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東福院(四谷散歩 大江戸散歩)
 昨日は江戸文化歴史検定の試験日でした。受験された皆さんお疲れ様でした。
 ブログにコメントを書いていただいたヒナさんや鶴ヶ島の小人さんが合格の見込みとのことおめでとうございます。
 他にも受験された皆さんが大勢いらっしゃることと思いますが、それぞれの期待どおりの結果になったでしょうか?
 1年間の試験勉強大変だったことと思います。御努力に敬意を表します。


 さて、四谷散歩を続けます。
 愛染院の向かい側に東福院があります。
c0187004_8241670.jpg 今回の四谷散歩ではお参りしませんでしたが、「御府内八十八ヶ所」の21番札所ですので、既にお参りしています。その記録は 「御府内八十八ヶ所巡り 四谷地区②」  に書きました。
 東福院では、豆腐地蔵が有名でしたが、「御府内八十八ヶ所めぐり」の際には準備不足のため見つけられませんでした。
 今回の下見の際にわかりましたのでご紹介します。
 豆腐地蔵は、予想外にも非常にわかりやすい場所すなわち本堂に向かって右手前にある観音様の奥にありました。

【豆腐地蔵のお話】 
 豆腐地蔵の由来は、安本直弘氏著の「四谷散歩」に次のようなお話が載っています。
 安永年間(1772~1781)に、門前の坂の下に豆腐屋がありました。
c0187004_8193673.jpg この豆腐屋は陰で金貸や売女を囲う悪者でした。
 いつの頃か、この店に出家が毎晩のように豆腐を階に来るようになりました。しかし、この出家が払う銭は木の葉にかわるらしく、出家の来た後、銭入れの竹筒の中には、必ず樹の葉が入っていたそうです。
 豆腐屋は、狐か狸の仕業だと思い、ある晩、この出家が来るのを待ち構えていました。
そして、出家が豆腐を受け取って金を握った手を差し出したところ、包丁で手首から先を切り落としてしまいました。すると、出家はまたたくまに姿が見えなくなりました。

 翌朝、したたり落ちた血を頼りに跡を追っていくと、東福院で左手を落とされたお地蔵様が笑っていたそうです。
 豆腐屋は、ここで初めて自分の非行に気付いて改心し、地蔵堂を建立し信仰に励んだそうです。
 お地蔵様の左手首から先は確かに欠けていて、手首の部分で切り落とされたようになっていました。
 それ以来、このお地蔵様は「豆腐地蔵」と呼ばれるようになりました。
c0187004_8203928.jpg  そして、切り落とされた手首をさすると、腫れ物が治ると言われ、信者からは豆腐が供えられたそうです。

【東福院坂】 
 なお、東福院と愛染院の間にあって甲州街道から南側に下る坂は、東福院にとちなんで「東福院坂」と名付けられています。
 右の写真は坂下から撮った東福院坂です。

赤印が東福院です。

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by wheatbaku | 2011-10-31 08:42 | 大江戸散歩 | Trackback
愛染院② (四谷散歩  大江戸散歩)
 もう明後日は江戸文化歴史検定の試験日ですね。
 受験される皆さんぜひ頑張ってください。 

 
 江戸検の受験勉強に役だたない話題で申し訳ないのですが、四谷散歩の続きです。
 愛染院には、塙保己一のお墓もあります。
 今日は、塙保己一についてご紹介します。

 塙保己一は、武蔵国保木野村(埼玉県本庄市)の出身で、病のため7歳で失明し、15歳で江戸に出て雨富検校(あめとみけんぎょう)に入門し、翌年は萩原宗固について歌学を学びました。
c0187004_20395077.jpg 24歳の時に、萩原宗固のすすめで賀茂真淵に入門しました。
 そして、安永8年(1779)34歳の時、、『群書類従』の編纂をはじめ、41歳から刊行を開始しました。
 群書類従は古代から江戸初期までに刊行された史書や文学作品を収めたものです。
 寛政5年には、研究および教育機関としての和学講談所を設立して多くの門人を指導するとともに図書・史料の調査研究を行いました。
 文政4(1821)年2月には76歳で総検校になりました。 江戸時代には盲人は当道座という座がが幕府によって認められ、総検校の下に検校・別当・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)などの官位がありました。
 検校は元々は平安時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名であったものが室町時代以降、盲官の高位の名称として定着したものだそうです。
 検校の上に位置するのが総検校です。
 その最高位に登りつめてまもない文政4年9月12日、保己一は没しました。享年76歳でした。


