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家綱誕生(徳川将軍15代)
 寛永14年には大事件島原の乱がおこります。そのため順番としては、島原の乱をかかなくてはなりませんが、キリスト教の禁止、鎖国の完成については、後日、まとめて書こうと思います。
 今日は、家光の世継誕生について書きます。
 
 家光は若いころ女性に興味がありませんでした。若い頃に寵愛したのは小姓の堀田正盛や酒井重澄などでした。いわゆる男色です。
c0187004_10491491.jpg そうした中で、 寛永元年(1624)家光20歳の時に、関白鷹司信房の娘孝子と結婚します。孝子は22歳で家光より2歳年上でした。
 夫婦仲はよくなく、まもなく、孝子は吹上御苑内に造られた御殿に移り以後中の丸殿と呼ばれます。
 右写真は、小石川の伝通院にある孝子のお墓です。

 家光は、20歳代になっても男色は直らなかったといいます。
 心配した乳母の春日局は町中から美女を探してきて世話をしますが、女には見向きもしなかったようです。
 しかし、伊勢の慶光院院主が挨拶に登城してきて、家光の様子が変わりました。 
 伊勢慶光院の院主が、寛永16年(1639)に家光に謁見した時に見初められ、慶光院を江戸城にとどまらせて、ついに還俗させてしまいます。
 そして、春日局によって大奥入りし、還俗後は万と名を改めました。
 お万の方によって家光の男色がなおり女に目覚めていったと言います。
 お万の方は、家光に深く寵愛されましたが、子を儲けることはありませんでした。
 これは、将軍家では、天皇や公家出身の娘が子供を産みその子が将軍になるという事態がおきないように大奥が管理していたと言われています。

 次いで、ある時、春日局は浅草寺にお参りした帰り、古着屋の店先で遊んでいる娘に目にとまります。お万の方によく似ていた娘だったそうです。
 この娘、名前はお蘭と言い、のちに家綱を生むことになります。
 お蘭の父は旗本に仕官していましたが、不始末を起こし江戸を追われ下総猿島郡鹿麻村に住んでいる時に禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となってしまいました。
 そこで、母は江戸へ出て古河藩主永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となり、永井家家臣の七沢清宗と再婚し、七沢清宗が武士を捨てて古着商を営んでいました。そこでお蘭は古着商を手伝っている時に春日局の目にとまりました。
 一説によるとお蘭が呉服の間だった頃、年1回、女中たちが無礼講で歌ったり踊ったりする機会があり、その際にお楽が他の奥女中たちに故郷の麦搗き歌を歌っていたのを家光が気に入りお蘭は家光の側室となったといいます。
 お蘭は、家光の側室になるとお楽の方となり、寛永18年(1641)8月3日に竹千代(後に4代将軍となる家綱)を産みました。
 家光37歳の時でした。37歳にしてようやく世継が誕生したことになります。
 春日局や幕閣の喜びは非常に大きいものがありました。




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by wheatbaku | 2012-06-29 10:37 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
武家諸法度の改定(徳川将軍15代)
 今日は、武家諸法度の改定について書きます。

 家光は、寛永1Ⅰ年(1634)に31万人の軍勢を率いて三度目の上洛をしました。
 これは「御代替りの御上洛」でした。家光が秀忠に代わって天下を掌握していることをしめすためでした。
 家光は御所に参内し従兄妹にあたる明正天皇に拝謁しました。そして院御領として7000石を献上するとともに京都町衆に5000貫を下賜しました。
 そして上洛中に領知替えを行ううともに朱印改めも行いました。これにより家光が領知宛行権を掌握したことを示しました。

 この上洛の翌年の寛永12年(1635)6月21日に改定された武家諸法度が江戸城で林羅山から発表されました。右下写真は江戸城大手門です。
c0187004_13232416.jpg 慶長20年にだされた武家諸法度(慶長法度)の改定版「寛永法度」は、「慶長法度」の大改定となりました。
 寛永法度は全文かなもじり文に書き換えられるとともに、慶長法度13ヶ条のうち3ヶ条を削除し、9ヶ条を改定し、さらに9ヶ条を追加しました。
 削除されたのは、群飲佚遊(ぐんいんいつゆう)を禁じた第2条、法度に背いた犯罪者隠匿を禁じた第3条。他国者を領内に置くことを禁じた第5条でした。

