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吉良上野介坐像(本所松坂町公園④ 両国散歩)
 今日は、本所松坂町公園にある吉良上野介の坐像のご案内です。

【昨年末設置された坐像】 
 本所松坂町公園に、昨年末に吉良上野介の像が設置されました。
 この像は両国3丁目町会、両国吉良邸跡保存会などが330万円かけて作成しました。
 そして、昨年12月12日に除幕式が行われたものです。
c0187004_9543989.jpg
 座像は高さ75センチ、横幅116センチあるそうです。当初は銅製の計画だったそうですが、制作費が高くなるため、ファイバープラスチックに変えて製作されたそうです。
 この像は、吉良町の華蔵寺にある吉良上野介の像(最下段の写真)をモデルにつくられたもので、華蔵寺にある吉良上野介の像は、吉良上野介が50歳の時に作らせたものだそうです。

【上野介の略歴】 
 吉良上野介義央(よしなか)は、 寛永18.年(1641.) に、吉良若狭守義冬の子としてうまれました。吉良家は足利一族の名門で,祖父義弥以来高家を務めていました。
 明暦3年(1657) 17歳の時に従四位下侍従に叙任され,上野介と名乗りました。
 寛文8年(1668)に家督を継ぎ、4200石を知行し、天和3(1683)年より43歳で高家肝煎を務めました。
 上野介の妻は上杉定勝の娘であり,子の綱憲は上杉家の養子となっていて、上杉家との関係は非常に深いものでした。
 元禄15年(1702)12月15日に赤穂浪士に討たれたのは、61才の時でした。

c0187004_955532.jpg【高家とは】 
 高家は、旗本ですが、大多数の旗本が若年寄の支配下にあるのに対して、老中の支配下にあり大名と同じ扱いになります。
 高家は江戸時代以前に活躍した武家名家の子孫や公家の子弟などから選ばれた家で、26家ありました。
 おもに朝廷関係の儀礼や交渉を担当し、勅使・院使の接待、京都への使者、旗本の官位の手続きなどを担当していました。
 高家のうち、実際に朝廷に関する仕事を担当した家を「奥高家」といい、10数家ありました。この高家をまとめたのが高家肝煎(きもいり)で三家ありました。
 吉良上野介も高家肝煎でした。
 その他の高家は、「表高家」と呼ばれ、日常的な仕事はなく、無役の待命組だったそうです。
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by wheatbaku | 2011-01-31 05:56 | 大江戸散歩 | Trackback
松坂稲荷大明神(本所松坂町公園③ 両国散歩)
 今日は本所松坂町公園の中をご案内します。
 まず、「松坂稲荷大明神」と「吉良家家臣二十士」の供養碑についてご案内します。

c0187004_10195481.jpg【霊験あらたか松坂稲荷大明神】 
 これは、江戸時代、この辺りに鎮座していた「兼春(かねはる)稲荷」と「上野(こうづけ)稲荷」を合わせてお祀りしたものです。
 公園開園当時からここに鎮座しています。
 それ以前に、二つのお稲荷さんがどこに鎮座しているのか調べましたが、それは分かりませんでした。
 「兼春稲荷」をどう読むかについても、「兼春(けんしゅん)稲荷」とフリガナをふった本もありました。
 しかし、公園近くの和菓子屋さん「大川屋」のおかみさんに尋ねたところ「かねはる」と呼ぶと教えていただきました。
 また、おかみさんの話では、「地元には『兼春稲荷』に助けていただいた方が大勢います。地元では霊験あらたかなお稲荷さんとして深く信仰されています。」ということでした。

【「吉良家家臣二十士」の供養碑】
 兼春稲荷の隣に「吉良家家臣二十士」と刻まれた碑があります。
c0187004_10174549.jpg これは、赤穂浪士が討ち入りした際に、なくなった家臣の名前を刻んで慰霊したものです。
 赤穂浪士が討ち入った際、赤穂浪士側は、完全武装であったため、軽傷者2名で死者はゼロでした。
 一方、衝撃された吉良方は、20人の死者が出ました。その20人の名前を書いて供養したものです。
 死者で有名な人を挙げると、小林平八郎は、吉良家の家老です。
 忠臣蔵によくでてくる清水一学の名前も刻まれています。
 清水一学は、吉良上野介の小姓です。
 その他18名の人の名前が刻まれていました。
 吉良上野介のお墓がある中野区の功運寺にもこの人たちの碑があるそうです。