 塙保己一の出身地の埼玉県では、三大偉人の一人とされていて、塙保己一を顕彰した「塙保己一賞」 が制定されています。

 塙保己一の名前の由来ですが、塙は師匠雨富検校(あめとみけんぎょう)の苗字です。
 安永4年(1775)勾当に進んだ時に師匠の雨富検校の苗字をもらいいました。
 保己一は、「己を保ち百年を安んず」という言葉からとったとも言われますが、私は出身地が保木野(ほきの)村でしたので、その出身地の名前をつけたという説をとりたいと思います。


c0187004_20401649.jpg 保己一のお墓の脇に師匠雨富検校(あめとみけんぎょう)のお墓が脇にあります。
 雨富検校の経歴を調べましたが、現在の茨城県の出身ですが、詳細はわかりませんでした。

 また、塙次郎忠宝(ただとみ)のお墓が脇にあります。右の写真が塙次郎のお墓です。
 塙次郎は、保己一の子供で、保己一の事業を継いでいました。
 しかし、文久2年(1862年)に暗殺されてしまいます。
 これは、老中安藤信正の命で、「廃帝の故実」について調査していると誤って伝えられ、勤皇浪士達を刺激して、住居兼和学講談所の前で何者かに襲撃され、翌日死亡したのでした。
 この暗殺者は伊藤博文と山尾庸三の2人であったと、大正10年にあった死後六十年祭の折に渋沢栄一が発表しているそうです。
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by wheatbaku | 2011-10-28 20:50 | 大江戸散歩 | Trackback
愛染院(四谷散歩  大江戸散歩)
 西念寺の後は、真成院の案内をしました。
 真成院は江戸名所図会にも書かれている古刹で江戸三十三観音めぐりの18番札所です。
 この札所ご本尊は十一面観音様で、塩踏観音または潮干観音と呼ばれている江戸時代の有名な仏様です。 詳しくは、後日、江戸三十三観音めぐりの御案内の中で紹介しようと考えています。
  今日は、真成院の後に訪問した愛染院をご紹介します。

 愛染院は、天正年間に創建され、もともと麹町貝塚にありましたが、江戸城の拡張工事のため、寛永11年(1634)、現在地に移りました。愛染院には、新宿区指定史跡の「塙保己一の墓」と「高松喜六の墓」が残されています。
 今日は 内藤新宿の生みの親の高松喜六についてご案内します。

【甲州街道の役割】 
 まず甲州街道の役割について説明します。
江戸の北と南は比較的深い谷で区切られていて、東は海に面していました。しかし、西側は武蔵野台地がなだらかに続くだけで、防衛上手薄でした。
c0187004_22461910.jpg そのため、外堀を築いて、西方の防衛線としました。
 また、番町・麹町地域には、旗本の精鋭を集中的に集めました。また、鉄砲組なども重点的に配置しました。
 
 甲斐国は、山や谷が多く守るに易く攻めるに難い地でした。そのため、江戸城を放棄しなければならなくなった時には、甲斐国に撤退して立て籠もる考えが家康にはありました。
 そのため、甲州街道は、江戸と甲州を結ぶ重要な軍事道路でした。
 退去するにも攻撃するにも大切な道路でした。
 また、城を築くには大量の石灰が必要でした。江戸周辺での石灰の産地は青梅でした。
 青梅街道は、青梅から石灰を運ぶための産業道路の役割を果たしました。
 そのため、甲州街道は五街道の一つとして整備されたのでした。