 寛永法度の各条項の内容は次のような内容です。
 第1条は、慶長法度そのままです。「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」
 第2条 参勤交代の制度化
「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。」
 第3条 城郭の修復手続きの明確化
 第4条 江戸やいずれの国において不測の事態が起こっても在国の大名はそこを動いてはならない。
 第5条 刑罰が行われる場所には担当者以外は出向いてはならない。
 第6条 新儀の企てや徒党の禁止
 第7条 諸国の藩主・領主の私闘の禁止
 第8条 「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭」の私的結婚の禁止
 第9条 倹約の実施
第10条 衣装の規制
第11条 乗輿(じょうよ)の制限
「乗輿ハ、一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。」
第12条 反逆者・殺害人の領外追放
第13条 幕府に人質を出している大名の家臣を追放・死刑にする際には、幕府に届け出ること。
第14条 元和法度の「国主は政務の器用を撰ぶべきこと」の条項が改正され、領国の民政が大切とされた。
「知行所務清廉ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊セシムベカラザル事」
第15条 道橋の維持管理
第16条 私的な関所と新規の津留(港へ物資を留め置くこと)の禁止
第17条 500石以上の大船の禁止
第18条 寺社に与えられた領地を取り上げることの禁止

 寛永法度は、慶長法度の改定ですが、重要な点が二つあります。
 一つは参勤交代制度の制定です。
 寛永法度の第2条で参勤交代が定められました。
 これ以前にも大名の参勤は行われていましたが、在府の期間や交代時期は決まっていませんでした。
 この寛永法度の定めにより、薩摩島津家や肥後細川家など61家がこの年在府、加賀前田家、陸奥伊達家など38家が帰国ということになりました。
 この時、参勤交代が命じられたのは外様大名だけですが、寛永19年(1642)には譜代大名も参勤交代を行うようになりました。

 次に注目すべき点は大名身分の確定です。
 江戸時代は、大名は1万石以上、1万石未満は旗本と言われています。
 しかし、江戸時代の初めは5万石以上が大名とされていたようでもあります。
 大名が1万石以上という基準が最初に登場するのが老中の職務を定めた法度だそうですが、寛永法度の2条で私的結婚の禁止の対象を「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭」とし、第11条で乗輿の資格者を「一門ノ歴々・国主・城主・一万石以上」としました。
 そして12月に旗本を対象とした「諸士法度」が出されたことにより1万石以上が大名、1万石未満が旗本とする大名・旗本の身分が確定しました。
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by wheatbaku | 2012-06-28 13:17 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
直轄軍と年寄体制の再編(徳川将軍15代)
 今日は、家光の幕政機構の確立に関係することを書いてみます。

 まず、家光は、秀忠死去後まもなく、将軍直轄軍の再編を行いました。
 将軍が直轄していた軍団は、各番頭の統率の下にあった大番、書院番、小姓組番、小十人組、歩行組(かちぐみ)、新番と、物頭の下にあった持弓、持筒、先手鉄砲、先手弓、百人組などが主なもので、なかでも大番・書院番・小姓組番が中核でした。

 秀忠の死後、家光は、大番、書院番、小姓組番などの構成を再編しました。
 大番は、最初に編成された最も基幹的な精鋭部隊です。
c0187004_13332591.jpg 当初は家康直属の精鋭部隊で家康個人に直属していましたが、徐々に駿河城・伏見城など幕府直轄城の在番を任務とする部隊に発展していき、将軍自身に直属した部隊から将軍家に属する部隊に変化していきました。
大番は、秀忠の死ぬ直前に11組ありましたが、寛永9年に1組増え、翌年に1組が駿河定番となり、 に新たに1組増えました。
 書院番と小姓組番は両番と言われ、将軍自身の警護を任務とする親衛隊で将軍に近侍しました。
 秀忠が生きている時は、書院番は、本丸に4組、西の丸に6組あり、小姓組番は、本丸に6組、西の丸に6組と本丸の家光統率の部隊と西の丸の秀忠統率の部隊に分かれていました。
 秀忠の死後、書院番、小姓組番ともに本丸・西の丸の区別がなくなり、一組50人で書院番8組、小姓組6組となりました。その後、翌年書院番は2組増えて、小姓組番は寛永18年(1643)に4組増えて、各々10組となりました。
 また、寛永10年、大番、書院番、小姓組番士に対して、知行1000石以下のものに対して、一律に200石加増し、切米取りの番士については切米を知行に直したうえで200石を加増しました。 また、寛永10年に軍役令を改めました。
 このように幕府直轄軍の再編強化を図りました。

