<   2011年 01月 ( 23 )   > この月の画像一覧
西郷隆盛屋敷跡 (人形町散歩)
 日本橋七福神めぐりが昨日で終了しました。
 今日からは、人形町の史跡をご案内したいと思います。
 今日は、 西郷隆盛の屋敷跡 を紹介します。

【広い屋敷に2年間ひっそりと起居】 
 西郷隆盛の屋敷跡は、現在は日本橋小学校となっています。
 人形町駅A2蕃出口またはA6番出口からそれぞれ1分、水天宮駅8番出口からは3分です。
 日本橋小学校の玄関前に、中央区教育委員会の説明板が設置されています。
c0187004_21393855.jpg 日本橋小学校は、9階建ての建物で中央区の複合施設となっていて、建物内に、日本橋図書館、サウナ付きの区立プールさらに日本橋社会教育会館などが一緒に設置されています。
 この日本橋小学校の敷地は、江戸時代、姫路藩酒井家の下屋敷でした。
その後明治になってからは西郷隆盛の屋敷でした。
 西郷隆盛は函館戦争が終了すると残留要請を断り故郷の鹿児島に帰り、のんびりとした生活をしていました。
 そんな西郷を新政府がほっておくわけはありませんでした。再三、新政府への出仕要請をします。
 西郷はその要請に応じず難航しましたが、弟西郷従道の説得に応じて明治4年(1871)に上京して参議に就任しましたた。
 その時から西郷隆盛は日本橋小網町に住みました。
 そして、明治6年に征韓論に敗れて鹿児島に帰るまでの約2年間ここに起居しました。
 2600坪もある広い屋敷には書生を15人ほど住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていたといわれます。
 

【「翔ぶがごとく」】 
 司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」の中に、この日本橋小網町の屋敷の様子が書かれています。
c0187004_9901.jpg 「西郷は日本橋小網町の旧武家屋敷に書生同然の姿で住んでいた。・・・ 西郷はその屋敷はぜんぶ使わず、長屋の一角だけを居所にしており、郷里から妻子さえよびよせていなかった。」と書かれています。

 また、西郷隆盛が、小網町の屋敷を退去するにあたって、西郷は自分は商人ではないから屋敷を購入した値段で売ろうとして買い手が驚いてしまったとも書かれています。
 西郷は250円で日本橋小網町の屋敷を払いさげてもらったので、その価格で売ろうとしました。250円というのは、この地区の地価の相場から言えば10坪ほどの値段でした。ところが西郷の屋敷は3000坪はあるであろう大きなやしきであるため、相手が「人を馬鹿にしては」こまるといって下僕の熊吉が困り西郷に相談する場面があります。

 青い場所が「西郷隆盛屋敷跡」の説明板がある場所です。

[PR]
by wheatbaku | 2011-01-17 06:20 | 大江戸散歩 | Trackback
末廣神社 (日本橋七福神 ⑧)
 日本橋七福神の8回目で 「末廣神社」 です。日本橋七福神は、8神社をめぐりますので、今日が最後になります。
 末廣神社は、東京メトロ「人形町」駅A3番出口から2分のところにあります。

【末廣神社は、元吉原の氏神様】 
 江戸幕府が開かれる直前の慶長元年(1596)にはすでにお稲荷様の祠が鎮座していたそうです。
c0187004_9364929.jpg 末廣の名は、延宝3年(1675)に社殿を修復した際、本殿から末廣の扇が出たことに因むものだそうです。
 この末廣神社は、元吉原の氏神様です。
 
