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尾形乾山の墓(上野散歩⑤ 大江戸散歩)
 尾形乾山(けんざん)は、有名な尾形光琳の弟です。
 その尾形乾山の墓と顕彰碑が寛永寺にあるので驚きました。
 今日は、尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 (けんざんしんせいせき)の紹介です。


【尾形乾山の略歴】 
 尾形乾山は、京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)尾形家の三男として生まれました。
 尾形光琳(こうりん)は彼の次兄です。
c0187004_19595933.jpg 有名な野々村仁清(ののむらにんせい)の影響を受け陶工になり、鳴滝に窯を築きました。この窯が京都の乾(いぬい)の方角にあたるため「乾山」と窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身の雅号に用いていました。
 その乾山は、京都で作陶活動をしていましたが、正徳・享保年間(1711~35)に、寛永寺の住職となった輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き陶器を作りました。
 その作品は「入谷乾山」と呼ばれました。
 以後、尾形乾山は江戸で過ごし、寛保3年(1743)に81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られました。
 しかし、月日の経過につれ、乾山の墓の存在が忘れ去られてしまいました。
 江戸時代後期になって、尾形光琳の作品に惚れ込んだ酒井抱一によって、乾山の墓が探り当てられ、文政6年(1823)に、顕彰碑である「乾山深省蹟」が善養寺に建てられました。
 なお、「深省」とは、乾山の別号だそうです。

【酒井抱一は姫路藩主の弟】 
 酒井抱一は江戸琳派の創始者と言われます。姫路藩主酒井忠以の弟という名門の出身です。
 抱一は、文化12年(1815)に光琳百回忌を開催し、根岸の寺院で「光琳遺墨展」を催したり、『光琳百図』を出版したりしています。また、文政2年(1819年)には光琳の墓碑を修築しました。
 そして、文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くに碑を建てたりするなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めたのでした。


【寛永寺に尾形乾山墓碑・顕彰碑がある理由】 
 乾山の墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨)内に現存し、東京都旧跡に指定されているそうです。
 善養寺の碑は、明治末の善養寺の移転の際に、当時鴬谷にあった国華倶楽部の庭へ移転し、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に移り、その後、西巣鴨の善養寺へと三たび移転を重ねたそうです。
 こうした経緯から墓石と顕彰碑が寛永寺に一時期置かれていたため、寛永寺根本中堂前の境内に、乾山の墓と乾山深省蹟を復元し建てたものです。昭和7年、有志により建立されたものです。



 
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by wheatbaku | 2011-07-29 12:25 | 大江戸散歩 | Trackback
虫塚(上野散歩④ 大江戸散歩)
 寛永寺の境内には、いろりいろな石碑があります。
 今日は、その石碑のうち虫塚を紹介します。
 虫塚というのは、虫の霊を慰めたもので、珍しいものだと思います。

【虫塚は、虫の慰霊碑】 
 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩の藩主であった増山正賢(ましやままさかた)が建立したものです。
c0187004_1014332.jpg 増山正賢は、絵が優れ多くの花鳥画を描きました。中でも虫を写生した図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』という本は、その精密さと華麗さによって大変有名でした。
 正賢は、図譜を描くために使った虫の死体を絹の小箱に大事にとっていたそうです。
 この塚は、写生に使った虫たちの死骸を埋めて霊をなぐさめるため、 文政4年(1812) に建てられたものです。
 増山正賢は、文人大名の一人で、雪斎と号して、清朝の画家沈南蘋(しん なんびん)に代表される南蘋派の写実的な画法に優れていました。
 また、大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍しました。
 碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わっていました。


【増山家は家綱生母の弟が藩祖】 
 増山正賢が生まれた増山家は、四代将軍徳川家綱の生母である「お楽の方(宝樹院)」の弟の増山正利が起こした家です。
 そこで、お楽の方の生涯を高柳金芳「徳川妻妾記」に基づいて書くと次のようです。
c0187004_10183116.jpg お楽の方は、下野国猿島郡鹿間村の農民の娘です。
 父は江戸に出て旗本の朝倉家に仕官し、主人に信頼され朝倉宗兵衛となのります。しかし、主君の金を使い込み江戸を追われ鹿麻村に戻り鳥を捕らえて生活していましたが、のち禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となってしまいます。
 母と娘は古河藩主永井尚政の屋敷で働かされましたが、後に母は女中頭となり、元永井家家臣の七沢清宗と再婚しました。七沢清宗は後に古着商となり、お楽の方もも母に従い同居していました。
 お楽の方が店の手伝いをしていたところ浅草参りから帰ってきた春日局の目にとまり、大奥に上がることになりました。
 お楽の方が、家光に気に入られて経緯については次のような説があります。
 お楽の方が、大奥の「呉服の間」だった頃、他の奥女中たちに故郷の麦搗き歌を歌っていたところ、家光が耳にして気に入りお楽は家光の側室となったということです。
 寛永18年(1641年)に家綱を産みます。
 このお楽の方の縁で、弟の増山正利は大名に取り立てられました。その子孫が伊勢国長島藩主の増山家です。

 虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にありましたが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転されたそうです。
 勧善院は、お楽の方(宝樹院)の霊廟の別当寺として創建されました。
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by wheatbaku | 2011-07-28 10:22 | 大江戸散歩 | Trackback
寛永寺根本中堂(上野散歩③ 大江戸散歩)
 今日は、寛永寺の本堂について書いていきます。
 
 寛永寺の本堂(根本中堂)は、現在は、常憲院霊廟の近くにあります。最寄り駅は上野駅でなく鶯谷駅で、北口からでも南口からでも徒歩約7分のところにあります。

【川越喜多院の本地堂を移築】 
 元々、寛永寺の旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにありましたが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失しました。
 そのため明治12年に、寛永寺の子院であった大慈院に、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築し、寛永寺の本堂としたものです。
 この建物は寛永15年(1638)の建造と言われています。喜多院でも、薬師様がお祀りされていたそうです。
c0187004_11502844.jpg  寛永寺の説明書によると、 根本中堂の開口・奥行ともに17.4メートル)あります。
 そして、前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝があります。
 周囲には勾欄付廻縁をめぐらしています。
 また、桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままで、屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木となっています。

【勅額「瑠璃殿」】 
 本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額です。c0187004_13414024.jpg 薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と呼ばれます。瑠璃というの、この薬師瑠璃光如来からとられた言葉です。
 この勅額は、元禄11年(1689)に建立された元の根本中堂に掲げられていたものですが、上野戦争の際に、奇跡的に事前に持ち出されていたものです。
  江戸では大火がしばしばおき、十大大火と呼ばれる大火がありました。その中に「勅額大火」と言う大火があります。「勅額大火」は、寛永寺の根本中堂に掲げられる勅額が江戸に到着した日におきたため、そう名付けられました。
 この勅額は「勅額大火」の由来となった勅額でもあります。


c0187004_1342269.jpg【ご本尊薬師三尊は秘仏】 
 根本中堂の内部は、もともとは、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられていて、須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置されているそうです。
 内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものですが、現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっているそうです。
 そして、内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されています。御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財に指定されています。
 本堂は、昨年1月から、法要のない日曜日・祝日には公開されているので、中をみることができます。
 

c0187004_13422463.jpg【慶喜謹慎の「葵の間」】 
 現在の寛永寺の根本中堂がある場所は、江戸時代には、大慈院という寛永寺の子院がありました。
 この大慈院は、鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が、新政府に対して恭順の意を表すために、謹慎していた場所です。
 本堂裏手にある書院には、水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間)が保存されています。しかし、残念ながら非公開です。
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by wheatbaku | 2011-07-27 13:44 | 大江戸散歩 | Trackback
綱吉霊廟 (上野散歩②  大江戸散歩)
 今日は、5代将軍綱吉霊廟の勅額門のご案内です。
 綱吉の法号は常憲院といいますので、綱吉の霊廟は常憲院霊廟とも言います。
 常憲院霊廟は、家綱の霊廟の近くにある寛永寺第3霊園の中にあります。

 綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄である4代将軍家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63才で没しました。。
c0187004_2053279.jpg 綱吉は、「生類憐みの令」を施行して「犬公方」として有名ですが、将軍就任早々は、「天和の治」と言われる善政を行なったことはあまり知られていません。
 また、綱吉は、元禄11年(1698)9月、寛永寺の根本中堂が建立しました。
 造営の奉行は柳沢吉保が行い、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門が担当し、二人が大尽になるきっかけとなりました。

 綱吉の霊廟は、歴代将軍の仲でもっとも整ったものの一つであったと言われています。
c0187004_11221150.jpg もとは本殿・拝殿・中門などの建物がならぶ豪華なものだったそうです。
 しかし、霊廟の一部が維新後に解体され、さらに大部分が第二次世界大戦で焼失してしまい、現在残っているのは、勅額門と水盤舎だけとなりました。
 この勅額門と水盤舎は重要文化財に指定されています。
 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺です。
 水盤舎は、勅額門のすぐ後ろにありますが、木の陰に隠れていて屋根しか見えません。
 写真を撮りましたがうまく撮れませんせんでした。上の写真は、徳川家墓所内にある位牌堂です。


