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福島家(江戸からの和菓子)
 染井散歩の際に、和菓子の老舗「福島家」に寄りました。
 今日は、その「福島家」の御紹介です。

 JR巣鴨駅前の白山通りを西に行くと巣鴨駅から徒歩1分程度の至近距離にあります。
 有名な「とげぬき地蔵」に向かう途中、北側の商店街の中にあります。

【幕末創業の老舗】
c0187004_1658884.jpg 「福島家」は幕末の文久元年には営業していた和菓子の老舗です。
 5代目ご主人の福島敏夫専務さんに応対していただきいろいろお話をうかがいました。
 ご主人によると和宮が降嫁する時には既に「福島家」さんは営業していているので、創業以来最低150年は経っているそうです。
 和宮が14代将軍家茂に嫁入りするために、京都から江戸に下った時は、中山道を通りました。
c0187004_16583459.jpg 中仙道の宿場は板橋ですが、ここだけでは大勢のお供の人たちを宿泊させられないので、当時、立場(たてば)であった巣鴨の町並み調査をした際の文書が残っているそうです。
 その中に、「福島家」さんの名前が「菓子商弥三郎(福島家)」として載っています。
 それによると、現在の巣鴨駅より南側にあったようです。その後、巣鴨にあった徳川慶喜の屋敷の表門近くに一度移転しました。
 しかし、その店が、昭和20年3月10日の東京大空襲により焼失したため、現在地に移転した歴史があるそうです。

【江戸時代の雛型帳】
 「福島家」さんでは貴重なものを見せてもらいました。それは、江戸時代の和菓子の雛形帳(見本帳)です。
 雛形帳には、慶応3年の奥付がありましたので、幕末には、利用していたものと思います。
 その装丁がしっかりしているのにまず驚きました。
 さらに驚いたのは、その中身です。
 江戸時代のものでありながら色が非常に鮮やかなのにビックリしました。
 下の写真のように鶴などのおめでたい図柄が多いのにも驚きました。
c0187004_16585022.jpgc0187004_220595.jpg


【復元された江戸の和菓子】
c0187004_172795.jpg 雛型帳に基づき復元しているお菓子もあるそうです。
 復元菓子は、練り切りの「江戸梅」「江戸桜」「江戸菊」、羊羹の「宮城野羹」が代表的なものです。
 左の雛形帳の真ん中が「江戸菊」の図案です。この「江戸菊」は六義園築庭300年記念のお祝いのお茶会のお菓子として供されたそうです。

c0187004_21595861.jpg 復元されたお菓子の中で「宮城野羹」は常時販売しています。こちらは羊羹です。
 また、桜の時期は、「江戸桜」という練りきりのお菓子を販売しています。
 そこで復元された「宮城野羹」(写真右)と「江戸桜」(写真左)を両方買ってみました。
 共に甘さを抑えた上品なお菓子で、江戸の風が吹いてくるようでした。


【染井さくらあんみつ】
c0187004_21132931.jpg 余りにも雛型帳が鮮やかなので、江戸検定1級の仲間に話をしたら、見たい見たいという希望者が多く、再度、ご主人のお話と雛形帳を見させていただきにお邪魔しました。

 この際には、店内の喫茶コーナーでお話を伺いました。
 この時、名物の『染井さくらあんみつ』(700円)をいただきました。

 その他、店内で甘味や軽食も食べられます。巣鴨に行く機会がありましたら寄ってみてください。

 福島専務さん、何回もお邪魔し失礼しました。それにもかかわらずご親切な対応ありがとうございました。江戸検定1級の仲間も大変よろこんでいました。御礼申し上げます。

 「福島家」は青印です。巣鴨駅前で、白山通りに面しています。

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by wheatbaku | 2011-04-28 21:45 | 江戸からの和菓子 | Trackback
伝法院庭園(浅草散歩② 大江戸ガイド)
 浅草散歩の続編で、今日は伝法院の庭園の紹介をします。
 当日、雨のせいもありますが、拝観者は少なく、ゆっくり見ることができました。
 庭園が雨のため拝観中止になるかもしれないというので、先に庭園を見て、その後に大絵馬寺宝展を見ました。
 大絵馬寺宝展は撮影禁止ですので、庭園のほうの紹介します。
 また、伝法院の庭園には、浅草散歩の下見をかねて桜の時期にも入場しましたので、その際の写真も利用しながらご紹介します。

