はついに武力討伐を決意し、12月24日に、庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加することになりました。
 12月25日未明、これらの藩は薩摩藩邸を包囲し、討ち入りを決行しました。
 薩摩藩邸や浪士も迎え撃ち奮戦しますが、多勢に無勢であり戦闘開始から幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで炎上し、
 当初より脱出を指示されていた浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、一部は、薩摩藩の翔鳳丸にのって上方に逃れました。
 焼き討ち事件は、12月28日に、対薩強硬派として知られる大目付滝川具挙と勘定奉行小野広胖によって大阪城に伝えられます。
 大阪城内は喝采と興奮がうずまき、主戦論が一気にわきあがります。
 そして、徳川慶喜は沸きあがる薩摩討つべしとの声を抑えることができず、薩摩藩のねらいどおり幕府は討薩への意思を固めることになります。。
 幕府側は朝廷へと討薩を上表し、慶応4年(1868)1月京都に向けて進軍を開始しました。
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by wheatbaku | 2010-10-24 20:29 | 『幕末』 | Trackback
大政奉還 (徳川慶喜⑤ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 これから、史跡ツァーが連続してあるので、忙しい日々が続きます。
 明日23日は、主に小学生を対象にした史跡ツァーが、地元で開催され、ガイドをします。
 歴史の授業を受けたことのない低学年の子供もいるので、わかりやすい案内が必要だろうと苦心しています。
 来週土曜日の10月30日は、千代田区観光協会主催の「江戸城ツァー」のガイドの予定です。
 その翌日は、江戸検1級2期会の定例会で、「千住ツァー」が予定されています。
  
 
 来週日曜日は、もう江戸文化歴史検定の試験日です。
 受験される皆さんは、最後の追い込みにがんばっていると思います。
 受験される皆さんがんばってください。 心から応援しています


 今日は、大政奉還の経緯について書いていきます。

c0187004_13514880.jpg 大政奉還の中心となったのは土佐藩の後藤象二郎で、そのアイデアを出したのは坂本龍馬です。
 後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受けます。
 さらに、慶応3年6月15日、長崎から京都に向かう途中に「夕顔丸」の船中で明らかにされた坂龍馬の「船中八策」にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張し同意を得ます。 

【薩土盟約】 
 これを薩摩藩に打ち明け、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意し、6月22日薩土盟約を締結しました。この席には、坂本龍馬、中岡慎太郎も同席していました。
 これは慶喜に大政奉還を建白し、慶喜が拒否した場合には武力による圧迫で政変を起こすというものでした。
 武力倒幕をめざす薩摩藩が、この内容に同意したのは、大政奉還に慶喜は応じず、慶喜が拒否すれば、武力倒幕の名目がたつという読みがありました。
 後藤はすぐに帰国して山内容堂の同意を得ることができました。
 しかし、土佐藩兵を引率して上洛することについては、山内容堂の反対により、それは実現しませんでした。
 そのため、9月7日には薩土盟約は解消されました。

【大政奉還建白書提出】 
 そこで、土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍慶喜に提出しました。
 建白書の提出は幕府側からの要請もあったようです、9月20日に若年寄永井尚志から、後藤象二郎に対して提出の依頼があり、その後、10月2日に改めて永井から建白書提出について督促があったそうです。

【慶喜すばやく決断】 
 建白書の提出を受け、10月12日に慶喜は大政奉還の決断をし、すぐに老中などを二条城に招集し大政奉還する旨を伝えます。
c0187004_13533687.jpg 翌10月13日、慶喜は二条城に在京諸藩の重臣を招集し、大政奉還について諮問します。
 反対意見はなかったため、10月14日に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めました。摂政二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはありませんでしたが、薩摩藩の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて朝議が開催された勅許が決定しました。
 天皇が慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立しました。

 これにより、討幕の名分がなくなりました。そのため、大政奉還を申し出たのと同じ日の10月14日に下ったという「討幕の密勅」が10月21日停止されることになりました。
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by wheatbaku | 2010-10-21 17:18 | 『幕末』 | Trackback
将軍就任 (徳川慶喜④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 徳川慶喜の4回目です。
 慶応2年(1866)の第二次長州征伐最中の7月20日、将軍家茂が大坂城でなくなります。
 
c0187004_1754196.jpg【将軍職4ヶ月空位】 
 14代将軍家茂の後は、慶喜が15代将軍となっていますので、慶喜がすぐに将軍になったように考えられがちですが、慶喜は、すぐには将軍になりませんでした。
 12月5日に将軍宣下を受けていますので、4ヶ月以上将軍がいなかったことになります。

【慶喜の将軍就任に対する反対意見あり】 
 家茂がなくなった後、すんなり慶喜が将軍になったように思われていますが、慶喜の将軍就任については意外にも反対意見がかなりありました。
 まず、慶喜の出身藩である水戸藩はかなり強烈に反対していました。
 そして、幕府内においては、天璋院をはじめとした大奥は強く田安亀之助を推していました。その他、多くの幕臣が反対していました。
 こうしたこともあってか、松平春嶽が将軍就任を要請しても慶喜はこれを固辞します。
 そして、何度かの要請をうけた後、徳川宗家の相続だけは受諾します。しかし、その際にも将軍就任は断固拒否しています。

