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坂本龍馬の墓(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 昨日まで14代将軍家茂の軌跡を京都旅行の記録と一緒に書いてきました。
 京都旅行でどうしても行っておきたいところがありました。
 それは、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓地です。
 しかし、今まで触れる機会がありませんでした。
 そこで、今日は、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓地について書いてみます。

 c0187004_134565.jpg 坂本龍馬と中岡慎太郎の墓のあるのは京都霊山護国神社です。
 京都霊山護国神社は幕末に倒れた志士が祀られています。
 霊山護国神社は明治元年に明治天皇の意向を受けて、明治維新に進む道半ばで命をなくした志士の霊を祀るために建てられてのが始まりです。
 社号は当初「霊山官祭招魂社」と言いましたが、昭和14年に、「京都霊山護国神社」と改称しました。


 坂本龍馬と中岡慎太郎の墓は、神社の東側の山腹に建てられていました。
c0187004_1342055.jpg 龍馬のお墓までは大変整備されていて、大変わかりやすい道でした。
  右側が坂本龍馬、 左側が中岡慎太郎です。
  坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されたのが、慶応3年(1867)11月15日です。
  11月15日は奇しくも龍馬の誕生日です。
  そして、龍馬らの葬儀は11月17日の夜に行われました。
  葬儀は近江屋で行われ、葬列には海援隊・陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが参列し、霊山に埋葬されました。

 霊山護国神社には、神社設立の趣旨から、坂本龍馬、中岡慎太郎以外に、「池田屋事件」、「禁門の変」などで亡くなった幕末の志士たちのお墓がたくさんあります。
 
c0187004_1352988.jpg 池田屋事件でなくなった人たちの墓

 宮部鼎三、松田重助、本山七郎(北添佶摩の変名)、広岡波秀、大高又次郎、古高俊太郎らのお墓があります。



c0187004_1343976.jpg 禁門の変の死亡者の墓
左から2番めが来島又兵衛、3番目が久坂玄瑞、4番目が寺嶋忠三郎、5番目が入江九一、右端が有吉熊次郎です。
 来島又兵衛以外全員松下村塾の塾生です。
 なお左端は高杉晋作の墓で、最近建てられたものです。
 高杉晋作は、禁門の変の際には京都出兵に反対しましたが、松下村塾の仲間近くに建てられたのでしょう。
 

 
c0187004_134549.jpg木戸孝允のお墓

木戸孝允のお墓は墓所の最も高いところにあり、他よりは一段と大きなものでした。
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by wheatbaku | 2012-08-31 12:57 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家茂の死(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、家茂の死について書いていきます。

 慶応元年(1965)閏5月に、大坂城にはいった家茂は、9月15日、長州に進発するための勅許を得るために、大坂城を発ち、翌日二条城に入りました。
9月21日には、御所に参内し、孝明天皇より陣羽織と太刀が下賜され進発が許されました。
c0187004_114427.jpg  9月23日に大坂に一旦帰りましたが、英米仏蘭四カ国連合艦隊が大坂湾に入り、兵庫開港を強硬に迫っていたため、老中の阿部正外と松前崇広は独断で開港を決定し、その後朝廷に勅許を申請するということになりました。
 これに対して、朝廷は、老中の阿部正外と松前崇広の両者の官位を召し上げ、国許に蟄居させるという沙汰書を下しました。
 これに対して、家茂は、将軍辞職と条約の勅許を願う上表文を朝廷に提出させました。
 それとともに、10月3日に江戸に帰ることを触れ出したため、大坂と京都は大混乱になりました。家茂一行は4日には伏見に到着しました。将軍辞職の公表に驚いた一橋慶喜、松平容保らが懸命に説得した結果、家茂は、将軍辞職と江戸への帰還を取りやめます。
 この将軍辞職という強硬手段は、家茂の考えから発しているという説が最近は有力になってきています。
 こうした家茂の強い姿勢にも押されて、朝廷は安政条約を勅許しました。

 長州征伐の準備が進むなかで、慶応3年4月下旬、大坂城滞在中の家茂は胸痛をおこしました。
 一旦快方に向かいましたが、5月中旬に同様の症状になり、6月には胃の不具合を発しました。その後は、両足が水ぶくれで腫れ、7月に入ると嘔吐の症状がひどくなりました。
 明らかに脚気でした。
 7月16日には、家茂の容態を心配した天璋院と和宮から漢方医が派遣されてきましたが、蘭方医を好む家茂は、漢方医の診察を許しませんでした。
 17日に家茂と対面した慶喜の話として、手足が相当腫れている様子とのことが残されています。
c0187004_1144472.jpg 18日には、松平春嶽が大坂に到着しましたが、もう対面できる状態ではなく、翌19日の黄昏過ぎに、障子越しに家茂の様子をうかがうのが精一杯でした。
 そして、夜が明けた20日の午前7時ごろ家茂はその生涯を閉じました。
 家茂の死はすぐには発表されず、喪は1か月後の8月20日に発せられることになりました。
 家茂の遺骸は、長鯨丸で海路にて江戸に戻り、9月6日に浜御殿に到着しました。
 「御上り場」(右写真)には、留守を守る老中・若年寄以下が平伏して将軍の遺骸を迎えました。