【五重塔とスカイツリーが並び立つ】 
 伝法院の庭園は、いつもは非公開です。
 c0187004_10391378.jpg今回は、本堂の大営繕が完了したのを記念して特別に公開されました。
 3月25日に公開され4月28日までです。
 まもなくまた非公開となってしまいます。
 伝法院の庭園が前回に公開されたのは3年前だそうです。
 大絵馬寺宝展の展示場所を出ると、このように五重塔とスカイツリーが並んで見えます。

【池に映る五重塔】 
 伝法院の庭園は、約3,700坪あります。
 庭園は、江戸時代はじめの寛永年間(1624~44)に有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作られたと伝えられています。
 心字池のくびれた所は、五重塔を撮影する絶好のビューポイントです。
 左は3月の時の写真、水面に五重塔が映っています。右は、浅草散歩の時の撮影ですが、若葉が萌え出ています。
 若葉と小雨模様の天気のため、水面に映る五重塔はとれなくなってしまったので、若葉が出る前のものも載せました。
c0187004_10433976.jpgc0187004_10435392.jpg

【絵になる大書院】 
 庭園に面して大書院(おおじょいん)があります。
 大書院は明治4年(1871)に建築されたものです。
 上・中・下の間に分かれていますが、江戸時代のものは、輪王寺宮が浅草寺にこられた時は、上の間で休まれたと書かれていますが、現在は、あまり使用されていないようです。
 公開初期は、ここでお茶の接待がありました。23日は、大書院の隣の「新書院」でお茶の接待があり、参加者全員でいただきました。 

 庭園からみた大書院、枝垂れ桜が満開の時に撮った大書院です。
c0187004_10411590.jpg

 もう一枚 スカイツリーをバックにした大書院です。これも3月に撮った写真です。
c0187004_1163581.jpg


【本堂裏から出土した石棺】  
 これは古墳時代末期の石棺です。大書院の前に置かれていました。
c0187004_10404727.jpg 明治の初めに、本堂の裏手から発掘されたものだそうです。
 浅草は、江戸でもっとも早く人が住みついた場所といわれていましたが、それを証明するものといわれています。
 なお、戦災で本堂が焼失した後、再建するため発掘調査したそうです。すると、そこから、奈良時代の遺稿や道具が出土して、浅草寺は奈良時代にかなり大きなお寺であったことがわかったそうです。

【庭園内の茶室「天佑庵」】   
 天祐庵は、江戸時代の天明年間に尾張名古屋の茶人牧野作兵衛が京都の表千家の茶室「不審庵」をそっくりまねして作らせたものですc0187004_10413640.jpg 大正5年に向島の水戸徳川家のお屋敷(徳川圀順邸)、同12年に上目黒の現ツムラの前身である津村順天堂の創業者津村重舎(つむらじゅうしゃ)邸に移築されました。
 目黒に移された直後、関東大震災がおきました。
 関東大震災で水戸徳川家のお屋敷は壊滅してしまいました。
 しかし、この茶室は幸運にも、関東大震災をまぬがれたため、「天祐神助」(天の助け、神の助け)であると喜び、「天祐庵」と名付けられたそうです。
 さらに戦災をまぬがれ、昭和33年10月、東急の五島慶太ならびに浅草寺婦人会の尽力により伝法院に移築されたものです。
 東京都の有形文化財に指定されています。  


 今回の特別公開の間に4回、庭園に入りました。
 その時々で景色が変わるのに驚かされました。
 先週土曜日には藤やつつじが咲き始めていましたので、こらからは、それらが目を楽しませてくれます。
 こんなすばらしい庭園が非公開なのは大変残念です。

