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平川橋の擬宝珠 (江戸城② お江ゆかりの地を行く)
 今日からは、江戸城ツアーのために調べた中で、これまで書いてなかったことについて書いていきます。
 今日は、平川橋の擬宝珠(ぎぼし)について書いてみます。

【平川橋は数少ない木橋】 
 平川橋は、平川門の前のお濠に架けられている木橋です。
 現在の江戸城の木橋は、この平川橋と和田倉橋の二つになってしまいました。
c0187004_84587.jpg
 平川橋には擬宝珠(ぎぼし)があり、江戸のおもかげを残してくれています。
 ここにある擬宝珠はすべて江戸時代のもので、擬宝珠が製作された慶長19年と寛永元年という年が刻まれています。
平川橋の擬宝珠はすべてで10個あります。
 そこで、今日は、その擬宝珠を順に写真で紹介します。製作された年と製作者の名前が刻まれています。


【平川橋の擬宝珠はすべて江戸時代に製作】 
 まず、竹橋側から順に紹介します。 平川門に近い方からです。        
c0187004_21453073.jpg 慶長拾九年甲寅 八月吉日
御大工 椎名伊与

c0187004_21454581.jpg寛永元甲子年 八月吉日 
長谷川越後守

c0187004_214606.jpg寛永元甲子年 八月吉日 
長谷川越後守

c0187004_21461627.jpg寛永元甲子年 八月吉日
椎名源左門尉 吉勝

c0187004_21463481.jpg慶長拾九年甲寅 八月吉日
御大工 椎名伊与


 次いで大手門側の擬宝珠を平川門に近い方から紹介します。
c0187004_21465745.jpg慶長拾九年甲寅 八月吉日
御大工 椎名伊与



c0187004_21471681.jpg寛永元甲子年 八月吉日
椎名源左門尉 吉勝

c0187004_21473816.jpg寛永元甲子年 八月吉日
長谷川越後守

c0187004_2148041.jpg寛永元甲子年 八月吉日
椎名源左門尉 吉勝

c0187004_21481629.jpg慶長拾九年 甲寅八月吉日
御大工 椎名伊与


しかし、この擬宝珠が元はどこの橋のものであったかはわからないそうです。
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by wheatbaku | 2011-05-31 05:46 | お江ゆかりの地を行く | Trackback
『お江ゆかりの地を行く第1回「江戸城」』 開講!
 土曜日、毎日文化センターさんの  「お江ゆかりの地を行く~気ままに江戸探訪」 が開講されました。
 その第1回として「江戸城」の案内をしました。
 金曜日に、関東地方の梅雨入り宣言が出されて、土曜日も小雨模様でしたが、次のようなコースで案内をしました。

 平川門 ⇒ 梅林坂 ⇒ 潮見坂 ⇒ 白鳥濠 ⇒ 大手門 ⇒ 三の丸尚蔵館 ⇒ 大手三の門 ⇒ 中の門 ⇒ 中雀門 ⇒ 富士見櫓 ⇒ 松の大廊下跡 ⇒ 富士見多聞 ⇒ 石室 ⇒ 天守台 ⇒ 北拮橋門
 の順でした。


 雨模様でしたが小雨でしたので、東御苑には見物客がかなりいました。
 雨のおかげで、音が消され、そして新緑が鮮やかになり、参加された皆さんも「雨が降って、いつもとは違う風景がみられました」とか「雨も風情があってよい」というご感想があり、思いがけない天から贈り物をいただきました。
 また、参加者の皆さんからの積極的なご質問も多く楽しく案内させていただきました。
 参加された皆さん、どうもお疲れ様でした。
 雨に濡れた東御苑もすばらしかったので、いくつか紹介します。

【平川門】 
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 平川橋から撮った平川門です。
 大奥の通用門であったため、「お局門」の別名もあります。
 春日局が、門限に遅れたため、城内にはいれず締め出されたというエピソードが有名です。
 この時の門番(小栗又一郎と言われています)がご加増になったという話もあります。
 小栗又一郎は、幕末に勘定奉行等で活躍した小栗上野介の先祖です。
 また、不浄門とも呼ばれました。

【白鳥濠の前の松並木】 
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 白鳥濠の前の松並木が、整然としていて、雨のため緑が鮮やかになって、皆さん、喜んでいました。
 ここで、東御苑の松は昔からあったのかという質問がありました。
 「昔、一般的には、お城の中には、防衛上から、庭園以外には、あまり木が植えられえていなかった」と説明をしました。

