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龍馬暗殺の日は雨だった
 ついに大河ドラマ「龍馬伝」も最終回を迎えましたね。
 最終回は、龍馬が暗殺されてしまいました。
 
 「龍馬を暗殺した実行犯が誰か?」また「龍馬暗殺の黒幕は誰か?」については諸説があります。
c0187004_15345995.jpg 最終回では、暗殺実行犯は「京都見廻組」でした。最も有力な説ですので妥当なところだと思います。
 しかし黒幕は誰かについては明らかにせず、龍馬を恨んでいる人として、「幕府」「薩摩藩」「土佐藩」「紀州藩」などを挙げて、黒幕を匂わせていました。
 そして「中岡慎太郎」も殺す要素をもっていたかのように描くなど、諸説あることを踏まえた内容になっていました。

 龍馬暗殺の実行犯が誰で黒幕は誰かについては、既に11月3日の「龍馬暗殺は誰の仕業か」から7回にわたって書いてきましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。

 ところで、今日は、龍馬が暗殺された時の天候は、どんな状況だったかについて書いてみます。

 私は、暗殺実行時の天候は、曇りか晴れだとばっかり思っていました。
 大正15年に、岩崎鏡川が書いた「坂本龍馬関係文書」によると、「『空うち曇り時雨を誘う』ような天候」だったと書かれているそうです。

 しかし、「龍馬伝」では、雨の中で龍馬暗殺が実行されたとして描かれていました。
 龍馬が暗殺された日の天候はどうだったのでしょうか? 

 「人斬り半次郎」と言われた薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)の在京中の日記「京材日記」には、「同(十一)月十五日 雨」と書かれているそうです。
 また、公家の嵯峨実愛(さねなる)の日記「続愚林記」には、「十五日甲子 雨降り、辰半後雨休み、午後晴雨交じり 雲南行」とかかれているそうです。
 朝から降っていた雨が、午前9時ごろには止み、午後は降ったり止んだりの天気になったということだと思います。

 つまり、龍馬暗殺の日は雨模様だったようです。
 そうしますと、大河ドラマ「龍馬伝」の描いたとおり、雨が降る中で龍馬暗殺が実行されたと考えてもよいと思います。


 
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by wheatbaku | 2010-11-30 06:15 | 『幕末』 | Trackback
浅草寺ガイド (大江戸ガイド)
 先週の土曜日11月27日に、浅草寺のガイドを行いました。
 「interblue」という旅行プロジェクトの企画「歩らり 江戸探訪」のガイド依頼があり、案内をしてきました。

c0187004_1891576.jpg 参加者は15名の方で、都内の人が中心ですが、遠くは高崎、藤沢からもご参加いただいた方がいてうれしく思いました。
  今回は13時から16時の予定で、駒形堂からスタートして、次のコースで案内をしました。
 駒形堂 ⇒ 雷門 ⇒ 仲見世 ⇒ 宝蔵門 ⇒ 弁天山 ⇒ 本堂 ⇒ 浅草神社 ⇒ ニ天門⇒ 影向堂 ⇒ 銭塚地蔵堂 ⇒ 淡島堂 ⇒ 新奥山
 写真は、駒形堂で説明を聞く参加者の皆さんです。

c0187004_1863841.jpg 昨日は、絶好の行楽日和で、浅草寺も多くの行楽客でにぎわっていました。
 そのため、ガイドは予定をオーバーして、5時前までかかってしまいました。

 写真は、雷門の裏側で、大提灯の説明と「金龍・天龍像」の説明を聞く参加者の皆さんです。

 参加者の皆さんは、浅草寺は何回もきているようですが、知らない浅草寺あるいは気付かない浅草寺を案内してもらえたと喜んでいただきました。
 特に本堂の内陣に入ってお参りできたことを多くの人が喜んでくれました。

