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「光り松」と「松並木と一里塚の榎の由来」 (松⑧ 江戸の花と木)
 今日は、松についての諸々の話で「光り松」と「松並木と一里塚の榎の由来」の話をします。

【光松(ひかりまつ)】  
 まず、東京メトロ「早稲田」駅近くにある「穴八幡宮」にある「光松(ひかりまつ)」の話からします。
 穴八幡宮は康平5年(1062)に源義家が氏神八幡宮を勧請したことにはじまり、寛永13年(1636)には、幕府の御持弓組頭松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮をお祀りしました。
 寛永18年(1641)に草庵を築くために南側の山裾を切り開いたところ横穴が現れ、金銅の阿弥陀如来像が現れたことにによって穴八幡宮と称するようになったといわれています。
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 この穴八幡宮に「光(ひかりまつ)」と呼ばれる松があります。
 「光松(ひかりまつ)」というのは暗い夜にも光るので「光り松」と言われるようになったようです。
 しかし、それについて、書いたものがほとんどなく、江戸名所図会が一番詳しいので抜き書きします。

 『光り松(別当寺と本社との間、坂の支路にあり。昔の松は 延享年間(1744~1748)に枯れたりとて、いまあるものは後世植え継ぎたる若木なり。
 南向亭云く、「この地。昔は松樹繁茂せし山林にて、そのうちに一株の松あり。暗夜には折として瑞光を現ず。ゆえにその樹を称して光り松といふとぞ。また寛永13年(1636)はじめて当社八幡宮勧請の頃、樹上に山鳩来たり遊びし」と』


 現在の「光り松」は、隋身門の東側の脇に植えてあり、細くて樹高の高い松です。
 右写真が「光り松」です。

【松並木と一里塚の榎の由来】 
 二つ目は、松並木と一里塚に植えられている榎についての話です。
 街道の並木として松は杉と共によく植えられています。
c0187004_1191642.jpg 並木は、美観を整えるだけでなく、日よけ風除けになり、旅人の道しるべや休み場所を提供します。
 東海道など五街道は、江戸時代、並木が良く整備されました。
 東海道では、江戸時代には、江戸から京都まで、箱根を除いたほとんどの部分が松並木であったそうです。

 松並木と一里塚の榎が植えられた由来について次のようなおもしろい話があるそうです。
 『松並木は、3代将軍家光の時代に、干ばつが起こり多くの人がなくなり、特に旅人が日照りによりなくなったため、将軍の命を受けた土井利勝が街道の左右に松を植えました。
 そして、土井利勝は、松並木が延々続くと旅人が退屈するだろうと一里塚を築きました。
 ここに植えるのは松並木を区別するために他の木がよいだろうと、将軍に伺いを立てたところ、将軍は「一里塚には余の木を植えさせよ」とおっしゃったが、土井利勝は年をとっていて耳が遠かったので、「余の木」を「榎」と聞き間違えてしまい、「榎」を植えさせるようにした。』
 これが多くの一里塚には榎が植えられてる由来だそうです。

 街道の松並木が整備されたのは、3代将軍家光の時代より前であろうと思います。従って、一里塚の榎の話も事実とは違うと思いますが、おもしろい話ですので紹介しました。
 
 右上の写真は日本橋の欄干中央にある麒麟像です。その麒麟像の間の柱に、松並木を象徴する松が上部に、そして一里塚を象徴する榎が下部に刻まれています。
 
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by wheatbaku | 2010-12-29 11:19 | 江戸の花と木 | Trackback
松竹梅 (松⑦ 江戸の花と木)
 
 松竹梅は、おめでたい物の代表として扱われています。
  今日は、その松竹梅についてのお話です。
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 お正月のお飾り、結婚式、衣装などおめでたいものには、必ずこの三つの植物がつきます。

 寒中にも緑を保つ松、しなやかだけど強い竹、寒中に凛として花の魁(さきがけ)として咲く梅

 松竹梅は、寒さが厳しい時期にも緑を保ったり花をつけたりするので「歳寒の三友」と言われます。
 「歳寒の三友」とは中国の画題の一で、松と竹は冬期に緑を保ち、梅は花を開くことから、こう呼ばれるようになりました。 松竹梅だけでなく、蘭を加えて「歳寒の四友」。さらに松竹梅に菊と石を加えて五清ともいうそうです。

