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越前堀(赤穂浪士の引き揚げルート16)
 新川公園のある現在の町名である中央区新川一丁目、二丁目地区を赤穂浪士は引き揚げていきましたが、その赤穂浪士の引き揚げルートの途中に「越前堀児童公園」があります。
 今日は、その公園の名前にだけ残る「越前堀」について書いてみます。

 現在は新川一丁目、二丁目となっている地区に、江戸時代は福井藩松平越前守のお屋敷がありました。
 福井藩松平家は、家康の嫡男秀康の系統で嫡男松平忠直が改易された後は次男の松平忠昌が入封し以後その子孫が知行しました。
c0187004_1712514.jpg 福井藩主として有名な人物に幕末の名君と言われた松平春嶽がいます。
 松平春嶽は田安家出身で越前福井藩松平家の養子となり福井藩主となります。開明的な政策をとり名君と呼ばれました。
 将軍継嗣問題では一橋慶喜を推しましたが、安政の大獄で井伊直弼から隠居・謹慎を命じられ、ここ(越前堀の屋敷)に幽閉されていたことがあります。
 後に許されて政事総裁職(大老と同じ)となり幕政改革に努力しました。

 松平越前守の屋敷は東側が隅田川に面していて、その他の三方が堀に囲まれていました。
 その堀は「越前堀」と通称されていました。
 堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり、運河としても活用され、荷を積んだ小船が通っていたようです。
 その越前堀も関東大震災以後、隅田川に近い部分を残して大部分が埋め立てられました。
 そして、わずかに残っていた隅田川に近い部分も戦後完全に埋め立てられました。
c0187004_17122221.jpg  明治になって、屋敷跡地は「越前堀」という名前になり、昭和46年まで町名にとして残っていましたが、その町名も「新川」と変わりました。
 現在では、「越前堀」の名前は、越前堀児童公園にだけつけられているそうです。

 越前堀の護岸は石積みで、今でも建築工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものと見られる「石垣石」が出土することがあるそうです。
 児童公園内に写真のように石垣が展示されています。

 また、ここの地域一帯は「霊岸島(れいがんじま)」とも呼ばれました。
 越前堀児童公園内には、そのことを書いた説明板と「霊厳島之碑」があります。
c0187004_17123987.jpg 旧名の霊岸寺という名前は寛文元年(1661)に、ここに霊厳寺が建立されたことによります。
 霊厳寺は明暦の大火の後に深川に移転します。
 深川の霊厳寺は、江戸六地蔵の一つがあったり、松平定信の墓所があったりして見どころの多いお寺で、以前書いていますので、「霊厳寺」もご覧ください。
 その跡地は町地となって以後埋め立てによる拡張工事が行なわれました。
 なお、お寺は霊厳寺ですが、地名の場合には以前は霊厳島と書きましたが、現在は霊岸島と書きます。
 
 霊巌島について「江戸名所図会』には次のように書かれています。

 箱崎の南にあり(町数、いま18町ばかりあり)。昔雄誉(ゆうよ)霊巌(れいがん)和尚、この地の海汀(かいてい)を築(つ)き立てて梵宮(ぼんぐう)を営みて、霊巌寺と号(なづ)く(よって後世、霊巌島といふ地名起これり、初めは、江戸の中島とよびしとなり。『東海道名所記』〔浅井了意、1659〕に、「れいがん島も江戸の地をはなれて、東の海中へ築き出したる島なり〕と云々)。後世、寺を深川へ移されて、その跡を町家(まちや)となしたまふといへり。ゆゑに、このところの北の通りより茅場町へ渡る橋を、霊岸橋〔注:橋名は「霊巌」ではなく「霊岸」と記されている〕と号(なづ)けたり。

赤印が「越前堀」の説明板です。 青印が「石垣」と「霊岸島之碑」です。背景のグリーンの範囲が越前堀児童公園です。

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by wheatbaku | 2012-11-30 07:38 | 忠臣蔵 | Trackback
新川公園(赤穂浪士の引き揚げルート15)
 永代橋の西詰を左折し100メートル弱進むと、左手前方に公園が見えてきます。 
 これが「新川公園」です。
 「新川公園」は、元ここを流れていた「新川」が隅田川に合流する場所を埋め立てて造られた公園です。
 そのため、新川公園には「新川」についての説明板があります。 
 今日は、この「新川公園」の名の由来となった「新川」についてお話します。

