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池田屋事件②(京都幕末史跡めぐり)
今日は、池田屋事件の2回目です。
 
 会津藩などと祇園会所で待ち合わせて市中探索を行う予定でしたが、決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。

c0187004_1362481.jpg この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。
 このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。
 この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。
 近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。

 近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、三条小橋(下写真)の西側にある池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。
 
池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。
 近藤は、玄関先と裏側に数人づづ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。
c0187004_1365479.jpg 池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。
 近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。
近藤ちちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。
 戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。
 戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。
 さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。
  2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。
 正確な数はわかりませんが、近藤勇の手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。
 死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)らがおり、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。

 この戦いに勝った、新撰組は、会津藩や幕府から多くの恩賞を受けるとともに、一躍全国にその名を知られようになりました。

 次は、江戸検1級仲間のOさんからいただいた池田屋事件についてのコメントです。Oさんいつもありがとうございます。
「池田屋に最初に突入した五人(近藤,永倉,沖田,藤堂,周平)ですが,近藤勇は天井の低い2階での不利を悟り,沖田一人にまか せ,自身は1階に降りて戦いました.二階では沖田の剣が冴え渡り,次々と敵を倒しましたが,突然に喀血して倒した敵の体の上に昏倒 しました。
 敵はそれを見ても沖田の強さに手出しが出来ず,逃げることばかりを考えていたといいます。
 一般には,結核による喀血といわれますが,その後4年ほど生きていて活躍しているので,その時は突発性の緊張から来る異変だったように思われます。
 また,その時負傷した永倉・藤堂・沖田らは,祇園会所に運ばれ手当を受けたといわれます。
 この祇園会所は現在は八坂神社石段下交差点かどのローソンになっている辺りです。
 祇園祭りの宵山で多くの人で賑わっている中,戸板に乗せられた隊士を京童が恐怖の目で追っている様子が目に浮かびますね。」
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by wheatbaku | 2011-08-30 12:58 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
池田屋事件①(京都幕末史跡めぐり)
  今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。
  まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にありました。三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。
c0187004_122382.jpg その三条小橋から メートル程の所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。
 ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。
 現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。下記の地図をご覧ください。
 池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。
 この池田屋で、元治元年6月5日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。
 この池田屋事件は、有名ですので、数回に分けて書いていきます。
 今日は、池田屋事件が起きる直前までの情況について書いていきます。
 ただし、池田屋事件は非常に有名な事件の割には、本により書かれていることが異なっていたりします。
 以下のことと違う説もあると思いますが、その点ご容赦ください。コメント欄にコメントしていただいても結構です。

 文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派のや長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。
 尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。

c0187004_123083.jpg 6月5日、新撰組は、四条小橋西側で道具商を経営する枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。
 喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。喜右衛門は、近江大津の出身で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅真右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えました。
 養子になる前から尊王攘夷派の志士と付き合いがあり、店を開いてからは枡喜は多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。
 四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。
 「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)
 そして、壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。古高俊太郎は近江の出身で枡屋の養子になり、攘夷運動を行っていました。
 が、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。
 その内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。

 壬生の前川家には、現在も古高俊太郎の拷問をした土蔵が今も残っています。
 驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。
 その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。
 
 この後の展開は明日に書きます。

赤印が池田屋事件の跡

緑印が古高俊太郎邸跡の石碑

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by wheatbaku | 2011-08-29 12:51 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
高山彦九郎(京都幕末史跡めぐり)
 京都三条大橋の東たもと、京阪電鉄の「三条駅」の地上に「高山彦九郎」の銅像があります。
 高山彦九郎は幕末でなく、寛政期に活躍した人物ですが、銅像が有名ですので、今日は「高山彦九郎」について書いていきます。

【京都御所を遥拝する高山彦九郎】 
 三条大橋の銅像は、高山彦九郎が御所を遥拝している姿を模したものです。
 最初は、昭和3年に建てられましたが、戦時中、供出され、現在の銅像は昭和36年に建てられたものです。。
c0187004_11203725.jpg 想像していた以上に大きな銅像でびっくりしました。一緒に写っている人物と比較してみると大きさがよくわかると思います。