 勅額門の奥の石垣の中に、5代将軍綱吉の墓所がありますが、一般公開されていませんので、拝観はできません。
c0187004_20544673.jpg 墓所には青銅製の唐門があり、その奥に綱吉の宝塔があり、宝塔は台座までいれて約3メートルある青銅製の立派な宝塔だそうです。
 さらに、常憲院霊廟には、8代将軍吉宗、13代将軍家定の宝塔があります。

 そして、家定と並んで天璋院篤姫の宝塔もあります。勅額門の脇には、天璋院篤姫についての説明板(上の写真)がありました。天璋院の宝塔の脇には、天璋院の好物出会った枇杷の木が植えてあるそうです。
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by wheatbaku | 2011-07-26 21:02 | 大江戸散歩 | Trackback
家綱公霊廟(上野散歩①  大江戸散歩)
 今日から、上野の史跡の案内をしていきます。
 今日は、4代将軍家綱の霊廟の紹介です。

 国立博物館の裏手は、 現在、寛永寺の霊園となっています。JRの上野駅からだとちょっと距離がありますが、JRの鴬谷駅の南側に位置しますので、鴬谷駅南口からだとすぐ近くです。
 c0187004_15382586.jpg 寛永寺霊園は、第一霊園から第三霊園まであります。
 この寛永寺第一霊園の場所に、江戸時代には、3代将軍家光の霊廟と4代将軍家綱の霊廟がありました。
 もともと、将軍家の菩提寺は増上寺でしたが、3代将軍家光が寛永寺の天海大僧正に深く帰依し、家光の葬儀を寛永寺で行い、日光に埋葬するよう遺言したことから、寛永寺も将軍家の菩提寺の役割を果たすようになりました。
 家光の霊廟は慶安5年(1652)4月2日に完成しました。しかし、享保5年(1720)に焼失してしまいました。
 以前は、「大猷院霊廟跡」の碑が、寛永寺第一霊園内にあったようですが、第一霊園の受付の人に尋ねましたが、不明とのことでした。なお、「大猷院」とは、家光の法号です。
 
 4代将軍家綱は、3代将軍家光の長男です。c0187004_15415523.jpg 慶安4年(1651)4月20日に、家光が死んだため、わずか10才で将軍の座につきました。
 江戸幕府も、開かれてから、約50年たっていますので、体制がしっかりし、補佐役もいたため、10歳の将軍でも磐石でした。
 しかし、家綱は、病弱であったこともあり、延宝8年(1680)5月8日に 39才の若さでなくなりましした。 そして、家綱も寛永寺に埋葬されました。
 家綱の法号を厳有院といいます。そのため、家綱の霊廟は「厳有院霊廟」とも言います。


 家綱の霊廟の一部は維新後に解体され、大部分が大第二次世界大戦で焼失しました。
c0187004_15371813.jpg その中で、勅額門と水盤舎だけが、これらの災を免れました。
 勅額門の形式は四脚門、切妻造で、前後軒唐破風付、銅瓦葺で重要文化財に指定されています。
 この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられています。
 直上の写真は、墓地側から写した勅額門です。龍の彫刻がされていました。

 
 一方、水盤舎は、将軍家墓所の入口にありますが、中に入ることができません。
c0187004_1536317.jpg 一般の方の墓地の中から、遠く眺めるだけです。
 遠くから眺めるににしても、銅葺き屋根で、風格のある建物であることがわかります。
 この写真は、望遠で撮影しました。
 この水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものです。
 水盤舎の奥の石垣の中に、家綱公の宝塔があるそうです。
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by wheatbaku | 2011-07-25 15:28 | 大江戸散歩 | Trackback
上野散歩に行ってきました
  昨日23日(土曜日)は毎日文化センターさんのカルチャー講座「お江ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと上野を歩いてきました。

 鴬谷駅に集合していただき、徳川家の霊廟、寛永寺本堂、東照宮、清水観音堂、彰義隊戦死之墓、西郷隆盛銅像などを歩いてきました。

c0187004_14271411.jpg 西洋美術館、東京文化会館、国立博物館、科学博物館、噴水広場(整備中)、東京都美術館(修復工事中)などの上野公園の中心部の見どころをすべてカットして、北から西を通って南まで上野公園の周辺部をあるくコースでした。