 参加いただいた皆さんお世話になりました。つたないガイドを熱心に聴いていただいてありがとうございました。

 今回は、思いがけずにラッキーなことが3つありました。
c0187004_17572623.jpg【金龍山浅草餅の親切な対応】  
 まず一つ目は、仲見世で「金龍山 浅草餅」の説明をしていたら、ご主人の吉住さんが気付かれて、お店のしおりを渡してくれました。
 お店の商売の邪魔をしないように、反対側の伝法院前で説明していたのですが、大勢の通行人がいるなかで、よく気がついていただいたものだと驚きました。
 ツアー参加者にもお話したら、早速、女性の参加者の方が休憩時間に「揚げまんじゅう」を買ってきて食べて「おいしい」と喜んでいました。
 また、ツアー終了後もおみやげに買われる人がいました。


c0187004_18274390.jpg【弁天堂の開帳】 
 二つ目は、弁天堂の扉が開いていたことでした。弁天堂には、もう何回も行っているのですが、弁天堂が開いていることは一度もありませんでした。
 この日は、幸いにも弁天堂が開帳していて、御本尊の老女弁財天も拝観することができました。
 弁天堂は「巳」の日に開帳されます。27日はちょうど「巳」の日でしたので開帳されていたのでした。


c0187004_1831012.jpg【浅草神社での結婚式】 
 三つ目は、浅草神社で結婚式が行われているのに出会いました。
 浅草神社で神前結婚式を受け付けているのは知っていましたが、まさか結婚式本物に出会えるとは思いませんでした。
 ガイドを中断して、新郎新婦のカップルを参加された皆さんと一緒に見つめてしまいました。 
 参加者の皆さんも非常に喜んでいました。

 このように、天候、お客様、その他の思いがけない幸運に恵まれた「浅草寺ツアー」でした。
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by wheatbaku | 2010-11-29 06:23 | 大江戸ガイド | Trackback
二天門 (浅草寺ツアー⑩)
 今日は、 二天門 のご案内です。

【二天門は元東照宮の随身門】
 二天門は、浅草神社の東にあります。
c0187004_13481289.jpg 四天王のうちの持国天と増長天をお祀りするので二天門といいます。
 浅草寺には、江戸時代の初め、東照宮が鎮座していました。
 東照宮は、元和4年(1618年)に日光東照宮造営の翌年に浅草寺内に勧進されました。「東照宮」は寛永8年(1631)と 寛永19年(1642)の炎上後、江戸城内紅葉山に移されて、ここでの東照宮の再建は許されずこれから案内する影向堂前の「石橋(しゃっきょう)」とこの門だけが残りました。
c0187004_1356145.jpg その東照宮の随身(ずいじん、ずいしん)門として作られたのがこの二天門です。
 随身門とはお寺の仁王門にあたり、神社を守護する門守神(かどもりのかみ)を安置した神門で、門の両脇に二神像が祀られます。俗に「矢大神門(やだいじんもん)」ともいわれました。
 当初この門の神像は豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)が安置さていました。
 二天門は慶安2年(1649年)に再建されたと推定されていて、戦災も免れて、国の重要文化財です。 
「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美が書いたものです。
 創建以来、補修・改築が加えられていましたが、平成22年(2010)の修復にあたって創建当初の形式に戻されました。

 上の写真は、二天門を通して見た浅草寺本堂です。

【持国店と増長天】
c0187004_13524524.jpg 明治時代の神仏分離の際、両随身像は浅草神社に移られ、鎌倉の鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天をお祀りして「二天門」と改称しましたが、その像が戦災で焼失してしまいました。
現在の二天は、昭和32年に上野寛永寺の4代将軍の家綱を祀ってある厳有院殿の勅額門から譲りうけたものです。
 
 祀られているのは持国天と増長天で、四天王のうちの二つです。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られます。ここの二天も武装しています。

c0187004_135219100.jpg  持国天は東方、増長天は南方を守護するとされています。
向かって右の持国天は、左手を上げて独鈷杵(とっこしょ)という密教法具を持ち、右手を腰に当てる姿勢をとっています。向かって左の増長天は持国天とは対照的な姿勢をとり、右手に三鈷杵(さんこしょ)を掲げ、左手は腰に当てています。

 元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧(よろい)に古来の鮮やかさが残されています。
 どちらも「寄木造(よせぎづくり)」という、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られています。慶安時代に作られたとされています。

 上の持国天(右写真)と増長天(左の写真)の写真は、二天門の修復期間中に、五重塔の1階に移転して公開されていた時に撮影したものです。
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by wheatbaku | 2010-11-28 14:06 | 大江戸ツアー | Trackback
浅草神社(浅草寺ツアー⑨)
 今日は、浅草神社のご案内をします。