 また、大絵馬もすばらしいものでした。参加された皆さんも大変驚いていました。そして喜んでいました。
 撮影禁止であるため、それらが紹介できないのが大変残念です。
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by wheatbaku | 2011-04-26 06:07 | 大江戸ガイド | Trackback
浅草の老舗(浅草散歩① 大江戸ガイド)
 土曜日に、浅草観音様に行ってきました。
 「江戸の老舗をめぐる会」の人たちと一緒でした。
 12時から「三定」で昼食し、仲見世の老舗と浅草寺をご案内し、最後は、メインの「大絵馬寺宝展と伝法院庭園特別公開」の拝観でした。
 今日は、浅草で江戸時代に創業した老舗が中心の訪問記です。

【てんぷらの老舗「三定」】  
「江戸の老舗をめぐる会」ということで、昼食は「三定」にしました。
c0187004_167412.jpg 「三定」では、「三定」の真田専務さんが「三定」の歴史を教えてくれました。
 それによると、江戸時代の天保8年(1837)に、三河出身の創業者「定吉」が、人形町でお店を始めたのが最初だそうです。
 その後、浅草にもお店を出し、現在まで約160年続いているとのことでした。
 真田専務さんにはお忙しいところご挨拶いただきありがとうございました。
 ということで、「三定」はてんぷらの名店ですので、私は「天丼」を頼みました。

【人出の少ない仲見世」】  
c0187004_1672910.jpg 雷門の御案内の後、仲見世のお散歩です。
 小雨模様でしたので、観光客は少なかったです。ただ仲見世の人に聞くと、最も大きな影響は、東日本大震災で外国人観光客が少なくなったことだそうです。
 写真は、通行客が少なくなってしまった仲見世です。
 こんなに人の少ない仲見世は、近来見たことがありません。

【粟ぜんざいの「梅園」】   
c0187004_1825796.jpg 「梅園」に寄りました。
 「梅園」は、昼食後間もないし、店内で食べる時間がありませんでしたので、ご案内だけでした。
 しかし、散歩終了後に、店内で食べた人もいました。また、おみやげに名物の「粟ぜんざい」を買ったひともいます。
 私は、その後、夕食に食べる「アリゾナ」のビーフシチューのことを考え我慢しました。
  それにしても、「梅園」も空いていました。

【長寿の店「金龍山」】  
c0187004_168299.jpg 次いで、「金龍山」です。
 「金龍山」は、延宝3年(1675)創業で、創業以来350年がたとうとする老舗中の老舗です。
 「金龍山」は浅草に行くと必ず寄るお店です。
 「金龍山」では、現在のメイン商品は、「揚げまんじゅう」です。
 ご賞味のため、6個買いました。その場で、いきなり、みんながご賞味でした。
 あさっりした甘さの餡で、大変好評でした。
 (なお、仲見世は立ち食いは好ましくないとされていますのでご注意ください)
  80歳の御主人と102歳のおばあちゃん、あいかわらずお元気でした。


【江戸玩具の老舗「助六」】  
c0187004_1683241.jpg その次は「助六」です。
 「助六」は江戸趣味の小玩具を売っています。
 ここでしか売っていないものばかりです。
 写真は、代表的なおもちゃの「ざる(かぶり)犬」と「赤ふくろう」です。

【本堂の天井絵】  
 その後、宝蔵門・五重塔を見て、本堂にお参りです。
 本堂の中では、天井に描かれた川端龍子画伯の「龍」や堂本印象画伯の「天人」を見てもらい、その後、観音様におまいりしました。
 天井の絵は素晴らしいのですが、気づかない人が多いので、今日はひときわ大きく写真を出しておきます。
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 その後、浅草神社、ニ天門の案内のあと、今日のメインの「大絵馬寺宝展」と伝法院の庭園を拝観しました。 この話は、次回書きます。


【洋食屋「アリゾナ」】  c0187004_1692870.jpg
 最後の懇親会は、「アリゾナ キッチン」でした。
 ここは、作家の永井荷風が通ったお店ですので、お店には、永井荷風の写真が貼ってありました。
 メインはビーフシチューですの、私はビーフシチューをオーダー、他の人は大部分がタンシチューでした。

 雨模様でしたが、雨が降ってきたら屋根のある所で案内し、ほとんど雨の影響をうけずに、浅草を楽しむことができました。
 雨模様の浅草は初めてでしたが、雨の時の浅草も風情があっていいものだと実感しました。
 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。御世話になりました。
 