 高山彦九郎は、蒲生君平(がもうくんぺい)、林子平(しへい)とともに寛政の三奇人といわれます。
高山彦九郎は、上野)国新田郡(群馬県太田市)に生まれました。
 名は正之、彦九郎は通称です。
 13歳のころ『太平記』を読んで、生地が新田氏ゆかりの地であることもあって勤王の志をたてたといわれています。
 18歳のとき京都に出て学問を修め、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁したそうです。
 その後も、諸国を歴訪しました。
 寛政元年(1789)江戸に行き、翌年には水戸から奥州を経て松前にまで行きました。
 そして、九州を遍歴中、寛政5年、久留米で突然切腹して死んでしまいました。自刃の理由ははっきりしないそうです。

【東海道西の起点 三条大橋】 
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 上の写真は、南西から撮った三条大橋です。

c0187004_11215763.jpg 三条大橋は、東海道の西の起点でもあります。
 本格的な橋として架けられたのは、豊臣秀吉の時代の天正18年(1590)だそうです。
 江戸時代になると、幕府が管理する公儀橋となり、流失した際には、幕府が修復しました。
 現在の橋は、昭和25年に改造されたもので長さが74メートルあるそうです。
 橋の西のたもとには、弥次さん喜多さんの銅像がありました。


c0187004_11214391.jpg また、 三条大橋の儀宝珠は、天正のものと昭和のものが混在しているそうです。
 三条大橋の南側で西から2番目の儀宝珠には刀傷があります。
 説明板によると、この刀傷は池田屋事件の際につけられたものといわれているそうです。
 はっきりとわかるものでした。

 池田屋事件については、来週、詳しく書きます。




 赤印が高山彦九郎の銅像、青印が弥次喜多像です。

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by wheatbaku | 2011-08-26 11:26 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
吉村寅太郎寓居跡(京都幕末史跡めぐり)
 昨日の武市半平太の寓居跡の南隣に、「吉村寅太郎寓居跡」の碑があります。
 右下の写真を見ていただければすぐ隣ということがわかると思います。
 左側が昨日紹介した「武市瑞山先生寓居之跡」碑です。そのすぐ隣にある碑は「ちりめん洋服発祥の地」の碑です。その右の竹の植え込みの中に「吉村寅太郎寓居跡」碑があります。

【天誅組を組織した吉村寅太郎】  
 吉村寅太郎は、土佐国高岡郡津野山郷芳生野村(よしうのむら、現高知県津野町)の庄屋の長男として生まれました。
c0187004_17342026.jpg  若い頃から各地の庄屋を歴任し、安政4年(1857)には津野山郷檮原(ゆすはら)村の大庄屋になっています。
 この間、安積艮斎(あさかごんさい)の塾頭であった間崎哲馬(まさきてつま)らに師事し、その後文久元年(1861)武市半平太が結成した土佐勤王党に参加しました。
 文久2年(1862)には、武市半平太の密命を帯びて長州藩の久坂玄瑞を訪ねています。そして、九州で伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰郷し、情勢の切迫に激して、3月6日に脱藩してしまいます。 同じ時期に、坂本龍馬も脱藩しています。
 そして、同年4月におきた寺田屋事件に関係し捕らえられ土佐に送還されて牢にいれられます。
 しかし、翌文久3年2月出獄し、再度上京します。この2回目に上京した際に、木屋町に住んだようです。
 文久3年8月、大和行幸の勅掟が発せらたのを機に、前侍従中山忠光を擁して、松本謙三郎らともにと大和に挙兵し、五条代官所を襲撃しました。これが「天誅組の変」です。
 しかし、8月18日の政変で、朝廷から尊王攘夷派は一気に駆逐され、天誅組も諸藩から攻められ苦しめられました。
 そして、吉村寅太郎は9月27日鷲家口(わしかぐち)の戦いで戦死しました。年は27歳でした。