 新川は、西側を流れる亀島川から分かれてこの公園付近で隅田川に合流していました。c0187004_13501436.jpg
 昭和23年~昭和24年に新川は埋め立てられてしまいましたが、規模は延長約600m、川幅は約11mから約16mと、狭いところと広いところがあり西側が狭くなっていました。
  新川には西から一の橋、二の橋、三の橋の3つの橋が架かっていました。
 新川公園のそばに三の橋がかかっていました。
 赤穂浪士は、二の橋をわたっていきました。
 新川は、東廻り航路を開発する豪商の河村瑞賢(ずいけん)が船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治3年(1660)に開削したといわています。
 河村瑞賢は元の一の橋近くに屋敷を構えていたと伝えられています。
 
c0187004_13503189.jpg 当時、新川の両岸には数多くの酒問屋が軒を連ね、酒の街とも言われて、河岸に建ち並ぶ酒蔵の風景は、数多くの浮世絵などにも描かれました。
 写真は、赤穂浪士が渡ったと言われている二の橋の近くにある伏見の酒「富翁」を製造している北川本家の東京出張所の看板です。
 目の前の道路部分が、江戸時代には、新川でした。
 このほかに現在でも新川周辺には、キリンビール、国冠、金杯、日本盛などの酒造メーカーの事務所があります。

 江戸時代は、摂津の米どころで生産された米を原料として高度な醸造技術で製造された上方のお酒が江戸に送られてきました。
 これは、上方から江戸に「下ってくる」ため「下り酒」と呼ばれました。
 この酒を輸送するのは「樽廻船」と呼ばれる船で、熊野灘、遠州灘を乗り越えて送られてきました。
 杉の樽に入れられた酒は、この輸送期間に、杉の香が移り熟成され、よりおいしいお酒となりました。このため、江戸では、下り酒がもてはやされました。

 酒など上方から下ってくる物は「下り物」と呼ばれました。
 「下らない」という言葉の由来は、この「下り物」から来たという説もあります。
 粗悪品は、江戸に下ることができないので、現在の意味となったという説や関東の酒は下ることがないという意味だといった説があります。

 さて、この下り酒をどれだけ早く江戸に輸送できるかを競った行事がありました。
 それが「新酒番船」と呼ばれる行事です。
 その年にできた最初の酒を江戸へ送るとき、大坂と西宮の樽廻船問屋が廻船に新酒を積み込み、いっせいに出発し江戸に一番先にどこの船が着くかを競ったレースです。
 最速の記録は58時間という記録があるそうです。
 3日かからずに江戸に着いたというのですか驚きます。
 江戸の人の偉大な力に驚かざるを得ません。

赤印が新川公園です。
 
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by wheatbaku | 2012-11-29 07:30 | 忠臣蔵 | Trackback
「船員教育発祥之地」碑(赤穂浪士の引き揚げルート14)
 永代橋を渡ると、現在は、中央区に入ります。
 永代橋の西詰南側に、「船員教育発祥之地」の碑があります。
 これは、東京商船大学の発祥の地の記念碑で、東京商船大学100周年記念で建てられたものです。
東京商船大学は東京水産大学と統合し、平成15年10月1日から東京海洋大学になっています。

記念碑には、次のように刻まれています。

 内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎弥太郎に命じて、明治8年11月、この地に商船学校を開設させた。
c0187004_16322953.jpg  当初の教育はそのころ隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
 爾来100年、ここに端を発した商戦教育の成果は、わが国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学〔その後、国立大学法人東京海洋大学に統合〕に継承されている。
 昭和50年(1975)11月、東京商船大学100周年記念事業委員会。.