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by wheatbaku | 2011-04-24 18:25 | 大江戸ガイド | Trackback
染井村の壮観 (染井散歩③ 大江戸散歩)
 今日は、幕末の染井村を訪れた外国人を紹介します。
 
 それは、 ロバート・フォーチュン と言います。

【ロバート・フォーチュンは、プラントハンター】  
 ロバート・フォーチュンは、スコットランド出身の植物学者、プラントハンターです。
 プラントハンターというのは、未知の植物の採集に活躍した人たちです。
c0187004_11123897.jpg ロバートフォーチュンは、1812年にスコットランドに生まれ、エジンバラの植物園に勤めた後、ろロンドン園芸協会で働きました。
 中国産植物に大きな関心を寄せていたロンドン園芸協会は、フォーチュンをプラントハンティングに送り出しました。
 1843年に中国に着いたフォーチュンは、キク、ユリ、ランなどを英国に紹介しました。
 そして1860年に日本を訪れ、さらに翌1861年にも日本を訪れました。

 右写真は、かつての染井通りがJRを越える所に架かる「染井橋」です。

【フォーチュン、染井村に驚嘆】  
 そして、その訪日のことを書いたのが「幕末日本探訪記」です。
 フォーチュンは、その中で、染井村は、世界でもっとも大規模な植木村だと驚いています。
 染井村について次のように書いています。
c0187004_11203224.jpg 『交互に樹々や庭、恰好良く刈り込んだ生垣がつづいている公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いたと報せた。
 そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が、1マイル(約1.6km)以上もつづいている。 私は世界のどこへ行っても、こんな大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。
 植木屋はそれぞれ3,4エーカー(1.2ha~1.6ha)の地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。
 どの植木屋も大同小異なので、その一つを記述すれば、全体のたくみな趣向がわかるだろう。
 入口をはいると、曲がりくねった平凡な小道が、おおむね庭の中心にあった園主の家まで通じている。
 道の両側には、温室を必要としない、日本の観賞用の樹々や潅木類、盆栽仕立てやテーブル型に刈り込まれた植物が、数多く栽培されている。」



【フォーチュン、日本人を賞賛】  
 また、日本人の気質について次のように賞賛しています。
 『サボテンやアロエのような南米の植物を注目した。それらはまだシナでは知られていないのに、日本へは来ていたのである。実際それは識見のある日本人の進取の気質をあらわしている。』
c0187004_1113870.jpg
 さらに、
 「もしも、花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの下層階級の人たちに比べてずっと優って見える」とも書いています。

 ロバートフォーチュンは、日本の優れた特質を園芸を通して看破した人物であると言えそうです。
 なお、フォーチュンは、中国茶をインドに移植しました。これにより、インドが茶の大生産地に発展し、しいては、紅茶がイギリス人の国民的な飲み物になる基礎をつくった人物でもあります。
 
 右写真は、染井通り沿いの大きなソメイヨシノの木。まだ3月中旬であったため、桜の花はまったく咲いていませんでした。 
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by wheatbaku | 2011-04-22 12:22 | 大江戸散歩 | Trackback
染井稲荷神社(染井散歩② 大江戸散歩)
染井散歩、今日は、西福寺の西隣にある、染井稲荷神社をご案内します。

【染井稲荷神社内の井戸が地名の由来】  
 染井稲荷神社は、江戸時代は西福寺が別当だった神社です。
c0187004_8191628.jpg 創建等はよくわかららないようですが、神社の説明板には「当社が建てられたのはおよそ300年以上前です」と書かれていました。
 ご神体は、二体あり、保食命(うけもちのみこと)の像と320年前に御霊入れされた十一面観音の石像が安置されていると書かれています。
 また、本殿には植木屋伊藤伊兵衛が将軍家から下賜されたといわれる漆塗りの瓶子一対、俵藤太むかで退治の絵馬があるとも言われています。

