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福島正則と最上家の改易(徳川将軍15代)
 今日は、まず、大名の配置の変化について書いてみます。
 徳川幕府が開かれてから秀忠の代までの大名配置は、有力外様大名の改易に伴い、3回大きく変わりました。
 最初は、元和元年の豊臣氏滅亡そして元和3年の秀忠の上洛により、畿内から播磨まで、譜代大名が進出しました。

 次いで、元和5年に福島正則が改易になった時に大きく変わりました。
c0187004_1126209.jpg 福島正則が改易になった跡には、紀州藩主浅野光晟が広島に42万石で移り、和歌山には駿府から徳川頼宣を移しました。
 大坂城は幕府直轄として、大坂城主松平忠明を大和郡山に、大和郡山の水野勝成を備後福山10万石に移しました。
 水野勝成は、譜代大名として初めて中国地方へ進出しました。

 3回目が、最上家を取り潰した時です。
 元和8年出羽山形の最上家57万石を取り潰した後には、山形には鳥居忠政を磐城平から10万石で移し、出羽庄内には信州松代から酒井忠勝(四天王酒井忠次の孫)を13万石で入れました。
 この転封により、それまでほとんど外様大名が占めていた奥州に譜代大名が進出しました。

 秀忠は、23家の大名を改易していますが。大名の配置が大きく変わるきっかけとなった有力外様大名の改易のうち、①福島正則の改易と②最上家の改易について書いてみます。

 福島正則は、豊臣秀吉の近親者であり、秀吉の子飼いの勇将として名が轟いていました。
 関ヶ原の戦いでは、石田三成犬猿の中であったたため、家康を支持し、先鋒として戦いました。
 戦後、尾張清州24万石から安芸広島藩49万石8200石に加増されました。
 しかし、豊臣恩顧の大名として、幕府から常に警戒されていました。
 そのため、福島正則も慎重に対応していました。
 しかし、元和5年(1619)、洪水で破壊された広島城を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われます。
 正則は、本丸を除き、二の丸・三の丸を壊すことを了解しましたが、なぜか破却を命じられた二の丸・三の丸をそのままにしていたため、咎められました。
 修理工事の件は、正則は事前に本多正純に相談し、了解を取り付けてあったという説もありありますが、それでも、信濃国川中島4万5千石に減封・転封されます。そして、最後には、福島家は、旗本まで身分を落とされます。
 この改易処分は、豊臣恩顧の大名つぶしと言われています。
 また、広島城受取のため、中国四国のほとんどすべての大名が出陣したことにより。家康が生きている時代には東国大名に限られていた秀忠の軍事指揮権が、西国大名にまで及んだことを示すことになりました。

 山形藩最上家の改易は、最上騒動とも言われています。
c0187004_11304975.jpg 山形藩最上家初代の最上義光(よしあき)は、豊臣秀吉の全国統一以降は、出羽山形24万石を領し、関ヶ原合戦後は57万石(52万石とも)を領することになりました。
 義光の死後、次男の家親が跡を継ぎますが、36歳の若さでなくなり、その子義俊が継ぎましたが、義俊の叔父義忠を藩主にしようというお家騒動となり、元和8年(1622)最上家は改易され、義俊は近江に移され一万石を領しました。また、義俊も26歳の若さで死去し、跡を継いだ義智が2歳だったため、5千石に落とされ、義智一代は高家をつとめましたが、子孫は交代寄合として、明治を迎えました。 

 秀忠は、凡庸な将軍とのイメージがありますが、福島正則や最上家などの改易にあったって強い決断力を発揮したと言われています。
 その決断力は、将軍家の身内の大名に対する改易にも発揮されます。
 
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by wheatbaku | 2012-05-31 11:12 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
武家諸法度 (徳川将軍15代)
 大名統制の基本となったのが、武家諸法度です。
 今日は、武家諸法度について書いてみます。

