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生類憐みの令(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、有名な「生類憐みの令」について書きます。

 綱吉と言えば「生類憐みの令」と言われるごとく綱吉の政策の代名詞の感があります。
 しかし、「生類憐みの令」という法令が存在するわけではありません。
 動物愛護のために出された複数のお触れを総称して「生類憐みの令」といっています。

 この「生類憐みの令」が最初にだされたのかについては、諸説あるようです。しかし、 貞享2年(1685)7月に出された「将軍の御成先犬猫をつなぐ必要なし」というお触れが最初とする説が多いようです。
 
このお触れを最初として綱吉が死去する宝永6年(1709)までに出された「生類憐みの令」関係の町触は116件あるそうです。

愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及びました。
 そして、生類の対象は、捨て子、捨て病人、行き倒れ人などの弱い人間まで広げられ、捨て子の禁止とその保護も触れだされました。

 生類憐みの令が出された理由について、従来、徳川綱吉に跡継ぎがないため、子供がほしかったら、殺生を慎み、生類とくに綱吉が戌年生まれだから特に犬を大切にするようと桂昌院が帰依していた僧隆光から進言されて発令されたとされてきました。
c0187004_13274120.jpg 「しかし、近年の研究では否定的な見解が主流である。隆光進言説の典拠となる史料が綱吉のゴシップ記事を多く載せる「三王外記」であること、「隆光僧正日記」にそのような内容が書かれていないこと、隆光が大僧正となる前から動物愛護令が出されていること、綱吉自身が愛犬家であるとは思えないことなどがその理由である」(福田千鶴著「徳川綱吉」)ようです。
 また、「生類憐みの令が最初に発令されたのは貞享2年(1685)。隆光が江戸の知足院別院に入ったのは翌貞享3年であり、それまでは大和国の長谷寺にいたので、隆光が進言したという説はなりたたない可能性が高い」(深井雅海「綱吉と吉宗」)そうです。
また、生類憐みの令は「本来幕府支配地のなかでもとくに江戸市中を対象としたもので、将軍家がそのお膝元に下した」(塚本学著「徳川綱吉」)ものです。

 「生類憐みの令の思想の背景には、殺生を禁じ生あるものを放つ仏教の放生の思想に基づくもので、権力による慈愛の政治という一面をもつことは否定できない。しかし、武士・農民・町人など多くの人にとって、行き過ぎた動物愛護の行き過ぎた命令は迷惑なもの」(高埜利彦著「元禄・享保の時代」)でした。
特に、1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時8万2000党が収容されたと言われ、1年の費用は9万8000両もかかったと言われています。そして、これらの費用は江戸や関東の村々の負担となりました。

 このように、人々に迷惑なものだった 「生類憐みの令」は、綱吉がなくなると、宝永6年(1709)ただちに廃止されました

 右上写真は、綱吉が桂昌院の願いにより創建した護国寺の本堂です。
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by wheatbaku | 2012-07-31 15:40 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
武家諸法度と服忌令(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、天和3年(1683)に発布された「武家諸法度」と翌年貞享元年に発布された「服忌令」のお話です。

【武家諸法度】
 天和3年(1683)7月、「武家諸法度」が発布されました。
 この改定では、第1条が改定されました。
 従来の第一条は、「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」でした。
 それは、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改めました。
 武士に最も要求されたのは、「弓馬の道」つまり弓や馬に代表される武道であったものから、「忠孝」や「礼儀」に変わりました。
 
 このように「弓馬の道」から「忠孝」「礼儀」が重要視されるようになったのは時代の変化によるものでした。 
 綱吉の時代になると軍事的緊張はかなり緩やかになります。
 家康・秀忠までは戦いは日常的なものでした。家光の代では、戦いは少なくなりましたが、島原の乱など戦いは起こりました。
 こうした状況の中で、 戦争のない場合でも、上洛の際の大勢の軍勢を供奉させたのは、一種の軍事演習でした。こうしたことで緊張感を高めました。
 同様にたびたび行われた日光社参は、行程そのものが軍事演習としての意味をもっていました。
 しかし、綱吉の時代になると、世の中は、上下とも平和を疑うことはなくなり、戦争を前提とした将軍権力の軍役発動と軍事指揮権を通じた権力誇示の必要は小さくなりました。
 秀忠、家光、家綱までおこなわれてきた日光社参を綱吉は行いませんでした。これは、財政上の理由だけでなく、綱吉自身が日光社参という軍事演習を必要としなかったからだと言われています。