 この神社の中に昔あった泉が、染井と呼ばれていたようです。それが、染井という地名の由来のようです。
 江戸名所図会には
 『染井稲荷神社 (西福寺の)本堂の 左にあり。往古よりの鎮座にして、染井一村の鎮守なり。昔、このところに染井と号(なづ)くる泉ありしが、いまは水涸れてその跡を失う。村を染井というもこの泉によるとぞ』 と書かれています。

c0187004_8193420.jpg【伊藤伊兵衛の屋敷跡】 
 染井稲荷神社から南に下り、染井街道を西に行った染井墓地の北側に専修院というお寺があります。
 この専修院は、慶長2(1597)年に創建された古いお寺です。
 ここには明治41年浅草より移転したきました。
 江戸時代には、ここに伊藤伊兵衛の屋敷がありました。



赤が染井稲荷神社の目印青が専修院の目印緑が西福寺の目印です。

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by wheatbaku | 2011-04-21 06:25 | 大江戸散歩 | Trackback
西福寺 (染井散歩① 大江戸散歩)
ソメイヨシノのふるさとは、染井村、現在の豊島区駒込です。
 桜の記事を書くにあたり、染井村を見なくてはと思って、訪ねてみました。
 染井村を訪ねたのは、3月中旬でしたので、ずいぶん経ってしまいましたが、何回かに分けてご紹介します。

 今日は、8代将軍徳川吉宗の御用植木師で、ソメイヨシノを作り出したともいわれる伊藤伊兵衛正武のお墓のある 西福寺 です。

【伊藤伊兵衛三之烝(さんのじょう)】 
 「伊兵衛」というのは、伊藤家で代々世襲した名前です。
 その中で、江戸時代の元禄・享保期に活躍した伊兵衛三之烝(さんのじょう)・政武(まさたけ)親子が有名です。
c0187004_17174812.jpg 3代目伊兵衛(三之烝)は、霧島から取り寄せた躑躅の生産者として元禄5年(1692)に躑躅・皐の図解書「錦繍枕」を書き、さらに元禄8年(1695)に総合園芸書「花壇地錦抄」を著したことで有名です。
 屋号を「つつじ屋」と称したそうです。
 伊兵衛は伊勢国津藩主藤堂家出入りの露除で、藤堂家で花期を過ぎて捨てられてしまう植木・草花類を自分の庭に持ち帰り栽培を続けて、次第に多くの種類の植木が集まったと、享保4年(1719)刊行の『東都紀行」に書かれているそうです。


【伊藤伊兵衛正武】 
c0187004_17181082.jpg 4代目伊兵衛(政武)は、8代将軍徳川吉宗の御用植木師として活躍しました。また伊兵衛は染井の園芸発展にも尽力し、染井の名を世間に広く知らしめるものとなった。
 こうしたころからソメイヨシノを作り出したのは、伊藤伊兵衛正武であるという説もあります。
 また、草花類を収録した図譜「草花絵前集」元禄12年(1699)をはじめとして、3代目伊兵衛(三之烝)の書いた「花壇地錦抄」の続刊として、「増補地錦抄」を宝永7年(1710)「広益地錦抄」を享保4年(1719)「地錦抄附録」を享保18年に刊行しました。 

 伊藤伊兵衛正武のお墓が、西福寺にあります。
 正武は樹仙と号したので、墓石には「樹仙」と刻まれています。
 駒込には伊藤家は多いものの、正武直系のご子孫はなく、時々、園芸に関心のあるひとのお参りがあるとのことでした。
 
【伊達慶邦公墓址記念碑】 

c0187004_17182688.jpg この西福寺には、伊達慶邦公墓址記念碑があります。
 伊達慶邦は仙台藩13代藩主で、最後の仙台藩主となった人物です。
 天保12年、17歳で藩主に就きました。
 そして、明治元年(1868年)には奥羽越列藩同盟の盟主となりました。
 戊辰戦争に敗れた後は、東京で謹慎生活を送り、明治7年(1874年)に50歳でなくなりました。
 遺体は初め西福寺に埋葬されたが、後に仙台の大年寺(現在は廃寺となって、伊達家墓所のみが残っているそうです)に改葬されました。
 伊達慶邦公墓址記念碑は旧家臣によって建立されたといいますが、大きな石碑で、墓地内でもひときわ目立ちます。
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by wheatbaku | 2011-04-19 06:23 | 大江戸散歩 | Trackback
右衛門桜 (桜16 江戸の花と木)
今日は、江戸の一本桜の最後、「右衛門桜」です。