 最後に、幕臣から見た家茂の印象について、久住信也氏著「幕末の将軍」に書かれていることから書いて、14代将軍家茂について終わりたいと思います。
 まず「南紀徳川史」に載っている和歌山藩主徳川茂承(もちつぐ)の話から始めます。
 茂承は、家茂が将軍になった後をついで和歌山藩主になった人物で、家茂が最も親しくしていた一人です。
 第2次長州征伐の総督として出発するに先立って5月28日に茂承に節刀を授けるために、家茂はすでに発病していたのを押して対面し、饗宴を催しました。その際に、家茂は何事か胸中を明かそうとしましたが口ごもり涙ぐんだ景色に見えたそうです。それがいかにも国事を憂い、病を無念に思っているように茂承には思われたようです。そして、家臣にその時の茂承の心中を察するようにと話されたそうです。
 次に老中であった板倉勝静がみた家茂の印象を勝静の家臣三島中洲が書き留めています。
 それによれば、板倉勝静は、将軍家茂は真に国家を憂いていたと始終ほめていたそうです。
 また、勝海舟は、家茂のことを語るときには、常に両目に涙をためたと言われているそうです。
 このように幕臣から慕われていた家茂の死は、幕府運営にも大きな打撃を与えるのは当然として、それとともに、幕臣たちに大きなショックを与えました。
 そのショックの大きさを、勝海舟が次のように書いています。
 「城内寂として人無きが如し、余最も疑う、奥に入れば諸官充満一言を発せず、皆目を以て送る。惨憺悲風の景色殆ど気息絶えなんとす。」
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by wheatbaku | 2012-08-30 11:46 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
同志社大学と薩摩藩邸(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 幕府が、第2次長州征伐を準備している時に、幕末の政局に決定的な影響を与えた薩長同盟が結ばれています。
 
 今日は、その薩長同盟が結ばれた京都における薩摩藩邸と同志社大学について書いてみます。
 薩長同盟の立役者はご存じのとおり、坂本龍馬ですが、
 薩長同盟については、昨年の1月に書いていますので 薩長同盟 をご覧ください。

 京都の薩摩藩邸は三つありました。
 一つは、錦小路藩邸です。もう一つは、二本松藩邸です。さらに伏見藩邸です。
 今回の京都旅行では、錦小路藩邸跡と二本松藩邸跡を見てきました。
 錦小路藩邸は、現在の大丸の場所にありました。
c0187004_11425038.jpg 大丸の西側の東洞院通り側にある搬出入口に通じる道路脇に石柱と説明板があります。
 しかし、雑踏のなかにあるので見落としがちです。石柱が駐車している車の陰にあって私も見つからなくて、タクシーの運転手が見つけてくれました。

 説明板には次のように書かれていました。
 この場所に大名の屋敷が設けられたのは、16世紀末か17世紀初頭からと考えられる。
まず最初は山城守松平忠国の屋敷であったが、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩守(島津氏)の京屋敷となっている。

 江戸時代、薩摩藩邸は錦小路と東洞院通りに面していて、四条通りとは接していませんでした。今では四条通のほうがにぎやかですので、四条通りとは接していないことが意外な感じがします。
 禁門の変の際には、薩摩藩兵は、この錦小路の藩邸から出軍しました。
 しかし、錦小路の藩邸が禁門の変で起きた「どんどん焼け」により焼失した後は、二本松の藩邸が中心となりました。

 二本松の藩邸は、現在では同志社大学になっております。
 二本松藩邸跡の石柱は、同志社大学の西門前にあります。
c0187004_1149825.jpg  説明板には次のように書かれています。
 現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島)藩々邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5,805坪(約1万9千平方メートル)、9棟の建物と多くの土蔵が立ちならんでいた。

 ここでは重要なことが行われました。
 薩長同盟の合意です。薩長同盟は、慶応2年正月21日に合意しましたが、その話し合いが、二本松の藩邸で行われたのでした。
 薩長同盟の合意がどこで行われたかについては、小松帯刀の屋敷で行われたという説もあるようですが、「京都の歴史」には次のように書かれていて、二本松の藩邸で行われたといっています。

 ついに木戸は12月27日、長州を発つことになった。
 木戸は使者の黒田了介とともに、年あけて慶応2年1月7日に伏見に入り、西郷らの出迎えをうけながら、共に相国寺二本松の藩邸に入った。藩邸では小松帯刀・大久保利通ら数十人が木戸と面会したが、薩長の融和、取極め等々については、木戸が十数日滞在しても薩摩・長州両藩からなんの提案も行われず空しく時間を費やしていた。そして、木戸があきらめて帰国を決意しようとした1月20日、坂本龍馬が、馬関より二本松の藩邸に入ってきたのであった。