【慶喜の将軍就任拒否の理由】 
 慶喜が就任を拒否したのは諸侯の推薦によって将軍職につくことによって、将軍の権威を高め難局を乗り切ろうとした「政略」によると言われてきました。
 しかし、これを証拠だてるものもなく、また否定するものないというのが現状だそうです。
 そして、ついに慶喜は、12月5日に将軍に就任します。
 慶喜が将軍に就いていた期間は慶応2年12月5日から、大政奉還した慶応3年10月14日(勅許は翌日)まで 1年間たらずです。
 15代将軍の中で、将軍在位期間はもっとも短いのです。

 さて大政奉還については次回書きたいと思います。
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by wheatbaku | 2010-10-21 05:37 | 『幕末』 | Trackback
禁裏御守衛総督(徳川慶喜③ 江戸検定今年のお題『幕末』)
 今日は徳川慶喜の3回目です。
 主な出来事とともに、 「新門辰五郎」や「天狗党」 との関係も書いていきます。
 徳川慶喜は、上洛後、孝明天皇の石清水行幸に将軍家茂が同行するのを防ぐなど、将軍家茂を助けて活動しますが、一旦、文久3年(1863)5月に江戸に帰りました。
 
 そして、「八月十八日の政変」で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されると、11月に再び上洛します。
  この後、慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見での戦いに敗れて江戸に帰るまで、足かけ6年間、京都に留まり、江戸に帰ることはありませんでした。

【新門辰五郎】 
 この間、徳川慶喜の警護の役をになったのが、新門辰五郎です。
c0187004_22163496.jpg 辰五郎は下谷に生まれ、大きくなって、浅草十番組「を組」の頭の娘と結婚し、「を組」の頭を継ぎました。
 新門辰五郎と呼ばれるようになったのは、浅草寺伝法院の西側に新しい通用門を作った際に、新門の番を任されからです。
 辰五郎は、200人の手下を連れて京都に上ったといわれています。
 辰五郎の娘お芳も京都まで行って、慶喜の身の回りの世話をしています。(多くの本が側室でなく「妾」と書いています。)
 慶喜が大阪城から江戸に逃げ帰った際に、大阪城に忘れてきた大金扇の馬印を取りにいき、江戸までも担いで戻ったのも辰五郎でした。
 上の写真は浅草寺の伝法院です。

【参与会議と禁裏御守衛総督】 
 文久3年の12月に徳川慶喜は、参与会議のメンバーに選ばれます。
 このメンバーは、松平春嶽、松平容保、伊達宗城、山内豊信、島津久光です。
 しかし、参与会議は、参与間の意見対立も激しくなり、慶喜は積極的に参与会議を3ヶ月で解体させてしまいます。慶喜は泥酔したふりをして皆を罵倒することまでしています。

 元治元年(1864)3月、将軍後見職を辞職して、朝廷から禁裏御守衛総督に任じられます。
 そして、守護職会津藩主松平容保、所司代桑名藩主松平定敬と共に勤王の志士や公家の取り締まりにあたります。
 これが、いわゆる「一会桑体制」と呼ばれるものです。
 元治元年(1864)7月の禁門の変では会津薩摩両藩を中心とする部隊を指揮し長州軍を攻撃しました。

【天狗党】
 この間、慶喜を悩ましたのが「天狗党」の人たちです。
 元治元年(1864)3月,水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった「天狗党」が筑波山(下写真)で挙兵しました。
c0187004_143804.jpg 幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。
 10月,天狗党は幕府追討軍に敗れ,11月に800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら京都をめざします。
 天狗党は、斉昭の遺志を継いで攘夷に立ち上がった至情を慶喜が理解してくれると考えました。
 しかし、慶喜の立場は異なり、幕府から天狗党と気脈を通じているということを怖れ天狗党を切り捨てました。
 天狗党追討を自ら朝廷に申し出て、12月3日出陣します。そして、武田耕雲斎から提出された嘆願書も受け取りを拒否します。
 こうして、慶喜が歎願を受けいれる気持ちのないことをしった天狗党は12月17日,越前国新保で金沢藩に降伏し,翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。
 慶喜の天狗党に対する対応について批判的に評価する意見が多くあります。
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by wheatbaku | 2010-10-20 06:19 | 『幕末』 | Trackback
謹慎・将軍後見職(徳川慶喜② 江戸検定今年のお題『幕末』)
 今日は、徳川慶喜の2回目です。

 13代将軍家慶の世子家祥(後の家定)は病弱であったため、将軍継嗣問題は、早い段階から話題になっていました。
【家慶も継嗣として期待(?)】  
 当の家慶も、家祥について懸念していたようで、慶喜が一橋家に入ってからは、毎年少なくとも1回は一橋邸を訪ね、鹿狩りなどにも同伴して出かけました。
c0187004_23402436.jpg 嘉永5年(1852)には、「鶴の羽合わせ」に同伴するつもりであったが、阿部正弘から時期尚早といわれ見合わせたといいます。
 その家慶が、嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中、継嗣についての意思を明確に表示しないまま病死したため、第13代将軍家定の継嗣問題が浮上します。

