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江戸の煮炊きは薪と炭で
 計画停電のおかげで、オール電化の家庭では、停電中料理ができなくて困ったそうです。
 東京電力がオール電化を進めたため、この3年間で、原子力発電所2基分の電力が必要となったそうです。
 電力需要が伸びたため、計画停電を実施せざるをえなくったという面もあるようです。

 オール電化の家庭では、「今までは、火が出なくて安心だと思っていたようでうsがが、思いもかけず、生活に困ることになってしまった。」とぼやく人もいました。

【江戸では大量の薪炭を消費】 
 江戸時代は、電気もガスもありません。
 江戸時代の主な燃料は薪と炭すなわち薪炭でした。
 これらを使用して、竈や七輪を使い、煮炊きをしていました。
 c0187004_8455657.jpg
 江戸に入る薪や炭は、江戸周辺の産地から運ばれました。
 幕末の資料では、武蔵、相模、上野、下野、上総、下総など12カ国が載っているそうです。

 江戸に入荷する炭の量は、享保11年(1726)に約81万表だったものが、約100年後の天保11年 (1840)ごろには238万表と約3倍にも増加しています。

【薪炭の供給元は武蔵野雑木林】 
 薪炭は、江戸周辺から調達しましたが、もっと多いのが江戸郊外の武蔵野の雑木林でした。
 武蔵野の雑木林を供給源と活用していましたが、 江戸の人口は100万人でしたから 江戸の主燃料に、木炭や薪を利用したら、森林が破壊されるのではないかと心配する声もあると思います。
 しかし、江戸時代は、環境に大きな影響を与えずに薪炭を確保しました。

c0187004_8452220.jpg 武蔵野の雑木林は原生林ではなく、18世紀になって植林した人工林でした。
 それ以前の武蔵野は、ススキの原でした。そこへ開墾した農民は、堆肥を作るための「葉」を得るために落葉樹を植えました。それから、武蔵野に雑木林が広がりました。
 その雑木林を利用して薪炭を確保したのでした。


【自然破壊せずに調達する仕組み】 
 クヌギやナラなどの木は、植林後15~20年間ほどはとても成長が早い木ですが、 30年以上経つと成長が遅くなります。
 そこで、伐採をするわけですが、 雑木林を伐採する時に、根元から伐採せずに、ある程度株を残して切り倒します。
 こうすれば、根が残っているので、すぐに切り口から発芽し、成長をはじめます。
 この木を「ひこばえ」といいます。
 そのヒコバエのうち、丈夫なヒコバエを残しておけばわずか10年ほどで立派な木になります。

 こうすることにより、短期間で雑木林が復活しますので、環境に大きな影響をあたえることはなかったようです。
 江戸時代は、原子力もなく火力もない中で、自然も破壊せずに100万人の人々が暮らしていました。
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by wheatbaku | 2011-03-31 05:59 | Trackback
浅草寺の被害を描いた鯰絵
 安政2年(1855)に起きた安政の大地震で、浅草寺も被害を受けました。
 今日は、それを描いた鯰絵(なまずえ)について書いていきます。

【鯰絵(なまずえ)】 
c0187004_11442076.jpg 安政の大地震の後、右写真のような鯰絵が、盛んに出版されました。
  ☆右写真は、国立国会図書館のHPから転載させていただきました。
 鯰絵というのは、地震をおこすと信じられていた鯰を題材に描いた浮世絵です。
 その鯰絵に、浅草寺のことを書いたものがありますので、それを紹介します。 
 
【鯰絵「地震出火後日角力」】 
 「地震出火後日角力(じしんしゅっかごじつずもう)」というタイトルの鯰絵(下記写真)は、安政大地震の後の大儲をした連中と、大損をした連中をその儲の多い方、損害の大きい方から、角力見立番附(すもうみたてばんづけ)に並べたものです。

 上段には儲けた人々、下段には損をした人々が記されています。儲けたほうは大関として材木問屋、関脇は仮宅(かりたく)、損をしたほうの大関の三町休座というのは建物が燃えてしまい営業ができなかった芝居小屋のことです。関脇は地震後発生した大火により壊滅的打撃を受けた花街(新吉原)が挙げられています。
 仮宅というのは、吉原が大火などにあった際に、吉原とは別の場所で仮に営業することを言います。
 
