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秀忠の鷹狩り(徳川将軍15代)
 今日は、雪が降りました。もう明日は3月だというの今年はなかなか暖かくなりません。
 ところで、今日は2代将軍秀忠の鷹狩りについて書いてみます。

 2代将軍秀忠も鷹狩りによく出かけました。
将軍就任前から死去する前年の寛永8年(1631)まで、ほぼ毎年、武蔵国川越、鴻巣、浦和や上総国東金周辺に出かけました。
c0187004_1759577.jpg 家康がなくなった後は、武蔵国忍(おし)にも出かけました。忍は家康が好んで出かけた場所であったため、家康が生きている間は遠慮したと言われています。
 これらの中で、特に東金周辺には毎年のように出かけていました。
 秀忠も数多く鷹狩りに出かけましたが、家康のように1カ月を超える鷹狩りはなく、ほとんど1週間から2週間程度でした。また、回数も家康には及ばなかったようです。
 鷹狩りでも、秀忠は、鷹を使った狩猟より鉄砲による狩猟を得意としていました。

 秀忠の時代に、鷹狩りに関係して幕閣が失脚する大事件が発生しています。
 慶長11年正月、関東総奉行の内藤清成と青山忠成が失脚しました。
 内藤清成は、高遠藩内藤家の藩祖で、青山忠成は幕末には丹波笹山藩主であった青山宗家の藩祖です。 二人とも、家康から厚く信頼をされていた重臣でした。
 鷹場では鳥の殺生が禁じられていました。
 しかし、家康が鷹狩りに出かけたところ、鷹場で鳥をとるため罠を仕掛けている農民たちを見かけました。
 そこで、農民たちに聞くと、関東総奉行から許しを得ているとのことでした。
 播いた麦を野鳥に喰いあらされていた農民は、総奉行に願い出て、野鳥の捕獲を許されていました。
 これを知った家康は激怒し、関東総奉行の処分を求め、秀忠は関東総奉行の内藤清成と青山忠成を解職せざるをえませんでした。
 家康は、二人の解職まで考えていなかったが、本多正信の両者へのねたみから解職になってしまったという説もあります。
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by wheatbaku | 2012-02-29 18:00 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
亀戸散歩 (大江戸散歩)
 鷹狩りの話の途中ですが、先週の土曜日2月25日に、毎日文化センターさんの主催講座「スカイツリーの見える下町で江戸を探す」の第3回講座亀戸散歩がありましたので、今日は「亀戸散歩」について書かせてください。 

【東京スカイツリー】
 今回の亀戸散歩は、東京スカイツリーを間近に見られる地区での散歩なので、散歩中至るところで、東京スカイツリーが見られました。
c0187004_112399.jpg 左はその中の一枚、亀戸天神の本殿越しに見る東京スカイツリーです。
 当日は曇り空でしたのでくっきりと写真は撮れませんでした。
 写真はくっきりとは撮れませんでしたが、青空のスカイツリーとは違って曇り空のスカイツリーも趣がありました。
 
c0187004_1125837.jpg 左写真は、下見の時に、浅草通りと北十間堀川を跨ぐ歩道橋から撮影したものです。
 右下の川が北十間堀川で、左側の道路は浅草通りです。
 夕暮れ時のスカイツリーも素晴らしいものでした。

 今回のコースは、次のような東武亀戸線の亀戸水神駅から京成線押上駅までのコースでした。
 亀戸駅 ⇒ 亀戸天神駅 ⇒ 水神社 ⇒ 常光寺 ⇒ 東覚寺 ⇒ 香取神社 ⇒ 普門院 ⇒ 亀戸天神 ⇒ 船橋屋 ⇒ 龍眼寺 ⇒ 法性寺 ⇒ 春慶寺  

 亀戸地区の神社仏閣は、亀戸七福神の寺社と重なっています。

 ちなみ、亀戸七福神は次のようです。
 常光寺 【寿老人】、東覚寺 【弁財天】、香取神社 【恵比寿神】【大国神】、
 普門院 【毘沙門天】、天祖神社 【福禄寿】、龍眼寺 【布袋尊】
 亀戸七福神めぐりは、すでに訪れていて、ブログにも書いていますので、 亀戸七福神  をご覧ください。 
 また、亀戸天神は、東京10社めぐりでも参拝しています。  亀戸天神社(10社巡り)  をご覧ください。