 武家諸法度は、慶長20年(1615)7月7日に発布されました。まだ家康が存命中であり、家康が実質的な制定者ですが、秀忠の名で出されています。
c0187004_10531478.jpg この日、全国の諸大名が、伏見城(右写真は現代の伏見城)に集められ、秀忠付年寄の本多正信から発令が発表され、崇伝が読み上げました。
 家康は、二条城にいました。秀忠による発令であることを明確にするためでした。
 また、武家諸法度発令前、諸大名に法令を発令する際には、諸大名が誓約する形式をとっていましたが、武家諸法度は、諸大名が誓約するに形式はとらず、読み聞かせるだけという一方的な通告となっていて、将軍の権力が強くなったことが表れています。

 武家諸法度は13条からなっています。
 武家諸法度の内容は、次の通りです。
 第1条 文武弓馬の道、専ら相嗜むべきことと文武の奨励を定めています。
 第2条 群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)つまり遊楽の禁止
 第3条 法度に背いた犯罪者隠匿の禁止
 第4条 反逆者・殺害人の領外追放
 第5条 他国人を領内に置くことの禁止
 第6条 居城の補修の届け出と新城の禁止
 第7条 隣国の新儀・徒党の届け出
 第8条 無断婚姻禁止
 第9条 参勤作法の指示
 第10条 衣装の規制
 第11条 乗輿(じょうよ)の制限
 第12条 倹約の奨励
 第13条 政務にふさわしい人材の選任

 この武家諸法度は、大名統制に大きな役割を果たします。
 秀忠が行った代表的な改易処分としては、外様大名の福島正則の改易があります。
 この福島正則の改易は、かってに居城の広島城の修復工事を行ったというもので、武家諸法度の第6条に違反したためとなっています。
 また、第13条は「国主は政務の器用を選ぶべきこと」とされていて、幕府が大名の改易や領国支配に介入する場合にもっとも威力を発揮しました。
 なお、武家諸法度は、幕末まで、将軍が替わるごとに発布されました。
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by wheatbaku | 2012-05-29 19:40 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
秀忠上洛 (徳川将軍15代)
 今日から、徳川将軍15代の話題に戻ります。

 今日からは、家康死後の秀忠の施策等について書いていきます。
 家康は元和2年(1616)4月17日になくなりました。
 家康の死によって江戸と駿府の二元政治は終了します。
 これ以降、秀忠が自立するとともに秀忠の独自政策が展開されてきます。

 秀忠は、元和3年6月14日に、数万の大軍を率いて上洛しました。
 上洛軍は、一番伊達正宗、二番上杉景勝、三番佐竹義宣、四番戸田康長、五番蜂須賀至鎮、六番本多正純、七番土井利勝、八番酒井忠世、九番将軍秀忠。十番安藤重信、十一番鳥居忠政、十二番蒲生秀行という陣容でした。
c0187004_1111627.jpg これは軍事指揮権を秀忠が把握したことの示威行動ですが、これとともに、西国の大名の転封を行い、譜代大名の西国進出を実現するためでした。
 具体的には、姫路藩池田家が鳥取藩に移封され、姫路城(右写真)には本多忠勝の子本多忠政が桑名藩から22万石で入り、播州明石には、信濃松本藩から小笠原忠真が10万石で、播磨龍野には、本多政朝(忠勝の孫)が上総大多喜から5万石、さらに摂津尼崎には近江膳所から戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入りました。これらは全員譜代大名です。
 
 この転封以前、譜代大名は丹波笹山藩5万石の松平康重と亀山藩3万6千石の岡部長盛が最も西でした。 この転封により、譜代大名の勢力が播州まで進んだことになります。
 
 さらに、この上洛を機に、秀忠は大名、公家、寺社に領知朱印状を交付しました。
 家康は領知朱印状はほんの一部しか発行しませんでした。
秀忠による領知朱印状の発行が最初であり、以後、将軍の代替わりごとに交付されることになります。

 秀忠は外様大名を含む全国の諸大名と公家・寺社に領知朱印状を発行することで、徳川将軍家が日本全国の土地に対する領知宛行権(りょうちあてがいけん)を掌握していることを明らかにしました。
 秀忠は家康と比較すると存在感が薄いイメージがありますが、この徳川幕府による領知宛行権の独占を実現したことによって、徳川将軍家の長期政権の礎石を築いたと言えます。

