<   2012年 12月 ( 28 )   > この月の画像一覧
大晦日
 今日は大晦日です。
 大晦日の様子が「絵本風俗往来」に生き生きと書かれています。
 「絵本風俗往来」は四代目広重を名乗った菊池貴一郎が江戸の町の季節の移り変わりや町家・武家の 行事について書き記したものです。
c0187004_2251844.jpg

 市中の町家・商店は、皆新調の染暖簾をかけ、しめ飾り・門松を立てて、賑やかに店を飾り、朝より商い忙しく日暮れに及ぶや高張大提灯の定紋の正面へ何屋としるしたるを店へつり、正面の神棚は供餅を上げ、燈火数多く輝き、その下には鏡餅・海老・橙を飾り付けて据えたり。
 小売り・大店の「酒・乾物・茶・漆器・紙商の如きは、皆数日前より荷箱を造り、軒より高く積み上げて幾数点の弓張提燈をつけたるが、今宵はいやが上にも荷を積み上げて提燈の数多く、出入りお鳶の者・下職たち革羽織・染祥纏にて、立番とて客の出入りに心つけたり。
 往来には露店諸商左右につらなり、飲食の露店種々あるは今宵特に多しとす。
 また植木屋の店をつらねて、梅・南天・福寿草の鉢造りを陳(つら)ねたる。
 往来の人は何れも弓張提燈を携え、夜明くるまで通行途絶えることなく、この中には獅子舞の遠音、神楽・厄払いの声また遠近に聞こゆ。
 夜更けるに随い、少しは熱聞の勢いも減ずる時分、始めて寺院にて衝きだす百八の梵鐘響きたり。


 江戸の大晦日の賑やかさが生き生きと書かれています。現代の大晦日よりずっと季節感があるように思います。

 今年一年ブログをお読みいただきありがとうございました。
 良いお年お迎えください。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-31 10:00 | Trackback
両国の「百本杭跡」(河竹黙阿弥ゆかりの地)
  今日は、もう一度、河竹黙阿弥に関係する記事を書きます。
  両国の「百本杭」について紹介します。 

 c0187004_16313544.jpg七五調と言えば河竹黙阿弥と言われるほど、黙阿弥の書いたセリフは流れるような七五調が高く評価されています。
 その中で、最も有名なのが『三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)』の「大川端場庚申塚の場」でお嬢吉三が語る次の句で、皆さんもよくご存じだと思います。
 七⇒五 でしっかり七五調となっています。

 月も朧(おぼろ)に 白魚の
 篝(かがり)も霞む 春の空
 つめてえ風も ほろ酔いに
 心持ちよく 浮か浮かと
 浮かれ烏の ただ一羽
 ねぐらへ帰(けえ)る 川端で
 竿の雫(しずく)か 濡れ手で粟
 思いがけなく 手に入る(いる)百両
  (舞台上手より呼び声)
   御厄(おんやく)払いましょう、厄落とし!
 ほんに今夜は 節分か
 西の海より 川の中
 落ちた夜鷹は 厄落とし
 豆だくさんに 一文の
 銭と違って 金包み
 こいつぁ春から 縁起がいいわえ

 『三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)』は、和尚吉三(おしょうきちさ)」、お嬢吉三(おじょうきちさ)、お坊吉三(おぼうきちさ)の3人の吉三(きちさ)が主人公です。
 大川端で美しい女姿のお嬢吉三が、前述のごとく謳いあげたところに、お坊吉三が現れ争いになり、通りかかった和尚吉三が仲裁に入り、三人の吉三は義兄弟になります。
 これが「大川端庚申塚の場」です。

 この舞台となった場所が、両国近くの百本杭であったと言われています。

百本杭は、隅田川の現在の両国駅側の岸が浸食されるのを防ぐために打ち込まれた多くの杭のことです。
c0187004_1632289.jpg 隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。
 夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになりました。
 右上写真は、明治時代の百本杭です。

 説明用の高札(最上段の写真)は、両国の駅前のパールホテル隣のビル前に建てれています。
 これには、同じ黙阿弥の『花街模様薊色縫』(さともよう あざみの いろぬい)(通称『十六夜清心』)の「稲瀬川百本杭の場」でも、この百本杭が出てくると書かれています。