【二の丸から見る百人番所】 
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 二の丸か見ると、百人番所が雨にかすんでいました。
 百人番所は、大手三の門を警護していた伊賀・甲賀・根来・二十五騎組の4組の「鉄砲百人組」が詰めていた番所です。 
 その4組のうちの伊賀組が拝領した組屋敷の跡が、新宿区の百人町の地名として残っています。

【大手三の門】 
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 大手三の門は、下乗門とも呼ばれます。
 この門前には木橋があり、その前に「下乗」という立て札が立てられていて、御三家と輪王寺宮以外は、駕籠をおりなければなりませんでした。
 現在は、下乗門の前の濠も埋めたてられてしまっています。

【中の門】 
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 百人番所前から撮った中の門です。巨大な石垣と本丸の緑のコントラストが鮮やかでした。
 中の門の巨大な石垣は、人々を圧倒するようです。
 黒い石は、東伊豆産の安山岩、白っぽい石は瀬戸内海産の花崗岩です。
 宝永元年(1704)に、鳥取藩の池田吉明が築造したと推定されています。

【天守台】 
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 天守台は下からのご案内です。
 明暦の大火で、寛永度の天守が焼失し後、天守台が加賀藩主前田綱紀によって築かれます。
 しかし、天守は、保科正之の決断により再建は取りやめられます。 保科正之の決断に参加者の皆さんも感心していました。
 なお、保科正之は、お江の嫉妬を恐れ、側室をつくらなかった秀忠が唯一側室に生ませた子供だと言われていて、お江との関係のある人物です。


 次回の「お江ゆかりの地を行く」は、「増上寺」をテーマに6月25日に開講します。
 
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by wheatbaku | 2011-05-30 06:09 | お江ゆかりの地を行く | Trackback
自證院② (大奥ゆかりの寺)
 今日は自證院の2回目です。

 【輪王寺宮公現法親王が隠れる】
 c0187004_10541459.jpg 明治維新の時、自證院の住職であった亮栄僧正は、輪王寺宮公現法親王 に従って、駿府の有栖川宮を訪ねて、徳川慶喜の赦免をお願いしました。
 また、上野戦争で彰義隊が敗北した際に、輪王寺宮公現法親王は、江戸湾にあった幕府軍艦の「長鯨丸」に乗って、東北に向かいいました。
 この時に、長鯨丸に乗る直前に隠れていたのが、この自證院でした。



【阿弥陀三尊板碑】
 庫裏の前に、新宿の有形文化財に指定されている阿弥陀三尊板碑(いたび)がありました。
c0187004_14555217.jpg その説明板には次のように書かれていました。
 「弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑で、下部は欠損しているが、高さは1.2メートルとかなり大規模のものでsる。
 山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。
 天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。
 当時の市谷付近に有力武将が居住した可能性を示唆し、、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。
 なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。」

【小泉八雲旧居跡】
 自證院の近くに、小泉八雲が明治時代に住んでいました。
 c0187004_1456344.jpg その碑が、成女学園の中にありました。自証院のご住職のご紹介で、成女学園に断り、見させてもらいました。
 成女 園の正門横の高いところにありました。

 小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシャのレフカダ島で生まれました。
 そして、明治23年に来日して松江で教員として務めました。
 その小泉八雲が、明治29年に東京大学文学部の講師として招jかれ上京した時に、東京で初めて住まいを構えたのが、この地です。
 小泉八雲は、隣接する自證院の風致をこよなく愛し、境内を散歩などしていましたが、この地が開発により自然が失われていったため、明治35年に、5年間住み慣れたこの地から西大久保に転居してしまったそうです。



 
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by wheatbaku | 2011-05-25 05:56 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
自證院① (大奥ゆかりの寺)
 大奥ゆかりの寺、今回は新宿区 にある自證院の紹介です。
 自證院は、都営地下鉄「曙橋」駅から徒歩約10分です。

【創建は、家光の長女千代姫】  
 自證院は、はじめ法常寺といって、牛込榎木町にありました。
 寛永17年(1640)に、尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母お振の方(自証院)を供養するため、市谷の現在地に移転し、寺号を自證院に変えました。当初は日蓮宗不受不施派の寺院でしたが、寛文5年(1665)日蓮宗不受不施派が禁止されたため、天台宗に宗旨を改めました。
c0187004_14551098.jpg 自證院という名前は、お振の方の法名に由来する名前です。山号は、鎮護山といいます。
 お振の方は、3代将軍家光の側室です。
 母は祖心尼の娘、父は蒲生家臣の岡重政もしくはその息子の岡吉右衛門と言われています。 祖心尼は春日局の義理の姪にあたり、局に請われてその補佐役を務めた人物です。