 元和3年の上洛は、秀忠みずからが京都に出向き、京都に全国の大名を集めて、将軍の優位性を示すためのものでした。
 こうした優位性の中で、秀忠は、強力に大名統制を行っていきます。
 大名統制のお話は明日以降します。
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by wheatbaku | 2012-05-29 10:57 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
築地散歩
 土曜日に、毎日文化センターの受講生の人たちと築地を散歩してきましたので、その一部を紹介します。

 土曜日は次のコースを歩きました。
 芥川龍之介生誕の地 ⇒ 浅野内匠頭藩邸跡 ⇒ アメリカ公使館記念碑 ⇒ トイスラー記念館 ⇒  慶応義塾発祥の地碑 ⇒ 蘭学事始の地碑 ⇒ 築地教会 ⇒ 指紋研究発祥の地碑 ⇒ 塩瀬総本家 ⇒  アメリカ公使館跡 ⇒ 運上所跡 ⇒ 電信創業の地 ⇒ 月島の渡し跡 ⇒ 勝鬨橋 ⇒ 軍艦操練所跡 ⇒ 波除稲荷神社 ⇒ 海幸橋 ⇒ 海軍兵学寮跡碑 ⇒ 桂川甫周屋敷跡 ⇒ 築地小劇場跡 ⇒ 築地本願寺

【浅野内匠頭藩邸跡】
 築地散歩のメインが浅野内匠頭藩邸跡です。
c0187004_1017465.jpg 現在は聖路加看護大学となっています。
 古地図を見ると、浅野又一と書かれています。又一とは浅野内匠頭のことです。
 浅野家の屋敷は約9千坪ありました。
 鉄砲洲の屋敷は上屋敷で、下屋敷は赤坂にあり、1400坪ほどの広さがありました。
 松の廊下の刃傷事件を起こしたあと、藩邸は幕府に収公されましたが、3日間で滞りなく処理をし、江戸っ子の喝采をあびたと伝えられています。
 四十七士が討ち入りをした後、泉岳寺へ引き上げる途中で、この上屋敷の近くを通ったことは有名です。


【築地本願寺】 
 「築地本願寺」は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言います。
c0187004_10172739.jpg 創建は、元和3(1617)年、西本願寺の別院として、第12代門主准如上人によって建立されました。

 当時、浅草近くの横山町【実際は日本橋に近い】にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦3年(1657)、歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまいました。
 しかし大火後の幕府の都市計画により、旧地への再建が許されず、その替え地として指示されたのが八丁堀の海上でした。
 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝7年(1679)に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになりました。
 尚、このときの本堂は、正面 が西南(現在の築地市場)を向いて建てられていました。

 その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京帝国大学工学部教授であった伊東忠太の設計によりインド様式の外観を持った建物が昭和9年に落成しました。
 伊東忠太は、昭和18年に建築界ではじめて文化勲章を受章しました。
 作品では、東京都慰霊堂、湯島聖堂などがあります。
 この建物は、外観はインド様式の石造りとなっていますが、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りになっています。

【間新六の墓】 
 築地本願寺の西北の一画に酒井抱一、森孫右衛門などの有名人の墓地があります。
 その中に、赤穂浪士の一人間新六の墓があります。
c0187004_10174379.jpg 間新六は、本懐を遂げて本所松坂町の吉良邸から高輪泉岳寺へ引き揚げる途中、持っていた手槍に金子50両を結びつけ、自身の供養料として本願寺の塀外から寺内に投げ込んだと伝えられています。
 間新六は、長府毛利甲斐守の邸に預けられ、元禄16年(1703)2月4日、24歳の若さでこの世を去りました
 当時の切腹は形式的で、実際に腹は切らず、切腹の座につき短刀に手をかけたところで介錯人が首を落としたそうです。
 しかし、新六は、短刀を手に取って腹に突き刺し、実際に切腹したそうです。
 新六の遺骸は、姉婿が築地本願寺に葬ったので、本願寺に墓があると書いてあるものもありました。
 しかし、 この説について詳しく調べている訳ではありませんが、間新六は、父喜兵衛と兄十次郎とともに討ち入りしていますので、姉婿が新六一人だけをなぜ本願寺に葬ったのだろうという疑問が個人的にはあります。
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by wheatbaku | 2012-05-28 10:24 | Trackback
伊賀八幡宮(岡崎散歩 徳川将軍15代)
 今日は、伊賀八幡宮についてご案内します。

