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大岡越前と弁護士会館・西大平陣屋(江戸検お題「徳川将軍15代」)
大岡越前守忠相は、名奉行として有名ですが、江戸の町政にも力を発揮したことは以前書きました。
 しかし、経済官僚についてはまだ書いていないので、今日は、経済官僚としての大岡越前守忠相について書いてみます。

 将軍吉宗は、「米公方(将軍)」と呼ばれ、米価対策に力をいれました。
c0187004_933356.jpg 新田開発により耕地面積は増え幕領は約400万石から50万石増え約450万石となりました。
 さらに、①定免法の採用、②有毛検見法の採用、③「三分一銀納」の採用による増徴策  により年貢が増加しました。そのため市場に出回る米が増加しました。
 すると米価が下がってきました。当時、武士は給料を米でもらっています。米価が安くなるということは、武士の給料が安くなるということになります。
 そこで、米価を上げようと努力したのです。
 そのため、①「空米取引」の容認、②堂島米会所の設置、③江戸への米の入荷統制、④幕府による米の買い上げ、⑤酒造りの奨励などの米価上昇施策を講じます。
 こうした吉宗の米価対策を実際に商人等に徹底したのは大岡越前守忠相でした。

 また、米価は安くなる一方で、物価は高くなっていきました。
c0187004_94045.jpg そこで、大岡越前守忠相は物価対策にも力をいれています。
 大岡越前守忠相は、物価安定のため、真綿・布・繰綿・紬・晒・ほうれい綿・木綿・米・水油・蝋燭・蝋・魚油・茶・醤油・薪炭・たばこ・味噌・酢・塩・酒・紙・畳表の組合を結成させました。
また、「物価引き下げ令」の発布しました。この令により、不当に油高騰をさせた水油問屋を摘発し過料千両を課しています。
 このように大岡越前守忠相は、経済政策にかなりの時間を割いて取り組んだと言われています。

 その大岡越前守忠相は、元文元年(1736)19年間務めた 南町奉行から寺社奉行に異動しました。
 その時、石高2000石加増されました。
 さらに、寛延元年(1748)に 奏者番を兼帯することになり、4080石増され、合計1万石となり、大名となりました。これにより三河国西大平藩が成立しました。
 江戸の町奉行から大名になったのは大岡越前守忠相だけです。

 その大岡越前守忠相の上屋敷は、現在の霞が関にありました。
 東京メトロ丸の内線「霞が関」駅のB1aもしくはB1b出口をでると、弁護士会館があります。(最上段右写真)
c0187004_94285.jpg そして、隣は簡易裁判所、家庭裁判所があります。
 ここに、江戸時代、大岡越前守忠相の上屋敷がありました。
 名裁判官と呼ばれた大岡越前守忠相の屋敷跡が裁判所や弁護士会館になっていることが不思議に思えます。
 弁護士会館の左手の植込み(ちょうど地下鉄からの出口の上にあたります)に説明板があります。(左上写真)
 また、法務省の赤レンガ棟(旧法務省本館、左写真)の敷地内に,大岡越前守屋敷跡にあった3個の庭石と二基の石灯籠が置かれているそうです。旧司法省建設の際に,その屋敷跡から移転されたと伝えられています。
 しかし、残念ながら、赤レンガ棟は法務資料展示室を除いて一般の人に公開していないので見ることはできません。

 大岡越前守忠相が藩主となった西大平藩は、三河国岡崎藩の隣にありました。
c0187004_944486.jpg 東海道の岡崎の宿の手前で、東海道が領地内を通過しています。
 なかなか重要なポイントを知行していました。
 西大平藩の陣屋が復元されています。陣屋は旧東海道からほんの少し北に入った場所に建てられています。
 西大平藩は定府大名で、参勤交代がありませんでした。
 そのため、藩主は江戸屋敷詰であったため、郡代・郡奉行・代官など多い時で12~13人程度が陣屋に詰めていただけのようです。意外に少人数で治めていたんですね。
大岡忠相自身も江戸屋敷詰であったため、実際にこの陣屋に住んだことはありません。
 右写真のように西大平陣屋の門構えと塀が大変立派なのに驚きました。

 赤印が弁護士会館です。 青印が赤レンガ棟(旧法務省本館)です。
 
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by wheatbaku | 2012-09-30 09:02 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
井澤弥惣兵衛と心法寺 (江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、新田開発について書いていきます。
 
 吉宗は、緊縮財政で支出を抑えると同時に税収の増加を図るため、幕府の財政再建策の目玉として新田開発を積極的に奨励しました。
 享保7年(1722)7月26日、日本橋に新田開発を促すための高札を立てました。

一、諸国御料所又は私領と入組候場所にても、新田に成るべき場所これ有るに 於ては、其所の御代官、地頭并百姓申談じ、何も得心の上新田取立候仕形、 委細絵図書付にしるし、五畿内は京都町奉行所、西国、中国筋は大坂町奉行 所、北国筋、関八州は江戸町奉行所え願出ずべく候。
 (以下略)
  享保七年寅七月廿六日 奉行」

c0187004_1145987.jpg これにより、新田開発が大いに進みました。
 この新田開発に多大の貢献をした人物が何人かいますが、井澤弥惣兵衛(いざわやそべえ)もその一人です。
 新田開発の高札が出された2ヶ月後、井澤弥惣兵衛は吉宗に召し出され、享保8年(1723)7月18日御勘定に就任しました。伊澤弥惣兵衛は、吉宗が紀州藩主時代に治水土木で活躍していたためです。弥惣兵衛55歳でした。
 弥惣兵衛は享保10年(1725)勘定吟味役格となり、享保16年(1731)勘定吟味役、さらに享保20年(1735)には美濃郡代を兼務するなど取り立てられました。
 弥惣兵衛は治水土木の技術にすぐれ、「紀州流」の技術を関東に持ち込んだと言われています。