【浅草寺の被害】 
 浅草寺の被害が描かれているのは、この絵の下段部分です。
 この絵の下の部分では地震で被害をうけたた浅草寺の六地蔵・濡れ仏・雷門・五重塔が人間に見立てられて、打身骨継療治所で患者として治療をうけています。
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        「国公立所蔵資料刊行会編集 誠文図書株式会社発行 安政大地震鯰繪より」

 「六地蔵」は、花川戸町の入口にあったもので、現在は、浅草寺の本堂西にある影向堂(ようごうどう)の前に移されています。
 「六地蔵」は普段は、人間が自分の身体をところどころ削り取って持ち去るなどひどい目にあっているのに、今回は6人いっぺんにやられたと嘆いているそうです。
 「濡れ仏」は、宝蔵門の南東にある仏像で、観音菩薩像と勢至菩薩像が並んでいて、二尊仏と呼ばれてます。仏像を覆う建物がないため、「濡れ仏」と呼ばれました。
 その「濡れ仏」のうちの観音菩薩が、勢至菩薩が大丈夫なのに、自分だけがひっくりかえり、意気地がないとぼやいています。
 そして、「五重塔」は、すまして立っているところに、地震が突然だしぬけにドンと襲い揺らされたので九輪が曲がったと嘆いています
 五重塔の九輪が曲がったことについては、江戸検一級仲間の月猫さんのブログ「江戸、東京ときどきロンドン」にも書かれています。
 あんまを受けているのは雷です。いうまでもありませんが、「雷門」の雷神様です。

 なお、上記の写真は、消防防災博物館さんのHPより転載させていただきました。どうもありがとうございました。
  消防防災博物館さんのHPの中の「世相をあらわす地震鯰絵」には、鯰絵がたくさん掲載されています。
 ご興味のある方は訪ねてみてください。
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by wheatbaku | 2011-03-29 06:11 | Trackback
浅草寺の迷子しるべ石
 浅草寺本堂の階段の西南手前に「迷子しるべ石」(下の写真)があります。
 お札やお守りの売店のちょうど裏側になるため、この石柱に気がつく人はあまりいないかもしれません。
 今日は、この 「迷子しるべ石」 のお話です。

【迷子情報の交換】 
 「迷子しるべ石」というのは、江戸時代に迷子の情報を交換するための石柱です。
c0187004_1856093.jpg  石柱の右には、「志らする方」と書いてあります。
 そしてその反対側には「たずぬる方」と書いてあります。
 「私のところに、このような迷子がいます。」という内容の紙を「志らする方」の側に貼り付けていきます
 反対側の「たずぬる方」には、迷子になった子供の人相や特徴を書いた紙を貼りつけておきます。
 この紙をみて、迷子を捜したわけです。

 これは、江戸時代には仁王門(現在の宝蔵門)の前にありましたが、昭和20年の戦災で倒壊したため、昭和32年に復元されたものです。
 こうした石柱は、人通りの多い場所に設置されており、湯島天神や日本橋の一石橋(いっこくばし)には、江戸時代に建てられたものが現存しています。

【安政の大地震の被災者の慰霊碑】 
 この「迷子しるべ石」の表面には、「まよひこのしるべ」と書かれたうえに「南無大慈悲観世音菩薩」と書かれています
 また、裏面には、安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が建立したと刻まれています。
 これらが「迷子しらべ石」に刻まれているのは、安政の大地震で亡くなった新吉原の遊女の霊を慰める意味もあったからです。
 
【安政の大地震】 
 安政の大地震は、安政2年(1855)10月2日の夜10時ごろ、関東地方南部で発生したM6.9の直下型の大地震です。
 安政期には多くの大地震が発生していて、それらの大地震と区別するため、「安政江戸地震」とも呼ばれます。

c0187004_9124554.jpg 震源は東京湾北部・荒川河口付近だと考えられています。
 被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域でしたが、江戸の被害は大きかったようです。
「吉原地震焼亡之図」 国立国会図書館蔵江戸大地震之絵図より