 同志社大学と薩摩藩邸の関係について触れておきます。
c0187004_1149298.jpg 同志社大学の土地は、明治維新の混乱の中で藩邸跡地を購入した山本覚馬から寄贈された土地です。
 山本覚馬は元会津藩士で、幕末には会津藩の公用方として活躍しました。
 山本覚馬の妹八重は、同志社大学の創始者新島襄と結婚しました。つまり新島襄の義兄になります。
 来年の大河ドラマ「八重のさくら」は、この新島八重を主人公ととしたものです。
 同志社大学には、重要文化財に指定されている建物が数多くありますが、右上写真は「彰栄館」です。
 二本松藩邸跡の石柱のある西門を入ったところにあります。
 左中段の二本松藩邸跡の石柱と説明板の写真の後方に写っている赤レンガの建物が「彰栄館」です。

 赤が薩摩藩の錦小路藩邸跡の石柱です。

 赤が薩摩藩二本松藩邸跡の石柱です。 青が同志社大学の彰栄館です。

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by wheatbaku | 2012-08-29 10:44 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
家茂の再上洛、三回目上洛(江戸検お題「徳川将軍15代」)
今日は、文久4年から慶応元年の将軍家茂の動きを中心に書いておきます。 

 京都で禁門の変が起きた時、将軍家茂は、江戸にいました。 
 八月十八日の政変は文久3年に起きていますが、家茂は、政変が起きた後の文久4年正月に上洛しています。
  2回目の上洛は海路を利用しています。
c0187004_11543536.jpg 文久3年も押し迫った12月27日に翔鶴丸に乗船し、順動丸などを従えて品川を出発しました。
 航海の指揮をとったのは、軍艦奉行並の勝海舟でした。
 家茂は文久4年の元旦を下田で迎えました。
 通常であれば江戸城で諸大名の年賀を受けているはずですが、下田での新年をどんな気持ちで迎えたのでしょうか?
 そして、家茂は、正月8日に無事大坂城に入り、正月14日には上京しました。
 約4か月滞在した間、孝明天皇と将軍家茂の親密度も深まり、公武合体が完成の域に達しました。
 家茂は5月7日に二条城を発ち、その日のうちに大坂城に入りました。
 そして、摂海を視察した後、5月16日に軍艦翔鶴丸に乗って江戸に向かい、江戸には20日に到着し浜御殿で上陸しました。
 この時も、勝海舟が同行しています。

 そして、7月になって、禁門の変が起きます。
c0187004_11454069.jpg この時は、家茂は江戸におり、京都の幕府側の指揮者は一橋慶喜でした。慶喜は禁裏御守衛総督という役職についていました。
 そして、京都守護職の松平容保が補佐していました。
 松平容保は、禁門の変が起きた時、病床に伏していましたが、病気を押して参内し、御所の南側にある凝華洞に陣取り指揮を執りました。
 御苑内に凝華洞跡が残されていて、説明板があります。

 さて、禁門の変を起こした長州は朝敵となります。
 元治元年(1864)7月 朝議により、長州藩追討が決定します。
 これが禁裏守護総督の一橋慶喜に伝えられ、幕府は中国、四国、九州の21藩に出兵準備を伝えました。さらに8月に入って将軍みずから長州征討にあたることを声明し、征長総督と副総督を任命しました。
 幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島に軍勢を集結させて長州へ進軍しました。

 将軍家茂の進発が要請されていましたが、家茂の身体を心配する天璋院や和宮などの大奥や将軍の身の回りの世話をする「奥」が反対をしました。
 総督についても、当初は、和歌山藩主徳川茂承が予定されていましたが、急遽徳川慶勝に変更になったものです。
 
 一方、長州藩内部では、幕府への恭順を主張する保守派(俗論派)とそれに反対する討幕派(正義派)に藩論が分かれました。
 その結果、「祖宗の安全」を主張する保守派(俗論派)が政権を握りました。
 俗論派政権は、恭順の意を表すため、禁門の変の責任者である三家老の国司信濃、益田右衛門介、福原越後を切腹させしました。
 そして、征長総督参謀の西郷隆盛は、藩主毛利敬親、世子毛利元徳父子の伏罪書の提出、三条実美ら五卿の筑前への移動、山口城の破却を撤兵の条件として伝えました。
 長州藩はこの条件を受け入れました。
 そして、12月27日、征長総督は、撤兵令を発しました。これにより、第一次長州征伐は完了ということとなりました。

 この後、長州藩内では、高杉晋作の功山寺挙兵により、慶応元年2月はじめには正義派が藩政の実権を握りました。 これ以降、長州藩は開国倒幕に藩論を統一し、倒幕のため軍事力の強化に力をいれます。
 
