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東禅寺①(高輪散歩3)
 今日は、東禅寺のご案内をします。

 東禅寺は、品川駅から、第一京浜を田町方向に歩いて、丘陵側に少し入った場所にあります。
 東禅寺は臨済宗妙心寺派の別格本山です。
 妙心寺派の江戸四箇寺の1つでした。
 江戸四家事箇寺とは、東禅寺の他、湯島の麟祥院、浅草の海禅寺、牛込の松源寺を言いました。c0187004_2125128.jpg  東禅寺は、慶長15年(1610)嶺南和尚が日向国飫肥藩(現在は日南市飫肥)2代藩主伊東祐慶(すけのり)の帰依を受け、溜池付近の邸宅をもとにして開きました。
 当初は嶺南庵と呼ばれ、アメリカ大使館からホテルオークラの間にある霊南坂の由縁となりました。
 開基の伊東祐慶の法名が東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士ですので、東禅寺という寺号は伊藤祐慶の法名からとられたものと思われます。

c0187004_2128615.jpg 寛永13年(1636)、現在地に移転。眼前に江戸湾が広がることから海上禅林とも呼ばれ、その額も本堂に掲げられています。
 本堂と庫裏は昭和6年に建てられたものです。
 以前のものが震災や火災にあったためでなく、古くなったため建て替えられたとのことでした。

 江戸時代の境内は、多くの塔頭が建ち並んでいたそうですが、現在は、緑の多い静かな雰囲気の境内となっています。
 その境内に大きくそびえる三重塔が建っています。
 この塔は、建築後25年とのことですので、昭和の終わりに建てられたようです。


c0187004_21294845.jpg 江戸時代には東禅寺は、開基の飫肥藩伊東家をはじめ多くの大名の菩提寺でした。
 そのため、少し離れた墓地には、今も諸大名の見事な墓群がありますが、一般の人には公開されていません。
 その中で、墓所の外から見えるお墓がいくつかあります。
 左写真は、飫肥藩伊藤家の墓碑群です。
 右下は、仙台藩伊達家の合祀墓です。

 東禅寺を菩提寺としていた大名家は次のようです。
 陸奥仙台藩伊達家   伊予宇和島藩伊達家    伊予吉田藩伊達家
 備前岡山藩池田家   備前赤穂藩池田家     備前鴨方藩池田家 
 備前生坂藩池田家   日向飫肥藩伊東家     信濃高島藩諏訪家
 美濃加納藩松平家   大和柳本藩織田家     豊後臼杵藩稲葉家     
 豊後佐伯藩毛利家
      
 
c0187004_2241976.jpg また、蘭学者大槻玄沢のお墓が港区の史跡となっているのですがこれもみることができません。
 大槻玄沢は、仙台藩の藩医ですが、江戸に出て杉田玄白・前野良沢に師事しました。名は茂質(しげかた)、号は磐水といいます。
 玄沢は通称です。玄沢の「玄」は杉田玄白から、「沢」は前野良沢から頂いた名前です。
 蘭学の入門書『蘭学階梯』を書き、解体新書の新訳版の「重訂解体新書」を書きました。
 また、蘭学塾「芝蘭堂(しらんじゅく)」を開き、毎年西暦の正月に蘭学者が集う阿蘭陀正月(新元会)を催し、評判となりました。


赤印が東禅寺です

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by wheatbaku | 2013-01-30 21:30 | 大江戸散歩 | Trackback
薩摩藩高輪邸跡と旧竹田宮邸(高輪散歩2)
 今日から、高輪周辺の史跡についてご案内します。
 
 品川駅を下車して高輪口を出ると正面に見えるのがSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)です。
以前は「ホテルパシフィック東京」でしたが、現在は、ビジネスホテルの「京急EXイン品川駅前」核テナントとした複合商業施設となっています。
c0187004_2371668.jpg 京浜急行電鉄が所有しています。
 江戸時代は、ここは薩摩藩の高輪藩邸でした。
 ここで、慶応4年3月13日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1回の話し合いが行われました。
 ここでの会談は、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。しかし、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れました。
 そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
 そして、二人の会見の結果、江戸無血開城を取り決めました。
 
 ここは、明治後半以降には、朝香宮家、東久邇宮家の邸宅があったようです。
 このうち、朝香宮邸は、昭和8年に白金(東京都庭園美術館)に引っ越しました。
 そして、東久邇宮邸を、京浜急行が取得し、「ホテルパシフィック」を開業しました。