【内藤新宿生みの親 高松喜兵衛】 
 甲州街道の最初の宿場は、元々は高井戸(現杉並区)でした。
 高井戸は日本橋を出発して4里8町(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現在の台東区元浅草)の名主高松喜兵衛たち5人が、元禄10年(1697)に、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いをだしました。

c0187004_22464654.jpg この願いは翌年元禄11年(1698)に許可となり、「内藤新宿」は元禄12年(1699)に開設されました。
 この許可には、5600両の上納金をするという条件がついていました。5600両と言うのは現在の貨幣価値では10億円近くの莫大な金額だそうです。
 高松喜六たちはこの条件を飲んだので宿場の開設は許可されました。
 内藤新宿生みの親の高松喜兵衛は名前を喜六と改め、内藤新宿の名主となり、子孫も、代々、新宿の名主を務めました。
 しかし、高松喜六たちが開設に努力した内藤新宿は、開設後わずか19年後の享保3年(1718)に宿場は廃止となってしまいました。
  これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれます。
 その後、度重なる再興の願いにより、54年後の明和9年(1772)には宿場は再興されました。
 現在、日本一の繁華街として繁栄している新宿は意外と多難な歴史があったわけです。 
 高松喜六の墓は、上の写真の正面右側のお墓です。 

赤印が愛染院です。

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by wheatbaku | 2011-10-27 22:37 | 大江戸散歩 | Trackback
服部半蔵と忍者(西念寺②四谷散歩 大江戸散歩)
 服部半蔵は、忍者と思っている人が数多くいるようです。
 しかし、服部家は、服部半蔵正成の父の服部半蔵保長が、伊賀出身ですが、三河に行き徳川家康の祖父松平清康に仕えたと言われています。
 そして、保長の子服部半蔵正成も徳川家に仕えました。
 正成は、忍者としてでなく、槍の名人として知られていました。
 
【服部半蔵正成は伊賀者を統率】 
 徳川家と伊賀の地侍との関わりあいは、本能寺の変の時の伊賀越えです。
 徳川家康は、本能寺の変の直前信長に招待され上洛していましたが、本能寺の変が起きた時には、堺にいました。
c0187004_20522450.jpg 信長の同盟者であった家康も命を狙われる怖れがあったため、急いで本拠地岡崎に帰る必要がありました。
 そこで、三河に帰る最短コースである伊賀を越えていくことにしました。
 この際に、服部半蔵正成(以下の服部半蔵は正成のことをいいます)は、伊賀の地縁血縁を活用して、伊賀の地侍たちを説得し、無事伊賀を越えられるように働きかけをしました。
 それに応えて、伊賀の地侍たち200人が家康を伊賀から伊勢白子まで警護したため、家康は無事岡崎に帰ることができました。
 こうした経緯があったため、家康は伊賀の地侍たちを召抱えました。

 服部半蔵は、この伊賀同心たちを統率する立場でした。
 こうしたことからも忍者とまちがえられるのかもしれません。

 服部半蔵がなくなると、服部半蔵の子服部正就(まさなり)が伊賀同心を統率します。
 しかし、服部正就は伊賀同心から反発されて、伊賀同心たちが、四谷の長善寺(笹寺)にたちこもりました。今でいうストライキであると言われています。
 こうした事件が起きたため、服部正就は伊賀同心統率の役を解任されてしまいました。

【伊賀者は警備が主な仕事】 
c0187004_2055409.jpg 江戸幕府で、伊賀者は、忍者というより警備を主とする役についていました。
 伊賀者イコール隠密とも思われているようですが、隠密の役は「御庭番」が担当していました。
 また、「御庭番」は8代将軍吉宗が創設した役職で、江戸時代初めからあったわけではありません。
 