 これに対して、幕府は長州再征を考え、慶応元年4月、前尾張藩主徳川茂徳を征長先鋒総督に任命し、同年5月16日、家茂は長州征伐のため出馬しました。
c0187004_11511551.jpg 第3回目の上洛は1回目と同じように陸路を取りました。
 家茂は歩兵部隊が固める中軍に陣取りました。家茂の前後には家康以来の吉例の金扇馬印が立てられました。
 家茂は、途中で道中の古戦場なども見ながらゆっくりと進みました。
 閏5月11日は、名古屋城に入っています。また閏5月16日には彦根城に入っています。
 閏5月22日に、駕籠の乗って、施薬院に入り、施薬院で衣冠に改めた後、小御所で孝明天皇に対面しました。
 家茂は、24日に二条城を発ち、翌日夕方大坂城に入城しました。
 金扇馬印は、本丸の大広間に置かれました。

 
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by wheatbaku | 2012-08-28 12:48 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
蛤御門と禁門の変(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、有名な禁門の変について書きます。
 禁門の変は、蛤御門の変とも呼ばれています。
 尊攘派の長州藩と幕府や会津藩・薩摩藩との間起きた合戦です。
 「変」と呼ばれることから小事件のように思われますが、長州藩の軍勢は3千人余りと言われており、これに対して幕府と諸藩合計の軍勢は3万と5万とも言われており、合戦といっていい規模の戦いでした。

 蛤御門(下写真)は、京都御苑西側にある門です。烏丸通りに面して西を向いています。
c0187004_855186.jpg 京都検定1級ももっている江戸検1級仲間の大沢さんの話によると、蛤御門は、昔は現在より30~40m東よりの位置にあり、鍵型で南を向いていたそうです。。
 もとは「新在家門」と呼ばれていましたが、宝永5年(1708)に起きた宝永の大火で、今まで閉じられていた門が開いたことから、「焼けて口開く蛤」のたとえで蛤御門と呼ばれるようになったそうです。

 八月十八日の政の結果、長州藩兵は京都を追放されてしまいました。
 長州藩内においても、事態打開のため京都に出兵しようという意見が出されました。
 積極策を主張したのは来島又兵衛、真木和泉、久坂玄瑞らであり、桂小五郎、高杉晋作らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。
 そこに、6月5日の池田屋事件がおき多くの尊攘派浪士が新選組に殺されました。
 池田屋事件については、昨年に書いた 「池田屋事件の跡」 をご覧ください。
 池田屋事件の報が伝わると、慎重派の周布政之助、高杉晋作らは藩論を沈めようとします。
 しかし、福原越後、益田右衛門介、国司信濃らは、挙兵を主張しました。
 益田、久坂らは山崎天王山に、国司信濃、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えました。

 そして、朝廷への陳情を開始しました。しかし朝廷は、長州藩に対して退京を命じ、追討令を出そうとします。
c0187004_915738.jpg  長州藩は、 7月17日に石清水八幡宮で軍議を開いて決戦の方針を決めました。
 戦いは7月19日未明伏見方面で始まります。長州藩の福原越後が率いる隊と幕府方の大垣藩が激突し、
福原越後が負傷すると長州勢は敗走しました。

 一方、天竜寺に布陣していた国司信濃隊は、御所へと迫ります。
 まず国司信濃の率いる軍勢は、中立売御門(右上写真)を攻めました。ここを守っていたのは、筑前藩でした。
 国司信濃の部隊は、筑前藩を破り、御所内に攻め入りました。

 蛤御門には来島又兵衛が率いる一隊が攻め掛かりました。この門を守っていたのは会津藩でしたが、来島隊は強く、蛤御門を守る会津藩を圧倒します。
c0187004_8552973.jpg  国司信濃と来島の隊は、両門を突破し公卿門に迫りました。
 こうした時、薩摩藩が中立売御門の北の乾御門から蛤御門にいる長州藩に攻めかかりました。
 長州兵は敵を迎え撃ちますが、大砲も発射して攻撃する薩摩藩に敗れ潰走します。
 蛤御門には、右上写真のように、戦いの激しさを物語る銃弾の跡が残されています。

 この乱戦の中で来島又兵衛は討ち死にします。
 「巨眼の男」のなかでは川路利良が来島又兵衛を一発で撃ち倒したと書かれています。
 来島又兵衛が死ぬと長州勢は総崩れとなりました。
c0187004_8555822.jpg 京都御所の南西に清水谷の家の椋という大木があります。(左写真)
 
 ここには説明板に次のように書かれています。
 この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
 1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。


 蛤御門の長州兵が敗走した直後に、山崎から出発した久坂玄瑞・真木和泉の率いる部隊が堺町御門に到着します。
c0187004_8563920.jpg 堺町御門は越前藩が防御しており、やむなくこの部隊は、鷹司邸に潜り込み、幕府軍と対峙します。
 鷹司邸に入った久坂玄瑞は、前関白鷹司政通に嘆願し御所へ参内する供に加えて貰えるよう訴えますが、政通はこれを拒否します。
 国司信濃・来島又兵衛を破った会津藩、薩摩藩の藩兵も鷹司邸を包囲します。
 大軍に包囲された中で、久坂は松下村塾の塾生であった寺島忠三郎とともに自刃しました。
 さらに、松下村塾四天王の一人に数えられた入江九一は、久坂と寺島から後事を託され屋敷を脱出しようとしましたが、殺されてしまいました。
 また、真木和泉は、天王山に引きし、しばらく抵抗しますが、7月21日に自刃しました。

