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彦根に来ています
 昨日の岡崎に続いて、今日は彦根に行ってきました。
 昨日は、岡崎の史跡を巡った後、名古屋で大学時代の友人と久しぶりに旧交を温めることができました。

 今日は、彦根まで足を延ばし、彦根城および井伊家ゆかりの寺院を巡ってきました。
c0187004_1754910.jpg 彦根城の天守まで登って、改めて彦根城は平山城であることを認識しました。

 彦根城博物館では、彦根屏風の特別展示も行われていて得をした気分になりました。

 また、天寧寺、清涼寺、龍譚寺などの井伊家ゆかりの寺々の奥の深さに圧倒されました。
 
 彦根についても、後日、詳しくレポートします。
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by wheatbaku | 2012-04-30 21:29 | Trackback
岡崎に来ています
黄金週間を利用して、岡崎に来ています。
今日は、岡崎城、大樹寺、伊賀八幡宮、滝山東照宮などをめぐりました。
すべて松平家、徳川将軍家に関係する史跡です。

c0187004_1712319.jpg 写真は、龍城神社から見た岡崎城天守です。

詳しくは、後日レポートします。
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by wheatbaku | 2012-04-29 23:58 | Trackback
大坂冬の陣・夏の陣(徳川将軍15代)
 徳川将軍15代のうち、家康の項もいよいよ最終版です。
 今日は、大坂冬の陣・夏の陣について簡単に触れます。
 家康の最後の課題が豊臣家をどうするかということでした。
 慶長16年(1611)に二条城で秀頼と会見した家康は、改めて朝廷や京都での豊臣人気の高さに驚かされます。
c0187004_12211123.jpg そのため、家康は、豊臣家を滅ぼさないと徳川政権は安定しないし、日本も安定しないと考えました。
 そこで、家康が生きているうちに家康の手で処理をしようと考えました。家康が手をつけることで、秀忠に汚名をきせず、家康自身が罪をかぶる覚悟だったと言われています。
 ですから、大坂攻めの意思決定は家康が行い作戦も家康が立てました。

 一方、秀忠は、関ヶ原の戦いの時の大失態を繰り返せば、武将として資質が問われかねないと考えました。
 そのため、秀忠が率いる直属軍が猛スピードで大坂に向かいました。
 2月23日に江戸を出発し3月9日に膳所に到着しました。
 日本橋から大津まで約490キロあります。
 秀忠は6万の軍隊を率いていましたが、平均で40キロ進んだことになります。多い日には70キロ~80キロも進んだ部隊もあったといいます。
 あまりのスピードぶりに、家康は、秀忠に書状でもって、「大軍が行程を急がせると兵馬が疲労する。ゆっくりと来るように」と申し送って注意しています。
 しかし、秀忠としては、11月3日に、先陣が大坂城を取り囲んだ状況では、遅参は絶対許されないとして、大急ぎで進軍させたようです。
 また、11月19日の軍評定の際、即時総攻撃を主張していますが、これも、関ヶ原の際の失点を回復するために強硬策を述べたと考えられています。

徳川方は20万の大軍で大坂城を攻撃しました。
c0187004_12213674.jpg  しかし、よく知られているように、天下の名城と言われた大坂城を落城させられませんでした。
 12月19日に堀を埋めることが条件に講和がなりました。
 埋め立て工事は、予想以上のスピードで進められ、正月19日には惣構の堀、三の丸、二の丸の堀すべてが埋め立てられました。
 秀忠は、予定の工事が完了したのを見届け正月28日京都をたって江戸に帰りました。
 しかし、大坂方は堀の復旧工事を開始したため、再び大坂攻めのため4月21日には伏見に到着します。
 そしていわゆる大坂夏の陣が始まり、5月7日に大坂城が落城します。
 この際に、千姫は、徳川方の岡山の陣に送り届けられました。
 家康は千姫の無事を喜んだが、秀忠は城を出てきたのは見苦しいと言って面会しなかったそうです。
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by wheatbaku | 2012-04-27 12:22 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
一里塚の設置(徳川将軍15代)
 今日は、一里塚の設置についての御話です。
 江戸時代、街道には一里塚が設けられていましたが、これは、東照宮実紀では、秀忠が命じた施策であり、秀忠が将軍になる前の慶長9年2月4日に 秀忠が諸国に一里塚の設置と街道の左右に松を植えることが触れられ、5月に完成したとしています。
 そして、一里塚には樹が植えられていて、その樹は榎の木が多いのですが、榎の木が植えられるようになったおもしろいエピソードも書かれています。