c0187004_10171425.jpg【入口わきに松坂稲荷大明神が鎮座】
 右の写真は 本所松坂町公園の入り口付近を撮ったものです。
 写真左手が公園の入り口です。
 入口を入るとすぐに、松坂稲荷大明神が鎮座しています。
 その右手脇に 「吉良家家臣二十士」の供養碑があります。
 写真では、右隅に映っています。
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by wheatbaku | 2011-01-30 10:06 | 大江戸散歩 | Trackback
吉良邸の表門と裏門跡(本所松坂町公園② 両国散歩)
 今日は、吉良邸の表門と裏門跡 をご案内します。
 本所松坂町公園は、昨日書いたように、吉良邸のごく一部です(1.1%程度の大きさです。)
 多くの人は、本所松坂町公園だけで満足しているようです。
 しかし、今は、吉良邸の表門跡と裏門跡に、「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた高札風の説明板がありますので、 それを見られると、吉良邸の広さが実感できると思います。

 吉良邸は、東側に表門、西側に裏門がありました。
 つまり、現在の両国小学校側に表門がり、回向院側に裏門がありました。
 表門の高札は、マンションの敷地内に建てられています。

c0187004_111127.jpg【吉良邸表門跡】  
 表門はかなり頑丈にできていたようです。
 赤穂浪士の討ち入りの際には、大石内蔵助が指揮をとり、23人が表門として斬りこみました。
 表門隊は、表門が頑丈であったため、梯子を門の屋根にかけてのぼり、その後、屋敷内に縄梯子を利用して降りて門を開けたといわれています。この際に、原惣右衛門は屋根から飛び降りて足をくじいたとも言われています。
 討ち入りは、12月14日と言われていますが、実はその夜の寅の刻今でいえば午前4時ごろに行われていますので、正しくは日がかわって15日になっていました。
 忠臣蔵では、討ち入りの時に大石内蔵助が山鹿流陣太鼓をうつ場面が必ずでてきますが、実際には、陣太鼓を打ったことはなかったそうです。

c0187004_1122922.jpg【吉良邸裏門跡】  
 裏門の高札もマンションの脇に建てられています。
 赤穂浪士の討ち入りの時には、大石内蔵助の子供の大石主税が主将となって24人が裏門隊として斬りこみました。
 裏門は表門とくらべて頑丈ではなかったため、大槌を使い、門を壊して討ち入ったといわれています。

 
【吉良邸は塀からの討ち入りは難しかった】  
 本所松坂町公園の海鼠壁は2メートル程度ですので、塀を乗り越えて吉良邸に討ち入りできるように思われます。
 しかし、「堂々日本史」によれば、吉良邸の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、その高さが6.6メートルもあったそうです。
 現在のビルでは3階の高さになります。これだけの高さの塀が吉良邸の周りを取り囲んでいたので、その塀の上にのぼり、そこから降りるというのは大変難しかったようです。
 
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by wheatbaku | 2011-01-28 10:55 | 大江戸散歩 | Trackback
吉良邸跡 本所松坂町公園 (両国散歩)
 今日からは、両国界隈のご案内をします。
 最初は、吉良邸跡として有名な 本所松坂町公園 です。
 本所松坂町公園は、JR「両国」駅から徒歩4分です。多くの人は、両国駅の西口から行くと思いますが、東口のほうが近くなります。西口からは7分程度かかります。

【本所松坂町公園の建設は昭和9年】 
本所松坂町公園は、昔からあったかのように思いがちですが、この公園は、昭和9年につくられたもので、それほど古い公園ではありません。
c0187004_13421689.jpg  吉良邸は、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となったため、町人が住む町になりました。
 討ち入りの2年後にそこにつけられた町名が松坂町でした。松坂という名は、謡曲の中からめでたいものが選ばれたようです。
 町人の町となったため、本所松坂町には吉良家の名残を残すものはありませんでした。
 そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それがこの公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。
 なまこ壁で囲まれた公園で、格式の高かった吉良家をイメージしたものです。