 弥惣兵衛の業績の代表的なものは、享保13年(1728)の武蔵国見沼代用水開削および見沼新田開発です。
 武蔵国足立郡(現在のさいたま市)の東部に見沼溜井といわれた周囲40数kmに及ぶ大きな沼がありました。 この見沼溜井は周辺の潅漑用水源となっていました。
 弥惣兵衛はこの見沼溜井を干拓し新田開発する計画を立てました。
 そこで、干拓地と溜井の水を利用していた村々の水を確保するために、利根川右岸の下中条村(現行田市)で取水し、浦和・川口方面にと全長60kmに及ぶ用水路を作りました。
 これが見沼代用水です。見沼の代わりなので見沼代用水とよばれました。
 享保12年(1727)8月から工事開始し、着工後6ヶ月という超短期間で完成させたものです。
 さいたま市緑区の見沼自然公園には、井沢弥惣兵衛の銅像が建てられています。
 
c0187004_11161055.jpg 井澤弥惣兵衛は、元文3年(1738)3月1日、85歳でなくなりました。
 弥惣兵衛のお墓は四谷の心法寺にあります。(右下段写真)
 心法寺は、もともと三河で創建され、家康の江戸入府に伴い、慶長2年(1597)現在地に創建された浄土宗のお寺で、千代田区内で、唯一墓所をもつ江戸時代からある寺院です。
 JR四谷駅より徒歩3分ほどです。(左写真)


 また、吉宗は町奉行の大岡越前守忠相を、関東の農政を担当する関東地方(じかた)お用掛を兼任させました。
 農政はもともと町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことでした。また、大岡越前守忠相は、この職に23年間在職していて、勘定奉行でもこれほど長く在職した人はいませんでした。

 大岡越前守忠相は、地方(ぢかた)巧者と言われる田中丘隅、蓑笠之助正高、川崎平右衛門等を登用し新田開発を積極的に奨励しました。
た。
c0187004_11162437.jpg 田中丘隅(たなかきゅうぐ)は、秋川で生まれ、「川崎宿」の名主の養子となり、川崎宿の本陣・名主役・問屋役の3役となりました。
 荻生徂徠に学び、「民間省要(みんかんせいよう)」を書き、享保8年(1723)、支配勘定格に抜擢されました。
 そして、享保14年(1729)には、支配勘定格の代官に取り立てられました。

 蓑笠之助正高は、享保14年幕府に召し出され,大岡忠相の支配下に入り,、関東の天領の支配,酒匂川の普請なども行ないました。
 農政,治水に通じ,田中丘隅の娘と結婚しています。元文4年(1739)代官となりました。

 崎平右衛門は、現在の府中市押立町の名主でした。
 武蔵野新田を開発した平右衛門は、その功績により寛保3年 (1743)、大岡越前守の支配下の支配勘定格になりました。
 延享2年(1745)には、美濃国本巣郡の代官となり、さらに宝暦12年(1762)、石見国大森代官を任じら、明和4年(1767)、勘定吟味役となりました。
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by wheatbaku | 2012-09-28 10:59 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
青木昆陽と目黒不動(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、青木昆陽について書いてみます。
 
 青木昆陽が飢饉対策としてサツマイモの普及に努力したことは有名な話です。
 青木昆陽の活躍も、将軍吉宗と大岡越前守忠相のバックアップによります。

 青木昆陽は、通称は文蔵といい、昆陽は号です。
 日本橋の商家の出と言われていますが、異説もあるようです。
 京都で儒者の伊藤東涯に学んだ後、江戸に戻りました。そして、南町奉行所与力加藤枝直(えなお)と知り合いになり(枝直の屋敷内に住んでいたと言われます)、加藤枝直の紹介により大岡越前守忠相に取り立てられました。

c0187004_11433173.jpg そして、享保20年(1735)、「蕃薯(ばんしょ)考」を書いて将軍吉宗に飢饉対策用に甘藷(サツマイモ)の栽培を進言しました。、
 徳川吉宗はこの献言を採用し、小石川御薬園で試作させました。
 小石川植物園には「甘藷試作跡碑」があります。大正10年に建てられたものです。(右写真)
 さらに、下総国馬加(まくわり)村(現在の千葉市花見川区幕張)、上総(かずさ)国不動堂村(現在の千葉県九十九里町不動堂)にて試作し、甘藷の普及に努力しました。

c0187004_11441015.jpg その後全国に甘藷の栽培が普及して、天明や天保の大飢饉にも餓死するものがいなかったといいます。彼は、その功績によって「甘藷(かんしょ)先生」とよばれるようになりました。

 また、青木昆陽は、吉宗の命で野呂元丈(のろげんじょう)とともにオランダ通詞からオランダ語を学び『和蘭話訳』『和蘭文字略考』を著しました。
 オランダ語研究の端緒となり、彼の門人には前野良沢がいます。そして、前野良沢と杉田玄白による『解体新書』の翻訳につながっています。