 現在の吉原は、浅草の北側にありますが、江戸時代の初めは、吉原は、現在の人形町あたりにありました。
 江戸時代のはじめ元和3年(1617)に庄司甚右衛門という人を中心に、幕府の許可を得て、沼地であった人形町近辺を埋め立て、遊女町を開きました。これが葭原(吉原)の起こりです。
 葭(よし)が生い茂っていたため葭原と名づけられたそうです。
「葭」の字を、縁起の良い「吉」に替えて「吉原」としたそうです。
 吉原が開設されてから40年たった明暦3年(1657)、幕府の命により、葭原の遊女町は浅草の新吉原へ移転しました。
 この移転後の新吉原に対して、人形町の方は元葭原と呼ばれるようになりました。
 この末廣神社は、吉原に遊女町があるころは、その氏神様として信仰を集めました。
 遊女町が移転した後は、幕府に仕える役人が多く住むようになり、その氏神として信仰されたといいます。
 
 元吉原がどのあたりなのか、宮司の奥さまに尋ねてみましたが、現在関心をもって調査をしているがまだはっきりとはしていませんという回答でした。


【毘沙門天は仏法守護の四天王の一人】 
 七福神は、毘沙門天がお祀りされています。 ふくよかな七福神の中で毘沙門天だけが鎧兜で武装した厳しい姿をしています。
c0187004_9372938.jpg  毘沙門天は、もとはインドの財宝福徳を司る神様で、サンスクリット語で、 ヴァイシュラヴェナと呼ばれていました。
 
 仏教に取り入れられてからは、仏法を守護する四天王の一人として北方守護の任を負い、四天王中最強の力を誇るとされました。

 我が国では、「毘沙門天」とともに「多聞天」の名でも呼ばれます。
 毘沙門天はヴァイシュラヴェナを音訳した名前です。
 一方、多聞天とは、ヴァイシュラヴェナを意訳した名前で、ヴァイとは「広く」とか「多く」を意味し、「シュラヴァ」は「聞く人」という意味です。
 単独で信仰されるときは「毘沙門天」、四天王の一人として信仰される時は「多聞天」と呼ばれることが多いようです。
 上杉謙信がこの毘沙門天を深く信仰したことで有名です。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-16 09:30 | 七福神めぐり | Trackback
笠間稲荷神社 (日本橋七福神⑦)
 日本橋七福神の7回目は笠間稲荷神社です。
 笠間稲荷神社は、東京メトロ「人形町」駅から徒歩4分です。

【笠間藩牧野家が勧請】 
 江戸時代、ここに笠間藩牧野家の下屋敷がありました。
 牧野家は、5代将軍綱吉の側用人であった牧野成貞の子孫の家柄で、成貞の長男貞通が初代藩主ですす。
c0187004_810403.jpg また笠間藩は、赤穂浪士で名高い浅野内匠頭のお祖父さん浅野長直が赤穂藩を領する前に藩主であったことがある藩です。
 その笠間藩牧野家の8代藩主牧野貞直が、幕末の1859年(安政6年) に、常陸の笠間稲荷神社より分霊を受けて建てたのが笠間稲荷神社です。

 笠間稲荷神社は、茨城県の笠間市にあり、日本三大稲荷(他は伏見稲荷神社、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社)のひとつとして広く信仰を集めています。
 笠間稲荷神社は別名紋三郎稲荷と言われます。
 宮司さんの話によると、笠間藩主の弟に門三郎という人がいて厚く笠間稲荷神社を信仰するとともに領内にもひろめました。その門三郎さんの門がいつしか紋にかわり紋三郎稲荷と呼ばれるようになったとのことでした。
 東京の笠間稲荷神社の講の名前は「紋三郎講」となっていました。
 
【寿老神】 
 笠間稲荷神社には、七福神のうちの寿老神が祀られています。
c0187004_8114292.jpg  一般的には、寿老人とかかれますが、笠間稲荷神社では、寿老神と書かれています。
 福禄寿の説明の中で、福禄寿は「南極老人星」の化身だといいましたが、寿老人も、「南極老人星」の化身だと言われています。
 昔の中国の人たちは、この星を世の中が平和の時にだけ出現するめでたい星と信じ、また、皇帝の寿命を支配する星と信じていました。
 「南極老人星」が、唐の時代には、黒い頭巾をかぶって杖をつく老人の姿で描かれるようになりました。
  これが寿老人です。そのため、寿老人は福禄寿と同体異名という説もあります。
 寿老人の神使は鹿ですので、鹿が一緒にいると寿老人、鶴や亀がいると福禄寿として見分けます。