 長州勢が入り込んだ鷹司邸は、堺町御門を入った東側にありました。
 現在は、大きな木の下の鷹司邸跡と書かれた木の柱がたっています。(右上写真)

 幕府軍は長州藩の拠点となった鷹司邸を焼き払らいました。一説には一橋慶喜の命令だったとも言われます。
 この火事が火元なって、三日間に渡って燃え続けた結果、京都市内の大半が焼け、多くの家屋や数多くの社寺が焼失しました。
 これは天明の大火に次ぐ被害で、「どんどん焼け」「鉄砲焼け」と呼ばれています。


長州藩は、禁門の変を起こしたことにより、「朝敵」となります。そして、第一次長州征伐が行われることになります。
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by wheatbaku | 2012-08-27 08:54 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
京都御所と八月十八日の政変(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、八月十八日の政変について書きます。
 八月十八日の政変とは、文久3年8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件です。

 上洛した将軍家茂は当初10日間の滞京の予定でした。しかし、朝廷によりずるずると引き留められました。
 上洛早々の3月11日の加茂行幸の後、4月11日には石清水八幡宮への行幸も行われました。
 この時は、病気を理由に、家茂は随行しましせんでした。
 しかし、譲位実行の要求は強く、ついに5月10日が譲位実行日と定まります。

c0187004_11472516.jpg この間、家茂は、4月21日に大坂城に向かい、順動丸に乗って大阪湾を巡航しています。この時の艦長が勝海舟です。
 その後、5月11日に京都に戻り、江戸に帰ることを奏上しますが、なかなか許可がおりませんでした。
 5月24日になってようやく帰府の許可がおりたので、帰路は海路を取ることに、6月9日に京都を発ち6月13日に大坂天保山沖からを 順動丸に乗って江戸に帰りました。

 この将軍家茂の帰府と入れ違いに、御親征を強く主張する久留米藩士の真木和泉が入京します。
 真木和泉は学習院にも出仕し、公卿に大きな影響を与えました。
 そして、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征が尊攘急進派によって企てられました。
 この攘夷親征は大和行幸と呼ばれ、孝明天皇が大和の神武天皇陵と春日大社に行幸して、次いで伊勢神宮にまで行幸するというものでした。。
 この大和行幸実施の詔が8月13日に発せられました。
 しかし、この大和行幸は、尊王攘夷派が中心となって画策したもので、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、攘夷急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていました。

 大和行幸が発せられた8月13日の夜、三本木で会津公用局の秋月悌次郎を薩摩藩の高崎左太郎(正風)が訪ね、会津藩と薩摩藩が手を結び、攘夷派を一掃することを提案しました。
 秋月はすぐに松平容保にその話を伝えて承認をとりました。
 8月15日、松平容保の了解のもと、薩摩藩の高崎左太郎(正風)と会津藩の秋月悌次郎が、公武合体派の中川宮を訪れて計画を告げました。
 計画に同意した中川宮が翌16日に参内して孝明天皇に奏上しましたが、孝明天皇はすぐには決断しませんでした。しかし、その夜、天皇から中川宮に密命が下りました。
c0187004_11474898.jpg 
 8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、京都所司代淀藩主稲葉正邦、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房らが参内し、4時ごろに会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了した。
午前4時ごろ、一発の砲声が鳴り響きました。九門警備完了の合図です。
 土佐、鳥取、徳島、米沢など在京の諸藩主にも兵を率いて参内を命じ、兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めました。

 そして、朝議によって、大和行幸の延期が決まり、三条ら尊攘急進派公家に禁足を命じるとともに他人との面会の禁止も命じました。
 また、国事参政、国事寄人の二職が廃止となりました。そして尊王攘夷派の中心である長州藩は堺町御門(左上の写真)の警備を免ぜられ、薩摩藩がかわることになりました。

 朝廷内は、公武合体派の公卿によって占められ、尊攘派公家は失脚することになりました。こうした事態に驚いた尊攘派公卿は急いで参内しようとしましたが、門を入ることができませんでした。
c0187004_115068.jpg 長州藩も、堺町御門や鷹司邸(左写真)近くに集まりました。これに対して薩摩藩・会津藩も藩兵を向かわせました。
 一側触発の事態の中で、両陣営が対峙していました。その長州藩に対して退去するよう勅命が下り、長州藩が大仏方広寺に兵を引き上げます・
 そして、翌19日、方広寺から移動して妙法院にいた長州藩兵2千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、雨の中、長州へと下りました。
 これがいわゆる七卿落ちと言われるものです。
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by wheatbaku | 2012-08-24 09:46 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
京都府庁と京都守護職屋敷(江戸検お題「徳川将軍15代」)
今日は、京都守護職の屋敷について書きます。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、先日書いたように、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
しかし、文久3年の末ごろからしだいに御用屋敷が整備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 昨日書いた清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 
 現在、京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです。
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by wheatbaku | 2012-08-23 12:03 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
清浄華院と姉小路 公知(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、清浄華院と姉小路 公知(あねがこうじきんとも)です。