 中国の民俗思想では、三、五、七という奇数の数字はあまり喜ばれていません。
 しかし、日本では、中国とは逆に、三、五、七はおめでたい数字とされています。

 そのため、松竹梅は、中国のこの「歳寒三友(さいかんさんゆう)」が入ったものといわれています。
 しかし、奈良時代には、松竹梅の組み合わせではなく、松だけであったそうです。
 それが、平安・鎌倉時代になって、竹と梅が順に加えられ、松竹梅として使われるようになったそうです。

 なお、よく料理の上下をさす言葉として「松」「竹」「梅」が使われますが、本来、松竹梅に順番はありません。
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by wheatbaku | 2010-12-28 06:12 | 江戸の花と木 | Trackback
松とお城(松⑥ 江戸の花と木)
 現在の城には、多くの樹木が植えられています。特に、松は、多くの御城の中に植えられています。
そのため、江戸時代にも、お城には木が現在と同じように植えられていると思いがちです。
 かくいう私もそう思っていました。

【昔、城内には木は植えられなかった】 
 しかし、江戸時代には、多くのお城では、城内に樹木は植えられていなかったようです。
c0187004_11543514.jpg 正保年間に幕府の指示でまとめられた「正保城絵図」によると、本丸・二の丸に樹木が植えられている城は極めて少ないそうです。
 ほとんどのお城は、視界をさえぎるような樹木は植えられていないのが普通でした。それは、敵が城内に潜入した時に、いち早く発見できるようにするためです。
 そのように城内に植えられることが少ない木の中でも、例外的に植えられているのは松でした。

【松は凶荒食物】 
 松は、凶荒時の食料になるために、城内に植えられる植物として選ばれたようです。
 「救荒植物集説」という書物に
 「松樹の皮黒色なるものを男松、その皮赤きものを赤松と呼び、共にその松花、松皮を古来凶歳には食料にもちう」と書かれています。

 それでは、松の葉や皮が食糧になるとのことですが、どのように松の葉や皮をたべたのでしょうか。
 青木昆陽の「昆陽漫録」には、松葉の食べ方が書かれているそうです。
 それによると、松葉を摘み取って、これを杵等で搗きます。そうすると汁が出てグチャグチャになるので、これを干して乾燥させます。乾いたら更に搗いて粉末にします。これと米の粉を混ぜて食料としました。
 また、「飢食松皮製法」という書物に松の皮の食べ方が書かれているそうです。
 「松の皮を石上にたたき粉にして食し、また薬皮にて、すぐにも用いけれど中毒する事なし。籾(もみ)、松の多く入りたるを、かゆ雑炊に入れてたけば、とけてなくなる・・・」
 これを読むと、松の皮も粉にして、ぞうすいとに混ぜて食べたようです。

【城周辺部の松は目隠し】 
 なお、城の周辺部には、城の外から隠すために松や杉が植えられました。
 松は、枝が低く垂れ、目隠しに適していたためといわれています。
 なお、8代将軍吉宗は、江戸城の長大な塀の修繕費用の削減のために、外郭の塀を撤去して、そのかわりに松を植えたと言われています。





 
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by wheatbaku | 2010-12-27 12:05 | 江戸の花と木 | Trackback
雪吊(ゆきつり) (松⑤ 江戸の花と木)
 松に関係する冬の風物詩として、雪吊(ゆきつり) があります。
 雪吊は、冬季、雪が付着することで、樹木の枝が折れないように、縄で枝を保持することです。
 松の枝は冬になると組織が硬化するため雪の重みで折れやすくなるので、雪吊でそれを防ぎます。
 
【雪吊は兼六園が有名】  
 雪吊は、金沢市の兼六園が有名です。
唐崎の松 雪つり
唐崎の松 雪つり posted by (C)KYR(お休み中)