 お隣にあった竹田宮邸、北白川宮邸の跡地はプリンスホテルが取得して、それぞれ、グランドプリンスホテル高輪、グランドプリンスホテル新高輪となっています。
c0187004_2383978.jpg そのうち、グランドプリンスホテル高輪には、旧竹田宮邸が残されています。
当初は明治天皇の御用邸として計画されていましたが、北白川宮能久(よしひさ)親王の第一王子であった恒久と、明治天皇の第6皇女の常宮昌子(つねのみや・まさこ)との結婚(明治41年)に当たって、敷地とともに下賜されたものです。
 恒久は竹田宮家を創設し、ここを新居として暮らし始めました。
 しかし、竹田宮恒久王は、わずか37歳でスペイン風邪により亡くなります。
c0187004_2353890.jpg   設計者はジョサイア・コンドルの弟子であった片山東熊でした。
 竹田宮邸を手がけた時期と、ヴェルサイユ宮殿を模した迎賓館(旧赤坂離宮)の竣工時期とは重なっていて、ともにネオ・バロック様式*です。
 戦後、商工大臣公邸、通商産業大臣公邸を経て、昭和28年(1953)からは高輪プリンスホテルの所有となり、昭和47年に村野藤吾によって改修・復元されています。
 現JOC会長の竹田恒和氏は、竹田宮恒久王の孫にあたります。

 赤印がSHINSGAWAGOOSです。 青印が旧竹田宮邸です。

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by wheatbaku | 2013-01-30 07:26 | 大江戸散歩 | Trackback
直弼と容保はお友達(八重の桜 第4回「妖霊星」)
 「八重の桜」についてコメントをもう一回続けます。

 「妖霊星」では、昨日書いたように井伊直弼が松平容保を茶に招く場面がありましたが、「八重の桜」では井伊直弼と松平容保が一緒にいる場面が頻繁に出てきます。これには訳があります。
 井伊直弼と会津藩松平家とは特別の仲だったからです。

 溜間(たまりのま)というのは、江戸城内の黒書院の中にある部屋の名前です。
c0187004_1331177.jpg 江戸城に登城してここに詰める大名を溜間詰(たまりのまづめ)と言いました。
 ここに詰められる大名は、ごく少数の家門・譜代に限られました。
 彦根藩井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家の三家が常溜(じょうたまり)と呼ばれ歴代藩主が溜間詰に列せられる家柄です。
 ですから、元々井伊家と会津藩松平家は親しく交流していたようです。
 
 井伊直弼は、実兄で先代藩主である直亮が片意地であり、江戸城内でのしきたりなど教えてくれなかったそうです。
 そこで、直弼が江戸城内のしきたりを教えてもらったのは、同じ溜間詰であった会津藩主松平容敬(かたたか)と高松藩主松平頼胤(よりたね)でした。
 そうしたことから、松平容敬と松平頼胤とは親密に交際していました。 
 二人のうち特に松平容敬に直弼は傾倒していました。

 そして、容敬は当然ながら、容敬だけでなく、容敬の子供たちも含めて親密に付き合っていたようです。
 直弼の手紙に「我等事、此此(このごろ)は子供二人もうけ申候心持に候。十一歳之男子と十二歳之女子と、俄(にわか)に二人子持に相成申候」と書いています。
 この11歳の男子とは容保のことで、12歳の女子とは敏姫のことです。
 直弼が、容保と敏姫を自分の子供と同じだと言っているのです。
 このくらいですから、井伊直弼と容保との交際も頻繁に行われていたと思われます。

(右上写真は、埋木舎に展示されていた直弼の肖像画です。
 また、右下の写真は、直弼が頼胤に出した手紙の覚書で、重要文化財に指定されています。彦根城博物館に展示されていました。)


 なお、溜間詰には、常溜のほか飛び溜という家柄がありました。
c0187004_13315690.jpg 姫路藩酒井家、伊予松山藩松平家、忍松平家、桑名松平家の四家です。
 さらに、老中などを務めたものが優遇されて、一代限り、溜間詰になる場合があります。
 これを溜間格といったようです。 安政元年の場合では、佐倉藩堀田家と小浜藩酒井家などが溜間格でした。
 

 安政元年の溜間詰大名の一覧表がありましたので書いておきます。
 常溜   近江彦根藩 井伊掃部頭直弼
       陸奥会津藩 松平肥後守容保
       讃岐高松藩 松平讃岐守頼胤
 飛び溜  播磨姫路藩 酒井雅楽頭忠顕
       伊予松山藩 松平隠岐守勝善
       武蔵忍藩   松平下総守忠国
       伊勢桑名藩 松平越中守猷
 溜間格  下総佐倉藩 堀田備中守正睦
       若狭小浜藩 酒井修理太夫忠義
       越後長岡藩 牧野備前守忠雅
       三河西尾藩 松平和泉守乗全
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by wheatbaku | 2013-01-29 08:10 | 大河ドラマ | Trackback
井伊直弼突然大老になる(八重の桜 第4回「妖霊星」)
 昨日の「八重の桜」では、多くの場面で井伊直弼が出てきました。
 そこで、今日は井伊直弼について、少し書いてみましょう。