【服忌令】
 同じ年天和3年に綱吉の子供の徳松がなくなりました。数え年5歳でした。
 徳松の死をきっかけに、服忌令が貞享元年(1684)に定められました。
 服忌とは、喪に服する服喪と穢れを忌む忌引きのことで、近親者の死に際して穢れが発生したとして、近親者との関係に応じて喪に服する日数や穢れがなくなるまでの自宅謹慎している忌引の日数を定めたものです。
 一例をあげれば、父母が死んだ場合には、忌が50日、服が13か月と定められていて、50日間は出仕できず、喪中期間は祭り事や神事は行えませんでした。

 死を忌み嫌い、地の穢れを排する服忌の制は、朝廷や神道における習俗であり、戦闘集団である武士には血の穢れや死を忌み嫌う思想はありませんでした。
 しかし、服忌令の制定により、戦国時代以来、人を殺すことが価値であり、主人の死後追腹を切ることが美徳とされた武士の論理は、死の穢れとともに排され、武家の儀礼のなかに朝廷から伝わった服忌の概念が制度化されました。

 これには、綱吉の正室や側室を通じた公家文化の影響もありますが、将軍家やその先祖の権威を高めるために法制化したという説もあります。
そして、武家社会に導入された服忌令の考えは広く社会にも浸透していきました。
 現在も行われている喪中や忌引の習慣はこの綱吉の服忌令から始まって一般庶民に広がったものと言えます。
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by wheatbaku | 2012-07-30 13:10 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
麹町・紀尾井町散歩(大江戸散歩)
 暑い日が続きますね。みなさんこの暑さの中でいかがお過ごしですか。
 この暑い中ですが、土曜日は、毎日文化センターの「気ままに江戸散歩『忠臣蔵』ゆかりの地を行く」があり、受講生の皆さんと麹町と紀尾井町を歩いてきました。

 c0187004_1414262.jpg東京地区35度という暑い中での散歩でしたので、ともかく体調を悪くしないために、水分補給・塩分補給し、適宜休憩をいれて歩いてきました。
 お蔭様で全員無事を何事もなく終了しました。
 右上写真は、案内スタートの半蔵門です。門の名前は徳川十六神将の一人服部半蔵に由来していること事は有名です。

半蔵門 ⇒ 定火消屋敷跡 ⇒ 豊岡藩京極家屋敷跡 ⇒ 平河天満宮 ⇒ 山田浅右衛門屋敷跡 ⇒ 高野長英学塾跡 ⇒ 赤穂浪士隠れ家跡 ⇒ 切絵図出版元尾張屋跡 ⇒ 岩城升屋跡 ⇒ 心法寺 ⇒ 藤田嗣治旧居跡 ⇒ 島崎藤村旧居跡 ⇒
犬山藩成瀬家屋敷跡 ⇒ 尾張藩中屋敷跡 ⇒ 喰違門 ⇒ 尾張藩中屋敷跡 ⇒ 清水谷公園 ⇒ 紀州藩上屋敷跡 ⇒ 赤坂御門 ⇒ 東京メトロ「赤坂見附」駅

【赤穂浪士の隠れ家】
 今回のメインは赤穂浪士たちの多くが隠れ潜んでいた凡その場所を探すことでした。
 赤穂浪士たちは、吉良邸に討ち入りするまで江戸市中の各所に潜んでいました。
 大石内蔵助は、日本橋の公事宿に泊まっていました。
 そして、麹町にも赤穂浪士が隠れ住んでいました。
c0187004_14574785.jpg   麹町には、17人の浪士が、4か所に分かれて住んでいました。
 今は、もうすっかり景色は変わっていますので、明確にここに住んでいたということがわかるわけだはないので、元禄時代を想像するしかありません。
 しかし、こんな場所で赤穂浪士が隠れ住んでいたのかと感慨にふけりました。
 下記の新麹町4丁目~6丁目は、平河天満宮の近くにあった町屋のようです。左上真は、平河天満宮です。