【社殿は重要文化財】 
 浅草神社は、浅草寺のご本尊をお祀りした土師中知、檜前浜成・武成の3人をお祀りしています。
c0187004_8202512.jpg 俗に「三社さま」とも言いますが、これは、江戸時代に「三社権現社」と呼ばれていたことに由来します。浅草の総鎮守でもあります。ご神体は慈覚大師の作という。
 現在の社殿は慶安2年(1649年)家光によって再建されたもので、本殿・幣殿(へいでん)・拝殿とも国の重要文化財に指定されています。


c0187004_8204276.jpg【浅草神社の社紋】 
 浅草神社の社紋は、観音様を投網ですくったことに由来する「三ッ網」です。
 真ん中の高いのが土師中知、次に高いの右の網が檜前浜成、左の低いのが檜前武成を表しているそうです。
 「三人が掬い諸人が救われる」「いい漁があって三人玉の輿」といったご本尊の示現に三人が関わったことについて詠んだ川柳が残されています

【三社祭り】 
 三社祭りは、かつては観音祭や浅草祭とよばれ、3月17日、18日の両日に行われていましたが、現在は5月18日に近い週末の金・土・日の3日間に開催されます。100基あまりの神輿が繰り出し、拝殿では「びんざさら舞」が奉納されます。
 江戸時代には、御神輿3基が浅草橋まで運ばれ、そこで舟に乗せられ、隅田川を遡って駒形から上陸し、浅草神社に帰られたと云われています。
c0187004_822542.jpg これが、船渡御(ふなとぎょ)といわれるものです。
 平成24年は、三社祭りが行われて700年になるのを記念しこの船渡御が行われる予定です。

【社殿前の狛犬】 
 また、社殿前に大きな狛犬がありますが、これは天保7年(1836年)に奉納されたものです。
 奉納者は田町の文三郎と山川町の大工虎五郎と刻まれています。
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by wheatbaku | 2010-11-26 06:12 | 大江戸ツアー | Trackback
銭塚地蔵堂(浅草寺ツアー⑨)
 今日は、本堂の西側にある 銭塚地蔵堂 についてご案内します。
 ここまで、こられる人は少ないようで、本堂前の喧騒がありません。


【銭塚地蔵堂】  
 銭塚地蔵堂は昭和39年(1964)再建されたものです。
c0187004_2327138.jpg  堂内の四角い石塔の上に石の六地蔵尊が祀られています。
 石塔の下には「寛永通宝」が埋めてあったと伝えられ、「銭塚」の名があります。
 その由来は、次のような話によるものです。
 享保1716~35)の頃に摂津国有馬郡の山口という人の妻が、庭先で「寛永通宝」がいっぱい入った壺を掘り当てました。
 しかし、これに頼って働かずにいては家が滅びると思い、土の中に埋め戻しました。
 この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊をまつったといわれています。
 浅草寺の銭塚地蔵尊は、そのご分身を勧請したものです。山口某の次男が浅草に出てきて、その人が勧進したという説明を線香と塩を売る方がしてくれました。
 兵庫県西宮市には、現在も銭塚地蔵があるそうです。
 参拝者が塩でお地蔵さまの御身を清めるために塩をあげることから「塩なめ地蔵」の名もあります。
銭塚地蔵尊のご利益は、商売繁盛と金銭融通だそうです。

【かんかん地蔵】  
銭塚地蔵堂前右側にあります。以前はお地蔵様の姿であったといいますが、現在は、ほとんど原型が残っていません。
c0187004_23272747.jpg お地蔵さまの前にある小石でお地蔵さまの体を軽く叩いてお願いすると、願いごとが叶うと言います。
 俗にこれを「かんかん地蔵」と言いますが、その名は、参拝者が石を打った際に、「かんかん」と音が出ることに由来すると言われています。
 このお地蔵様にも塩を奉納して参拝する習慣があります。「かんかん地蔵」のご利益は心身健康だそうです。
 このお地蔵さまから削り取った粉を財布に入れるとお金が貯まるとの噂もあるそうです。
 そのためか。削り取らないようにとの注意書きがされていました。
 最近話題のパワースポットの一つと言う人もいます。
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by wheatbaku | 2010-11-24 23:30 | 大江戸ツアー | Trackback
淡島堂 (浅草寺ツアー⑧)
 今日は、淡島堂 についてご案内します。