 清浄華院(しょうじょうけいん)というお寺をご存じですか。
 あまり観光名所ではないので、ご存じないかもしれませんが、先日紹介した梨木神社のすぐ近くにあります。南側の廬山寺は紫式部の邸宅跡と言われていてキキョウでも有名です。

c0187004_21592079.jpg この清浄華院は、浄土宗七大本山の1つです。一般には縮めて浄華院(じょうけいん)と呼ばれているそうです。
 その歴史は古く、平安時代までさかのぼります。
 貞観2年(860)、時の天皇である清和天皇の勅願により、天台宗の慈覚大師円仁が宮中に禁裏内道場として建立したのが始まりです。
 平安時代も終わろうとする頃、浄土宗の開祖である法然上人が現れました。
c0187004_21595596.jpg  後白河法皇は法然上人を宮中に呼び教えを請い、高倉天皇・後鳥羽上皇とともに上人を戒師として授戒も受けられました。
 後白河天皇は法然上人の教えに大変感動され、参内の宿舎とされていた清浄華院を法然上人に賜りました。
 これによって清浄華院は浄土宗に改められ、以後念仏道場としての道を歩むことになったのです。
 このため清浄華院では慈覚大師を創立開山、法然上人を改宗開山としているそうです。

c0187004_2212260.jpg この清浄華院は、幕末の攘夷急進派の公卿で猿が辻で暗殺された姉小路公知(あねがこうじきんとも)のお墓があります。
 姉小路 公知のお墓は本堂東の墓所の北東奥にありました。
右上写真が姉小路公知のお墓です。


 さて、姉小路公知は、天保10年(1839)、姉小路公前の子息として生まれる。
 安政5年(1858)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。
 文久2年(1862)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かいました。
 のちに国事参政となり、三条実美とともに攘夷派の先鋒となりましたが、文久3年(1863)に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅でなくなりました。

 この姉小路公知が襲撃された事件は、「猿が辻の変」とか「朔平門外の変」と呼ばれます。
c0187004_21334457.jpg 「猿が辻」というのは、京都御所の東北部で鬼門除けのために、、築地塀の角を欠いています。
 右写真で、中央部が欠かれているのがよくわかると思います。
 そして、左下写真のようにやはり鬼門除けのために屋根裏に日吉山王社の神のお使いの猿を祀っています。
 そのため、猿が辻と呼ばれます。

 姉小路公知の自宅は、猿が辻の近くにありました。。
 文久3年(1863)5月20日午後10時頃、朝議を終え、宜秋門から退出して帰宅の途に付いた姉小路公知は、禁裏の築地を北周りに通り、朔平門外を越えたあたりで覆面をした刺客3人に襲われました。
 一人は下僕の提灯を払い、ほかの二人は 公知を襲いました。 公知は傷を受けて太刀を取ろうとして太刀を持っていた従者は既に逃げ去っていました。
c0187004_21354064.jpg 公知が持っていたのは扇子だけでした。そこで、 公知は賊の刀を奪おうとしました。その時従者の中条右京も賊に襲いかかりました。そのため、賊は刀をおいて逃げ去りました。
 中条右京は、 公知を肩にかつぎ姉小路邸まで運びましたが、 公知は重傷を負っていて気息奄々たる状況でした。
 公知は家臣を呼んで遭難の届書と知人に託す後事を述べ、丑の刻に亡くなりました。
 享年25才でした。

 事件の報が天皇に届くと、家茂を召し、必ず兇徒を捜索し 公知の霊を慰めるよう命じました

 武家伝奏坊城俊克、事件現場には、犯行に使われたと思われる刀が遺棄されていたため、その刀を証拠として、薩摩藩士田中新兵衛を捕縛するよう命じました。
 26日、京都守護職の会津藩は、東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲し、田中新兵衛およびその場に居合わせた仁礼源之丞を逮捕し、坊城邸へ連行した。
 坊城は、京都町奉行永井尚志に命じて町奉行所に拘留させましたが、その夜、田中新兵衛は隙を見て奉行所内で自刃してしまいました。この責任を取り、町奉行永井は閉門謹慎となりました。
 長州や土佐藩には、田中新兵衛を知っている人が多く、残された刀は田中新兵衛の刀だという人が多かったようです。
 また。死体を検分した事件の生き残りも新兵衛に間違いないと証言しました。

こうしたことから、当初から田中新兵衛が犯人との見方が強かったようです。
c0187004_21382352.jpg  田中新兵衛は薩摩藩関係者であったため、薩摩藩に対する疑念がかけられ、薩摩藩は外構九門の一つである乾御門(右写真)警備の任から外され、さらに薩摩藩関係者の外構九門内往来が禁じられてしまいました。