 笠間稲荷神社では、寿老神の神像は安置されていないのだそうです。寿老神がいると考えながら手を合わせてくださいというのが宮司さんのお話でした。

【弁慶像】 
 c0187004_811234.jpg 笠間稲荷神社に行く途中弁慶像がありました。 甘酒横丁を東に入り浜町川を暗渠にした緑地帯の中央に建てられていました。
 人形町周辺には、江戸時代は芝居小屋や人形芝居小屋がありました。
 芝居小屋は、中村座と市村座があり、人形芝居小屋には、薩摩座や結城座などがありました。
 人形を操る人形師や人形を創る人形師が多くいたため人形町と呼ばれるようになったといいます。
 そうした縁から、弁恵像が建てられたようです。
 




 
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-14 06:13 | 七福神めぐり | Trackback
小網神社(日本橋七福神⑥)
 日本橋七福神6回目は 小網神社 です。 
 東京メトロ「水天宮」駅A6番出口から徒歩3分、半蔵門線「三越前」駅B6番出口からだと徒歩で7分かかります。

【創建以来550年】 
 小網神社は、室町時代中期京都で応仁の乱がおころうとしている頃の1466年(文正元)に創建された神社です。c0187004_21183494.jpg  創建以来550年がたつ神社です。
 もともとは、稲荷神社が起源で、「小網稲荷神社」といっていたそうです。
 明治の初めに現在の「小網神社」と名前をかえました。
  小網神社は、日本橋七福神の一つでもあり、「東京下町八福神参り」の一つでもあります。
 さらに、最近ではテレビやインターネットでパワースポットとして取り上げられたことから、遠方からの若い人の参拝が増えているそうです。

c0187004_20542185.jpg【強運の龍】 
 現在の社殿は昭和4年に建築されたもので、中央区の区民文化財に指定されています。
 社殿の正面左右の梁には昇り龍と降り龍の彫刻が施されています。  
 上が右側の梁に彫刻されている昇り龍です。
 下が左の梁に彫刻されている下り龍です。

c0187004_20543768.jpg  『戦時中、度重なる空襲から神社を守り、出征した氏子全員が無事に帰還したことから別名「強運の龍」と呼ばれ、強運厄除けの力が宿るといわれています。』
 というのが、小網神社の説明でした。

 しかし、七福神のガイドの際に、偶然地元出身の年配のご婦人と話をする機会がありました。
 その方のお父さんが「この神社から出征して行ったんです」と言われるので、「それでは無事復員されたのですね」と言ったら、そのご婦人は「いや戻りませんでした。」とのお話でした。
 出征された方の中には復員できなかった方もいたことを知り、次の言葉がなくなってしまいました。


【どぶろく祭り】 
 ここで有名なお祭りが11月28日(平成22年には11月29日)に開催される「どぶろく祭り」です。
c0187004_2143167.jpg これは、五穀豊穣を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」で供え物のにごり酒「どぶろく」を参拝者に振る舞ったことが起こりで、「はっきりした記録はないが江戸時代後期ごろから」始まったとのことです。
 どぶろく祭りは、例年11月28日開催ですが、28日が日曜日の場合は29日に開催しているそうです。
 そのため、平成22年は11月29日に開催されました。
 どぶろくは例年約1,000人分ほど用意され、朝9時から夕方まで無料で提供されます。


 また、小網神社では、ススキでできた強運厄除けのお守り「下町のみみずく」をどぶろく祭りと正月元旦に2000円で授与します。
 大変人気があるものでなかなか手に入らないそうです。

