<   2011年 06月 ( 19 )   > この月の画像一覧
徳川家墓所(増上寺散歩 大江戸散歩)
今日からは、現在の徳川家墓所の様子を紹介します。

 現在の徳川家墓所は、安国殿の後ろ側にあります。
 4月15日から11月30日まで特別公開されていて、将軍の宝塔を 拝観料500円で拝観することができます。
c0187004_0233512.jpg 墓所の全体像は、右の写真のようです。まわりは緑に囲まれていて、コの字を立てた型に宝塔が並んでいます。
 最奥に秀忠とお江の宝塔、その左に家宣の宝塔。
 右の列に奥から、①7代将軍家継、②9代将軍家重、③12代将軍家慶の宝塔。
 左の列に奥から、①14代将軍家茂、②家茂の正室静寛院宮、③将軍正室や側室の合祀塔が並んでいます。


 そのうち、今日は、2代将軍秀忠・お江(法号は崇源院)の宝塔と6代将軍家宣、7代将軍家継、9代将軍家重の宝塔を紹介します。

【秀忠・お江の宝塔】  
 秀忠とお江の宝塔は墓所の最奥の右手にあります。。
 秀忠の宝塔は木製であったため、戦災で焼失してしまいました。現在の宝塔はお江の宝塔を使用しています。
 
c0187004_17191119.jpg
 秀忠とお江は6歳違いでお江の方が年上でした。
 しかし、亡くなった時の年齢は一緒で、ともに54歳でした。
 お江は 寛永3年(1626)に亡くなり、秀忠は、その6年後の寛永9年(1632)年1月に死去しました。

c0187004_829259.jpg【秀忠の宝塔】  
 右の写真は、秀忠の宝塔の写真です。
 この写真は、長崎大学付属図書館が所蔵しているものです。
 秀忠の霊廟すなわち台徳院霊廟は、増上寺の南側にありました。
 惣門、勅額門を過ぎた奥に拝殿・相之間と本殿からなる権現造りの霊屋がありました。
 霊屋の南側に奥院がありました。 
 秀忠の宝塔は、奥院の拝殿の奥にある覆屋の中にありました。
 宝塔は木製で、八角三重の石造りの台座の上に設けられた上下二重の連座に載せられていました。
 宝塔は蒔絵による模様が描かれ、七宝入りの精巧な透金具が使用されるなど、当時の工芸の粋を尽くしたものとなっていました。
 秀忠の遺体は宝塔の真下に埋葬されていました。
 一方お江(崇源院)の宝塔は、北御霊屋にありました。


【6代将軍家宣の宝塔】  
 これは、6代将軍家宣の宝塔です。
 秀忠・お江の宝塔の左側にあります。
c0187004_17253319.jpg

 家宣は3代将軍家光の三男甲府藩主徳川綱重の長子です。始め綱豊と言っていましたが、宝永元年(1704)に5代将軍綱吉の後継者となり、家宣と改名しました。
 そして、宝永6年(1709)、綱吉が亡くなり、6代将軍となりました。
 将軍になると、側用人間部詮房(まなべあきふさ)、侍講新井白石の補佐を受け、生類憐みの令の廃止するなど、正徳の治を呼ばれる善政を敷きましたが、在職4年足らずで正徳2年死去しました。

【7代将軍家継の宝塔】  
 これは、7代将軍家継の宝塔です。右の列の最奥にあります。
c0187004_1724128.jpg

 家継は、6代将軍家宣の三男です。母は家宣の側室月光院です。兄2人が若くしてなくなったため、家宣没後、正徳3年(1713)わずか3歳で将軍に就任しました。
 側用人の間部詮房、新井白石の補佐により、政治を行いますが、 わずか6歳でなくなりました。
 正室として皇女八十宮(やそのみや)との婚約が整いましたが、翌年家継が没したため、降嫁は実現しませんでした。

【9代将軍家重の宝塔】  
 これは9代将軍家重の宝塔です。右の列の真ん中にあります。
c0187004_17245719.jpg

 家重は、8代将軍吉宗の長子です。生母は側室おすまの方です。
 延享2年(1745)父の跡を受けて9代将軍となりました。
 生まれつき虚弱のうえ、若くから大奥の婦女を相手に酒宴にふける生活を続け、健康を害し、言語も不明瞭で、わずかに側用人大岡忠光だけが聞き分けることができたといわれています。
 