 青木昆陽のお墓は、目黒のお不動様(瀧泉寺)にあります。
 これは、生前に遺言として、「死後は目黒に葬る」ように言い残したためだそうです。
 墓碑銘に「甘藷先生墓」と刻まれています。(左写真参照)

c0187004_11442367.jpg 青木昆陽のお墓は、目黒のお不動様の本堂からは少し離れた所にあります。本堂の脇を通って、本堂の裏に出て東に少し行った墓所の一画にあります。
 また、目黒の不動様には、甘藷組合が明治44年に建てた「昆陽青木先生之碑」や芝・麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」があります。
 本堂の下にある独鈷の滝の西側に建てられています。(右写真参照)
 毎年10月28日の目黒不動の緑日には、青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が催されているそうです。


 赤印が青木昆陽のお墓です。 青印が「昆陽青木先生之碑」と「甘藷講碑」です。

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by wheatbaku | 2012-09-27 11:50 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
水野忠之と水野監物邸跡碑(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、享保の改革で吉宗をしっかり支えた重要人物水野忠之について書きます。
 享保の改革というと大岡越前守忠相がすぐ出てきますが、水野忠之も吉宗に信頼され重要な役割を果たした人物です。また、それだけでなく、赤穂浪士の関係者でもあります。

8代将軍吉宗は、老中を中心とした譜代大名の支持により、将軍に就任しました。
 そのため、吉宗が将軍に就任した時の老中たちに相当気を遣いました。
c0187004_1632574.jpg 吉宗が将軍に就任した時の老中は、土屋政直、井上正岑、阿部正喬、久世重之、戸田忠真の5人でした。
 吉宗はこれらのいわゆる「援立の臣」を大事にして、老中の入れ替えは行いませんでした。
 そのため、老中たちは、綱吉・家宣時代と異なり、それなりにモノが言える力関係にありました。
 しかし、吉宗は、徐々に自分の意思を通すようになってきました。
 吉宗が将軍になってしばらくして、5人の老中たちに試問しました。
 土屋政直は3問中2問答えることができましたが、井上正岑は一年の年貢収納高を答えられなくて、久世重之は江戸城の櫓の数を答えられず、阿部正喬、戸田忠真も吉宗の質問に答えられませんでした。
 これが老中たちが吉宗に頭の上がらなくなる始まりだったようです。
 しかし、吉宗は、このような老中たちの入れ替えを急いで行うことはしませんでした。
 この中からまず、享保2年(1717)に阿部正喬が辞任しました。その直後に吉宗が初めて任命した老中が水野忠之です。ついで翌享保3年(1718)に土屋政直が辞任します。そして享保5年(1720)に久世重之が、享保7年(1722)に井上正岑が死去します。
 それでも、吉宗は新しい老中を任命しませんでした。
 この時点での老中は、水野忠之と戸田忠真でした。
 しかし、この時は、まだ戸田忠真が現職の老中として残っていましたが、既に72歳の高齢であり、消極的な性格であったといいますから、吉宗としては特に遠慮する必要はありませんでした。
 そこで、享保7年(1722)5月15日に、水野忠之を勝手掛老中に任命します。

 吉宗政権における享保の改革の中心人物となった水野忠之は、三河国岡崎藩5万石の藩主です。右最上段写真は岡崎城の写真です。
 水野氏は、徳川家康の母於大の実家で、譜代の名門です。
c0187004_9222100.jpg さらに、家康誕生の地岡崎を知行しているわけですから、譜代大名は、水野忠之の就任に文句は言えなかったと思います。
 岡崎藩主としての水野家は、水野忠善から始まります。水野忠善は三河吉田藩(現在の豊橋)藩主でしたが、かねてより岡崎藩主を希望していて、正保2年に転封となりました。
 そのお礼に奉納した石鳥居が滝山東照宮に現存しています。左上写真は、水野忠善が奉納した石鳥居です。
 水野忠之は、その忠善の孫になります。

 水野忠之が勝手掛老中に就任すると、彼を中心として、改革政治が行われました。
 まず、就任早々の享保7年7月3日に、上米(あげまい)の制が導入されます。
 これは1万石について100石の割合で米を幕府に上納させるということです。
 その代わり、参勤交代を緩め、江戸滞在を半年ずつ免除するという政策でした。

 この他、水野忠之は、年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、幕府を財政危機の窮地から救いました。しかし、その一方で、社会全体が不況となり、旗本・御家人が貧窮に陥ることとなりました。そのため、人々の非難が水野忠之に集中することとなりました。
当時流行した落書に、「無理で人をこまらせる物、生酔と水野和泉守(水野忠之のこと)」と詠まれるほどでした。
 水野忠之は享保15年に老中を辞任しましたが、人々の非難の責任をとらされて罷免されたという説もあります。