 明治維新後、わが国の海運界は国際的にみて立ち後れが目立ち、当時、蒸気船はほとんどが外国人によって運航されていました。
 明治7年に行われた台湾出兵の教訓として、民族資本の海運会社の育成が急務とされました。
 そのためには、船員の養成が不可欠となるのは当然です。
 そこで、船員の教育機関が設立されることとなり、当時の三菱会社に商船学校の設立を命じ、明治8年11月に永代橋近くの霊岸島に三菱商船学校が設立されました。
 初代校長は中村六三郎と言いました。
 学校は、霊岸島(現在の中央区新川)に繋がれた三菱の成妙丸(せいみょうまる)を帆船に改造したものでした。
 これは、校舎兼練習船であり、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を実施したそうです。
 遠洋航海実習は他の三菱の社船で欧州まで赴いたとも伝わっています。

 設立の7年後の明治15年4月に、三菱商船学校は官立に移管されて東京商船学校となりました。
c0187004_16405762.jpg さらに、大正14年には東京高等商船学校と改称されました。
 戦後の変遷は次のようです。
 昭和20年、東京、神戸、清水の高等商船学校3校を統合して高等商船学校となり、昭和24年静岡県清水市(現静岡市)に国立の商船大学として発足し、昭和32年本部を東京に移し東京商船大学と改称しました。
 そして、平成15年10月、東京水産大学と統合し、東京海洋大学となり、現在は海洋工学部に受け継がれています。
 
 左上写真は、記念碑の前の永代通りから見た永代橋です。
 
 赤印が「船員教育発祥之地」の碑です。

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by wheatbaku | 2012-11-28 07:21 | 忠臣蔵 | Trackback
ちくま味噌(赤穂浪士の引き揚げルート13)
 昨日紹介した永代橋の東詰に、「赤穂浪士休息の地」の碑があります。
 今日は、その「赤穂浪士休息の地」の碑を紹介します。

 碑の建てられた場所に、元禄時代、「乳熊味噌」というお味噌屋さんがあり、そこで、引揚途中の赤穂浪士たちが休憩したそうです。
c0187004_10493669.jpg というのは、乳熊味噌の初代竹口作兵衛は赤穂浪士の大高源吾と榎本其角の門下生として親しかったことから、作兵衛は一同を招き入れ甘酒を振る舞い、労をねぎらったと言われています。
 引揚の日は乳熊味噌のちょうど上棟の日だったそうです。
 そこで、大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったそうです。
 そうしたことが、この碑文にかかれています。
 この石碑は、昭和38年、株式会社ちくま味噌によって建立されたものです。その碑文には、次のように刻まれています。

赤穂義士休息の地
 赤穂四十七士の一人大高五子葉は 俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角 の門下として俳界の友でありました。
 元禄十五年十二月十四日討入本懐を 遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、 あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の 日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。  昭和三十八年二月
  ちくま味噌十六代    竹口作兵衛識

 ここに書かれている甘酒粥は、麹が一杯入って粥状になった甘酒のことだそうです。
 店の棟木には「味噌四海遍く ちくま味噌」と揮毫されていたそうです。
 また、大高源吾が書き残したという看板は関東大震災後の混乱の中で紛失してしまい現存していないそうです。

c0187004_10505332.jpg 乳熊味噌は、現在も「ちくま味噌」として営業しています。
 「ちくま味噌」によれば、初代竹口作兵衛義通が、伊勢国乳熊郷(三重県松坂市中万町)から慶安年間(1648年~51年)に江戸に進出、日本橋に塗物店を営み、作兵衛勝義(後、通称を喜左衛門と改む)が元禄初年(1688)に深川永代橋際に味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛門商店としたのが、ちくま味噌の始まりだそうです。

 ちくま味噌のホームページによれば、勝海舟や西郷隆盛とのお付き合いもあったようです。

 「ちくま味噌」は、製造と卸専門だそうです。
 「赤穂浪士休息の地」の碑のある場所は、元は工場があったそうです。
 現在は、工場は長野県に移転しており、その跡地はURと一緒に再開発したビルが建っています。
 左写真の碑の奥に見えるのが再開発した乳熊ビルで上階はUR都市機構深川佐賀町市街地住宅となっています。
 「ちくま味噌」は小売りはインターネットによる通信販売中心の営業を行っているようです。
 そのため、碑のたっている場所では営業をしていません。
 

 赤印が「赤穂浪士休息の地」の碑です。 永代橋の東詰の交差点を少し北に入った場所にあります。

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by wheatbaku | 2012-11-27 07:30 | 忠臣蔵 | Trackback
永代橋(赤穂浪士引き揚げルート12)
 今日から、「赤穂浪士引き揚げルートを歩く」の連載を再開したいと思います。
今日は永代橋について書いてみたいと思います。 