 幕府では、伊賀者というと次の四つの役職についていました。
一つ目は、小普請方伊賀者(御目見以下抱席)
 小普請というのは、屋根瓦や土塀の修理を行う程度の仕事しかありませんでした。小普請組というと実質的には非役の人たちです。
  ここで、伊賀者は普請場の巡視や職工の勤怠管理にあたりました。
二つ目は、明屋敷伊賀者(御目見以下譜代席)
 明屋敷というのは、住人のいない屋敷をいいます。その屋敷を管理する役です。
三つ目は、山里伊賀者(御目見以下抱席)
 西の丸山里門を守る役です。山里門は非常口のため、御庭番、黒鍬之者、奥向衆、御鷹衆以外は通行できなかったようです。
四つ目は、広敷伊賀者(御目見以下譜代席)です。
 大奥には、御台所の住む御殿向(ごてんむき)、大奥女中の住む長局向(ながつぼねむき)、大奥の男性役人が勤務する広敷向(ひろしきむき)とに区分されていました。
 この広敷に詰めて大奥の七ッ口とお錠口との警備にあたりました。

 このほか、鉄砲百人組の伊賀組(御目見以下譜代席)がありました。
 鉄砲百人組は江戸城の百人番所(上の写真)に交代で詰めて、大手三の門の警備にあたりました。

 
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by wheatbaku | 2011-10-26 21:01 | 大江戸散歩 | Trackback
西念寺(四谷散歩 大江戸散歩)
 
 四谷散歩では、最初に「西念寺」を訪問しました。今日は、西念寺についてご案内します。
 
 西念寺は、文禄2年(1593)に服部半蔵正成が創建した寺です。
 服部半蔵というと忍者に間違われますが、徳川十六神将の一人で、父の代から徳川家に仕えた譜代の武将です。
 西念寺は、天正7年(1579)に織田信長の要求により切腹させられたと言われている徳川家康の嫡男信康の供養のために建てられた寺院です。

 西念寺については、以前「西念寺と服部半蔵」で詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。  

 服部半蔵の槍は、本堂に飾ってあるため、拝観するにはお寺の御了解が必要です。
c0187004_2121278.jpg 今回は、事前にお願いしておきましたので、ご住職の奥さまが待っていてくださいました。
 半蔵の槍は、長さ258センチもある大きな槍でした。
 これでも、戦災で槍の穂先っが30センチ、尻が150センチ欠けた後のの大きさですので、すべてですと非常に大きな槍になります。 
 ご一緒した皆さんも驚かれていました。

 ところで、今回のご案内で、新しい発見がありました。
 服部半蔵の槍は、本堂の中に飾ってあるのですが、この飾ってある部屋が、大多喜城の西の丸御殿の書院だったものだそうです。
c0187004_21214714.jpg  西念寺の本堂は、昭和34年から2年かけて再建したものだそうですが、その際に、丸山様という方の別邸として利用されていたものを譲り受けて、本堂の一部として利用したものだそうです。
 床柱は、檳榔樹(びんろうじゅ)の木でできていて、床框(かまち)は黒柿の木を利用しているそうです。檳榔樹(びんろうじゅ)、黒柿とも非常に貴重な木だそうです。
 これらを利用した床の間は滅多にないとのことでした。
 また、欄間も透かし彫りで見事なものでした。
 このお話ご住職の奥さまから伺いました。

 また、現在の西念寺は、表門が境内の東側つまり四谷駅側にあるのですが、昔は、西側にあったというお話も聞くことができました。

 奥様、ご丁寧な説明をしていただきありがとうございました。

 赤印が西念寺です、四ツ谷駅から約10分かかります。

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by wheatbaku | 2011-10-25 20:52 | 大江戸散歩 | Trackback
四谷散歩(大江戸散歩)
 今度の日曜日は、江戸検の試験日ですね。
 受験される皆さん、最後の1週間悔いのないように頑張ってください。
 
 先週の土曜日、毎日文化センターさんの「お江ゆかりの地を行く~気ままに江戸探訪」の第5回講座が開催され、四谷を案内してきました。
 今回は、四ッ谷駅に1時集合し、以下のコースで散歩してきました。 