 実は、このコースに史跡・文化財が多くあるのです。
 家綱公霊廟勅額門、綱吉公霊廟勅額門、東照宮、清水観音堂など、江戸時代に建立されていながら奇跡的に上野戦争、関東大震災、戦災などの災害をのがれた建物があるのです。(上の写真は、家綱公霊廟の勅額門です。)
 
 昨日は、曇り空で気温もあまり高くありませんでした。熱中症の心配をする必要もなく、今の時季としては、歩きやすい天候でした。
c0187004_14284663.jpg  受講生の皆さんは、涼しくてよかったと喜んでいました。また、もう講座が3回目ですので、お互い同士が知り合いとなっていて、途中の会話も盛り上がっていました。
 歴史好きな皆さんなので、説明も熱心に聞いていただいて、楽しく案内させていただきました。受講生のみなさんありがとうございました。(上の写真は寛永寺の根本中堂です。)

c0187004_18415625.jpg 上野公園では、徳川家霊廟や寛永寺本堂あたりは、上野駅から離れていることもあり人数があまりいませんでした。
 が、上野動物園表門周辺は、子供たちを連れた家族づれの人たちが大勢いて、大変にぎやかでした。(左の写真は清水観音堂です。)



c0187004_1428211.jpg 東照宮から西郷さんの銅像までは、上野の観光名所でもありますので、一般の観光客も大勢いました。その中で、私の説明を熱心に聞いていただいたり、質問をしたりしてくれる人もいました。


 今回、久しぶりに上野の案内をしました。
 下調べは一生懸命しましたが、調べれば調べるほど、さらに新しい疑問が出てくるという状況で、上野は奥が深いことを改め感じました。
 しかし、事前調査をする中で、自分としては新しい発見もかなりあって、準備段階から楽しい上野散歩でした。
 もちろん、案内していても熱心に聞いていただける受講生の皆さんとの散歩でしたので楽しい散歩になりました。
 
 明日から、詳しく、上野の史跡や名所の案内をしていきます。
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by wheatbaku | 2011-07-24 14:37 | 大江戸散歩 | Trackback
上野戦争(寛永寺の歴史② 上野散歩)
 今日は、寛永寺が伽藍の大部分が焼失することとなった上野戦争について簡単に書きます。  

 寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪もあり、寺領は大名並みの約1万2千石ありました。
寛永寺の堂塔は、現在の上野公園の中央部分の噴水広場に あたる 竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂がありました。
c0187004_16125842.jpg  また、現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。
 さらに清水観音堂、不忍池弁天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が立ち並んでいました。
 そして、、子院も36坊をありました。
 まさに壮大な堂塔伽藍であったわけです。

 しかし、慶応4年に官軍と彰義隊が戦った上野戦争では、寛永寺に彰義隊がたてこもり、境内が戦場となったため、伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。
 残った建物は、清水観音堂(上の写真)と東照宮ぐらいのものでした。

 上野戦争は次のような経緯で勃発しました。
 15代将軍徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った後、恭順の意を表し、寛永寺に蟄居しました。
 しかし、一部の幕臣は、慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として寛永寺にたてこもりました。
c0187004_1610491.jpg これに対して、慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の官軍は上野を総攻撃し、彰義隊は同夕刻敗走しました。これが上野戦争です。
 彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって山王台で茶毘に付されました。
 彰義隊の墓は、隊士を荼毘に付した場所に建てられています。


c0187004_16102597.jpg  正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものです。
 よく見ると、「彰義隊戦死之墓」とある左脇に「回向主沙門松国」と施主名が刻まれています。
 これは、墓石を建てた寒松院と護国院を略した言葉だそうです。
 回向主も、明記できなかったということだそうです。

 大墓石は、明治14年(1881)12月に 元彰義隊士 小川興郷(椙太)らによって 建立されたものです。
 彰義隊は、明治14年になっても明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字がなく、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字が大きく刻まれています。
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by wheatbaku | 2011-07-21 16:30 | 大江戸散歩 | Trackback
寛永寺の歴史
 今日からは、上野周辺の記事を書いていきます。
 現在の上野公園一体は、江戸時代は、寛永寺の境内でした。
 寛永寺の境内は30万5千坪もあったそうですので、寛永寺の境内だった場所の一部がう、現在の上野公園であると言えます。
 今日は、寛永寺の歴史について書いていきます。