 永代橋は、元禄11年(1698)に隅田川で四番目の橋として架けられました。
 最初が千住大橋、2番目が両国橋、3番目が新大橋です。
c0187004_18171529.jpg 上野寛永寺本堂の材木を使って架けられたとも言われます。
 架けられたのは「深川の渡し」の場所で、江戸時代の永代橋は現在の位置よりも上流に架けられていました。
 現在の永代橋は、新川側は、豊海橋(とよみばし)の南に架けられていますが、
 幕末の切絵図を見ると、対岸の豊海橋の北側から永代島側に永代橋がかかっています。
 現在の乳熊味噌のビルのあたりに永代橋がかかっていたものと思います。
 「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、5代将軍徳川綱吉が50歳となった年に架けられたため、綱吉の50歳を祝し、徳川幕府が末永く代々続くようにというおめでたい名前にしたという説があります。

c0187004_205935.jpg 長さ百十間(約200m)、幅三間余(約6m)ありました。
 また隅田川で最も下流で、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては巨大な橋でした。

 橋の上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)されています。

  隅田川に架かる橋は、橋の維持に大変苦労しましたが、永代橋も維持に苦労しました。
そのため、維持困難から撤去されようとしましたが、両岸の町人たちの願いが強く、町民による維持という事で廃止を免れました。
c0187004_18172639.jpg しかし、町人による維持では、管理が行き届かず、文化4年(1807)8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋して多数の死者を出すという事故が起きました。
 当日は、11代将軍家斉の実父である一橋治斉(はるさだ)の乗った船が永代橋の下を通過するため、永代橋の通行が止められていました。
 通過後が、それが解除されると多数の群衆が一気に永代橋に殺到したため、橋の中央部よりやや東側の部分が崩れ落ちてしまいました。
 橋が落ちたことを知らない群衆が後ろから次々と押し寄せて、押された人が次々は転落し、死者・行方不明者は諸説ありますが、1400人を超えたとも言われていて、史上最悪の落橋事故となりました。
 この事故について、大田南畝が狂歌を書き残しています。
 永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

 また、南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っています
 山東京伝の弟の山東京山は、随筆「蜘蛛の糸巻」の中で渡辺の行為は「無量の善根」と評価しているそうです。
 また、曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いているそうです。


c0187004_18175978.jpg 永代橋は、明治30年、道路橋としては日本初の鉄橋として、現在の場所に架けられました。
 しかし、関東大震災の時に、橋に一部木材が使用されたいたため、焼失してしまいました。
 その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が架けられました。
 「帝都東京の門」として、上流の清洲橋と共に高く評価され、隅田川に架かる橋の中でも屈指の名橋となっています。
 平成12年には、清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定され、平成19年 6月18日には、勝鬨橋・清洲橋と共に永代橋が国の重要文化財(建造物)に指定されました。
 永代橋は夜になるとライトアップされます。

 赤印が永代橋です。東京メトロの「茅場町」「八丁堀」「門前仲町」の各駅から歩いて約10分です。

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by wheatbaku | 2012-11-26 07:00 | 忠臣蔵 | Trackback
赤穂浪士引き揚げルートを歩く
 昨日は、毎日文化センターさんの講座「忠臣蔵ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと「赤穂浪士引き揚げルートを歩く」の2回目で、築地本願寺から泉岳寺まで歩いてきました。これで、本所の吉良邸跡から泉岳寺まで歩いたことになります。
 赤穂浪士の引き揚げルートだけ歩けば6キロ程度ですが、引き揚げルート周辺の史跡を巡りながら歩いていきましたので、8キロを超える距離は歩いたことになると思います。
 

 スタート地点は、築地本願寺です。12時に出発しました。
c0187004_23153611.jpg 現在の築地本願寺の本堂は、外観はインド様式の石造りで、外観を見る限りは浄土真宗の寺院とは思えませんが、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りになっています。
 築地本願寺には、赤穂浪士の一人の間新六のお墓がありますので、赤穂浪士と縁のあるお寺です。

c0187004_23213967.jpg 引き揚げルートは、汐留シオサイトを通りますが、そこには、旧新橋停車場が復元されています。
 そこには、鉄道記念展示室がありますので、そこで、旧新橋停車場の礎石などを見ましたが、明治の文明開化の息吹を感じることができました。


c0187004_23162390.jpg 芝大神宮は、関東のお伊勢様と呼ばれていて、鎮座1000年を超える古い神社です。
 そんな歴史のある芝大神宮では、結婚式が行われていました。
 しかも二組の結婚式にめぐりあいました。
 最近、神社での結婚式が増えているのかもしれませんが、神社をお参りしているとしばしば結婚式に巡り合います。
 お二人の幸せを祈りながらパチリと写真を撮らせていただきました。