 兼六園では、毎年11月1日から雪吊作業が行われます。
 雪吊は兼六園で随一の枝ぶりを誇る「唐崎松」から作業が始められます。
 「唐崎松」は樹齢約200年の名木で、高さ9メートル、枝針20メートル、幹回り2.6メートルあります。

 「唐崎松」の雪吊は、りんご吊という手法で行われます。
りんご吊は、樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張る雪吊の代表的手法です。
 これは、明治以降、西洋リンゴの栽培が日本で始まり、リンゴの実の重さから枝を守るために行った初期の技法に由来するそうです。
 兼六園では大正の初めごろから行われていたと言われています。
 雪吊作業は11月1日~12月中旬に行われ、雪吊の取り外しは、3月15日頃から約1週間で完了するそうです。「唐崎松」を一番最後に取り外し、北陸の春を迎えることになります。

 なお、あまり雪の降らない東京でも雪吊が行われますが、北陸特有の湿気の多い重い雪から木々を守る本来の雪吊とは違い、雪のほとんど降らない東京では、訪れる人の目を楽しませ、伝統技法を理解してもらうことを目的にしているとのことです。
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by wheatbaku | 2010-12-26 12:38 | 江戸の花と木 | Trackback
袈裟掛松 (松④ 江戸の花と木)
 江戸における有名な松に、洗足池の袈裟掛松があります。
 この松も、広重が名所江戸百景に描き、江戸名所図会でも紹介されている松です。

c0187004_16354375.jpg【日蓮が袈裟を掛けた】
 東急池上線洗足池駅を出て目の前の中原街道を横断すると洗足池公園があります。
 その洗足池のほとり、洗足図書館の北側の妙福寺に、日蓮上人が休憩した際に、袈裟を掛けたと伝わる袈裟掛松があります。
 現在は3代目の松であると言われています。
 右の写真のように、かなり高さのある木になっています。

 江戸名所図会には次のように紹介されています。
 ただし、この中では、袈裟でなく腰を掛けてと書かれています。
 『千束の池 本門じの西、一里余を隔ててあり、長さ東西へ3丁ばかり、幅南北へ五十歩ばかりあり。土人いう、往古(そのむかし)、この池に毒蛇住めり、後、七面に祭るといふ。また池の側(かたわら)に、日蓮上人の腰を懸けたまひしと称する古松一株(いっちゅう)あり。』

c0187004_163667.jpg【千束池⇒洗足池】
 千束郷は中世はかなり広い地域だったようです。千束池はその千束郷一帯をうるおす灌漑用の大池でした。
 弘安5年(1282) 、甲斐の身延山を下り、常陸へ湯治に向かう途中の日蓮上人が、この池のほとりで休憩し、手足をすすいだという伝説があります。この伝説とセンゾクという音が結びついて、この池を「洗足池」と呼ぶようになったという有名な説があります。
 江戸時代は「千束池」と書かれていますが、現在は「洗足池」と表記されています。

c0187004_22441562.jpg【「千束の池 袈裟掛松」】
 広重の名所江戸百景の「千束の池 袈裟掛松」で袈裟掛松を描いています。
 画面右中段の柵に囲まれて立っているのが、袈裟掛松です。
 手前の人馬や駕籠が行き交う道が中原街道です。東海道が海岸沿いを通って江戸に入る街道ですが、中原街道は、丘陵地を通って江戸にはいる街道です。徳川家康が江戸に入る際にも中原街道を使用したそうです。
 絵の遠景として書かれている山が何という山であるか特定するのは困難なので、構図をよくするために広重が描いた山であるという説もあります。


c0187004_16374819.jpg【海舟が愛でた地】
 この地の風景を愛した勝海舟の墓が袈裟掛松の北側にあります。
 洗足池駅からは徒歩10分程度です。
 勝海舟は江戸城無血開城のため、池上本門寺に滞在する西郷隆盛と談判をするために、この地を通りました。
 その際に、ここの風景を大変気に入りました。
 そのため、海舟は、明治になってから、ここに別荘を建て、亡くなった際には、ここに葬られたのでした。
 海舟の墓の近くに海舟が建てた「西郷隆盛留魂碑 」も移設されています。