 赤印が「百本杭跡」の説明用の高札です。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-30 13:20 | Trackback
河竹黙阿弥の終焉の地と墓所(河竹黙阿弥ゆかりの地)
 今日も、「河竹黙阿弥」について書きます。

 河竹黙阿弥は、明治20年に、浅草から本所に転居します。
c0187004_16451162.jpg これは、浅草の仲見世の大改造が影響しています。
 江戸時代は、雷門から仁王門までは、子院が並び、その子院の前に小屋掛けの店舗で商売をしていたのが仲見世でした。
 明治になって、東京府は、奥山にあった見世物小屋や店舗を強制的に移転させ、仲見世は、木造平屋の店舗を煉瓦造二階建ての店舗に造り替えさせることにしました。
 河竹黙阿弥、東京府からのこの予告を聞いて、明治17年に「いよいよ奥山7月30日までに埋立地へ立退きを、区役所より言いつかり、一同大よわり、猶々人気(ひとけ)落ち、淋しくなり候、仲見世20軒の辺は残り候えども、2年の内に塗屋を煉瓦に建てなおせという言いつけ、我らのところは先ず無事なれど、いずれへか転住いたしたき積り」と弟子宛に書いているそうです。
 こうした事情から、浅草が急速に江戸の面影をなくしていったため、黙阿弥は本所双葉町に転居したものと考えられています。
 そして、本所双葉町で6年ほど住んだ後の明治26年1月22日、76歳でなくなりました。
 本所双葉町の旧居跡(現在墨田区亀沢2丁目11−11)には、「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱が建てられています。


c0187004_16495212.jpg 亡くなった河竹黙阿弥は、菩提寺の源通寺に葬られています。
 源通寺は、JR東中野駅から徒歩6分程度の早稲田通りに沿って寺が並ぶ上高田の寺町の一角にあります。
 河竹黙阿弥のお墓は本堂裏手の墓所の入り口にあります。
 お墓には、「二世河竹新七事河竹黙阿弥」と刻まれています。
 その下に「吉村氏」とあるのは、本姓が「吉村」であるからです。
 お墓の脇には、曾孫の河竹登志夫氏が書いた碑も建てられています。

c0187004_1648210.jpg 源通寺は、武田信玄と戦って敗れた信濃国深志城(現在の松本城)主小笠原長時の長子長隆が、父の菩提のために外神田の東本願寺で出家して、 慶長15年(1610)に源通寺を建立しました。
 その後、何度か移転した後、明治41年に浅草から上高田の現在地に移転しました。

赤印が「河竹黙阿弥終焉の地」の標柱です。東京メトロ「両国」駅から徒歩7分程度です。

 青印が源通寺です。 JR東中野駅や東京メトロ落合駅から各6分程度です。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-29 18:17 | Trackback
河竹黙阿弥住居跡(河竹黙阿弥ゆかりの地)
 今日から数回に分けて河竹黙阿弥ゆかりの地について書いていきます。

 河竹黙阿弥は、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。

c0187004_1195530.jpg 河竹黙阿弥は、分化13年(1816)に日本橋の越前屋勘兵衛の長男として生まれました。
 若いときから遊蕩にふけり、14歳で勘当されて、貸本屋の手代となったこともあったようです。
 天保6年(1835)、20歳のときに5代目鶴屋南北の門に入り、狂言作者見習となりました。
 天保14年には2代目河竹新七を名乗って江戸河原崎座の立作者となりました。
 嘉永7年(1854)、4代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が当たりをとり市川小団次に認められ、 以後、慶応2年(1866)に小団次が亡くなるまで,彼のために多くの傑作を書きました。
 天保14年(1843)天保の改革で水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、河竹黙阿弥も間もなく芝から浅草の浅草寺の子院である正智院の地内に住まいを移しました。
 
現在、雷門と宝蔵門の間は、仲見世となっていますが、江戸時代には、雷門と仁王門(現在の宝蔵門にあたる)の間には、浅草寺の子院が建ち並んでいました。
 正智院も、そうした子院の一つでした。
 正智院の地内(じない)に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようになりました。

c0187004_11251282.jpg  そして、明治20年に本所に引っ越しするまで、浅草で暮らしました。
 仲見世の中ほどの横丁を東に入ると仲見世会館があります。
  その正面横に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が建っています。(右上写真)

  また、浅草神社の境内には、「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。
  左写真の右側の碑が顕彰碑です。



