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三河一向一揆(家康公伝  徳川将軍15代)
 徳川実紀の現代語訳「家康公伝」の逸話編の話を続けます。
 今日と明日は、「一向一揆との戦い」について書きます。

 戦国時代には、浄土真宗いわゆる一向宗の力が増し、各地で一向一揆が起こりました。
 最も力が強かったのが北陸地方で、加賀は一向宗が支配するほどでした。
 この一向一揆が三河でも起こり、徳川家康を苦しめることになりました。

  永禄6年9月、菅沼定顕が上宮寺に兵糧を強制的に徴発しました。これに対して、松平広忠が認めていた「不入権」を侵害された上宮寺は、勝鬘寺、本証寺とともに菅沼屋敷に押しよせ狼藉を働きました。
 これに対して家康は詰問状を突き付けたところ一向宗側は詰問状をはねつけ一揆を起こしました。

c0187004_8535216.jpg 上宮寺、勝鬘寺、本証寺は三河三箇寺と呼ばれ一向宗の中心寺院です。
 右写真は、本証寺です。現在の安城市にあります。

 この一揆側には、上野城主松平忠尚、足利一族の東条城の吉良義昭、家康の異母妹市場姫の夫荒川義広らも加わりました。
 そして、有力門徒である石川、本多ら家康の家臣で、一揆側に加わったものもいました。

 東照宮実紀本編の現代語訳すなわち「家康公伝1」では「小坂井、牛窪の新しい要塞に兵糧米を備蓄することになったが、御家人たちが上宮寺から籾をむやみに取り入れたので、一向専修の門徒たちは突然蜂起することがあり、譜代の御家人のなかにはこれに味方するものが少なくなかった」と書いてあります。

 しかし、一揆側に加わった門徒は弱小の小領主が多かったようです
 それに対して、一向宗の門とでも有力門徒は家康方につきました。有力門徒は家康の重臣でもありました。
 石川家成、石川数正、本多重次、本多忠勝、内藤清長、天野康景らは、宗派を浄土宗に改宗して家康につきました。
 
 一揆方は結束が固く、死も畏れないうえに、門徒の三河武士まで加わったので、一揆側は強力でした。
 家康は、必死になって戦いました。
 永禄7年1月、一揆側は、家康の本城岡崎城攻撃をめざして、岡崎城の南方にあり大久保一党が守る上和田城攻め立てました。
 この上和田の戦いで、一揆側が多勢で攻め寄せてきて、味方が苦戦に陥った時には、家康は自ら単騎で出馬し味方を救いました。
 徳川実紀の逸話編によると「家康の冑に銃弾2発が飛んできたが、鎧が堅かったので突き通さなかった」と書いてあります。
 この和田城の戦いを機に、家康は一揆側を追い込み、一揆側から和議の申し出がありました。家康は和議を結び、半年間続いた一揆は鎮圧されました。
 家康は、この後、和議を反故にし、一揆衆を完全に解体させた後、一向宗の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ場合は破壊しました。こうして19年後の天正11年(1583年)まで、三河での一向宗を禁止しました。
 また、一揆を煽動した酒井忠尚、吉良義昭らは三河国外へ逃亡しました。
この戦いは、家康にとって大きな試練でしたが、この戦いに勝利したことによって三河統一の基礎をしっかりと固めることができました。
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by wheatbaku | 2012-01-31 08:56 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
浅草散歩
 一昨日の土曜日は毎日文化センターさんの「スカイツリーの見える下町で江戸を探す」の第2回浅草散歩があり、受講生の皆さんと浅草寺を散歩してきました。