【菜種御供(なたねごく)】
 2月25日は、奇しくも亀戸天神の御祭神菅原道真公が亡くなった日でした。
c0187004_1143273.jpg この2月25日は、亀戸天神では「菜種御供(なたねごく)」が行われます。
 これは、“なたね”が“なだめ”に通じることから、天神様の神前に菜の花をお供えし、菅原道真公の心を慰めする神事だそうです。
 神事は11時から行われましたので、私たちが行った時にはすでに終わっていましたが、多数の菜の花が社殿に供えられていました。

【船橋屋の暖簾】
c0187004_115105.jpg
 亀戸天神の門前には、くず餅で有名な船橋屋があります。
 船橋屋は、文化2年(1805年)の創業の老舗です。
 船橋屋は、店内でくず餅やあんみつなどを食べることができますが、予約はできません。
 当日は、曇り空でしたので、お客が少なくて店内で食べらるだろうと期待していきましたが、残念ながら満席でしたので、おみやげを買うだけにしました。
 その時に、暖簾の最後に「英治」と書かれているのが話題になりました。
 上の写真の左端に「英治」と書かれています。
c0187004_1152725.jpg   多分「吉川英治」の書だろうということになったので、お店の人に伺ったら、「そうです。吉川英治さんの書です。店内には看板があります。」ということなので、店内にある昔の看板も見せてもらいました。
 左の写真が吉川英治の書いた船橋屋の看板です。店内に掲げられています。
 
 亀戸地区を歩いた後は、柳島橋をわたり、業平地区にある「柳島妙見様」と「春慶寺」を拝観しました。そして、居酒屋で打ち上げでした。

 亀戸散歩で御案内したお寺や神社については、鷹狩りの記事が終わった後、改めて書いていきます。
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by wheatbaku | 2012-02-28 11:28 | 大江戸散歩 | Trackback
家康の鷹狩り②(徳川将軍15代)
今日は鷹狩りがどのように行われたについて書いていきます。

【鷹狩りの独占】
 天皇の鷹狩りは、中世の段階で行われなくなっていました。しかし、公家の鷹狩りは豊臣秀吉の時代まで継続されていました。例えば、近衛前久は鷹狩りの故実に精通していました。
  しかし、慶長9年8月23日公家の鷹狩りが禁止されました。
 さらに慶長17年6月7日には、それぞれ家の学問や行儀に精励し、鷹をもたず鷹狩りもしないという内容の請書を提出するよう命じられています。
c0187004_812292.jpg  幕府はこの請書を公家全員から徴集しました。
  こうして公家の鷹狩りを禁止した家康は、慶長17年正月、家康自らが鷹狩りで獲った鶴を天皇に献上し、これ以後、これが恒例となりました。

【鷹の確保】
 豊臣秀吉は良質な鷹を確保するため、日向と松前を鷹確保の重要拠点と位置付け対応しました。
 家康はそれを踏襲し、慶長9年、日向については、肥後人吉城主相良氏に米良山の管理を任せ、松前鷹についても慶長9年松前氏献上の鷹輸送に際して松前から京までの宿に対してその賄いと鷹餌の提供を命じ、慶長16年には松前氏の献上鷹の輸送を松前江戸ルートに変更しその間の人足・伝馬・鷹餌の提供は奥羽大名の課役として命じ、松前氏に対して特権を与えました。これにより恒常的な松前鷹の確保を図りました。
 鷹の確保には、この他、鷹匠を諸国に派遣して手にいれる方法があり、さらに諸国大名たちや朝鮮国からの献上によるものがありました。
 こうして、各地で産出する鷹は将軍に集中するようになりました。
 この鷹は将軍の鷹狩りに使用される鷹となり、一部は諸大名に下賜されました。