 新麹町4丁目の和泉屋五郎兵衛店に、中村勘介、間瀬久太夫、間瀬孫九郎、岡島八十右衛門、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門、の6人が住んでいました。
 その裏の新麹町4丁目裏の七郎右衛門店には、間新六、間十次郎、間喜兵衛、千馬三郎兵衛(せんばさぶろうべえ)そして最後に脱盟してしまった中田理平次の5人が住んでいました。
 新麹町5丁目の秋田屋権右衛門店には富森助右衛門が住んでいました。
 新麹町6丁目の吉右衛門店に吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、寺坂吉右衛門がいました。
 なお、本によっては「新麹町」でなく「麹町」と書いてあるものもあります。「新麹町」は千代田区発行の「御藩士千代田」によりました。

 【心法寺】
 心法寺は、千代田区内で江戸時代から続く墓地のある唯一のお寺です。
 心法寺は、もともとは推古天皇の時代に、三河国で「秦宝寺」として創建されたお寺と言い伝えられているそうですがc0187004_14144854.jpg 、江戸麹町に創建されたのは、慶長2年(1597)です。
 これには次のような逸話があると説明板に書かれていました。
 三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者です。
三河に帰ろうとした和尚を家康が引きとめ、代わりに市ヶ谷に広い寺地を与えましたが、和尚はこれを断り、慶長2年(1597)に今の場所にお堂をたてました 「衣食が十分だと僧侶が怠け者になり、仏に仕えることがいやになる」ということと「江戸に移住した町人たちのために大衆的なお寺にしたい」というのがその理由でした。

【藤田嗣治旧居跡】
 心法寺の西側、江戸時代は、犬山藩成瀬家のお屋敷でした。c0187004_14151327.jpg その一画に、「藤田嗣治」の旧居跡があります 。
 藤田嗣治は、フランスにおいて最も有名な日本人画家と言われています。
 「乳白色の肌」を持つ裸婦像で広く知られています。
 人生の多くをフランスで過ごし、昭和30年にフランス国籍を取得した藤田嗣治ですが、昭和12年から昭和16年まで、番町に住んでいました。
 その旧居を示す碑が、6番町町会により設置されていました。
 建物の玄関に組み込まれていました。左写真の下部にあるのが碑です。


【大久保公哀悼碑】
 暑い中での散歩でしたが、長い休憩をとりながら歩いたので最後赤坂見附に着いたのは6時ごろでしたが、少し気温が下がったなかでの紀尾井町を散歩することになりました。これも意外と好評でした。

 紀尾井坂の近くの清水谷公園に、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されています。
c0187004_14154737.jpg 高さが6.27mもある立派なものです。
 明治11年5月14日、大久保利通が、紀尾井坂で暗殺されました。
 大久保利通は馬車で裏霞が関の私邸から赤坂仮御所へ向かう途中、紀尾井坂で、待ち伏せていた石川県士族島田一郎ら6名に暗殺されました。
 これは、「紀尾井坂の変」と呼ばれていますが、実際の殺害現場は清水谷公園前のようです。
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by wheatbaku | 2012-07-29 14:02 | 大江戸散歩 | Trackback
側用人(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、堀田正俊の暗殺後、側用人が重用されるようなった件について書いていきます。
 堀田正俊の暗殺後は、将軍と老中の距離が遠くなりました。
 当初、老中たちは将軍が常にいる御座所近くに集まって物事を相談し決裁しました。
 しかし、事件後は、老中と若年寄の御用部屋が将軍の御座所から離されました。
 これは、いうまでもありません。大老でさえ、本丸内で暗殺されてしますという事件を受けて、万が一のことを考えて、それを避けるためにしたものと思われます。
 
 そして、その結果として、将軍と老中との間を取り次ぐ役割の人物が必要となりました。
 その役割を果たしたのが「側用人」です。
 側用人は、柳沢吉保のイメージから、かなり権限をもっていて、従来老中が取り仕切っていた「表」についても関与したように思っていました。
 しかし、福田千鶴教授の「徳川綱吉」を読むとそうでもないと書かれています。
c0187004_13512257.jpg 福田教授によれば、側用人の当初の職務は、中奥に所属する人の人事などの中奥の支配、奉書の発給、山王権現への代参などが主な業務で、表における老中を中心とした通常の政治向きには深くかかわらなかったようです。
 そして、綱吉の側用人政治は、家光以来の老中合議制を大きく逸脱するものではなかったそうです。

