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定火消の体制(定火消屋敷 江戸の災害)
 定火消しについて書いた本を探しましたが、なかなか見つかりませんでしたが、岩崎美術社から出版された「江戸三火消図鑑」という本が見つかりました。

c0187004_12102347.jpg この本には、町火消し、定火消、大名火消の三火消しについて書かれています。
 今日は、「江戸三火消図鑑」に基づき、定火消の体制について、書いてみます。

  
 定火消の指揮者は火消役ですが、火消役は、4千石以上の旗本を充てました。
 「江戸三火消図鑑」に書かれている火消役は次の通りです。

 なお、この火消役がいつの時点のものなのか書かれていません。
 また、火消役がどういう人物かも書かれていませんので名前と石高だけ書いておきます。


  四谷御門内  室賀兵庫   7千石
  駿河台    内藤外記   5千500石
  赤坂御門外  小笠原大膳  5千石
  飯田町    坪内惣兵衛  5千500石
  小川町    武田刑部   5千700石
  八代洲河岸  皆川左京   5千石
  麹町御門外  近藤宮内   4千500石
  市ヶ谷佐内坂 大久保宗三郎 5千石
  御茶ノ水   久世三四郎  5千石
  赤坂溜池   斎藤頼母   5千石 

  なるほど、すべて4千石以上ですね。

 その火消役の下に、与力、同心、そして火消人足の「臥烟(がえん)」が配属されました。
 与力は6名配属され、内訳は、 使番1人、纏(まとい)番正副各1名、梯(はしご)番1名、小纏1名、水番1名 でした。

 同心は 30人いました。 上番10人、下番5人、水番10人、残番5人でした。

 実際の消火活動にあたるのが臥烟(がえん)です。
 臥烟は、合計で110人配属されました。
 内訳は纏番12人、玄蕃桶持6人、梯番16人、龍吐水持8人、鳶口持10人、籠長持2人、用箱持1人、部屋頭3人、役割2人、他に中間50人 でした。
 
 「江戸三大火消」によると、臥烟について「江戸乃華」では次のように書いているそうです。

火消卒をがえんという。即ち臥烟の音称なり。この臥烟というものは江戸者多し、極寒といえども邸の法被一枚の外衣類を用いず。消火に出る時は満身の文身(いれずみ)を現し、白足袋はだし、身体清く、男振美しく、髪の結様、法被の着こなし、粋にして勢よく、常に世間へは聊(いささ)かの無理も通りければ、寒の苦を忘れて、身柄の家の子息等の 臥烟に身を誤るもの少しとせず、此者共皆大部屋に一同起臥し、部屋頭の取締りを受く。又義侠ありて、よく理非を弁う。火事無き時は三飯の外吾身の掃除なり。夜中臥すに長き丸木を10人~15人一同枕とす。櫓太鼓鳴るや枕木の小口を打ちて起こせば、直ちに飛出て火に赴くという、火中命を捨てる者ままあり。
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by wheatbaku | 2011-12-23 12:16 | 江戸の災害 | Trackback
平河天満宮(定火消屋敷⑧  江戸の災害)
 昨日ご紹介した半蔵御門外の定火消屋敷跡近くに平河天満宮があります。
 今日は 平河天満宮をご案内します。

【平河天満宮の由来】 
 平河天満宮は、慶長11年(1606)から現在の地にお祀りされています。
c0187004_11334829.jpg もともとは、文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われています。
 この江戸城内の天満宮のまわりには、多くの梅の木が植えらたため梅林坂と呼ばれるようになりました。今も皇居東御苑内に梅林坂の名が残っています。また、同じく東御苑内に天神堀という名前も残っています。
 江戸城内の天満宮は徳川家康の江戸城入城後間もなく、築城のため平川門外に遷座されました。
 さらに、慶長12年(1607)2代将軍秀忠の時代に麹町貝塚(現在地)に遷座されました。
 この辺りの地名が平河町と呼ばれるのは平河天満宮に因むものです。
 なお、平河と書き、平川ではありませんので、ご注意を!