【土佐四天王の一人】  
 江戸検定1級と京都検定1級合格者のOさんから、吉村寅太郎について次のようなコメントをもらいました。
c0187004_17344541.jpg  「吉村寅太郎は,京都では武市半平太の住居である丹虎(現在の金茶寮)の隣に寓居し,武市や中山忠光卿らと義挙の画策をしていました.しかし,八月十八日の政変によってむなしく失敗し,高取城攻略の折り,身方の銃弾で負傷,
 その後,奮戦むなしくかの地で没します.当地ではその後住民が「残念大将(敵の銃弾にあたって,最後の言葉が残念!だった,という)」といって大切に祀りました.首は京都に運ばれ,洛西の仕置場(現在の円町の北,二条城の西)に葬られますが,明治になり,弟の狂次郎が掘り出し,霊山護国神社に改葬しました。荒涼とした仕置場では,瓦に名前
が書いてあり,その下に首が塩着けにされて,まるで生けるがごときであったようです。
掘り出しに当たっては,それより先に同じく没した那須信吾の首を甥の田中光顕が掘り出しました。
 嵯峨野の落柿舎の向かい側に,土佐四天王として,武市瑞山,坂本龍馬,中岡慎太郎,吉村寅太郎が並んだ銅像があります。
正に,吉村寅太郎は平野国臣,有馬新七らとともに維新の三快男児です」
 Oさん ありがとうござます。

【桜井寺山門】  
c0187004_1314167.jpg ところで、天誅組が、本陣としたのが、現在の奈良県五条市にある桜井寺というお寺です。この桜井寺の山門が、埼玉県所沢市の狭山不動寺にあります。
 この狭山不動寺は、堤康次郎が建立したお寺です。、戦災を免れた増上寺の台徳院霊廟の勅額門などが保存されていることで有名なお寺です。
 この不動寺の裏門として、桜井門が置かれています。
 そして、その門には、「天誅組本陣」と書かれた札が現在も掲げられています。
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by wheatbaku | 2011-08-25 13:10 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
武市半平太寓居跡(京都幕末史跡めぐり)
 京都幕末史跡めぐり、今日は「武市半平太寓居跡」です。  
 木屋町通りを南に下り姉小路通りの一本南側の通りとの交叉点そばに料亭「金茶寮」があります。
 その入口に「武市瑞山先生寓居之跡」の碑がありました。
 半平太は通称で、瑞山は雅号です。瑞山という号は、久坂玄瑞の一字をとったとも、万葉集の瑞山(みずやま)からとったという説もありますが、文久2年に平井収二郎の意見を取り入れて瑞穂の一字を借りたものという説もあります。
 「金茶寮」には「武市半平太ゆかりの部屋」が現存しているそうです。

【武市半平太】 
c0187004_1051061.jpg 武市半平太は、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で大森南朋が好演したので、覚えている人も多いと思います。
 武市半平太は京都では、他藩応接役として、尊王攘夷派の公卿や浪士と交流しました。
 その際の隠れ家として文久2年(1862)閏8月から木屋町に住んでいました。。

 武市半平太は、文政12年(1829)生まれました。龍馬より6歳年長です。
 武市家はもと郷士ですが長年の御用人勤務が認められて、半平太の祖父の代に白札に昇格しました。
  武市半平太は9歳から高知城下に出て学門と剣術を学び、安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門しました。最初は土佐藩邸から通いましたが、後に師匠のもとに寄宿しました。安政4年には免許皆伝となり、士学館の塾頭となりました。半平太が塾頭となってからは放蕩無頼であった士学館の塾風が改まったといわれています。
 文久元年(1861)8月には江戸で土佐勤王党を結成し、土佐に帰って同志を募り最終的には192人の参加者になりました。

 【絶頂の京都】 
 文久2年4月には参政吉田東洋を暗殺して公武合体の藩論を変革し、藩主豊範を擁して上洛、他藩応接役となって活躍しました。 その活躍のもととなったのが、木屋町の住まいです。
c0187004_10512577.jpg 文久2年6月、吉田東洋暗殺のために延期していた山内豊範の参勤交代に出発しました。途中、麻疹の影響で大坂で約一ヵ月の逗留を余儀なくされた後、一行は、8月25日、京都河原町の土佐藩邸に入りました。
 そして、閏8月に武市半平太が他藩応接役に任じられました。この時同時に、尊攘派の小南五郎右衛門・平井収二郎なども他藩応接役に任じられています。
 武市半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構えました。
 
 武市半平太は長州の久坂玄瑞らと交流しつつ、三条実美や姉小路公知らの尊攘派公卿とも交際を深め、幕府に対して攘夷を督促する勅使を江戸に派遣するための朝廷工作を行いました。
 これらの活動の結果、10月に幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使三条実美、副使姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられました。
 そして、武市半平太は公家の家司である雑掌として姉小路公知に随行し江戸へくだりました。
 江戸では将軍徳川家茂にも拝謁し、幕府側から饗応も受けました。