 最終の泉岳寺です。
 赤穂義士記念館が4時までですので、4時までに到着する予定でした。
c0187004_23165273.jpg しかし、結局到着したの4時を過ぎてしまいました。
 泉岳寺といえば赤穂浪士の墓所があまりにも有名ですので、墓所に直行することが多いのですが、中門、山門、本堂などの説明もしっかり行ってから、浅野内匠頭、瑤泉院、赤穂浪士のお墓参りさせていただきました。

 受講生の皆さん、お世話になりました。
 いつもより、長い距離を歩きましたがいかがですか。
 天気にも恵まれて、いつもの通り楽しくご一緒できました。ありがとうございました。


 明日以降、赤穂浪士引き揚げルートについての記事を再開して連載してきます。
 
 
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by wheatbaku | 2012-11-25 00:20 | 忠臣蔵 | Trackback
お玉の方(大奥の人)
 昨日の「お夏の方」に続いて「大奥」関連で、今日は「お玉の方」について書いていきます。 

 「お夏の方」の競争相手は「お玉の方」です。
 「お玉の方」はいうまでもありません5代将軍綱吉の生母です。名は玉と言いました。
 幕府祚胤伝によると、父は二条関白光平公家司本庄太郎兵衛宗利(初めの名宗正)とされています。
c0187004_1382647.jpg 本庄宗利は前妻がなくなったため後妻をもらいました。
 この後妻は八百屋仁左衛門の妻でしたが、夫がなくなったため、本庄家に奉公に出ました。この仁左衛門の妻が非常に美人だったため本庄宗利の手がつき妻となりました。
 この仁左衛門の妻には連れ子が二人いました。その一人がお玉だったようです。
 「お玉の方」については、よく「八百屋の娘」と言われますが、こうした経緯があったようです。
 「お玉の方」は母親以上の美人だったようです。「面長で一重まぶたのいわゆる京美人だった」と書いてある本もあります。
 成長したお玉は13歳の時に家光の側室となった「お万の方」と縁があり江戸に下りました。初めはお万の方の部屋子となりましたが、あまりにも美しいので春日局の目にとまり家光のお側近く仕えました。
 18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。
 正保2年(1645)2月29日に亀松を、正保3年(1646)1月8日に徳松を生みます。亀松は、家光41歳の子、徳松は42歳の子になります。
 亀松は早世しますが、徳松は無事成長しました。
 慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して桂昌院と名乗ります。
 徳松は慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに15万石を拝領しました。承応2年(1653年)8月に元服し将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改めました。
 寛文元年(1661年)上野国館林藩25万石を拝領し、参議に叙任され「館林宰相」と呼ばれるようになりました。
 そして、延宝8年(1680年)には将軍家綱が40歳で死去したため5代将軍となりました。

 綱吉が将軍になると、桂昌院は綱吉の治世にも影響を及ぼし始めます。
c0187004_1383520.jpg 桂昌院は、神仏を信仰し、盛んに神社仏閣を建立します。
 3代将軍家光の時代に創建された寛永寺の本堂(根本中堂)が建立されたのも、綱吉の時代です。
 また、新たに創建された神社仏閣の代表が神田にあった「護寺院」と大塚の「護国寺」です。
 護国寺は、綱吉が、桂昌院の願いにより亮賢僧正を招き開山とし、幕府薬草園の高田薬園の跡地に建立しました。
 護国寺のご本尊は、桂昌院念持仏の天然石の琥珀如意輪観世音菩薩像です。
 右上段の写真は護国寺本堂です。左上は護国寺の山門です。

 また、湯島にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称しました。
 護持院は、綱吉と母桂昌院の参詣は前後数十度にもおよび,大変栄えましたが、享保2年に焼失した後は再建されず、幕府の命令ににより護持院は護国に合併され、護持院の住職が護国寺の住職を兼ねるようになりました。
 しかし、明治になって、護持院は廃寺となり、現在は護国寺が残ることとなりました。