 水野忠之は、赤穂浪士にも大変関係しています。
c0187004_16322271.jpg 元禄15年(1702)12月14日に赤穂浪士が吉良邸に討ち入り吉良上野介の首をあげた後、幕府は赤穂浪士46人を大名4家に預けました。
 その際に、水野家は、奥田貞右衛門行高、茅野和助、神崎与五郎、間 重次郎、間瀬孫九郎、三村次郎左衛門、村松三太夫、矢頭右衛門七、横川勘平の9名の預かりを命じられ、三田の中屋敷で預かりました。
 この時の藩主が水野忠之でした。33歳の時でした。
c0187004_16323741.jpg 三田の中屋敷は、現在の田町駅と慶応大学の中間あたりにあったようで、「水野監物邸跡」と書かれた港区の案内板が、慶応仲通り(東京都港区芝5-20-20)にあります。
 (右上写真と左写真参照)
 JR田町駅から慶応大学正門に向かう小路の田町駅寄りの路地奥です。
 大石良雄らをあずかった細川家とともに水野家も赤穂浪士をよくもてなしました。
 そのため、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌に歌われました。
 これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものです。

なお、天保の改革を行った水野忠邦は、忠之の6代後の子孫です。
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by wheatbaku | 2012-09-26 10:08 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
目安箱・養生所と小石川植物園(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日からまた「徳川将軍15代」関連の話題に戻ります。 
 大岡政談で名高い大岡越前守忠相は、裁判だけを担当していたわけではありません。
 町奉行は、現在でいえば都知事と警視総監と東京地裁所長を合わせた職務を担当していました。
 そのため民政でも活躍します。
 その功績の一つが小石川養生所ですが、小石川養生所は、将軍吉宗と大岡越前守忠相のコンビで実施した施策です。
 小石川養生所は目安箱への提言をもとに実施されたものです。

【目安箱】
 「目安」 とは訴状のことで、「目安箱」は幕府に対する要望や不満を、直接将軍に 直訴させるために、享保6年(1721)に設置されました。
c0187004_1024853.jpg 目安箱には鍵が かけられ、毎月三度、江戸城辰ノ口の評定所の前に置かれました。
 より詳しく書くと、箱は鍵が掛けられた状態で評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回設置されました。
 目安箱の大きさは、約75センチ立方、上には銅板がはられ約センチ四方の穴があけてあり、前部に鍵がかけられていました。
 目安箱は側近により吉宗の前まで運ばれ、投書は将軍自らが開封しました。
 目安箱は、後述するように大変効果があり、享保12年からは京都・大坂に、元文元年(1736)からは駿府・甲府にも設けられました。
 この制度は、吉宗が紀州藩主の時に和歌山城の門外に「箱」を置いて意見を求めたことがルーツといわれています。
 目安箱が置かれた評定所は、現在は、三菱地所が建設した「iiyo!!(イーヨ!!)」となっています。(右写真)

【小石川養生所】
 浪人山下幸内(こうない)が吉宗の緊縮政策を批判した上書を投じて評判になったのをはじめ、この目安箱への提案から多くの施策が実現しています。
c0187004_9564199.jpg  その中で有名なのが「小石川養生所」の開設です。
 投書したのは、小石川伝通院前で 町医者を開業していた小川笙船(しょうせん)でした。
 投書を受けて、養生所が享保7年(1722年)12月に小石川薬園内に開設されました。
 小石川御薬園は、現在は小石川植物園となっています。(右写真が小石川植物園の正門です。)
 養生所の収容人数は40名で、診療費、食費などはすべて無料で、衣類も支 給されました。
 そのため利用者は年を追って増 え、開設当初は40名だった定員も、翌享保8年100人、享保14年150人と増員されました。その後享保18年からは117名とされ以後幕末まで続きました。
c0187004_15525393.jpg 入所手続きは、まず願い人から家主、または親類・店請人(たなうけにん)・相店(あいだな)の者から町奉行所に願い出て、それから名主または月行事(がちぎょうじ)の印鑑をもらって養生所に願い出ました。しかし、享保8年7月からは町奉行所に願い出るのは不要とし。直接養生所に願い出るように改めました。
 養生所は、町奉行支配に属し、与力が2名養生所見廻り、同心が6名下役として担当しました。
 医師は本道(内科)・外科・眼科に分かれ、総計で9名のち5名で担当しました。小川笙船の子孫が代々肝煎を務めました。
 はじめは寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていましたが、天保14年(1843)からはすべて町医師が担当しました。

 小石川養生所が開設されたのは小石川御薬園の中でした。 
c0187004_1553264.jpg 御薬園というのは、薬草を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に設置されましたが、やがて大塚の薬園は護国寺建立のため廃止されて麻布に移設されました。
  小石川植物園のある場所は、5代将軍綱吉が将軍就任以前の館林藩主時代の屋敷で、もと白山神社があった場所であるため白山御殿と言われ、また小石川御殿とも言われていました。
 綱吉が将軍に就任した後はここが御薬園となりました。
 貞享元年(1684)に、麻布の薬園を小石川御殿跡に移設したものが小石川御薬園です。

 小石川御薬園は明治以後、東京大学に移管され、現在は東京大学付属小石川植物園となっています。
 小石川植物園には、養生所の名残りを示すものとして井戸が残されています。(左中段写真は全体、右下段写真は井戸部分)
 この井戸水は関東大震災の際に避難した人々の飲料水として使用されたそうです。
 





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by wheatbaku | 2012-09-24 15:50 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
山岡鉄舟旧居跡、津軽家上屋敷跡(本所散歩 大江戸散歩) 
 本所散歩の2日目です。