 赤印が「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」です。仲見世会館の入り口脇にあります。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-28 11:20 | Trackback
赤穂浪士の戒名
 今日は「赤穂浪士の戒名」について書いてみます。
 c0187004_23581287.jpg
 江戸文化歴史検定の今年のお題は「忠臣蔵」となりました。
 江戸文化歴史検定協会のホームページの例題に次のような問題がでています。

 元禄15年(1702)12月、吉良邸に討ち入り、翌年2月切腹を命じられた赤穂浪士46人の墓が泉岳寺にあります。
 さて、彼らの戒名には必ずある字がつけられていますが、それは次のどれでしょう? .
  い) 仁   ろ) 徳   は) 刃   に) 義

 その回答は、下の写真をご覧いただければわかると思います。 
c0187004_23512365.jpg

 この三つのお墓は、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門のお墓です。
 お墓の中央に戒名が刻まれていて、右脇に俗名、左脇に年齢が刻まれています。
 吉田忠左衛門の戒名は刃仲光剱信士
 原惣右衛門元辰の戒名は刃峰毛剱信士
 片岡源五右衛門高房の戒名は刃勘要剱信士
 となっています。
 共通にある文字は「刃」と「剱」です。ということは、上の例題の答えは「は」ということになります。

c0187004_2350335.jpg

 赤穂浪士のお墓は御預けとなった大名家ごとにまとまって配置されています。(上の写真参照)
 そこで、大名家ごとの赤穂浪士の戒名を書いておきます。

細川家御預け17人  
 大石内蔵助良雄     忠誠院刃空浄剱居士
 吉田忠左衛門兼亮    刃仲光剱信士
 原惣右衛門元辰     刃峰毛剱信士
 片岡源五右衛門高房  刃勘要剱信士
 間瀬久太夫 正明     刃譽道剱信士
 小野寺十内秀和     刃以串剱信士
 間喜兵衛光延       刃泉如剱信士
 磯貝十郎左衛門正久  刃周求剱信士
 堀部弥兵衛金丸     刃毛知剱信士
 近松勘六行重       刃随露剱信士
 冨森助右衛門正因    刃勇相剱信士   
 潮田又之丞 高教     刃窓空剱信士
 早水藤左衛門 満堯   刃破了剱信士
 赤埴源蔵 重賢      刃廣忠剱信士
 奥田孫太夫 重盛     刃斎周剱信士
 矢田五郎右衛門助武  刃法参剱信士
 大石瀬左衛門信清   刃寛徳剱信士

松平家御預け10人
 大石主税良金       刃上樹剱信士
 堀部安兵衛武傭      刃雲輝剱信士
 中村勘助正辰       刃露白剱信士
 菅谷半之丞 政利     刃水流剱信士
 不破数右衛門正種    刃觀祖剱信士
 木村岡右衛門貞行    刃通普剱信士
 千馬三郎兵衛光忠    刃道巫剱信士
 岡野金右衛門包秀    刃回逸剱信士
 貝賀弥左衛門友信    刃電石剱信士
 大高源五忠雄       刃無一剱信士

毛利家御預け10人
 岡島八十右衛門常樹   刃袖拂剱信士
 吉田沢右衛門兼貞    刃當掛剱信士
 武林唯七隆重       刃牲春剱信士
 倉橋伝助武幸       刃煅錬剱信士
 間新六光風         刃模唯剱信士
 村松喜兵衛 秀直     刃肴梅剱信士
 杉野十平次次房      刃可仁剱信士
 勝田新左衛門武堯    刃量霞剱信士
 前原伊助宗房       刃補天剱信士
 小野寺幸右衛門秀富   刃風颯剱信士

水野家御預け9人
 神崎与五郎 則休     刃利教剱信士
 三村次郎左衛門包常   刃無瑚剱信士
 横川勘平宗利       刃常水剱信士
 茅野和助 常成       刃響機剱信士
 間瀬孫九郎正辰      刃太及剱信士
 村松三太夫高直      刃清元剱信士
 矢頭右衛門七教兼    刃擲振剱信士
 奥田貞右衛門行高    刃湫跳剱信士
 間十次郎光興       刃澤藏剱信士