 
 
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-30 09:27 | 大江戸散歩 | Trackback
徳川家霊廟 (増上寺散歩  大江戸散歩)
 今日は、徳川家霊廟について書いていきます。

 増上寺には徳川家霊廟があります。
 増上寺に埋葬されていたのは、2代将軍秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠御台所お江)、皇女和宮(14代家茂御台所)ら5人の正室、桂昌院(5代綱吉の実母)はじめ5人の側室、さらに3代家光の三男甲府宰相徳川綱重など多くの徳川将軍家の人々です。

c0187004_12403028.jpg
 上の写真は文昭院霊廟の勅額門の古写真です。
 
 徳川家霊廟は、増上寺の南側に南御霊屋(みなみおたまや)が、北側に北御霊屋がありました。
 南御霊屋は1万7千平方メートル以上、北御霊屋は3万6千平方メートル以上の広さがありました。
 南御霊屋には、台徳院霊廟と崇源院霊拝所がありました。崇源院とはお江の法号です。
 そして、北御霊屋には、文昭院(6代将軍家宣)霊廟と有章院(7代将軍家継)霊廟がありました。
 そして、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔がありました。さらに、将軍の正室、側室、さらに生母の宝塔も数多くありました。
 これらの多くが、昭和20年の空襲で焼失してしまいました。
 昭和33年から34年かけて、徳川将軍家の霊廟が発掘調査された後、増上寺の安国殿の裏に改葬されました。


【霊廟の歴史】 
 下の写真は、有章院霊廟の勅額門の古写真です。
c0187004_12405589.jpg
  台徳院霊廟は、秀忠が亡くなった寛政9年(1632)から造営がはじまりました。
  3代将軍家光の大猷院霊廟は、日光と上野寛永寺に造営されました。4代将軍家綱と5代将軍綱吉の霊廟は上野寛永寺に造営されました。 
  そして、6代将軍家宣が正徳2年(1712)に亡くなり、文昭院霊廟が増上寺に造営されました。
  増上寺に将軍 
  続いて、享保元年(1716年)に7代将軍家継がなくなり、翌享保2年(1717)に有章院霊廟が、文昭院霊廟の北側に造られました。
 その後、8代将軍吉宗は、享保5年(1720)に霊廟建立を禁じ、自分は寛永寺の5代将軍綱吉の常憲院霊廟に合祀するよう命じ、これ以後、霊廟の建立はなくなりました。

 上の2枚の古写真は長崎大学附属図書館所蔵のものです。
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-29 12:57 | 大江戸散歩 | Trackback
広度院と開拓使仮学校跡(増上寺散歩③ 大江戸散歩)
  今日は増上寺散歩の3回目です。
  増上寺周辺の史跡のうち、「広度院」と「開拓使仮学校跡」を紹介します。

【「広度院」の表門と練塀】 
 大門と三解脱門の間には、江戸時代、多くの増上寺の子院が建ち並んでいました。
 現在も、寺院が並んでいます。これらの寺院の宗派はいうまでもありません浄土宗です。
 そのなかで、三解脱門に一番近いところにある寺院が「広度院」です。  
c0187004_11174258.jpg 広度院は、増上寺の子院の中で、最も早く建立された子院だそうです。
 広度院という名前は、増上寺の正式名称「三縁山広度院増上寺」からいただいたものだそうです。
 このお寺の表門と練塀が国の登録文化財となっています。
 練塀は底部に間知石(けんちいし)を置き,芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で,現在では用いられることがありません。
 この練塀は、昔の増上寺周辺の様子がどうであったを知るよすがとなるとともに、趣のある空間を作っています。

【開拓使仮学校跡】 
 東京メトロの「御成門」駅出口  を出ると芝公園となっています。
 この芝公園の一角に、「開拓使仮学校跡」の碑が建っています。
 この芝公園と御成小学校、みなと図書館がある一画に、江戸時代に増上寺の方丈がありました。
c0187004_1118597.jpg 明治になって、明治5年ここに、開拓使仮学校が開設されました。
 札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれました。
 生徒は、官費生・私費生各60名でした。さらに、官費生50名の女学校を併設されました。
卒業後、官費生は開拓事業に10年間、私費生は5年間従事することが義務付けられました。また女学生には卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせたそうです。
 仮学校は明治8年札幌学校と改称し女学校とともに札幌に移転し、翌年明治9年には札幌農学校となりました。
 この札幌農学校の初代教頭が、有名なクラーク博士です。
 なお、厳しい結婚条件のつけられていた女学校は明治9年には廃校になっています。
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-28 12:22 | 大江戸散歩 | Trackback
増上寺散歩② (大江戸散歩)
 今日は、土曜日に開催された毎日文化センターさん主催の「お江ゆかりの地を行く」で見物した増上寺周辺の建築物を紹介します。