 家光は年寄衆の再編にも着手し、秀忠の側近であった西の丸年寄衆を家光自身の本丸年寄衆に吸収しました。
 その上で、家光は旧年寄衆で筆頭年寄だった酒井忠世を幕政から遠ざけるため西の丸留守居とするとともに、自身の側近稲葉正勝を取り立てました。
 稲葉正勝は、春日局の嫡男ですが、家光誕生とともに家光付の小姓となり、秀忠大御所時代には本丸年寄の末席にいました。
 寛永9年正月に正勝の序列を引き上げるとともに6月には加藤忠広改易の熊本城受取の上使となり、さらに11月には小田原8万5千石の藩主とし、正勝の地位向上を図りました。
右上の写真が小田原城の写真です。

 また若年寄の原型となる「六人衆」を定めて忠世ら旧年寄衆の権限を一部移しました。
 すなわち寛永9年11月に、側近の松平信綱を「年寄並」とし、翌年3月には松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次を登用して「六人衆」を成立させ幕政の主導権掌握に努めたのでした。
 しかし、家光が寛永10年に大病を患うと、再び旧年寄衆の動きが活発になりました。
 そこで、家光は、老中・六人衆の職務を定めた法度を出し、これまで旧年寄衆がもっていた権限を抑制し将軍親政化を進めました。
 さらに後に「大目付」と呼ばれる「総目付」に柳生宗矩ら4人を指名し大名や役人の阿監視を強化しました。

 こうして、幕政運営を個々の年寄衆の個人的力量に依存するのではなく、機構・制度として運営していくようになりました。
 これにより、4代将軍家綱が若干11歳で将軍職を継いでも幕府が揺るぐことありませんでした。
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by wheatbaku | 2012-06-27 13:25 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
加藤忠広と徳川忠長の改易(徳川将軍15代)
 この間、江戸検1級2期会の定例会と毎日文化センターの講座と2週連続で江戸史跡めぐりがあったため、そのレポートで「徳川将軍15代」の記事が遠のいていました。
 今日からまた「徳川将軍15代」の記事を書きます。
 前回は、2代将軍秀忠の死去まで書きました。
 今日からは、秀忠死去後の家光の政治について書きます。

 寛永9年(1632)正月24日、秀忠はなくなりました。
 これ以降、家光の本格的な政治が始まります。
 この年の5月、熊本藩主加藤忠広が改易されます。 右下写真は熊本城です。
c0187004_9353654.jpg 5月24日に、家光は外様大名の伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣を江戸城に呼んで肥後熊本藩52万石の加藤忠広の改易を告げました。
 この時に、家光は加藤忠広の改易の理由を説明し、「御代始(みよはじめ)の御法度」であるから厳しく処罰することを宣言しました。
 加藤忠広の改易は6月1日にあらためて江戸城に登城した諸大名にも老中から伝えられ、国許にいた大名には老中の奉書で知らせられました。
 加藤忠広は、加藤清正の三男(長男,次男は早世)で、慶長16年(1611)に清正が急死したために、11歳の幼少で肥後国熊本藩を継いでいました。
c0187004_937465.jpg 左写真は熊本城の加藤清正の銅像です。
 忠広は、幼少でかつ父の清正ほど賢くはなかったため、重臣たちが相争う事態が生じ藩政が混乱しました。
寛永9年(1632)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺で稲葉正勝から改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなり、子供の光広は飛騨の金森重頼に預けられました。
 改易の公式の理由は、忠広の嫡男の光広が不行届きのことを書き回したこと、忠広が江戸で生まれた子供とその母親を無断で国許に行かせたということでした。
 実は加藤忠広の改易は、将軍家光の日光社参のおりに、老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を計画するという内容の密書を、忠広の子供光広が発したとされることに基づくというもので、秀忠死去後の大名の動向をうかがうために企てられた可能性がある事件とも言われています。
 豊臣恩顧の大大名だった加藤家の改易は、秀忠の跡を継いだ家光の存在と力を見せつけるに十分な効果がありました。