 江戸での死傷者約7000人、倒壊家屋約1万5000戸にも及んだと言われています。
 被害の大きかったのは、本所、深川、浅草、下谷などの下町地区でした。
 特に被害が大きかった新吉原では、廓がほとんど焼失し、客と遊女が685人も死亡したそうです。しかし、実態はもっと多かったとも言われています。
 松葉屋の遊女は大半が焼死し、三浦屋では遊女を穴倉に入れて助けようとしましたが全員死亡してしまったそうです。
 上の「吉原地震焼亡之図」は、吉原の被害の様子を描いたものですが、地震と火事のすごさが表現されています。消防防災博物館のHPより転載させていただきました。

 「迷子しるべ石」は、こうした安政の大地震でなくなった遊女たちの霊を慰めようとして松葉屋が建立したものです。
 「迷子しるべ石」には、こんな悲しい背景もあったのです。

 東北関東大震災では多くの方がなくなっています。こころからご冥福をお祈りいたします。
 「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」

 
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by wheatbaku | 2011-03-27 22:54 | Trackback
日本の治安・秩序の良さ
 東北関東大震災については、海外でも大きく報道されて、被災地支援の輪が広がっています。大変ありがたいことだと思います。
 この大震災の様子の報道の中で、被災地の報道とともに海外メデアが取り上げて称賛しているのが、大震災にあいながらも、略奪や暴動が起こらない日本人の秩序の良さや治安の良さです。
 テレビでは、支援物資を受け取るにも整然と並んでまっていたり、電話の順番がくるのを長時間並んでいる姿が報道されました。
 また、自分の悲しさやつらさを表に出さず、それを懸命にこらえ、支援する人たちへのお礼をいう姿も報道されます。
 こうした姿が、海外の人々の心を打っていると思います。もちろん私たちの心をうつのは当然のことです。

 この日本人の秩序の良さは、昔から日本人が培ってきた美徳だろうと思います。
 江戸時代でも、日本を訪れた外国人は日本の治安の良さを称賛してくれています。
 それは幕末にスイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日した
アンベールです。

【スイス遣日使節団長アンベール】 
 エメェ・アンベールは、文政2(1819)年にスイスで生まれました。c0187004_22135127.jpg高等学校の教師の後、嘉永元(1848)年に臨時政府の書記、憲法議会の議員となり、さらに州内閣の文部大臣を務めました。
 スイス政府は日本との国交を開くために先遣としてスイス通商調査派遣隊を日本に派遣していましたが、幕府がスイスと条約締結の用意があることを知り、アンベールを特名全権公使に任命し、アンベールを来日させることにしました。
 文久3年(1863)、アンベールは、スイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日しました。
 幕府との交渉の末、江戸高輪伊皿子のオランダ公使館のある長応寺で条約に調印したのは、年も押し詰まった12月(1864年2月)のことでした。
 アンベールは条約締結交渉の合間を利用して、江戸のほか、横浜、鎌倉、京都を旅行し、日本の歴史、地理、宗教、社会制度、政治機構、風俗習慣などを、旺盛な好奇心で観察、調査し、のちに日本での見聞記をまとめ、「日本図絵「(1870年刊。日本語訳は高橋邦太郎訳」アンベール幕末日本図絵」) を刊行しました。この「日本図絵」は今は刊行されていません。講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」(右写真)として刊行されています。

【アンベールの賞賛】 
 この「日本図絵」の中で、アンベールは、江戸の治安の良さを賞賛していると青木宏一郎氏が「幕末・維新江戸庶民の楽しみ」の中で次のように書いています。
c0187004_1111911.jpg 「アンベールが最も感心していることは江戸の治安の良さである。
  『広場や遊歩道や大通りが見事に管理され市場や人々の交遊が立派に秩序だっている』のに感心し、(中略)、大川(隅田川)について特に『毎夜ここで落ち合う多勢のそぞろ歩きの人たちは、ごくささいなことでも、事故はいっさい起こさない。ところが江戸の町はとりわけ広いのに、ヨーロッパの都会の歩道で巡査が必死になって守らせようとしている交通の規律も、日本人がまったく見事に実践しているのである』と手放しの賞めようである。」

 

 電車の運行本数が少なくなっているため、通勤電車は大混雑しています。しかし、身動きできないよう状態の中でも、大声をだしたり、怒号が飛び交うことがまったくありません。
 大きな声が出るのは乗客が降りる際の「降ります」だけです。この声が聞こえると、大勢の人が、その人が降りられるように、隙間をつくってくれます。