 桂昌院は、元禄15年(1702)には女性最高位の従一位の官位に上り、宝永2年(1705年)6月に79歳で亡くなりました。
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by wheatbaku | 2012-11-23 13:10 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
お夏の方(大奥の人)
 テレビドラマ「大奥」の影響かなと思いますが、最近、「お夏の方」の検索で訪問いただく方が多くなりました。
 テレビドラマ「大奥」は、漫画が原作で、「将軍は女、仕えるのは美男3000人」という男女が逆転した大奥を描いているようです。
 映画「大奥」も12月に公開されるようです。
 このドラマや映画のストリーがどうかは別として、今日は歴史上のお夏の方について書いてみます。

 お夏の方は、三代将軍家光の側室で、家光の次男である甲府宰相綱重を産みました。家光が亡くなった後は落飾し順性院と名乗りました。
c0187004_222272.jpg 将軍の妻妾と子供たちの略歴を書いた「幕府祚胤伝(そいんでん)」という資料によると
 「岡部八左衛門重家の女(むすめ)、藤枝日向守重昌の姉」と書かれていて、武士の娘のように書かれていますが、元々は、京都の町人弥市郎の娘と言われています。
 岡部八左衛門重家というのは、父が出世して武士になった後の名前のようです。

 お夏は、寛永8年、京都の公卿鷹司家へ仕えました。そして鷹司家の娘孝子が家光の正室となったため、孝子の御伴で江戸に下向しました。
 そして、本丸大奥に勤めている間に、家光の目にとまり(というより、入浴の世話をしていた時に、家光の手がついたようですが)、家光に愛されるようなりました。

 そして、生まれたのが、綱重です。綱重が幼名長松と言いました。
 しかし、綱重が生まれた時、家光が40歳の厄年であり、当時厄年に生まれた子供は父によいことがないと考えれられていたことから、家光の姉である千姫(天樹院)の養子とされることとなり、お夏の方も天樹院の屋敷に移り、そこで長松を産みました。

 長松は、6歳で竹橋に屋敷を拝領し、8歳の時には15万3千石と賜り、10歳で元服し綱重と名乗ることとなりました。
 そして、万治4年(1661)に17歳で甲府25万石を賜り、そして参議に任ぜられ甲府宰相と呼ばれるようになりました。
 宰相とは、参議に任ぜられた人の呼ぶ名前です。
 しかし、延宝6年(1678)に綱重は兄の4代将軍家綱に先立って35歳の若さで亡くなってしまいました。
 、延宝8年(1680)に家綱が亡くなっていますので、もし、もう少し長生きしていれば、5代将軍は綱重になったはずです。
 しかし、綱重が亡くなっていたため、お夏の方の競争相手のお玉の方が生んだ綱吉が5代将軍となりました。

 お夏の方の父や弟は、お夏の御蔭で出世しました。 
 父の弥市郎は、一旦岡部八左衛門となのりましたが、綱重が甲府25万石の大名になると 藤枝摂津守重家と名乗り甲府宰相家の家老となりました。
c0187004_13323378.jpg また、お夏の方の弟も重昌と名乗り、甲府家の家老となりました。
 このように側室の力によって出世した大名を「蛍大名」と言いました。
 お尻の光で出世した大名という意味のようです。 
 しかし、側室のお夏の方の力によって5千石の旗本となった藤枝家ですが、江戸時代中期の天明年間に、また世間の注目をあびることになります。
 重昌から7代目になる藤枝安十郎教行は、天明5年(1785)7月13日に吉原京町2丁目大菱屋の遊女綾衣と、千束村で心中し藤枝家は改易となってしまいました。

