<   2012年 10月 ( 30 )   > この月の画像一覧
江島杉山神社(赤穂浪士引き揚げルート4)
今日は、江島杉山(えじますぎやま)神社です。
 一之橋の南詰にあり、赤穂浪士引き揚げルートに向かって鳥居があります。
右下写真は、一の橋通りに面している一の鳥居(と呼ぶと思います。たぶん)です。
 

 江島(えじま)とは、江の島のことです。そして杉山は杉山和一という人の名前からきています。
c0187004_1783643.jpg お祀りされているのは、江ノ島弁財天(市杵島比売命)と、ハリ(鍼術)の神様・杉山和一総検校です。
 江戸時代の切絵図には「弁天社」と書かれていますし、江戸名所図会には「弁財天社」と書かれています。
 明治以降は「江島神社」となり、昭和27 年より「江島杉山神社」と改称されているそうです。


 現在の社殿は昭和27 年に再建されました
 左下写真は二の鳥居と社殿です。
 杉山和一は、ハリ(鍼術)で神様として神社に祭られている唯一人の人物だそうです。
 杉山和一は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)で藤堂藩士の嫡男として生まれました。なお、江戸名所図会には、奥羽生まれとかかれています。杉山和一の生涯については、諸説あるようで、いろいろな生涯の描き方がありますが、ここでは、神社の由緒書きに基づき書いていきます、
c0187004_1791665.jpg 幼くして疱瘡にかかり失明し、江戸に出て 山瀬琢一に 鍼術を学びました。
 しかし、記憶力がわるく技術も向上しなかったため、山瀬琢一から破門されてしまいました。
 盲目では限界があると考え、江の島弁財天に詣で岩屋に篭もり17日間の断食修行を行ないました。
 修業の満願の日に、洞窟から海岸に向かうと大きな石につまづき倒れた時に足にチクリと刺さる物があり、手に取ってみると、筒のようになった笹の葉に松葉がくるまっていました。
 これから、管鍼[くだはり・かんしん]術が考案されたと伝えられています。
 その後和一は、京都に行き 入江豊明にも 鍼術を学びますが、和一は、再び江戸に戻り、鍼の名人として有名となりました。
 c0187004_17101419.jpg 和一の評判を聞いた5代将軍綱吉が、和一を呼び自分の治療に当たらせました。その甲斐があり、綱吉の病状は回復しました。
 元禄5年(1692) 盲人の全国組織、当道座の最高位である総検校に任ぜられました。

 綱吉は和一が目が見えないのに、毎月江ノ島まで出かけて、江ノ島弁天にお参りして感謝しているのを不憫と思い、元禄6年(1693)5月16日に本所一つ目に1860坪余りの屋敷を与え、さらに弁財天像とそれを祀る神社用地989坪余りを与えました。
 このお屋敷と神社用地を拝領する際の逸話に、綱吉が和一に「何かほしいものはないか」と尋ねたら、和一が「たった一つだけ、目が欲しい」との答えたため、本所一ツ目が選ばれたと言います。

 杉山和一は、鍼治学問所をつくり、弟子の教育にも力をいれました。
 江戸時代の後期には、二の鳥居の手前・南側にその教育施設「杉山流鍼治稽古所(4間余25間)」があったそうです。

 和一の業績が認められ、大正13年2月11日に正五位が追贈されたのを記念にして作られた「贈正五位杉山検校彰徳」の石碑があります。世界に一つしかない点字の石碑です。

c0187004_17103881.jpg 和一が江ノ島弁天の岩屋にこもり管鍼術を創案したことに由緒があり、それにちなんで岩屋が拝殿の右側の奥にあります。

 杉山和一は元禄7年5月18日になくなりました。 享年85歳。 お墓は近くの弥勒寺にあり、東京都の旧跡に指定されています。
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by wheatbaku | 2012-10-31 22:36 | 忠臣蔵 | Trackback
一之橋(赤穂浪士引き揚げルート3)
 両国橋の東詰で休息した赤穂浪士一行は、泉岳寺に向かって引き揚げを開始しました。
 両国橋をスタートして、最初に渡った橋が一之橋です。
 今日は、その一之橋について書きます。
 