 この加藤忠広の改易を機会に、譜代大名が大幅に九州に進出しました。
 加藤氏の跡に、豊前小倉の細川忠利が14万石の加増を受けて54万石で移りました。
 細川氏の跡には、播磨明石の小笠原忠真が15万石で入りました。
 豊前中津には播磨龍野の小笠原長次、豊後杵築藩は、忠真の弟忠知が新たに大名に取り立てられました。豊前竜王には、摂津三田から松平重長が入りました。
 加藤氏改易の前には、豊後日田石川忠総だけでした。それが改易後は大きく増えたことになりました。

 加藤忠広の改易直後の寛永9年10月20日、徳川忠長の領知没収と高崎への逼塞が発表されました。
 忠長は、家康の死後元和2年(1616)に甲斐一国を与えられ、寛永元年(1624)には駿府城を与えられ駿河遠江で55万石を領しました。
 しかし、秀忠の晩年になって忠長の行動は常軌を逸し始めました。
 そのため、寛永8年(1631)に秀忠は忠長の蟄居を命じました。
 秀忠の容態が悪化すると忠長は、金地院崇伝を通じて幕府の年寄に秀忠へのお見舞いと自分の赦免を願いました。
しかし、秀忠も家光もそれを許しませんでした。
 そして、家光は、秀忠の死去(正月24日)後まもまくに忠長を改易しました。これは秀忠が家康死去直後に忠輝を改易したのと同じです。
そして、忠長は翌年の寛永10年12月6日に幽閉先の高崎で自害して果てました。
この時に使者にたったのが阿部重次です。阿部重次のこの時使者にたったことを理由として、慶安4年に家光がなくなった際に殉死しました。

 加藤忠広と徳川忠長の改易は、秀忠死去後政権を掌握した家光が、大名に対して断固たる姿勢で臨むこと宣言したものである京都大学教授であった藤井譲治氏は書いています。
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by wheatbaku | 2012-06-26 09:26 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
江戸城散歩
土曜日に毎日文化センター主催の「『忠臣蔵」ゆかりの地を行く』の第2回講座が開催され、受講生の皆さんと江戸城に行ってきました。
 今日は、そのご案内の一部を紹介します。

c0187004_9231524.jpg スタートは桜田門(左写真)にして、皇居外苑沿いに、二重橋⇒坂下門⇒桔梗門を回って東御苑に入りました。
 桜田門では、桜田門外の変のお話をし、坂下門では坂下門外の変についてお話ししました。
 受講生の皆さん、井伊直弼の屋敷、安藤信正の屋敷から事件が起きた場所が非常に近いのに驚いていました。
  

東御苑の中では、松の廊下跡がメインです。
c0187004_9235139.jpg 松の廊下は、本丸御殿の大広間から白書院をつなぐ廊下でした。
 そこで、大広間の説明からしました。大広間は、現在に「果樹古品種園(西)」なっている辺りにありました。
  本丸御殿には、儀式に使用される部屋として南側から順に「大広間」「白書院」「黒書院」がありました。
 「大広間」は約490畳、「白書院」は約300畳、「黒書院」は約190畳の広さがありました。
 大広間は、コの字型に上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間とあります。
  将軍宣下がここで行われますが、年中行事としては、新年や五節句の際の諸大名のあいさつなどが行われます。また、外様大名の江戸城での控の間でもありました。

 有名な松の廊下は大広間から白書院に至る廊下です。
c0187004_9241225.jpg松の廊下は、江戸城内にあった大廊下のひとつです。
 西に19メートル、北に31メートルの全長約50m、幅5mほどのL字型の畳敷の廊下です。
  廊下に沿って松と千鳥の障壁画が描かれていたことから松の廊下と呼ばれました。
  松の廊下跡に、石碑がたっています。
 ここで、1701年(元禄14年)3月14日、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた刃傷事件が起きました。
 当日は、どのような状況で、刃傷事件が起きたか、梶川与惣兵衛(よそべえ)の日記にもとづき再現してみました。
 