【鷹狩り儀礼】
 鷹狩りの儀礼の中で代表的なものは鷹狩によって鷹が獲った獲物としての「鷹の鳥」の下賜があります。
 鷹の鳥の諸大名への下賜は、家綱の時代には、4月の梅首鶏・鷭(いずれもバン)、7月の雲雀、8月から10月にかけての鶴、11月の鴈がありました。
 そして、7月から8月にかけての天皇への鶴、鴻、白鳥の進上儀礼もありました。
 この諸鳥の下賜・進上儀礼は、幕府の年中行事となっていました。対象は、天皇、諸大名、幕府重臣で、御三家の嫡子などもありました。どの家にどの鳥を下賜するかが一定の形式のもとに行われていました。
 鷹の鳥を下賜された大名は、他の大名や家臣を招き供応するのが決まりでした。

【鷹匠】
 鷹狩りを主導するのが鷹匠です。その責任者が鷹匠頭です。
 鷹匠頭の家格は、享保以降で、定員2人、若年寄支配、山吹間詰、布衣着用を許されました。部下には鷹匠組頭、鷹匠、これらは御目見以上、御目見以下で鷹匠同心、鷹部屋番人などがいました。
 家康に仕えた鷹匠頭二人を紹介します。
 まず小栗久次です。
 小栗久次は、三河国青野に住んでいた時、家康の鷹狩りがあり、その時に召しだされ鷹匠同心や鳥見役を支配しました。一方、三方ヶ原、長久手、関ヶ原の戦いなど先陣でも功をあげ、1870石を知行しました。その後、子孫は5代にわたって鷹匠頭を世襲し、孫の代には1300石だったことが分かっているそうです。
 また、間宮左衛門信繁は、北条氏直に仕えていたが北条氏の滅亡後家康のところに出仕しました。関ヶ原の戦いに鷹同心20人に鉄砲を持たせ参陣し、戦後1700石を領し、子孫が5代にわたって鷹匠頭を世襲しました。
 二人の鷹匠頭の石高を見ると1000石を超えています。この石高の高さから鷹匠頭の地位の高さが想像できます。
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by wheatbaku | 2012-02-27 08:08 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家康の鷹狩り①(徳川将軍15代)
 鷹狩りは、古代から権力者に独占されてきました。
 記録として最古のものは仁徳天皇の時代の記録がありますが、その後も、天皇や公家、将軍や大名などが鷹狩の中心でした。

 その中でも、徳川家康は鷹狩りが大好きでした。
 下の駿府城にある家康の銅像も鷹狩りをしている姿です。
 その生涯で1千回以上の鷹狩りを行ったと言われています。
c0187004_8502277.jpg 家康は、幼少の頃から、鷹が好きだったそうです。
 家康公伝には、家康が、尾張で人質でいた時代に、鷹狩りを行い、しばしば孕石(はらみいし)主水という武士の屋敷の森に鷹がとまり、孕石主水が苦情をいったという話や、今川氏の人質になっていた時に、百舌鳥を鷹のように飼いならそうとして鳥居忠吉を廊下から突き落としたという話など、鷹狩りに関する話がしばしば出ています。

 鷹狩りの効用について家康は「およそ鷹狩りは遊娯の為のみにあらず、遠く郊外に出て、下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし、筋骨労働し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、おのづから病などおこることなし」といっています。
 鷹狩りは、娯楽だけでなく、民衆生活の視察、士風刷新、健康増進を図るうえで大きな利点があることを述べています。
 鷹狩りは軍事訓練と機能したり、地方に鷹を求めにいく鷹匠は情報収集もその職務に加えられていたと云います。このように鷹狩りは個人的な側面だけでなく政治軍事面でも大きな役割を果たしていました。

 家康の鷹狩りは、日帰りのもの、一ヶ月にわたるもの、さらに永いものでは三ヶ月にわたるものまでありました。
 その場所も、居城周辺から遠隔地に遠征するものまで様々でした。
 5カ国領有時代には、浜松城下、三河国吉良、尾張国田原、遠江国中泉などだったようです。
 関ヶ原の戦い以後は、武蔵国岩槻、忍、鴻巣、川越、越谷、大宮、浦和、戸田、葛西、相模中原、上総東金などに出かけることが多かったようです。やはり江戸の周辺で行うようになっています。