 側用人として最初に重用されたのは、牧野成貞です。
 牧野成貞は、万治3年(1660)に綱吉の側衆となり、神田館に出仕し、 寛文10年(1670)12月に家老に抜擢されました。
綱吉が、将軍世継ぎになると、牧野成貞もこれに従い側用人となりました。

 側用人としては、牧野成貞と柳沢吉保が有名ですが、側用人は2人だけではありませんでした。
 初期の側用人としては牧野成貞以外にも喜多見重政、太田資直などがいますが、多くは短期間で免職されています。
 この時期の側用人は、綱吉との個人的な関係で任命され、綱吉が気に入らないとすぐに免職になったようです。
 そうした中で、牧野成貞が病気のため元禄8年(1659)に引退しました。
その跡を継いで重用されたのは、柳沢吉保でした。
 柳沢氏は、もともとは武田家の遺臣です。
 武田氏の滅亡後武田家遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれる中で、柳沢氏も徳川家に仕えました。
 柳沢吉保は、万治元年(1658)柳沢安忠の長男として生まれました。父の柳沢安忠は神田館時代に綱吉に仕えて勘定頭も務めました。
 延宝3年(1675)には、父がなくなり吉保が家督を相続しました。
 延宝8年(1680)綱吉が将軍になるに伴い、吉保も幕臣となり小納戸役となりました。
 そして、元禄元年(1688)に側用人となり、綱吉政権の後半期には権勢をふるいました。
 柳沢吉保についてはまた改めて書く機会があると思います、その時にもう少し詳しく書きます。
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by wheatbaku | 2012-07-27 13:51 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
同期会そして見性院(バクの仲間)
 昨日、以前勤務していた会社の同期会が、さいたま市で開催され、出席してきました。
 そこで、今日は同期会のお話と江戸検今年のお題「徳川将軍15代」関連して、会津藩祖保科正之の育ての親である見性院(けんしょういん)のお墓のある清泰寺についての紹介です。

【同期会】
c0187004_8384358.jpg  今回の同期会には12人が出席しましたが、日頃ビジネス等でお付き合いがあるので、同期会としては久しぶりの同期会ですが見慣れたメンバーの面々でした。
みんな別の会社勤務となっていて、業種を考えてみると不動産業、リサイクル業、病院、精密機器、繊維業、警備業、金融機関、建設業、学校法人など様々な業種で活躍していることに気が付き、改めて驚きました。

c0187004_839783.jpg 団塊世代の同窓会・同期会では、一般的に健康・年金・子供の話題が多いと聞きますが、我々の仲間はまだみんな現役のバリバリですので、そうした話題が少なく、ビジネスの情報交換もされて活気あふれる同期会になりました。
 商売のネタをつかんだ人もいるようですよ。
 

c0187004_8392750.jpg  とはいっても、そろそろ第2の人生ということで趣味や遊びの話題も出ました。
 遊びといえばゴルフということになります。
 真夏は避けて少し涼しくなる9月中旬にゴルフがセットされて、ゴルフの話題も盛り上がりました。
 しかし、ゴルフをしなくなった人もいるので、また年末に飲み会をやろうということを決めて散会しました。

 宴会中にも写真はとったのですが、散会の前に、改めて参加者全員で記念撮影です。
 はち切れそうな笑顔がいいですね。
 本日不参加の同期のみんな、次回は参加してね。
 それにしても、まだまだ若い同期の仲間から元気をもらった一夜でした。
c0187004_8394916.jpg


【清泰寺】
 さいたま市での同期会ですので、次いでさいたま市の史跡を紹介します。
 先日、4代将軍家綱の補佐役で会津藩藩祖の保科正之について書きましたが、保科正之を育てた見性院(けんしょういん)のお墓のあるさいたま市緑区の清泰寺を紹介します。
c0187004_915416.jpg JR武蔵野線東浦和駅から徒歩7分ほどのところにあります。
 清泰寺は、平安時代の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられる天台宗の寺です。
 ご本尊は、木造十一面観音立像で、12年に一度の午年にご開帳されます。ご本尊の十一面観音立像は、室町時代の作です。

 見性院は、武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人です。
 そして、武田家の親族衆穴山信君(梅雪)の正室です。