 こんな日本人を海外の人たちは驚異の目でみてくれています。
 被災地の惨状が海外に発信されるだけでなく、日本人の素晴らしさも私たちが意識しないうちに海外に発信されています。みんなで頑張りましょう。『ガンバレ!ニッポン』
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by wheatbaku | 2011-03-24 06:17 | Trackback
明六つ・暮六つ
 三連休は暖かさが戻ったり節電が浸透したことから停電はありませんでした。
 しかし、今日は寒むくなりました。東北地方の被災地では雪の予報です。自然であるため何の抵抗もできませんが、「どうしてまた雪なのか」とつい思ってしまいます。
 この寒さと月曜日で事業活動が始まることから、今日は計画停電が予定されています。

 江戸時代は、電気がなくて不便だと思う人がいると思いますが、江戸の人たちは太陽とともに生活していました。
 太陽が昇れば起きだし、日が沈めば寝る準備をするという生活です。 
 ですから、暗くなれば早めに寝る習慣でしたので、照明がなくても大きな不便はなかったようです。

 江戸時代の時刻の決め方は、現在とはちがう不定時法とよばれる決め方でした。
 現代の1時間は、1日を24で割って算出します。
c0187004_14371643.jpg だから、夏でも冬でも1時間の長さは変わりません。これを定時法と言います。
 これに対して、江戸時代は、日の出と日の入りを基準として、昼と夜をそれぞれを6等分して、一刻(いっとき)を算出しました。そのため、昼と夜とでは、一刻の長さが違いましたし、夏と冬でもちがいました。これを不定時法と言います。

 『日の出の時刻が「明け六つ」、日没が「暮れ六つ」と呼ばれました』と多くの本に書かれていますが、作家の石川英輔氏によると、厳密には「明六つ」は日の出ではなく、「暮六つ」も日没ではないそうです。
 厳密には、「明六つ」は太陽の中心が地平線の下7度21分40秒の位置にある時と決まっていたそうです。時間で言えば日の出の約36分前が「明六つ」だそうです。
 同じように「暮六つ」も、太陽の中心が地平線の下7度21分40秒の位置にある時と決まっていたそうです。時間で言えば日没から約36分後が「暮六つ」になります。

 日の出の36分ほど前から日没の約36分後が昼の時間で、これを6等分して昼の一刻(いっとき)がきまりました。
 ですから、春夏秋冬と四季により、「一刻」の時間が違うことになります。

 一刻の時間が違っても江戸時代の人は困りませんでした。 
 江戸時代の人たちは、日の出とともに活動をはじめ、日没とともに活動を抑えるという生活をしていました。
 これは、日の長い季節は、長く活動し、日の短い時季には、短く活動するということですので、自然の摂理に応じた合理的な生活習慣だと言われています。

 『夜間、計画停電ガ予定されていたら、早目に退社し早く食事をし早く寝る。そして、翌日は早く起きて活動を始める。』 こんな生活をして、計画停電を乗り切っていきたいと考えています。
 まだ電気も水もガスも供給されていない被災地のことを考えれば、3時間程度の停電はなんでもありません。
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by wheatbaku | 2011-03-22 05:52 | Trackback
停電の下での暮らし
 東北関東大震災の被災地では、依然として厳しい情況が続いているようです。
 報道される画面では、心が本当に痛くなる画面も見られ、語る言葉がありません。
 心からお見舞い申し上げますと言うしかないのが歯がゆいので、せめて義援金でもと考え、日本赤十字社に水曜日に送金してきました。
またエキサイトもバナーでも義援金を受け付けています。左の「お知らせ欄のバナー」をクリックしてみてください。

 首都圏でも、計画停電の影響で、昼夜問わずどこかの地区が停電になっています。我が家も停電になりました。
 停電のなかでどう過ごすか考える参考にしようと、電気のなかった江戸時代の暮らしぶりを調べてみました。

 江戸時代の照明器具は、一般的には行灯(あんどん)でした。今では、博物館や時代劇でしかお目にかかれないものです。
c0187004_21171156.jpg 行灯は油を入れたお皿に灯芯をしたし、それに火をつけて明かりとしました。
 このお皿にいれる油は、魚油がほとんどでした。
 イワシなどの魚からとった油です。
 菜種油のほうがよいのですが、こちらは高価でしたので、もっぱら魚油が使われたようです。
 魚からとった油ですので、臭いもきつかったようです。