 慶喜を推すのは、実父の斉昭や阿部正弘、越前藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬などです。
 一方、紀州藩主徳川慶福を推すのは彦根藩主井伊直弼や家定の生母の本寿院を初めとする大奥の南紀派でした。
 井伊直弼が安政5年(1858年)に大老となると、一橋派は勢いを失い、将軍継嗣は徳川慶福)と決しました。

【意地により極端な謹慎生活】 
 また、同じ時期、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印します。
 慶喜は斉昭、福井藩主松平慶永らと共に登城し直弼を詰問しますが、翌年の安政6年(1859年)8月に隠居謹慎処分となりました。
 この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や松平慶永と違って不時登城ではないので、当時から不当は処罰という説もあるほど、罪状は不明のままの処分でした。
 このため、慶喜は、一橋邸で謹慎します。慶喜の謹慎中の生活は次のようなものでした。
 慶喜の髪は長髪とするが、近臣はその必要がない。
 将軍に対するご機嫌伺いは無用。 徳川宗家・一橋歴代の霊に対する参詣は無用。
 普請は禁止。表門と裏門は締め切り、裏門の潜り戸をあけて目立たないように出入りする。
 慶喜はこれらの処分に対して、自分には落ち度がないことから「血気盛りの意地」から、極端な謹慎生活を送ることで抵抗したのだと後になって言っています。

 その後、しばらく謹慎する日々がつづきますが、桜田門外の変で大老井伊直弼がなくなったことを受け、万延元年(1860年)9月に謹慎を解除されます。

c0187004_859132.jpg【将軍後見職となる】 
 文久2年(1862)6月、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使大原重徳が江戸に入り、徳川慶喜と松平春嶽の登用を強く迫った結果、 7月6日慶喜を将軍後見職、7月8日春嶽(左写真  「国立国会図書館蔵」)を政事総裁職に任命しました。
 慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行ないました。
 文久3年(1863年)12月、翌年2月に予定されている将軍家茂の上洛に先立って京都に上り、攘夷を迫る朝廷と厳しい交渉を行うことになります。
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by wheatbaku | 2010-10-19 08:19 | 『幕末』 | Trackback
一橋家の養子(徳川慶喜① 江戸検定今年のお題『幕末』)
 幕末の人物をこれまで何人も書いてきていますが、徳川慶喜は書かないのですかという声をいただきましたので、今日から、数回に分けて 徳川慶喜 について書いていきます。

【小石川藩邸で生まれる】
 徳川慶喜は天保8年(1837)9月29日、江戸小石川の水戸藩上屋敷で9代藩主徳川斉昭の七男として生まれました。母親は、有栖川宮から嫁いだ正室の登美宮吉子です。
c0187004_2115160.jpg  徳川斉昭は、非常に子供が多く、22男14女の子供がいます。
 そして、男の子たちには、長男こそ鶴千代(後の10代藩主慶篤)と名づけましたが、その後は、生まれた順に番号をつけるのごとき名前をつけました。二郎麿、三郎麿、十を超えると余一麿、余二郎麿、そして、二十麿(はたちまろ)、二十一麿(はたちいちまろ)と名づけられました。
 慶喜は、七男なので、七郎麿と名づけられました。
 右写真は、小石川後楽園正門です。

【水戸で厳しく育てられる】 
 水戸徳川家は、水戸で厳しくしつける家風であったことを踏まえた斉昭の教育方針により、慶喜は生後7ヶ月で水戸に移されました。
c0187004_2133403.jpg
 その後、天保11年、斉昭も、藩政改革の陣頭指揮をとるため、水戸に下ってきました。
 このため、慶喜は、4歳から8歳まで、斉昭のもとで、厳しい教育を受けつつ成長していくことになりました。
 天保12年に藩校弘道館が開校すると、弘道館で学びました。
 慶喜は,幼少から英明のうわさが広く流布していたそうです。
 当初は斉昭も他家へ養子には出さず、長男・慶篤の控えとして手許に残そうと考えていました。
 上の写真は、水戸弘道館です。

【一橋家の養子となる】 
 しかし、老中の阿部正弘から一橋家の養子の話が持ち込まれます。
 この話は、将軍家慶の意思として水戸家に内々に伝えられましたが、実は、斉昭の歓心を買おうとした阿部正弘の考えによるとの説もあります。
 そして、当時11歳の慶喜は、8月15日に水戸を出発し、18日に駒込の屋敷に入り、9月1日に一橋家相続の命を伝えられます。
 12月1日に江戸城に登城し、将軍家慶と世子家祥(のちの家定)に謁見し、家慶の「慶」をもらい「慶喜」と名のることとし、刑部卿に叙任されました。
 
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by wheatbaku | 2010-10-17 23:29 | 『幕末』 | Trackback
  

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