 昨日のコースは次のように、浅草寺オンリーの散歩コースでした。
c0187004_891125.jpg 雷門 ⇒ 仲見世 ⇒ 梅園 ⇒ 金龍山浅草餅 ⇒ 助六 ⇒ 平内堂 ⇒ 宝蔵門 ⇒ 五重塔 ⇒
弁天堂 ⇒ 時の鐘  ⇒ 水舎 ⇒ 本堂外陣 ⇒ 本堂内陣(観音様お参り)⇒ 浅草神社 ⇒ 二天門 
 ⇒ 石橋 ⇒ 影向堂 ⇒ 六角堂 ⇒ 銭塚弁天堂 ⇒ 淡島堂 ⇒ 新奥山 ⇒ 慈雲の泉 ⇒ 鳩ぽっぽの碑 ⇒ 迷子のしるべ石 ⇒  仲見世散歩 ⇒ 懇親会
 浅草からは、スカイツリーが真近にみられるます。いろいろなヴューポイントがありますが、右上の写真は、宝蔵門脇から見たスカイツリーです。
 
c0187004_8105177.jpg 浅草寺はお正月ですので、大勢の人が参詣していました。
 東日本大震災の影響で、一時、減少していた参拝客も戻ってきたと仲見世の人たちがおっしゃっていました。
 また、同じく東日本大震災の影響で大幅に減っていた中国など外国からの参拝客も戻ってきていて中国語が飛びかっていました。

 今年の干支は辰年です。浅草寺の山号は「金龍山」です。そこで、浅草寺にいる「龍」を次々と御案内しました。
 その主なものを紹介します。
 まず宝蔵門の大提灯の下に彫られている龍です。
 雷門の大提灯や本堂の大提灯の下にも彫られています。
 これらの龍は木彫士の渡邉崇雲さんが彫ったものです。
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 お水舎の天井には「墨絵の龍」が描かれています。東韻光さんが書いたものです。
 この龍の絵もほとんどの人が気が付きません。
 お水舎の真ん中には、高村光雲作の龍神像(沙竭羅(さから)龍王像)がまつられています。明治36年に作られたものです。
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 本堂の天井には川端竜子画伯(昭和34年文化勲章受賞)による「龍」の絵があります。
 左右は堂本印象画伯(昭和36年文化勲章受章)による「天人の図」があります。
 縦6.4メートル、横4.9メートル 畳19畳の大きさがあります。
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c0187004_8121651.jpg  浅草神社は、浅草寺のご本尊をお祀りした土師中知、檜前浜成・武成の3人をお祀りしています。
 浅草神社では、ちょうど結婚式が行われていました。
 いつもは案内が終わるとすぐにニ天門に行くのですが、今日は、花嫁がでてくるのを待っていました。
 そして、記念撮影の時に、シャッターをきりました。
 大勢の観光客もシャッターをきっていました。
 中国からの観光客も大喜びでした。
 お名前はわかりませんが、新婚のお二人の幸せを願います。

 浅草神社のお祭りは「三社祭り」ですが、今年の三社祭りは、三社祭りが行われて700年になるのを記念し、3月18日に船渡御が復活される予定です。
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by wheatbaku | 2012-01-30 08:20 | Trackback
桶狭間の戦い(徳川公伝3②  徳川将軍15代) 
 今日は、「家康公伝」から桶狭間の戦い前後の逸話を2つ挙げます。
 ①大高城への兵糧入れの成功と②大高城からの引き上げです。
 2つとも18歳でありながら沈着冷静に行動し指揮をとる家康の様子が書かれています。

 永禄3年(1560)5月に今川義元は兵を率いて上方に向かいました。
 そして、5月19日桶狭間で織田信長の奇襲により命を落としました。

【大高城への兵糧入れの成功】
 大高城は鵜殿長助長持が守っていました。しかし、織田方は大高への通路を遮断したので、城中の食糧は乏しくなってしまいました。義元は城中に兵糧を送ろうと思いましたが、この任務を引き受ける者は一人もいませんでした。
c0187004_9371284.jpg すると家康はわずか18歳でこれを引き受けました。
 そして、 家康は、大高城近くの丸根・鷲津などの砦を攻めずに、はるか遠くの砦を攻めさせ、丸根・鷲津の砦の城兵が砦の援兵にいき手薄となった隙になんなく兵糧を大高城に送ることに成功しました。
 酒井、石川などの老臣がどうやってこうした功績をあげられたのか聞くと
家康は「ただ大高に兵量を入れようとだけ思えば、丸根。鷲津などの城兵が、みんな大高に馳せ参じて防ごうとするだろう。だから両城に押しよせて敵兵をおびき寄せ、そのすきに乗じて兵糧運び入れたのだ、「近きを捨てて遠きを攻める」は兵法の定道であり、必ずしも奇巧とするにふさわしくない」と言ったといいます。