 現在でもなお事件の真犯人について諸説あるものの田中を実行犯とする説が最も有力です。


 c0187004_2214689.jpg この清浄華院には、多くの公卿や皇族のお墓がありました。
 その中に、山科言継(やましな ときつぐ)のお墓がありました。
 本堂東側の墓所の中で、本堂の近くでした。
 山科言継は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した公卿ですが、織田信長との交渉役なども務めています。
 山科言継が書いた日記『言継卿記』は、当時の公家や戦国大名たちの動向が詳細に記されていることで有名です。
予想外にお墓が新しいのでビックリしました。いつ建立されたか聞くのを忘れてしまいました。






 赤印が清浄華院です。 青印が梨木神社緑印が廬山寺です。


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by wheatbaku | 2012-08-22 11:07 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
八木邸と新撰組(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 将軍家茂の上洛に合わせて、幕末史に重要な役割を果たした「新撰組」が誕生していますので、少し触れておきます。

 新撰組の母体となったのは「浪士組」です。
 家茂が上洛したのは文久3年(1863)3月4日ですが、この前の年文久2年には、京都では、天誅と称した、殺人事件が数多く起きていました。

 文久2年(1862)7月20日、関白九条尚忠の家臣の島田左近が、薩摩藩士の田中新兵衛らに暗殺され四条河原に首をさらされました。
c0187004_12545522.jpg 文久2年閏8月30日には、奉行所の岡っ引き猿の文吉(ましらのぶんきち)が、岡田以蔵たちにより、三条河原で殺害され、裸で河原の杭に縛り付け晒されました。
 文久3年1月22日には、儒学者池内大学が大坂で殺害され、首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛、中山忠能の屋敷に投げ込まれました。

 こうした状況でありながら、京都所司代、京都東町西町奉行所は、あまりにも弱体で、京都の治安を維持できない状況でした。
 このため、先日書いたように京都守護職が設置されたわけです。右上写真は、京都守護職の本陣がおかれた金戒光明寺の御影堂です。手前の大きな松が「熊谷直実鎧掛けの松」です。

 こうした状況で、将軍家茂が上洛することになり、一層の治安維持が求められる状況となりました。
 そこで、幕府は、清河八郎の献策を取り上げ、江戸から送り込んだ浪士により京都で狼藉を働く浪士を取り締まろうとしました。これが「浪士組」です。
c0187004_12592875.jpg 「浪士組」は、文久3年(1863)2月8日、小石川伝通院に集まり、京に向けて中山道を上洛し、23日に京都に到着し、八木家など壬生村の郷士宅に寄宿しました。
 到着早々に清河八郎が、浪士組を、攘夷運動の先兵に利用としていた本当の狙いを伝えたため、将軍家茂が入京する前日の3月3日に浪士組には帰還命令が出されました。
 この時に、江戸に戻ることに反対して、京都に残ったのが芹沢鴨や近藤勇を中心とするメンバーです。これが新撰組となります。
 芹沢鴨や近藤勇たちは、壬生の八木家に寄宿していました。そのため、後に八木家が新撰組の屯所となりました。
 3月10日残留希望者17人が会津藩に滞京許可の嘆願書を出します。これに名を連ねた人々は、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三、山南敬介、沖田総司などです。
 加茂行幸の翌日の3月12日、会津藩が、滞京希望の浪士17人を預かることになりました。

 3月13日、清河八郎ら大部分の浪士組は、江戸に向けて京都を出発しました。
 残留した浪士たちは、従来から寄宿していた壬生の郷士八木家を屯所とし、「壬生村浪士屯所」の看板を掲げました。
そのため、「壬生浪士」と呼ばれました。この時には、メンバーは24名になっていました。
 新撰組と称するのは、八月十八日の政変以降であったと言われています。
 
 c0187004_1259445.jpg 八木家は、戦国時代末期に越前の戦国大名となった朝倉家の一族で、朝倉家滅亡のとき八木姓を名乗ったのが初めとされているようです。
 その後、壬生に移って郷士となったといいます。
 菩提寺が壬生寺で、先祖代々壬生狂言の世話役をしています。
 八木家の建物は、長屋門(左上の写真)が文化元年(1804)、主屋(右写真)が文化6年(1809)に建設されたもので、現在京都市の有形文化財の指定を受けています。


 八木家については、2011年 09月 14日付で「八木家(壬生③ 京都幕末史跡めぐり)」でも書いていますので、そちらもご覧ください。
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by wheatbaku | 2012-08-21 12:52 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
下鴨神社と孝明天皇賀茂行幸(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、下鴨神社と孝明天皇賀茂行幸です。

 下鴨神社のご祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
 玉依姫命(たまよりひめのみこと)は賀茂氏の祖神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の子で、賀茂川の川上から流れてきた丹塗(にぬ)りの矢によって身ごもり、別雷神命(わけいかづちのみこと)を生んだといいます。
 別雷神命は上加茂神社の御祭神ですので、下鴨神社の御祭神は、上加茂神社の御祭神の母神と祖父神を祀っていることになります。
 そこで、下鴨神社は正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と呼ばれます。
 