 蝋燭(ろうそく)があったんじゃないかと考える人もいると思いますが、蝋燭はぜいたく品でしたので庶民はあまり利用しませんでした。
 蝋燭の値段は、百匁蝋燭(直径5.5cm×長さ30cm)は1本2百文(1文25円とすると5千円)もしました。これでは、なかなか蝋燭は使えません。

 この行灯の明るさは20ルックスぐらいだそうです。60ワット電球の約五十分の一の明るさです。
 これで、江戸時代の人たちは針仕事や読書をしていました。

 行灯のあかりで、針仕事や読書ができるかどうかという体験談が「大江戸生活体験事情」に載っています。
c0187004_21213566.jpg 体験した法政大学の田中優子教授は
 「実際に裸火にした行灯の光で各種の縫い物をしてみると。まったく不便に感じないばかりか、集中力がましているのである。(中略)とても落ち着いて心地良い。」
 「読書の場合も、明らかに集中力が増す」そうです。
 そして、田中教授は、次のように結論づけています。
 「今回の体験で、私は何よりも、電灯によって私たちが失ってきた美しさや深さに気づいて、愕然としてしまったのである。」

 計画停電による停電は3時間程度です。しかも夜間になるのは四分の一ですので、限られた時間になります。
 この停電の中で、電気のつかない被災地に思いを寄せ、そして、電気のなかった江戸時代のことを考えています。
 
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by wheatbaku | 2011-03-19 21:26 | Trackback
心よりお見舞い申し上げます

  3月11日(金)に発生した三陸沖を震源とする東北関東大震災により、亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。
 また、被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 私自身は大きな被害はありませんでしたが、報道される被災地の状況には言葉を失いました。また、大変心が痛みました。
 こうしたことから、地震発生以来、ブログの更新はやめていました。 訪問いただいた皆さんには申し訳ありませんでした。これからも、当分の間、頻繁な更新は難しいと考えています。

  地震にあわれた皆様が一日も早く平穏な時を回復できますよう願っています。 
 
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by wheatbaku | 2011-03-15 17:14 | Trackback
カンヒザクラ(桜④ 江戸の花と木)
 今日は、 カンヒザクラ について書いていきます。

c0187004_13244758.jpg【鮮やかな赤い花】 
 ヒカンザクラは、昔は、「緋寒桜(ヒカンザクラ)」と呼ばれていましたが、「彼岸桜(ヒガンザクラ)」とまちがわれやすいことから、現在の「寒緋桜(カンヒザクラ)」と呼ばれるようになりました。
 花は、葉が出る前に、濃い赤色で、鐘状に半開して下を向いて咲くのが特徴です。


c0187004_1328589.jpg【沖縄ではメインの桜】 
 カンヒザクラは中国南部、台湾に自生している桜です。
 日本国内では、園芸種とされていますが、沖縄石垣島に自生しています。
 寒さに弱いため関東以南でしか栽培されていません。
 
 カンヒザクラは、沖縄では1月下旬に開花します。日本で一番早く咲く桜です。
 沖縄で「桜」と言えばこのカンヒザクラを指します。
 また、沖縄や奄美でのサクラの開花予想及び開花宣言はこのカンヒザクラの開花に対して発表されます。
 石垣島の新川周辺が日本では唯一の自生地です。
 そして、そこは国の天然記念物に指定されています。

【河津桜はカンヒザクラとオオシマzクラの交配種】 
 早咲きの桜として「河津桜」があります。
この河津桜は、ヒカンザクラとオオシマザクラの自然交配種といわれています。
c0187004_1325915.jpg  河津桜は、河津町に原木(右写真)があり、毎年花を咲かせます。
  この桜は、昭和30年頃、河津町の飯田勝美氏が、河津川沿いで芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えました。約10年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めました。
 当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれていましたが、その後の調査で新種の桜とわかり
昭和49年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され、昭和50年4月河津町の木に指定されました。
 原木の大きさは 、高さ約10メートル、太さ約115センチメートルあるそうです。
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by wheatbaku | 2011-03-11 12:35 | 江戸の花と木 | Trackback
エドヒガン (桜③ 江戸の花と木)
 桜の3回目、今日は  「エドヒガン」  についてです。