【大高城からの引き上げ】
 今川義元は、尾張に出陣するにあたって、家康を鵜殿に替えて大高城を守らせました。
 義元が桶狭間で織田信長に討たれた時、家康はその噂を聞いていましたが、真偽の程がはっきりしませんでした。この時、家康の母の於大の方の兄である伯父の水野信元から「義元が討たれた、今川方の城はみんな明けけ渡された。家康も早く城を捨てて本国に帰られよ」と伝えてきました。部下たちも家康に明け渡しを勧めた。しかし、家康は「水野信元は親族ではあるが、今は織田方に属しているので、その言葉は信じがたい。もし、その言葉が嘘であったら、武門の恥である。味方が信じるにたる情報を待つ」といって、ひたすら守りを固めました。
 しばらくした後、岡崎城を守っていた鳥居忠吉から、詳細が伝えられ、今川義元から岡崎城に付けられていた者も引き上げたということなので、「そうであるならば、大高城も引き払え」と言って、「月が出るのをまって引き上げる」と言ました。家来たちは一刻も早く引き上げようと思っていましたが、家康は悠然としていました。
そして出立の時刻になると、古例に基づき、難所ごとで松明を振るように命じ、上下30人ほどの兵士を随えて、要害に一人ずつ残して、遅れて来る者に道を知らせて、途中で一揆の人たちを追い払いながら無事に岡崎まで帰えりました。

 これを聞いた今川方の武将たちは、自分たちの行動を比較して恥ずかしく思い、織田信長は行く末たのもしい大将であると称えたそうです。
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by wheatbaku | 2012-01-27 09:35 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家康の逸話(家康公伝3① 徳川将軍15代)
 徳川実紀について書きます。
 徳川実紀は本編と付録に分かれています。
 付録は、各将軍の言行録であり逸話を収録したものです。

 「東照宮実紀」は本編10冊、付録15冊となっています。
 「東照宮実記」を現代語訳した「家康公伝」は、付録部分は「家康公伝3」と「家康公伝4」に収録されています。
c0187004_16261980.jpg とりあえ家康公伝3」を読んでみましたが、本編よりおもしろいという感想を持ちました。
 
 「家康公伝3」には、付録巻1~巻8まで収録されています。
 付録各巻の内訳は次のようになっています。
 付録巻1は家康の幼少から桶狭間の戦いまで
 付録巻2は、三河一向宗徒との戦いから三方ヶ原の戦いまで
 付録巻3は 信玄の野田城攻めから武田家滅亡まで
 付録巻4は本能寺の変から小牧長久手の戦いまで
 付録巻5は秀吉の小田原城攻めまで
 付録巻6小田原落城から家康の関東移封まで
 付録巻7朝鮮出兵のため肥前名護屋に赴くまで
 付録巻8は京伏見の大地震から関ヶ原の戦い

 巻1は、家康の幼少の頃のことが書かれています。
 付録に書かれている逸話でおもしろいと思ったできごとを3つ書いてみます。

1、家康石打を観る。
 駿河の今川氏にいた頃、石打ちと言う児童の遊びを見に行った時に野こと、一方は300人ほど、もう一方は14、50人はどでした。
 多くの人は、多勢のほうが勝と予想していました。しかし、家康は小勢の方に行きました。
 間もなく打ち合いが始まると、多勢の方は少しも持ちこたえられず、逃げ散りました
 このことを聞いた人たちは年の程にも似つかわしくない聡明さだと感心したそうです。