 下鴨神社の社殿は、文久3年(1863)再建の国宝の本殿二棟のほか重要文化財の殿舎が五十三棟など多数あります。そのうち主要なものを紹介します。

【楼門】
c0187004_10265315.jpg 重要文化財である楼門は高さ30メートルあります。
 楼門、東西の廻廊(かいろう)とも式年遷宮寛永5年度(1628)造替だそうです。
 それまでは、21年ごとの式年遷宮ごとに造替されてきましたが寛永度以降は解体修理をして保存されています。

【中門】
c0187004_10271720.jpg 楼門を入ると、舞殿があります。舞殿も重要文化財です。
 その舞殿の奥に中門があります。
 中門をくぐると「干支の守護神(言社)」(重要文化財)が並んでおり、正面に幣殿があります。
 現在の中門は、寛永5年(1628)に建て替えられたものといわれ、重要文化財に指定されています

【幣殿(へいでん)】
c0187004_10303178.jpg 幣殿は一般の神社の拝殿に相当し、ここから奥の本殿に向かって拝礼をします。
 一般の拝殿を想像していたのですが、少しイメージが違うので一寸ビックリしました。
 幣殿は国の重要文化財に指定されています。幣殿から奥の本殿に向かってお祈りをします。

【本殿】
 幣殿の奥に国宝の本殿がありますが、通常は近づくことはできません。
c0187004_10312156.jpg そのため、通常、本殿は格子越しにしか見ることができませんが、私が行った時期は、夏の特別公開でしたので、本殿を拝観することができました。
 本殿は東西2棟あり、西本殿と東本殿があります。西本殿は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)東本殿には、玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
 東西2棟の本殿はともに「流造り」で、屋根は檜皮葺の建物で、幅は三間でさすが国宝と思わせる立派な建物でした。   
 しかし、写真撮影禁止でした。そこで、本殿の脇にあり日頃は非公開の三井神社の写真を載せておきます。
 三井神社は、下鴨神社の祭神玉依媛命(たまよりひめのみこと)とその両親神が祀られています。
 なぜ三井神社というか由来は不明です。

【細殿(ほそどの)】
c0187004_1032435.jpg 「細殿」は、歌会、茶会などが行われる殿舎です。歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白の賀茂詣の時に、歌会などが行われた社殿です。
 後で述べるように文久3年の賀茂行幸の際には、将軍家茂の待所になりました。
 寛永5年(1628)に建て替えられたもので、重要文化財です。

 さて、加茂行幸について書きます。
 家茂が上洛して二条城に入った文久3年3月4日に、朝廷から、3月11日に行われる下鴨神社と上加茂神社に攘夷祈願のための行幸へ供奉するよう命じられました。
 天皇の御所以外への行幸は、寛永3年の後水尾天皇の二条城行幸以来ありませんでした。
 慶安4年(1651)の後光明天皇による仙洞御所への行幸から数えても実に212年ぶりのことだそうです。
 上加茂神社での記録では、後醍醐天皇の建武元年(1334)の行幸以来529年ぶりのことでした。
 3月11日の午前2時頃(真っ暗なうちですね)に二条城を駕籠で出発した家茂は、施薬院で単の衣冠に替え、午前6時頃轅に乗り宜秋門から参内し、麝香の間で鳳輦(ほうれん)の出発を待ちました。
 そして、10時頃出御した天皇が乗る鳳輦(ほうれん)を紫宸殿の回廊で拝しました。
c0187004_10355662.jpg  50余人に担がれた鳳輦は、建礼門を出て、さらに外構九門のうちの清和院御門を通り御所を出発しました。

 左写真が、清和院御門です。三条実美をお祀りしている梨木神社の鳥居の近くにあります。

 鳳輦に従ったのは、関白鷹司輔熙、右大臣二条斉敬 、内大臣徳大寺公純、大納言近衛忠房など53人でした。
 武家は、岡山藩主池田茂政が先陣を務め、家茂は後陣で鳳蓮に従いました。家茂の後に一橋慶喜が進み、その後方に老中たち幕府役人が続きました。松平春嶽は参加しなかったようです。
 当日は雨だったそうです。

 下鴨神社には午前11時ごろ到着しました、
 家茂は、一の鳥居前で馬を下り、鳳輦は下鴨神社境内を進み、天皇は中門下で鳳輦を降り、幣殿にて拝礼を行いました。家茂は、その間、中門を潜らず、細殿で待機していました。
 上加茂神社に向かったのは午後1時ごろでした。
 上加茂神社には、午後4時前に着き、上加茂神社を出発したのは午後6時ごろでした。
 御所に帰り着いたのは夜半で、家茂が二条城にかえりついた時には日付が変わっていたそうです。
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by wheatbaku | 2012-08-20 10:53 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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