 東照宮実紀巻八に次のように書かれています

 
 2月4日 右大将(秀忠)の命令により、諸国の一里ごとに塚を築かせ、街道の左右に松を植えさせた。
c0187004_10233544.jpg  東海道・中山道の両道は、永井白元(あきもと)と本多光重、東山道は山本重成と米津正勝が奉行となり、町年寄の樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門も永井らに属して一里塚のことを勤め、大久保長安がこれを総指揮した。その他、幕領は代官、私領は領主が沙汰し、5月に至って、一里塚の設置が成功した。
 世に伝えるところによると、昔から諸国の里数制度があったが、国々によって異同が多かったので、近年、織田信長が領国内に 塚を築き、三十六町をもって一里と定めた。豊臣秀吉はあ、諸国を検地させ、一里を三十六町に定め、一里ごとに塚を築かせた。
この時に、改めて江戸日本橋を道程の始点に定め、七道に塚を築かせたという。その時に大久保石見守長安に、「塚に植える樹にはよい木を用いよ」との命があったのを、長安が誤って榎を植えたのが今日まで残っているとのことである。


 なお、付録巻二十一(逸話編)では、一里塚の上の榎の木を植えたのは、良い木を聞き間違ったのではなく、余の木と言ったのを聞き間違えたとしていいます。
 また、これを指示したのも家康であるとしています。

 道程の里数も、織田右府(信長)の時より三十六町を一里と定め、一里ごとに塚を築かせ目印とされたのを、豊臣家でも引き続き採用した。
家康が関東へ移った後、同じく一里毎に塚を築き、その上に榎の木を植えさせた。
(このとき松の木植えましょうと申し上げたところ、余の木(余っている木または別の木)を植えよと家康が言ったのを聞き間違えて、榎の木を植えたという。



 右上の写真は、北区にある西ケ原の一里塚です。中山道に築かれたものです。
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by wheatbaku | 2012-04-26 10:48 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
秀忠将軍となる(徳川将軍15代)
 今日は、秀忠の将軍就任について書きます。
 家康は、将軍について2年で、将軍職を秀忠に譲りました。
 秀忠は、慶長10年(1605)4月16日、伏見城で将軍宣下を受けました。

 これに先立ち、正月、家康は江戸を発ち伏見城へ入りました。家康の御供は少人数でした。
 一方、2月になって、秀忠も家康の後を追い上洛しましたが、秀忠の御供は関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて10万人を超える大規模なものでした。
c0187004_12573063.jpg これは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先例を模したものでした。
 頼朝は建久元年(1190)に5万の大軍を率いて上洛しました。
 家康は非常に頼朝を崇拝し、考え方や足跡に倣うところがあったといわれています。家康の愛読書の筆頭は「吾妻鏡」でしたし、関東に幕府を開いたのも頼朝に倣ったといわれています。
 秀忠への将軍職の譲位の儀式は、建久の故事に倣ったものです。
 
 また、当時はまだ大坂城に豊臣秀頼がいました。10万人という数は、いざ戦いとなった時には、すぐにでも戦える規模です。
 10万もの大軍が上方に向かったため、本当の狙いは大坂城攻めだと勘違いされ、大坂方は一時厳戒態勢を敷きました。