2、義元、感心する。
 家康が元服した時に、家康は義元に対して「私は15歳になりましたが、本国の祖先の墓参りをしていません。故郷に帰り、亡き親の法要を営み、松平家の家人とも対面したいと言った。義元も孝心の深さに感心して許しました。
 家康は大変喜び急ぎ三河にお帰りになって御先祖の追善供養など取り行い、ご家人も大変喜びました。
 岡崎に移った際も本丸に入らず二の丸に入り本丸の指示を受けまっしょうと言ったので、義元は大いに感心したとのことです。

3、鳥居忠吉、密かに米銭を貯える。
 この際に、岡崎城の留守をしていた鳥居忠吉は、家康に蔵を開けて見せて、「私が長年今川の人々に内緒でこのようなことをしましたのは、君(家康)がすぐにでも帰国され出馬されるときには、御家人をはぐくみ、軍用にも事欠かないようにするため。このように備えていました」と涙を浮かべて言いました。
 これを聞いて、家康は忠吉の長年の忠義心と資材まで用意していたことに感動し、厚くねぎらったそうです。
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by wheatbaku | 2012-01-25 16:22 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
石柱六地蔵
 先日、鶴ヶ島の小人さんから、六角形の石柱に六地蔵が刻まれているのが珍しいという話がありましたので、3つ紹介します。
 まず最初は、浅草寺の本堂の西側の影向堂(ようごうどう)の前にあります。
 浅草寺のHPには「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と書かれています。
c0187004_19294291.jpg 石幢とは何かと思い、インタネットで調べると「石塔の一。六角または八角の石柱と、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などからなる。中国から渡来し、日本では室町時代以降のものが多い」と書かれていました。
 台東区発行の「下谷・浅草 史跡をたずねて」という案内書には「六地蔵石灯籠」と書かれています。こちらの方がわかりやすい命名だと思います。
 この石灯籠が建立された年代は不明ですが、、一説によれば、久安2年(1146)に源義朝が浅草寺に参拝した折に、重臣の蒲田政清によって建立されたといわれます。
 1.8メートルほどの高さがあります。
 もとは雷門の東方の花川戸にあったもので、明治に23年になって現在地へ移されました。

c0187004_19301376.jpg 浅草寺には、もう一つ六地蔵があります。
 本堂の北西に「銭塚地蔵堂」があります。
 この「銭塚地蔵堂」は堂内の四角い石塔の上に石の六地蔵尊が祀られています。
 しかし、堂内にお祀りされていますので、よく見ないとわかりません。
 銭塚地蔵堂については、以前浅草寺の案内の中で書いていますので、銭塚地蔵堂(浅草寺ツアー⑨)  をご覧ください。

 もう一つは回向院の六面六地蔵石幢(せきどう)です。
 回向院本堂の東側にある鼠小僧次郎吉の墓のそばにあります。
c0187004_19311798.jpg この石幢は、高さが約230センチメートルあります。
 六角柱の各面に瑞雲に乗った地蔵菩薩像が半肉彫りされています。
 それぞれの地蔵菩薩の姿も鮮明に知ることができます。
 墨田区教育委員会の説明には
 この石幢には、回向院第17世得行の名号、地蔵本願経の偈頌(げじゅ)、さらに安政2年(1855年)10月2日の大地震と翌年8月25日の大水の様子が刻まれています。
これらの災害の犠牲者の供養のために、安政4年8月22日に建立されました。
 なお、願主は横山同朋町(現中央区東日本橋)の某氏で、他に造立者は八丁堀(現中央区八丁堀)の6人、石工は浅草平右衛門町(現台東区浅草橋・柳橋)の伊豆屋藤助です。
 と書かれています。

 この他にも、石柱に刻まれた六地蔵はあると思いますが、有名寺院のものを紹介しました。
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by wheatbaku | 2012-01-24 08:49 | Trackback
三方領知替え(川越城本丸御殿④ 大江戸散歩)
 今日は、川越城の本丸御殿を再建した川越藩藩主松平斉典(なりつね)について書きます。

 皆さんは三方領知替えということをご存知でしょうか。
 徳川幕府は、大名を転封させる権限を持っていましたので、諸大名を必要に応じて転封させました。
c0187004_17455592.jpg その転封は2家が絡むものが通常でしたが、転封に3家がからむこともありました。
 それが三方領知替えです。