 家康がなくなったのは、元和2年(1616)4月17日駿府城においてですが、病気が発病したのは、駿府の田中に鷹狩りにいっていた時です。
 家康は、死ぬ直前まで鷹狩りを楽しんだことになります。
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by wheatbaku | 2012-02-24 08:36 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
萬年堂(江戸からの和菓子)
 銀座の萬年堂に行ってきました。
 ここの名物は「御目出糖」というおめでたい名前のお菓子です。
 飯田橋にもお店があるので、以前、そちらで手に入れたことはあるのですが、お店の歴史等は本店で聞いてくださいということで、銀座にある本店を訪ねました。
  
【萬年堂の歴史】
c0187004_164140.jpg 萬年堂さん本店は、銀座にあります。東京メトロ銀座駅のA4番出口から6分程度、JR新橋駅銀座口からは5分で行けます。 
 萬年堂さんは、京都が創業の地です。
 元和3年(1617)京都寺町三条にて「亀屋和泉」を名乗り創業したそうですので、創業以来400年余りがたった老舗中の老舗です。
 京都で、御所、所司代、寺社等に菓子を納めていたそうですが、明治5年、遷都に伴い東京八重洲北槇町にお店を移して、「亀屋和泉萬年堂本店」の看板を掲げました。
 しかし、そのお店も震災 戦災で焼失し、銀座に移転したそうです。
 現在は、銀座に本店、浅草橋に支店があり、のれん分けしたお店として飯田橋に「いいだばし萬年堂」があります。

【御目出糖(おめでとう)】
 萬年堂さんの名物は、なんといっても「御目出糖」です。
 c0187004_1641773.jpgこのお菓子は、元禄年間から作っているそうです。もともとは江戸時代の初めに朝鮮から伝わったと言われる高麗餅がありました。
 その高麗餅を萬年堂で工夫をして赤飯様にしました。それを明治中頃に赤飯様の見た目から「御目出糖」と命名して、御祝儀菓子として販売しています。
 なお、本来の高麗餅を現在でも販売しています。
 
 写真の右が高麗餅、真ん中と左が「御目出糖」です。

 「御目出糖」のようなお菓子は滅多にみたことがないので、どう作るのか教えてもらいました。
 c0187004_1645098.jpg 御主人によると、これは、小豆あんに、数種類の餅粉・米粉類を混ぜてそぼろ状にして大納言(豆の名前)の蜜漬けを散らし蒸して作るそうです。
 作るのに3日間かかるといっていました。
  そぼろ状になっているのがわかるでしょうか?
  自宅で早速いただきました。
  甘味は抑えられていて、食感ももちもち感があります。
  見た目もきれいで、まさにご祝儀に最適です。
  常温で5日持つそうです。でもすぐに食べてしまいました。

c0187004_1643233.jpg 【太田蜀山人の書】
 お店には、太田蜀山人の書が展示されていました。
 ご主人に読み砕いていただきました。

 「万年とかぎれる亀も尾のながき ともにひかれて億兆やへん」

だそうです。
 まさに、萬年堂さんにふさわしい歌となっていて驚きました。
 その他にも永井荷風の色紙も飾られていました。
 こちらは、季節に応じて架け替えているそうです。
 御主人にはいろいろ教えていただきました。ありがとうございました。


 赤印が萬年堂さん本店です。
 この地図は新橋から描いていますが、東京メトロの銀座駅からも、そんなに遠くはありません。
 住所は東京都中央区銀座8-11-9です。




 
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by wheatbaku | 2012-02-22 08:32 | 江戸からの和菓子 | Trackback
勝海舟ゆかりの地(大江戸散歩)
 昨日の江戸検1級会の定例会の続きです。
 今回の定例会は、「鬼平と勝海舟の住まいを巡る」というタイトルで、鬼平と勝海舟のゆかりの地を訪ねました。
 今日は、勝海舟のゆかりの地について書いていきます。