 一之橋は堅川にかかる橋です。
 竪川は万治2年(1659)に起工された運河です。
c0187004_1426292.jpg  堅川に架けられた橋は、幕末の切絵図でみると、隅田川に近いほうから順に一ツ目之橋、二ツ目之橋、三ツ目之橋、四ツ目之橋と番号順に呼ばれ五ツ目は渡し場となっています。
 現在、「三ツ目之橋」「四ツ目之橋」を渡る通りは、その橋の名前を取って「三ツ目通り」「四ツ目通り」と名付けられています。
 一方で江戸名所図会には一ツ目之橋は「一の橋」と書かれています。
 また、現在の正式な名前は一之橋となっていて、二之橋、三之橋、四之橋、五之橋と順に呼ばれています。 そして、一之橋を通る道路は墨田区によって「一の橋通り」と名付けられています。
 なお、二ツ目之橋(現在の二之橋)と五ツ目の渡し(現在の五之橋)を渡る通りは現在それぞれ清澄通り・明治通りと名付けられています。

 ところで、堅川は、隅田川と中川をつないでいるため東西に流れています。
 左下写真の中央の青いラインが堅川です。
 通常は地図で東西をつなぐ場合には横と言いますので、横川が妥当だと思いますが堅川と名前がついていて不思議です。
c0187004_14281113.jpg よく見ると本所地区では、南北に流れる川が横川と名付けられています。
 これは、江戸城から見た感覚で、川の名前を付けているからです。
 江戸城から見ると、縦に流れているように見えるので堅川と名付けられ、横に流れる川なので横川と名付けられています。


 現在、川の名前は堅川ですが、町名は「立川(たてかわ)」と書かれています。
 立川で思い浮かぶのが「立川」という芸名を使った烏亭焉馬(うていえんば)です。
 烏亭焉馬(うていえんば)といっても多くの人にはなじみがないかもしれませんが、落語史上では重要な人物です。
 烏亭焉馬(うていえんば)は、寛保3年(1743)に生まれ、本所相生町に住んでいました。
c0187004_2229429.jpg 本職は大工で、本名を中村英祝と言いましたが、足袋・木綿類を商い和泉屋和助ともいい、烏亭焉馬の名で洒落本や黄表紙を書きました。
 天明6年(1786)に向島の料亭武蔵屋で「噺の会」を主宰しました。
 「噺の会」は、落語史上で重要な位置を占めており、烏亭焉馬は落語中興の祖と呼ばれています。
 烏亭焉馬が住んでいた本所相生町というのは、堅川沿いに起立した町です。
 烏亭焉馬は堅川沿いに住んでいたのでした。
 そこで、本所相生町の堅川をもじった「立川焉馬」や、親交のあった市川団十郎をもじって「立川談洲楼」という芸名もあります。
 
 昨年亡くなってしまった「立川談志」が最も有名な「立川談○」という落語の芸名は、源をたどると烏亭焉馬の名前にちなむものと言われています。

 烏亭焉馬の歌碑が同じ墨田区内の牛嶋神社にあります。(右上写真)
 「いそかすは 濡まし物と夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹 談洲楼 烏亭焉馬」と刻まれています。
 この碑は、文化7年に烏亭焉馬自身が建てたものです。
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by wheatbaku | 2012-10-30 22:30 | 忠臣蔵 | Trackback
回向院と両国橋(赤穂浪士引き揚げルート2)
 赤穂浪士引き揚げルートの2回目は回向院と両国橋東詰です。

 吉良上野介の首を挙げた赤穂浪士は休息のため回向院へ向かいました。
 これは、事前に定めた「人々心得之覚書」に

引き取り候う場所は無縁寺(回向院のこと)なるべし。ただし無縁寺へ入らず候はば、両国橋東の橋際の広場に打ち寄せ申しべきこと(読み下し文)

 と書かれていますので、討ち入り前に決まっていた行動だと思われます。
 

 回向院は、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(別名振袖火事)でなくなった人々を供養するために、幕府が建立したお寺です。
c0187004_16451728.jpg 現在は、京葉道路側に山門(右写真)がありますが、江戸時代には、西側つまり隅田川に面して表門がありました。
 江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より50メートルほど下流に架けられていて、両国橋を渡ってくると正面に回向院が見えるという位置関係にありました。