 江戸時代、三方領知替えが数回行われましたが、その中で最も有名なものが、天保11年に行われた三方領知替えです。
 これは、川越藩 ⇒ 庄内藩 ⇒ 長岡藩 ⇒ 川越藩 というふうに3大名を転封させようとしました。
  つまり、武蔵国の川越藩主松平斉典を出羽国の庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたものです。
 この三方領知替えは、庄内藩の領民が大反対したため、実現しませんでしたが、三方領知替えの中で最も有名なものです。

 この三方領知替えを画策したのが、後年に川越城本丸御殿を建設した松平斉典でした。
 松平斉典は、川越藩の第4代藩主です。第2代藩主松平直恒(なおつね)の四男として生まれました。
 実兄で第3代藩主の松平直温(なおのぶ)が22歳で死去したため家督を継ぎ、将軍徳川家斉から偏諱を授かり斉典となのりました。
 川越藩主となった松平家は、越前藩主であった松平秀康の四男直基が初代となっています。
 この直基系越前松平家は度重なる転封により借財が多額のものとなっていました。
 松平斉典はこの借財をなんかしないといけませんでした。
 そこで、斉典は川越藩を継ぐと、農村復興を中核とする財政再建にただちに取りかりました。
 しかし、それだけでは不十分だったので、根本的な解決のために川越より財政状態の良い場所に転封することで、斉典は借財を整理しようと考えました。
 そこで、この転封をやりやすくするため、第11代将軍徳川家斉の二五男の斉省(なりさだ)を養子にとりました。
 斉省( なりさだ)の母親は家斉の側室の「お以登の方」でした。「お以登の方」は大勢の側室をもっていた家斉が最晩年に愛した側室で、男子3人女子2人の子供をもうけました。
c0187004_17464558.jpg  男子は、斉省の兄斉善(なりさわ)は越前藩松平家に養子となり藩主となりました。弟の斉宣(なりこと)は明石藩松平家に養子に行き、藩主となりました。
 文政8年(1825年)に松平斉典は斉省を養子としましたが、斉典には後継ぎとなるべき男子がいましたが、それを抑えての養子縁組だったそうです。
 そして、斉省の実母・お以登の方を通じて大奥にも画策し、天保11年(1840)庄内藩への転封が成功しました。
 しかし、庄内藩の領民は、この領知替えに猛烈に反対しました。藩内の各地の村で、村役人の指導の下、村民が一揆を起こしたのです。
 これ題材に藤沢周平が書いた時代小説が「義民が駆ける」です。
 また、この一揆の一部始終を克明に描いた「夢の浮橋」という絵巻も残されています。
 

 そして、翌年の天保12年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの問題に対する批判が高くなりました。 そして、同年7月に12代将軍徳川家慶の判断によって三方領知替えは中止されました。
c0187004_17504046.jpg  この三方領知替えの騒動の最中、斉省(なりさだ)は天保12年(1841年)5月に家督を継ぐことなくなくなりした。
 本丸御殿が完成して2年後の嘉永3年(1850)に斉典がなくなった後は、典則(つねのり)が藩主となりました。
 斉典のお墓は喜多院の境内のなかにあります。
 喜多院の本堂の南西の一角に、松平大和守家の墓所があります。
 その墓所には、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりのり)、直侯(なおよし)と5人のお墓があります。
 しかし、東日本大震災の影響で墓地に入ることが禁止されていました。
 左写真は、墓所外からとった斉典のお墓です。
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by wheatbaku | 2012-01-23 08:21 | 大江戸散歩 | Trackback
川越城本丸御殿③(大江戸散歩)
 今日は、川越城の本丸御殿の内部を紹介します。

