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井伊の赤備③(徳川将軍15代)
 「井伊の赤備」について2回連続で書きましたが、その際に鶴ヶ島の小人さんから次のようなコメントをいただきました。

 武田も真田も「赤備」だと強いのですか? (そういえば赤を勝負色にしているスポーツ選手もおおいですよね。)
 それならなんで他の武将みんな具足を赤にしないんですかね?高価だからかな。
 赤をシンボル色にしてもなお、弱かった武将っていますか?

 この質問について、明確に記述した本を見つけました。
 井伊達夫著「赤備え」(宮帯出版社)(右下写真)です。
 その大要を書いて、質問の回答にします。

【朱色の武具は強い者だけが使用】
c0187004_16545693.jpg  朱(つまり赤)色の甲冑が戦場に現れたのは、室町時代の中頃です。
 朱色は目立ちますから、強い者にとってのみ冴える色ですから臆病な人は使えません。つまり朱色は武功を証明する色です。
 戦国から江戸時代にかけて、朱の道具というものは甲冑にかぎらず勝手に使用できないものでした。
 たとえば上杉家では皆朱の槍は、大変にうるさいものでした。
 これを新参の加州浪人前田慶次郎が所持していたので、以前から仕えていた人たちが、「皆朱の槍」は名誉武功の者でないと許されなしいものだと直江山城守に訴えったため争いになったということもあったようです。
 このように、朱色の武具を使用できるためには、必ず武功のある者でなければならないし、朱色の武具を使用できることは大きな名誉だったようです。

 戦国時代になると、部隊あるいは軍団全体を朱色の甲冑で統一するケースがでてきました。これが「赤備(あかぞなえ)」です。 ちなみ「赤備」は「あかそなえ」ではなく「あかぞ(ZO)なえ」と読みます。
 武田信家の赤備が大変有名です。その他、信州の真田も赤隊を編成しました。また小田原北条家も赤甲部隊を拵えたといいます。

【赤備の効用】
 赤備の効用について井伊氏は次のように3点あると書いています。
第1に武士たちを実力以上に働かせることができる。
 第2に小勢でも多勢に見せる利点がある。
 第3に、武具が朱色に統一されているため、華美な金や銀を使用する必要がなく、質実剛健の士風涵養に資する。

【朱漆は高価なもの】
 赤備に使用する朱漆は高価なものでした。
 朱漆は、漆に朱を混ぜたものですが、朱は硫化水銀で、天然には辰砂(しんしゃ)として産出しますが、当時はほとんど輸入に頼っていたため大変高価でした。

【最初の赤備は武田家の飯富虎昌】
 赤備で有名なのは、武田家の赤備です。武田家には、4隊の赤備がありました。
 すなわち、飯富虎昌、浅利信種、内藤昌秀、小幡信貞でした。
 最初に赤備を整えたのは飯富虎昌と言われています。飯富が信玄の嫡子義信に連座して切腹した後は、弟の山県三郎兵衛昌景が引き継ぎました。
 武田家が滅んだ後、井伊直政が付属された武田家の旧家臣は諸説ありますが、山県昌景、一条信龍、土屋昌恒、原昌勝らの従士74人を召し抱えたと言われていています。
 そして、直政の部隊は、家康の命により、甲冑をすべて赤色に統一しました。
 すでに書いたように、これが「井伊の赤備」の始まりです。
 
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by wheatbaku | 2012-03-30 10:58 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
井伊直政(徳川四天王④ 徳川将軍15代)
徳川四天王の最後に井伊直政について書きます。
 井伊直政について、先日書いた「井伊の赤備(あかぞなえ)」で小牧・長久手の戦いまで書きましたので、それ以後の直政の活躍について書きます。

【秀吉の母大政所から信頼を得る】 
 秀吉は、小牧・長久手の戦いの後、妹の朝日を家康の正室に嫁がせたうえで家康に上洛するよう促しますが、家康は動きません。そこで、さらに母の大政所を人質として岡崎に送ります。
c0187004_1117233.jpg この時、直政は、大政所の警護を担当しました。この接待警護が行き届いていたので、大政所やその侍女達の評判はすこぶるよく、大政所が大阪に帰る際、大政所の要望で警護を担当したといいます。そして、直政は大阪で秀吉に丁寧に饗応されたといいます。
 こうしたことから直政に惚れ込んだ秀吉は直政に豊臣姓を与えましたが、井伊家は藤原氏の流れを汲むことから、直政はこれを断ったといいます。
 また「侍従」に任官しましたが、これも異例のことでした。
 右上写真は、彦根駅前に建つ井伊直政の像です。