【福禄寿】 
 小網神社では、七福神は、福禄寿と弁財天が祀られています。
 竜骨座の中に、「カノープス」という一等星があります。大犬座の「シリウス」に次いで全天で2番目に明るい星ですが、地平線ぎりぎりに見えるため日本ではあまり知られていません。
 中国では、この星は「南極老人星」と呼ばれていました。
 宋の時代以降には、「南極老人星」が、頭が非常に長く、白いひげをした背の低い老人として描かれるようになりました。
 これが福禄寿です。
 また、「福禄寿」は道教で理想とされる「福(幸運と子孫に恵まれること)」「禄(金銭・財産に恵まれること)」「寿(健康を伴う長寿)」をあらわしたものだという説もあります。
 福禄寿は、杖を持ち、時には鶴や亀を従えていることもあるようです。

c0187004_211917.jpg【弁財天】 
小網神社には、福禄寿のほか、弁財天が祭られています。
 弁財天は、この境内にあった萬福寿というお寺に安置されていたものだそうです。
明治2年に、そのお寺が廃止されたため、小網神社にお祀りされるようになったものです。それにちなんで、萬福舟乗弁財天といいます。
 また別名東京銭洗い弁天(確認済み)と呼ばれています。
 この由来を宮司さんに聞いたところ、参拝される人々が、自然発生的に銭洗い弁天と呼ぶので、そうよぶようになりましたとのことでした。
 境内の「銭洗いの水」でお金を洗うと、商売が繁盛し、お金が貯まるといわれています。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-13 05:24 | 七福神めぐり | Trackback(1)
茶ノ木神社 (日本橋七福神⑤)
 今日の日本橋七福神は、 「茶ノ木神社」 です。
 茶ノ木神社は地元ではお茶ノ木様と呼ばれて親しまれています。
 東京メトロ「水天宮」駅8番出口を出て徒歩1分です。

c0187004_159434.jpg【元々は堀田家の邸内社】 
 茶ノ木神社にお祀りしてあるのはお稲荷様です。
 江戸時代、この土地は、約3000坪もある下総佐倉藩堀田家の中屋敷でした。茶ノ木神社は、その守護神として祀られたものです。
 神社のまわりに丸く刈り込まれた茶の木が植えられていて、それが大変素晴らしかったので茶ノ木神社と呼ばれようになったそうです。
 その名にちなんで、現在のご社殿の周囲には、右下の写真のようにお茶の木が植えられています。
 宮司さんはいませんが、地元の自治会の人が出て、ご朱印やスタンプの対応をしてくれていました。


【火伏せの神様】 
c0187004_159372.jpg そして、長いこと、お屋敷と周囲の町屋にも火災が起こらなかった為、いつの頃からか火伏せの神様と崇められるようになりました。そのため、堀田家では年一回初午(はつうま)祭の日だけ門を開いて、一般の人の参拝を自由にさせたそうです。
 なお、初午は、2月の最初の午の日で、伏見稲荷神社の神様が初めて降り立った日とされており、各地の稲荷神社でお祭りが行われます。

 数年前までは、茶ノ木神社は下町の住宅街の中に建つあまり目立たない神社でしたが、再開発ビルのリガーレ日本橋人形町が建設されるに伴って平成19年に建て替えられ、様変わりしました。

【布袋様】 
 茶ノ木神社にお祀りされている七福神は布袋様です。
 布袋様は、七福神の中で唯一、実在のお坊さんがモデルとなった神様です。
c0187004_1595643.jpg モデルとなったこのお坊さんは契此(かいし)と呼ばれ、大きな太鼓腹で、いつも半裸でいました。
 そして、大きな袋を持っていました。その大きな袋が布製であることから、布の袋すなわち布袋と名がついたようです。

 元の時代の布袋和尚もモデルの一人とされることがあります。
 この布袋和尚は、不思議な力を持っていました。
 雪の中に臥しても身体が濡れなかったとか、人に吉凶を示すと必ずあたったとか、天気の晴雨を予知できたなどと言われています。
 こうした布袋が七福神に加えられた理由は、大きな布の袋とふくよかな笑顔が大黒天と結びついたうえに悠々自適で楽天的な布袋和尚の生き方が当時の人たちに「至福」の象徴として受け入れられたという説があります。
 また、布袋を弥勒菩薩の化身として信仰したとの説もあるようです