 【吉良邸は、公園の86倍の大きさ】 
 吉良上野介義央の屋敷は、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた当時は、呉服橋門内にありました。
c0187004_13424846.jpg その後、刃傷事件の起きた年の元禄14年(1701)9月3日に、吉良上野介は、ここにあった松平登之介(近藤登之介はまちがい)の屋敷跡を拝領しました。
 その後、赤穂浪士の討入りがあった後、吉良家が改易となりお屋敷を没収されたのが元禄16年(1703)2月4日ですから、吉良家のお屋敷であったのは1年半に満たない短かい間でした。

 吉良邸は、東西160メートル、南北60メートル、面積約2550坪の大きなお屋敷でした。
 現在の本所松坂町公園は、約30坪ですので、吉良邸と比較すると1,2%の割合しかない小さな公園です。
 本所松坂町公園の中の説明板(上野写真)を見ると、公園は吉良邸の北側にあたるようです。
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by wheatbaku | 2011-01-27 12:36 | 大江戸散歩 | Trackback
玉英堂彦九郎 (江戸からの和菓子)
人形中の老舗について、今日は 「玉英堂彦九郎」 をご案内します。

 「玉英堂彦九郎」は甘酒横丁の入口にあります。
 東京メトロ「人形町」駅A1番出口を出ると甘酒横丁の交差点になります。その甘酒横丁交差点の南東角にあります。

c0187004_14561698.jpg 【安土桃山時代創業の老舗】 
 玉英堂彦九郎は、江戸幕府が開かれる前の天正4年(1576) に創業された大変ふるい和菓子屋です。
 創業以来420余年の歴史を持つことになります。
 もともとは、発祥の地は京都ですが、昭和29年に現在地に支店を構えたそうです。
 現在では、商売を東京に移していて、この東京人形町の店が本店だそうです。

 【甘酒横丁由来の地に開業】 
 甘酒横丁は、明治の初め頃に、横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから『甘酒屋横丁』と呼ばれていました。
c0187004_14564026.jpg 当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であったそうです。
 関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼び名も『甘酒横丁』と呼ばれるようになりました。
 その尾張屋の跡地にあるのが、「玉英堂彦九郎」です。
 本店のウィンドウーにその旨の張り紙がされています。

 【高山彦九郎との関係】 
 そのウィンドーの中に寛永の三奇人の一人高山彦九郎の木像が置いてあります。
 それは、「玉英堂彦九郎」の名前は、高山彦九郎からもらったからだそうです。
 高山彦九郎は、京都三条の橋から御所を遥拝しその荒廃に涙した話は有名ですが、その彦九郎が酒を飲んだのが、橋のたもとにあった玉英堂だそうです。
 その縁で、彦九郎の名前をつけているそうです。

c0187004_156777.jpg 【名物「虎家喜」】 
 この玉英堂の名物が、「虎家喜」です。いわゆるどらやきだとは思いますが、虎模様の焼跡が皮に残るので、とらやき」と言っているそうです。
 やわらかな皮に甘すぎない餡でおいしいものでした。
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by wheatbaku | 2011-01-26 08:23 | 江戸からの和菓子 | Trackback
うぶけ屋 (江戸の老舗)
 人形町には江戸時代創業の老舗が数多くあります。
 老舗というと食べ物屋さんを思い浮かべがちですが、食べ物以外の老舗もあります。
 今日は、そんな老舗の中から、刃物の老舗の 「うぶけ屋」  をご案内します。

c0187004_935856.jpg 【創業230年の刃物の老舗】
 「うぶけ屋」は、東京メトロ「人形町」駅A4番出口から出ると徒歩1分です。数日前に紹介した「玄冶店」碑から北に10メートルほどのところにあります。
 「うぶけ屋」ははさみ、包丁、毛抜などの刃物を売っています。
 創業は1783(天明三年)といいますので、創業以来230年ほどになります。
 元々は大阪で創業したそうですが、幕末の頃、江戸にお店を出し、長谷川町に構えました。
 その後、明治のはじめ、現在地に移りました。
 初代は喜之介、銘を兼忠といったあそうで、現当主は七代目だそうです。