c0187004_9443173.jpg 伊賀八幡宮は、松平四代・親忠が松平家の氏神として三重県の伊賀から迎え、武運長久・子孫繁栄を祈願するための八幡宮を祀ったものです。
 伊賀にちなんで伊賀八幡宮と名付けるともに、鎮座した土地の名も伊賀と変えました。

 この伊賀八幡宮も重要文化財が多くあり、本殿・幣殿・拝殿・透塀・御供所・随身門・石橋などが国の重要文化財に指定されています。

c0187004_9445127.jpg 本殿は、慶長16年(1611)徳川家康によって造営されました。
 権現造りの本殿は入母屋造が普通ですが、伊賀八幡宮は流造りになっている珍しい建物です。
 幣殿、拝殿は、寛永13年(1636)家光によって本殿に増設して造営されました。


c0187004_9455956.jpg御供所(ごくしょ)
 御供所は、神様のお供物を調整し供した所だそうで、「ごくしょ」と読むそうです。
 社殿以外の建造物で古いものが残っているのは伊賀八幡宮を含め数社だけだそうです。


c0187004_9461325.jpg随神門
神社を守護する随神様が門の両側に配置されています。おります。
 随神様が安置する随神門は愛知県では伊賀八幡宮だけだそうです。
 また門の表と裏両方の左右に天邪鬼が門の屋根を支えています。


c0187004_9462553.jpg神橋
 石造りの反り橋です。
 橋の作り方に木造建築の手法が取り入れられています。
 重要文化財となっている石造りの橋は、これと日吉大社のものだけだそうです。


c0187004_9463967.jpg石鳥居
 明神鳥居で、神橋の南側にあります。
 鳥居をくぐると、神橋があります。そして、その奥に随身門があります。
 しかし、神橋を渡ることはできません。
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by wheatbaku | 2012-05-25 09:35 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
歴代将軍の位牌(岡崎散歩 徳川将軍15代)
 岡崎の大樹寺で最も見たいと思っていたものは、徳川将軍家の位牌です。
 今日は、このお話です。
 
 松平家徳川家の位牌は、位牌堂にあります。
c0187004_10394886.jpg 位牌堂は、本堂から入るので、外観がどうなっているのかわかりませんでしたが、大樹寺のHPによると右のような建物です。

 位牌堂の中に入ると、正面に家康の位牌と木造が安置されています。
 家康は「遺体は駿河久能山に葬る事、葬礼は江戸増上寺で行うこと、位牌は三河大樹寺に立てること、一周忌が過ぎたら下野日光山に小堂を建てて勧請せよこれにて関八州の鎮守とせよ」と遺言したと言われています。
c0187004_10395443.jpg 「家康の位牌は遺言通り大樹寺に立てられたと思われますが、安政の火災で記録が焼失しているため定かではありません。
 おそらく一周忌には位牌は調整されていたものと思われます。」というのが大樹寺の説明です。
 また、現存の位牌は当時のものではなく、家康の13周忌にあたる寛永5年(1628)尾張藩主義直が調進したものだそうです。
 家康の木造は、正保4年左京法橋康以の作で、寄木造、玉眼、彩色、像高47cm、現在墓地になっているところにあった御霊屋に安置されていたものです。
 戦前の国定教科書に載っていた家康の写真はこの木造だそうです。