 増上寺の南側のプリンスパークタワー東京と北側の東京プリンスホテルの敷地は、戦前は増上寺の境内で、徳川幕府の6人の将軍が埋葬されていて、華麗な建物が建ち並んでいました。
 しかし、戦災でほとんどの建物が焼失しました。
 その中で奇跡的に焼失を免れた建物が残っています。「台徳院霊廟惣門」「二天門」「御成門」です。今日はそれらの紹介です。

【台徳院霊廟惣門】 
 これは台徳院霊廟惣門です。
 台徳院(たいとくいん)というのは秀忠の法号です。 つまり、これは2代将軍徳川秀忠の霊廟です。
 昭和20年5月25日の空襲で、台徳院霊廟は、惣門、勅額門、御成門、丁字門を除いて焼失してしまいました。 そのうちの惣門だけが現地に保存されています。
c0187004_11414622.jpg


【二天門】 
 東京プリンスホテルの駐車場の北東部の日比谷通りに面した所に、有章院霊廟の二天門が残っています。
 有章院とは7代将軍家継の法号です。
 享保2年(1717)に建てられたもので、昭和20年3月10日の空襲で、有章院霊廟の建物がほどんど焼失する中で奇跡的に焼失を免れたものです。
c0187004_1142683.jpg

【御成門】 
 二天門近くの東京プリンスホテルの駐車場の北側に「御成門」(おなりもん)があります。 
徳川将軍が増上寺を参拝する時に使用されたため、「御成門」と呼ばれますが、もとは、増上寺の裏門です。
 裏門であるためか、華麗さが欠けたつくりになっています。
 もとは、御成門交差点付近あったものを、移築したものです。
c0187004_11424995.jpg

【愛宕神社】 
 最後は、愛宕神社まで散歩しました。
 愛宕神社では茅の輪くぐりが設けられていました。
 桜田門外の変で襲撃をした水戸浪士の集合場所だったことや曲垣平九郎の「出世の石段」の話などの後、参加された皆さんご参拝をしました。
c0187004_11422468.jpg

[PR]
by wheatbaku | 2011-06-27 14:31 | 大江戸散歩 | Trackback
増上寺散歩① (大江戸散歩)
 土曜日に、毎日文化センターさんの講座「お江ゆかりの地をいく~気ままに江戸探訪」の2回目講座で、受講生の皆さんと、増上寺周辺を散歩してきました。
主に増上寺が中心でしたが、愛宕山まで散歩してきました。
 前日は、熊谷で6月の最高気温39.8度が記録されていたので、暑くては大変と思っていましたが、曇り空であったため、それほど暑くなく、梅雨にもかかわらず雨にも降られず、快適なお散歩を楽しむことができました。
 ご一緒いただいた皆さんありがとうございました。

c0187004_18314245.jpg 増上寺は、大河ドラマ「江~戦国の姫たちの」主人公「お江」が眠っているお寺ですので、大河おドラマの影響からか、かなりの観光客が来ていました。
 そして、徳川家墓所が、特別公開されているのも目玉の一つです。
 右の写真は、お江のキャラクターが描かれたのぼりが立てられている徳川家墓所です。
 のぼりの後ろの門が、現在の徳川家墓所の門である「鋳抜門(いぬきもん)」です。


 それでは、見物してきた主な建物を紹介します。

【大門】 
 これは、大門です。増上寺の総門になります。
 コンクリート作りです。昭和12年に作られたものです。
 当初の大門は、江戸城の大手門の高麗門を譲り受けたものだったそうです。
c0187004_17134080.jpg


【三解脱門】 
 これは、三解脱門です。三解脱門とは三つの煩悩「(むさぼり)、(いかり)、(おろかさ)」を解脱する門という意味だそうです。
 この三解脱門、現在人気の高いテレビドラマ「JIN-仁」の冒頭に古写真とともに出てきていました。
 元和8年(1622)に再建さrたもので、国の重要文化財です。
c0187004_1659846.jpg