 江戸では次のように唄われました。
  君と寝ようか五千石取ろか 何の五千石君と寝よ

 この心中を題材に岡本綺堂が「箕輪心中」という小説を書いているようです。
 旺文社文庫の岡本綺堂「江戸情話集」の中に載っています。

 「箕輪心中」について、忍び駒様から豊かな内容の次のコメントをいただきましたので掲載させていただきます。
 
 天明5年、旗本藤枝外記が吉原大菱屋の遊女綾衣と心中し、本文にあるように小唄に唄われました。この事件を題材とした歌舞伎が、岡本綺堂の『箕輪心中』ですね。
 ご存知のように岡本綺堂の心中ものの第一作として大評判になったものです。
 藤枝外記は武芸にも優れた武士でありながら、家を捨て、遊女への愛に命を掛け、廓を抜けた綾衣の隠れ住む箕輪の乳母の家で心中します。お盆の十三日の夜のことです。
 明治44年の初演で、藤枝外記は二代目市川左団次、綾衣は四代目澤村源之助でした。
 そして、澤村源之助といえば浅草田圃に住んで「田圃の太夫」と呼ばれた女形ですが、本人も某銀行頭取の妾と悶着を起こしています。
 この相手の女が有名な花井梅で、他にもいろいろあって、川口松太郎の『明治一代女』の主人公となるなど、多くの歌舞伎、新派、歌謡曲で採り上げられて大きな話題になった女性です。


 忍び駒様ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2012-11-22 08:23 | 大奥ゆかりの寺 | Trackback
江戸趣味小玩具「助六」(江戸の老舗)
 今日は 浅草の仲見世の老舗「助六」さんをご紹介しようと思います。

 「助六」さんのご主人は木村吉隆様と言いますが、浅草に行った時には、御主人に会うため必ず「助六」さんに顔を出します。
c0187004_1621797.jpg 「助六」さんは、仲見世の最も宝蔵門に近い一画にあります。仲見世が終わるところにあるのが人形焼の木村総本店さんですが、その手前が「助六」さんです。
 「助六」さんは江戸趣味のおもちゃを売っています。
 「助六」さんの創業は、幕末の慶応2年(1866)です。
 「助六」という名前は、花川戸に自宅があったので、歌舞伎の花川戸助六にちなんで「助六」とつけたという説と小玩具が「五臓六腑を助ける」ことから、「助六」と名付けたという説があるそうです。
 店内には、「助六」と書かれた額が掲げられています。

 現在の御当主木村吉隆様は五代目です。
c0187004_163085.jpg 慶応大学を卒業し、民間企業に勤めた後、42歳の時から家業を継いでいるそうです。
 アイデアも豊富、話上手、仲間も多いということで、仲見世の顔といってもよいのではないでしょうか。
 大変人当たりのよい方で情報も多く話をしていて大変楽しい方ですので、浅草に行った時には、必ず寄るようにしています。先日、浅草ガイドの下見に浅草寺にお参りした際に、久しぶりにお会いできたので写真を撮らさせていただきました


c0187004_16122297.jpg お店にはいると一杯おもちゃがありますが、助六」さんで販売している作品は、この「助六」さんにしかないそうです。
 ですから、ご主人は「日本でここだけにしかない」とよく言われます。「日本だけでなく世界にもないもの」だと思います。
 作品は、昔からのものもありますが、五代目御主人が企画したものも職人さんに製作してもらっているそうです。
 ご主人は「私はおもちゃは作れないが、アイデアは出せる」とよくと言われます。
 昨年には、「助六」さんの取り扱っているおもちゃを網羅した「江戸の縁起物」という本も出されています。
 大変綺麗に撮れたおもちゃを見るだけでも楽しいし、解説を読めばもっと楽しくなる素晴らしい本です。


 「助六」さんが扱っているおもちゃの中で、特徴的なものを教えてもらいましたので、紹介します。
c0187004_1632734.jpg 写真左は「笊かぶり犬」といいます。張子の犬が笊をかぶったものです。
 竹冠に犬を書くと「笑い」と読めますね。
 いつも笑顔でいらえるようにという洒落だそうです。
 写真右は「赤ふくろう」です。昔、赤い色は、病気を防ぐと信じられていました。
 これを持っていることにより、赤ん坊が病気にならないようにというおもちゃだそうです。起き上がりこぼしになっています。
 また、「ふくろう」に「不苦労」という字をあてて、苦労を知らないという意味を込めたり、「福籠」という字を当てて福が籠る、「福老」という字を当てて不老長寿を願い、福を呼ぶ縁起物と言われています。

c0187004_1635847.jpg 写真右は、「そろばん狸」といいます。
 これはそろばんをもっているので商売繁盛と思われがちですが、これは火事よけだそうです。
 そろばんの玉をぱちぱちさせて火を防ごうという願いが込められているそうです。


c0187004_1633455.jpg ご主人のアイデア商品を紹介します。
 左写真中央は「蛸と招き猫」と言いますが、合格祈願のためのおもちゃで、受験生に大変人気があるそうです。
 タコは英語では「オクトパス」と言います。
これを日本語に直すと「置くとパス」になります。
 これを置いておけば志望校にパスするということになります。