 二の丸庭園では、ハナショウブがちょうど見ごろでした。
c0187004_20283323.jpg  受講生の皆さんも大喜びでした。
  二の丸庭園のハナショウブは、昭和41年に明治神宮のハナショウブを譲り受けたもので、現在84種約130株あるそうです
 ハナショウブの品種は5000種類あるといわれています。大別すると、江戸系、伊勢系、肥後系の3系統に分類できますが、二の丸庭園のハナショウブは江戸系だけのようです。
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by wheatbaku | 2012-06-25 09:22 | 大江戸散歩 | Trackback
大昌寺(日野散歩③ )
 今日も新撰組関連のお話です。
 日野の大昌寺には、佐藤彦五郎とその妻のぶ(土方歳三の姉)のお墓がありました。

c0187004_12214032.jpg 大昌寺は増上寺末のお寺で、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である讃誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)を佐藤隼人が日野に招き、上人隠棲の場所として建立したといわれています
鐘楼の鐘は日野宿の時の鐘として使われていましたが、戦争で供出さえてしまい、現在は新しい鐘が架けられていました。

 佐藤彦五郎のお墓は本堂奥の墓地の中にあります。.
 佐藤家は、出羽から日野に来た佐藤高秀が初代です。
 正保の頃から日野本郷の名主を勤め、脇本陣を経営しました。西隣りで本陣を営む上佐藤家に対して下佐藤家と呼ばれました。
c0187004_12215313.jpg 佐藤彦五郎は4歳で父をなくし、11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を引き継ぎました。
 彦五郎は、土方歳三の姉のぶと結婚しましたが、彦五郎の母は、土方家の出で、二人は従兄妹関係でした。
 嘉永2年(1849)に天然理心流近藤周助の門人となり、自宅に出稽古用の道場を設け、近藤周助や近藤勇らが出稽古にきていました。
 近藤勇や土方歳三が上洛し新撰組を結成すると、絶えず新撰組を支援しました。
 慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に戻ってきた近藤たちが甲陽鎮撫隊を結成して甲府に向かった際には、農兵隊の「春日隊」を結成し甲府攻撃に加わりました。
 しかし、新政府軍に敗れ新政府から追われる立場となりましたが、後に許されて、郡長などとして活躍しました。

 さて、先日、mikawaさんから 「岡崎の法蔵寺には土方歳三のお墓がなかったような?」という質問がありました。
 先日、岡崎に旅行するので事前調査した際に、岡崎の法蔵寺には近藤勇の首塚があるとガイドブックなどに書かれています。 しかし、土方歳三のお墓があるとは書いたものはありませんでした。
 私も、今回の日野散歩の中で、宝蔵寺に土方歳三の墓があると初めて知りました。
 そこで、案内してくれた関さんに、そのあたりを教えてもらいました。関さんありがとうございました。
 関さんからのメールによると
 「なぜ新選組や土方に縁のない岡崎に墓があるのかということですが、梟首された近藤勇の首を斉藤一が奪い、供養を頼まれた僧が岡崎に運んだという伝承があるのです。その運ばれた場所が法蔵寺で、ここは徳川家の祖・松平親氏が松平家の菩提寺とした所、徳川に縁が深かったからだといいます。」
 「しかし、「昭和34年の伊勢湾台風で、境内が荒れて土中から墓の台石が見つかりました。
 その石には土方歳三の名前が刻んであったものだから、「土方がお金を出して近藤の
 供養墓を建てたのだろう」ということになったのです。
 しかし、その石には土方の他11人の名前が刻んであり、それらの人々は箱館で亡くなった伝習隊の隊士でした。
 つまり、この石は『土方歳三と伝習隊の墓』ということになります。
 土方は箱館では新選組ではなく、伝習隊など陸軍を率いてましたから。法蔵寺は徳川系の寺なので、箱館まで尽くして戦った土方らのために、誰かが供養墓を建てたのでしょう」
 ということでした。
 この話は、岡崎の法蔵寺に行ったことのある2期会の百街道一歩さんや極骨さんも初耳のようです。
 関さんの新撰組に関する知識の豊富さに脱帽したしだいです、

 今年のGWに岡崎に行きましたが、法蔵寺には寄りませんでした。次回岡崎に行く際には寄ってみたいと思います。
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by wheatbaku | 2012-06-21 11:48 | Trackback
日野散歩②
 今日は、日野散歩の続きですが、新選組関連の史跡の紹介をします。