 天正10年(1582)の織田信長の甲斐侵攻の際、穴山信君は徳川方と通じ、徳川勢の先導者として甲斐侵攻に協力しました。
c0187004_923273.jpg  そして、甲斐侵攻完了後は、織田信長に招待されて徳川家康とともに上京しました。この時に、本能寺の変に遭遇しました。
 徳川家康は、苦労して伊賀を越え無事三河に帰り着きましたが、家康とは別行動をとった穴山信君は山城国で殺害されてしまいました。
 
 未亡人となった見性院は、家康に厚く保護され、江戸城北の丸に屋敷を拝領するとともに大牧村(現緑区東浦和)に領地を与えられました。 
c0187004_925336.jpg そして、2代将軍秀忠に男子幸松が生まれると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。
 幸松が信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられたのも、見性院の働きかけによるものです。、 元和8年(1622)に没し、領地内の清泰寺に葬られました。
 養育の恩を忘れない保科正之は清泰寺に霊廟を建立しました。
 しかし、霊廟は後に倒壊し、その門扉のみが現在に至っています。
 見性院のお墓は非公開ですので、正面からは門扉だけ見ることができ、見性院のお墓を見ることができません。
 そこで、門扉の斜め横から撮った写真が右の写真です。
 墓石が新しく見えますが、現在の墓石は、安政5年(1858)に会津藩により建てられたものだそうです。

赤字が清泰寺です。

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by wheatbaku | 2012-07-26 08:26 | Trackback
堀田正俊(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 綱吉政権の初期の政治を支えたのは堀田正俊でした。

 堀田 正俊は、3代将軍徳川家光政権下の老中堀田正盛の3男です。
そして、寛永12年(1635)春日局の養子となりました。春日局はもともと義理の曾祖母に当たりましたが、家光の命により養子となりました。
c0187004_12563587.jpg 寛永18年(1641)には、徳川家綱の小姓に任じられました。
 寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約し、春日局の遺領3000石を与えられました。
 慶安4年、父の正盛が殉死し正盛の領知から1万石を分与され、官位は従五位下備中守に任じられました。
 寛文10年(1670)に若年寄となり、延宝7年に老中となりました。
 天和元年(1681)正月にはいままで酒井忠清が住んでいた大手門前の屋敷を拝領し、2月には5万石加増され古河藩主となり、筑前守に改めました。そして、12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられました。
 翌天和2年には4万石加増され、13万石となりました。
 
 正俊は、家綱時代末期の老中であるにもかかわらず新将軍から抜擢され(中略)優遇された。それに対して、家綱時代の大老酒井忠清は延宝8年12月に免職となった。この両者の待遇面における較差が「宮将軍擁立説」を生んだともいえる。中略、しかし、酒井が宮将軍の擁立を唱えたかどうかも疑わしい。」と深田雅海氏は「綱吉と吉宗」の中で書いていて「酒井忠清の宮将軍擁立説を疑問視しています。

 堀田正俊は綱吉から農政と幕領支配の専管を命ぜられ、堀田正俊名で、代官服務規程7ヶ条を定めました。
 これにより、幕府財政の基盤となる幕府領の管理する代官をしっかり働かせ年貢徴収を強化しようとしました。
 こうした服務規程をつくり統制を強化したことにより、綱吉政権29年間で34人の代官が処分されています。
 処分者は何代にもわたり代官を勤めてきた代官と年貢滞納の代官が多くなっているようです。
 また、天和2年6月14日には勘定吟味役を新設し、佐野正周、国領重次を任命し、勘定頭の補佐と、勘定諸役人の監督にあたらせました。

 天和の治の中心人物であった堀田正俊ですが、突然、貞享元年(1684年)8月28日、江戸城本丸御殿で従叔父で若年寄の美濃青野藩主稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまいました。享年51歳でした。

 稲葉正休もその場で殺害されたため、堀田殺害の理由ははっきりしません。

 幕府の記録によれば稲葉の発狂のためとされています。しかし、理由がはっきりしなかったため、いろいろな噂や憶測が生まれました。

 大坂の淀川の治水事業に関する意見対立や、堀田が権勢に驕る行動を正休が諌めて受け入れられなかっ たためという説もあり、ひどいのには謀反を企てていたという話もあったようです。また、綱吉を諌めた堀田を綱吉が疎んじて抹殺させたという噂もあったようです。
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by wheatbaku | 2012-07-25 12:57 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
越後騒動(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 綱吉が将軍になると大幅な人事異動がありました。
 家綱時代の大老酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老としました。
 これは、堀田正俊が酒井忠清の宮将軍擁立に断固反対して綱吉擁立に大きな功績を果たしたからとよく書かれています。
 しかし、堀田正俊が大老となったのは、特に綱吉の将軍就任に大きな役割を果たしたからではなく酒井忠清政権で、大きな責任を負っていなかったためというのが塚本学氏の意見です。 