【お振の方は、家光の初めての側室】 
 お振の方は、徳川家光の乳母である春日局の養女として大奥に入り、家光の手がついて初めての側室となりました。
 男色を好む家光に男装して近づいたという俗説があります。
c0187004_14553281.jpg 寛永14年(1637)には、家光の初めての子である長女千代姫を産みます。
 しかし、その後体調を崩し3年後の寛永17年(1640年)なくなりました。
 お振の方の法名は自証院殿光山暁桂大姉と言います。。
 慶安5年(1652)には、千代姫の発願により、「お振りの方」を祀る霊廟が建てられました。
 現在この霊廟は「旧自証院霊屋」として江戸東京たてもの園内に移築保存されています。

【江戸名所図会に書かれた自證院】 
 江戸名所図会にも次のように書かれています。
 鎮護山自證院
 円融寺と号す。天台宗にて東叡山に属せり。尾州亜相光友卿の御簾中千代姫君の御母堂、 自証院殿光山暁桂大姉御菩提のために開創せし精舎なり。本尊は阿弥陀如来、開山を日須(にちしゅ)上人と号す。
当寺始めは日蓮宗にて、本理山自證寺と唱えしが、元文年間(1736~41)ゆえありて天台宗に改められる。


下の赤印が自證院です。富久小学校の東隣にあります。

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by wheatbaku | 2011-05-24 11:39 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
皇居参観② (大江戸散歩)
今日は、昨日に続いて、皇居参観の後半部です。
 皇居参観は 次のようなコースで行われます。
 桔梗門 ⇒ 富士見櫓 ⇒ 宮内庁 ⇒ 宮殿 正門鉄橋 ⇒ 伏見櫓 ⇒ 宮殿 ⇒
 山下通り ⇒ 蓮池濠 ⇒ 富士見櫓 ⇒ 桔梗門
 参観コースは、正門鉄橋を渡り、伏見櫓をみると、そこでUターンするコースとなっています。
 今日は、伏見櫓以降のご紹介をします。

c0187004_10443146.jpg【伏見櫓】 
 これが伏見櫓です。別名「月見櫓」とも呼ばれています。
 西の丸の築城にあたって伏見城の櫓を解体しここに移築したと伝えられていて、それにより「伏見櫓」と名づけられたと言われています。
 しかし、伏見城の櫓を移築したという記録はないということであり、伏見城からの移築したという説は信憑性は低いようです。


c0187004_10451086.jpg【正門石橋】 
 この写真は、正門鉄橋からとった正門石橋です。
 正門石橋は、俗に二重橋と呼ばれています。
 二重橋とは、元々は、現在、正門鉄橋と呼ばれているものです。
 堀が深かったため、橋桁が二階建てになっていました。そのため、二重橋と呼ばれたのです。
 

c0187004_10452793.jpg【中門】  
 中門は、正門鉄橋を通って、宮殿に向かう途中にあります。
 参観者が通っているのが、正門鉄橋です。ちなみに読みは「せいもんてつばし」と読みます。
 「てっきょう」ではありません。正門石橋は「せいもんいしばし」と読みます.


c0187004_10455153.jpg【南車寄】 
 南車寄は長和殿の南端にあります。
 訪日の国賓や各国大使が宮中を訪問する際に、玄関として使用されます。
 ここで天皇陛下が国賓をお迎えするそうです。 


c0187004_1046968.jpg【松の塔】 
 松の塔は、宮殿の東庭の北端にあります。 
 若松の葉をかたどったもので、照明灯だそうです
 この塔は,宮殿造営に際して国民からの寄付金で造られたものです。
 この塔の先端までの高さは約16メートルあるそうです。 


c0187004_10462663.jpg【北車寄】  
 北車寄は,国内の賓客が宮殿に参入される際の玄関です。
 エントランスの階段 が新内閣認証後の記念写真撮影の雛壇として使われているそうです。


c0187004_10465477.jpg【山下通】 
 山下通りは、春はさくら、秋はもみじの紅葉でとてもきれいだそうです。
 写真の手前側左が「紅葉山」です。「紅葉山」の下にあるので、山下通りというそうです。
 紅葉山には、江戸時代、将軍の霊廟などがありました。
 現在は天皇陛下が蚕を飼育される「紅葉山御養蚕所」などがあります


c0187004_1047124.jpg【富士見多門】 
 富士見多聞は江戸城で現存する多門櫓の一つです。
 多門というのは、弓矢の貯蔵庫です。
 石垣の高さは水面から約20メートルあるそうです.
 