【山岡鉄舟旧居跡】
 幕末から明治にかけて活躍した剣術家の山岡鉄舟の生家小野家が竪川中学校の正門あたりにありました。
 説明板は右下写真のように堅川中学の正門脇に建てられています。
 山岡鉄舟の山岡姓は、養子に行った先の姓で、生家は小野姓でした。
c0187004_9432619.jpg 山岡鉄舟は天保7年(1836)6月10日、御蔵奉行だった旗本小野朝右衞門高福(たかとみ)の五男として生まれ鉄太郎と名付けられました。
 母は塚原磯といいますが、小野朝右衛門が最初の妻と死別したため、塚原磯を後妻として娶りました。鉄太郎は朝右衛門と磯の間にできた初めての子供でした。
 塚原磯は鹿島神宮神職の塚原石見の二女で、先祖に塚原卜伝がいます。
 そうした母親の影響からかもしれませんが、山岡鉄舟は、幼いころから、剣術を学びました。
 数え年9歳で久須美閑適斉に真影流を学びはじめました。
 そして、弘化2年(1845)、父が飛騨郡代となったため、小さい頃は飛騨高山で過ごしました。高山では、父が招いた井上八郎清虎から北辰一刀流を学びました。井上八郎清虎は、北辰一刀流の千葉周作の門人で、海保帆平(はんぺい)とともに玄武館の龍虎といわれた剣豪でした。
 そして、嘉永5年(1852)、数え年17歳の時に父が死んだため、江戸へ帰り、師匠の井上清虎の紹介で千葉周作に剣術を学びました。
 また同じころ、槍の名人と言われた山岡静山(紀一郎)に槍を学びました。しかし、山岡静山が27歳で急死して跡継ぎがいなくなったため、静山の弟精一(のちの高橋泥舟)に望まれて、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡姓を名乗ることになりました。
 
 鉄舟の義兄ともなった槍の名手高橋泥舟は、母方の旗本高橋家に養子に入っていたため、山岡家を継ぐことができなかったようです。そのため、静山の弟子の中で傑出していた小野鉄太郎に依頼したようです。
 勝海舟山岡鉄舟と高橋泥舟はの三人は「幕末の三舟」として知られていますが、山岡鉄舟と高橋泥舟は義兄弟だったわけです。

【津軽家上屋敷跡】
 現在のほくさい通りと総武線の間にある緑町公園あたりは、江戸時代、弘前藩津軽家上屋敷がありました。
 左下写真は緑町公園の中に建てられている説明用高札です。 
 切絵図には、南割下水から南に大きな屋敷がありました。
c0187004_9453790.jpg 現在のほくさい通りから、南は、現在の京葉道路でまでで、約8000坪程あったと言います。
 実は、本所に上屋敷のある大名というのはあまり多くありません。
 幕末の切絵図を見ても弘前藩津軽越中守、平戸新田藩松浦豊後守、陸奥黒石藩津軽式部太夫の3家しかありません。
 しかも、大藩で本所に上屋敷があるのは弘前藩津軽家だけです。
 津軽家が本所への屋敷替えを命じられたのは元禄元年8月20日のことです。神田にある上屋敷、浅草にある中屋敷を本所に移すように命令を受けました。
 なぜ津軽家の上屋敷が本所にあるのだろうと疑問に思います。これには次のような事情があったようです。
 下野国烏山藩の御家騒動が起き幕府の裁定により烏山藩主の那須家が改易とされました。烏山藩主那須資徳が津軽信政の子供であったため、那須家改易処分に関係して津軽藩主津軽信政が閉門処分を受け、さらに追加罰として屋敷替えが行われたと江戸っ子には受け止められました。

 本所七不思議のひとつに「津軽の太鼓」というのがありあます。
 昔から、大名屋敷の火の見櫓は、板木(ばんぎ、版木とも書く)の連打で火事を知らせると決まっていました。
 それなのに、本所の津軽越中守の屋敷だけは、火の見櫓に「太鼓」がぶらさがっていて、火事のときは太鼓が鳴らされました。
 なぜ、津軽屋敷だけが「太鼓を許されているのか」と不思議がられたため、本所七不思議の一つに数えられました。
 これは、元禄13年3月に出たお触れにより、本所に屋敷のある大名は太鼓を打って火事を知らせてもよいようになったので、津軽家では太鼓が打てるようになったようです。


赤印が、山岡鉄舟旧居跡です。  青印が、津軽家上屋敷跡の緑町公園です。
拡大してご覧ください。


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by wheatbaku | 2012-09-24 09:48 | 大江戸散歩 | Trackback
鬼平・金さん屋敷跡と海舟揺籃の地(本所散歩)
 昨日は、毎日文化センターの受講生の皆さんと「本所散歩」を楽しんできました。
 暑さもようやく収まり、散歩に良い季節になってきました。
 ガイドする方も熱中症の心配をする必要がなくなり一安心です。

 さて、昨日の「本所散歩」のルートは次のようなコースです。
都営地下鉄新宿線「菊川」駅 ⇒ 長谷川平蔵遠山金四郎旧居跡 ⇒ 榎稲荷神社 ⇒ 元徳稲荷神社 ⇒ 赤穂浪士隠れ家跡 ⇒ 撞木橋 ⇒ 長谷川平蔵屋敷跡 ⇒ 時の鐘跡 ⇒ 勝海舟揺籃の地 ⇒ 勝海舟旧居跡 ⇒ 山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 新徴組屋敷跡 ⇒ 河竹黙阿弥終焉の地 ⇒ 三遊亭圓朝旧居跡 ⇒ 野見宿禰神社 ⇒ 葛飾北斎生誕の地 ⇒ 津軽家上屋敷跡 ⇒ 江川太郎左衛門屋敷跡 ⇒ 榛稲荷神社 ⇒ 両国駅