 ご主人は多方面にわたり大変な情報通で、いろいろ話題が豊富です。
 そのため、御邪魔すると話がつきません。
 お客様にも人気があります。 店頭は笑顔と笑い声で賑わっています。
 一度江戸玩具を見に「助六」さんに寄ってみてください。歓迎されると思います。

 赤印が「助六」さんです。 東側の仲見世の店舗の最後から一つ手前の店舗です。

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by wheatbaku | 2012-11-21 07:30 | 江戸の老舗 | Trackback
山谷堀・竹屋の渡し跡(浅草界隈8 大江戸散歩)
 浅草寺北方の浅草界隈の史跡のご紹介をしてきましたが、今日で最後です。
 今日は「山谷堀」と「竹屋の渡し」をご案内します。

【今戸橋と山谷堀】
 待乳山聖天の東側の江戸通りを北方に歩いていくと「今戸橋」の親柱が残っています。
 今戸橋は、山谷堀に架けられていた橋です。
c0187004_1743681.jpg 山谷堀には9つの橋(今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋)が架けられていて、隅田川から一番手前の橋が今戸橋です。
しかし、橋の下を流れていた山谷堀が埋め立てられ暗渠(あんきょ)となったため、現在は親柱だけが残っています。
 山谷堀は戦後の昭和50年から53年にかけて堀のすべてが埋め立てられて暗渠となり地上は山谷堀公園として整備されています。
 山谷堀は、約1キロメートルほどさかのぼると吉原になります。さらに上流にさかのぼると音無川・石神井川につながります。
 東京都の下水道局ポンプ場の辺りから隅田川へと注ぐ約700mの長さにおよぶ堀が山谷堀と呼ばれていたようです。
 山谷堀が掘られた年代は定かではありませんが、吉原との関係が深いため、江戸時代初めに造られてと言われています。
 吉原が現在地に移転したのは、明暦三年(1657)ですから、この頃に掘られたのではないかと考えられています。
 山谷堀の南側の江戸市中側には日本堤と呼ばれる土手がありました。
 この土手は洪水を防ぐ堤防として江戸時代はじめに築かれました。
 この土手が吉原まで約八丁あったため、俗に土手八丁と呼ばれました。
 山谷堀がもっともにぎわったのは、江戸時代です。
 江戸時代に吉原へ行く手段としては、主に4つのルートがありました。
 まず、浅草寺の東側の馬道を行くルート、浅草寺の西側の田圃の中を行くルート、そして逆に箕輪から日本堤へ出るルート、この3つは徒歩や駕籠で吉原に行くルートです。
 この徒歩や駕籠を使う方法以外に、柳橋(神田川が隅田川と合流する付近)辺りの船宿から、猪牙船という小型の船を仕立てて、隅田川伝いに山谷掘経由で行くルートが4番目のルートです。
 船で吉原に行く人のため、山谷堀には船宿がたくさんできて繁盛しました。
c0187004_1745145.jpg  船を使う方法は贅沢でしたので、お金持ちが利用して、多くの人々は、徒歩で向かったようです。
 とはいっても、船を使う人もかなりいたようです。次のような川柳が残されています。
  今戸橋  上より下を 人通る

【竹屋の渡し跡】
 山谷堀の今戸橋から下流も埋め立てられていて「山谷広場」となっています。
 この広場の中に「竹屋の渡しの跡」の碑があります。
 竹屋の渡しは隅田川にあった渡し船です。
 竹屋の渡しは、山谷堀口と対岸の向島の三囲神社の前の大鳥居あたりを結んでいました。
 「竹屋」とは、山谷堀あった船宿の名前です。
 「竹屋の渡」は、別名「待乳の渡」とも呼ばれたようですが、「「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する名前です。
  昭和3年に言問橋が架橋されたため、渡し舟は廃止されました。

 赤印が今戸橋です。親柱が江戸通りの両側に残っています。
 青印が竹屋の渡し跡の碑がある場所です。広場の一画にあります。

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by wheatbaku | 2012-11-20 07:30 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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