 緑が「袈裟掛松」青が「勝海舟墓」です

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by wheatbaku | 2010-12-24 05:53 | 江戸の花と木 | Trackback
小名木川五本松(松③ 江戸の花と木)
 江戸の有名な松の2回目は 「小名木川五本松」 について書いていきます。
 小名木川五本松は、広重の「名所江戸百景」に描かれたり、「江戸名所図会」にも書かれた文字通り江戸の名所でした。

【小名木橋のたもとに3本】
 現在の小名木川の五本松は、東京メトロ半蔵門線「住吉」駅5番出口から徒歩3分の小名木川にかかる小名木川橋の東北のたもとに植えられています。
c0187004_0104727.jpg 小名木川は、江戸時代の初めに、下総の行徳から塩を運ぶ水路として開削された運河です。
 その小名木川のほぼ中間の北岸、深川猿江町の一角に整然と並ぶ5本の松がありました。それが有名な小名木川五本松です。
 この松は、明治の末に枯死しましたが、昭和63年9月に現在の地に復活しました。
 昔は5本でしたが、現在、小名木川橋の東北のたもとに植えられているのは3本の松です。【帰宅後調べてみると西北のたもとに2本の松が植えられているようです。両方をあわせると5本の松になります。】

c0187004_0112059.jpg【小名木川は重要な水路】
 小名木川は、小名木四郎兵衛により開削されたため、その名がついたといわれています。
 東側は、中川と中川御番所でつながり、西は万年橋の近くで隅田川とつながり、約5キロを一直線に結んでいます。
江戸が発展するにつれて、小名木川は塩を運ぶだけの水路でなく、銚子から利根川をさかのぼり、関宿から江戸川を下ってきた物資を江戸に運ぶ水路の役割も果たしました。

c0187004_0145428.jpg【小奈木川五本まつ】
  広重が描いた頃には、五本松のうち4本は既に枯れてしまっていて、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷内に残った1本の松の枝が、伸びに伸びて小名木川の水面に覆っていました。
 江戸の日本橋小網町にあった行徳河岸から行徳までは、「行徳船」と呼ばれる船が往復していました。
 15人から24人ほどが乗れる舟で江戸から行徳までは半日かかったようです。
 絵に描かれているのは、その「行徳船」と思われます。
 広重のこの絵では、小名木川が曲がって描かれていますが、実際は直線でした。


【江戸名所図会】
 江戸名所図会には次のように書かれています。
c0187004_9354234.jpg 『同所小名木川通り大島にあり。(ある人云く、旧名女木三谷(おなぎさや)なりと。古き江戸の図にうなぎ沢とも書けり。『江戸雀』小奈木川に作る。又この地に鍋匠(なべつくり)の家ある故に、俗間字して鍋屋堀とよべり。)九鬼家の構へのうちより、道路を越えて水面を覆ふ所の古松をいふ。(昔は、この川筋に同じ程の古松五株までありしとなり。他は枯れて、ただこの松樹(まつ)のみ今なお蒼々たり。)又この川を隔てテ南岸の地は、知恩院宮尊空法親王御幽棲の旧跡なり。(同卷本所霊山寺の条下を合せみるべし。)』


c0187004_0114446.jpg【芭蕉句碑】
 その五本松の碑の北側に、松尾芭蕉の句碑がありました。
 この句碑は、2008年12月に、この地に本社がある住友セメントシステム開発という会社が創立20周年記念事業の一環として建立したそうです。
 「奥の細道」の旅を終えた芭蕉が、元禄6年(1680)に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべて一句を吟じたそうです。
 石碑には、その時に読んだ「川上とこの川下や月の友」の句が刻まれていました。



赤字が小名木川五本松です

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by wheatbaku | 2010-12-23 09:43 | 江戸の花と木 | Trackback
首尾の松 (松② 江戸の花と木)
 江戸には、有名な松が何本もありました。その松はほとんどが枯れてしまっています。
 しかし、いくつかは、その後継の松が植えられているものがあります。
 蔵前にあった 「首尾の松」 もその一つです。