【本堂】 
 これは、本堂です。増上寺では「大殿(だいでん)」と呼んでいます。幅48メートル、高さ23メートルもあるそうです。2階が本堂、3階が道場になっています。
c0187004_17463667.jpg



【安国殿】 
 これは安国殿です。
 安国殿は、法燃上人がなくなって今年で800年になる(1212年法然上人入寂。80歳)のを記念して昨年再建されたものです。
 安国殿の名称は、徳川家康の法号「安国院殿」から名付けられたものです。
c0187004_17465317.jpg


【お江ゆかりのおみやげ】 
  増上寺では、こんなおみやげも売っていました。
c0187004_1752721.jpg江ようかん
5本で1100円でいた。
 製造は、「切腹最中」で有名な新橋の新正堂です。
c0187004_17525825.jpg最中
 3個入り630円でした。
 こちらは芝の東京羊羹本舗製造の商品です。
 最中のほか、羊羹も販売されていました。


 増上寺以外の建物を数多く見物しました。それは、明日に!
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-26 15:04 | 大江戸散歩 | Trackback
大名火消 (明暦の大火⑧ 江戸の災害)
 旗本による定火消が整備される前は、大名が消火の中心でした。これを大名火消といいます。
 今日は、大名火消について書いていきます。
 
 江戸時代初期には大火の時には、老中が老中奉書により大名に消火を命じました。これが奉書火消と呼ばれるものです。
 消防博物館には、老中奉書が展示されていました。
c0187004_1453371.jpg
  

 この奉書には次のように書かれています。、
 小石川火事の節
 松平伊豆守殿 
                      大久保加賀守
                       阿部豊後守
  貞享二年丑十二月二十日    戸田山城守

 火事出来風列候間
 早々罷出可消候被
 仰出候可被得其意候
 以上
  
  十二月二十日          大久保加賀守
                       阿部豊後守
                       戸田山城守
松平伊豆守殿 

 しかし、これだと、火事が起きたときに出動を要請するため、迅速に対応できないという弱点がありました。
 また、 寛永18年(1641)の桶町火事の際には、諸大名が老中奉書により、消火にあたりましたが、江戸の大半を焼く大火となりました。
 その反省から、幕府は大名火消を整備し防火消火にあたらせました。
 大名火消は、6万石以下の大名16家を4組に編成し、1万石につき30名の人足を出し、1組が10日ずつ防火にあたることにしました。
 大名火消は、華麗でものものしい火事場装束に身をかため整然とした隊列で出動したそうです。
 消防博物館には、大名火消の華麗な出動の様子が模型で展示されていました。
c0187004_14413592.jpg


 大名火消には「所々火消」と「方角火消」という組織もありました。 
 「所々火消」は、幕府の重要施設の防火・消火にあたる大名を事前に決めておくものです。
 例えば、元禄年間には、上野寛永寺は5名の大名、芝増上寺は2名、湯島聖堂は1名の大名が定められていました。

 「方角火消」は、明暦の大火の跡、12名の大名を桜田、下谷、山手の3隊に分けて防火を命じたのが最初です。
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-24 15:01 | 江戸の災害 | Trackback
定火消 (明暦の大火⑦  江戸の災害)
 明暦の大火で大火の怖さを知らされた幕府は、防火体制の強化を図ります。
 その一つが、定火消(じょうびけし)の制定です。今日は、定火消について書いていきます。

【定火消は旗本が任命された】 
 明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に、定火消が設置されました。
 旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置された。
 これらの火消屋敷がすべて江戸城北西部に置かれているのは、えどの火災が北西の季節風の激しく吹く冬季に多発していたことに関係しています。この地域から出火した場合、江戸全域が風下となって大火に発展する危険が大きく、江戸城が危険にさらされることとなるからです。
c0187004_10464857.jpg

 定火消役は、それぞれ与力6名と同心30名が付属され、火消人足を抱えるための役料300人扶持が給されました。
 定火消は、火事羽織を着て騎馬に乗り出役しました。与力は騎馬で、同心は徒歩でこれに従いました。
 実際に消火活動にあったたのは、臥煙と呼ばれる火消人足で、彼らは屋敷内の臥煙部屋と呼ばれる大部屋に寝起きしていました。夜寝るときには、細い丸太棒を枕として寝て、火災が起こると不寝番丸太棒の端を槌でたたいて起こしたといわれています。
 臥煙は真冬でも法被一枚で駆け回り、全身の彫り物を自慢にしていました。
 また、火災のない時には、商家をまわって銭緡(ぜにさし)の押し売りを行い、決して評判の良いものではありませんでした。
 上の写真は消防博物館に掲示されている「武家火消の図」です。左が火事に出動する定火消です。