 回向院での休息を申し込んだ赤穂浪士に対して、回向院は暮れ六つ以後明け六つ以前は誰もいれない決まりとなっていると断りました。
 回向院は関わり合いになって後難が生じるのを怖れたものと思われます。

 そこで、赤穂浪士一行は両国橋東詰で休息しながら上杉家からの討手を迎え撃つ準備をしました。
 現在の両国橋は、赤穂浪士が討ち入りをした頃に比べて50メートルほど上流に架けられています。
 そのため、左下の写真が説明板ですが、説明板の前方には、両国橋は写りません。
c0187004_14165163.jpg 大石内蔵助は、上杉家からの討手は必ず来ると確信をしていたようです。
  しかし、上杉家からの討手はかかりませんでした。
  これは、上杉家では、藩主綱憲は討ち入りの報告を受けるとすぐに救援を出そうとしますが、救援の兵を揃えたり情報を収集するのに手間取っている間に、幕府から高家畠山下総守義寧(よしやす)が訪ねてきて兵を出さないようにとの老中の意向を伝えたため、救援の兵を出すのを断念せざるを得ませんでした。

  「忠臣蔵」の映画やドラマなどでは、実父の吉良上野介のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老千坂兵部がこれを諌めて救援を止めさせる場面があります。「忠臣蔵」の名場面の一つです。
 しかし、これはフィクションだと言われています。
 というのは、一方の主役である千坂兵部は、元禄13年5月につまり討ち入りの2年前に亡くなっていました。
 当時の江戸家老は色部又四郎ですが、色部又四郎も、討ち入りの当日は、上杉家の上屋敷にはいなかったと言われていますので、色部又四郎も止めようがなかったと思います。
 止めたのは、高家畠山下総守義寧だったのでした。

 上杉家の討手が来ないため、赤穂浪士一行は高輪の泉岳寺へ急ぐことにします。
その際、両国橋を渡らず、隅田川沿いに南下するルートを通りました。
 本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸市中に入るのが近道ですが、そうすると武家屋敷街を通ることになります。
c0187004_16493522.jpg 討ち入りの翌日は15日です。
 その日は、大名・旗本の登城日にあたっていました。
 当時は、月次御礼(つきなみおんれい)といって、江戸にいる大名と旗本は、毎月1日と15日それと28日(正月、2月、4月、7月、12月のみ)には、江戸城に登城することになっていたのです。
 そこで、泉岳寺までの引揚途中に大名行列と遭遇したり、大名屋敷近くで誰何されたりして、トラブルになる怖れがないとはいえません。
 不測の事態の起こるのを懸念した大石内蔵助は、両国橋(右上の写真は現在の両国橋を日本橋側から撮ったものです)を渡らず、そのまま隅田川に沿って南下するコースをとりました。
 それが、いわゆる「赤穂浪士引き揚げルート」です。
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by wheatbaku | 2012-10-29 22:11 | 忠臣蔵 | Trackback
本所松坂町公園(赤穂浪士引き揚げルート1)
 江戸文化歴史検定を受験された皆さん、試験はどうでしたか?
 難しかったですか? 簡単でしたか?
 朗報が届くとよいですね。
 それにしても受験お疲れ様でした。少しゆっくりしてください。

 さて、土曜日に「赤穂浪士引き揚げルート」を築地本願寺まで歩いてきました。
 そこで、今日からは、そのルート沿いの史跡をご案内していきます。

 今日は、スタートの本所松坂町公園です。
 本所松坂町公園は昭和9年につくられました。それには次のような経緯がありました。
c0187004_1647283.jpg 赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となったため、吉良邸跡は町人が住む町になりました。そのため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。
 そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それがこの公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。
 元の吉良邸は約2550坪ありましたが、この公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1%ほどの広さです。

 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われました。
c0187004_16475057.jpg 討ち入りした時刻は午前4時ころです。
 表門隊24人と裏門隊23人に別れ、討ち入りしました。
 表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。
 表門隊では、大高源吾と間十次郎が梯子をかけて塀を乗り越え一番乗りしました。
 裏門隊は掛矢(大きな木槌)で裏門を打ち破り突入しました。
 赤穂浪士は、屋敷内斬込隊、長屋制圧隊、表門・裏門の守護隊などに分かれ吉良側と戦いました。
 1時間ほどの激闘で、吉良側の反撃を封じました。
 そして、残りの1時間ほどは吉良上野介の捜索にかかりました。
 その長い捜索の結果、炭小屋に隠れている吉良上野介を見つけだし、首をあげました。