【現在の首尾の松は7代目】 
 「首尾の松」は現在は、蔵前橋の西のたもとにあります。 
c0187004_14572975.jpg 都営地下鉄「蔵前」駅A1番出口から徒歩5分のところです。
 現在の首尾の松は7代目といわれていますが、それほど大きくありません。
 右写真は蔵前橋通りの反対側から撮ったものですが、2本の松のうち右の大きいほうが「首尾の松」です。
 背景にみえるのは隅田川の向こう側にある両国国技館です。

【首尾の松の説明板】 
 首尾の松の説明板に、首尾の松についてわかりややすく書かれていました。
c0187004_14574823.jpg 『この碑から約百メートル川下に当たる。浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
1、寛永年間(1624~43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
 2、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
 3、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は安永年間(1772~80)風災に倒れ、更に植継いだ松の安政年間(1854~59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次世界大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。』


 c0187004_1585053.jpg 【名所江戸百景「浅草川首尾の松御厩河岸」】 
 「首尾の松」を、歌川広重は、名所江戸百景の「浅草川首尾の松御厩河岸」で描いています。
 「首尾の松」は、浅草御蔵のなかにありました。
 御蔵には、米を荷揚げするために1番堀から8番堀まで櫛状の堀がありました。
 その堀の4番堀と5番堀の間の埠頭の先端にあった松が「首尾の松」でした。
 広重の絵では左上から枝を張り出しているのが「首尾の松」です。
 広重が描いている松も、上記の説明板の説明されているように初代の「首尾の松」ではありませんでした。
 松の下には男女の忍び合いの屋根舟が係留されています。
 その舟の奥の川船は、御蔵の北にあった御厩河岸と向かいの本所石原町を結ぶ渡し船です。

【浅草御蔵】 
 浅草御蔵について少し説明しておきます。
  蔵前には、江戸時代天領から送られた米を保管する米蔵がありました。
c0187004_8321446.jpg これは浅草御蔵と呼ばれていました。
 浅草御蔵は、南は現在の浅草柳橋2丁目より、北は浅草蔵前3丁目にかけてありました。
 敷地は、もっとも広かった弘化年間(1844~48)には、およそ3万6000坪ありました。
 南北が580メートル、東西が広いところで830メートル、狭いところで230メートルあり、「東京ドーム」2つ分の広さがありました。
 現在、蔵前橋通りをはさんだ首尾の松の反対側に「浅草御蔵跡」の碑が建っています。
 現在の蔵前橋通りは、浅草御蔵のほぼ中央を横切る形で通っています。


 緑が「首尾の松」、ピンクが「浅草御蔵跡の碑」 

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by wheatbaku | 2010-12-22 05:47 | 江戸の花と木 | Trackback(1)
松の種類 (松①  江戸の花と木)
 今年も残りわずかとなってきました。
 お正月を迎えるにあたって松を目にすることが多くなりますので、今日からは「松」についていろいろ書いていきたいと思います。

【マツの語源】 
 まず、マツの語源ですが、マツの語源についての定説はないそうですので、いくつかの説を紹介したいと思います。
c0187004_15294347.jpg マツは、神が天から降りるのを待つ木、「祭り木」が転じたものだという説があります。
 また、松の葉は二股となっているので、股がマツになったなどの説があります。
 貝原益軒は「大和本草」で「マツは『タモツ』の上を略したものである。「モ」と「マ」とはお互いに通じあう。マツとは久しく寿をタモツ木なり」と書いています。

【マツは日本に8種あります】 
 マツは、世界中に約90種類あります。松の生育地は、日本、朝鮮、中国、ヨーロッパ、北米など温帯を中心となっており、寒帯・熱帯には生息していません。また、北半球のみで南半球には生息していないそうです。
 日本には、8種類のマツがあります。黒松、赤松が中心で、そのほか、五葉松、朝鮮松、姫小松、這松(ハイマツ)、琉球松、ヤクタネ五葉の6種類があります。
 黒松、赤松は日本特産の松で、赤松、黒松の順で多いそうです。そして黒松は海岸に多く、内陸や産地では赤松が多くなっているそうです。