 本丸御殿の玄関は大きな唐破風屋根になっています。開口部は間口13間もあります。
c0187004_10245465.jpg その玄関をあがると正面が大広間です。
 大広間は撮影禁止ですので、廊下から撮影した写真が下の写真です。
 写真右手の部屋が大広間です。
 ここは36畳の広さがあり本丸御殿で2番目に大きい部屋でした。
 江戸時代には、来客が藩主に謁見するまでの間、ここに待機していたと考えられています。
 藩主への拝謁は大書院で行われたようですが、大書院は現存している建物の南側にありましたが、明治になって解体され現在は残っていません。
 
【本丸御殿の『明治以降の歴史】
 川越城の本丸御殿は、明治以降、いろいろな用途に利用されてきました。
c0187004_10174137.jpg 明治以降、玄関・大広間部分は入間県の県庁舎として利用され、入間県が熊谷県と合併して埼玉県になった際には入間郡公会所になりました。
 更に大正7年には煙草専売局淀橋支局川越分工場として煙草工場へと転用されました。
 そして、昭和8年には川越地方武道奨励会の修練道場となり、名称も初雁武徳殿になりました。
 戦後は川越市立第二中学校(現在は初雁中学校)の屋内運動場や校舎やとして使用されました。
 しかし、このようにいろいろな用途に活用されたため残されたという面があります。
 大広間が屋内運動場として利用されたこともあるため、昨日のコメントでハカマオーが書いてくれたように天井にはバレーボールのあたった跡がクッキリと残っています。
 バレーボールの跡を撮影しようと思いましたが、大広間は撮影禁止ですので撮れませんでした。


【本丸御殿の杉戸絵】
 大広間の周囲には杉戸絵が描かれています。c0187004_10385164.jpg しかし、この広間だけが撮影禁止ですので、杉戸絵を撮影できませんでした。
 右の写真は大広間の隣の部屋の「使者の間」の大広間との間にもいれられている杉戸絵の写真です。 「竹林図」と名付けられています
 この杉戸に描かれた絵と同じような杉戸絵が大広間に描かれています。

 下の写真は、使者の間の反対側の杉戸絵です。これも「竹林図」と名付けられています。
c0187004_10185493.jpg  本丸御殿の杉戸絵を描いたのは、川越藩御用絵師の舩津蘭山(ふなつらんざん)です。
 舩津蘭山の家系は代々武蔵国入間郡岸村(現川越市岸町)の名主でした。
 絵は表絵師の狩野章信に師事しました。蘭山は岸村名主であったため職業絵師ではありませんでした。
 しかし、比較的多くの絵が川越周辺に残っているそうです。
 川越城本丸御殿内の杉戸絵は、松平斉典の命により、7年あまりにわたり画きあげたものです。
 現在14枚22面の杉戸絵が本丸御殿に残っているそうです。

【家老詰所】
 本丸御殿の一部であった家老詰所は、江戸時代は大広間西側から西に延びる大廊下の先にありました。
c0187004_10192522.jpg 家老詰所は、明治5年に福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられ、解体移築されていました。
 それが、昭和63年に移築復元されたものです。
 家老詰所の建物は家老詰所(十畳)年寄詰所(8畳)記録方詰所(12畳)などがありました。
 写真は家老詰所の様子です。人形たちで家老たちが用談している様子が描かれています。

【「JIN-仁-」出演者のサイン】 
c0187004_10231082.jpg 昨年、ドラマ「JIN-仁-」がヒットしました。私も後半は欠かさずに見ました。
 読者の皆さんもご覧になった方がいらしゃると思います。
 その「JIN-仁-」の撮影にこの本丸御殿が使われたそうです。
 ドラマ前半で川越城での会議のシーンがあったそうですが、それが大広間で撮影されたんだそうです。
 第4話の台本が展示されていたので、第4話ではないかと思います。
 御殿内にはドラマ「JIN-仁-」のポスターが貼ってありました。

 そして、その下には出演者のサインがありました。
 左が大沢たかおさん、真中が綾瀬はるかさん、右が桐谷健太さんのサインです。

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by wheatbaku | 2012-01-20 10:16 | 大江戸散歩 | Trackback
川越城本丸御殿②(大江戸散歩)
 今日は、川越城の本丸御殿を紹介します。