 秀忠の出発は3軍に分けて行われました。
 先陣は、15日に榊原康政が出発し、16日から順に伊達政宗、堀秀治、溝口秀勝、上杉景勝らの外様大名が出発しました。さらにその後、蒲生秀行、本多忠朝、真田信之、大久保忠燐、大久保忠常、酒井忠世、浅野長重などが続きました。
 24日は、秀忠の本陣が出発しました。
 25日には、後陣が出発しました。松平忠輝、松平忠吉、松平康長、最上義光、佐竹義宣、南部利直、酒井家次が続き、最後は鳥居忠政でした。

 3月21日、秀忠が伏見城へ入りました。そして、4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日に秀忠は第2代将軍に任じられ、建前上、家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになりました。

 なぜ、家康は、こんな将軍職の交代を急いだかですが、定説では、豊臣方に、徳川政権が継続していくことを見せつけるためだと言われています・
c0187004_12574877.jpg しかし、小和田哲男静岡大学名誉教授は、次のようにも考えています。
 家康は、頼朝をモデルにして、江戸に幕府を開いたものの、そのまま東国に本拠を置いてしまうと、大坂方が頭をもたげてくる懸念を感じるようになりました。
 そこで、家康は、豊臣家と豊臣を担ごうとする勢力が存在する以上江戸の将軍だけでは、豊臣方をけん制することが難しいと考えました。
 そのため、将軍職は秀忠に任せ、家康自身は大御所として、大坂方対策と西国大名対策に力を入れようとしたのではないかと小和田先生は考えています。
 そして、将軍職を譲ったため、隠居城が必要となり、家康が選んだのが駿府ということになりました。
駿府は江戸より大坂に近いため大坂対策に都合がよいという面が考慮されたかもしれません。
 これにより、江戸と駿府に二つの政権が並び立つことになりました。
 駿府は、司令部として機能し、江戸は実行部隊として機能したと言われています。
 
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by wheatbaku | 2012-04-25 12:59 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
千姫の結婚(徳川将軍15代)
 今日は、「徳川将軍15代」の記事を書きます。
 本日は「千姫の結婚」です。
 家康は、慶長8年(1603)2月に将軍宣下を受け征夷大将軍になりました。

 このことは、豊臣方に非常な衝撃を与えました。
 そこで、家康がその衝撃を和らげるために行ったのが、秀頼と千姫との結婚です。
 もともと秀頼と千姫は、秀吉の生前中の慶長3年(1598)病床にあった秀吉は、秀頼と千姫との婚約を結んでいました。
 家康は、それを実行することにしたのです。当時、秀頼11歳、千姫7歳でした。

c0187004_12311932.jpg 千姫は5月中旬に伏見城に到着しました。右写真は現在の伏見城です。
 この時、母親の江は、身重ながら千姫についていっています。
 江は、千のことを心もとなく思って大坂への輿入れについてきたと記録に残っているようです。

 この頃は、家康は伏見城にいて、父秀忠は江戸城にいました。
 諸大名は、秀忠も上洛するものと思っていましたが、秀忠は江戸に留まり上洛しませんでした。
 そして7月28日には、千姫は伏見城を出た淀川を船で下り大阪城に向かいました。
 
 江は、身重の身で千姫についてきていましたが、、日が経ち身重の身では江戸に帰ることがむずかしくなり、伏見城で7月9日に四女の初を出産しました。

 生まれた女子(初)は、出産前に、江の次姉である初(後の常高院)との間で、生まれてくる子が女子であれば、初(常高院)の養女とする約束ができていたため、初(常高院)の子供として育てられました。