西念寺(服部半蔵の墓、槍)⇒ 真成院 ⇒ 愛染院(塙保己一の墓、高松喜六の墓)⇒ 須賀神社(三十六歌仙絵)⇒ 勝興寺(山田浅右衛門の墓)⇒ 戒行寺(長谷川平蔵供養碑)⇒ 西応寺(榊原健吉の墓) ⇒ 本性寺(北向毘沙門天、萩原宗吾墓)⇒ 於岩田宮稲荷神社 ⇒ 笹寺(めのう観音) 四谷大木戸跡 ⇒ 水番所跡 ⇒ 太宗寺(六地蔵、閻魔堂、不動堂、内藤正勝の墓)

 今回でこの講座は5回目です。
 参加された人はもう何回も一緒に歩いているので、気心もいくらかわかって和気あいあいでした。
 天候も、天気予報では弱雨の予報でしたが、幸運なことに雨は一滴もふりませんでした。
 お互いに日ごろの行いが良いからだと喜び合いました。
 参加された皆さんお疲れ様でした。楽しい時間をご一緒できたことに感謝します。


 今回は、事前に拝観をお願いしておいたため、拝観できたものが、多くありました。
 それは、①西念寺の服部半蔵の槍、②須賀神社の三十六歌仙絵、③ 本性寺の毘沙門堂、④長善寺(笹寺)のめのう観音です。
 それぞれが貴重なものです。 下に写真を載せておきます。
 詳細については、明日からの「四谷散歩」で紹介していきます。

【服部半蔵の槍】 
    服部半蔵が、徳川家康から拝領したと伝わる槍です。西念寺の本堂に飾られています。
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【三十六歌仙絵】 
   須賀神社の社殿内に天保7年の三十六歌仙の絵が飾られています。
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【毘沙門堂】 
   本性寺の毘沙門堂は元禄年間に建設されたものです。毘沙門堂内を拝観させていただきました。
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【めのう観音】 
   長善寺は笹寺とも呼ばれます。めのう観音は徳川秀忠またはお江の念持仏といわれています。
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 明日から、四谷散歩で拝観した寺社の誌上ご案内をします。
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by wheatbaku | 2011-10-24 14:55 | 大江戸散歩 | Trackback
弥生式土器発見地(湯島・本郷散歩  大江戸散歩)
 今日は、湯島・本郷散歩の最後です。
 江戸時代の話題とは異なりますが「弥生式土器」の発見のお話です。

 明治17年(1884)3月2日、東京大学の坪井正五郎、有坂鉊蔵、白井光太郎の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見しました。
 この土器は、大森貝塚などの縄文式土器と異なっていることから、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられました。
 発見されて場所の町名は向ヶ丘弥生町といいました。この町名は、徳川斉昭の建立した「向岡記」碑文の中の「弥生」から名づけられたものです。
 しかし、「弥生式土器」第一号の発見地がどこかは、大正時代にはわからなくなっていたそうです。都市化が進んだためと言われています。

【弥生二丁目遺跡】 
 そこで、現在でも第一号発見場所の推定地としては5か所もあるそうです。
 その中で一番ポピュラーなのが、浅野地区工学部9号館東に位置する「弥生二丁目遺跡」です。
c0187004_18281450.jpgこれは、昭和50年に東京大学文学部考古学研究室・理学部人類学教室が、東京大学構内の浅野地区を発掘調査し、二条の溝と貝層、弥生式土器等が発見されたそうです。
 そして、ここが昭和49年6月7日「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されました。

「弥生二丁目遺跡」の説明板は、工学部の9号館の東の笹のなかにありました。
 浅野キャンパスは、歩いている人も少なく静かなキャンパスでした。
 笹と雑木林の向こうは崖になっています。ここが段丘地形であることがよくわかります。

【弥生式土器発掘ゆかりの地の碑】 
c0187004_18283527.jpg 浅野キャンパスの西北隅の言問通り沿いに「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がありました。
 昭和60年7月に建立されたものです。

 裏に建碑のことばが書かれていました

 弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在弥生二丁目)内の数ヵ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名づけられました。
 遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器向ヶ岡遺跡の発見によって弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちはこうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語りつぎ出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
 昭和29年、行政措置によりこの町は弥生二丁目と変わりましたがあ、町会名は歴史的な名を継承しております。昭和61年夏 七月吉日  向ヶ岡弥生町会有志