 吉良上野介の像が公園内にあります。(左上写真)
 この像は吉良家の菩提寺である愛知県西尾市の華蔵寺にある木像をベースに平成22年に作られたもの、上屋は旧吉良町から平成23年に寄贈されたものです。
c0187004_10581135.jpg 右写真は、華蔵寺にある吉良上野介の木像です。
 今年の黄金週間に華蔵寺を訪ねた時に撮った写真ですが、いつもは非公開ですが、華蔵寺さんの特別のご配慮により公開していただき撮らさせていただいたものです。
 上野介が50歳の時に、自身をモデルに作らせたものだそうですが、非常に穏やかな表情であるのが印象的でした。 

 今回ご案内するために事前調査する中で、「人々心得之覚書」という赤穂浪士が討ち入った際の行動要領があることを知りました。
 この「人々心得之覚書」には、討ち入りの際の行動について具体的に定められています。
 
 決め事のいくつかを書き上げてみますが、用意周到さに驚きます。
①吉良上野介の首を取ったら、引上場所(回向院)に持参すること。
その際首は上野介の上着で包むこと。
②吉良義周の首は討っても、持参する必要はない。
③吉良親子を討ち取れば笛を吹く。
④引き上げは鉦を打って合図する。
c0187004_20345685.jpg⑤裏門から引き上げる。
⑥引上げ場所は回向院とする。
 もし回向院に入れない場合には、両国橋の東詰の広場とする。

 吉良上野介の首を取った後、赤穂浪士は裏門とも玄関とも言われますが、点呼をとり、裏門から引き揚げました。
 裏門があったと思われる場所には、吉良邸裏門跡の高札が立てられています。マンションンの前です。
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by wheatbaku | 2012-10-28 20:40 | 忠臣蔵 | Trackback
祈合格
 本日、毎日文化センターさんの講座「赤穂浪士ゆかりの地を行く」で赤穂浪士の引揚コースのうち築地本願寺まで歩いてきました。
 参加された皆様お疲れ様でした。

 そして、そのコースにはいくつかの神社やお寺がありましたので、江戸文化歴史検定を受験される方が合格されることを願ってきました。
 そこで、取り急ぎ、赤穂浪士引揚コースにある神社やお寺の名前と写真をアップします。
 明日頑張ってください。そして素晴らしい結果になりますように・・・・。


c0187004_23293820.jpg松坂稲荷神社

c0187004_23301144.jpg江島杉山神社

c0187004_23303425.jpg正木稲荷神社

c0187004_23304767.jpg芭蕉稲荷神社

c0187004_1052106.jpg鉄砲洲稲荷神社

c0187004_23323549.jpg築地本願寺

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by wheatbaku | 2012-10-27 23:33 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
15万人達成と寛永寺特別公開
 昨日で、ブログ来訪者が15万人になりました。
 ありがとうございました。
 今年1月に10万人を達成しましたので、10か月弱で5万人の方にご覧いただいてことになります。
 これも毎日読んでいただいている皆様のおかげと心より感謝いたします。
 


 さて、昨日は、台東区主催の寛永寺特別公開に行ってきました。
 5代将軍綱吉の霊廟(常憲院殿霊廟)と根本中堂、それに寛永寺の寺宝を拝観させていただきました。
 すべて撮影禁止ですので、写真はとれませんでした。
 綱吉の宝塔は、増上寺にある家宣【右上段写真】の宝塔の形式で青銅製でした。
 吉宗、家定、篤姫の宝塔は、増上寺にある家茂(右下段写真)と同じように石製のものでした。
 その際に聞いたことで、「徳川将軍15代」に関係した事柄を書いてみます。

c0187004_10292680.jpg 1、7代将軍家継まで、一代ごとに霊廟を建立しましたが、8代将軍吉宗から、それ以前に建立された霊廟に合葬されうようになりました。
 ちなみに、吉宗は尊敬する綱吉の霊廟に合葬されました。
2、 将軍の宝塔が青銅製でなったのは、5代将軍綱吉からで、8代将軍吉宗から石製の宝塔に戻った。
3、 将軍は宝塔の地下に土葬されています。
4、 将軍は、公家座りという姿勢で埋葬されています。
5、 将軍は、江戸城を向いて埋葬されてます。
6、 13代将軍の墓所には、大好きであった柿の木が植えられています。
7、 13代将軍家定の正室天璋院篤姫の墓所にも、天璋院篤姫の好物であった枇杷が植えられています。