c0187004_10403747.jpg 位牌堂の右手に松平7代の御位牌、左手に将軍家の御位牌が並んでいます。
 松平家の御位牌は、寛永5年(1628)に 徳川義直が寄進したもので、総高はすべて同じです。
 堂内に、御位牌がずらっーと並べられているのは非常に壮観です。
 右写真が、松平家の御位牌です。
 左下が、将軍家のお位牌です。
 

c0187004_10403682.jpg 左側には将軍家の位牌が並んでいます。 
 この大樹寺の位牌の高さは、将軍の身長に合わせて作られていると言われています。
 歴代将軍の法名と位牌の高さを列記すると次のようです。
 これを見ると、5代綱吉の位牌は124センチであるのが、異常に低いと思います。
 7代家継は、8歳で死んでいるので、135センチというは当然だと思いますが、綱吉は家継よりも低くなっています。
 見た目にも、明らかに、綱吉の位牌は他の位牌と比較して低く見えました。
 位牌の高さが、身長に合わせたものであるという説に従えば、綱吉自身の身長が低かったということになります。

 初代家康 前大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士  位牌の高さ 159センチ
 2代秀忠 台徳院殿一品大相国公     位牌の高さ 160センチ
 3代家光 大猷院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 157センチ
 4代家綱 厳有院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 158センチ
 5代綱吉 常憲院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 124センチ
 6代家宣 文昭院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 156センチ
 7代家継 有章院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 135センチ
 8代吉宗 有徳院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 155.5センチ
 9代家重 惇信院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 151.4センチ
10代家治 浚明院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 153.5ンチ
11代家斉 文恭院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 156.6センチ
12代家慶 慎徳院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 153.5センチ
13代家定 温恭院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 149センチ
14代家茂 昭徳院殿贈正一位大相国公  位牌の高さ 151.6センチ

 
 位牌堂での撮影は禁止されているため、残念ながら写真が撮れませんでした。
 今回使用した写真は、大樹寺様のご了解を得て使用しているものです。



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by wheatbaku | 2012-05-23 10:37 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
大樹寺 (岡崎散歩 徳川将軍15代)
 今日も、岡崎散歩の続きで大樹寺について書いていきます。
 今日は、多宝塔と松平八代・家康公墓地について紹介します。
 
 多宝塔
c0187004_1043846.jpg 多宝塔は境内の西南にあります。
 この多宝塔は大樹寺最古の建物です。
 天文4年(1535)に松平清康が建立したものです。
 二層円形の二重の塔で建築様式は室町末期の様式を示しています。
 創建当時の屋根はこけら葺きでしたが現在桧皮葺きです。
 東海地方で最も美しい多宝塔と言われているそうですが、非常に美しい姿に感激しました。
 国の重要文化財となっています。
  なお、多宝塔は法華経信仰によるもので、多宝如来が安置されているそうです。




松平八代・家康公墓地
c0187004_1045565.jpg 境内の西に墓地がありますが、その奥にあります。
 元和元年(1615)に徳川家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。
 なお、家康が建立したというのが大樹寺の説明ですが、松平4代親忠が、大樹寺創建の際、先祖三代の墓を移したのが最初と説明したものもあります。
 元和3年(1617)家康の一周忌にあたり、2代将軍秀忠が先祖松平八代の廟所を修復再建しました。
 
 c0187004_1013879.jpg 墓の様式は、代によって異なっています。
 初代親氏、2代 泰親、 3代信光は宝篋印塔です。
 4代親忠、5代長親、6代信忠、7代清康は、五輪塔
 8代広忠は無縫塔です。
 墓地の一番西に家康の墓(右写真)がありますが、これは昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立したものだそうです。
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by wheatbaku | 2012-05-21 09:54 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
皆中稲荷と同期会(江戸の仲間)
 昨日は、新大久保にある皆中稲荷(かいちゅういなり)神社に参拝してきました。
 そこで、岡崎散歩の途中ですが、今日は「皆中稲荷(かいちゅういなり)神社」について紹介します。
 皆中稲荷神社に行ったのは、実は、近くで同期会が開かれたからです。