 ご存じのように、勝海舟は、青年まで本所で暮らし、24歳以降は赤坂で暮らしました。
 定例会は、赤坂から始まりましたので、青年になってからの住まいをまず秋山太兵衛さんにご案内いただきました。

【みすじ通りの勝海舟旧宅跡】 
c0187004_1546946.jpg 勝海舟が、結婚してから赤坂に転居して、最初に暮らした住まいが、赤坂田町にありました。現在のみすじ通りに面していたとのことでした。
 勝海舟は、蘭学を筑前藩黒田家の永井青崖に蘭学を学んでいました。
 永井青崖は赤坂に住んでいましたので、本所から通っていましたが、海舟が結婚した後、24歳の時に赤坂に転居しました。
 そして、自分の住まいで私塾「氷解塾」を開きました。
 勝は貧乏でしたので、辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写して、1部は自分のために使用し、1部は売ってお金にしたそうです。

【氷川下の勝海舟旧宅跡】 
 次いで住んだのが、氷川下でした。幕臣として活躍した時代は、この屋敷に住んでいました。
c0187004_15463975.jpg その屋敷跡のレストランの前に説明板も設置されていましたが、レストランの前で説明を聞きました。写真の右端がレストランです。
 ここには安政6年(1859)37歳のから明治元年(1868)の46歳まで約10年間住んでいました。
 勝海舟は、安政6年の6月にここに住み始めましたが、翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。
 その時期は桜田門外の変が起きた頃で、桜田門外の変が起きた時は、時海舟はサンフランシスコにいました。
 また、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でしたし、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷でした。
 そして明治元年46歳のときに、徳川慶喜に従って静岡に移るまでここに住んでいました。

【旧氷川小学校の勝海舟旧宅跡】 
  赤坂で最後に暮らしたのが、旧氷川小学校です。ここで勝海舟が晩年を過ごしました。
c0187004_1547524.jpg 石碑と説明板の前で説明を聞く参加者たちです。
 明治になって、海舟は駿府に転居します。海舟は明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまでここに住み、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。
 この屋敷は元旗本柴田七九郎の屋敷だったそうです。

【勝海舟揺籃の地】 
 赤坂から鉄砲洲・石川島・菊川と鬼平ゆかりの地を観ながら最後に本所まで移動しました。
 ここが、海舟が青年時代を過ごした場所です。
c0187004_15473631.jpg 勝海舟が生まれたのは、現在の両国公園です。両国公園には勝海舟生誕の地の碑がたっています。
 そして、その後、本所を転々とします。そして海舟7歳の時に住んだのが岡野孫一郎の屋敷内と言われています。結婚して赤坂に転居するまでの間ここに住んでいました。
 その屋敷があった近くの坂田建設の玄関に「勝海舟揺籃の地」の碑がたっています。
 その前で、秋山氏から説明がありました。

 以上、2日間にかけて、定例会の様子を書きました。新しい発見があり楽しい定例会でした。秋山さんありがとうございました。
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by wheatbaku | 2012-02-21 08:25 | 大江戸散歩 | Trackback
鬼平ゆかりの地散歩(大江戸散歩)
 昨日、江戸検1級会の定例会が行われました。
 従来の定例会は、浅草とか品川とか地区別に史跡をめぐる散歩でした。
c0187004_850076.jpg 今回の定例会は、従来と異なり、テーマに沿って、史跡をめぐる散歩でした。
 今回のテーマは「鬼平と勝海舟の住まい巡り」というテーマで、鬼平こと長谷川平蔵と勝海舟のゆかり地を訪ねる散歩でした。
 今回の案内人は、 鬼平に憧憬の深い秋山太兵衛氏です。
 実におもしろい説明で勉強になりました。秋山さんありがとうございました。

 今回のコースは、地下鉄移動を織り込んで、概ね次のようなコースでした。
 赤坂 ⇒ 鉄砲洲 ⇒ 石川島 ⇒ 森下 ⇒ 菊川 ⇒ 本所 ⇒ 錦糸町
 上写真は、赤坂のBizタワーの前で今日のコースの説明を受ける参加者です。