c0187004_10331712.jpg 今日は、毎日文化センターさんの講座「忠臣蔵ゆかりの地をいく」があり、そのガイドで出かけます。
 そのため、今日の記事は取り急ぎ書いていますので短くてすみません。
 明日の江戸文化歴史検定試験の受験に向けて頑張っている皆さんに申し訳けないのですが、行ってきます。
 ガイドの途中でよる寺社では、 皆さんの合格をお願いしてきたいと思います。
 本当に最後の最後になりました。受験勉強されている皆さん頑張ってください。


 
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by wheatbaku | 2012-10-27 10:37 | Trackback
歌舞伎と寄席の禁止(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、天保の改革の中の文化統制について書いて行きます。
 水野忠邦が進める天保の改革は、松平定信の行った寛政の改革より統制色の濃いものとなりました。
 今日は、その統制がいかに厳しいモノだったかについて歌舞伎と寄席を例に書いていきます。
 天保の改革は、庶民の生活にまでおよび、庶民の奢侈禁止が徹底され、庶民の娯楽も禁止されました。
  
 歌舞伎については、特に厳しい統制が加えられました。 
c0187004_927518.jpg 天保12年(1841)10月、中村座から出火し全焼しました。さらに、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災しました。
 芝居小屋が焼けたことは、幕府にとって願ってもいない好機でした。
 奉行所は中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁止し、浅草に移転させることにしました。
 この際、水野忠邦は、江戸三座は取り潰すつもりでしたが、町奉行遠山金四郎が反対したため取り潰し案がなくなり移転させることとなったという説もあります。
 天保13年正月には、浅草にあった丹波園部藩小出家の下屋敷を収公して、一万坪余りの跡地に、中村座・市村座・薩摩座・結城座を移転させました。
 そこは新たに芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町と名付けられました。
 これには、歌舞伎が江戸市中の風俗に悪影響を与えているという考えに基づく隔離政策の面もありました。
 そのため、今後、一般市民と交際してはならないとか外出時には編み笠をかぶれといった制約も課せられました。
c0187004_9273827.jpg
 これだけではなく、天保13年6月には七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸十里四方所払いにしたり、三都から巡業に出た役者を抱えて興業を行わないことを各地の城下や寺社に命じたり、旅役者が御府内で興業することも禁止しました。

 まさに歌舞伎を目の敵にしている感があります。

 また、寄席も弾圧されます。
 天保13年2月12日にお触れが出され、従来500以上のあった寄席が、15軒だけに制限されてしまいます。
 さらに、演目では、神道講釈、心学、軍事講釈、昔話以外は上演してはならないこととされ、話の中に鳴り物などをいれることも厳禁とされました。
さらに、人気のあった女義太夫、女浄瑠璃も厳しく統制をされました。

 このように江戸っ子の楽しみであった歌舞伎や寄席まで統制を加えられ、江戸の庶民文化は、まさに火の消えたような状況になってしまったのでした。

 右上、左上の写真は、ともに現在の浅草6丁目にある、猿若町であったことを示す標柱と石碑です。
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by wheatbaku | 2012-10-26 09:34 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
感応寺と天王寺(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 天保の改革が始まった早々に家斉の肝いりで建立された鼠山感応寺の破却が行われました。これは、水野忠邦が寺社奉行阿部正弘に命じて行わせたものです。
 先日天王寺の案内を案内しましたが、天王寺は元は感応寺といい、感応寺から天王寺への寺号が変更されました。
c0187004_9234660.jpg これにも関連するので、今日は鼠山感応寺について書いていきます。
 右写真は、天王寺の本堂です。左下写真は、天王寺の露座の大仏です。 元禄3年に建立されたものです。

 谷中感応寺は元禄年間に不受不施派問題に絡んで、天台宗に改宗させられました。
 鼠山感応寺は、谷中の感応寺の日蓮宗への帰宗を悲願とした池上本門寺の願いを容れる形で、将軍徳川家斉の特別の思し召しによって、天保4年(1833)に取り立てられた寺院でした。