【皆中稲荷神社】
 同期会の前に、皆中稲荷神社に参拝しました。
 皆中稲荷神社は山手線「新大久保駅」から徒歩2分の至近距離にあります。
c0187004_1304263.jpg 皆中稲荷神社は天文2年(1533)にこの地に鎮座して大久保の鎮守となったと伝わっています。
江戸時代になり、寛永年間に幕府が鉄砲百人組をこの付近に居住させました。
現在の百人町の地名もそれに由来するものです。
 鉄砲百人組の一人が射撃の上達を祈願したところ、稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したそうです。そのことが、「皆中稲荷」の名前の由来です。「皆中」は「みなあたる」の意味です。

 皆中稲荷神社は、「鉄砲組百人隊行列」が有名です。
 宮司さんに、有名な百人隊行列について伺いました。
c0187004_13439.jpg 隔年の9月の例大祭近くの土曜日または日曜日に行なっているそうです。
 平成奇数年に開催する順番ですので、今年は実施しないそうです。
 皆中稲荷神社を出陣して、区内を行列するそうです。実弾は発射せずに空砲をうつそうです。 実際に、鉄砲を発射すると、轟音が轟渡り大変壮観であるとのことでした。
 隊員は氏子の人が3割程度で、7割は一般の参加希望者だそうです。鉄砲は、皆中稲荷が保管しているそうです。 そして、最後に、来年は是非ご覧くださいともおっしゃっていました。
 上の写真は、JR大久保駅の北口改札を出た場所に描かれている壁画です。

【同期会】
 皆中稲荷神社参拝の後、同期会に出席しました。
  昭和58年の秋に、同じ業界で働く同世代の人々が30人ほど集まって1週間泊まり込んで研修しました。 
 その仲間の同期会が年2回開催されています。
 今回は14人の参加者でした。
 多くの人が東京近郊に住んでいるのですが、北海道や名古屋から参加する人もいるのです。
 しかし今回は、遠方から参加したのは、大阪からのFさんだけでした。 
 常連の北海道のKさん参加できす残念でした。それと常任幹事役のHさんも今回は欠席でした
 久しぶりに参加したのが、OさんとSさんでした。Sさんは同期会が復活してから初の参加でした。
 この二人から近況報告してもらいましたが、それを受けてほかの人たちからも近況報告がありました。
 仕事に邁進していた時代には、同期会を開催する余裕もありませんでした。
 まだ大多数が現役で仕事をしてはいますが、リタイアした人も出始める年代なため、仕事のほかに趣味の話も多く出ました。
 ゴルフはポピュラーな話題ですが、Sさんのハンディ10には驚きの声がわきました。
 その他、仏像づくりのKさん、合唱に取り組んでいるのはSさんとKさんでした。
 仕事の話、趣味の話、家族の話など、楽しい会話であっという間の2時間でした。
 お酒のおいしいのも一杯頂きました。幹事のSさんとOさんお世話様でした。
 最後に記念撮影です。皆さん、年齢相応の風貌になりましたが、にこやかでうれしそうな顔が印象的です。
 次回は、11月の予定です。幹事さん(YさんとIさんの予定)よろしくお願いします。
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by wheatbaku | 2012-05-19 13:19 | 江戸の仲間 | Trackback
大樹寺(岡崎散歩 徳川将軍15代)
 今日は、大樹寺です。大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺です。
 ここには、松平8代の位牌と歴代将軍の位牌があり、歴代将軍の位牌の高さは身長に沿っているということで有名です。
 このことは、1級試験の問題に出て、私は苦い思いをしましたので、是非とも位牌の高さの違いを自分の目で確認したいと思い訪ねました。

c0187004_11343461.jpg 大樹寺は、名鉄の東岡崎駅の真北にあります。駅から直線で約3.5キロです。
 今回は、友人の車で送ってもらいましたが、東岡崎駅からは頻繁(5分から10分程度の間隔)にバスが出ていますので、それを利用するのもよいと思いますし、JR大門駅からは徒歩15分程度です。