【川越城の歴史】
 川越城は、扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するため、長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。
c0187004_11343914.jpg 戦国時代になって、後北条氏は、天文6年(1537)川越城を攻め落としました。
 そして、天文15年(1546)扇谷上杉氏は、山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城の奪回を図りましが、上杉氏は後北条氏の奇襲に会い大敗しました。この戦いが河越夜戦と呼ばれる戦いです。
 それ以後、川越城は、武蔵攻略の拠点となり、城代として大道寺氏が配置されました。
 しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城しました。
 同年8月得川家康が関東に入封した際に川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。
 寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は川越城の大幅な拡張整備を行いました。
 これにより、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、4つの櫓、13の門よりなる大規模な城郭とない、総坪数は9万9千坪もありました。

【本丸御殿の歴史】
 川越城本丸には、江戸時代初期には、本丸御殿がありましたが、3代将軍家光没後、将軍の川越来訪はほとんどなくなり、本丸御殿の御成御殿としての役目もなくなったため、いつしか本丸御殿は解体され、空き地になったと考えられています。
c0187004_1135360.jpg 江戸時代末の弘化3年(1846)、城主の居所である二の丸御殿が火災によって焼失してしまいました。
 こうして嘉永元年(1848)、時の城主松平斉典(なりつね)によって本丸に新たな御殿が建てられたのです。

 当時は川越藩の歴史の中でも最大の石高(17万石)を領していた時期であり、 本丸御殿は、江戸城の本丸御殿と同じように、表・中奥・奥の三つの区域に分かれていました。
 日本国内でも本丸御殿が現存している例は珍しく、昭和42年に埼玉県の指定文化財になりました。
 そして、平成20年10月から平成23年3月まで保存修理工事が行われました。

c0187004_11352479.jpg
 上の絵図は、本丸御殿に掲示されていたものです。赤線で囲まれている部分が現存している部分です。 
 本丸御殿は16棟、1025坪の規模を誇っていました。
 現存する建物は往時と比べ、しきち面積にして8分の1、建坪で6分の1の規模でしかないそうです。
 下の赤線で囲まれた部分が大広間等のある部分で、上の部分が家老詰め所です。
 本丸御殿の一部であった家老詰所は、明治維新後に福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられていたものを、昭和63年に復元移築されたものです。
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by wheatbaku | 2012-01-19 11:42 | 大江戸散歩 | Trackback
川越城本丸御殿①(大江戸散歩)
 先週土曜日に、毎年恒例にしている川越喜多院での護摩札授与にいってきました。

c0187004_11321140.jpg 松の内も明けたので比較的落ち着いていました。
 喜多院は平安時代に創建された古刹で、江戸時代には天海僧正により徳川幕府の帰依を受け大いに繁栄しました。
 喜多院については、昨年正月にブログに3回にわたり書きましたので、詳しくは 「喜多院」 をご覧ください。

 折角、川越に行きましたので、埼玉県の指定有形文化財となっている「川越城本丸御殿」(下写真)を見てきました。
 江戸時代末期の嘉永元年(1848)に、時の城主松平斉典(なりつね)によって建築されたものです。
 本丸御殿については詳しくは明日書きますが、今日は、川越藩の歴史を書きます。

 徳川家康が、関東に入国した際、左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の祖である酒井重忠が1万石で川越に配置されます。
c0187004_11323859.jpg  酒井家はもとをただせば松平家の親戚である譜代の名門で、徳川家康を助けて天下取りに重要な役割を果たした家柄です。
 松平家の初代親氏が三河に流れてきた時に松平家の婿となる前に酒井家の婿となり酒井清親をもうけました。
 清親の子供の氏忠の子孫が、その本家筋にあたります。本家筋は左衛門尉家(さえもんのじょうけ)と呼ばれます。
 この系統が徳川四天王の一人である酒井忠次を出した家です。
 その分家筋が雅楽頭家です。氏忠の弟家忠から始まっています。
 重忠は別家として、家康から取り立てられました。。
 その雅楽頭家の酒井重忠が配置されたということは川越を徳川家康も重視していたことの表れといえます。
 酒井重忠が前橋に転封された後は、酒井重忠の弟の忠利が藩主となりました。
 酒井忠利は、雅楽頭家の分家として取り立てられ、この系統はのちに、忠利の子供の忠勝が若狭藩に転封になった後は小浜藩の藩主となり明治まで続きます。