 鼠山感応寺の取り立ての背景には、当時江戸城大奥で家斉の寵愛をもって大きな勢力を有したお美代の方の影響がありました。
 お美代の方の実父は下総中山智泉院の日啓でしたが、その美貌に目を付けた中野碩翁が養女して、大奥に奉公させました。
 お美代の方はまもなく将軍家斉のお手付きとなり、3人の娘を産みました。
c0187004_9235814.jpg お美代の方の実父日啓は、弁舌にもすぐれ政治的手腕もあったようです。
 文政初年に家斉が病気になった時に、何かのたたりではないかと日啓に相談すると、日啓は、10代将軍家治の嫡男で将軍世子でありなが突然死去した家基のたたりだと申し立てました。
 家基の怨霊を怖れた家斉は、文政10年に、家斉自身と家基の木像を作らせ智泉院に下賜して祈祷させ、翌年文政11年は家基の50回忌にあたるため、下総国中山の法華経寺境内にある徳岡八幡社の社地に新たに若宮八幡の社殿を建立させ、その別当寺として守玄院を建て、日啓を別当としました。
 こうして、日啓は自分のお寺の智泉院を将軍家の祈祷所にすることに成功しました。
 
 そして、天台宗に改宗さえられていた谷中感応寺の再興を願いました。
 しかし、輪王寺宮舜仁法親王により日蓮宗への改宗は中止となり、長耀山感応寺から護国山天王寺へと寺号を改称しました。
 そして、新たに天保7年(1836)目白に鼠山感応寺が建立されることになりました。
 この感応寺は壮大な伽藍を誇ったものでした。
 鼠山感応寺は開創以来、家斉やその子供たち、そして大奥女中たち、さらには諸大名の祈願寺として、大いに信仰されて繫栄しました。
 しかし、大奥の女中たちが、参詣にかこつけて、お寺の僧たちと風紀を乱しているという噂が立ち始めました。
 そこで、水野忠邦が、新任の寺社奉行阿部正弘に調査を指示しました。
 それをうけて天保12年、阿部正弘が、まず中山の智泉院に踏み込み日啓たちを捕縛し取り調べると奥女中たちの無軌道な行為のほか、日啓が大奥にとりいった経緯がわかりました。
 そこで、日啓は女犯の罪で遠島を申し渡されました。また日啓の息子日尚も日本橋で3日晒し、妻の妙栄は押込とされました。
 そして、鼠山感応寺は、破却を命じられました。
 鼠山感応寺は、建立さえてから僅かに五年間で、その歴史を閉じました。
 そして、感応寺という名前はなくなり、元の感応寺であった谷中の天王寺は、護国山天王寺として現在まで続いています。 
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by wheatbaku | 2012-10-25 09:25 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
天保の改革開始(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日は、水野忠邦の続きです。
 寺社奉行となった、水野忠邦は、その後順調に昇進していきます。
 文政8年(1825)に大坂城代となりました。水野忠邦は、大坂城代に昇進することを「青雲の要路」といっています。
c0187004_1174694.jpg 文政9年(1826)には、京都所司代となって越前守となりました。
 文政11年(1828)に西の丸老中となって将軍世子家慶付となりました。
 老中になるまでの間2400両の昇進運動費を使ったと言われています。
天保5年(1834)に水野忠邦を引き上げ出てきた水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられました。41歳でした。
  天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となりました。
 家斉は50年間も将軍職にあり、引退した時は66歳でしたが、引退したといっても、まだまだ元気で、厳寒の朝でも小袖2枚に胴着のほかには重ね着をしなかったそうです。
 家斉は、側室40人、そのうち17人から55人の子供が生まれました。
 しかし、美童も好み、水野忠邦を引き上げた水野忠成も美童の一人であったとも言われています。
 こうした家斉の周辺には、側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)などの側近が権勢をふるい続けました。
 このため、天保10年(1839)に老中首座となりましたが、幕政改革は進みませんでした。