 ところで、「うぶけ屋」という名前ですが、うぶ毛を切ったりそったり抜いたりできる刃物を扱うことからうぶけ屋と名前をつけたそうです。

c0187004_8595219.jpg 【中央区の登録文化財】
 裁縫などにつかわれる裁鋏を始めて作って売り出したのはこの「うぶけ屋」だそうです。
 現在、店内にガラスケースに入れられて飾られている刃物があります。
 最初はわかりませんでしたが、よくみると中央区の文化財登録書がありました。
左の写真の左下隅にあるのが、その登録書です。
 この刃物は中央区の文化財に指定されているものでした。

c0187004_8591354.jpg 【看板は寄せ書きによる偏額】
  また、店頭にかかげられている偏額は、明治の書家日下部鳴鶴の門下四天王といわれた丹羽海鶴が揮毫したものです。写真の上部の看板がそれです。
 また玄関先にかかげられている偏額は、明治の書家の合作によるものだそうです。
 う=井原雲涯、ぶ=丹羽海鶴、け=岩田鶴皐、や=近藤雪竹、の寄せ書きの額になっていて、それぞれの字の脇に書家の名前も刻まれています。
 写真の下部の玄関の屋根の下に掲げられている額が寄せ書きの額です。
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by wheatbaku | 2011-01-24 06:12 | 江戸の老舗 | Trackback
人形町亀井堂 (江戸からの和菓子)
 人形町は古い町ですので、老舗が多くあります。
 今日から、その老舗の中から、江戸に関係する老舗3店舗をご案内します。

 まず、今日は 「人形町亀井堂」 です。
 人形町亀井堂は、甘酒横丁の中ほどにあります。東京メトロ「人形町」駅A1蕃出口からあるいて2分です。

c0187004_19274490.jpg【佐々木信濃守のお孫さんが創業】 
 人形町亀井堂の創業は昭和4年ですから、江戸時代からのお店ではありませんので、副題の江戸からの和菓子は少し違うのですが、江戸とは深く関係があるのでご紹介します。
 しかし、このお店は、幕末の南町奉行と北町奉行を務めた佐々木信濃守顯發(あきのぶ)という人のお孫さんが創業したお店です。
 佐々木信濃守という方は、今は知る人はほとんどいませんが、当時は名奉行といわれ、落語の「佐々木政談」として取り上げられるほど有名な奉行です。そのお孫さんが創業者だそうです。


【大出世した佐々木信濃守】 
 もともと佐々木信濃守顯發は、飛騨郡代の手代の子供として生まれました。
c0187004_19282957.jpg その人が、南北町奉行や外国奉行などの要職を歴任しました。
 江戸に出て、御家人株を買い、御徒となり、その後、支配勘定となり順調に出世をし、嘉永4年(1851年) 奈良奉行になり、その時、従五位下信濃守叙任しました。
 店内には、佐々木信濃守に対して朝廷が信濃守に任じることを通知した命令書(これを宣旨といいますが)が飾られています。
 宣旨というものを初めて見ましたが、朱印等が押されていないのですね。
 詳しい人がいましたら、コメントで教えてください。

【名物瓦せんべいは和風カステラ】 
 人形町亀井堂の名物は瓦せんべいです。
c0187004_1929254.jpg 人形町亀井堂は、明治六年、神戸元町に創業した亀井堂総本店からのれん分けされた店です。
 瓦せんべいはカステラと同じ材料でつくられたものだそうです。
 ふっくら焼くとカステラで、硬く焼くと瓦せんべいになると思えばよいそうです。
 また瓦せんべいの生地に刷毛のみで砂糖細工をほどこす伝統技法「刷毛引き」をした瓦せんべいも有名です。
 瓦せんべいを買って食べましたが、カステラ風味で、何枚も食べられる味でした。我が家でも大好評でした。
 大江戸散歩でご案内したお客様にも大変好評でした。

c0187004_19442124.jpg【京橋の文字は佐々木信濃守長男の字】 
 中央区の京橋という地名は、京橋川にかかる京橋という橋があったことによります。
 現在は京橋川は埋め立てられ、京橋という橋はなくなりました。
 しかし、中央通りにその京橋の親柱が残されています。
 その「京橋」の親柱の「京橋」の字は、佐々木信濃守顯發の長男で漢学者の佐々木支陰が揮毫したものです。
 現在は「京橋碑」として銀座中央通りに残されていて、中央区の区民有形文化財に指定されています。
 