そして、密命説・逃亡説など諸説がある寺坂吉右衛門だけは、戒名に「刃」と「剱」がつけられていません。
 寺坂吉右衛門信行    遂道退身信士
 
 
[PR]
by wheatbaku | 2012-12-27 09:34 | 忠臣蔵 | Trackback
高輪大木戸(赤穂浪士の引き揚げルート37)
 さて、赤穂浪士の引き揚げルートも、いよいよ泉岳寺に近づいてきました。
 今日は、高輪大木戸です。

 高輪大木戸は、都営地下鉄「泉岳寺」駅のすぐそばにあります。
 高輪大木戸は、東京都の史跡に指定されています。

 東京都教育委員会の説明板があり、それに基づいて書くと次のようになります。

c0187004_224618.jpg 高輪大木戸は、芝口門が新橋に移転した年の宝永7年(1710年)に芝口門にたてられたのが始まりといわれています。
 そして、享保9年(1724年)に現在地に移されました。
 また、現在地に宝永7年(1710年)に造られたという説もあります。

 高輪大木戸は、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていました。
 天保2年(1831年)には、ここより北にある「札の辻」から高札場も移されました。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は石垣だけとなっています。
 
 東海道を行く旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく、月見の名所でもありました。

c0187004_2252441.jpg 歌川広重の名所江戸百景の中に「高輪うしまち」というのがあります。
 高輪大木戸を出た岡側に、車町、俗称「牛町」という町がありました。
 寛永11年(1634)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まります。
 この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(いわゆる牛町)が作られました。
 それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになりました。
 この絵には、手前に大きく牛車が書かれています。
 そして、絵をよく見ると遠く海の中にはお台場が見えています。
 この絵が描かれたのが、 安政4年(1857)です。
 お台場は、嘉永6年(1853)8月から安政元年(1854)5月の間に作られましたので、描かれていて不思議はありません。

 赤印が高輪大木戸です。間もなく泉岳寺です。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-26 08:08 | 忠臣蔵 | Trackback
御田神社(赤穂浪士引き揚げルート36)
 「住友不動産三田ツインビル西館」を右手に見て品川方面に向かうと、右手に「セブンイレブン」があります。
 そのセブンイレブンの先にあるのが「箕田八幡神社」です。第一京浜から少し奥に入り、石段を上った上に社殿があります。

 箕田八幡神社は、和銅2年(709)に、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか】(現在の白金近辺)というところに、東国鎮護の神様としてまつられました。鎮座後1300年が経つという大変歴史のある神社です。
c0187004_20271873.jpg その後、寛弘8年(1011)に、武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座されました。
 この辺りは、源頼光の四天王一人として有名な嵯峨源氏の渡辺綱が誕生した地との伝説があります。
 綱町三井倶楽部の中には渡辺綱の産湯の井戸といわる古井戸が残されています。また、江戸時代には「綱町」とも呼ばれていました。
 こうしたことから御田八幡神社は渡辺氏の氏神として崇拝され、渡辺綱にちなんで俗に「綱八幡」と呼ばれました。

 そして、江戸幕府が開かれた後、別当寺の僧快尊が元和5年(1619)に占いにより現在地に造営を開始し、寛永5年(1628)に遷座したといいます。
 明治になり神仏分離により別当僧が神主職に就いたそうです。
 明治2年9月稗田神社と称した後、明治7年に三田八幡神社と改称し、さらに明治30年三田を御田の旧名に復し御田八幡神社と称するようになりました。
 元々「御田」と書いたのが「三田」と書かかれるようになったのは、宮司の水野様のお話では、御田のふりがなとして「ミタ」とふっていたのが、いつしか「三田」と書かれるようになり、「三田」が一般化したとののことでした。
 ですから、本来は「御田」なのだそうです。
 昭和20年5月に、米軍による空襲により、江戸時代のご社殿を焼失し、昭和29年に、本殿、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所が再建されました。
 平成21年には鎮座して1300年を祝う大祭が行われました。


 この御田八幡神社は、赤穂浪士引き揚げ時のエピソードがあります。
c0187004_20274494.jpg 
 赤穂浪士の引き揚げの途中で、この御田八幡神社の前で、高田郡兵衛が現れ、お祝いを述べたと言われています。
 しかし、高田郡兵衛は江戸急進派の一人でありながら、討ち入りから脱落したため、赤穂浪士一行は無視したそうです。