c0187004_10473132.jpg【蓮池堀】 
 蓮池堀には、文字通り蓮がうえられています。毎年7月8月の夏には、蓮の花が見られます。
 ちなみ皇居ではレンコンは肥料のためにそのまま残すそうです。  


c0187004_10475245.jpg【富士見櫓】  
 富士見櫓の下を行く参観者です。
 人物の大きさと比較すると、富士見櫓の高さがよくわかると思います。
 まさに、天守の風格です。


c0187004_10481148.jpg【桔梗門】  
 桔梗門を北側脇から撮っています。
 手前の人物がカメラを向けているのが、石垣の刻印です。


c0187004_10483077.jpg【刻印】 
 石垣の刻印をアップしました。
 まさに丸に十字で、薩摩藩の刻印だとわかります。 


c0187004_1048463.jpg【旧枢密院】 
 大正10年(1921年)に完成,現在の国会議事堂のモデルになった建物と言われています。 
 現在は皇宮警察の本部となっています。


 これまで、約1時間20分程度です。この後、皇居東御苑を見学する人は、案内の人に付き添われて、旧枢密院の前を通って、三の丸尚蔵館の前に行きました。
 つまり、近道をして、東御苑に行けるということになります。



 
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by wheatbaku | 2011-05-21 13:40 | 大江戸散歩 | Trackback
皇居参観①(大江戸散歩)
 皇居参観に行ってみました。
 皇居参観の手続きは意外と簡単です。
 宮内庁の次のホームページに書いてあります。そして、ネットでも申し込みができます。
 すみません、リンクを貼っていないので、コピーして入力してください。
  ☆皇居一般参観申込要領   http://sankan.kunaicho.go.jp/about/koukyo.html


c0187004_9595840.jpg【桔梗門】
 皇居参観者は、桔梗門前に集合してから受付が行われます。
 これから、高麗門をくぐるところです。



c0187004_1002352.jpg【高麗門】
 内側から見た桔梗門の高麗門です。
 桔梗門は、「内桜田門」と呼ばれて います。

c0187004_101576.jpg【渡櫓門】
 桔梗門の渡櫓門です。
 昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と呼ばれるようになったとも伝えられています。
c0187004_1012632.jpg【石垣刻印】
 桔梗門脇の石垣にある薩摩藩の刻印です。
 写真中央の石に、丸に十の刻印がされています。


c0187004_106316.jpg【窓明館】
 皇居参観者用の休憩所です。
 皇居参観は、ここで、皇居参観についての約10分のビデオガイドを見てからスタートします。
 売店やトイレ・ロッカーもあります。


c0187004_101466.jpg【東南から見た富士見櫓】
 窓明館前に集合後、石垣の刻印を見て、次に現れるのが「富士見櫓」です。
 富士見櫓は,明暦3年(1657年)の大火で焼失した2年後の万治2年(1659年)に再建されたものです。
 どこから見ても同じ形に見えるため八方正面の櫓とも呼ばれていました。
 明暦の大火後再建されなかった天守の変わりを果たしました。
 こちらから見ると、まさに天守の貫禄をもった櫓だと実感します。

c0187004_102174.jpg【西南から見た富士見櫓】
 富士見櫓の高さは15.5メートル、石垣の高さは14.5メートルあります。
 優美な曲線を描いている石垣は,自然石の割石を多く用いているのが特徴であり,積み方は初期の「打ち込みはぎ」だそうです


c0187004_1021755.jpg【宮内庁】
 昭和10年(1935年)に建築された建物で,庁舎3階は,昭和27年(1952年)に改装され,昭和43年(1968年)の宮殿落成までの間は,仮宮殿として使用されていました。
 玄関の上をバルコニー代わりとして、昭和天皇が1回だけ参賀を受けたことがあるそうです。


c0187004_10145491.jpg【坂下門】
  内側から見た坂下門です。坂下門は、塔の坂の下にあるので、坂下門と呼ばれました。
 幕末の「坂下門外の変」がおきた門です。
 