 いくつか主要な見どころを今日と明日2回にわけてご紹介します。

【長谷川平蔵遠山金四郎旧居跡】
 都営地下鉄菊川駅の周辺に、「鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の屋敷がありました。さらに、不思議なことには、この同じ場所にドラマや芝居でお馴染みの「遠山の金さん」こと「北町奉行遠山金四郎景元の屋敷でもありました。
 c0187004_17383783.jpg そのため、菊川駅A 3番出口に、右写真のように説明板が建てられています。説明板の後ろに見えるのが菊川駅の出口です。

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享3年(1746) 赤坂に生まれ、父平蔵宣雄(のぶお)の屋敷替えによって、鉄砲洲に移り、平蔵19歳の明和元年(1764)、築地からここの1238坪の邸に移りました。
 平蔵は、天明6年(1768)に御先手弓頭となり、翌天明7年42歳の時に、火付盗賊改に就きました。
 火付盗賊改は、自分の屋敷を役宅とします。
 そのため、菊川の屋敷には、白洲や仮牢が設けられていました。
 白洲は2間に3間つまり6坪の広さで、仮牢は9尺に3間ほどの広さだったようです。
 長谷川平蔵宣以は、寛政 7年(1795)、50歳の時に病気になりここの屋敷で亡くなりましたが、亡くなる直前まで火付盗賊改を続けていますので約8年間火付盗賊改だったことになります。
 火付盗賊改は、通例でも2~3年で、長いといっても3~4年ですので、これは異例のことです。 

 長谷川平蔵がなくなって孫の平蔵宣昭の時、弘化3年(1846)に、この地は遠山金四郎景元の下屋敷となりました。 c0187004_17385770.jpg 駒込の遠山金四郎の屋敷に長谷川平蔵宣昭が入り、菊川の屋敷と交換になりました。
 なお、遠山家の上屋敷は、芝愛宕下にありました。
 遠山金四郎は天保11年(1840)に北町奉行に就任しています。その後、大目付に転任した後、弘化2年(1845)に南町奉行に復帰していますので、南町奉行時代に屋敷替えが行われたことになります。
 奉行所には、表と奥があり、 町奉行は奉行所で暮らします。まして菊川の屋敷は下屋敷でしたので、遠山金四郎が、ここで暮らしていた時間は少ないと思います。
 左上の碑は、菊川の駅から東に少し離れた丸山歯科医院の前に建てられています。

「勝海舟揺籃之地」と勝海舟旧居跡   
 京葉道路南側(墨田区緑4-21-2)にある坂田建設の建物入り口を「勝海舟揺籃(ようらん)之地」の碑があります。(右下写真)
c0187004_1032443.jpg 勝海舟は、現在は両国公園となっている当時男谷精一郎の屋敷で生まれました。
 海舟が生まれてしばらくした後、父の勝小吉は、男谷家を出て、南割下水の天野右京、次いで出口鉄五郎の敷地に移った後、本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地に移りました。
 本所での生活では、この入江町が一番長く、8歳から23歳まで住み、地主の岡野とは深いつきあいになり、のちに海舟が妻をもらう時に、一度岡野の養女にしてから結婚しています。
  ちなみに海舟は、22歳の時、弘化2年(1845)に結婚しています。妻の名は民子と言い、2歳年上で、深川の芸者でした。そこで岡野孫一郎の娘ということにして結婚しました。
 そして、結婚の翌年海舟は赤坂に転居しています。

 しかし、切絵図を見ると岡野孫一郎の屋敷は、もう少し北側にあったこととなっています。
 c0187004_1036546.jpg坂田建設のある場所は、幕末の切絵図を見ると町人町の入江町となっています。実は、勝海舟の父、勝小吉が住んでいて、海舟が育った場所は、現在の江東橋保育園が1階に入っている「すみだふれいセンター」(墨田区緑4-35-9)あたりのようです。(左写真)
 そのため、墨田区の案内図でも、最近では、こちらが勝海舟の旧居跡と紹介されています。

 赤印が「勝海舟揺籃之地」の碑がある坂田建設です。 青印が江東橋保育園です。
 京葉道路の北と南に分かれていますが距離は50メートルほどしか離れていません。

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by wheatbaku | 2012-09-23 10:08 | 大江戸散歩 | Trackback
大岡政談と常照院(江戸検お題「徳川将軍15代」)
今日も大岡越前守忠相の話題です。
 大岡越前守忠相は、名奉行とされています。
 この名奉行というのは名裁判官という意味です。
 この評価を決定づけているのが「大岡政談」だと思います。
 
 「大岡政談」は、「実母継母の子争い」「石地蔵吟味の事」「白子屋阿熊(おくま)一件」「三方一両損」「徳川天一坊」「直助権兵衛」などの裁判話でを構成されていて、すべて、大岡越前守忠相が裁いたとされています。
c0187004_109357.jpg  しかし、実際に、大岡越前守忠相が裁いた事件は、「白子屋阿熊(おくま)一件」だけです。
 他の事件は、中国や日本の古典を下敷きにして作られた話や他の奉行が裁いた事件を大岡越前守忠相が裁いたように描いているのです。
 ちなみに「実母継母の子争い」は中国の裁判実例集である「棠陰比事(とういんひじ)」に載っている話で、「石地蔵吟味の事」は、中国の明代の裁判小説「包公案」にその原型と見られる話がのっているそうです。