 
大樹寺は、松平4代の親忠が文明7年(1475)に勢誉愚底上人を開山として創建した浄土宗の寺院です。
 その後、松平7代の清康が、天文4年(1524)に七堂伽藍の造営し、元和3年(1617)に秀忠が松平8代の廟所を完成させ、家光が寛永18年に、大方丈、山門、総門、鐘楼を建てました。

 
c0187004_11294872.jpg 山門(三門)
 大樹寺に着いて、まず目に付くのが大きな山門です。
 家光により寛永18年(1641)建立されました。
 楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)がかかげられています。
 また釈迦三尊16羅漢を安置しています。
 この写真は本堂に向かって撮影していますが、本堂からは山門、総門を通して一直線上に岡崎城を望む事が出来る事で有名です。
 この景観の保護は市の条例でも定められているようです。

c0187004_11301731.jpg鐘楼(県指定文化財)
 山門を入ると右手に鐘楼があります。
 寛永18年(1641)家光が建立しました。
 楼上の大鐘は9代将軍家重公改鋳によるものです。
 毎年、大晦日には一般の人が除夜の鐘を突くことができ、大勢の人で行列ができるそうです。



c0187004_11301679.jpg本堂
 大樹寺は、幕末の安政2年(1855)の火災により本堂、庫裏、書院など主要建物が全焼しました。
 現在の本堂は安政4年建立されたものです。山門の規模から見て安政消失前の本堂はもっと高かったものと推測されます。
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by wheatbaku | 2012-05-17 22:41 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
滝山寺 (岡崎散歩 徳川将軍15代)
  滝山東照宮は、滝山寺境内に建立されました。
  滝山寺も大変由緒あるお寺ですので、滝山寺の紹介もします。
  こちらも「たきやま」ではなく「たきさん」と読みます。

 滝山寺は、天武天皇の時代に、 天武天皇の命で役行者(えんのぎょうじゃ)が豊橋市と新城市の境に位置する吉祥山に薬師如来像を祀るお堂を建てて吉祥寺として創建したとされ、吉祥陀羅尼山滝山寺と呼ばれました。
c0187004_1334473.jpg 平安時代に一時荒廃しましたが、 保安年間(1120 ~ 1123) 天台宗の仏泉上人永救が再興したと言われています。
 源頼朝により大伽藍が建築され、承応元年(1222)に足利尊氏により現在の本堂が建立されました。
 当時は寺領420石で、36の坊があり、末寺は350ほどもあるという大きな寺院でした。
 江戸時代になり、3代将軍家光が東照宮を家康の生まれ故郷に建立するに時に、滝山寺の一隅が選定され、正保2年(1645)に東照宮が造営されました。
 そして、寛永寺の塔頭清龍院の住職亮盛を滝山寺の学頭と東照宮別当を兼ねさせました。
 滝山寺は、寛永寺の直属で寺領612石ありました。

c0187004_1352227.jpg 滝山寺の本堂および滝山東照宮は、山の中腹にあるため、長い石段をあがります。
 ただし、駐車場が本堂の下にあるので、車を利用すると、比較的容易に本堂に到着します。
 滝山寺の本堂は、承応元年(1222)に建立され建長6年(1254)に修復された愛知県で最も古い建築物です。
 しかし、平成14年に屋根の修理が行われたため、素晴らしい桧皮葺の本堂(左上段の写真)となっています。

 左中段の梵鐘は、5代将軍綱吉が寄進したものです。
 境内にさりげなく吊るされているのを見ると、滝山寺の奥深さを感じました。

c0187004_134389.jpg 行く際に通過した仁王門を帰りに寄りました(というより、途中気が付かなかったので通り過ごしてしまいました)。
 仁王門は文永4年(1267)に飛騨の匠であった藤原光延が建立したもので、国の重要文化財に指定されています。
 修復工事が完了したばかりで訪れたのは4月29日でしたが、その直後の5月3日落慶法要が行われたようです。
 非常に立派な仁王門で驚きました。

今日は滝山寺の地図を掲載しておきます。赤印が滝山寺です。

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by wheatbaku | 2012-05-17 08:24 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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