 まず最初は日野宿本陣跡です。
 日野宿本陣の幕末の当主佐藤彦五郎には土方歳三の姉おノブが嫁いでいて、新選組の有力な後援者でした。
c0187004_852676.jpg 以前はここで蕎麦屋をやっていて、蕎麦がおいしいので蕎麦を食べに来たことがあり、ひさしぶりに来ました。 
 日野の本陣は元々は上佐藤家であり、下佐藤家は脇本陣だったそうですが、幕末には本陣となりました。
 現在の建物は、佐藤彦五郎が10年に及ぶ準備をしたのち建築し元治元年(1864)から住み始めたものです。
 本陣の長屋門には天然理心流の「佐藤道場」があり、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎などが修業しましたが、大正15年の大火で焼失してしまったそうです。

 下の写真は宝泉寺の本堂です。 
c0187004_8541998.jpg宝泉寺には、新選組の6番組長だった井上源三郎の供養墓と碑があります。
 宝泉寺は、臨済宗建長寺派の禅寺です。開祖は鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚、創立は元徳年間(1330年頃)だそうです。
 現在の本堂は、平成13年5月に新築されたそうで、あたらしく立派な本堂でした。  


 井上源三郎のお墓と碑が、本堂の左側にありました。
c0187004_8591941.jpg 源三郎は、八王子千人同心の井上家の三男として誕生しました。
 天然理心流の近藤周助の弟子となり佐藤道場や自宅で剣術に励みました。
 兄、松五郎と共に日野八坂神社の奉納額に記載されています。
 文久3年浪士隊として上洛し、新選組では6番組長として活躍しました。

c0187004_855544.jpg 慶応4年、鳥羽・伏見の戦い、千両松に出陣し、戦いの中、銃弾によって討死しました。
 この際、源三郎のおいの泰助は、源三郎の首を故郷に持ち帰りたいと努力しますが、ついに叶わず、逃げる途中にあったお寺の門前の田んぼに埋葬したそうです。
 そのお寺がどこか最近までわからなかったが、井上源三郎の性かの前にあるお寺と同じ名前の欣浄寺というお寺であったことが判明したという話を関さんがしてくれました。
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by wheatbaku | 2012-06-19 12:39 | Trackback
日野散歩
昨日は江戸検1級2期会の定例会でした。
 今回、新選組の土方歳三のふるさと日野を、関さんの案内で巡りました。
 日野駅に12時30分に集合して、日野宿を中心に廻った後、旧石田村の土方歳三ゆかりの史跡を見て、最後は高幡不動まで行きました。
 多くの史跡を案内してもらいましたが、今日は土方歳三ゆかりの史跡に限って紹介します。

 土方歳三の生家は土方歳三資料館が併設されていました。
 土方歳三の兄の御子孫が住んでいらしゃるため、毎月第一第三日曜日の午後0時から午後4時だけ開館しています。入館料500円でした。
c0187004_950640.jpg ここには、歳三も売ったという石田散薬、愛刀和泉守兼定、鎖帷子、鉢金、歳三の手紙など数多くの展示物が展示されていました。

 土方歳三の生家は歳三の兄喜六が継ぎましたが、その喜六から数えて6代目の愛(めぐみ)さんに説明していただきました。
 愛刀の和泉守兼定は、慶応3年2月の作と銘打たれているとのことであり、会津藩主松平容保から拝領したものだそうです。池田屋事件は元治元年に起きていますので、池田屋事件の際には使用されていないなど、時間をかけて説明していただきました。 参加者の質問にも丁寧に答えていただきました。

 最後に、資料館の前(すなわち土方さんのご自宅の前)で一部の参加者と記念撮影です。
 唯一の女姓が、土方愛さんです。
 ちなみに、資料館内には土方歳三の写真も展示してあるのですが、その写真と愛さんを見比べて愛さんは土方歳三の面影が残っていると参加者のもっぱらの評判でした。
 愛さん、長時間にわたり丁寧にご対応いただきありがとうございました。
 また、江戸検も受験されるとのこと、頑張ってください。資料館には、再びお邪魔したいと思いますので、その際はどうぞよろしくお願いいたします。
 