 茶ノ木神社の布袋様はかわいい布袋様でした。右手にもっているのはお茶の葉かなと思いましたが、再度確認すると軍配のようでした。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-11 21:59 | 七福神めぐり | Trackback
松島神社 (日本橋』七福神④)
 日本橋七福神4回目は  「松島神社」  です。
 松島神社は東京メトロ「水天宮」駅7番出口から徒歩2分です。

【松島神社はビルの中】 
 松島神社の由緒は、古い資料がすべて失われているのでハッキリしないそうですが、鎌倉時代末期の元亨年間以前の創建と伝えられているそうです。
c0187004_8194331.jpg 当時、この辺りは入り江の小島であり、下総からここに移住してきた柴田家が自分のお屋敷の中にお稲荷様を祀ったとされています。毎晩、燈火(あかり)を掲げたので、舟人はそれを目標にして航路を確保したといわれています。
 江戸幕府が開かれる直前 の天正13年(1585)、 人々の希望により、屋敷を開放して一般の人の参拝を認めたそうです。
 そして、島内に松が生い茂っていたことから松島稲荷大明神と呼ばれたといいます。
 江戸時代中期 正徳3年(1713) に新らしく町が開かれるに当たり、松島稲荷に因んで、この付近は「松島町」と名づけられました。そして昭和8年に蛎殻町に改称されるまでその町名が残りました。
 大正5年には、松島稲荷神社から松島神社と改称しました。
 現在は、平成6年に建設された11階建てビルの1階に鎮座しています。

【大黒様でなく大国様】 
 松島神社でお祀りされている七福神は、大国様です。
c0187004_820798.jpg 大黒様は、一般的には大黒と書くことが多いのですが、松島神社では、大国と書いています。
 
 大黒天はもともと、インドのシヴァ神で、サンスクリット語で、マハーカーラと呼ばれる神様です。 
 マハーは「大きい」、「カーラ」は「黒」という意味です。
 「大黒」とは、「マハーカーラ」を意訳した言葉です。
 また、「大黒」は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の「大国」と「だいこく」という音で通ずるところかとから、二つの神様はしだいに一体視されるようになりました。
 この松島神社では、大国主神(おおくにぬしのかみ)をお祀りしているので、大国神と呼んでいます。

 大国主神と一体視される中で、憤怒の形相から満面笑みを浮かべた優しい顔をして、大きな袋を担ぎ、打出の小槌をもった大黒天になりました。
 大黒天が大きな袋を背負っているのは、大国主神が因幡の白兎の説話において、兄神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。
c0187004_824128.jpg
 打ち出の小槌の「槌」は「土」、すなわち様々のもの生み出す「大地」を意味するのだとも言われています。
 大黒天の頭につけた頭巾は「上を見ない」という謙虚さ、二つの米俵は「二俵で満足する」という欲張らない清廉な心を示しているという説もあります。

 また、大黒天の神使はネズミです。
 これは、大国主神が危機に陥った時にネズミが助けたからだとか米俵とネズミは関係が深いからだとか言われています。

 松島神社の前の通りを大門通りと言います。元吉原の大門があったことにちなんでいるとのことです。

 赤印が松島神社です。
 東京メトロ半蔵門線水天宮前駅5番出口より徒歩約1分
 東京メトロ日比谷線人形町駅A1出口より徒歩約3分です。

[PR]
by wheatbaku | 2011-01-11 05:17 | 七福神めぐり | Trackback
水天宮 (日本橋七福神③)
 今日の日本橋七福神めぐりは安産の神様として有名な 「水天宮」 です。
 東京メトロの水天宮駅5番出口を上がればもう水天宮です。