【平河天満宮銅鳥居】

 平河天満宮の銅鳥居は、高さ5mにもなる鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に建設・奉納されたもので、千代田区内最古の鳥居だそうです。
c0187004_1134884.jpg
 また、製作者について千代田区教育委員会の説明板に丁寧に説明されていますので、その部分を書き抜きます。

 銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。
 「西村和泉」というのは、「文政年鑑」に「御鋳物師 西村和泉 並御錺(かざり)師かんたかち丁1丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。
 彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した8代目であると思われます。
 なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし、平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。

【狛犬】
 また、本殿前の狛犬についても丁寧な説明がありますので、こちらも抜書きします。

c0187004_11345089.jpg 本殿向かって右側の石像(右写真)の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。

 一方左側(左下写真)にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。
c0187004_11343489.jpg これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖(けんじょう)障子」といわれるものであると思われます。
 「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。
 日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。
 平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば狛犬」(左側)と「「獅子」(右側)との対になっているといえます。

c0187004_12255037.jpg【常夜灯】
 境内には、常夜灯もあります。
 この常夜燈は、本来、左右一対ですが、完形で現存するのは一基のみで、もう一基は残存している石材を積み上げたものです。高さ約3.45m、幅・奥行ともに1.26mだそうです。
 装飾は、火袋の左面に月(三日月)、右側面に日輪の形が施されており、中台には祭神菅原道真にちなんだ梅鉢の文様が付いています。
 この常夜灯は、麹町8丁目(現在の麹町5丁目)にあった雲龍堂と松田町(現在の鍛冶町2丁目)にあった龍海堂という寺子屋の関係者から、嘉永5年(1852)閏2月に奉納されたものです。


赤印が 平河天満宮 です。 

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by wheatbaku | 2011-12-16 11:32 | 江戸の災害 | Trackback
靖国神社(定火消屋敷⑥ 江戸の災害)
 飯田町定火消屋敷の跡にある富士見小学校からは、靖国神社はすぐ近くになります。
 かつての九段高校(現在は中高一貫校の九段中等教育学校になっています)の脇を通って靖国神社に向かいます。この土地は、関東大震災までは、琉球王朝の国王だった尚泰の屋敷跡です。

【靖国神社】  
c0187004_1643639.jpg 靖国神社は明治2年(1869)に、国内外での戦争などで戦没した軍人などを祀るための神社として創建されました。初めは東京招魂社と呼ばれました。
 この東京招魂社の建設にも、大村益次郎が関わっていて、九段の場所を提案したのが、大村益次郎だそうです。ちなみに、社地は旧幕府歩兵屯所跡です。
 東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称されました。
 「靖国」という社号は、明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

【大村益次郎銅像】  
 靖国神社には、東京三大銅像の一つ大村益次郎の銅像があります。
 ちなみに他の二つは上野の西郷隆盛像、皇居外苑の楠木正成騎馬像です。
 この銅像は、大村益次郎が彰義隊を討伐するときの姿をモデルにしているそうで、陣羽織を着て左手に双眼鏡を持って東北の方向つまり上野の方向を見ています。
c0187004_1645822.jpg 大村益次郎の銅像は、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。
 製作者は大熊氏廣です。
 大熊氏廣は、埼玉県川口市に生まれました。
 明治9年に設立された工部美術学校彫刻科に第1期生として入学し、明治15年首席で卒業しました。
 明治18年に大村益次郎の銅像の制作を委嘱されると、依頼の重要性に鑑みて西洋彫刻を深く学ぶためヨーロッパに留学します。帰国後、大村益次の銅像を完成させてからは、日本を代表する彫刻家として活躍しました。
 代表作品は、「大村益次郎像」のほか、東上野公園の「小松宮彰仁親王騎馬像」、有栖川宮記念公園の「有栖川宮熾仁(たるひと)親王騎馬像」、浅草公園の「瓜生岩子像」などがあります。