赤印が人形町亀井堂です。

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by wheatbaku | 2011-01-23 09:40 | 江戸からの和菓子 | Trackback
お竹大日如来(人形町散歩④)
人形町散歩の4回目は、人形町の北側の小伝馬町にある史跡の紹介です。
「お竹大日如来」  について紹介します。

 【於竹大日如来井戸跡】 
  小津和紙の一角にあるのが「史跡 於竹大日如来井戸跡」です。
 小津産業株式会社の本社の敷地は、小津和紙の創業の地ですが、江戸時代初め、創業者小津清左衛門の主人佐久間善八の屋敷でもありました。
 佐久間善八は町名主でもありました。
c0187004_221411.jpg 江戸時代の初めの元和寛永のころ、この佐久間善八の家に、お竹という下女がいました。
 お竹は信心深く、食べ物を大切に扱い、自分の食事を減らして飢えに苦しむ者に与えたそうです。
 そのころ、武蔵国比企郡に乗蓮という聖(行者)がおり、生身の大日如来を拝みたいと思って出羽山に何年も通いました。ある年、例のごとく出羽山に登ったところ、不思議な夢を見ました。
 「お前が私の姿を見たいならば、これより江戸に上って、佐久間家のお竹という者を拝め。」
 乗蓮は、これこそ大日如来の託宣と歓喜し、仲間の玄良坊とともに江戸に上り、佐久間家を探し出して、お竹を礼拝しました。
 すると、お竹の全身から光明が発せられました。二人はお竹を何度も礼拝し、感激して帰っていきました。
 翌日から、お竹は部屋に籠もって念仏に専心し、寛永15年3月21日、亡くなったそうです。

 【お竹大日如来の出開帳】 
 お竹の死後、佐久間善八は等身の像を彫刻し持仏堂に納めて、毎日供養しましたが、その後、羽黒山正善院黄金堂境内に、お竹大日堂を建立してその像を安置しました。
c0187004_2221397.jpg その後、羽黒山の山伏は、お竹大日堂を宣伝するため、江戸への出開帳をおこないました。
 元文5年(1740)を皮切りに、安永6年(1777)には芝愛宕の円福寺で、文化12年(1815)には浅草寺境内の念仏堂で、嘉永2年(1849)には回向院と、都合4回の出開帳がおこなわれ、その際に略縁起やお札が頒布されました。
 とくに嘉永2年の出開帳には、お竹大日如来像ともに、お竹の「遺品」である、流しに結びつけてご飯や野菜の屑を集めたという麻袋や、お竹が着用したという前垂れなども展示されたといいます。 
 絵巻も、絵解きをするために出開帳に合わせて製作されたものでした。
 この出開帳は、江戸の人びとの心を掴んで大当たりとなり、この縁起を素材とした芝居や講釈、錦絵、小説などがたくさん生み出され、明治になっても、坪内逍遙の「お竹大日如来一代記」が上演されるなどしました。
 しかし、時の流れとともにその記憶も薄れ、今日では、お竹の物語を知る人はほとんどいません

 小津史料館では、こうした「お竹大日如来」について詳しく説明していますので、小津史料館にも立ち寄っていただくとよいと思います。
 右の写真は、小津史料館に飾られているお竹大日如来の説明パネルです。

青印が「史跡 於竹大日如来井戸跡」の碑です。

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by wheatbaku | 2011-01-21 06:18 | 大江戸散歩 | Trackback
玄冶店(げんやだな)跡 (人形町散歩③)
 人形町散歩 、今日は  玄冶店(げんやだな)跡  をご案内します。

 玄冶店(げんやだな)跡は、東京メトロ「人形町」駅A4番出口の前に説明板があります。

【玄冶店の主(あるじ)は医者】 
 ここは、江戸時代初期、幕府の医師であった岡本玄冶(げんや)の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。
c0187004_20585223.jpg 岡本玄冶は3代将軍家光が大病を病んだ時、玄冶が直したことから、将軍家光に大変信頼されていた医者だったそうです。

 玄冶は、権威には屈せず、春日局と堂々と渡りあったことについて、三田村鳶魚の『春日局の焼餅競争』に書かれています。
 なお、『春日局の焼餅競争』は右下写真の「公方様の話」の中に載っています。