 身重の身で、娘の輿入れのため、江戸から遠く離れて伏見までついてくる「江」の思いに驚かされます。

 政略結婚でしたが、千姫と秀頼は、従兄妹どうしでもあったこともあり、仲睦まじく大坂城で暮らしていたようです。
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by wheatbaku | 2012-04-24 12:32 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
江戸城散歩(江戸の仲間)
 昨日は、江戸検1級2期会の定例会があり、江戸城を散策してきました。
 今回のメインナビゲーターは、ブラタモリに出演したばかりの木下さんでした。
 木下さんは建築家でありかつ画家でもあります。
c0187004_23364519.jpg 今回は、建築家から見た江戸城を案内してもらいました。
 木下さんは画家でもあり、現在の江戸城に、江戸時代の江戸城を重ね合わせたイラストをご自分で作成して配布してくれました。
 写真は、案内スタートの前にイラストの説明をする木下さんですが、作成の苦労話や今後の夢なども語ってくれました。イラストを描くため100回も江戸城に通ったとのことでした。


c0187004_2337433.jpg 江戸城の中で、百人番所は案内に欠かせないポイントです。
 大手三之門を守るために鉄砲百人組が詰めた場所が百人番所です。
 百人番所の間口を実測した結果、江戸城では一間が6.5尺であることを説明してくれました。
 さすが建築家と思わせる説明でした。


c0187004_23372222.jpg 浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた松之大廊下跡も説明ポイントですが、ここでは、松之大廊下に描かれていた障壁画についての説明がありました。
 当時の狩野派は狩野晴川院が取り仕切っていましたが、晴川院は本丸御殿の主要部分を担当し、松之大廊下は狩野探淵が担当したとの説明でした。
 写真左端に石碑があるのがわかりますか?  その石碑に松之大廊下跡と書かれています。


 天守台下で説明を受ける参加者たちです。
 江戸城の天守は、3度建築されています。家康が建てた慶長年度の天守、秀忠が建てた元和年度の天守、家光が建てた寛永年度の天守です。
c0187004_23374215.jpg  それぞれの天守について木下さんが詳しく説明してくれました。
 それによると、慶長年度の天守は、現在の天守台とは異なり、本丸の中央部にあったそうです。そして、元和と寛永の天守は、現在の天守台の位置に建てられました。
 そして、慶長の天守は、しっくり塗であったため白い天守でしたが、寛永の天守の壁には、銅引きでそのうえにチャンという防水材が塗られていたとのことでした。


c0187004_2338192.jpg 皇居東御苑は、植物の宝庫でもあります。竹林、バラ園、椿園などが整備されていて見本園の役割も果たしています。
 植物のほうは、Mさんが説明してくれました。
 竹林には10数種の竹が植えられています。
 右写真はキッコウチクという竹です。
 テレビ時代劇の「水戸黄門」で黄門様が持っている杖は、この竹で作られたものとのことでした。
 名前の通り、節が亀甲模様になっていました。
 タケノコも生えていました。


 また、桜も一杯植えられています。
 ソメイヨシノはもう散っていますが、遅咲きの桜が見事に咲いていました。

c0187004_23404195.jpg フゲンゾウ

 漢字で書くと、普賢像と書きます。
 普賢象とは、二本ある葉化した雌しべが、まるで普賢菩薩が乗っている象の牙のように見えることから名がついたといわれています。

c0187004_23384747.jpg カンザン

 漢字では関山と書きます。
 里桜の代表的な栽培品種です。
 花の色が鮮やかな紅色で目立つことと寒さや病害虫に強いので最近は各地で植えられています。
 遠くに見えるのが天守台です。

 
c0187004_23394726.jpgヤエベニシダレ

 エドヒガンザクラの枝垂れるタイプで紅色の八重咲きの桜です。
 明治時代に、仙台市長であった遠藤庸治が盛んに植えたことから遠藤桜とも呼ばれます。

 木下さんは、雨になるのではと心配していましたが、晴れ男を自認する人が大勢いたためか、雨はふりませんでした。
 参加者の約半数は、江戸城のガイドの経験のある人でしたが、多くの資料を用意して詳しく説明してもらい、江戸城が一段と深く理解できたようです。
 Mさんの植物の説明もすごく役にたちました。
 お二人大変お世話になりました。ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2012-04-23 09:13 | 江戸の仲間 | Trackback
将軍宣下(徳川将軍15代)
 家康は、慶長8年(1603)2月に将軍宣下を受け征夷大将軍になりました。