【譜代最高の12万石で箕輪に入封】 
 北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪城(群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられます。
c0187004_11205365.jpg 先輩の諸武将を追い越し、家康家臣団の中で最高の知行を得ました。
 井伊直政が家康に厚遇されたのは、一説には家康の寵童であったとする説や家康の母築山殿の母が直政の曽祖父直平の娘であったとする説もあります。
 しかし、直政の武功によるところが大きいようです。  
 また、10万石以上を与えられた者は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政の3人ですが、この配属についても、関東と奥州の経営を意識した秀吉の指示によるとの説もあり、現に直政に対して知行や普請について直接指示した秀吉の書状が残っているそうです。
 なお、後に箕輪城から高崎に居城を移転しています。(左上写真は、高崎城の東門です。)

【関ヶ原では、八面六臂の活躍】 
 関ヶ原の戦いでは直政は家康に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、豊臣恩顧の諸大名中心の部隊の指揮を取りました。
 同時に諸大名を東軍につける工作を行いました。毛利一族の吉川広家宛の本多忠勝と連署した起請文が残されているそうです。
 実際の合戦においても初陣となる家康の四男松平忠吉(直政の娘婿)を補佐して、東軍の先鋒とされていた福島正則を出し抜いて開戦の火ぶたをきりました。
 本来ならば、軍律違反で処罰の対象になるはずですが、家康は忠吉に殊勲を遂げさせた直政の駆け抜け行動を賞賛したといいます。
 実は、これは、徳川本隊が不在のなかで、この決戦であくまでも徳川軍が主導権をとるための知略だったとも言われます。

【佐和山転封】 
 c0187004_11175186.jpg  直政は、関ヶ原の戦いで島津軍追撃の際に受けた鉄砲傷が癒えないなかで戦後処理にも敏腕を発揮します。
 この時に政治手腕は抜群であったそうです。数多くの武功とともに政治手腕が傑出していることが、他の四天王メンバーと比較して若輩で新参でありながら、徳川四天王に数えれれる理由とも言われています。
 そして、戦いの後、高崎から石田三成の旧領である近江国佐和山18万石を与えられました。
 これに対して、直政は加増が少なすぎるとして本多忠勝と相談して一緒に辞退しようとしたそうです。
 しかし、娘婿の忠吉の説得もあってこの転封を受けました。

【直政以降の井伊家】 
 直政は、 慶長7年(1602年)に41歳の若さでなくなりました。その後、長男の井伊直勝が継ぎ、佐和山から彦根に居城が移されます。
 直勝は病弱でもあり藩内がまとまらないことから、直勝の弟井伊直孝が井伊家の家督を継ぐこととなり、直孝の子孫が彦根藩主を継承しました。
c0187004_1130496.jpg  彦根藩井伊家は譜代筆頭となり、多くの大老を出し、幕政に重きをなしました。
 一方、直勝は安中藩を領することとなり、直勝の子孫は、安中藩、西尾藩、掛川藩転封し、宝永2年(1705)に井伊直矩が2万石で入リ、以後明治まで存続しました。
 与板藩井伊家の菩提寺は、先日訪ねた向島の弘福寺です。現在は合祀墓となっていますが、立派なお墓でした。
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by wheatbaku | 2012-03-29 11:38 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
榊原康政(徳川四天王③ 徳川将軍15代)
 今日は、徳川四天王のうち、榊原康政について書きます。

 榊原氏は、足利氏の一族で伊勢守護を務めた仁木氏の子孫が伊勢国榊原郷に居住し、榊原氏を名のるようになったと言われています。
 康政の祖父清長が三河に移り住み 松平家4代の親忠に仕えました。

【「康」は「家康」の名から】
 榊原康政は、天文17年(1548)、三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)に生まれました。
 本多忠勝と同い年になります。康政は幼い時、松平家の菩提寺大樹寺で家康に見出された言われています。
c0187004_11184927.jpg  康政の初陣は三河一向一揆の平定でした。この時、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられ小平太から康政と名のるようになりました。
 以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍し、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を立てました。
 特に姉川では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てています。

【小牧・長久手の戦い】
 榊原康政が、その強さを全国に轟かせたのが小牧長久手の戦いです。
 天正12年(1584)、家康が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで持久戦になった時に康政は秀吉の織田家の乗っ取りを激しく非難する檄文を書き、怒った秀吉は康政の首に恩賞をかけたと言います。
 また、家康の本拠地三河を攻撃しようとした秀吉の甥・秀次の軍勢を長久手で急襲し壊滅させました。
 徳川側は、この長久手の戦いで秀吉側の森長可、池田恒興なども討ち死させています。
 これによって康政は秀吉の注目を引き、家康と朝日姫の婚礼の際には京都への使者を命じられています。

【館林に入封】
 天正18年(1590)、小田原の役では小田原城攻めの徳川軍の先手7人組の筆頭として北条側を攻めました。
 そして、家康が関東に移封されると、知行割の総奉行を康政が命じられ、康政自身は上野国館林城(右上の写真は館林城の土橋門)に入り、忠勝と並んで10万石を与えられました。
 これは、北条氏滅亡後も常陸に残っていた佐竹氏や下野の宇都宮氏をにらんだ配置でした。