 土方歳三の生家が作っていた薬として有名な「石田散薬」があり、資料館にも展示されていました。
c0187004_9511760.jpg 若いころの土方歳三も売り歩いたと言われていますし、新選組でも常備していたと言われています。
 この薬は、打ち身、捻挫、打撲等に効用があるそうです。
 この「石田散薬」は、牛革草を原料として作られます。
 その牛革草が、日野用水の脇にありましたので、写真にとりました。
 牛革草は、ミゾソバとも呼ばれていて、そちらの方がポピュラーかもしれません。


 土方歳三の墓地は、生家近くの石田寺にあります。
 石田寺の宗派は新義真言宗、高幡山金剛寺(いわゆる高幡不動)の末寺で、地区名は「イシダ」ですが、お寺の方は「セキデンジ」と読みます。
c0187004_950341.jpg 寺伝によると、南北朝時代の康安元年(1361)吉祥坊慶興という僧が建立したものの、一時は廃寺となりましたが、戦国時代の天文13年(1544)、多摩川に大洪水が起こり、一体の観音像が石田に流れ着きました。それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり、文録2年(1593)に慶心という僧が一再建し、石田寺と号したといいます。

c0187004_9505292.jpg 土方歳三のお墓は、土方家の墓所の中にあります。
 土方家は、後北条氏の家臣の「三沢十騎衆」と呼ばれる武士団を形成する家柄でしたが、後北条氏が滅亡した後に帰農したと言われています。
 土方歳三は、隼人(義諄)と恵津の10人兄弟の末っ子として生まれました。
 歳三の戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」で、お墓は平成12年に建てられたものです。
なお、関さんの資料によると、土方歳三の墓碑や供養碑は、函館の称名寺、板橋駅前、荒川区圓通寺、岡崎の法蔵寺にもあるそうです。


c0187004_9513131.jpg 最後は、高幡不動にある土方歳三の像と殉節両雄の碑の説明を受けて終わりました。
 土方歳三の像は、平成7年東京日野ロータリークラブの30周年記念事業として建立されたものです。
 また、像の隣にある「殉節両雄の碑」は、近藤勇と土方歳三の顕彰碑で、撰文は大槻磐渓、篆額は会津藩主松平容保、そして、旧幕府典医頭松本良順の揮毫によるものです。

 案内してくれた関さんありがとうございました。新選組の知識の豊富なのに驚きました。
 そして、周到な事前準備をされたことがよくわかる案内でした。
 大変有意義な一日を過ごすことができました。
 本当にありがとうございました。
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by wheatbaku | 2012-06-18 08:49 | Trackback
家光、将軍に(徳川将軍15代)
 今日は、家光の元服から将軍襲職の頃までのことを書きます。

 家光は、元和3年(1617)に西の丸へ移ります。
 家光の元服は、元和6年(1620)に行われ、竹千代から家光に改めます。
 「家光」の名乗りは崇伝の選んだものでした。
c0187004_1095075.jpg 当初の名乗りは「家忠」でしたが、それは公家の花山院家の祖の名乗りで差支えがあると江戸にいた武家伝奏の意見が出されたため、再度崇伝が選んだのが「家光」でした。
 家光の加冠は土井利勝が、理髪は酒井忠世が勤めたと「幕府祚胤伝」に書かれています。
 なお、弟の国松も同時期に「忠長」と名乗ることになりました。

 元和9年(1623)6月に、秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となります。家康、秀忠、家光と3代までの将軍宣下は伏見城で行われました。
 この時、征夷大将軍の宣旨を家光に奉呈する役を高家の吉良義弥(よしみつ)が勤めています。
 吉良義弥は、吉良上野介の祖父です。
 また、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れしました。(家光の妻妾については、別に書きます。)
 先日書いたように秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権、領知宛行権等の政治的実権を掌握し続ける二元政治でした。
 そのため、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議により一元化が計られました。
 寛永3年(1626)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために2度目の上洛を行いますが、秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名を従えていたのに、家光の軍勢は、譜代、旗本中心の部隊で、数も圧倒的に少ないものでした。
 家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠は太政大臣、家光は左大臣および左近衛大将となりました。
 この上洛中に、お江危篤の連絡が江戸より届きます。この際に、秀忠・家光を一緒に上洛中であった忠長はすぐに江戸に向かうために京を出発しますが、家光の出発が遅れている間に、お江がなくなったとの連絡があったため、さらに出発を遅らせたと言います。
 家光が、本当に将軍として幕政を動かすことができるようになるのは、秀忠の死後です。
 その話は次回します。