 綱吉は堀田正俊とともに幕政運営に自ら臨みます。
 綱吉が将軍となった翌年に年号が「天和(てんな)」に変わります。
 そして「天和」は3年後に「元禄」と変わり、わずか3年しかありませんでした。
 この短い間に、綱吉の新しい政治が開始されており「天和の治」と称されています。

 この天和の治の特徴の一つは、厳格な賞罰にあったと言われています。

 その代表的なものが、「越後騒動」の裁決です。
 越後高田藩主は、越前福井藩67万石の藩主で乱行のため改易された松平忠直の子松平光長でした。
光長は家康の曾孫にあたり、更に母は2代将軍秀忠の娘勝姫であり、御三家に准じる越後中将家として重んじられました。
 しかし、延宝7年ごろより、代々の家老職であり、光長の妹婿であった小栗美作正矩と、光長の異母弟永見大蔵長良との争いが激しくなり、幕府の裁断を求めました。
延宝7年幕府評定所で裁定があり、反小栗派の荻田主目ら5人が大名家へのお預けになり一応の決着をみました。
 しかし、この裁断には酒井忠清の関与が大きく、反小栗派は小栗派が酒井忠清に取り入った結果だと主張できました。
 そのため、騒動が沈静化せず、幕府に騒動の再審を強く要請しました。
 そのため、延宝8年12月より再審が開始されました。
 当初は稲葉正則が担当して審議が行わられました。
 それから半年後の天和元年6月20日に綱吉は自ら裁断すると告げ、翌日大広間に御三家・甲府家・譜代大名列席のなかで、高田家両派の家臣6人を堀田に尋問させた後、綱吉自らが大声で「これにて決案す。はやまかりたて」と告げました。
 この時、座は震えたと徳川実紀に書かれています。

 小栗父子は切腹、永見大蔵らは八丈島に流罪となり、両派に厳罰が課せられ、藩主光長は所領没収となりました。
 両派の家臣が厳罰が課せられたうえに、有力な一門大名が特別の罪もなく家臣の統率が不十分だったというだけで所領を没収されたことは、新将軍の権威と厳しさを天下に示すに十分でした、
 また、光長の従兄妹にあたる姫路藩15万石藩主松平直矩と出雲広瀬藩3万石の松平近栄は、高田家の内紛を適切に処置できなかったとして閉門を命じられ、翌年許された時に所領は半減されました。

綱 吉は、一門大名に厳格に対応するとともに諸大名や幕府役人に対して、さらに一般庶民に対しても厳しくたりました。新将軍は江戸の町を戦慄(塚本学「人物叢書徳川綱吉」)させたのです。
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by wheatbaku | 2012-07-24 12:58 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
綱吉将軍就任(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、綱吉の将軍就任について書きます。
 延宝8年(1680)5月将軍家綱は病状が悪化します。そして5月6日に、綱吉に呼び出しがかかり綱吉が江戸城に登城すると、家綱から直接世継ぎがいないので養子にするといわれました。そして西の丸の準備が整い次第西の丸に移ること、綱吉の嫡子徳松に館林家を相続させるので、領知・家臣はそのままであることも伝えられました。
c0187004_12462697.jpg 綱吉が、子供のいなかった家綱の養子となったのです。
 しかし、綱吉はすんなり後継者になれなかったといわれています。
 