【関ヶ原の戦いに遅参】
 関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍しましたが、上田城の真田昌幸攻めに手間取ったこととその後の荒天で、秀忠とともに関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。
 家康は秀忠の失態に激怒し対面しませんでしたが、康政のとりなしで、その3日後に伏見城での対面が許されたと言われます。
c0187004_11191166.jpg 関ヶ原の合戦の後に、重臣の領地替えを行い、井伊直政は彦根へ、本多忠勝は桑名へ替えました。
 康政へは家康から佐竹氏が去った水戸に25万石で転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったとも言われています。
 家康は康政の態度に感銘した書状を康政に与えています。

【榊原高尾】
 康政は慶長11年(1606)に館林にて死去しました。享年59歳でした。
 康政の子孫は、館林藩の後、白河藩、姫路藩、村上藩、再度、姫路藩と転封を何度が繰り返した後、寛保元年(1741)に越後高田藩に入り、その後6代続き、明治維新を迎えています。
 姫路藩から高田藩への転封は、時の藩主榊原政岑が、8代将軍吉宗の倹約方針に反して、遊郭で豪遊したり、遊女を落籍したりして派手な生活をしていたため、隠居謹慎を命じられた後、懲罰的に行われたものです。 
 この榊原政岑が落籍した遊女が有名な三浦屋の高尾太夫です。高尾太夫という源氏名の遊女は何人もいて、それぞれ異称がついています。
 榊原政岑が落籍した高尾太夫は「榊原高尾」と呼ばれています。
 左上写真は、冬の高田城です。
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by wheatbaku | 2012-03-28 11:47 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
本多忠勝 (徳川四天王② 徳川将軍15代)
 徳川四天王の2番目として今日は本多忠勝について書きましょう。

 本多家は、もともとは、豊後国本多郷が発祥地とされています。そして九州に下った足利尊氏に従ったことにより、尾張・三河に所領をもつようになったと言われています。
 本多氏は、松平家2代の泰親から松平家に仕えました。

【初陣は大高城への兵糧入れ】
 本多忠勝は、本多忠高の長男として天文17年(1548)に生まれました。生まれた翌年に、父・忠高が戦死していまい、叔父・忠真のもとで育ちました。
  右下写真は、桑名城にある本多忠勝の銅像です。
c0187004_17291330.jpg 忠勝の初陣は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れでした。
 永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの本多一族が家康の敵となる中で、家康を助けました。
 永禄9年(1566年)19歳の時に、与力50騎を付属されます。この中には都築秀綱など、後に本多家の家老や重臣となるメンバーが含まれていて、本多忠勝の家臣団が一気に強化されました。

【一言坂の戦い】
 忠勝も姉川の戦いなど多くの戦いに参加しましたが、忠勝の勇猛ぶりが有名になったのは、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いの前哨戦となった一言坂の戦いで殿軍を努め、武田の部隊を相手に奮戦し、家康を無事に撤退させた時です。
 この一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりをみていた武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と賞賛されました。
 「唐の頭」というのはヤクの尾を束ねて兜の飾りにしたものを言います。
 そして、三方ヶ原の戦いでは先鋒として戦ったものの敗北してしまいます。

【伊賀越えを進言】
 天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って織田信長の後を追おうとしたが、忠勝はひとまず三河に帰り準備を整えてから戦うよう進言して「伊賀越え」を行わせたといいます。

【朝日姫との婚礼の納幣使も勤める】
 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉からも着目されました。c0187004_113903.jpg 秀吉に知られたため、秀吉の妹朝日姫が家康に輿入れする際、結納を取り交わす納幣使として秀吉のところに赴きます。
 最初は秀吉の知らない天野三郎兵衛が納幣使として派遣されましたが、秀吉が立腹したため、忠勝が遣わされたと言います。
 秀吉の小田原攻めでも活躍し、江戸・佐倉・岩槻・鉢形・津久井などの北条方の諸城を攻め落としました。 
 家康が関東に移封されると安房国の里見氏に対する備えとして上総国大多喜に10万石を与えられました。(上写真は、現在の大多喜城)

【関ヶ原では対西軍工作にも活躍】
 関ヶ原の戦いでは家康に従って関ヶ原に向かい、井伊直政とともに軍監として豊臣恩顧の大名を指揮するとともに、吉川広家や小早川秀秋の老臣稲葉正成に誓書を出して東軍方につける工作にも活躍しました 。
 家康が天下を取った慶長6年(1601)、伊勢国桑名に10万石で移されました。
 その後、本多家は、姫路藩に転封され、越後村上藩などを経て、明和6年、岡崎藩に入封した後、岡崎藩主として明治維新を迎えました。
 忠勝は慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去しました。享年63歳でした。
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by wheatbaku | 2012-03-27 12:01 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
酒井忠次(徳川四天王① 徳川将軍15代)
酒井伊直政のことを書きましたので、徳川四天王について書いてみます。
 四天王とは、もともとは仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天を言いますが、ある部門に最もすぐれた四人を指す言葉でもあります。
 徳川四天王とは、家康の天下取りを支えた軍事面で優れた次の四人を言います。
 酒井忠次、本多忠勝。榊原康政、井伊直政
 しかし、この呼称は後世の呼び名であって、家康や本人たちが生きている時に、四天王と呼ばれたわけではないようです。 
 今日は四天王のうち酒井忠次について書いてみます。