【10組の定火消】 
c0187004_10281148.jpg その後、定火消は万治2年に6組、万治3年に8組、寛文2年に10組、元禄8年には15組になりました。
 そして宝永元年には、御茶ノ水、伝通院前(のちに小川町)、麹町半蔵門外、飯田町、駿河台、八代州河岸、市谷佐内坂、赤坂御門外、溜池上、幸橋外(のち四谷御門)の10組となりました。
 宝永元年(1704)以降は、幕末まで10組で活動を行いました。そのため、定火消しは「十人火消」とも呼ばれました。
 
 火消屋敷は、約3000坪の広さを持ち、高さ5丈(約15メートル)の火の見櫓が設置されていました。
 定火消の火の見櫓には、太鼓と半鐘が備え付けられていました。
 火の見櫓のなかで、定火消の火の見櫓が最も格式が高く、定火消の太鼓が鳴らない限り、他の火の見櫓が火事を発見しても、半鐘を鳴らすことはできませんでした。 

 上の写真は、消防博物館に展示されている定火消の火の見櫓の模型です。
 消防博物館は、東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」2番出口直結しています。  
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-22 10:29 | 江戸の災害 | Trackback
回向院(明暦の大火⑥ 江戸の災害)
今日からは、一時中断していた「明暦の大火」関係の記事を書いていきます。
 
【明暦の大火犠牲者慰霊の寺】 
 明暦の大火で亡くなった人は、「本所回向院記」では10万8千人とされているそうです。
 この亡くなった人たちの慰霊のために建立されたのが両国の「回向院」です。

c0187004_10354042.jpg 回向院のHPでは、次のようにかかれています。
 「この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。」

 一方、黒木喬氏著の「明暦の大火」では、保科正之の発案だとしています。
 保科正之が、4代将軍家綱の代参で芝の増上寺におまいりした帰途、京橋・中橋の通りにに出て、焼死体が貴賎男女の別なく積み重なっている光景に驚きました。
 家臣に調べさせると、浅草門の近辺まで同じような光景との報告でした。
 保科正之は、さっそく登城して、大老の井伊直孝や老中たちに話しをし、「死骸を1ケ所に集め埋葬するようにしたい」と提案しました。
 井伊大老や老中たちは、その意見に賛成し、死体を収容し、当寺牛島新田と呼ばれていた、現在の回向院の地に掘られた二十間四方( 別の資料によると五十間四方と書いたものもあります)の大きな穴に埋葬しました。

 その上に、無縁塚を築き、時の寺社奉行松平勝隆は、2月26日から増上寺の23世遵誉貴屋に7日間の法要を盛大に実施させたそうです。
 埋葬塚の上には金銅の阿弥陀如来像安置され、念仏堂や庫裏も整備されたそうです。

 回向院は、埋葬者の宗派が様々であっため、最初、諸宗山回向院無縁寺といわれましたが、その後、増上寺の末に組み込まれて国豊山(こくほうざん)と改められたそうですが、現在の回向院の山門脇には諸宗山と書かれています。(上の写真の左下の碑に諸宗山と刻まれています)
 
【明暦の大火供養塔】 
 c0187004_10363457.jpg回向院境内には、明暦の大火の供養塔が建てられています。 
 本堂東側で、馬頭観音堂の南側の墓碑の一群の中でひときわ大きな供養塔です。
この供養塔は正式には「石造明暦大火横死者等供養塔」といい、東京都の有形文化財に指定されています。
 東京都教育委員会の説明板には次のように書かれています。 
「明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3・05m、延宝3年(1675)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存」