【淡島堂】
  昭和20年3月10日の空襲で本堂が焼失した後、同じ年の12月に早速、仮本堂が建てられました。
c0187004_20363937.jpg   その仮本堂は、本堂完成後は、二天門の脇で影向堂(ようごうどう)として利用されていました。
 現在の淡島堂は、平成6年にそれを移築・改修したものです。

淡島堂というのは、もともと元禄年間(1688~1704)に紀州和歌山市加太(かだ) の淡島明神を勧請(かんじょう)したものです。
 淡島明神は婦人病の治療、安産、裁縫の上達など女性に関するあらゆることに霊験のある神とされています。つまり女性の守り神ですので、江戸時代から女性の信仰を集めたそうです。
c0187004_20371751.jpg 現在も、淡島堂では、毎年2月8日には「針供養」が行われ、多くの女性で賑わいます。
 針供養の日は、一般には淡島神社に参拝し、針への感謝と裁縫上達の祈りをこめて、豆腐やコンニャクに古針・折れた針を刺して供養することが行われます。
 ここでは、裁縫用の針のほか、浅草寺病院からは新品の注射針が持ち寄られるそうです。
 お堂に向って右手に「魂針(こんしん)供養之塔」があります。
 大東京和服裁縫教師会が建立したものです。

c0187004_20374782.jpg 【天水桶】
 この天水桶は明和7年(1770)に造られたものです。
 太平洋戦争最中の昭和18年(1943)11月18日、この天水桶内にご本尊さまを厨子ごと納め、本堂の地中深くに埋めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたといいます。
 戦後の昭和22年(1947)3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認されたそうです。

c0187004_20452211.jpg 【石灯籠】
 この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名だったそうです。
 子どもがこの灯籠の下をくぐることで、虫封じや疱瘡(ほうそう)除けになると伝えられています
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by wheatbaku | 2010-11-23 20:34 | 大江戸ツアー | Trackback
影向堂(浅草寺ツアー⑧)
今日は 「影向堂」 とその周辺のお堂についてご紹介します。

【影向堂(ようごうどう)】
 これはなかなか読めないと思いますが、「ようごうどう」と呼びます。
c0187004_2241132.jpg 観音さまの説法や行動に不断に協力されている仏さまを「影向衆(ようごうしゅう)」とお呼びしています。
 影向堂は、これらの仏さまをおまつりするお堂です。
 もともと影向堂は二天門の脇にあったそうです。
 現在のお堂は、平成6年に、浅草寺中興開山慈覚大師円仁の生誕1200年を記念して建立されたものです。
 内陣の中央に聖観世音菩薩、その左右に干支(えと)ごとの守り本尊八躰がお祀りされています。
 また、堂内には浅草名所(などころ)七福神の内の大黒天もお祀りしてあります。
 浅草寺の御朱印所も併設されていますので、ご朱印を求る人はここでお願いしていました。

【石 橋】
 これは石橋と書いて「しゃっきょう」と呼びます。
c0187004_2243845.jpg  浅草寺にあった東照宮は元和4年(1618)に造営されました。日光の東照宮が造営されたのが元和3年ですので、日光の東照宮が造営されてまもなく造営されたことになります。
 この橋は元和4年(1618)東照宮の神橋として架けられたものです。
 和歌山藩の藩主浅野長晟、後の広島藩浅野家(つまり赤穂藩浅野家の本家ですが)その藩祖となった人が寄進したものです。
 全長3.3m・幅2.2mで 都内最古の石橋で、重要美術品に指定されています。

c0187004_225014.jpg【六角堂】
 六角型の建物のため六角堂と呼ばれています。江戸時代初期の建立とされています。
 浅草寺最古の建物であるとともに都内最古の木造建造物でもあり、東京都指定有形文化財です。
 ご本尊様は日限(ひぎり)地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うとされています。
 建物の下部には、1.5m余りの井戸状の穴が掘られているそうです。