【忠次は家康と縁戚】
 酒井忠次は大永7年(1527)に生まれ、徳川四天王の中では最年長で、家康よりも15歳年上です。
 酒井氏は、その祖先は松平家初代の親氏の子供広親と言われていて、松平家とは縁戚関係にあります。
  酒井忠次自身も家康と血縁関係にありました。忠次の正室は家康の父の妹すなわち叔母の於久(または碓井姫とも)でした。
 これにより忠次は家康からより信頼されたとも言います。

【東三河の旗頭】
c0187004_12444057.jpg  三河一向一揆の時に、忠次は家康につきますが、一向一揆後、家康が三河統一のため、東三河平定に着手し、永禄7年(1564年)には吉田城を攻めます。
 この戦いで、戦功を立てて吉田城主となった忠次は、「東三河の旗頭」となり、西三河の旗頭石川家成(のちに数正)とともに家康家臣団の両翼として重きをなすようになります。
 右上写真は現在の吉田城(豊橋市)です。

【長篠の戦いで信長から褒賞受ける】
 その後、家康が遠江・駿河を攻める際にも、忠次は先陣として戦うとともに武田方との交渉役も担当しています。
 武田信玄との三方ヶ原の戦いの際に、浜松城内で太鼓をたたかせ、武田方を退却させたという「酒井の太鼓」が有名ですが、これは明治時代になって歌舞伎で取り上げられたものです。
 長篠合戦の折には、酒井忠次は、鳶ケ巣山を攻めることを進言し、自ら攻撃に向かい大きな戦果をあげました。
  この策を進言した際に、忠次は信長に罵倒されその策を否定されました。ところが、軍議が終わった後で、忠次は信長から呼び戻されました。信長が忠次を罵倒したのは、大勢の前では情報が漏れる恐れがあったからでした。
  信長はその計略のすぐれたことを賞し、織田信長より当座の褒美として忍轡を授けられたといいます。鉄地の瓢箪形、酢漿草の透し紋が入っているそうです。
 文化遺産オンライン「瓢箪抜忍轡」で見ることができます。 
 また、長篠の戦いの後、信長は長篠の勝因は、①奥平信昌の堅固な籠城②忠次の鳶ヶ巣山攻略であるとして、忠次に、法城寺の薙刀、革袴、革羽織を授けたそうです。
 この革羽織も文化遺産オンライン「革羽織」で見ることができます。

【信康を救えず家康と微妙な関係に】
忠次にとって大変だったのは、信康・築山殿の事件です。
c0187004_1256249.jpg 天正7年(1579年)信康と築山殿が、武田に内通したとの嫌疑がかけられた時、忠次は大久保忠世と共に弁解の使者に立てられて安土城に赴いています。
この際、忠次は信長の詰問に対して信康を十分に弁護できず、このため信康の切腹を防げなかったと言われています。ただし真実はどうだったのかは不明のようです。
しかし、信康の切腹は、後々まで尾を引いたようです。
家康が関東に入封した時、本多忠勝大多喜10万石、榊原康政館林10万石、井伊直政箕輪12万石が与えられましたが、忠次の嫡男家次は、下総臼井で3万石しか与えられませんでした。これを不満に思った忠次は家康に要望しますが、家康は「そちでも自分の子は可愛いいか」といって要望を取り上げなかったと言われています。
これは信康の切腹が背景にあると言われています。
 右上写真は、四谷西念寺にある信康の供養塔です。

【酒井左衛門尉家は庄内藩】
 その後、本能寺の変の際の伊賀越えも家康とともにしています。そして、家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いを最後に忠次は一線を退きました。
c0187004_12445891.jpg そして、慶長元年(1596)に70歳でなくなります。
忠次の子孫の酒井家は、酒井左衛門尉家と言われます。
 (酒井氏初代広親には氏忠と政親の二人の子供があり、氏忠からは、忠次の系統の左衛門尉家、政親からは雅楽頭家が始まっているとと岡崎市美術館堀江学芸員は書いているが異説もありそうである)
忠次の嫡子家次は下総臼井藩3万石から越後高田藩10万石となり、元和8年に孫の忠勝が、出羽庄内藩に17万石で入り、以後、明治まで存続しました。
 戊辰戦争では、官軍に一度も敗れなかったという強さを発揮します。
庄内藩の政治の中心であった鶴岡には、現在も庄内藩の藩校であった致道館が残されています。(左上写真)
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by wheatbaku | 2012-03-26 12:58 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
向島散歩
 昨日、毎日文化センターさんの主催講座「スカイツリーの見える下町で江戸を探す」の第4回講座向島散歩がありました。