 この将軍宣下の時の様子が、家康公伝に詳しく書かれています。
 人物名や朝廷の職階名がたくさんできます。特に職階名をいちいち覚える必要はありませんが、将軍宣下がどのように行われるのか雰囲気がわかっていただければよいと思います。

 2月12日 宣下は伏見城で行われましたが、その宣下の前に、禁中で陣儀が行われました。
上卿(しょうけい)は広橋兼勝(ひろはしだいなごんかねかつ)が務め、奉行職事(ぶぎょうしきじ)は烏丸光広(からすまるみつひろ)が、弁は坊城俊昌(ぼうじょうとしまさ)が務めました。
c0187004_11261596.jpg
 陣儀が終わった後、勧修寺光豊(かんしゅうじみつとよ)が勅使として午前9時ごろに伏見城に参上した。
 上卿・奉行職事はじめ月卿(げっけい)雲客(うんかく)は轅輿(ながえごし)に乗り、その他大外記の・官務はじめ諸官人は轎車(きょうしゃ)に乗って参上した。みんな束帯であった。雲客以上は城中玄関にて轅輿を下り、それ以下の者たちは第三門にて轎車を下りた。

 この時、土御門久脩(つちみかどひさなか)が家康の衣服の着付けを行った後、紅の直垂(ひたたれ)をお召になった、午刻(正午)に南殿におでましになった。今日参上した人々は、諸大夫以上は直垂、諸士は素襖(すおう)を着ていた。

 家康はまず勅使に御対面になって公卿は将軍宣下をお祝い申し上げた。次に上卿・職事・弁みな中段に進んだ。告使の中原職善(なかはらもとよし)が庭先に進んで、正面の階下において一礼し、磐折(けいせつ)して「御昇進」と2度唱える。その後、一礼して退いた。
 次に広橋、勧修寺の二人は、上段第二の間の中程に左右にわかれて着座した。奉行・職事や参仕した弁等は第三の間で左右に別れて着座した。
 その時に壬生孝亮(みぶたかすけ)が広庇(ひろひさし)に参上した。副使の中原職忠(なかはらもとただ)は征夷大将軍の宣旨を覧箱に入れて、小庇の方より持出て壬生孝亮に授けた。壬生孝亮はこれを上に高く差し上げながら進んだ。大沢基宥(もとゆう)が受け取って家康の御前に奉った。家康は謹んで頂戴し、宣旨は家康の御座の右に置いた。大沢基宥は覧箱を受け取って奥に入った。
 家康の家来の永井直勝は、その箱に砂金の入った袋を二つ入れて大沢基宥に授けた。大沢宥是を奥より持って出て壬生孝亮に授けた。壬生孝亮は謹んで頂戴したのち退出した。

 次に源氏長者の宣旨は押小路師生(おしこうじししょう)が持参した。大沢基宥が受取って家康の御前に差し上げた。宣旨の入った箱は大沢基宥が受け取って奥に入った。永井直勝は砂金一袋を入れて、大沢基宥これを奥より持って出て押小路師生に授けた。押小路師生は謹んで頂戴して退出した。その様子は将軍宣旨の際の所作に同じである。

 次に官務が氏長者の宣旨を持ち出した。次に大外記右大臣の宣旨を覧箱に入れ持ち出した。次に押小路師生と壬生孝亮が牛車の宣旨を持ち出した。
 次に隋身兵杖を許可するとの宣旨を大外記が持って出てきた。次に淳和奨学両院別当の宣旨を壬生孝亮が持もって出てきた。そのだびごとに家康は覧箱に砂金を一袋ずつ入れて賜はった。
 
 次に職事・弁等が座を立ち、次に上卿・勅使が太刀・折紙を持って拝謁し、大沢基宥が披露した。次に職事・弁以下が太刀・折紙を持って出て、三の間の長押の内側で拝謁した。押小路師生以下は太刀を三の間の内側に置いて広庇で拝謁した。壬生孝亮、出納。少外記。史も同様であった。次に陣の官人・召使等は太刀は献上せず、広縁で拝謁して退出した。