【橋本薬師堂】
 このお堂は、「橋本薬師堂」といいます。
c0187004_2213940.jpg 慶安2年(1649)、3代将軍徳川家光の再建による三間四方のお堂です。
 はじめ本堂の北にあったため「北薬師」と呼ばれたそうですが、将軍家光が御成りの際に、かたわらに小さな橋が架かっていたことから、「北」よりもこの名前の方がよかろう、と名付けられたといわれます。
 ご本尊の薬師如来のほか、「十二神将」などが祀られています。
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by wheatbaku | 2010-11-22 22:36 | 大江戸ツアー | Trackback
本堂外陣・内陣(浅草寺ツアー⑦)
 今日は、本堂の中をご案内したいと思います。
 日頃は、観音様の参拝に心が集中し、あまり注意を払わない外陣の天井やお賽銭箱の周囲と多くの人が中に入れないと思っている内陣の様子をご紹介します。
 
 c0187004_2241935.jpg【「施無畏」の額】
お賽銭箱のうえに額が掲げられています。
「施無畏」畏れなきを施すと読みます。これは、恐れを取り除くという意味で、施無畏者(畏れなきを施す人)というと観音様のことを意味するそうです。
享保時代の書家 深見玄岱(げんたい)が書いたもので、江戸時代から有名だったそうです。

c0187004_22425217.jpg【「天人の図」】
 天井には、真ん中の龍をはさんで左右に天人の絵が描かれています。真ん中は川端竜子画伯による「龍」で、左右は堂本印象画伯による「天人の図」と「散華の図」です。

【内陣の様子】
 浅草寺を参拝する人でも内陣の中まで入る人は少ないようです。
 しかし、内陣には自由に入れます。ただし、撮影禁止ですので写真がとれません。
 内陣中央にあるのが御宮殿(ごくうでん)「厨子」です。
 御宮殿(厨子)の前には「お戸帳」と呼ばれる幕がかけられています。
 御宮殿(厨子)の左右には、右に不動明王、左に愛染明王が安置されています。

【秘仏のご本尊】
 御宮殿(厨子)の中は二間になっていて、上段の間に秘仏のご本尊様、下段の間にお前立ちのご本尊様が安置されています。
 浅草の観音様は身の丈1寸8分(約5.5センチ)の小さな像と言われています。
 そのため、「小兵でも坂東一の菩薩なり」とか「小粒でも是見てくれの大伽藍」という川柳もあります。
 秘仏とされていて、浅草寺のご住職でさえみたことがありません。
 しかし、明治維新後の廃仏棄釈が激しい時代に太政官府の役人が来て強制的に見ようとしたことがあったため、浅草寺の住職が調べたところ、伝説通りの閻浮壇金(えんぶだんごん)製らしい観音像を確認したと言われています。閻浮壇金とは白金またはインド製の砂金だそうです。
 

c0187004_22414726.jpg 【「書聨」】
 また、外陣に戻ります。お賽銭箱の両側にある書聨は江戸時代のものです。
 聨とは、書や絵を書き、または彫刻して、柱や壁などの左右に相対して掛けて飾りとする細長い板を言います。
 右側が 「仏身円満無背相」 と書かれています。左側は 「十方来人皆対面」 と書かれています。
 誰でも、どこから来た人でも分け隔てなく救いの手を差し伸べてくださる、という意味で浅草寺のご本尊観音さまのことを表しているそうです。
 書いたのは「寛政の三名筆」の一人といわれる野口雪江(せっこう)です。
 野口雪江は、埼玉県熊谷市出身です。
 
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by wheatbaku | 2010-11-22 06:13 | 大江戸ツアー | Trackback
本堂(浅草寺ツアー⑥)
 浅草寺の案内ですが、いよいよ本堂です。本堂は観音堂といいます。

【覆いのとれた本堂】 
 慶安2(1649年)家光によって再建された本堂は、江戸・明治・大正と幾たびの災害をくぐりぬけてきましたが、昭和20年(1945)3月10日の空襲で焼失してしまいました。
c0187004_1494913.jpg 焼失前の本堂は国宝に指定されていました。
 現在の本堂は、昭和33年(1958)に再建されたものです。
 高さ29.4メートル、間口34.5メートル、総面積1,032.7坪の大きな建物です。
 本堂は、平成本堂大営繕と称して本堂屋根瓦をチタン製の瓦に葺き替えるため、つい最近まで巨大な覆い(素屋根)が掛けられ、本堂自体を見ることは出来ませんでした。
 チタン製の瓦にすると屋根の重量が5分の1になるため、地震対策として葺き替えを行っていました。
 その工事が終わり、ようやく覆いがとれて全体が見られるようになりました。
 落慶式は12月に行われるようです。
 