 赤印が「弥生二丁目遺跡」  青印が「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑

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by wheatbaku | 2011-10-23 18:39 | 大江戸散歩 | Trackback
「向岡記」碑 (湯島・本郷散歩  大江戸散歩)
 東京大学のキャンパスは、キャンパスマップを見ると、本郷キャンパス、弥生キャンパス、浅野キャンパスと別れて表示されています。

c0187004_10371744.jpg 「向岡記」碑 
 本郷キャンパスの大半が江戸時代には加賀前田家上屋敷です。
 そして、弥生キャンパスと浅野キャンパスは、江戸時代は水戸德川家の中屋敷があった地区になります。
 この浅野キャンパスのなかに、水戸藩9代藩主德川齊昭建立した「向岡記」碑があります。


 浅野キャンパスは、明治20年から昭和16年まで、浅野家のお屋敷があった場所です。そのため「浅野キャンパス」と呼ばれます。
c0187004_1038229.jpg  この地区は浅野家のお屋敷でしたから、この「向岡記」碑も浅野家の所有でした。しかし、昭和17年、浅野家当主浅野長武氏より、碑と拓本が東京大学へ寄贈されました。
「向岡記」碑は、以前は、工学部10号館脇に風雨にさらされていたそうですが、平成21年に東大130周年記念事業により「向岡記」碑の保存修復が完了し、現在は「情報基盤センター」前の屋根つきのスロープに設置されています。(上の写真参照)
 碑の大きさは、高さ約1.5メートル、幅約1メートルあります。石は常陸太田市真弓山産出の寒水石が使われています。

 この碑を建てた時は、斉昭はまだ水戸藩主ではありませんでした。
 この頃は、斉昭の兄の8代藩主斉修に子供がなかったことから、将軍家斉の第20子の斉彊を次の藩主に迎えようとする門閥派と藤田東湖などの斉昭擁立派が対立している時期でした。
 この抗争に擁立派が勝って、斉昭が9代藩主となったのは文政12年(1829)10月のことです。

 題額の「向岡記」は「飛白体」(かすれたい)で、碑文は草書体637字からなっていたそうですが、現在では刻まれた字はほとんど読めませんでした。
 しかし、この碑には、「文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日」と刻まれているそうです。
 これは「ぶんせいとおまりひととせといふとしのやよひのとおか」と読み、文政11年3月10日を意味します。
 弥生とは3月の異称です。

 「向岡記」碑に刻まれたこの「夜余秘」の文字が由来となって明治5年に誕生した本郷区向ヶ岡弥生町の町名が付けられています。
そして、この明治十七年(1884)に弥生町から発見された土器が「弥生式土器」と名付けられました。
ということは、斉昭が「向岡記」碑をたてなかったら、弥生時代という名称はつけられなかったということになりそうです。

「向岡記」碑の脇の説明板に、全文が書かれていました。すべて漢字で書かれていたようです。
c0187004_10394536.jpg

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by wheatbaku | 2011-10-21 10:44 | 大江戸散歩 | Trackback
朱舜水記念碑(湯島・本郷散歩 大江戸散歩)
 東大の農学部の正門を入った北側に「朱舜水(しゅしゅんすい) 先生終焉之地」の碑があります。


 朱舜水という人は、江戸時代初期に日本に亡命した中国明末の遺臣で儒学者です。
c0187004_12231048.jpg 名は之瑜(しゆ)、字は魯 王與(ろよ)、号は舜水(しゅんすい)、号の舜水は郷里の川の名からとったそうです。
 中国浙江(せっこう)省に生まれ、明国に仕えました。しかし、清が興隆してきたため、支援を請うため、長崎にも7回来訪しましたが、7度目に来日した万治2年(1659)からは長崎に住んでいました。
 水戸藩主の徳川光圀は小宅(おやけ)生順を長崎に行かせ、朱舜水を招こうとしましたが、初め応じませんでした。
 その後、寛文5年(1665)にようやく招きに応じて水戸藩の江戸藩邸に入りました。朱舜水66歳のときです。
 住居は水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)内に準備され、徳川光圀の先生として待遇されました。水戸も二度訪れています。
 そして、水戸光圀や安積澹泊(あさかたんぱく)、林鳳岡(ほうこう)、木下順庵らに大きな影響を与えました。
 朱舜水から教えを乞うた安積澹泊(あさかたんぱく)は「大日本史」の編纂で有名ですが、『水戸黄門』に登場する格さん(渥美格之進)のモデルとされています。