また、『天一坊一件』は勘定奉行稲生下野守が裁いた事件ですし、「直助権兵衛」は北町奉行中山出雲守が裁いた事件です。
c0187004_1092952.jpg 「白子屋阿熊(おくま)一件」だけが、実際に大岡忠相が裁いた事件です。
 「白子屋阿熊(おくま)一件」は、享保11年(1726)日本橋新材木町の材木商白子屋庄三郎の娘お熊と手代の忠七が密通し、養子の又四郎を毒殺しようとし、母の常も下女きくに又四郎を襲わせた事件で、容疑者が密通、毒殺未遂、殺人未遂の罪で江戸市中引き回しの上死罪獄門となった事件です。

 この話をもとに城木屋お駒と名前を変えて作られた浄瑠璃が「恋娘昔八丈」で、さらに、明治になって、河竹黙阿弥によって「梅雨小袖昔八丈」と題された歌舞伎となっています。
 この白子屋阿熊のお墓が、芝増上寺の塔頭常照院にあります。
 最上段が常照院山門で、中写真がお熊の供養墓、下が城木屋お駒の碑です。
 より詳しくは 以前書いた「常照院(芝散歩 大江戸散歩)」をお読みください。

c0187004_1095240.jpg 大岡政談では、前述のように多くの事件すべてを大岡越前守忠相が裁いたように描かれていますが、なぜこうした大岡政談ができたかという疑問が起こります。
 一つには、大岡越前守忠相が司法改革をして、庶民の尊敬を受けたからだと考えれられています。
 吉宗は将軍になると、すぐに裁判の運営改革に着手しました。
 大岡忠相を町奉行に抜擢したのもその表れです。
 大岡越前守忠相はその期待に応え、いろいろな司法改革に取り組みました。
 正徳の時代には、評定所での裁判は、役人のサボタージュで、なかなか進みませんでしたが、それを改めて、審理の促進を図りました
 また、連座制の廃止、追放刑の制限、拷問の制限、時効の制度の導入など刑罰の緩和が行われました。
 こうした裁判に直接関係する事柄の改革を大岡忠相が実施して、庶民の喝さいをあび、名裁判官にされたと考えられています。

c0187004_1018864.jpg この理由とともに名行政官であったことが名裁判官にしたと大石慎三郎学習院大学名誉教授は岩波新書「大岡越前守忠相」の中で書いています。
 そこを書き抜くと次のように書かれています。
 「本来政策官僚として評価されるべき大岡忠相が、なぜ名裁判官として「大岡政談」に定着したのだろうか。この理由はすごく単純であるように考えられる。政策官僚の評価はじつはたいへんむずかしいのであるが、庶民はむすかしい政策論争はむこうにおしやって、ただ庶民のために誠意をもって働いてくれたかどうかだけに観点をしぼり、それを名裁判という単純明快でかつ爽快な話に置き換えて大岡忠相を賛美したのであろう」と



赤印が常照院です。 増上寺の三門の手前にあります。

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by wheatbaku | 2012-09-21 14:52 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
町火消と消防博物館(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、大岡越前守忠相の業績の一つ町火消について書いていきます。
 町火消制度は、享保3年(1718)に創設されました。

 江戸は非常の火事の多い町でした。
c0187004_10574299.jpg そこで、幕府は火消制度については常に留意していました。
 しかしながら、江戸時代前半は、江戸城を火から守るという目的が優先したため武士による武家火消中心の組織でした。
 武家火消には、大名火消と定火消がありました。
 大名火消には、寛永寺・増上寺・湯島聖堂、浅草御蔵・猿江町竹蔵など幕府にとって重要な場所の消防を担当させた所々火消、江戸の町を方角などで地域割りして消防を担当させた方角火消がありました。
 さらに、明暦の大火後は、旗本による定火消が創設されました。この定火消は、火消屋敷に火消人足を常駐させ、常時、防火消火にあたらせました。
 10組だった期間が長いため、俗に「十人火消」とも呼ばれました。

 これらの大名火消と定火消は、武家屋敷中心の消火活動を行ったため、どうしても町屋の消火は手薄になりました。
 そこで、町人により町の火消を担当する町火消が、大岡越前守忠相により、享保3年(1718)に創設されました。
c0187004_10415822.jpg  そして、享保5年(1720)に、隅田川から西を担当する「いろは四十八組」、東側の本所深川を担当する16組の町火消が設けられました。
 「いろは四十八組」は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたものですが、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「百」「千」「万」「本」に変えられました。
 「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いためです。

 各組には、組を象徴する纏(まとい)が作られました。これは、戦国時代の馬印に由来があるそうです。
 写真は、「い組」の纏で、上部の球が芥子(けし)を意味し、下部の立方体が升を意味して、二つで「消します」となります。これは大岡越前守が命名したと言われています。

 享保15年(1730)には、いろは四十八組を一番組から十番組まで10の大組にまとめて、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編しました。