 12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、上士格の留守居組へ昇進します。 さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となりました。京都留守居役は、江戸留守居役とならぶ出先機関のトップで高禄の人物が勤めてポストです。臨時とはいえその留守居役に任ぜられることは、土佐藩において前例の無い事でした。
 この頃が彼にとっても、土佐勤王党にとっても絶好調の時期でした。
 しかし、翌文久3年8月の京都政変後、山内容堂は土佐勤王党弾圧に踏み切り、武市半平太も同志とともに捕えられました。
 そして、入獄1年9カ月の慶応元年(1865)閏(うるう)5月11日、半平太は切腹を命ぜられました。 39歳でした。
 
 赤印が武市半平太の寓居跡です。

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by wheatbaku | 2011-08-24 10:59 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
佐久間象山遭難碑と大村益次郎遭難碑(京都幕末史跡めぐり)
 旅館「幾松」の向かい側、高瀬川の西岸に、「佐久間象山遭難碑」と「大村益次郎遭難碑」が並んで建っていました。

【佐久間象山遭難碑】 
c0187004_8583710.jpg 佐久間象山は、信州松代藩藩士で名は啓(ひらき)といい、象山は号です。
 一般には「しょうざん」といいいますが、長野では「ぞうざん」と呼ばれることが多いそうです。
 松代藩主真田幸貫が老中海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢され、海外事情を研究し、弘化元年(1844)34歳のときにオランダ語を学び始め、嘉永4(1851)には江戸で塾を開き、砲術・兵学を教えました。
 佐久間象山の教え子には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らの有名人がいます。
 嘉永(1853)、ペリー来航により藩軍議役に任ぜられた佐久間象山は、老中阿部正弘に「急務十条」を提出する一方、弟子の吉田松陰に外国行きを勧めました。松陰の海外密航は失敗し、象山もこれに連座して、以後9年間、松代に蟄居させられました。
 蟄居中、西洋研究に没頭し、攘夷論から和親開国論に転じ、そのための国内政治体制として公武合体を唱えるようになりました。
c0187004_859579.jpg 文久2年(1862)に蟄居を解かれ、元治元年(1864)幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国の考えを要人に具申してまわりましたが、尊王攘夷派の怒りを買い、文久2年7月11日に斬殺されてしまいました。
 以下は、江戸検定1級合格者でありさらに京都検定1級に今年合格したOさんの象山暗殺についてのコメントです。
 「佐久間象山の殺害は,元治元年7月11日の今で言う午後2時30分ごろでした.幕府に海軍御備向御用雇を命じられて,この年の3月に入京し,木屋町通り御池下がるの大坂屋に仮寓していました.
 一般に象山は木屋町通りを,洋馬にまたがり洋服を着て通行中に遭難したとされていますが,襲われたのは三条堤の上でのことのようです.そこで斬りつけられ,馬を駆って木屋町通りに逃げ込んだようです。
 犯人は河上彦斎ともう一人,これは因州の南長次郎か前田伊右衛門といわれています。
 罪状は三条大橋に掲げられ,理由は『開港交易を朝廷や諸大名に進言し,さらに不測の事態に備え,天皇を彦根に動座させることをたくらんだから』とありました。」
 Oさん、コメントありがとうございました。京都通としてのコメントこれからもよろしくお願いします。

【大村益次郎遭難碑】 
 佐久間象山遭難碑の南隣が大村益次郎遭難碑です。
c0187004_859128.jpg 大村益次郎は長州の洋学者で、我が国の近代的軍制の創設者です。
 元々は緒方洪庵やシーボルトのもとで学んだ医者で村田蔵六と呼ばれていましたが、 第2次長州征伐以降は、長州藩の軍略家としての能力を発揮します。