【神道無念流道場練兵館跡】  
 靖国神社の南門近くに 「神道無念流練兵館跡」 の石柱があります。
 練兵館は、幕末の剣豪斎藤弥九郎の開いていた道場で、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれています。
c0187004_165359.jpg 斎藤弥九郎は、越中の農家の生まれですが、江戸に出てで旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となりなり、神道無念(しんとうむねん)流岡田十松吉利(よしとし)の撃剣館に入門しました。
 弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、息子の利章を補佐して道場の経営にありました。
 岡田十松道場では江川太郎左衛門英龍も剣術を学んでいて、江川の援助により、文政9年(1826)に独立して九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし、天保9年(1838)三番町に移しました。 これが、現在は靖国神社の境内となっています。
 練兵館には、全国から入門者が集まりました。特に長州藩の出身が多く、塾頭を務めた桂小五郎(木戸孝允)が最も有名ですが、そののほか、高杉晋作・伊藤博文らも学んでいました。
 斎藤弥九郎は剣術だけでなく、兵学や砲術も学んでいて、西洋銃隊調練や品川台場の築造あるいは尊王攘夷運動に関係するなど、剣術以外の分野でも幅広い活躍しました。
斎藤弥九郎については、詳しくは こちら  斉藤弥九郎① (幕末の剣豪 江戸検定今年のお題「幕末」) をご覧ください。

 赤印が大村益次郎銅像  青印が神道無念流練兵館跡の石柱 緑印が富士見小学校 です。

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by wheatbaku | 2011-12-14 08:44 | 江戸の災害 | Trackback
心法寺 (定火消屋敷④  江戸の災害)
今日は、番町小学校のそばにある「心法寺」のご案内です。

 「心法寺」というお寺はあまり有名ではないんですが、私たち江戸検1級2期会の仲間の中では、増上寺や寛永寺と同じくらい名前が知れ渡っているお寺です。
c0187004_1036758.jpg というのは、江戸検1級合格早々に、ホテルニューオータニさんから江戸城外堀ガイドの依頼があった時に、案内先に入っていたお寺です。 心法寺は、千代田区内で江戸時代から続く墓地のある唯一のお寺であること、村垣淡路守や井沢弥惣兵衛のお墓があることで江戸通の中では有名なお寺でした。そのために、江戸城外堀ガイド先に選ばれていました。
 しかし、当時は、さすがの1級仲間でもほとんどの人が知らないお寺でした。
 このことがきっかけで、1級仲間内で「心法寺」は一気に有名になり、現在では、「心法寺」といえば、すぐにあぁあのお寺とわかるお寺の一つとなっています。

【千代田区唯一の江戸時代からあるお寺】 
c0187004_10391218.jpg さて、その心法寺は、もともとは推古天皇の時代に、三河国で「秦宝寺」として創建されたお寺と言い伝えられているそうですが、江戸麹町に創建されたのは、慶長2年(1597)です。
 江戸の地は、北と南は比較的深い谷で区切られていて、東は海に面していました。しかし、西側は武蔵野台地がなだらかに続くだけで、防衛上手薄でした。
 そのため、西方の防衛線を強化するために、寛永13年に外堀工事が行われ、江戸城の西側の外堀が築造されました。
 その際に、外堀の内側にある寺院の多くが外堀の外に移転を命じられました。
 そのため、千代田区内には、江戸時代の初めに創建されたお寺はほとんどありません。
 その中で、心法寺は千代田区で江戸時代はじめに創建されたお寺であり墓地もある唯一のお寺です。
 