【黒松】 
 黒松は、赤松に比較して大きく樹皮が黒灰褐色で黒ずんでいて、成長するに従って、幹の皮が深く避けて亀甲型に割れます。葉は太く強剛で猛々しいため雄松(オマツ)とも呼ばれます。
 海岸の砂地に多く生育するところから、潮風を受けて、成長すると幹や枝が著しく曲がり荘厳な趣を出してきます。
 いわゆる白砂青松と呼ばれるのは、黒松が群生した海岸の風景を指したものです。
 右上の写真が黒松です。全体的に黒っぽく見えるのがわかると思います。

【赤松】 
c0187004_1530440.jpg 赤松は文字通り樹皮が赤いのでこの名が付いています。
 黒松とよく似ていますが、葉がやや細く柔らかく、手で触れても黒松ほど痛くありません。
 そのため黒松が「雄松(オマツ)」と呼ばれますが、「雌松(メマツ)」と呼ばれることもあります。
 また、成長すると黒松と同じように樹皮が鱗状に剥がれますが、赤松の方が、より薄く赤っぽくなります。
 左の写真が赤松です。右上の写真と比較すると赤っぽいのがよくわかると思います。

【その他の松】 
 朝鮮松は、朝鮮に多いので、この名があります。文禄・慶長の役の際に日本に持ち帰ったという説もありますが、明治になって、中央山脈等に野生するのが発見され、この説は否定されました。
 琉球松は、鹿児島県の奄美大島から沖縄諸島の西表島にかけて生育する松で、一名沖縄松とも言います。
 這松(ハイマツ)は高山に生え、本州中央山脈では2000メートル以上のところに生育します。雷鳥は、這松の実を食べるといいます。
 五葉松は、葉が五葉となっていて、庭園樹や公園樹として利用されます。
 姫小松は、北関東以北に分布しています。
 
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by wheatbaku | 2010-12-20 23:27 | 江戸の花と木 | Trackback
前川 (江戸の老舗の味)
 浅草についての記事は、いよいよ今日で最後になります。
 浅草について書き始めて、結果として、長期のシリーズとなってしまいました。
 浅草というのは奥が深いと感じざるをえません。

 今日は、鰻で有名な江戸時代創業の老舗 「前川」 をご案内します。
 前川は、都営地下鉄「浅草」駅」A2番出口から徒歩1分のところにあります。雷門から歩いても5分です。

c0187004_1412153.jpg【創業は文化文政期】
 前川は、お店の資料では文化・文政年間(1804~1829)創業とのことですので、約200年前に創業されたうなぎの老舗です。
 もとは川魚問屋でしたが、初代勇右衛門が鰻料理に転じました。
 お店の前面が隅田川にのぞむところから屋号を「前川」としたようです。
 現在の場所に移ったのは、関東大震災の後の都市計画によるものだったそうです。


c0187004_1412357.jpg【スカイツリーの見える店内】
 お店は1階が玄関となっています。店内は2階がお座敷となっていて、ここで食事をすることになります。1階で靴を脱いで上がります。
 2階のお店は、目の前がまさに隅田川です。
 大きな窓ガラスで、日差しが降り注いでいました。
 窓越しには、現在建設中のスカイツリーが大きく見えます。
 スカイツリーを眺めながらうなぎを食べるというすばらしいことができます。
 スカイツリーのビューポイントの一つに数えてよいと思います。
 手前に見える橋は駒形橋です。

【ふっくらしたうな重】
 さて、うなぎですが、平日は、お得な2450円のうな重がありますので、こちらを頼んで見ました。
c0187004_14125783.jpg うな重が丸いお重だったのには、ちょっとびっくりしました。
 しかし、うなぎはふっくら焼けていてやわらかく非常においしかったですね。
 やっぱり伝統の味でしょう。たれは比較的淡白な味でした。
 次回には、うな重「坂東太郎」を味わってみたいと思いました。ただしお値段が3570円ですが。
 ところで、『うなぎ坂東太郎』は養殖の鰻です。
 天然の鰻ではありません。しかし天然の鰻に限りなく近づけることができたそうです。