【天海大僧正が建立】   c0187004_124284.jpg  
 右写真は、現在の寛永寺の本堂ですが、寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建されました。
 天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。
 天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。
 そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えました。
 当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎、弘前藩主津軽信牧、越後村上藩主堀直寄の3大名の下敷がありましたが、それらを収公してお寺の敷地としました。

c0187004_120757.jpg【本坊建立】  
 秀忠が隠居した後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立されました。
 寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。
 寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館(上の写真)が建っている場所にありました。


【比叡山延暦寺が手本】 
  天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立しました。
 寛永寺は江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立されました。
 これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。
c0187004_1203717.jpg そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。
 寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。
 そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。
 年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺と建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。
 また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。
 さらに、つぎつぎと建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。
 代表的なものは、琵琶湖に模した不忍池であり、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。
 そして、清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。
 その後、寛永4年(1627年)には東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。
 そして、寺の中心になる根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉の時代です。
 根本中堂が建っていたい場所は、現在、噴水広場(上の写真)になっています。
 
 
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by wheatbaku | 2011-07-20 12:35 | Trackback
麟祥院 (大奥ゆかりの寺)
 今日は、大奥ゆかりの寺として「麟祥院」を紹介します。


 麟祥院は、春日局が開いたお寺であり、春日局の菩提寺でもあります。
 東京メトロ「湯島」駅3番出口から 徒歩6分、又、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目」駅2番出口から徒歩7分の場所ににあります。
 拝観は、午後3時までですので、ご注意ください。

 麟祥院は臨済宗妙心寺派のお寺です。
 寛永元年に創建されました。
 境内の周囲に枳殻の木を植えていたので、別名「枳殻(からたちでら)」とも呼ばれました。

【麟祥院は春日局の法号】  
 開基「春日局」は徳川三代将軍家光の乳母として知られています。
c0187004_1145212.jpg 春日局は、幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ち、将軍家光から本郷湯島の土地を拝領しました。そして寛永元年(1624または寛永2年)に創建され、お寺の名前は「報恩山天沢寺」と名づけられました。
 寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
 寛永11年(1634)、天沢寺の渭川和尚から「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」という法号が贈られました。
 これを喜んだ家光は、春日局んp法号をもって寺号とするように命じたため、春日局が死んだ後。「天沢山麟祥院」と号するようになったと言われています。

【春日局の略歴】 
 春日局の生涯を簡単に紹介します。
 春日局は名を福といいました。
 春日局という名前は、寛永6年(1629年)に大御所秀忠の内意を受け上洛した際に、御所に参内して天盃を賜り春日局の号を許されたものです。
c0187004_11473578.jpg
 春日局の父は明智光秀の家老であった斎藤利三(としみつ)です。
 明智光秀が本能寺の変を起こしたため、父は首を斬られ、お福も苦労します。
 成人して、母方の一族稲葉重通(しげみち)の養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。
 慶長9年(1604)家光が生まれ、乳母を捜していたことから、京都所司代板倉勝重の推挙により乳母となります。
 家光は病弱であったり内向的であったため、弟忠長が将軍の後継者になりそう情勢になったりする中、必死になって家光を守ります。
 忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、大御所家康に訴えました。
 これより家光は後継者になりました。また家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願いました。
 こうしたことから、軍家光に対しても強い影響力をもち、お江がなくなった後、春日局は大奥を統率し、絶大な権勢を振いました。

c0187004_11455340.jpg 【墓石には穴が貫通】 
 こうした春日局は寛永20年(1643年)9月14日になくなりました。64歳でした。
 そして、麟祥院に葬られました。
 春日局の墓石に四方から穴が貫通している大変めずらしい形をしています。
 これは局が「黄泉(よみ)からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言によってこのような形に建立されたものだそうです。
  春日局の家紋は隅切角に三(すみきりかくにさん)という家紋です。

 春日局は、稲葉家の出身ですが、稲葉家も繁栄します。
 長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主となり、その子孫からは老中が何人も輩出し、幕末は、淀藩の藩主として明治を迎えました。




c0187004_11461136.jpg 文京区には春日町という町名がありますが、これは春日局に由来するものです。また、麟祥院の前の通りを通称春日通りとも言います。

  麟祥院は、東洋大学の前身である哲学館創立の場所でもあります。
  そのため、山門脇に、東洋大学発祥の地の碑が建っています。
  哲学館は明治20年に井上円了(えんりょう)によって創設されました。
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by wheatbaku | 2011-07-19 11:58 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
上野風月堂 (江戸からの和菓子)
 今日は、上野の老舗、ゴーフルで非常に有名な「上野風月堂」さんのご紹介です。
 上野風月堂さんは、JR御徒町駅北口から徒歩2分、東京メトロ「上野広小路」駅A4出口の目の前で、上野松坂屋の前にあります。