【エドヒガンの名は、彼岸に咲くから】  
 エドヒガンという名前は、漢字では「江戸彼岸」と書きます。
c0187004_1612179.jpg 「江戸彼岸」は文字どおり、他の桜に先駆けて、「彼岸」の頃に咲く花でした。そして「江戸」という名前は「江戸」で多く栽培されていたためといわれています。
 ヤマザクラより10日ほど早く咲き始め、全国的に農作物の種をまく時期の指標としたため「種まき桜」などと呼ばれることも多いそうです
 花は、葉が出る前に咲き始めます。その花は小型で1.5センチ~3センチ程度です。
 花弁は微紅色のことが多いです。
 萼筒(がくとう)と呼ばれる花の基部がひょうたん型をしていることが大きな特徴で、これにより他の種類と区別することができます。
 樹高は20メートルくらいになり、古い樹皮は縦に裂けます。ヤマザクラの古い樹皮は横に裂けます。


【三大桜はすべてエドヒガン】  
c0187004_1614436.jpg  エドヒガンは、桜のうちで最も寿命の長いもので、500年以上の長寿桜のほとんどがエドヒガンです。
 日本三大桜といわれる三春滝桜(福島県三春町)、根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら、岐阜県本巣市)、山高神代桜(やまたか じんだいざくら、山梨県北杜市)はすべてエドヒガンです。

【枝垂桜もエドヒガン】  
枝垂れ桜は、特別の品種だと思われがちですが、エドヒガンの突然変異で枝が垂れるようになったものがほとんどです。つまり、分類としてエドヒガンです。
 糸桜と呼ばれることもあります。
 色によりハクシダレ(白枝垂)、ウスベニシダレ(薄紅枝垂)、ベニシダレ(紅枝垂)があり、八重になるヤエべにシダレ(八重紅枝垂)などがあります。
 有名な平安神宮のシダレザクラ(右写真)はヤエベニシダレです。
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by wheatbaku | 2011-03-10 15:59 | 江戸の花と木 | Trackback
オオシマザクラ(桜② 江戸の花と木)
 今日は、桜の2回目で、オオシマザクラ について書いてみます。

【名前は伊豆大島から】 
c0187004_11132015.jpg オオシマザクラは名前の通り伊豆半島や伊豆半島南部の特産種ですが、三浦半島や房総半島南部にも自生しています。
 しかし、三浦半島や房総半島のものは、薪炭用に植えられたものが野生化したといわれています。 
 オオシマザクラの花は白くて大きく咲きます。直径が4.2センチ~5.5センチほどあります。
 そして、芳香がします。花に鼻をちかづけてみると良い香りがします。
 開花と同時に伸びだす若葉の緑とよく調和がとれています。


c0187004_11133735.jpg【桜餅の葉はオオシマザクラ】 
 オオシマザクラの葉は大きくて、塩漬けすると良い香りをだすタマリンという物質が作られます。
 この良い香りを利用して作られるのが桜餅です。
 桜餅に使われるオオシマザクラの葉は、西伊豆の松崎町で全国の7割が生産されるそうです。
 写真は、有名な長命寺の桜餅です。オオシマザクラの葉を3枚利用しています。

【最大・最古の特別天然記念物】 
 オオシマザクラで有名なのが、国の特別天然記念物となっている「大島のサクラ株」です。
伊豆大島の泉津地区の山中にあるオオシマザクラの株です。伊豆大島のオオシマザクラのうちの最古最大のものです。樹齢は推定800年であり、幹の周囲は7mに達するそうです。
 江戸時代には沖を通る船の目印となっていたといわれています。
 しかし、現在では、主幹は高さ2mほどの部分を残して枯れているそうです。しかし、株から伸びた数本の幹が立ち上がり、花をさかせるそうです。昭和27年に、特別天然記念物に指定されています。

【里桜の親はオオシマザクラ」】 
 オオシマザクラは里桜の接木台として利用され、変異性に優れているため、園芸品種の里桜の多くは、オオシマザクラから誕生しています。
 ソメイヨシノもオオシマザクラを片方の親にしているといわれていますが、ソメイヨシノについては、別途、日を改めて書きます。
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by wheatbaku | 2011-03-09 11:18 | 江戸の花と木 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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