 以上です。
c0187004_1127753.jpg
 この将軍宣旨の様子を読んで気が付いた点がいくつかありました。
 1、深井雅海氏の「図解江戸城を読む」に8代将軍吉宗の将軍宣下の状況が書かれていますが、徳川公伝の家康の将軍宣下の方が丁寧に書かれています。
 なお、家康は伏見城、秀忠と家光は二条城で将軍宣下を受けていますが、4代家綱以降は、14代家茂まで江戸城に勅使を迎えて将軍宣下を受けています。15代将軍慶喜は、たまたま京都に滞在していたため、二条城で将軍宣下を受けています。

 2、儀式のなかで、庭先から2回「御昇進・御昇進」と唱えている点は、おもしろいと思います。

 3、大沢基宥が活躍していますが、この時は「高家」という職はありませんでしたが、「高家」としての勤めをはたしているようです。この将軍宣下の際の活躍があったため、大沢家は高家肝煎となっています。
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by wheatbaku | 2012-04-20 12:49 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
江戸の有力町人(徳川将軍15代)
 江戸に入府した頃の有力町人についても、徳川実紀付録巻6に書かれていますので、紹介しておきます。

 まず町年寄(まちどしより)について書かれています。
 町年寄というのは、江戸市支柱の各町内を支配する筆頭の町役人を言います。江戸の場合、樽屋、奈良屋、喜多村の三家が町年寄を世襲しました。
c0187004_819243.jpg 町年寄の仕事は、①町触(まちぶれ)の伝達や人別の集計などの町政一般、②市中の商人や職人の統制、③町奉行の諮問に対する調査や答申などの調査・調停事務があります。
 さらに玉川上水が完成した承応3年から元禄6年までは一時期を除いて神田上水と玉川上水の管理も町年寄の仕事でした。
 町年寄の住居兼役宅は三家とも日本橋にありました。奈良屋は本町1丁目、樽屋は本町2丁目、喜多村は本町3丁目にありました。
 その町年寄について次のように書かれています。

 樽屋藤左衛門という者は水野右衛門大夫忠政の七男弥大夫忠頼の子である。はじめは弥吉康忠といった。
 長篠の合戦で酒樽を家康に献上したところ、家康は織田信長に贈られた。織田信長は大変よろこび、樽とよばれたことにより姓を樽と改め、遠州町々の支配を命ぜられたが、このたびの関東への御遷移により、又江戸市街の事をつかさどらさせ、神田玉川水道の事をも差配し、東国(東日本)の升の事の司った。
 このほかに奈良屋市右衛門、喜多村喜右衛門という者も同様に家康の旧領より引き移り、樽屋と共に市中ならびに水道の事を差配した。


 奈良屋は、大和国奈良に居住していて、天正10年の伊賀越えの際、忠節を尽くした小笠原小太郎が先祖です。奈良に居住していたため、奈良屋と名乗ったようです。
 また、喜多村は文五郎という武士だったようですので、町年寄3家とも先祖は武士であったことになります。

 なお、樽屋は升のことを司ったと書かれていますが、これは体積の単位を全国統一させるために、徳川幕府は、江戸と京都に升座を置き、升の製造・販売を独占させるとともに、升を検査する権利も与えましたが、その江戸の升座を樽屋が支配したことを意味しています。一方、京都の升座は福井作左衛門が支配しました。

 升座を設け、体積を計る升を統一したのと同様に、 幕府は、江戸と京都に秤座を設け、重量を量る秤を統一管理しました。江戸の秤座を支配したのが守随家です。
その守随についても次のように書かれています。なお、京都の秤座は神善四郎が支配しました。

c0187004_8195270.jpg  守随兵三郎という者は甲州で秤をうる商売をしていたが、守随も移封を知って速やかに江戸にやってきた。
 多門伝八郎信清を頼り、井伊直政を通じて関八州の秤のことをお引き受けすることを願い出ると「はるばる甲斐の国からやってきて神妙なこと」とお思いになり、願い通りに許可され御朱印を与えられた。