 例年であれば、桜が咲き始め、花見の気分が味わえる時期なんですが、墨堤のソメイヨシノは全く咲いていません。
c0187004_13275740.jpg しかし、墨堤には早咲きから遅咲きまで多くの種類の桜が植えてあります。
 長命時の傍には、十月桜、冬桜、河津桜の早咲きの桜が植えてありますので、これらの桜は咲いていましたので、いくらか花見はできました。
 写真は、十月桜です。

 昨日のコースは、次のようなコースでした。
 吾妻橋 ⇒ アサヒビール本社 ⇒ 勝海舟銅像 ⇒ 藤田東湖碑 ⇒ 明治天皇御製歌碑 ⇒ 牛島神社 ⇒ 三囲神社 ⇒ 墨堤常夜灯 ⇒ 言問団子 ⇒ 墨堤植桜の碑 ⇒ 山本や ⇒ 長命寺 ⇒ 弘福寺 ⇒ 塚田工房 ⇒ 森鷗外住居跡 
 
 浅草駅集合にして、吾妻橋を渡って行ったのは、アサヒビール本社越しに、スカイツリーを見てもらうためです。
 スカイツリーの左のちょっと高い建物(19階)が墨田区役所です。
 その隣がご存知のかたも多いと思いますがアサヒビールの本社です。
c0187004_13281435.jpg 22階建ての本社ビル「アサヒビールタワー」は、琥珀色のガラスと頭頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキをイメージしています。 隣接する「スーパードライホール」の屋上のオブジエは「炎のオブジェ」というそうです。
 この墨田区役所やアサヒビールの本社は、幕末は秋田藩佐竹氏の下屋敷で、そこに浩養園という名園がありました。
 それが札幌麦酒に売却され、明治33年に札幌麦酒東京工場がここに設置され、庭園であった「浩養園」はビアガーデンに生まれ変わりました。
 そして、明治39年には札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒が合併し大日本麦酒が設立され、大日本麦酒吾妻橋工場となり、さらに昭和24年、大日本麦酒が朝日麦酒(現アサヒビール)と日本麦酒(現サッポロビール)に分割され、工場は朝日麦酒に引き継がれました。
 そして、現在はアサヒビールの本社になっています。

 これが牛島神社です。
 関東大震災以前は、現在地より少し上流の長命寺の近く(実は墨堤の常夜灯のところ)にありました。それが、関東大震災後の墨堤整備の関係で昭和7年に現在ある隅田公園に移転しました。
c0187004_13284312.jpg この牛島神社は、創建が平安時代の貞観2年(860)と伝えられ、創建以来1100年以上たつ大変古い神社です。
 本殿前の鳥居は、あまり見かけない形をした鳥居です。
通常の鳥居の両脇に、鳥居を半分に切った形の鳥居が付いています。
 鳥居の種類は1種類ではありません。鳥居にも様々な種類があります。この牛島神社の鳥居は三輪鳥居といいます。
 奈良県に三輪山(みわやま)をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)という神社がありますが、そこにある鳥居が代表的なものなので、三輪鳥居という名があります。


 三囲神社の案内している時に、読み方が難しいと話題になりました。 確かにそうです。「みめぐりじんじゃ」と読みます。c0187004_13352462.jpg これは次のようないわれがあります。
 三囲神社の創建がいつであるかははっきりしませんが、南北朝時代の文和年間に三井寺の源慶というお坊さんによって再興されたとされています。
 源慶がこの地にきて、小さな祠のいわれを聞き、その修復をしようと土を掘ったところ、壺が出土しました。
 このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神様の像の回りを3回廻ってまたいずこへともなく消えて行きました。
 三囲の名前はこの話に由来しています。

三囲神社は、江戸時代から、三井家や越後屋に深く信仰されてきました。
 こうしたことから、三囲神社には、江戸時代から、三井家、越後屋そして三越から寄進奉納されたものが数多くあります。
c0187004_13324683.jpg 参加者の皆さんが驚いたのがライオン像です。三囲神社のライオン像は三越の池袋店にあったライオンです。
 三越の池袋店は一昨年5月に閉鎖されていますが、このライオンは一昨年10月に三囲神社に寄進されました。
 社殿の前には、江戸時代中期の延享2年(1745)に奉納された狛犬もあります。
 狛犬は、ライオンが変化したものと言われています。江戸時代の狛犬と現代のライオンが三囲神社の社殿を一緒に守っていることになります。


 向島には、和菓子の美味しい老舗が目白押しにあります。その中で最も有名な長命時の桜餅」と「言問団子」を案内しました。
c0187004_13293965.jpg 「言問団子」はお買い物だけでしたが、「長命寺の桜餅」のほうは、お店でいただきました。
 例年では、今頃は、御客で一杯ですが、桜が遅れているため、お店は空いていましたので、のんびり「桜餅」を味わうことができました。
 参加者の皆さん、桜餅は初めてでしたが、3枚の大振りの桜の葉で包まれ、甘さが抑えられた「桜餅」に大満足でした。
 また、「山本や」の雰囲気は江戸の気分が味わえると喜んでいました。
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by wheatbaku | 2012-03-25 14:04 | Trackback
井伊の赤備②(徳川将軍15代)
 昨日に続いて、井伊の赤備の話です。