 「右衛門桜」は 北新宿の円照寺にあります。
 円照寺の住所は、新宿区北新宿3-23-2 です。 
 JR大久保駅から約8分、東中野駅からは約7分です。住宅地の中にあります。

 【江戸名所図会の書く右衛門桜】 
c0187004_16593172.jpg 円照寺の由緒書き等がありませんでしたが、「江戸名所図会」に詳細に書かれています。
 それを要約すると次のようになります。 
 『瑠璃光院と号す。柏木村にあり。真言宗にて田端の与楽寺に属す。
 本尊薬師如来の像は行基の作といわれていたもの。 天慶3年(940)、藤原秀郷が威を関東に振るう平将門を討とうと中野にきたところ、ひじが痛んだため、本尊薬師如来にお祈りするとたちまち直った。 あわせて、将門征伐のお願いをしたところ、無事征伐できたので、凱旋後、円照寺を建立した。
 その後、兵火に何度かあったが、江戸時代になって、寛永18年に春日局が修復をした。』




 「右衛門桜」は、本堂の脇、地蔵堂の前にありました。
c0187004_16582434.jpg 意外と若木のヤエベニシダレでした。「右衛門桜」などの説明板も一切ないのが少し残念でした。

 【江戸名所花暦の書く右衛門桜】 
 「右衛門桜」について、江戸名所花暦では次のように書かれています。
 柏木の右衛門桜と名付けたる説は、武田右衛門という浪人あり。すぐれてこの花を愛す。老木にて幹木の枝枯れたり。右衛門歎きて、あらたに若枝をつぐ。継木の妙手を得たる人なれば、枝葉栄えて花もむかしの色香をなせり、右衛門が継木の桜なれば、いつともなく右衛門桜という。所を柏木村といへば、源氏の柏木右衛門に因み手名高き木とはなれり。
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by wheatbaku | 2011-04-18 05:42 | 江戸の花と木 | Trackback
白山旗桜(桜15 江戸の花と木)
 今日は、江戸の一本桜のうち、白山神社の  「旗桜」  をご紹介します。

 白山神社はあじさいで有名ですが、「白山旗桜」という品種の桜があります。
 ここの桜も、今を盛りと満開でした。
c0187004_12584779.jpg
 
【白山神社の由緒】 
 白山神社は、東京十社の一社となっています。
 明治時代には准勅祭社・府社とされていました。
 東京十社をめぐる巡礼がありますが、その「東京十社めぐり」の案内には次のように由緒が書かれています。
c0187004_12564283.jpg 『天暦2年加賀一宮白山神社を現本郷元町に奉勧請す。
 建武4年足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜらる。
 元和2年徳川秀忠公の命に依り巣鴨原へ遷座、慶安4年徳川家綱公の用地と相成り明暦元年現社地に移奉す。
 後に5代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け小石川の鎮守となる。 』

 つまり、天暦年間(947-57)に本郷本町(現本郷一丁目)に創立されたといわれている神社です。
 江戸時代になって、元和年間(1615-1624)2代将軍秀忠のとき、現在の小石川植物園内に移されました。
 そして、そこの地が徳川家綱の用地となった後、後に5代将軍となる徳川綱吉の白山御殿が造営されたので、明暦元年(1655)現在地に再び移築されました。そのために、5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けたということです。

 江戸名所図会では白山神社について次のように書かれています。
c0187004_1314377.jpg 『当社は元和3年(1617)の勧請なりといへり。当社旧(いにしえ)白山御殿の地にありて、氷川明神・女体の宮とともに並びてありしかども、かしこに御殿営作せられし頃、いまの地へ遷座なし奉となり。』

 
 白山神社の主祭神は菊理姫命で、加賀国石川郡の白山比咩(しらやまひめ)神社のご祭神と同じです。
 白山御殿の地名は元白山神社社地であることにより、小石川の地名は、加賀国石川郡から白山神社が勧請されたことによると白山神社の由緒書にかかれています。