 心法寺には、右上の写真の銅鐘をはじめ文化財がかなりありますが、あまり紹介されることの少ない村垣淡路守範正と井沢弥惣兵衛のお墓を今回はご案内します。

【村垣淡路守の墓】 
 村垣範正(むらがきのりまさ)は、万延元年に日米修好通商条約批准書交換のため幕府がアメリカへ派遣した使節団いわゆる万延元年遣米使節の副使を勤めました。なお、この時の正使は新見正興、目付は小栗忠順です。
c0187004_10363837.jpg  村垣家は、もともと、お庭番の家柄です。範正の代に別家として取り立てられることとなり、天保2年(1831)に小十人格(こじゅうにんかく)庭番となりました。
 安政元年には、勘定吟味役として、川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、下田(しもだ)に来航したロシア使節の応接係を担当しました。
 安政3年(1856)には箱館奉行となり、さらに安政5年(1858)には外国奉行となり、翌年神奈川奉行も兼帯しました。
 外国奉行兼神奈川奉行であったため、遣米使節の副使に任命されました。
 アメリカに無事到着した一行は、ブキャナン大統領に謁見し批准書を渡した後、大西洋を横断し喜望峰を通過しインド洋を通って帰国しました。
 この功績により、村垣範正は300石の加増を受け合計500石となっています。
真ん中のお墓が村垣範正のお墓と言われていたお墓ですが、別人で、範正の祖父定行の墓です。

平成25年5月1日追加訂正
 上記、村垣淡路守範正の墓と言われていた墓が、祖父の村垣定行の墓とのことで、日比谷図書文化館から下記のような修正依頼がありました。村垣淡路守範正の墓は谷中天王寺にあるようです。

史跡説明板の記載修正
 麹町六丁目4番地2の常栄山心法寺門前に設置している説明板「心法寺」の記述について、次のとおり、誤記載がありました。
(誤記載の内容)
 村垣淡路守は、遣米副使を勤めた村垣範正ではなく、その祖父にあたり勘定吟味役・松前奉行・勘定奉行を歴任した村垣定行でありました。

 関係者の皆さまには、大変ご迷惑をおかけしました。平成25年度に、説明板を修正いたします。
 説明板からの引用により、「心法寺に村垣範正の墓所がある」という内容の記事を掲載されている方は、修正をしていただきたく、お願いいたします。



【井沢弥惣兵衛の墓】
 井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は、名前は為永(ためなが)といい、8代将軍吉宗の下で大きな実績を挙げた江戸時代屈指の治水家です。
c0187004_10365152.jpg 紀州藩士でしたが、徳川吉宗(よしむね)が将軍就任した後、幕臣となりました。
 享保7年(1722)に幕府の勘定所に召し出され、享保16年(1731)には勘定吟味役、享保20年(1735)には美濃国郡代にも就任して活躍しました。
 吉宗に重用され、享保の改革の際に治水、農業開発に敏腕を発揮し、紀州流の開祖といわれます。
 特に埼玉県の見沼代用水(みぬまだいようすい)60キロメートルを完成させ、農業開発・水運に大きなな貢献をしました。
 また、木曽川三川分流の宝暦治水も井沢弥惣兵衛の設計だそうです。

 赤印が心法寺 青印が番町小学校 です。心法寺は四ツ谷駅からは徒歩3分の至近距離です。

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by wheatbaku | 2011-12-12 08:22 | 江戸の災害 | Trackback
定火消  (定火消屋敷① 江戸の災害)
今日から、定火消屋敷について書いていきます。
 火消というと町火消が有名ですが、その他、大名が担当する「大名火消」、旗本が担当する「定火消」もあります。

 定火消は、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に設置されました。
 旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置されました。
c0187004_227441.jpg そして、万治2年に2組、万治3年に2組、さらに寛文2年(1662)に2組に増加され、合計で10組となりました。
 そして、元禄8年(1695)に、さらに5組増設され、合計で15組となりました。
 しかし、宝永元年には、5組減らされ10組となりました。その後、幕末まで10組が維持されました。
 そのため、定火消は10人火消とも呼ばれます。
 上の写真は、消防博物館に展示されていた定火消の装束です。(左が夏の装束、右が冬の装束です。)