 この供養塔の銘文は、次のように書かれています。
  一万日数 三界万霊六親眷属七世父母
  奉回向  明暦三丁酉孟春十八日十九日 為焚焼溺水諸精霊等贈進仏果
  別時念仏 蠢蠢群生有情非情悉皆成仏
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-20 06:28 | 江戸の災害 | Trackback
甘味処「初音」 (江戸の老舗の味)
 今日は、人形町・両国散歩の番外編です。
 今日は、甘味処の老舗「初音」のご紹介です。

c0187004_9283386.jpg【「初音」は歌舞伎から命名】 
 
 「初音」さんは、東京メトロ「人形町」駅Å番出口から徒歩2分、水天宮駅の8番出口を出ると徒歩1分、人形町通りに面してします。

 近代的ビルの1階が「初音」さんです。2階も「初音」のお店、お好み焼きが食べられるそうです。

 「初音」さんは、天保8年(1837)創業のお店で、創業以来170年余り経つ老舗です。
 現在の人形町は、江戸時代には歌舞伎や人形芝居小屋が数多くあった場所です。
 「初音」の名前の由来は、歌舞伎や落語が好きだった初代が、歌舞伎に登場する「初音の鼓」に因んで名付けたそうです。


c0187004_1785974.jpg【落ち着いた店内】 
 お邪魔した日は、たまたま、戌の日であったため、お店は大勢のお客様で一杯でした。
 店内は、和風の落ち着いた雰囲気で、いかにも歴史のある甘味処の風情でした。
 節電中のため、照明もおとされていましたが、それがかえって落ち着いた風情をかもし出していました。
 そんなお忙しい中でも、お女将さんの石山様がお話してくださいました。 


【おしるこ】 
 初音の名物は、「おしるこ」と「あんみつ」です。「おしるこ」は、創業以来の商品だそうです。

 昔、砂糖が貴重であった頃には、さつまいもから甘味をとりだしておしるこをつくったそうです。
 現在のものは、小さな餅が二つ入っていて、甘さが抑えられて美味しいものでした。
 お餅は毎朝石臼でついてつくるそうです。
 一杯680円でした。

c0187004_9535086.jpg


【あんみつ】 
 あんみつも名物です。 お値段は650円です。
 あんみつと言うのはお女将さんのお話では、銀座の「若松」が昭和初期に始めたのが最初だそうです。
 ですから、「初音」さんでも、「あんみつ」は、昭和初期から売り出したものだそうです。
 ただ、「初音」さんでは、それ以前から、豆にみつを加えた「豆みつ」や寒天にみつを添えた「寒天みつ」は販売していたそうです。
c0187004_93466.jpg
 小豆は、北海道産の手撰りの小豆を使用していて、天草は伊豆諸島産のもの、黒糖は沖縄諸島産のものを取り寄せて使用しているそうです。
 そして、寒天は工場生産ですが、それ以外は手作りしているそうです。

c0187004_983759.jpg 【大正期の「初音」】 
 お女将さんに「何か古いものがありますか」とお尋ねしたら、「このあたりは、関東大震災と東京大空襲で、2度焼けているので、古いものはないんですよ。」と残念そうに話されました。
 それでも、店内には、大正期の「初音」さんや水天宮の写真が飾られていました。


c0187004_16484892.jpg  お店の奥では、写真のような鉄釜でお湯をわかしていました。この湯で煎茶をふるまってくれます。
 

インタビューに答えていただいたお女将さん、「取材はよく受けています」ということで、お忙しいのにもかかわらす簡潔に要領よく対応いただきました。
後で、インターネットを検索していたら、今年の2月には「ちい散歩」にも取上げられていたようです。
 むべなるかなと感心しました。

 お女将さん お忙しい中、ご質問にお答えいただきありあがとうございました。


 赤印が甘味処「初音」です。

[PR]
by wheatbaku | 2011-06-17 05:41 | 江戸の老舗 | Trackback
「玉英堂」「亀井堂」「大川屋」【人形町・両国散歩③)
  今日は、「江戸の老舗をめぐる会」の人形町・両国散歩の3回目ですが、人形町と両国の老舗のご紹介をします。

 人形町は、古い町ですので、老舗が数多くあります。
 そのうち、12日には、「玉英堂彦九郎」と「人形町亀井堂」、「双葉」「森乃園」を訪ねました。
 今日は、「玉英堂彦九郎」「人形町亀井堂」 そして、 両国の「大川屋」  をご紹介します。


【玉英堂彦九郎】 
c0187004_105931.jpg 「玉英堂彦九郎」さんは、甘酒横丁の入口にあります。
 明治の初め頃にこの横丁の入口に尾張屋という甘酒屋があったことから『甘酒屋横丁』と呼ばれていました。そして、 関東大震災後『甘酒横丁』と呼ばれるようになったそうです。
 「玉英堂彦九郎」さんは、その尾張屋の跡にあります。