 「家光が天然痘に罹ったことがありますが、その時春日は侍医の岡本玄冶に向って、酒湯にかかることは、唐の医書にないことであるから、御無用になされて御宜しかろう、と云った。
c0187004_8351535.jpg  すると玄冶が、唐になくて日本で致すことも沢山ある、それを酒湯に限って、古来の仕習わしもあるのに止めるにも及ぶまい、医者のすることを素人の止めらるるもその意を得ぬ、一体医書にないと云われるが、唐の書物を見もせずに文盲な申事である、これを御覧ぜよ、と云って懐中から唐本の医書を出して見せ、読んで聞かせて御酒湯を済ませました。
 玄冶は更に、素人の分、殊に女性の身として不念な事を申され、小癪でござる、と痛く春日を遣り付けたということです。」
 この岡本玄冶の子孫も明治まで9代この地でその職と名跡を継いだそうです。

【与話情浮名横櫛の源氏店はここ】 
 この玄冶店は、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」の舞台ともなりました。
「与話情浮名横櫛」は、3世瀬川如皐(じょこう)が書き、嘉永6年(1853)江戸中村座で初演しました。
 木更津の博徒の妾お富と伊豆屋の若旦那与三郎の情話を描いたもので、通称「お富与三郎」または「切られ与三」として親しまれています。
 9幕ありますが、特に4幕目「源氏店(げんじだな)」の強請場(ゆすりば)が有名です。
 「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富久しぶりだなあ」の名せりふが語られるのが「源氏店(げんじだな)」の場です。

 この「与話情浮名横櫛」で、源氏店とされた場所が、ここ玄冶店です。
 「冶(や)」の字を「治(じ)」に置き換えると「げんじ」となり、そこへ「源氏」という字を当てて芝居の舞台にしたそうです。

 また、昭和の時代に、春日八郎という歌手がいました。
 その春日八郎のヒット曲に「お富さん」というのがありました。
 「しんだはずだよお富さん」で始まる歌で、一世を風靡しました。
 この歌は、この「与話情浮名横櫛」の「源氏店の場」を題材としたものです。

青印のところに説明板と碑があります。

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by wheatbaku | 2011-01-20 06:18 | 大江戸散歩 | Trackback
蛎殻銀座跡 (人形町散歩②)
 今日は、人形町の史跡めぐりの2回目ですが、 「蛎殼銀座跡」  のご案内をします。

【人形町も銀座!】 
 東京メト「人形町」駅A2番出口を出ると目の前に、「蛎殻銀座跡」と書かれた説明板が建っています。
 銀座と言えば、誰でも現在銀座1丁目から8丁目を思い浮かべると思います。しかし、江戸時代には、人形町にも銀座があったと説明するとほとんどの人が驚きます。江戸時代の後期には、人形町に銀座があったのでした。

c0187004_21282334.jpg 【銀座とは銀貨をつくる所】 
 銀座とは江戸時代の銀地金の購入と銀貨の製造を行う役所です。
 銀貨の製造および検査を行う常是役所とそのたの業務を行う銀座役所を総称した組織でした。
 常是役所というのは、慶長のはじめに銀貨の製造を徳川家康から命じられた湯浅常是が「大黒」の姓を与えられ、代々「大黒常是」で世襲したのでした。
 簡単にいうと銀座というのは銀貨をつくるところというとわかりやすいと思います。
 銀座というと、有楽町の東にある銀座をすぐに思い起こすと思いますが、たしかに、江戸時代の始めには、現在の銀座に銀座がありました。
 慶長17年(1612)に現在の銀座二丁目の場所に置かれました。

【「銀座」は銀座から人形町に移転】
 しかし、銀座で不正が行われたため、寛政12年(1800)に、寛政改革の一環として銀座制度の改革が行われ、寛政12年6月に、一旦廃止されました。
 そして、同じ年の11月、改めて幕府直営の度合いを強めた銀座が、蛎殻町、現在の人形町1丁目に再発足しました。
 この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれました。そして明治2年に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。
 ですから、銀座は、銀座2丁目に約190年間、蛎殻町には約70年間ありました。

 しかし、蛎殻町に銀座があったことはすっかり忘れられているようで、なぜか、説明板はさびしそうです。
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by wheatbaku | 2011-01-18 06:14 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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