 さて、昨日、駒込に行く用事がありましたが、予定より早く用事が終了したので、白山神社に行ってきました。
c0187004_1092367.jpg 白山神社は、平安時代の天暦2年(948)に加賀一宮の白山神社を今の本郷元町に勧請して創建されました。
 元和2年には巣鴨原(現在の小石川植物園)に遷座し、さらに明暦元年(1655)に現在地に移転したものです。
 白山神社では「文教あじさいまつり」が6月17日まで開催されていて、あじさいが見頃でした。


c0187004_10101577.jpg 白山神社の裏手には、富士塚があります。
 通常時期は閉鎖されていて、中に入ることができませんが、この時期だけは、富士塚に入ることができます。
 富士塚の頂上には、小さな浅間神社が祀られています。
 写真の中央に小さく写っているのが浅間神社です。
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by wheatbaku | 2012-06-15 10:08 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家光の弟忠長(徳川将軍15代)
 今日は、家光のライバルであった弟の忠長について書いていきます。
 徳川忠長は、慶長11年(1606)江戸城西の丸にて生まれました。
 誕生日については、5月7日、6月1日、12月3日と諸説があるそうです。
 家光は慶長9年に生まれましたので、2歳ちがいの弟となります。
 忠長は明るく利発であったので、秀忠・お江の両親に寵愛されて育ったと言われています。
 そのため、一時期、大名たちも、家光よりも忠長に注目したと伝えらえていて、家光が徳川家の家督を継ぐのはいかがなものかと評されていたそうです。

 忠長が将軍になるということが有力視されるようになったことに危機感を感じた福(後の春日局)が、伊勢神c0187004_1205357.jpg宮参拝を装って駿河に行き家康に直訴したという有名な話がありますが、家康の裁定により、家光が世継になることが決まりました。
 これについては、藤井譲治氏著の「人物叢書 徳川家光」によると二説あるようです。
 一説は、こうした状況を察した家康が江戸城での対面の場で、家光を上段にまねき、忠長が続いて上段に上がろうとしたのを遥か下に座らせ、兄弟の差異を明確にしたとするものです。
 もう一つの説が、危機を感じた家光の乳母の福が家康に直訴し、それを受けて家康が家光を世継に決めたというものです。
 両方とも、有名な話ですが、後者は「春日局略譜」に書かれているものです。
 右上写真は、春日局のお墓のある湯島の麟祥院です。

 祖父家康の裁定で家光が後継者に決した後、忠長は元和2年(1616)9月に甲府一国を拝領しました。なお、甲斐一国拝領の年についても元和4年説もあり、石高にも20万石、18万石と諸説あるそうです。
 このことは、忠長が御三家と同じように、一大名になったことを意味し、将軍世継の家光とは明らかな違いがあります。

 この頃の忠長について次のような逸話があります。
 元和4年(1618年)10月、忠長は父を喜ばせようとして、忠長が撃ち取った鴨で作られた汁物を秀忠の膳に供しました。最初は、秀忠は喜んだものの、その鴨は家光が住んでいる西の丸の堀にて撃ち取った鴨だと聞かされた秀忠は、次期将軍となる家光の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、家光への反逆に等しいと怒って出て行ってしまった。

 元和6年(1620)9月に家光とともに元服し、名を忠長と名乗りました。
 元和9年(1623)7月、家光の将軍宣下に際し権中納言に昇進しました。
 寛永元年(1624)7月には駿河と遠江等で50万石を領有し、駿府城に居住しました。
 寛永3年(1626)の上洛の際に、忠長は権大納言となり、以後、「駿河大納言」と呼ばれるようになりました。

 しかし、秀忠の晩年になって。忠長は様々な問題をおこすようになり、秀忠により蟄居させられます。最後は、家光により高崎城に幽閉され、自害することなります。
 その話の詳細は、日を改めてします。
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by wheatbaku | 2012-06-14 11:49 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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