  「玉英堂彦九郎」さんは、江戸幕府が開かれる前の天正4年(1576) に創業された大変歴史のある和菓子屋です。
 もともと、発祥の地は京都ですが、昭和29年に現在地に支店を構え、現在では、この人形町の店が本店だそうです。

c0187004_1072337.jpg このお店の名物が「虎家喜 」です。
 ご主人の奥様が、「虎家喜 」の説明をしてくださいました。
 「虎家喜 」の名前は、玉英堂のご主人が三代続いて虎年の生まれであったことに由来するそうです。
 どら焼き風の菓子ですが、どらやきとちがい、皮が、「玉英堂」さん秘伝の製法で作られていて、餡の小豆がそのまま使用されてるのが特徴だそうです。
 甘味を抑えた美味しい和菓子です。
 参加された皆さんは全員が「虎家喜 」を買っていました。
 ご説明いただいた奥様大変お世話になりました。ありがとうございました。

【人形町亀井堂】 
c0187004_1010587.jpg 次いで、訪ねたのが、甘酒横丁を東に入った所にある「人形町亀井堂」さんです。
 「人形町亀井堂」さんの創業は昭和4年ですが、 「人形町亀井堂」さんは、幕末の南町と北町奉行を務めた佐々木信濃守顯發(あきのぶ)のお孫さんが創業したお店です。
 店内には、佐々木信濃守に対して朝廷が信濃守に任じることを通知した命令書(これを宣旨といいますが)が飾られています。
 「人形町亀井堂」さんは、現在、修復工事中でしたので、お店の写真は以前撮影したものを載せました。

 c0187004_1062456.jpg 「人形町亀井堂」さんは、明治六年、神戸元町に創業した瓦せんべいの亀井堂総本店からのれん分けされた店ですので、瓦せんべいが名物です。
 また瓦せんべいの生地に刷毛のみで砂糖細工をほどこす伝統技法「刷毛引き」をした瓦せんべいも有名です。そして、人形焼は「アド街ック天国」でNo1と評価されたものです。
 
 ここでは、お店の人が、お茶で接待をしていただき、瓦せんべいと人形焼の試食もさせていただきました。
 瓦せんべいはカステラと同じ材料でつくられたものだそうで、カステラのような味わいがあり、何枚もたべられる美味しさです。
 写真は伝統技法「刷毛引き」が施された瓦せんべいです。
 ここでも、参加者の皆さんは、熱心にお買い物していました。
 お店の皆様、ご親切にありがとうございました。お茶も大変おいしかったです。

 この後、豆腐の「双葉」その隣の茶屋「森乃園」でも休憩とお買い物をしました。


【大川屋】 
c0187004_10122144.jpg さて、最後は、両国の「大川屋」さんです。
 「大川屋」さんは、旧吉良邸跡の本所松坂町公園の南側にあります。
意外と知られていない老舗です。
 「大川屋」さんは、明治2年に日本橋牡蠣殻町で創業し、その後、森下に移転し、戦後現在地にお店をだしました。創業以来140年以上経つ老舗です。
 一番の名物は、隅田川最中ですが、最近は「吉良まんじゅう」が人気です。
 この土地は、吉良様のお屋敷だったので、それにちなんで創作したものです。
 「吉良まんじゅう」は、きなこあんのまんじゅうです。きなこあんは珍しいと思います。

 c0187004_1065454.jpg 12日は、いつもお店にいる女将さんがお出かけとのことで、ご主人の大川朝生様(下記写真)にご対応いただきました。
  参加された皆さんは、「吉良まんじゅう」のほか「隅田川最中」も買われました。
 この時、4代目ご主人は、注文を聞かれた後、いきなり、お店の裏側の作業場のほうに行きました。
 何をされるのかとみていたら、「隅田川最中」を造り始めました。
 「大川屋」さんは手作りだとは聞いていましたが、本当に自店で手作りされるのを見て、参加者全員は驚くとともに大変喜んでいました。
 ご主人、お店での親切な対応と「隅田川最中」製造実演ありがとうございました。
[PR]
by wheatbaku | 2011-06-16 06:45 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
再出発が始まる
from 哲学はなぜ間違うのか
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam&#039;Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam&#039;Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam&#039;Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史