 定火消の火消屋敷は、消防博物館によれば
 ①飯田町、②四谷御門内、③小川町、④赤坂御門外、⑤市谷左門坂、⑥駿河台、⑦半蔵門御門外、⑧赤坂溜池、⑨お茶の水、⑩八代洲河岸 にありました。
c0187004_2222348.jpg


 これらの火消屋敷が江戸城北西部に重点的に置かれているのは、江戸の火災が北西の季節風の激しく吹く冬に多発していたことに関係しています。
 この地域から出火した場合、江戸全域が風下となって大火に発展する危険が大きく、江戸城も危険にさらされるからです。


 これから順に、この定火消屋敷跡が現在どうなっているか訪ねていきます。
 ただし、上の番号の順ではありませんので・・・・
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by wheatbaku | 2011-12-06 08:19 | 江戸の災害 | Trackback
ブロ友と四谷散歩
 昨日は、ブログを通じて知り合った皆さんと四谷を散歩してきました。
 メンバーは、ヒナさん、鶴ヶ島の小人さん、更紗さんでした。
 そして、夜の打ち上げには月猫さんも参加してくれました。
 皆さんのブログ、ホームページは次の通りです。
 のぞいてみてください。
  ヒナさん 日向ぼっこの大江戸散歩
  鶴ヶ島の小人さん 専門医のいる歯科医院 マミー歯科 
  更紗さん  君のいない楽園
  そして、月猫さん 江戸・東京ときどきロンドン
 参加メンバーは全員妙齢の女性でしたので、1級仲間のAさんにも特別にご参加いただきました。

 昨日は、快晴、多少北風でしたが寒くはなくすばらしい散歩日和でした。
 四谷見附の木々も最下段の写真のように少し紅葉していました。

c0187004_92085.jpgc0187004_9202189.jpgc0187004_920361.jpg 昨日は、10時に四ツ谷駅に集合して、次の順で回りました。
 すでに、このブログの「四谷散歩」で案内してある場所をフルバージョンで案内しました。
 
 四ッ谷駅(10時集合) ⇒ 四谷見附 ⇒ 西念寺(服部半蔵の墓・槍)⇒ 真成院(潮干観音)⇒ 愛染院(塙保己一の墓、高松喜六の墓)⇒ 東福院(豆腐地蔵) ⇒ 須賀神社(三十六歌仙絵)⇒ 勝興寺(山田浅右衛門の墓)⇒ 戒行寺(長谷川平蔵供養碑)⇒ 西応寺(榊原健吉の墓) ⇒ 本性寺(北向毘沙門天、萩原宗吾墓)⇒ 於岩田宮稲荷神社・陽運寺(お岩稲荷) ⇒ 笹寺(めのう観音) ⇒ 四谷大木戸跡 ⇒ 斎藤茂吉終焉の地 ⇒ 多武峰神社 ⇒ 青山上水跡 ⇒ 水番所跡 ⇒ 新宿御苑側道(玉川上水跡) ⇒ 太宗寺(六地蔵、閻魔堂、不動堂、内藤正勝の墓、キリシタン燈籠)

 今回も、
 西念寺で服部半蔵の槍(左上の写真)
 須賀神社で三十六歌仙絵(左中の写真)
 笹寺でめのう観音(左下の写真)
 を拝観することができました。
 それぞれのお寺、神社とも大変親切に対応いただきました。



 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
c0187004_8545084.jpg 10時集合で4時過ぎまで歩いたので疲れたかもしれません。
 長時間よくお付き合いくださいました。
 おかげさまで、楽しい一日をすごすことができました。
 夜のお酒は非常にうまかったです。飲みすぎたかな!
 初めてお目にかかる人もお二人とも、初めてという気がせず、ブログの良さを改めて感じました。
 一日お付き合いいただきありがとうございました。


 
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by wheatbaku | 2011-12-05 08:37 | 大江戸散歩 | Trackback
旧安田庭園②(両国散歩 大江戸散歩)
 今日も旧安田庭園の続きです。