 右上写真は、日本橋にあった秤座の碑です。

  明日は、家康の将軍宣下の様子を書きます。
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by wheatbaku | 2012-04-19 09:54 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
江戸入府の頃の出来事(徳川将軍15代)
 今日は、家康公伝に書かれている家康江戸入府の頃の江戸に関する事柄について書きます。

 東照宮実紀付録巻6に、江戸に入った時のと山王社と平河天神および江戸城の様子について書かれています。

【平河天神と山王社】
 まず、平河天神と山王社について次のように書かれています。
 山王社は、現在の日枝神社です。家康が江戸に入府したころは、平河天神も山王社も、江戸城に鎮座していたことが書かれています。

c0187004_11191771.jpg 関東に御遷移の頃、家康は榊原康政をお呼びになって、「江戸城内に鎮守の社はないのか」と御尋ねになられた。康政は「城の北曲輪に小さな社が二つあるのが鎮守の神でしょう。ご覧ください」といって家康を案内した。
 小さい坂の上に、梅の木が数株植えてあり、その中に社がニ棟建っていた。
 家康の上意に「大田道灌は歌人なので菅原道真の神霊を祀ったと思われる」と。
 
 これが平河天神です。 現在は平河町に鎮座しています。右上の写真が現在の平河天神です。

 家康はもう一方の社の額をご覧になると、直ちに拝礼なされ、「さて式部(榊原康政)、不思議なことがあるものよ」とおっしゃった。
 康政が御側近くに進み寄ると、家康は「私は江戸城に鎮守の社がなければ、坂本の山王を勧請しようと前々から思っていたが、どのような縁があってか、ここに山王が安置されておる」とおっしゃった。

c0187004_11173655.jpg 康政は平伏して「これも大変不思議で奇妙なことであるものです。そもそも江戸城に異変なく御家運が栄える佳瑞でしょう」と申し上げると家康の御機嫌は殊のほかよかったという。
 その後、城塁が築かれていくと、山王の社を紅葉山に移され、さらに半蔵門外に移し、明暦の大火後に至って今の星岡の地に壮大に造営されて、徳川家歴代の産神となされた。
 雷神の祠は平河門外に移したのを、また麹町に移して旧跡を保存された。今の平河天神がそれである。


 上の文の中で星岡と書いてある場所が、現在の日枝神社が鎮座している場所です。左上は現在の日枝神社です。

【江戸城のこと】 
 次いで、江戸城のことが書かれています。
 江戸城は、家康が入城した時は、非常に荒れていたと言われていますが、大変だったようで、本多正信がせめて玄関だけは修復しましょうと進言したのにもかかわらず、家康は笑ってそのままにしておきました。
 
 江戸城は北条の治世下において城代であった遠山の屋敷や本丸から二の丸、三の丸までの古屋敷が残っていた。
 多くは柿(こけら)葺きではなく、木を薄くけずって作った板などを用いて葺いていた。なかでも厨房の辺りは萱茨で大変すすけていた。玄関の階段板は幅が広い舟板を3枚ならべて階段とし、その他はすべて土間であった。
 本多正信はこれを見て、「あまりにも見苦しい。他はそのままになさるとも、玄関は御造営なさるべきです。諸大名の使者なども見るだろうに、まことに面目を失います」と申し上げると、家康は「無駄に立派なことを云う」とお笑いになり、そのままにしておかれた。
 最初に本城と二の丸の間にある乾堀を埋められ、さらに大小の御家人の知行割を急がれ、榊原康政を総責任者として、青山忠成と伊奈忠政の二人が奉行となり、微録の者ほど御城近くで知行地を拝領して、往来するのに一晩かかるほどの地は微録の者には与えるなとお命じになった。 以下略


 この後、家康公伝には増上寺の存応上人との出会いについても書かれていますので、明日はそのことについて書きます。
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by wheatbaku | 2012-04-17 11:28 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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