【鬼平誕生の地】 
 最初に案内してもらったのが、鬼平の生まれた場所です。
c0187004_8542849.jpg 当時は赤坂築地と呼ばれたようですが、現在は港区赤坂6-11あたりです。 道路脇のビルとなっています。
 ところで、鬼平は単に長谷川平蔵と言われますが、長谷川平蔵は5人いました。
 鬼平は長谷川平蔵宣為(のぶため)と言い、父は長谷川平蔵信雄と云いました。 父の宣雄も火付盗賊改を勤めました。
 そこで長谷川平蔵と書くと紛らわしくなるので、長谷川平蔵宣為は鬼平と書きます。
 鬼平は延享3年(1746)に生まれました。そして5歳まで、ここで過ごしたそうです。

【鬼平揺籃の地】 
 その後、転居したのが、鉄砲洲稲荷神社の近くです。そこで、赤坂から八丁堀まで地下鉄で移動しました。
c0187004_8545294.jpg 鉄砲洲稲荷の南側の拝領屋敷で、鬼平は5歳から19歳までここで過ごした揺籃の地だそうです。
 長谷川家は、三方ヶ原の戦いで亡くなった長谷川正長が初代と言われています。
 その長谷川正長の三男の家系が、鬼平の流れです。
 本家は1450石の大身旗本ですが、鬼平の家は分家であるため400石でした。

【鬼平屋敷の跡】 
 その後、鬼平が19歳から亡くなるまで住んでいたのが本所です。都営地下鉄「菊川」駅の近くにあります。
 鉄砲洲からは石川島に渡り、「月島」駅から地下鉄で移動しました。
c0187004_8551414.jpg 鬼平は、42歳で火付盗賊改の助役となり、翌年火付盗賊改の本役となりました。
 ここが火付盗賊改の役宅となった場所です。
 ここで取締りの指揮をとったのでした。
 鬼平は、火付盗賊改を8年間も勤めました。
 こんなに長く勤めたということは、鬼平の能力の高さを表していると思います。
 この屋敷、 鬼平の子宣義の時代に、遠山金四郎の屋敷になっています。
 時代劇の有名人が同じ屋敷に住んでいたことにビックリです。
 ここだけは、説明板がありました。

【石川島の人足寄場の跡】 
 こちらは、石川島の灯台前で、人足寄場について説明を聞く参加者たちです。
c0187004_8553368.jpg 鬼平は、江戸の犯罪を減らすためには無宿人対策が必要と考え、人足寄場の設立を、時の老中松平定信に具申します。そして、石川島に設立されることとなり、鬼平自身が責任者となって運営にあたりました。
 寄しくも定例会の日つまり2月19日は、人足寄場の設立が決定した日だと聞いてみんな驚きました。
 さらに2月19日は設立記念日として人足寄場では休日だったという説明があり、二度ビックリでした。

 最後におまけです。
 先週の「ブラタモリ」を見た方もいらっしゃると思います。前回は「江戸の運河」でした。
c0187004_8555549.jpg  番組の中で、六間堀が埋め立てられた話がありました。その六間堀は森下駅の近くでした。
 そこで、秋山氏、わざわざ六間堀跡を通ってくれました。
 その時、ブラタモリに出ていらっしゃたカサイ商店の奥様に逢うことができました。
 下町の人らしく気さくで親切でした。
 タモリさんは突然訪ねてこられたんだとか、久保田アナは、映像でみるよりずっときれいでしたなどのお話を聞くことができました。
 奥様、ありがとうございました。東京を歩いていると時にはこんな出会いがあります。 

 明日は、勝海舟ゆかりの地のお話をします。
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by wheatbaku | 2012-02-20 08:49 | 大江戸散歩 | Trackback
亀戸升本(江戸の老舗の味)
 来週の土曜日は、毎日文化センターの講座で亀戸を散歩します。
 そこで下見のため亀戸に行った際に、亀戸大根料理で有名な「亀戸升本」に行ってきました。

c0187004_9145022.jpg 「亀戸升本」は、JR亀戸駅北口から徒歩7分で、蔵前橋通りに面しています。
 明治36年創業のお店でもう100年以上たっています。
 もともとは酒屋さんだったそうですが、戦後、料亭に変わったそうです。
 予約可能で、予約のお客さんが多いそうです。