【水天宮のご祭神】 
 水天宮は安産の神様として有名ですが、それでは、お祀りされている神様はどなたかというと意外と知られていません。
c0187004_10152999.jpg この水天宮にお祀りされている神様は、来年の大河ドラマの主人公平清盛の関係者です。
 水天宮には、安徳天皇、建礼門院、二位の尼が祀られています。(正しくは、さらに天御中主大神 〔あめのみなかぬしのおおかみ〕という神様もご祭神です。)
 まず二位の尼は平清盛の奥さん、建礼門院は清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ安徳天皇を産みました。安徳天皇は清盛の孫になります。
 この三人は、壇ノ浦の戦いで、平家が敗れた際に入水自殺しました。安徳天皇とニ位の尼はなくなりましたが、建礼門院は助けられ京都大原寂光院(じゃっこういん)で安徳天皇と一門の菩提を弔らいながら59歳でなくなりました。
 この三人の霊を慰めるためお祀りしたのが水天宮の始まりです。
 水天宮の総本宮は九州の久留米にあります。

【水天宮は有馬家の邸内社】 
 東京の水天宮は、久留米藩第9代藩主有馬頼徳(ありまよりのり)が、久留米から分霊をして、1818年(文政元年)、現在の港区にあった久留米藩の上屋敷に、水天宮をお祀りしたのが始まりです。c0187004_1036367.jpg
 江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たたなかったため、ついに毎月五の日に江戸っ子のためにお屋敷を開放しました。
 その後、明治維新を迎えて、水天宮は明治4年に青山の中屋敷に移り、さらに翌年の明治5年に、日本橋蛎殻町の下屋敷すなわち現在の場所に移転しました。
 従って、江戸時代には、ここに水天宮はありませんでした。
 右の写真は弁財天のご社殿の屋根越しに見た水天宮のご本殿です。

【安産の神様】 
 さて、水天宮といえば安産の神様といわれますが、
 安産の神様として有名になった由来は、御由緒によると、
c0187004_1024674.jpg 『ご社殿の前には神様をお呼びするために鳴らす鈴があります。そこに下がっている晒しの鈴紐を「鈴の緒」といいます。 この鈴の緒は月に一度は新しい物と交換します。
 江戸時代、参拝した妊婦が鈴乃緒のお下がりをいただいて、腹帯として安産祈願したところ、とてもご利益があり、これがひとづてに広まった』ということだそうです。
 また、何故、「戌の日」に安産のお願いをするかと言うと、古来、犬はお産が軽いので「戌の日」に帯を巻く習慣が古くからあるということにあやかっているとのことです。
 境内には、安産の神様らしく、「子宝いぬ」というものもあります。

【弁財天】 
 水天宮にお祀りされている七福神は弁財天様です。
c0187004_10165938.jpg 弁財天は一般に弁天様と呼ばれる七福神の中の唯一の女神です。
 弁財天はもともとは、インドの水を司る神様で、サンスクリット語で、「サラスヴァティー」と呼ばれていました。サラスヴァティーとは水を持つものという意味だそうです。
 水の流れる音から、音楽の神様、弁舌の神様としても信仰されました。

 日本では、日本固有の神様である宗像神社や厳島神社に祀られている市杵島姫(イチキシマヒメ)と同一視された結果、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。
 しかし、水天宮の弁財天は手に琵琶を持たず剣や矢を持つ勇ましい姿です。 
 ただし、五の日と巳の日のみご開帳されるそうですので、平日は拝観できません。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-10 10:03 | 七福神めぐり | Trackback
日本橋七福神&両国ガイド (大江戸ガイド)
 本日(8日)、日本橋七福神と両国のガイドをしてきました。
 ご参加いただいた方は13人の方でした。