 大村益次郎の生涯は、このブログでも、 「大村益次郎」として既に4回にわたって書いていますので、詳しい生涯はそちらをお読みください。

 上野で彰義隊を敗北させ、東北および函館の戊辰戦争を江戸にいて指揮し勝利に導いた大村益次郎は、明治2年に兵部大輔(ひょうぶたいふ)となりました。
 そして、明治新政府で国民皆兵論をとなえ、その実現をめざしました。
 しかし、それは、士族の特権を奪うもので士族の反感を買いました。
 そうした中で、大村益次郎は明治2年7月に京阪地方に出張しました。
 その出張中の9月4日、投宿中の木屋町の旅館で、同じ長州の不平分子(団伸二郎といわれています)らに襲撃されました。
c0187004_90193.jpg  9月4日の午後6時ごろ、知人と酒を飲んでいたところ訪ねてきた男は応対にでた者を斬り、2階にいた大村益次郎を襲撃しました。
 初太刀は浅かったのですが、次の打ち込みで小村益次郎は右足のひざに重傷を負いました。
 そして、大村益次郎は、灯りが消えた闇を利用し浴室に隠れ命は助かりました。
 しかし、一命は取り止めたものの傷は深く、大阪の病院に移り、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けました。右足を切断しなくてはならないほどの重傷でしたが、手術後容態は一時回復ました。
 しかし、襲撃された2ヵ月後の11月5日に、容態が悪化しついになくなってしまいました。46歳でした。
 
 この大村益次郎の看護には、シーボルトの娘であり、大村益次郎との交際説もある楠本イネがその娘高子とともにあたりました。

 ※上の佐久間象山と大村益次郎の写真は国立国会図書館所蔵のものです。

 赤印が「佐久間象山遭難碑・大村益次郎遭難碑」です。碑は別ですが隣り合わせに建てられています。

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by wheatbaku | 2011-08-23 09:36 | 京都幕末史跡めぐり | Trackback
桂小五郎・幾松寓居跡(京都幕末史跡めぐり)
 土曜日から日曜日にかけて、所要があり京都に行ってきました。
 土曜日は所要に一日時間を割きましたが、日曜日は時間が取れましたので、半日、高瀬川沿いと壬生の幕末史跡を観ることができました。
 今日から、しばらく、京都における幕末史跡の紹介をしていきます。

 幕末史跡めぐりは、地下鉄東西線の「京都市役所前」をスタートし、御池通りから三条を過ぎ四条河原町まで高瀬川沿いに歩きました。そして、その後、壬生に移動し、壬生寺をはじめ、新撰組屯所であった前川家・八木家を観てきました。
 今日は、長州藩邸跡と桂小五郎・幾松寓居跡を紹介します。

【「長州屋敷跡」碑】 
c0187004_1093091.jpg  長州藩邸跡は、京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅の上にあるホテルオークラの場所にありました。
 「長州屋敷跡」碑は、ホテルオークラの南側の空き地に建っています。
 説明によれば、藩邸は初め南北2箇所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70メートル)、南側屋敷は表口30間(約54メートル)あったそうです。
 元治元年(1864)の蛤御門の変の際には、長州藩が自ら藩邸に火をつけたそうです。

【「桂小五郎像】 
 ホテルオークラの西北部分に桂小五郎の銅像が設置されています。
c0187004_101089.jpg  桂小五郎は、維新三傑の一人木戸孝允です。桂小五郎は、長州藩医の和田昌景の長男として生まれましたが、7歳の時に隣家の桂家の養子となり桂小五郎と名のりました。
 蛤御門の変の頃、桂小五郎は京都におり尊王攘夷運動に奔走していました。
 有名な池田屋事件では、会合のメンバーでしたが集合時刻より早く行きすぎたため、一旦外出したために難を逃れています。
 桂小五郎は、8・18政変後の長州藩の京都進軍には反対していたといわれますが、強硬派の意見が通り、蛤御門の変で長州藩は敗北し、桂小五郎も京都および出石で潜伏せざるをえなくなりました。

【「桂小五郎・幾松寓居跡」碑】 
 ホテルオオクラの東側の高瀬川沿いに、「幾松」という旅館があります。
c0187004_10103053.jpg  ここが、桂小五郎と幾松がすんでいた場所です。
 幾松とは、京都三本木の芸妓で、桂小五郎の愛人でした。明治になってから木戸孝允と結婚し松子と名のりました。
 その二人が住んでいた場所が、現在の「幾松」です。
 「幾松」は現在も旅館として営業しており、建物は国の登録有形文化財に登録されています。館内には「幾松の部屋」があり、現在も、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などがり当時に近い状態で保存されているそうです。
c0187004_10105659.jpg
 幾松は、幾松は若狭小浜藩士の娘で、8歳の時に京都に出てきたのち三本木の芸妓になりました。
 桂小五郎と知り合ったのは文久元年(1861)頃だそうです。
 幾松は、、幕府から命を狙われていた桂小五郎を必死に支えつづけました。 
蛤御門の変の後は、桂小五郎を三条橋の下に乞食の姿にやつさせて隠し、毎日食事を運び守りぬいたと言われています。
 明治になって、長州藩士岡部富太郎の養女となり、木戸孝允と結婚し、正式に「木戸松子」と名乗るりました。、身分差を超えた初めての正式な婚姻であったと言われているそうです。