【大提灯は新橋組合奉納】 
 本堂では、まず、朱色の下地に黒色の文字で「志ん橋」と書かれた大きな提灯が目に入ります。
 この大きな提灯は、平成16年12月、従来から寄進を続けている東京新橋組合によって新調されました。
 東京新橋組合というのは、新橋の芸者組合と料亭組合が共同で設立した組合のようです。c0187004_1410123.jpg 雷門の提灯より一回り大きく、高さ4.6m、直径3.5m、重さは約600kgあります。

 これまで見てきたように、浅草寺には大きな提灯がいくつも奉納されています。
 そこで、江戸っ子は「提灯に釣鐘負ける浅草寺」という川柳を残しています。

 以前には、「新橋」のほか、「赤坂」「浅草」「柳橋」の花柳界の芸者衆の寄進した提灯が本堂にかかっていたと書いている本もあります。
 色街からの奉納は、宝暦元年(1751)に新吉原の遊女6名が、お店の定紋と自分の源氏名をいれて広告を兼ねて12個の提灯を奉納したのがはじまりだそうです。
 また、大提灯の底部には、渡辺崇雲氏の龍の彫刻がされています。。

【書聨(しょれん)】 
 大提灯の両脇にあるのが、書聨(しょれん)と呼ばれるものです。
c0187004_14103434.jpg 聨(れん)とは、書や絵を書き、または彫刻して、柱や壁などの左右に掛けて飾りとする細長い板を言います。
 この聯は天台宗の僧であり文化功労者の書家豊道春海師が文字を書き、篆刻家の中村蘭台(らんたい)氏が刻んだものです。 それぞれ次のように書かれています。
 右の聯は 「実相非荘厳金碧装成安楽刹」 と書かれています。
 これは「実相(じっそう)は荘厳(しょうごん)に非(あら)ざれども金碧(こんぺき)装(よそお)いを成す安楽刹(あんらくせつ)」と読みます。
 左の聯は 「真身絶表象雲霞画出補陀山」 と書かれています。
 これは「真身(しんしん)は表象(ひょうしょう)を絶(ぜっ)すれども雲霞(うんか)画(えが)き出(いだ)す補陀山(ふださん)」と読みます。
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by wheatbaku | 2010-11-21 10:28 | 大江戸ツアー | Trackback
五重塔 (浅草寺ツアー⑥)
 今日は、五重塔 のご案内です。
 浅草寺の五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたものです。
 
c0187004_14342532.jpg【江戸時代初期には塔が二つ】 
 現在五重塔がある場所に、少なくとも寛永8年(1631年)以前には三重塔が建っていました。
 その後寛永12年に東側(今の塔の反対側)に五重塔が建ち、東西に二つの塔が並んだ時代もありましたが、三重塔は寛永19年(1642年)に焼失した後は再建されませんでした。

 五重塔は、最初、天慶5年(942)平公雅建立されたと伝わっています。
 その後の数度の倒壊炎上の都度再建された後、江戸時代になって、寛永8年(1632)に炎上し12年再建されました。しかし、そのできたばかりの塔が寛永19年に炎上してしまい、慶安元年(1648)徳川家光によりまた再建されました。

c0187004_14350100.jpg【江戸時代には東南側、現在は西南側】 
 この五重塔は、現在の五重塔の反対側である本堂の東南側に建っていました。
 江戸時代には「寛永寺」「増上寺」「天王寺」の五重塔とともに「江戸の四塔」として市民に親しまれていました。
 安政の大地震も耐えて、関東大震災にも倒壊しなかった五重塔が、昭和20年(1945)3月10日 東京大空襲で炎上してしまいました。
 その後、昭和48年(1973)11月に再建されました。
 再建された場所は、従来の場所の反対側である本堂の西南に建てられました。
 もとの五重塔があった場所には、それを示す碑が建っています。

c0187004_14352162.jpg【塔院形式の塔】 
 塔の高さは 53メートルあります。
 この五重塔は、実は1階が普通の建物となっており、その上に塔が立っているというもので、通常の五重塔とは異なっています。この形式は塔院形式と呼ばれています。
 右の写真は宝蔵門から撮った写真ですが、1階部分が普通の建物になっていて、よく見る五重塔とは違っているのがよくわかると思います。
 五重塔の最上階には、スリランカの王立寺院から贈られた「仏舎利」が納められているそうです。
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by wheatbaku | 2010-11-18 21:55 | 大江戸ツアー | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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