 家綱の危篤にあたって、幕府の実権を握っていた大老の酒井忠清が、鎌倉幕府の北条氏に倣って、自分が権力を引き続きふるうために、京都から有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、これは堀田正俊が強く反対したため実現しなかったという話もあります。
このことは徳川実紀にも書かれていて、いろいろな本にも書かれていることなので、私もそうだと思っていました。
 しかし、当時の幕府の政治体制からみても、宮将軍の擁立は実現性が乏しく、酒井忠清が宮将軍擁立の主張したのかも疑わしいという説がかなり有力です。
 私が読んだ綱吉に関する次の書物でもすべて疑問視されています。
「人物叢書 徳川綱吉」塚本学(吉川弘文館)
「日本史リーフレット 徳川綱吉」福田千鶴(山川出版社)
「綱吉と吉宗」深井雅海(吉川弘文館)
「日本の時代史15 元禄の社会と文化」高埜利彦(吉川弘文館)

 綱吉の将軍家相続は、そもそも、中継ぎ的な相続が期待されていたという説もあります。
 綱吉が後継に決まった際に、徳松が館林25万石を相続することが決まりました。
 綱吉の将軍就任が固定的永続的なものであれば、徳松も自動的に将軍家世嗣となるはずですがそうなりませんでした。これは大奥に妊娠中の側室がいたためです。
 そのため、武家相続法の慣例に従い、実弟による中継ぎ相続の形をとり、家綱の実子が仮に成長したのちは、その子に将軍職を譲ることが期待されていました。
しかし、実際に中継ぎ相続をした兄弟が嫡系の子に家督を譲らず、自分の子に相続させようとして騒動になるケースがしばしば見られました。将軍家でも同様な危険があり、綱吉が徳松に将軍職を譲ろうとして騒動になるかもしれなかった。そのため、綱吉が養子になるにあたり、家綱に男子が生まれたら必ず将軍職を譲るよう誓詞を書かされたともうわさされたそうです。

 このように「中継ぎ」として期待されていた綱吉の将軍宣下は延宝8年(1680)8月23日に行われました。
 余談ですが、この綱吉の将軍宣下の時に、吉良上野介は高家として宣旨の取次を担当しました。

 右上の写真は、上野寛永寺にある綱吉の霊廟常憲院殿霊廟の勅額門です。
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by wheatbaku | 2012-07-23 12:42 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
綱吉の幼少期(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今年の江戸文化歴史検定は10月28日に実施されます。今日7月21日からちょうど100日目です。
 もう100日しかありません。いやいやまだ100日もあります。
 昨年悔しい思いをした方、今年チャレンジする方、いろいろな思いがあるとは思いますが、ぜひ頑張ってください。
 このブログも、今年のお題「徳川将軍15代」について中心に書いていますが、これから毎日書いていっても15代慶喜まで書けるか不安な日数になりましたが、読んでいただいている方のため、できるだけ多く書こうと思います。

 そのため、散歩や食べ物の記事は少なくってしまうと思います。
 ゴールデンウィークにいった彦根や吉良の記事はまだ書いていません。また、毎日文化センターの大江戸散歩で歩いた場所のご紹介もできていません。
 これらは、検定試験が終了したら書きますので、しばらくご容赦ください。
 しばらくは「徳川将軍15代」の記事を続けます。
 

 そんなことで、早速、今日からは5代将軍綱吉について書いていきます。
 綱吉は、正保3年(1646)丙戌(ひのえいぬ)正月8日に江戸城本丸で生まれました。幼名は徳松と名付けられました。

 家光には、4人の男子がいました。
 長男は竹千代(後の家綱)、次男長松(後の綱重)、三男亀松(早世)、四男徳松(後の綱吉)、五男鶴松(早世)です。
 竹千代は将軍世継と決まっていましたし亀松と鶴松は幼くして亡くなったため、同じような境遇であったのは長松でした。
 長松は、徳松の2歳上で 年に生まれました。しかし、家光が40歳の時の子で「四十二ノ御二ツ子」を忌む慣習のため家光の姉千姫(天樹院)の養子として育てられたことは以前書きました。
 この長松と徳松に対して、家光はなくなる直前の慶安4年(1651)に15万石を駿河・甲斐・上野・信濃・近江・美濃六ヶ国のうちで与えました。
 家光死後の遺物の贈与も二人は平等でした。二人の母に対しても家光遺物として2000両ずつ与えられました。
 承応2年(1653)に家綱が右大臣に就任した際に、二人はともに従三位中将に任じられました。
 そして松平の性と綱の字を与えられ、それぞれ長松は松平左馬頭綱重、徳松は松平右馬馬頭綱吉と名乗りました。