 天保12年(1841年)に大御所家斉が死去しました。これを好機として、水野忠邦は改革抵抗勢力であった家斉側近の御側御用取次の水野忠篤、若年寄林忠英、新番頭格美濃部茂育(もちなる)を罷免・左遷しました。
 また。家斉の御伽を務めた中野石翁も奥勤めを禁止され、寺島村の粋をこらした抱屋敷を没収しました。
 さらに、大奥に対する粛清を行い、多くの奥女中を罷免しました。
 こうして天保の改革が開始されました。
 天保12年5月15日に将軍家慶の誕生日に老中以下布衣以上の役人全部が集められ、享保・寛政の改革に倣った幕政改革の上意が家慶自ら伝えられ、天保の改革の実施が宣言されました。
 そして、「水野の三羽烏」と呼ばれた、
 目付鳥居耀蔵、天文型見習兼書物奉行支渋川六蔵、御金改役後藤三右衛門
 さらに、「幕府の三人兄弟」と呼ばれた
 小普請奉行川路聖謨、勘定吟味役羽倉外記、韮山代官江川英龍
を活用し、綱紀粛正と奢侈禁止を柱として天保の改革を始めました。
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by wheatbaku | 2012-10-24 11:08 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
水野忠邦と浜松城(江戸検お題「徳川将軍15代」)
 今日から、水野忠邦について書いていきます。

 水野忠邦は、寛政6年(1794)6月23日、唐津藩第3代藩主水野忠光の次男として生まれました。長兄が早世したため、文化2年(1805)に唐津藩の世子となりました。
c0187004_1144667.jpg 唐津藩水野家は、8代将軍吉宗の時に勝手掛老中を勤めた水野忠之の系統です。
 右写真は唐津城です。
 水野忠之の時代には、岡崎藩主でしたが、その3代後の水野忠任の代に、唐津藩に転封となりました。
 水野忠邦は、文化9年(1812)に父忠光が隠居したため、家督を相続しました。19歳の時でした。
 水野忠邦は、文化13年(1816)に22歳で奏者番を拝命しました。
 水野家は、将軍家の外戚として、譜代の大名の名門でありながら、忠之以降老中を輩出していなかったため、歴代藩主は、それを気にしていたようです。
 そのため、忠邦はこれを機に昇進の希望を強くもったようです。
  しかし、昇進をめざす上で、唐津藩主であることが、障害となることに気が付きました。
 唐津藩は、長崎警護という重要な任務があるため、唐津藩主は、幕閣に登用されることはありませんでした。
 また、多くの幕閣の昇進と領地が関連していることが多く、藩主が幕閣に昇進した藩主はを経験する必要もありました。
 そこで、水野忠邦は、猛烈な昇進と転封実現のための運動を行いました。

 そうした時に、水野忠邦に幸いした人事が行われました。
 文化14年(1817)同族の水野忠成(ただあきら)が老中首座となったのでした。
 水野忠成は、田沼意次の盟友であった沼津藩主水野忠友の養子となり、若年寄・側用人を歴任し、将軍家斉の側近でした。
c0187004_11451021.jpg これにより、忠邦は寺社奉行を命じられるとともに、唐津から浜松への転封を命じられました。
 左写真は浜松城です。
 この時の転封は、「三方領知替え」でした。
 浜松藩主井上正甫が陸奥国棚倉へ、唐津藩主水野忠邦が浜松へ、棚倉藩主小笠原長昌が肥前国唐津へ転封しました。

 これは、忠邦の運動によって行われたと言われていますが、浜松藩主井上正甫の懲罰という面もあります。
 文化13年(1816)、井上正甫は同僚である信濃高遠藩主の内藤頼以に招かれ、高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で遊びました。そして酔ったあまり、農家で留守番をしていた女房を犯してしましました。そこに戻ってきた夫に見つかり、夫は大いに怒って井上正甫を殴りつけました。
 近臣が農夫をなだめお金を与えて口封じをしましたが、やがて噂は江戸中に知れ渡り、正甫が登城の際は他に登城する大名の足軽らからからかわれたりしました。
 この事が幕閣にも知れ、正甫は奏者番を免ぜられ、棚倉藩に懲罰的な転封を命じられました。

 水野忠成は、水野忠邦を同族だからといって引き揚げただけでなく、忠邦が優秀であることを見ぬき昇進させたとも言われますが、これ以降、忠邦は水野忠成派の一人として出世していくことになりました。
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by wheatbaku | 2012-10-23 11:48 | 江戸検お題「徳川将軍15代」 | Trackback
  

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