 徳川四天王は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、それと井伊直政を言います。
 この中で、井伊直政は開幕時には、抜群の功績を残しています。
 しかし、4人の中で、井伊直政は、年齢・家柄からいうと新参の若輩者という存在です。
 まず年齢です。
 酒井忠次は大永7年(1527年)、本多忠勝は天文17年(1548)、榊原康政も天文17年(1548)生まれです。
 酒井忠次は本多忠勝・榊原康政より21歳年上、井伊直政は二人より、13歳年下でした。

 そして家康に仕えた時期です
 酒井忠次は、松平家初代の親氏の庶子広親を先祖とするという家柄で、 本多忠勝は、松平泰親(松平家2代目)にから仕えている家柄です。
 そして榊原康政は、祖父の代に安城城主松平親忠(松平家4代目)に仕えています。
c0187004_837193.jpg それに対して、井伊直政が家康に仕えたのは、昨日書いたように、家康が浜松を拠点としていた時期です。
 いってみれば井伊家は三河譜代の家柄ではないのです。
 このように家柄・年齢ともに上の有力武将がいるにもかかわらず、 なぜ、井伊直政が赤備を引き継いだのか、その経緯が徳川公伝に詳しく書かれていますので抜書きします。

 家康は甲斐の一条、土屋、原、山県各組に属していた侍の多くを井伊直政の組に編入し、「山県昌景の赤備は大変見事である」と直政の備えを全て赤色にした。
 この時、「酒井忠次に甲州人を召し預けようと思ったが、それより若い直政を引き立てるために、直政に付属させた」と言ったので、忠次は承り、「仰せの通り直政は若年ですが臆している様子は見えませんので、この者たちを付属させれば、ますます励むことでしょう」と言った。
 その頃、榊原康政が忠次のもとに来て、「甲州人を半分ずつに分けて、私と直政の両人に付属させるはずであったのに、直政のみに預けられたのは悔しいことよ。自分がどうして、あの若輩者に劣ることがあろうか。この後もし直政に出会ったら刺し違えようと思い、今生の別れにに参った」といった。
 忠次は「やれやれ貴殿は愚かであることよ。殿は私に預けるとおっしゃったのを、私がお勧め申し上げて直政に付属させたのだ、それを聞き分けずに軽率な挙動を取るならば、殿に申すまでもない。お前の妻子一族をみな串刺しにしてくれるわ」と怒り罵ったという。


 井伊直政に武田家遺臣を附属さえるには一悶着があったようです。

 赤備は、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事で、武田信玄の旗下の武将であった飯富虎昌が最初に組織したと言われています。
c0187004_837418.jpg 家康は、三方ケ原の戦いで完敗した家康は赤備の強さ怖さを身をもって知っていました。
 そこで、戦国最強を謳われた武田赤備の強さを武田遺臣中に求め、山県昌景、一条信龍、土屋昌恒、原昌勝らの従士74人を召し抱え、井伊直政に附属させたのです。
 これにより、直政は、武田の精鋭部隊を名実ともに受け継ぎ、徳川家臣団のなかでも有数の軍事力を備えることとなったのです。
 武田の赤備の強さを引き継いだ井伊直政の赤備は、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いで抜群の強さを発揮します。この戦い以後「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになりました。
 これ以降も、直政は主要な合戦で戦功をあげ、さらには政治面でも大きな功績を残し、徳川四天王の1人に数えられるようになったのです。
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by wheatbaku | 2012-03-22 08:56 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
井伊の赤備(徳川将軍15代)
久しぶりに、「徳川将軍15代」の話題です。
 徳川実紀の東照宮実紀の付録第三巻から始めます。 この巻は、武田信玄との三方ヶ原の戦いの後から、長篠の戦い、そして武田家の滅亡、本能寺の変を経て、甲斐国を手に入れるまでまでのことが書かれています。
 その中では、注目すべき事項は、長篠の戦いと信康の自害、伊賀越えですが、長篠の戦いは定説どおり、、信康の自害は「信康切腹」で触れました。伊賀越えは別の機会に書こうと思います。
 この巻に「井伊の赤備(あかぞなえ)」について書かれていますので、今日は「井伊の赤備」のお話です。(右下写真は彦根城です。)

 家康が天下を取る過程で「井伊の赤備」は、徳川軍団の中でも強力な軍団として知られていました。そして井伊直政は「赤鬼」の異名を取っていました。
 そうした軍団がなぜできたのか不思議に思っていましたが、その経緯が徳川公伝に書かれていました。