 明暦3年(1657)の明暦の大火で竹橋の屋敷が焼失した長松は新たに造営された桜田屋敷に移りました。 また同じように竹橋に屋敷を与えられていた綱吉も明暦の大火で屋敷が焼失したため、新たに造営された神田屋敷に移りました、
 寛文元年(1661)閏8月には綱重は甲府、綱吉は館林に、それぞれ城と10万石の加封を受けました。
 このように家光の死の直前がら、綱重・綱吉兄弟は同じように扱われてきました。そして、それぞれ甲府宰相、館林宰相と呼ばれたり、二人の官職名(左馬頭、右馬頭)から「両典厩(りょうてんきゅう)」と呼ばれました。

 綱重・綱吉の兄弟は、将軍家の兄弟として格別の待遇をされました。しかし、、両家は将軍家から家臣が派遣され藩政が運営されていて家臣の圧倒的多数は江戸に住んでいました。
 また、綱吉自身が館林に入ったのはたった一度で、寛文3年4月に日光を参詣した帰りに入城しただけでした。
 また、人事権についても幕府老中と相談しながら行使するという状態だったようです。
 このように、綱吉も綱重も大名とはいいながら、将軍家からの自立の程度は低いものでした。
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by wheatbaku | 2012-07-21 21:18 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
保科正之の業績(江戸検お題「徳川将軍15代」)
さて今日は保科正之の業績を書いていきたいと思います。
 保科正之は、数々の業績を残しています。

回向院の建立
 明暦の大火は正月18日19日の二日間にわたって起きました。
c0187004_1128301.jpg その直後の正月24日は、2代将軍祥月命日でした。例年は将軍家綱が自ら増上寺に参拝していました。しかし、明暦の大火という大災害が発生したばかりで治安が安定していないため、保科正之が代参しました。
 増上寺に代参した帰り、京橋にさしかかると数多くの焼死者が道端に積まれていたそうです。さらに家臣に浅草御門のあたりがどうなっているか調査させると焼死者がそのままになっているとの報告でした。
 そこで、正之は幕閣に遺体を一か所に集め手厚く埋葬することを提案しました。幕閣に異論があろうはずがありません。
 将軍家綱の許しを得て、本所牛島新田に遺体を集め埋葬しました。これが万人塚と呼ばれました。
 そして芝増上寺の遵誉貴屋に10万人を超えた死者の冥福を祈るための寺院を建立させました。 これが両国の回向院のはじまりです。
 右写真は、回向院にある、明暦の大火の供養塔です。

江戸城天守の再建取り止め
c0187004_11285325.jpg 明暦の大火で焼失した江戸城の天守については、加賀前田家により天守台は完成しました。その後、天守の再建が協議された際に、保科正之は、「天守は単に遠くを見るだけのものであり実用的な価値があまりない。こうしたものを再建し大火後の建築工事がさらに長引けば人々の生活に差し障りがでてくるかもしれない。今は無駄な出費は避けるべきである」と主張しました。そのため江戸城天守は再建されませんでした。現在も天守台だけが残されています。(左写真)

殉死禁止
 殉死禁止を推し進めたのも正之でした。
 正之は殉死について否定的に考えていました。
 そこで、殉死について中国や日本でどのように考えられていたか研究しました。
 その結果、殉死は、中国では漢人の習俗ではなく、周辺国の胡人の習俗に発するものだと結論づけました。
 そして自分の領国である会津藩で他藩に先駆けて殉死禁止を藩法として定めました。
 その後、家綱が武家諸法度を改定する際に、保科正之は、殉死禁止を盛り込むよう再三提言しました。
 その結果、 年発布された武家諸法度では、別記として「殉死禁止」が明記されました。

 そして、証人制度の廃止を提言したのも保科正之であると言われています。
 さらに、玉川上水の開削も正之の建議であると会津藩の史料に残されているそうでうす。

 こうしてみると明暦の大火という大災害にも保科正之が果敢に対応していたことがわかります。「
 家綱政権の三大美事とは①末期養子の禁止の緩和、②殉死の禁止、③証人制度の廃止と言われています。 これらに、保科正之が大きく関わっていたことにもなります。
 このように多くの功績を残した保科正之は、寛文12年(1672)12月18日に死去しました。61歳でした。死後は神として祀られました。
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by wheatbaku | 2012-07-19 11:15 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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