 東京メトロ丸の内線の「四谷三丁目」駅の上に「消防博物館」があります。(右最上段写真)
 この中では、江戸時代の消火について展示されていて、非常におもしろい博物館です。
c0187004_10431052.jpg 江戸時代中期には竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれた手押ポンプが考案されましたが、水を大量に放水することが不可能で、効果は限定的なものでした。(右写真)

 江戸は水が豊富でなかったため、江戸時代通じて、消火方法は、火事場周辺の建物を破壊して、延焼を防ぐ破壊消防という方法でした。
 そのため、最初のうちは商家の店員などで組織されていた町火消ですが、次第に建物に詳しい鳶職人中心の組織となりました。
 
 下の写真が、町火消が使った消火道具が展示されているコーナーの写真ですが、写真上部にある長い棒が「大刺股」です。これで家屋を押し倒して延焼するのを防ぎました。
 このように、消火のための道具も、建物を壊す道具が中心でした。
c0187004_10423080.jpg

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by wheatbaku | 2012-09-20 10:29 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
大岡越前守忠相と有楽町イトシア(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、大岡越前守忠相について書きます。
 吉宗が、将軍に就任すると、前政権で側近政治を行っていた新井白石や間部詮房は失脚して政治活動から姿を消していきます。
c0187004_1063750.jpg 吉宗も将軍就任に際して、元紀州藩士を起用しますが、5代将軍綱吉や6代将軍家宣の就任により、それぞれ館林藩や甲府藩が廃止され、それぞれの藩士が幕臣に身分を替えたのとの異なり、紀州藩士から幕臣に身分がかわったのは少数に止まりました。
 そもそも、紀州藩支藩の西條藩藩主徳川宗直が跡を継ぎ6代藩主となり、紀州藩が存続しました事情もありますが、紀州藩から江戸城に入った人が少ないのは、譜代大名の意向に配慮したためです。
 そして、5代、6代、7代と柳沢吉保や間部詮房などによる側近政治が、老中を筆頭とする譜代大名に非常に不人気であることに配慮し、紀州から連れてきた加納久通(かのう ひさみち)と有馬氏倫(ありま うじのり)を、呼称も側用人ではなくため、御側御用取次と変えたうえで任命し、知行も1000石に留めました。
 このように、譜代大名に吉宗が配慮したのは、8代将軍になれたのは譜代大名の推挙によるという事実を吉宗が十分認識していたことによるものです。

 しかし、吉宗は譜代大名に気兼ねするあまり、家柄に基づく人事配置をしたわけではありませんでした。
 優秀な人材の登用も図っています。代表的な人事が、大岡越前守忠相の町奉行への登用です。
 大岡越前守忠相は吉宗が将軍に就任した時は普請奉行でした。
 その大岡越前守忠相を南町奉行に抜擢しました。
 時に大岡忠相は41歳、当時の町奉行は60歳程度が普通でした。絵島生島事件を調べた坪内定鑑(つぼうち さだかね)が65歳でしたので、若手抜擢ということになります。

c0187004_1073264.jpg 大岡忠相は、延宝5年(1677)2700石の旗本大岡忠高の四男として生まれました。
 貞享3年(1686)、同族の1920石の旗本大岡忠真の養子となりました。
 将軍綱吉の時代の元禄15年(1702)には書院番となり、宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には御使番となり、宝永5年(1708年)には32歳で目付に就任と順調に昇進をしていきます。
 この順調な昇進は、大岡忠相がもともと優秀であったことを表しています。
 そして、正徳2年(1712)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行に就任しました。
 この山田奉行の時代に、山田奉行支配の山田領と紀州徳川家の松坂領との境界を巡る訴訟では、御三家の紀州藩に気兼ねせず公正に裁き、松坂領の方の非を認めさせたと言われています。
 これを吉宗が覚えていて、大岡忠相を抜擢したという逸話が残されています。
 しかし、この話は、後世に作られた話だろうというのが最近では有力です。

 さて、大岡忠相が就任した南町奉行所は、有楽町駅前の有楽町イトシア(右最上段写真)辺りにありました。
 南町奉行所は宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内移転してそれ以降数寄屋橋門内にありました。
c0187004_10134585.jpg 大岡越前守忠相も、ここで職務を執っていました。奉行所というのは役宅と呼ばれ、役所部分と自宅部分が一つになっているため、大岡越前守忠相も、ここで生活しながら町奉行の仕事をしていました。
 有楽町イトシアは平成19年に開業した新しい再開発ビルです。
 ここは、江戸時代に南町奉行所があった場所ですので、再開発に伴って埋蔵文化財の発掘調査が実施されました。
 発掘調査では、江戸時代はじめの大名屋敷跡や南町奉行所跡が発見されたそうです。
 南町奉行所の表門や裁判を執行する役所部分から、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土したそうです。
 そうした説明をしたのが下写真の説明板です。
c0187004_1075947.jpg
 遺跡発掘の際に発見された 穴倉を利用した展示コーナーが有楽町イトシアの地下1階に設置されています。
左上写真が穴倉ですが、結構大きいので驚きました。
 また、奉行所の石組材を利用した石のベンチも地下1階に作られています。(右上写真)

 有楽町イトシアといっても意外と知られていないかもしれませんので、下に地図を載せておきます。
 赤印が有楽町イトシアで、メインテナントは有楽町丸井です。
 有楽町の駅前で、すぐわかります。上の展示物は、地下1階に展示されえています。
 
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by wheatbaku | 2012-09-19 10:06 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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