25.9.11追記
 赤穂浪士を預かった細川家の「堀内伝右衛門筆記」には、このことが詳しく書かれています。
 高田郡兵衛が現れた時、赤穂浪士一行は無視しましたが、堀部弥兵衛だけが討入りが成功し吉良上野介の首を泉岳寺に持っていくところと話すと、郡兵衛は、安堵されたことでしょう。私も御田八幡に討入りの成功を祈願するために立ち寄ったのですと答えた。
 その後、郡兵衛は、酒を持って泉岳寺に現れたが、酒を返すように門番に伝えたという。


 これに関して、御田八幡神社の宮司の水野様が言うには、赤穂浪士一行は御田八幡神社の前を通らなかったのではないかというふうに言っていました。
 その理由は、御田八幡神社の上を通った方が、人が少なくかつ泉岳寺に近いという点、それに神様は血の穢れを嫌うので、生首を持って、神社の前を通ることはなかったのではないかというものです。
 確かに、元禄時代には服忌令という法令が発令されて、けがれについては大変厳しく決められたという時代でもありますので、そうしたことが考えられると思いました。

 赤印が御田八幡神社です。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-25 07:17 | 忠臣蔵 | Trackback
「元和キリシタン遺跡」碑(赤穂浪士引き揚げルート35)
 JR田町駅から第1京浜を品川方面に進むと、札の辻交差点を過ぎて泉岳寺方面に向かうと第一京浜の西側に「住友不動産三田ツインビル西館」があります。
c0187004_22392274.jpg 「住友不動産三田ツインビル西館」は広い敷地があります
 。その北側と西側が広い広場になっていて、「元和キリシタン遺跡」の碑がツインビル西館の北側から奥に入ったところにあります。
 広場を通って、広くゆるやかな階段を上りつめると正面に碑があります。

 「元和キリシタン遺跡」は昭和34年に都旧跡に指定されました。
 東京都教育委員会の説明板には次のように書かれています。

 徳川3代将軍家光が元和9年(1623)10月13日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。c0187004_22394245.jpg 処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウェス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくもとの智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。
 その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
 なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
 昭和43年3月1日建設  東京都教育委員会      

 この説明に書かれている智福寺は、幕末の切絵図には「知福寺」と書かれています。
 昭和41年に上石神井に移転し、現在は上石神井にあります。

 碑の前の道をさら進むとエレベーターがあり、済海寺方面への抜けられるようになっています。

 赤印が「元和キリシタン遺跡碑」です。 青印は「住友不動産三田ツインビル西館」です。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-24 10:31 | 忠臣蔵 | Trackback
札の辻 (赤穂浪士引き揚げルート34)
 赤穂浪士は現在の田町駅前を通り泉岳寺に向かいました。
 現在の田町駅の目の前には、元禄時代には、岡崎藩主であった水野家の中屋敷がありました。
c0187004_0513196.jpg 藩主水野忠之は、8代将軍吉宗の時に筆頭老中となり、吉宗の享保の改革を担う重要な役割をはたしますが、当時は、元禄12(1699)年実家の兄忠盈の死により遺領を継ぎ岡崎藩主となったばかりでした。
 しかし、刃傷事件発生時には、鉄砲洲の上屋敷に行き、藩士の動揺を取り押さえていました。
 泉岳寺に向かった赤穂浪士一行は、当日中に、大名4家に御預けとなりますが、その一つが岡崎藩水野家でした。
 この水野家については、過去に書いていますので、 「水野忠之と水野監物邸跡碑」 をご覧ください。

 さて、浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。
c0187004_043116.jpg 左写真は田町駅側から見た札の辻の交差点です。
 札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。
 「札の辻」というの地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。
 埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。
 また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。
 その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて  六大高札場と呼ばれていました。 六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。

c0187004_0432390.jpg 元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。
 そして、高札場は、後に 天和3年(1683) に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されましたと港区教育委員会の説明板には書かれています。
 なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設とのことこっちが正しいのは確認できていません。
 高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は 「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。
[PR]
by wheatbaku | 2012-12-23 09:05 | 忠臣蔵 | Trackback
西郷隆盛・勝海舟会見の地(赤穂浪士の引き揚げルート33)
 今日は、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟が会談した場所のご紹介です。

c0187004_16161362.jpg JR浜松町駅から徒歩3分の場所に、三菱自動車工業の本社ビルがありますが、そのビルの歩道わきに「西郷南洲・勝海舟 会見之地」と書かれた記念碑が立てられています。 
 ここで新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会見し江戸無血開城を取り決めました。