 酒井家はじめ歴代の川越藩の藩主は次のようになります。赤字は大老(または大老格)や老中となった藩主です。

 酒井雅楽頭家(本家) 酒井重忠
 酒井雅楽頭家(分家) 酒井忠利  ⇒ 忠勝(老中のち大老)
 堀田家      堀田正盛(老中)
 大河内松平家 松平信綱(老中) ⇒ 松平輝綱 ⇒ 松平信輝
 柳沢家      柳沢吉保(大老格)
 秋元家      秋元喬知(たかとも:老中) ⇒ 秋元喬房(たかふさ) ⇒ 
           秋元喬求(たかもと) ⇒ 秋元凉朝(すけとも;老中)
 越前松平家  松平朝 (とものり) ⇒ 松平直恒(なおつね) ⇒ 
           松平直温(なおのぶ) ⇒ 松平斉典(なりつね) ⇒
           松平典則(つねのり) ⇒ 松平直侯(なおよし) ⇒ 
          松平直克(なおかつ;政事総裁職)
          ※政事総裁職は幕末に設けられた役職で従来の大老にあたります。
           初代政事総裁職は松平春嶽です。
 松井松平家  松平康英(やすひで;老中) ⇒ 康載(やすとし)
 
 見ていただいてわかるように親藩や譜代の有力な大名が配置されました。
 そして藩主は老中になった者も数多くいます。21人の藩主のうち老中を6人出しています。
 大老または大老格となった藩主は3人います。
 このように幕閣の有力者を輩出した川越藩主になることは譜代の名誉でもあり憧れでした。
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by wheatbaku | 2012-01-18 11:50 | 大江戸散歩 | Trackback
禅定院(御府内八十八ヶ所めぐり)
 昨日の三宝寺に続いて、今日は、「禅定院」です。
 禅定院は、御府内八十八ケ所の70番札所です。

 禅定院は、三宝寺の手前にあります。
石神井公園駅から距離は約1キロメートルあり、歩くと10分程度です。
 禅定院前」というバス停があり、石神井公園駅からは、西武バスと関東バスが出ています。
 バス停からは1分です。

c0187004_17273212.jpg【禅定院の由来】
 禅定院は、照光山無量寺といい、真言宗智山派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。
 今から約600年前、願行上人という人物によって開かれたお寺であると伝えます。
 文政年間(1818~30)の火災で、建物・記録などことごとく焼失しましたが、境内にある応安・至徳(南北朝時代)年号の板碑があるため、この寺のも創建の古さをうかがうことができるそうです。


c0187004_17275236.jpg【キリシタン灯籠】
 本堂前のねりまの名木である大きなヒヨクヒバの下に区指定の文化財・織部灯籠(別名・キリシタン灯籠)があります。
 寛文13年(1673)と刻まれています。
 この織部灯籠は、竿にマリア像に似た石彫りがあり、別名キリシタン灯籠といわれています。
 これと同じ形のものが、新宿の太宗寺にもあり、おなじように「キリシタン灯籠」と呼ばれていました。

c0187004_17281437.jpg【六地蔵】
 キリシタン灯篭の脇には石造の六地蔵があります。
 六角形の石柱の六面にお地蔵様が刻まれています。
 この六地蔵は石神井村の光明真言講中によって造立されたものだそうです。
 またと鐘楼前に大宝篋印塔がありましたが、これも光明真言講中により建立されたものだそうです。


c0187004_17283390.jpg【いぼ神地蔵】

 鐘楼脇の墓地入口には、「いぼ神地蔵」がありました。
 いぼの治癒に霊験のあるそうです。



赤印が禅定院です。石神井公園の南にあります。

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by wheatbaku | 2012-01-17 14:39 | 御府内八十八ヶ所 | Trackback
  

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