c0187004_22444986.jpg 朝10時に水天宮をスタートして次のような順で回ってきました。
 水天宮 ⇒ 松島神社 ⇒ 茶の木神社 ⇒ 小網神社 ⇒ 西郷隆盛屋敷跡 ⇒ 大観音寺 ⇒ 甘酒横町 ⇒ 笠間稲荷神社 ⇒ 末廣神社 ⇒ 椙森神社 ⇒ 小津和紙 ⇒ 宝田恵比寿神社 ⇒ 十思公園 ⇒ 大安楽寺 ⇒  (電車で移動) ⇒ 回向院 ⇒ 本所松坂町公園
 写真は小網神社でお参りをする参加者の皆さんです。

c0187004_22491812.jpg 天気は晴れ、風も吹かずに、寒さもそれほど厳しくなく、冬場としては歩きやすい天候でした。
 日本橋七福神の各札所が混雑するのではないかと心配していましたが、ほどほどの混雑で比較的スムーズにお参りをすることができました。
 各札所では、7日を過ぎていたので、色紙の取り扱いは終了していて、七福神像を拝観できない神社もありました。
 それにもかかわらず、参加者の皆さんは熱心かつ真摯にお参りをされていました。

 写真は元吉原の氏神様であった末廣神社でお参り前の説明を聞いている参加者の皆さんです。
  

c0187004_2246016.jpg 日本橋七福神は人形町を中心に水天宮駅から小伝馬町駅の間にありますので、七福神めぐりだけでなく、江戸時代創業もしくは江戸と関係の深い老舗にもご案内し、買物を楽しんでいただきました。
   ご案内したお店は、「人形町亀井堂」「うぶけ屋」「小津和紙」「大川屋」です。
 ご案内したお店にはすべて親切に応対していただきました。
 写真は、瓦せんべいで有名な人形町亀井堂で説明をきく参加者の皆さんです。この後、お買い物タイムでした。

 ご参加いただいた方は、浅草寺ツアーにご参加いただいた方がほとんどでしたので気心がわかり、安心してガイドすることができました。
 ご参加いただいた皆さんからは 「なにげなく通り過ぎている街角に、こんなに歴史が隠されているのに驚きました」等の感想をいただきました。
 ガイド冥利につきるおほめの言葉とうれしく思いました。
 
 最後は 吉良邸跡の本所松坂町公園で記念撮影をしました。
 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。楽しくガイドができました。
c0187004_9411411.jpg


 今回ご案内したコースについては、これから順次ブログに書いてきます。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-08 22:28 | 大江戸ガイド | Trackback
椙森神社 (日本橋七福神②)
 日本橋七福神の2回目は、恵比寿神をお祀りしている 椙森神社 です。
 椙森神社は、東京メトロ「小伝馬町」駅4番出口から徒歩4分です。

【江戸三森の一つ】  
c0187004_8582114.jpg 椙森神社は、平将門が朝廷に反乱を起こした天慶の乱の時に藤原秀郷が戦勝を祈願した所とも言われます。
 また太田道灌が雨乞い祈願のため、伏見稲荷神社の神様を勧請して信仰したとも伝えられています。
 江戸時代には、神田にある柳森神社、新橋にある鳥森神社とともに江戸城下の三森の一つに数えられ、椙森稲荷として庶民の信仰を集めました。 

【富塚の碑】  
 境内に富塚の碑が建立されています。
c0187004_8585192.jpg  椙森神社の富くじは江戸三富の一つにかぞえられたとのことで、盛大に行われた富興行をしのんだものです。
  富くじは、現在の宝くじの原形といえるもので、神社仏閣が改修費用を集めるために行われました。
  しかし、天保13年(1842年)天保の改革を進めた水野忠邦により廃止されてしまいました。
 この碑は大正8年に建立され、昭和28年に再建されたものです。   
 柳家小さんの「宿屋の富」という落語には、この椙森神社での富くじが出てきます。
  なお、江戸三富とは谷中の天王寺と目黒のお不動様それに湯島天神であるという説のほうが有力です。 