 江戸城無血開城に至る経緯を書くと次のようになります。
3月6日 山岡鉄舟江戸を出発

 3月9日 山岡鉄舟駿府到着、西郷と会談
 山岡は西郷と会談を行い、江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されました。

 それは以下の7箇条です。

c0187004_16133651.jpg  1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
 2.江戸城を明け渡すこと。
  3.軍艦をすべて引き渡すこと。
  4.武器をすべて引き渡すこと。
  5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
 6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
 7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

 山岡は、第1条は絶対飲めないといって反論したので西郷が折れました。
 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告しました

 3月13日、勝と西郷が高輪の薩摩屋敷において会談します。
 この日、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。
 ただ、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。

 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八、桐野利秋を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。
 この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。

c0187004_16164033.jpg 勝はその14日の会談のことを後年『氷川清話』の中で次のように語っています。

 「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。 「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします。」西郷のこの一言で江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」


  会見の場所となった薩摩藩の田町藩邸は、薩摩藩の蔵屋敷でした。
  この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされていました。

 実は、3月14日の西郷・勝の会談が行われた場所については、田町藩邸のほか、高輪藩邸、愛宕山、田町の橋本屋など諸説があるようです。

 田中惣五郎氏は、人物叢書「西郷隆盛」の中で、「田町藩邸」としています。
 勝部真長氏は、「勝海舟」の中で、「田丁(たまち)の蔵屋敷」としています。
 海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」の中で、「芝田町の薩摩屋敷」としています。
 このように、「田町藩邸」とする人が多いようです。

 しかし、
 犬飼隆明氏は、岩波新書「西郷隆盛」の中で、「田町の橋本屋というしもた屋」としています。
 また、
 吉村昭氏は、「彰義隊の」の中で、3月13日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、その後、愛宕山に一緒に登ったとしており、3月14日の会談も(高輪の)薩摩藩邸としています。
 
赤印が「西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑です。三菱自動車工業の本社前にあります。

[PR]
by wheatbaku | 2012-12-21 07:51 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
プロフィールを見る
画像一覧
ブログパーツ
最新のコメント
ツユクサさん 江戸城散..
by wheatbaku at 12:53
獏様 江戸城散策、お疲..
by ツユクサ at 08:26
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 11:42
今回のブログで、霊厳寺が..
by 宮越重遠 at 10:51
やぶひびさん 本妙寺は..
by wheatbaku at 13:05
「江戸から東京へ1」を図..
by やぶひび at 09:30
ツユクサさん 土曜日は..
by wheatbaku at 21:00
獏さん 案内お疲れ様で..
by ツユクサ at 11:10
小ツルさん 「むさしあ..
by wheatbaku at 09:50
バクさま、加州そうせい公..
by 鶴ヶ島の小ツル at 16:57
加州そうせい公様 私も..
by wheatbaku at 07:34
バクさん 昨日の江戸楽..
by 加州そうせい公 at 17:31
mikawaさん 先日..
by wheatbaku at 12:55
宮越さん コメントあり..
by wheatbaku at 09:03
宮越さんからコメントをい..
by wheatbaku at 09:00
mikawaです。先日は..
by mikawa ケンイチ at 08:17
ツルさん 名古屋に住ん..
by wheatbaku at 16:18
獏さま ははあ、あの石..
by 鶴ヶ島の小ツル at 15:20
やぶひびさん NHKB..
by wheatbaku at 17:54
今夜3/3.20:00~..
by やぶひび at 12:49
最新のトラックバック
穴八幡宮
from Coffee, Cigare..
風景印  28.4.30..
from としちゃんの風景印・郵趣日誌
山王日枝神社@溜池山王
from たび☆めし☆うま BLOG
浮世絵の誕生・浮世絵の歴..
from dezire_photo &..
小網神社@人形町
from たび☆めし☆うま BLOG
二つの感応寺
from Madam&#039;Blog
江戸検講座「江戸の祭礼と..
from Madam&#039;Blog
浅草寺本尊示現会
from Madam&#039;Blog
江戸料理 八百善
from お気楽マダムの奮闘記
‘七福神’宝船 装飾新調..
from ローカルニュースの旅
お気に入りブログ
江戸・東京ときどきロンドン
ファン
ブログジャンル
歴史