【白山旗桜はご神木】 
 この白山神社の境内に、八幡神社があります。
 そのご神木になっているのが「白山旗桜」です。下の写真がそれです。
c0187004_1317484.jpg  
 永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、義家が旗を立てて祈願せられた時の桜と言われています。
 原木は昭和10年に国の天然記念物に指定されましたが、枯死してしまったため、昭和13年に解除されてしまいました。
 現在の旗桜は、その後継種です。
 正常は花弁のほかに、旗弁(きべん)と呼ばれる花弁があるので「旗桜」とよばれるそうです。
 旗桜は、八幡神社の脇のほか、白山神社の水屋の脇にもあります。
 最上段の写真は、水屋の脇のものです。
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by wheatbaku | 2011-04-15 12:36 | 江戸の花と木 | Trackback
金王桜(桜14 江戸の花と木)
 今日からは、江戸時代に有名であった一本桜についてご案内します。
 渋谷の金王八幡宮「金王桜」、新宿柏木の円照寺「右衛門桜」、白山神社の「白山旗桜」は江戸時代に有名で、現在も後継樹が花を咲かせていますので、順にご案内します。

 まず、最初は、 渋谷の金王(こんのう)八幡宮にある金王(こんのう)桜 です。
 下の写真が、その金王桜です。今を盛りと一杯の花を咲かせています。
 奥の工事の仮囲いが「ちょっと・・・」です。
c0187004_1444434.jpg

【金王八幡宮は、人の名前から付けられたもの】  
 金王八幡宮は、源義家が、後三年役の勝利は河崎基家(渋谷の祖)の崇拝する八幡神の加護なりと渋谷城内に寛治6年(1092)に勧請したのがはじまりと由緒に書かれています。
 また、基家の子、重家は堀河天皇から渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされているそうです。
c0187004_14462031.jpg 重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。
 そこで、その子に明王の上下二文字から「金王丸」と名付けました。
 金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立てました。
 その義朝は平治の乱(1159)で敗れた尾張国野間で最期を遂げました。
 金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じた後、渋谷で剃髪、土佐坊昌俊と称して義朝の霊を弔いました。
 そして、頼朝が挙兵した時には、金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
 壇ノ浦の戦いの後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。
 昌俊は断ることもできず、京都に上り、義経の館に討ち入り、立派な最期を遂げました。
 金王八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称してそうですが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになったそうです。

【金王桜も、人の名前から付けられたもの】  
 金王桜は、、頼朝が金王丸の忠誠をしのんで名付けて植えたとされています。
c0187004_1445435.jpg 文治5年(1189)7月7日 源頼朝が、金王八幡宮に太刀を奉納した際、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。
 金王桜は、チョウシュウヒザクラ(長州緋桜)という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
 現物をみて、最初は八重がよくわからなかったので社務所で聞いたら、宮司の奥様が丁寧におしえてくれました。
 確かによく見ると八重(といっても6~7枚程度の花弁のもの)が一杯ありました。
 写真の桜は花弁が6枚のものですが、わかりますでしょうか!
 奥様の話では、今年の桜は、例年より白いそうです。確かに緋桜というには白すぎる色でした。
金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれているそうで、次代のものも近くに植えられていました。

c0187004_14453654.jpg 【江戸名所花暦と芭蕉句碑】 
 金王桜について、しばしば引用する江戸名所花暦では
 『渋谷八幡宮境内にあり。別当 東福寺。久寿(1154~1156)年中、源義朝、鎌倉亀ヶ谷の館に植えられし憂妄(ゆうもう)桜を金王丸にたまふ。領知渋谷にもて来たり、鎮守八幡のみづがきのほとりに植えるとあり』
と書かれています。