 「幾松」の駐車場への門の脇(上の写真の右下隅)に「桂小五郎・幾松寓居跡」の石碑があります。


 赤印が桂小五郎像、緑印が「長州藩邸跡」碑、青が「桂小五郎・幾松寓居跡」碑 です。


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by wheatbaku | 2011-08-22 08:32 | Trackback
殉死者の墓(上野散歩    大江戸散歩)
 東京国立博物に「空海と仏教美術展」を見に行く前に、「殉死者の墓」を見てきました。
 寛永寺の開山堂や輪王殿の北東方向の位置にあります。(下の地図参照してください) 
 
c0187004_1772158.jpg 殉死者の墓は、慶安4年(1651)4月20日、三代将軍徳川家光が死去した際に、その後を追って家光の家臣5名が殉死しました。そのうち、家臣4名の墓が現龍院の墓地の中にあり、「殉死者の墓」という史跡となっています。
 現龍院の撥は通常は施錠されていて自由には参拝できません。
 しかし、現龍院さんに電話でお願いしましたら、鍵を貸していただけるということでしたので、鍵を借りてお参りしました。
 お墓にお参りした後、現龍院の墓地に殉死者の墓がある由来を尋ねましたら、現龍院住職で寛永寺の執事長もされている浦井正明住職がお答えいただきました。
 浦井住職のお話では、
 現龍院は、春日局が、局の夫稲葉正成の菩提のために天海大僧正と相談して建立したお寺だそうです。
 堀田正盛は、春日局の孫ですので、現龍院と堀田正盛とは関係があります。
 そこで、現龍院の第三世の亮伝大僧正が、殉死者を埋葬したいと幕府に願い出て、4人が現龍院に埋葬されるようになったそうです。
 堀田家や稲葉家や阿部家の菩提寺は別にあるので、殉死した人たちだけが葬られているそうです。
 家光に殉死したのは5人いますが、そのうち、堀田正盛、阿部重次、内田正信、三枝守恵の4人の墓があります。

【堀田正盛の墓】 
c0187004_9533159.jpg 堀田正盛は、老中で、下総国佐倉藩主です。
 堀田正盛は春日局の孫にあたります。 堀田正盛の母は稲葉正成が先妻との間に儲けた女子です。
 稲葉正成の2度目の妻が春日局です。
 そのため、堀田正盛は春日局の義理の孫にあたることになります。
 春日局の関係者であるため、13歳のときから家光に仕えました。
 寛永3年(1626年)には小姓組の番頭となりました。寛永10年(1633年)に松平信綱らと共に六人衆(後の若年寄)に列せられ、異例の出世をしました。
 このような異例の出世は、春日局の孫という関係のほか家光と堀田正盛とは男色関係でにあったためだという説があります。そして男色関係であったため堀田正盛は殉死したと言われています。

【阿部重次の墓】 
 c0187004_941133.jpg  阿部重次は老中で、武蔵国岩槻藩主です。
 阿部正次の次男です。
 家光に仕え,寛永9年小性組番頭。寛永10年に松平信綱や従弟の阿部忠秋らと,六人衆に任命され,家光政権の中核となり幕政に参画しました。
 家光の弟徳川忠長が幽閉されていた上野高崎にしばしば派遣され,忠長を自殺に追い込む役割を果たしました。
 阿部重次は堀田正盛と異なり、殉死する必要なないと止められましたが、忠長を自殺に追い込む役を果たす際に家光に命を預けていたので、家光の死に殉ずるといって、殉死したそうです。

 前記の二人のほかに、 内田正信(小姓組番頭・御側出頭、下野国鹿沼藩主)と三枝守恵(元書院番頭)の墓も現龍院の墓地内にあります。



 赤印が現龍院の墓地です。

 
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by wheatbaku | 2011-08-19 10:15 | 大江戸散歩 | Trackback
空海と密教美術展
 昨日は、まだ夏季休暇でしたので、上野の国立博物館で開催されている「空海と密教美術展」に行って来ました。
 展示作品の98.9%が国宝・重要文化財ということで話題の美術展ということで、大勢の人で混雑していました。
c0187004_14323218.jpg
 「空海と密教美術展」は、国立博物館の平成館で開催されています。料金大人1500円です。