c0187004_1045135.jpg【塔の坂】
 宮内庁庁舎から、新宮殿に向かう坂は「塔の坂」と呼ばれています。
 後ろに富士見櫓が見えます。
c0187004_1051237.jpg【新宮殿】
 新年(1月2日)及び天皇誕生日(12月23日)の一般参賀は,この広場で行われています。
 天皇皇后両陛下・皇族方は,この広場から見える長和殿中央バルコニーにお出ましになり国民からのお祝いを直接お受けになります。
c0187004_11172981.jpg【長和殿】
 一般参賀のときに、この場所に特設のバルコニーを設け、両陛下ならびに皇族の方々がお出ましになります。
 特設のバルコニーの高さは3メートルほどだそうです。


【大刈込】
c0187004_11483435.jpg  「長和殿」の左奥は「宮殿の南庭」と呼ばれるお庭です。
 小山のように見える二つの刈り込みは「南庭の大刈り込み」と呼ばれるものです。
 複数の樹木を組み合わせて出来た刈り込みです。
 高いところでは6mもあるそうです。  
 刈り込みは職人が入り込んで、機械を使用せずすべて手バサミで刈り込みをしているそうです。

 ここまでで皇居参観の前半になります。後半は明日ご紹介します。
 
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by wheatbaku | 2011-05-20 06:20 | 大江戸散歩 | Trackback
5月28日、江戸城ツアー開催
 引き続き、トップは江戸城ツアーのご案内です。しばらくご容赦ください。
 大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」に関連した企画として、毎日文化センターさんで お江ゆかりの地を行く~気ままに江戸探訪」 
という講座を開講させていただくことになりました。

 第1回は、5月28日(土曜日)、午後1時から、「江戸城」をご案内します。
 皇居東御苑をまわりながら、江戸城や大奥の様子をご案内します。

 ブログを日ごろお読みいただいている皆様、よろしかったらぜひご参加ください。
 詳細はこちら⇒ 「毎日文化センター」「お江ゆかりの地を行く」
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by wheatbaku | 2011-05-19 08:46 | 大江戸散歩 | Trackback
孝子【家光の正室】の墓(伝通院③ 大奥ゆかりの寺)
 伝通院には、於大の方、千姫のほか、多くの徳川家の関係者が葬られています。
 その多くは、将軍の正室や側室です。
 今日は、3代将軍家光の正室であった鷹司孝子(後の本理院)についてご案内します。

 
 鷹司孝子は、初めて、摂関家から将軍正室に迎え入れた人です。
3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」であったため、大名より位の高い摂関家から正室が求めたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
 孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。
c0187004_2147939.jpg 元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼し、御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。
 しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はありませんでした。
 孝子は大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。
 幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。
 このため、当然のごとく、家光との間に子供はありませんでした。
 このように、夫婦仲が円満でなかったのは、家光と孝子の間に子ができ朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が作為的に不仲にしたという説や家光が男色好きであったためという説があります。
 
 慶安4年(1651)4月に、家光が48歳でなくなると、孝子は落飾し「本理院」と名乗りました。
 延宝2年((1674 )に73歳でなくなりました。
 本理院のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に南に面して建っています。

 孝子の弟、鷹司信平は、姉を頼って、江戸に下り、旗本に取り立てられ、松平の苗字を名乗ることが許されました。信平の家系は、鷹司松平家と呼ばれ、上野吉井藩の藩主として幕末まで続きました。
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by wheatbaku | 2011-05-19 05:39 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
千姫の墓(伝通院② 大奥ゆかりの寺)
 伝通院の2回目は、千姫についてです。
 伝通院には、有名な千姫のお墓があります。

 千姫は、2代将軍秀忠の長女です。
 母は、今年の大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」の主人公の江(崇源院)です。
 千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのでした。
 慶長3年(1598)病床にあった豊臣秀吉は秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。
c0187004_21554842.jpg 秀吉が死んだ後もこの約束は守られ、慶長8年(1603)7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎました。
 二人は従兄弟関係にありました。
 
 家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜脱出し、家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
 翌元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。
 
 大坂城脱出の際、家康が「千姫を救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り救出してきましたが、このとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌い本多忠刻に嫁いだので、騒動を起こし、殺害されたとされています。
 しかし、これは異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされ怒って騒動を起こしたと言う説もあります。