【由緒ある老舗】 
 「風月堂」さんといえば、ゴーフルで大変有名です。
 この風月堂という名前は、寛政の改革を実行した松平定信が命名したのだそうです。
c0187004_1112744.jpg  そして、風月堂の文字をかいた暖簾は天保の改革を行った水野忠邦からいただいたそうです。
 こうした輝かしい歴史をもっている風月堂は、1751年(宝暦元年)に創業されました。
 創業当時は、「大坂屋」と名乗っていました。
 創業者は大住喜右衛門といい、大阪の出身でした。
 
【初代の養女は、水野忠邦の生母】 
 初代喜右衛門には子供がなく、恂(じゅん)という女を養女としました。
 この恂が、唐津藩主水野家に奉公に上がったところ、当主忠光の目にとまり、側室となり、後の老中水野忠邦を生みます。
 その後、忠邦が跡継ぎとなることが決まったために、宿下がりとなり、初代喜右衛門の家に戻り、婿として二代目喜右衛門を迎えました。
 水野忠邦は、生母の新しい夫、二代目喜右衛門を引き立てお出入りの菓子商人として厚く遇しました。
 そこから二代目喜右衛門は、松平家の御用菓子商人ともなりました。

【風月堂の命名は松平定信】  
c0187004_1104922.jpg  二代目喜右衛門は松平定信に気に入られ、松平定信から屋号として「風月堂清白」の五文字を賜りました。
 中国の詩人、蘇東坡(そとうば)の「前赤壁ノ賦」の一節「風清ク月白シ」から採った言葉だそうです。
 そして、「風月」は松平定信の雅号でもありました。
 喜んだ二代目喜右衛門がこれを水野忠邦に報告すると、水野忠邦は巨大な白布に「風月堂 」と当時の名書家市川米庵(いちかわべいあん)に揮毫させた暖簾をくれたそうです。

 この「風月堂」の暖簾の文字は現在も使われています。上野風月堂の正面入口の脇に、暖簾として飾れていました。(写真)
 風月堂の「風」の字が、一に白となっているのは、米庵が「虫」を嫌い、「虫」と同じ意を持つ「一日」と書いたところ、筆の勢いで「一白」となったからだそうです。
 また、商標の「白扇と三日月」は風を表現しているそうです。

【風月堂の暖簾を受け継ぐ上野風月堂】 
 上野風月堂さんは、風月堂五代目大住喜右衛門の息子、大住省三郎が創設したお店です。
c0187004_1123288.jpg 従って、総本店からすると分店なのですが、総本店は跡継ぎの夭折が続き、残念なことに昭和31年に休業してしまいました。
 そのため、現在、初代大住喜右衛門からの血を継承するのは「上野風月堂」さんのみとなってしまっています。

 風月堂とういお店は、日本各地にあります。
 その中で、銀座風月堂、東京風月堂、神戸風月堂が特に有名です。
 しかし、これらの風月堂のうち、上野風月堂と同じように、江戸時代からの暖簾と伝統精神を受け継いでいるのは上野風月堂と神戸風月堂だけだそうです。

c0187004_1125584.jpg【ゴーフルは西洋せんべい】   風月堂といえば、ゴーフルといわれるぐらい有名です。
 ゴーフルは西洋菓子と思われていますが、洋菓子の材料を取り入れた和菓子で西洋せんべいともいうべきものだそうです。
 小麦粉、砂糖、牛乳、バター等の材料を和菓子のせんべいを焼く技術を活かして 直径15cm、厚さ1mm程の円形にさっくりと 焼いたもの二枚で、薄く延ばしたクリームを挟んでつくるそうです。
 ゴーフルという言葉はフランス語で、英語のワッフルと同じで、「蜂の巣」を意味するそうです。

 今回、上野賦月堂さんの石本取締役営業部長から提供いただいた「『ふうげつ』物語」という本を参考に記事を書かせていただきました。
 また、店頭では、芹田店長さんに親切にご対応いただきました。
 石本部長さん、芹田店長さん、大変お世話になりました。ありがとうございました。

 赤印が上野風月堂さんです。

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by wheatbaku | 2011-07-16 14:37 | 江戸からの和菓子 | Trackback
  

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