 まず、井伊直政の出仕まで略歴をまとめてみます。
 井伊家は、遠江国井伊谷を本拠地とする「八介」の一つとされている名門の家柄です。
c0187004_8375511.jpg  「八介(はちすけ)」ってご存知ですか?。
 今回初めて知りましたが「八介」というのは、同じ家が代々その地方の介(すけ)に任官していて介(すけ)の通称を名のることを許された八家のことを言います。
 ちなみに八家は、秋田城介(出羽)、三浦介(相模)、千葉介(下総)・上総介(上総)、狩野介(伊豆)、井伊介(遠江)、富樫介(加賀)、大内介(周防)の八家です。

 このように井伊家は遠江の名家でした。 しかし、駿河の今川氏が台頭してきたため、その支配下に置かれます。
 しかし、今川家のもとで、井伊家は苦難の歴史を歩みます。
 直政の祖父直満は謀反を疑われて殺害されていました。
 直満の後を継いだ直盛は桶狭間の戦いで討ち死にし、その後を弟の直親が継ぎました。
 この直親が直政の父です。井伊直政が生まれたのは永禄4年(1561)でした。
 直親も桶狭間の戦いの後徳川家康に接近したことを知った今川氏親の命令を受けた掛川城主朝比奈泰能に殺されてしまいました。父が殺された時直政はたった1歳でした。
 井伊家で、直盛の後は直虎という人物が跡を継いでいますが、実はこの直虎は女性でした。
 直政は父がなくなった後、新野家や母が再婚した松下家で育てられます。 
 そして天正3年(1575)に14歳の時に家康につかえます。

 徳川公伝には直政の出仕について次のように書かれています。
 天正3年2月ごろ鷹狩りの途中で、直政に会い、父の直親が氏真に殺されたため、三河をさすらい松下源太郎の養子になっているという話を聞き。直接呼び手厚く保護することになった。
 のちに次第に重用されるようになり、井伊兵部少輔直政として徳川幕府創建時の第一の功臣と呼ばれたのはこの人である。
 赤字に注目です。
 
 この後、直政は、天正4年初陣を果たしたあと、高天神城の攻略で功績をあげ、頭角を表しました。
 そして武田氏滅亡の後には、武田の遺臣を召抱えて赤備を引き継ぎました。
 なぜ、井伊直政が赤備を引き継いだのか、その経緯が徳川公伝に詳しく書かれていますので抜書きしようと思いましたが、長くなりましたので、この続きは明日にします。
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by wheatbaku | 2012-03-21 08:49 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
春慶寺 (亀戸散歩  大江戸散歩)
 亀戸散歩(といっても今日は業平ですが)の最後は春慶寺のご紹介です。

c0187004_8204927.jpg 春慶寺は、京成線押上駅のA2番出口を出ると目の前にあります。もっともビル内にありますが。
 春慶寺は元和元年(1615)に鳥越(浅草森田町の地)に創建されました。
 創建されてまもなく400年位なるという古いお寺です。
 その後、寛文7年(1667)に浅草から本所押上村に移転しました。
 江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わっていました。
c0187004_8211724.jpg 押上という地名は隅田川沿いで土や砂が堆積してきたので押上という地名になったとそうです。
 お寺の縁起によると、現在安置されている普賢大菩薩は、百済の聖明王が霊夢によって自ら模像したものを、推古天皇の10年(602年頃)に、百済から の観勒法師が守護して 日本にもたらしたもので、当時の摂政であった聖徳太子に預けられたものといわれています。
 この立像は、約10cmという小像だそうです。
 春慶寺に普賢像が祀られたのは、江戸時代の寛保2年(1742)のことで、以後「押上の普賢さま」として人々に親しまれています。
 というのが寺伝ですが、墨田区の説明では、製作年代は室町時代前期と考えられると書かれています。
 この普賢菩薩様が開帳されるのは、正月3日間と1月5月9月の24日だそうです。日頃は未公開だそうです。
 それもそうだと思います。寺伝では推古仏の仏様ですから。
c0187004_8213983.jpg 百済から到来した普賢菩薩が日頃未公開ですので、ビル1階に普賢堂が設けられていて、そこにお前立の普賢様がいらしゃいます。
 ここちらの仏様は江戸時代の作だそうです。 左上の写真がお前立の普賢菩薩様です。
 普賢菩薩は、6本の牙をもった白象に乗っています。
 6本の牙は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)つまり人間の身心を、白い色は清浄(しょうじょう)をあらわしているそうです。

【鶴屋南北の墓】
 春慶寺は「東海道四谷怪談」の作者として有名な、四世鶴屋南北の菩提寺でもあります。
c0187004_8215872.jpg 鶴屋南北のお墓は、元のお墓は戦火をあびてこわれていますので、その下に再建されたお墓があります。写真中央にあるのが再建された現在のお墓です。
 そのお墓の右脇にあるのが宇野信夫さんの建てた碑で
  なつかしや本所押上春慶寺鶴屋南北おくつきところ  と書かれています。
  「おくつき」は漢字で書くと「奥津城」でお墓を意味します。