 私は、すべてを見ている時間がないので、特に五大明王を中心に仏像をみてきました。
 美術展は、平成館の二階の第1会場と第2会場に展示されていますが、仏像の大部分が、第2会場に展示されているので、第1会場をパスして第2会場に直行しました。
特に東寺金堂の国宝の仏像が8体展示された仏像曼荼羅をよく見てきました。

 東寺講堂の立体曼陀羅は、5体の如来像で構成される五智如来、5体の菩薩像で構成される五菩薩、不動明王を中心として五大明王、それに四天王、梵天、帝釈天の21体の仏像で構成されているそうです。
 その21体のうち、8体が今回の展示会で展示されていました。
 展示されている仏像のイメージ写真がありましたので買ってきました。(下写真)
c0187004_14283324.jpg

 左から順に 
 ①国宝 「増長天立像(四天王のうち)」
 ②国宝 「帝釈天騎象像」
 ③国宝 「大威徳明王騎牛像(五大明王のうち)」
 ④国宝 「降三世明王立像(五大明王のうち)」
 ⑤ 国宝 「金剛法菩薩坐像(五菩薩のうち)」
 ⑥国宝 「金剛業菩薩坐像(五菩薩のうち)」
 ⑦国宝 「梵天坐像」、
 ⑧国宝「持国天立像(四天王のうち)」
 なお、これはイメージ写真で、実際の展示は、このように並んでいるわけではありません。

 仏像すべてが国宝ですので、非常に見応えがありました。
 さらに、仏像はケースの中に入っているわけではないので、身近に仏像をよく見ることができました。のみの跡まではっきりとわかりました。
 また360度から見られるように展示されているので、仏像の裏側までじっくりと鑑賞することができました。
 
五大明王は密教独特の仏様ですが、その筆頭は不動明王です。不動明王は私にとっても身近な仏様ですので、不動明王をはじめとした五大明王について調べていきたいと、今回の展示を見て一層強く思うようになりました。
 

  
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by wheatbaku | 2011-08-18 14:41 | Trackback
天海大僧正(上野散歩⑰ 大江戸散歩)
今日は、昨日に続いて「天海大僧正」について書いてみます。

 慶長4年(1599)無量寿寺北院の豪海の後を受けて、天海が北院の第27世の住職となりました。
c0187004_8421457.jpg 右の写真は喜多院の山門前にある天海大僧正の銅像です。
 慶長12年(1607)には比叡山の南光坊への在住を命ぜられました。
 慶長14年(1609)、朝廷より権僧正の僧位を受けました。
 また慶長17年(1612)に家康により無量寿寺北院の再建が着手され、院号を喜多院と改め関東天台の本山とされ、天海が院主として招請されました。
 慶長18年(1613)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊の光明院を再興しました。
 元和2年(1616)4月危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を天海らに託しました。
 その内容は、「死後、遺体は駿河国久能山に葬り1周忌が過ぎてから、下野国日光山に勧請すること」というものでした。
 家康死後には神号を巡り金地院崇伝、本多正純らと争いがありましたが、家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬しました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間だったといいます。
 元和2年(1616)7月に大僧正となった天海は、日光東照社の造営にあたり、元和3年(1617)に久能山から日光への遷座が完了しました。
 その後徳川秀忠・徳川家光に仕え、寛永2年(1625)には上野に寛永寺を創建しました。
 また、東照宮の七回忌、十三回忌、十七回忌、二十一回忌、二十五回忌法要すべてを日光東照宮において天海が導師を勤め執り行いました。

 天海大僧正は、寛永20年(1643)に没しました。年齢は108歳であったといいいます。現在でも108歳というと大変長命です。それが江戸時代に108歳まで生きられてたか疑問に思われると思いますが、天海存命中から高齢であるということは有名だったそうです。現在では108歳でなくなったというのが定説だそうです。

 死後、寛永寺で葬儀が営まれた後、東照権現の久能山から日光山への遷座の例に倣って千人余の供奉により、日光山内大黒山に葬られました。
 そして、死後5年後の慶安元年(1648)に、朝廷より慈眼大師号を追贈されました。
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by wheatbaku | 2011-08-17 08:51 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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