 金王桜の下に、松尾芭蕉の句碑も建立されていました。
 左の写真がそれです。
 しばらくは 花のうえなる 月夜かな

【社殿・神門は春日局が寄進】  
 社殿及び神門は、慶長17年(西暦1612)の建立です。
 3代将軍が家光と決まる以前、家光の乳母春日局と教育役であった青山伯耆守忠俊は大変心配して、この八幡宮に祈願を重ねましたc0187004_1447938.jpg
 家光が無事将軍となったことを神明の加護と喜んで、春日局と青山忠俊は金百両、材木多数を奉納して、社殿が造営されました。
 それが現在の社殿と神門です。
 江戸時代初期の建築様式を現在にとどめる、都内でも代表的な建物の一つとして、渋谷区指定文化財とされています。
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by wheatbaku | 2011-04-14 06:13 | 江戸の花と木 | Trackback
江戸の桜の名所:飛鳥山 (桜13 江戸の花と木)
 江戸の桜の名所の3番目は、「飛鳥山」です。
 
 飛鳥山は、江戸庶民のお花見場所として、すごく人気がありました。
 飛鳥山は、江戸市中からは2里(約8キロ)と少し距離がありますので、江戸っ子はちょっとした遠足という気分でお花見に出かけました。
 日曜日は桜満開で大勢の人が花見をしていました。
c0187004_9501665.jpg
 上の写真は、多目的広場から飛鳥山碑方向を撮ったものです。 下の写真は、JR王子駅のホームから撮った飛鳥山です。

【飛鳥山は吉宗の発案】 
 飛鳥山に、本格的に桜が植えたのは、8代将軍徳川吉宗です。
 享保5年(1720)の徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。
 翌年の享保6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の遊園とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。
c0187004_9511173.jpg
 やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本の野間氏領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。
 上野の山は、将軍家の菩提寺である寛永寺の中ですので、音曲が禁止されていましたので、「飲めや歌え」の花見ができませんでした。
 しかし、飛鳥山はそれができました。
 元文3年には、水茶屋54軒、揚弓場3ヶ所が許可され、音無川にも水茶屋が9軒許可されました。
 こうしたことから、庶民が大いに花見が楽しめる場所となり、江戸っ子の人気を集めました。

 江戸名所花暦にも
「八重一重の桜数千株を植えさせられ、花盛りのころは、木の間に仮の茶店をしつらいて群集す。遥かに東北をながむれば、足立郡の広地、眼下に見えて、荒川のながれ白布を引くごとく、佳景いふばかりなし」 と書かれています。


【難解な飛鳥山碑】 
 吉宗は、飛鳥山が旗本野間氏領から王子権現の所領になった元文2年(1737)3月11日に、自らの事業の成果を確認するかのように、飛鳥山で酒宴を催しました。c0187004_9513717.jpg また、同年閏11月には、吉宗の事蹟を顕彰するための「飛鳥山碑」が建てられました。
 成島道筑(なるしまどうちく)による碑文には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味をもっていました。
 碑に使われた石は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石です。
 この石碑は現在も残っておりますが、江戸時代には飛鳥山のランドマークともなり、浮世絵などで芝山に桜と石碑を描けば飛鳥山を示しました。
 この飛鳥山碑は難解な碑文であり、
  「飛鳥山 何と読んだか 拝むなり」
  「この花を 折るなだろうと 石碑みる」
 
 と川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていました。

【桜賦の碑】 
c0187004_952233.jpg また、近くに、佐久間象山作の桜賦(ふ)の石碑があります。
 この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座し、松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいるそうです。
 この賦は象山が50歳の万延元年(1860)の作と云われています。
 桜賦の石碑は、勝海舟らによって、建てられたものです。


c0187004_2256466.jpg 【飛鳥山北の眺望】 
 右は、歌川広重が描いた名所江戸百景の「飛鳥山 北の眺望」です。

 飛鳥山の東方に広がった眺望は見事でした。眼下に広がる三河島田圃から関東平野が見渡すことができした。
 さらに遠くには右の男体と左の女体の二つの頂をもつ筑波山が見えました。
 この絵はちょうどお花見時です。
 散策しながら花見をする人、毛せんを敷いて宴会をする人たち、山の端からかわらけ投げをする人たちなどが描かれています。

 最後に、飛鳥山の名前の由来ですが、ここに飛鳥明神が祀られていたために名付けられたとのことです。
 飛鳥明神とはどのような神様なのかご存知の方がいたら教えてください。
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by wheatbaku | 2011-04-13 06:05 | 江戸の花と木 | Trackback
  

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