 ここの名物は江戸野菜の亀戸大根を使用した料理です。
c0187004_9151632.jpg 亀戸大根は、幕末の文久年間に、亀戸の香取神社周辺で栽培され始めたそうです。
 明治時代には盛んに栽培され、「おかめ大根」とか「お多福大根」と呼ばれて親しまれていたそうですが、大正年間になって生産地の名前を採って「亀戸大根」と名付けられたそうです。
 しかし、亀戸周辺は宅地が進み、農地が住宅地となってしまい、亀戸では生産されなくなり、産地は江戸川区小岩や葛 飾区高砂などに移っていきました。そのため、亀戸では「幻の大根」となってしまいました。
 こうした歴史を書いた説明板(写真右)と「亀戸大根之碑」(写真左)とが亀戸香取神社に建てられています。
 ちなみに「亀戸大根之碑」は「升本」が、説明板はJA東京中央会が建てたものです。

c0187004_9153537.jpg  亀戸大根は先がクサビ状にとがっていて全体の長さが30センチ程度の短い大根です。
 現在の主流の青首大根と比べるとすごくかわいい大根です。
 「升本」のお店の前には、亀戸大根の本物がありました。


 「升本」の亀戸大根料理は、この亀戸大根を取り込んだ料理で、メインは亀戸大根とあさりを料理した「あさり鍋」です。
c0187004_9161584.jpg そこで、「亀戸大根あさり鍋めし」をオーダーしました。
 まず、大根の葉を刻み込んだ麦飯を茶碗によそり、あさり鍋の具と汁をかけて食べます。
 あさり鍋には、亀戸大根、季節の野菜(今日は白菜)、あさり、幅広のうどんなどが味噌味で煮込まれています。
 寒い季節にはあったまりグーでした。
c0187004_9302280.jpg  その他、亀戸大根のスティックやたまり漬けなどがついていますが、亀戸大根の本来の味がわかるのはステッィクでした。
 予想外に辛くなくシャキシャキ感のあるものでした。

 亀戸大根は、毎日収められているのかと思いましたら、週に2回だそうです。
 大根は、農家と契約して生産してもらっていて、現在は葛飾区高砂地区や江戸川区鹿骨(ししぼね)が中心になっているそうです。
 大根は冬が旬ですので、今の時期は入手できますが、夏はどうするのか尋ねてみました。
 答えは「東京で生産できない時期は、東北や北海道で生産してもらっています」とのことでした。
 帳場にいらっしゃったSさん、いろいろ教えていただきありがとうございました。

 赤印が亀戸升本  青印が亀戸香取神社  緑印が亀戸天神 です。

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by wheatbaku | 2012-02-17 09:00 | 江戸の老舗 | Trackback
ハイタカ(鷹狩の鷹③ 江戸の鳥)
 鷹狩に使われる鷹は、大体5種類だそうです。
 つまり、オオタカ、ハイタカ、ツミ、クマタカ、ハヤブサです。
 そのうち、名前をよく聞くオオタカとハヤブサについて書きました。
 今日は、ハイタカ、クマタカ、ツミについてまとめて書きます。

 【ハイタカ】  
 ハイタカ、ツミは、オオタカと同じハイタカ属ですので、よく似ています。
 c0187004_911154.jpg ハイタカは、ほぼ全国に生息していますが、北海道・本州に多くいます。
 オオタカに似ていますが、オオタカより小さい。
 オオタカがオス50センチ程度、メスが55センチ程度であるのに対して、ハイタカはオスが30センチ程度、メスが40センチ程度です。
 ハイタカの古い名前は「はしたか」でした。「はしたか」の「はし」は「疾(は)し」で「疾き鷹」の意味です。
ハイタカは「疾き鷹」がイ音便化で「ハイタカ」となったものです。
 また、背面部が灰色であるため「灰鷹」と呼ばれるようになったという説もあります。
 ハイタカはオオタカと同じように、メスの方が大きい。そのため雌雄別々の名前があります。
 ハイタカという名前はメスの名前で、オスはコノリと呼ばれます。