 鶴屋南北は、江戸乗物町(中央区本町4丁目)日本橋の紺屋の伊三郎の子として生まれました。
 安永5年(1776)初代桜田治助に入門し、文化8年(1811)56歳の時に、四世鶴屋南北を襲名し、その後、名声をほしいままにしました。
 文政12年(1829)11月27日に74歳で亡くなった南北の葬儀は翌年1月13日に春慶寺で盛大にいとなまれました。
 深川の黒船稲荷の自宅からこの寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子がふるまわれ、生前にあらかじめ書き上げた自らの葬いをめでたい萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどまつごまんざい)の台本が配られたそうです。

 鶴屋南北の遺骨は現在も春慶寺にあるます。下見の際には特別にお骨にお参りさせていただきました。
 齋藤ご住職ありがとうございました。

【岸井左馬之助寄宿之寺】
 池波正太郎氏の小説『鬼平犯科帳』には、長谷川平蔵の幼な友達として岸井左馬之助という人物が登場します。
c0187004_8221121.jpg 春慶寺はこの鬼平の親友である岸井左馬之助が寄宿している先として設定されています。
 そのため、「岸井左馬之助寄宿之寺」という碑が、玄関の左脇に建てられています。
 鬼平犯科帳では、江守徹が、岸井左馬之助を演じているので、江守徹さんの書で、除幕式には、江守徹さんがこられたそうです。

 なお、世界のホームラン王の王さんの実家は押上で「五十番」というラーメン屋でした。
 その「五十番」は春慶寺の境内にあったと聞いていましたので、齋藤住職にお尋ねしたら、現在、玄関の脇の駐車場となっている場所にあったとのことでした。

 赤印が春慶寺です。押上駅のA2番出口の目の前です。

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by wheatbaku | 2012-03-19 08:51 | 大江戸散歩 | Trackback
柳嶋の妙見様②(亀戸散歩 大江戸散歩)
 柳嶋の妙見様の続きです。

【北斎も信仰】
 柳嶋の妙見様は、葛飾北斎と縁があるとのことで、大きな看板が掲げられていました。
 スカイツリーを見に来る人にも訪ねてもらおうとして設置しているとのことでした。 
 葛飾北斎は、葛飾の本所の生まれであったため「葛飾」と名乗り、「北斎辰政(ときまさ)」と改名したのは「開運北辰妙見大菩薩」を信仰していたからと言われています。
c0187004_16444614.jpg 確かに「政」の中には「北辰」が入っています。
 北斎は、入門していた勝川春章に破門されました。兄弟子の勝川春好との不仲とも、狩野派の画法を学んだからともいわれます。
 このとき、生活に窮した北斎は、一時、絵筆を折ろうとまでしますが、「柳嶋の妙見様」へ21日間お参りし、満願の日の帰り道に落雷に遭って失神した後、めきめきと売れ出して有名になったという言い伝えがあるそうです。

【名所江戸百景「柳しま」】
c0187004_9192179.jpg 柳島の妙見様は、この北十間川と横十間側が交わる場所にありました。歌川広重の描いた「柳しま」です。
 絵の中央を横に流れるのが北十間川です。そして下部を斜めに流れるのが横十間川です。
 絵の左下の部分に描かれています。絵の中央にあるのは「橋本」という会席料理のお店です。
 柳嶋の妙見様に参詣にくる人は船でくるひことが多かったようで、船着き場も描かれています。
 絵の上部をしめる北十間川の北側は田園風景が広がってはるか遠くには筑波山が見えています。
 絵の左側も同様な風景が広がっていたであろうと思われますが、今では、そこにスカイツリーが建つわけですから大きく風景が変わっています。

【落語「中村仲蔵」】
 私が柳嶋の妙見様を知るきっかけとなったのが、落語の「中村仲蔵」です。
 八代目林家正蔵(林家彦六)の口演でした。
c0187004_9193766.jpg 「仮名手本忠臣蔵」の五段目の山崎街道は、ここでのストーリーはみんな知っているので弁当を食べていたため、弁当幕と呼ばれました。
 この五段目の中心人物は山賊の斧定九郎で、元は3万5千石のお大名の家老であったという設定です。
 この「定九郎」は名題役者が務める役ではありませんでした。
 その「定九郎」の役が、初代中村仲蔵にふられましたので、仲蔵のプライドが傷つきました。
 そこでなんとかしてお客から喝采を浴びたいと考えた仲蔵は柳嶋の妙見様に願掛けをします。
 満願の日に、大雨のため飛び込んだ蕎麦屋でであった浪人の姿をみて、それをヒントに従来の定九郎のイメージを一新した仲蔵流の定九郎を作り上げました。
 そして中村仲蔵の演じた定九郎は大評判となりました。
 そプロセスを描いたのが落語「仲村仲蔵」です。
 この初代中村仲蔵が作り上げた定九郎がの役作りが現代まで続いているそうです。
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by wheatbaku | 2012-03-16 09:12 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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