【駒止石】 
 庭園の南東部に駒止石と呼ばれる石があります。
 駒止石の由来には八幡太郎義家の馬が走りだし、この石のところで止まったからだという説もあります。
c0187004_22583845.jpg しかし、次のような有名な由来話があります。
 寛永9年初夏、大水が出たとの知らせを受けて、3代将軍家光が直々に隅田川にお出ましになりました。
 しかし、隅田川は濁流がうずまき対岸の様子がわかりません。
 誰か見に行けといっても誰も名乗りをあげません。
 この時、将軍の勘気を蒙っていた阿部豊後守忠秋が、見事に濁流を乗り切り対岸の様子を報告し大いに面目を施したというお話です。
 その際に阿部豊後守がこの石に駒を止めたので駒止石と呼ばれるようになったというお話です。
 この近くに、駒止め井戸、駒止め稲荷、駒止め銀杏があります。
 この話は「隅田川誉れの水馬」という講談にもなっています。

【本所由来説】 
 写真の正面がスカイツリーですが。左に見えるのは両国公会堂です。大正15年に建設されました。
 現在は老朽化したため使用停止となっています。
c0187004_22585885.jpg ところで、本所という地名の由来説について、この旧安田庭園を造った本庄家に関係する説がありますので紹介します。
 その説は、桂昌院の実家である本庄家の屋敷があったため、多くの人が出入りし、「本庄に行く」という言葉が盛んに使われたことによるという説です。
 この他にも由来説があるそうですが、江戸時代の天和頃までは本庄の文字が多く使われ、元禄以降は本所の文字が多く使われているようです。
 本庄と言うと中世の荘園制度に由来する地名と考えがちですが、この辺りでは荘園の存在がはっきりしないため、墨田区の場合には荘園制度の本所や領家などとは違うものだと区史には書かれています。
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by wheatbaku | 2011-12-02 09:34 | 大江戸散歩 | Trackback
旧安田庭園(両国散歩 大江戸散歩)
今日は、旧安田庭園のご案内です。

 旧安田庭園は約4千坪あります。
 名前の通り、安田財閥の祖安田善次郎が所有していたため、この名があります。
c0187004_8495136.jpg しかし、江戸時代は、常陸笠間藩から丹後宮津藩藩主となった本庄家の下屋敷でした。
 この庭園は、元禄年間に、5代将軍綱吉の生母桂昌院の弟で笠間藩初代藩主本庄宗資(ほんじょう むねすけ)により築造されました。
 明治に入り、旧岡山藩主池田章政公の邸宅となりました。
 そして、 明治22年に安田善次郎が所有するところとなり、本邸として使用されていました。
 しかし、大正10年大磯の別荘で安田善次郎が暗殺された後、大正11年東京市に寄贈されました。
 翌年大正12年に起きた関東大震災によりほとんど庭園の昔の面影はなくなったそうです。
しかし、その後東京市により復元され、昭和2年に庭園として開園されました。
 昭和42年、東京都から墨田区に移管され、現在は墨田区が管理しています。
 入園料は無料で、入園時間は4時30分までです。
 
 入口から入るとまもなく水門の跡があります。
 c0187004_8501013.jpg旧安田庭園は安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備されました。
 隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満により変化する眺めを楽しむ庭園でした。
 このような潮入の池をもつ庭園は、他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園があります。
 しかし、隅田川の水のよごれがひどくなったため、隅田川と直接接続することは停止されました。
 そのため、水路は埋められ水門もなくなりました。
 現在は、庭園の北側の心字亭の地下にある貯水槽を利用し、ポンプで人工的に水を還流して潮の干満が再現されています。
 そのため、時間により、池の水位が上下するそうです。 
 左写真は、水門跡付近からみたスカイツリーです。
 庭園の木々は少し紅葉し始めていました。
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by wheatbaku | 2011-12-01 08:36 | 大江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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