 【ツミ】 
c0187004_9114355.jpg  ツミは、ハイタカよりさらに小さく、オスが25センチ程度、メスが30センチ程度です。
 日本全土に生息しています。 
 「ツミ」は、漢字名では「雀鷹」と書かれました。「雀」はスズメでなく小さい鳥の意味で、小さい鳥を取る鷹ということです。
 それが転じて「ツミ」と呼ばれるようになりました。
 ツミも雌雄別々の名前があり、ツミはメスの名前で、オスはエッサイと呼ばれます。

 【クマタカ】  クマタカは、クマタカ属ですので、オオタカとは属が異っています。
 c0187004_9135470.jpg トビと同じくらいの大きさで、オスが70センチ程度、メスが80センチ程度の大型のタカです。
 背面は灰褐色、頭部には冠羽があります。
 クマタカの漢字名は「角鷹」です。クマタカの頭部の羽毛は冠羽状なので「角は毛角」であり、これが「角鷹」の語源と言われています。
 また、大きくて獰猛なことから「熊」から連想してつけられた「クマタカ」と名付けられたという説もあります。
 
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by wheatbaku | 2012-02-16 08:44 | 江戸の鳥 | Trackback
ハヤブサ(鷹狩の鷹② 江戸の鳥)
 今日は、鷹狩の鷹の2回目で、ハヤブサについて書きます。

 ハヤブサは、タカ目ハヤブサ科に属します。
 タカ科の鳥と同じように、昼行性の猛禽(もうきん)で、嘴(くちばし)は先がとがって鋭く、上嘴の先端近くに鉤(かぎ)があります。 全長は約45センチ程度程度です。
c0187004_14183220.jpg  日本では、北海道から沖縄まで分布していますが、繁殖しているのは九州以北と硫黄島です。 
 原野、海岸など開けた場所にすみ、主に海外の崖地に巣を作ります。

 翼の先はとがっていて、速い羽ばたきと短い滑翔(かっしょう)を交互に行って直線的に速く飛びます。
飛翔は速く時速約60キロ、急降下のときには200キロを超えるそうです。 

 獲物は主としてシギ・チドリ類やハトくらいの鳥などです。
 ハヤブサは鳥類の飛んでいるところをみつけると上から急降下して体当たりし、握った足を鳥にぶっつけて、たたき落としてつかまえたり、水面に叩きつけて捕えることが多いそうです。
 そのため、ハヤブサを見つけた鳥は、水中に逃げ込むか地上でじっと体をすくめ決して舞いあがらないそうです。
 小鳥たちはハヤブサは地上や水上の獲物を襲うのは苦手なのを知っているようです。

 ハヤブサという名前は「速い翼」が転じたと考えられています。
 昨日紹介した新井白石の「東雅」では「ハヤブサはハヤトブで、ハヤは速い、トブサはツバサの転」としているそうです。
 大言海では「速翼(はやつばさ)ノ略。鷹類ノ中ニテ殊ニ猛ク速ケレバ云フ」としています。

c0187004_14185212.jpg ハヤブサは、「古事記」や「日本書紀」にも登場する古い名前です。
 応神天皇の皇子に隼別皇子( はやぶさわけのおうじ)という名前が出てきます。
 隼別皇子は仁徳天皇の異母弟ですが、「日本書紀」によれば、仁徳天皇が雌鳥(めとりの)皇女を妃にむかえようと隼別皇子をつかわしたところ、隼別皇子はひそかに皇女を妻にしていまい、仁徳天皇の怒りにふれ、皇女とともに伊勢神宮に逃れたが、天皇の追手に殺されたという話がのっているそうです。


上記の写真は、 「日本野鳥の会が贈る、野鳥を楽しむポータルサイト BIRD FAN」 を利用させていただきました。
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by wheatbaku | 2012-02-15 09:08 | 江戸の鳥 | Trackback
  

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