 さらに、前川では天然うなぎも食べられます。
 ただし、天然が味わえるのは5月上旬から11月下旬です。
 養殖にはない香りが天然の魅力だそうです。
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by wheatbaku | 2010-12-20 06:14 | 江戸の老舗 | Trackback
金龍山浅草餅(江戸からの和菓子)
 今日は、浅草の老舗中の老舗、 「金龍山浅草餅本舗」 をご紹介します。
 「金龍山浅草餅本舗」は仲見世の中でもちょっと奥まったところ、伝法院の目の前にあります。
 以前、ちょっとご紹介しましたが、浅草で一番古いお店です
【台東区最古のお店】 
 創業は江戸時代初期の延宝3年(1675)といいますので、創業以来330年以上たったまぎれもない老舗中の老舗です。
c0187004_14373959.jpg 14代目ご主人のお話では、「浅草では、浅草寺と浅草神社の次に古い由緒を誇ります。台東区では、もっとも古いお店です」ということでした。

 お店でいただいたしおりによれば、現在のところにお店をだしたのは「元禄の頃」だそうです。
 浅草餅の由来については、「当店が現在の処に桔梗屋なる屋号で餅屋を出し享保年間亭主の桔梗屋安兵衛が当時の浅草寺住職を兼職せられた上野輪王寺の宮様に当店謹製の餅を献上致しましたところ其の風味を大変お気に召され『名物金龍山浅草餅』の御染筆を頂いてから銘名された餅で其の独特の風味は広く江戸人に好まれて参りました」といただいた「志保里」に書いてあります。


【川柳に詠まれたほどの有名店】 
 江戸っ子は、金龍山浅草餅を詠んだ次のような川柳を残しています。
 「金龍山浅草餅本舗」は川柳に読まれたほど超有名店だったということになります
別当の門と餅屋は向かい合い
 別当の門は伝法院の門を指し、餅屋は「金龍山浅草餅本舗」を指します。
 お店は、まさに伝法院の目の前にあります。
山号を書いた暖簾を下戸くぐり
 金龍山浅草餅と山号を書いた暖簾が店先にかけたあったのでしょう。

【現在のメイン商品は「あげまんじゅう」】
 浅草餅はなかなか手に入りません。というのも、製造するのが大変なので作る日が限定されていることと、少ししか作らないので午前中に売り切れてしまうそうです。
c0187004_15572113.jpg 浅草餅は、お正月が過ぎた頃に販売するそうです。しかし、「午前中で売り切れてしまうそうですので、お早めにお買いください」とのことでした。
「あげまんじゅう」は昭和33年に売りはじめたものだそうです。
 仲見世で、戦前は3軒のお店が「あげまんじゅう」を販売していましたが、戦後、それらのお店が「あげまんじゅう」を売らなくなったため、販売し始めたとのことでした。
 まんじゅうが揚げられているのですが、意外にあっさりしていました。
 饅頭の皮も柔らかくて、あんこもあっさりして大変おいしいものでした。
 6個入り790円、10個入り1310円で、ばら売りはしていません。

c0187004_14382633.jpg【大変お元気なご主人親子】 
 14代目ご主人吉住泰男さんは80歳ですが、お元気で店番をされていらっしゃいます。
 「お元気ですね」といったら、「いやいやぁ、まだ子供ですよ」と言っていました。
 「おや」と思っていたら、「もっと元気な人がいます」とのことでした。
 実はご主人のお母様は102歳になるそうですが、今でも、朝から晩までお店にいらっしゃるそうです。
 お母様にご挨拶をさせていただきましたが、大変元気で、とても102歳にはみえませんでした。
 300年を超えるお店ということで驚くのに、さらに80歳のご主人と100歳を超えるご主人のお母様とが元気に商売をしているということに非常に驚きました。
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by wheatbaku | 2010-12-19 00:57 | 江戸からの和菓子 | Trackback
  

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