【恵比寿神は恵比寿祭りの時だけご開帳】 
 椙森神社にお祀りされている七福神は恵比寿様です。
 恵比寿様は七福神の中で、ただ一人の日本の神様です。
 最初、恵比寿様は漁業の神様でしたが、やがて商売繁盛の神様となりました。
 10月20日に商家で恵比須様ををまつり、親類・知人を招いて祝う行事が恵比寿講です。
 椙森神社でも、10月19日と20日は恵比寿祭が開催されます。
 七福神巡りの札所の多くでは、お正月の7日までは、七福神を開帳しているのですが、見当たらないので宮司さんに尋ねました。
 宮司さんのお話では、椙森神社では、恵比寿様は、10月19日20日の恵比寿祭りの時にだけ開帳しているそうで、お正月は開帳しないそうです。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-07 05:42 | 七福神めぐり | Trackback
宝田恵比寿神社 (日本橋七福神①)
 今日から、日本橋七福神のご紹介をします。
 日本橋七福神は、他の七福神めぐりと違って全て神社であるという特徴をもっています。
 そして、巡拝先は、7箇所でなく、次の8社です。
c0187004_8422116.jpg  宝田恵比寿神社(恵比寿神)
  椙森神社(恵比寿神)
  笠間稲荷神社(寿老神)
  末広神社(毘沙門天)
  小綱神社(福禄寿、弁財天)
  茶の木神社(布袋尊)
  松島神社(大国神)
  水天宮(弁財天)

 この8社を順にご案内していきますが、今日は 宝田恵比寿神社 です。
 宝田恵比寿神社は、東京メトロ「小伝馬町」駅4番出口から徒歩3分です。

【元は宝田村の鎮守様】 
 宝田神社は、江戸開府の頃、現在の皇居の中にあったとも外苑にあったともいわれる宝田村の鎮守様でした。
 江戸城を拡張するため、宝田村は移転を命じられました。
 その時に、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が住民を引き連れて日本橋に集団移転をしました。
 馬込家は遠江国馬込村出身で、当主になると勘解由を名乗りました。
 家康に従って江戸に出てきて、宝田村に住んでいましたが、江戸城拡張のため替地として与えられた日本橋に移転しました。
 それ以後、馬込家は大伝馬町の名主として街道の人馬継ぎ立てを管理運営しました。
 その関係で、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張から商人を集めて、日本橋をあらゆる物資の大集積地とし、商業の中心として発展させました。

c0187004_8424042.jpg 【家康から拝領した恵比寿像】 
 その馬込勘解由が、宝田村の鎮守様をこの地に移してお祀りし、恵比寿様が徳川家康から下賜されたので、御神体として宝田恵比寿神社に安置したのだそうです。
 恵比寿様は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 神社に上がらせていただき、拝観させていただきましたが、大きな像です。(右の写真です)
 最近修復したそうですが、確かに鎌倉時代に作られてものであることがはっきりしたそうです。

【盛大なべったら市】 
 宝田恵比寿神では、毎年10月19日20日に「べったら市」が盛大に行われます。
 「べったら市」は、江戸中期の中ごろから、10月20日の恵比寿講(商家で恵比須をまつり、親類・知人を招いて祝う行事)にお供えするため、前日の19日に宝田恵比寿神社の門前で、市が立ち魚や野菜、神棚などが売られるようになったのがその起源です。
 浅漬け大根のべったら漬けがよく売れたことから「べったら市」と呼ばれました。
 500を超える露店が出るそうですが、べったら漬けの露店以外にも、「江戸屋」「今半」などの老舗まで軒を連ねて、約10万人の人出があるそうです。
 ところでべったら漬けですが、アメと麹で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからべったら漬けという名になったと言われています。
 15代将軍徳川慶喜もべったら漬けが大好きだったと言われています。
[PR]
by wheatbaku | 2011-01-06 05:34 | 七福神めぐり | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam&#039;Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam&#039;Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam&#039;Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
‘七福神’宝船 装飾新調..
from ローカルニュースの旅
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史