c0187004_12233642.jpg 朱舜水は天和2年4月17日83歳で没しました。
 墓は光圀の命令によって水戸家の瑞竜山墓地(常陸太田市)に儒式で建てられているそうです。

 朱舜水の与えた影響は多方面にわたりますが、小石川後楽園の設計にも影響を与えたと言われています。
 また、水戸光圀は日本ではじめてラーメンを食べたと言われていますが、これも朱舜水の影響によるものといわれています。

 朱舜水の記念碑は日本渡来 250年祭にあたり朱舜水記念会が建てたものであると説明板に書かれていました。
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by wheatbaku | 2011-10-19 12:25 | 大江戸散歩 | Trackback
安田講堂(湯島・本郷散歩 大江戸散歩)
 湯島・本郷散歩の続きに戻ります。
 東大キャンパスの案内の途中でした。今日は、江戸時代のものではありませんが、東大のシンボル安田講堂のご案内です。 

  安田講堂は、安田財閥創業者の安田善次郎氏の寄付により、大正14年に竣工しました。
c0187004_9415544.jpg  安田講堂は大正10年に起工しましたので、工事中に関東大震災に遭いましたが、倒壊することなく無事竣工しました。
 安田講堂の設計は当時の工学部教授の内田祥三が行いました。

 安田講堂が全国的に有名になったのは1969年、大学解体を掲げ過激派の学生たちが安田講堂に立てこもった事件によります。
 角材を持った過激派学生たちと機動隊が衝突する様子がテレビで放送されたことを覚えているシニアの人は大勢いると思います。
 この闘争により安田講堂の内部は荒れ果て、その後暫く閉鎖されることになります。
 その後の修復工事で現在は再び利用されるようになりました。
 安田講堂は1階に学生部があったりして日常的に人が入れる部分もあるようですが、大講堂に入るのは東大生でも卒業式など限られた機会だけのようすです。

  安田講堂建築中に発生した関東大震災で、東大のほとんど建物が倒壊・類焼したそうです。
c0187004_942248.jpg その直後内田祥三により 安田講堂を中心としたキャンパス計画が提案されました。
正門から安田講堂に至るラインは左右に法文1号館と法文2号館や列品館を配置し、これに直角に交差する形で工学部1号館から総合図書館までのラインを配置します。
 そして、そのラインには銀杏を植樹するという案だったそうです。上の写真は法文1号館です。

c0187004_942435.jpg こうすることにより、キャンパス中央部のどこにいてもキャンパスらしい風景が望めるようになっています。
 現在、このラインにたって建物群を眺めると、いかにも大学キャンパスらしい眺めになります。 特に正門から安田講堂を望む風景は東大を象徴するものです。
 左の写真は、法文2号館です。


c0187004_9425923.jpg 安田講堂は東京都の登録有形文化財第1号だそうです。
 そして、東大には登録有形文化財が目白押しです。
 法文1号館(写真2番目)、法文2号館、法学部3号館、工学部列品館、工学部1号館が登録有形文化財に登録されています。
 この建物群の設計はすべて内田祥三がおこなっています。そして、これらの建物はゴシック様式の建物ですので、内田ゴシックと呼ばれています。
 内田祥三は、昭和18年に 東京帝国大学第14代総長(1945年12月まで)となり、昭和47年には文化勲章を受章しています。 上の写真は、工学部1号館です。
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by wheatbaku | 2011-10-18 09:18 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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