 元和3年に忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住むこととなりました。
 千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。
 寛永3年(1626)、30歳の千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫と二人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。

 ところで、忠刻がなくなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。
 「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡は、千姫の乱行をうたったものと言われています。
 しかし、これはまったく根拠のない話であると言われています。 こんな俗説がなぜたてられたのか疑問に思います。

c0187004_21565459.jpg  寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。
 正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(後の順性院)が三男綱重を懐妊しました。
 この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるため千姫(天樹院)を養母としました。
そのため、お夏の方(後の順性院)と綱重と暮らすようになります。
 
 落飾して天樹院となった千姫は、寛文6年(1666)に70歳でなくなりました。
 法事は、千姫(天樹院)が養母となっていた綱重が執り行ったそうです。
 千姫(天樹院)は、伝通院に葬られています。本堂西北の少し低くなった場所に、千姫の墓があります。
 五輪の大きなお墓です。
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by wheatbaku | 2011-05-17 05:48 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
於大の方の墓(伝通院① 大奥ゆかりの寺)
 久しぶりに 、大奥ゆかりの寺をご案内します。
 今日は、小石川にある伝通院です。
 伝通院は「でんつういん」と呼ばれることが多いのですが、正しくは「でんづういん」と呼びます。

【伝通院は於大(おだい)の方の法名】  
 伝通院は、元々は、南北朝時代の、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。
 開山当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
c0187004_22114226.jpg それから200年後の慶長7年(1602)8月、徳川家康の生母於大(おだい)の方が75才で伏見城でなくなった際に、この寿経寺を菩提寺とすることになりました。
 そして、於大の方の法名を「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになりました。
 その後、千姫をはじめとした将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されています。

 伝通院は、教育面でも大きな足跡を残しています。
 江戸時代はじめの慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人が伝通院に移されて、関東十八檀林(僧の学問修行所)の上席と位置づけられていました。多い時には、学寮に席をおくもの千人以上という状況だったそうです。
 その伝統から、明治24年(1891)芝三縁山(増上寺)より浄土宗学本校(現大正大学の前身)が無量山へ移転され、更には明治25年には伝通院境内に淑徳女学校が設立されています。

 伝通院は、享保6年(1721)、享保10年(1725)、明治40年(1910)と三度の大火にあい、その再建都度再建されました。しかし、昭和20年5月の東京大空襲で、すべての建物が焼失しました。
 その後、昭和24年本堂を再建し、さらに昭和63年に再建されたものが、現在の本堂です。

c0187004_22123026.jpg【於大の方】  
 伝通院の名前の由来になっている於大の方は享禄元年(1528)、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれました。
 そして、天文10年(1541)、岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(後の徳川家康)を出産しまた。
 しかし、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属しました。
 そのため、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈谷に帰すこととなり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。
 その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁しましたが、於大の方は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられています。


c0187004_2212794.jpg また、家康が今川義元の人質となって駿府にいた際にも、於大の方も使いを送ってひそかに日用品を届けたと言われています。
 於大の方は、久松俊勝との間に子供を3人もうけました。
 家康は、天下統一の後には、久松家を親戚として尊重しました。
 これが、久松松平家です。
 久松松平家は伊予松山藩や幕末の桑名藩の藩主です。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子となりました。

 於大の方は、夫の久松俊勝が、天正10年(1582)になくなると、天正16年(1588)に髪をおろし「伝通院」と号しました。
 上の肖像画は、永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大の方が、母の像とともに描かせ た肖像画です。
 2枚の画像は、一対として刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)に納められたものといわれています。
 下の像は、天正16年、蒲郡安楽寺で剃髪し伝通院の号を授かった当時の於大の方の姿との説明がありました。於大の方は、2年間、安楽寺に住み俊勝の菩提を弔ったそうです。
 
 上の肖像画(写真)と下の像(実物)は、本堂西側にある観音堂の中にある休憩所においてあります。
 
c0187004_22124887.jpg【於大の方の墓】 
 そして、於大の方は、家康の天下統一を見た後、慶長7年(1602)8月、家康の滞在する伏見城にてなくなりました。
 家康は於大の方の死を悼み、京都の智恩院で葬儀をおこない、江戸に遺骸を送り、伝通院に納骨しました。
 於大の方のお墓は、本堂西側にあり、東向きに立った五輪の大きなお墓です。
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by wheatbaku | 2011-05-16 06:32 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
  

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