 「八重の桜」の中で井伊直弼が「突然大老となった」というナレーションがありました。
c0187004_23514925.jpg 確かに井伊直弼が大老となったのは、彦根藩にとってもナレーション通り「突然だった」ようです。
 井伊直弼の大老就任について彦根藩の「公用秘録」という書物に「今日迄少しも御様子これなく、俄事(にわかごと)の由」と書かれていて「突然のことだった」と書かれています。

 こうなったのは
 松平春嶽に大老を仰せ付けられるように、(老中首座の堀田睦が)将軍家定に伺ったところ。家定は驚いて「家柄からいって、また人物からいって、彦根(井伊直弼)を差し置いて越前(松平春嶽)に申し付ける筋ではない、掃部頭(井伊直弼)に申し付けるように」といったので、急に決まったようです、
 
 井伊直弼が大老となったのは、老中の松平忠固(ただかた)が、紀伊和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)を次期将軍にしようとする南紀派の新宮城主で紀州藩付家老の水野忠央(ただなか)と気脈を通じて、将軍家定に直弼の起用を進言し成功したからと言われています。

 右上写真は彦根城内の金亀児童公園に建つ井伊直弼の銅像です。

 井伊直弼が大老となったため、日米修好通商条約が調印され、さらに将軍世継には、一橋慶喜ではなく徳川慶福とすることが決まり、急速に政局が展開したことは「八重の桜」で描かれていました。

 
 「八重の桜」の中では、井伊直弼が、自邸で松平容保にお茶を立てる場面が出てきました。

 意外と知られていませんが、井伊直弼はお茶が得意で、一派を作るほどでした。
 「埋木舎」と名付けた屋敷で不遇な青年期を過ごしている間、直弼は茶道には熱心に取り組みました。
c0187004_2352874.jpg 武家の茶湯である石州流を学び、ついに奥義を窮め、一派をつくりました。
 直弼が書いた茶の本として「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」や「閑夜茶話」などがあります。
 茶道具を自分で作ったりデザインを考案して制作させたりしています。
 左写真は、直弼が形を指定して作らせた「六種棗(ろくしゅなつめ)」と呼ばれるものです。
 彦根城博物館に展示されていました。
 直弼が茶道の極意と言われる「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の意を詠んだ和歌に
 そよと吹くかぜになびきて すなほなる姿をうつす岸の青柳
 という歌もあります。
 こうした直弼ですから、茶での接待は心得ていたわけです。
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by wheatbaku | 2013-01-28 07:30 | 大河ドラマ | Trackback
高輪散歩1
 昨日は、毎日文化センターの受講生の皆さんと忠臣蔵ゆかりの地を中心に高輪を散歩してきました。

 昨日のコースは、
 品川駅 ⇒ 薩摩藩高輪藩邸跡 ⇒ 竹田宮邸 ⇒ (光福寺) ⇒ 東禅寺 ⇒ 高輪教会 ⇒ 高野山東京別院 ⇒ 高輪消防署二本榎出張所 ⇒ 承教寺 ⇒ 
広岳院 ⇒ 細川家下屋敷跡 ⇒ 高松宮邸 ⇒ (細川家しいの木) ⇒  (薬王寺) ⇒ 正山寺 ⇒ (三田台公園) ⇒ (亀塚公園) ⇒ 済海寺 ⇒ 正覚院 ⇒ 玉鳳寺 ⇒ 清久寺 ⇒ 長松寺 ⇒ 東京メトロ「白金高輪駅」

 町名は高輪と三田ですが、狭い地域に多くの寺院があり寺町になっています。
 そして、史跡や文化財がたくさんある地域ですので、見るべき所が数多くあります。
 (  )は、時間の関係で飛ばした所ですが、ブログの中ではご案内したいと思います。


 今回の高輪散歩では、 承教寺さん、正山寺さん、正覚院さん、清久寺さんで、貴重なものを、拝観させてもらいました。
c0187004_11101995.jpg【英一蝶の釈迦如来像】
 まず承教寺(じょうきょうじ)の江戸時代中期に活躍した絵師の英一蝶(はなぶさいっちょう)が描いた「釈迦如来像」です。

 副住職がわざわざ本堂内の和室にかけておいていただき、丁寧にご説明いただきました。


c0187004_11125259.jpg【大石良重の御位牌】
次いで、正山寺の大石良重(よししげ)の御位牌です。
 御住職にはお待ちいただきました。
 大石良重の御位牌は本堂内の中央に安置されていました。


c0187004_11132932.jpg【福島正則の墓】
 正覚院には、福島正則とその子正利のお墓がありました。
 ここでは、御住職にご丁寧に説明していただきました。


c0187004_11134892.jpg【磯貝十郎左衛門の御位牌】
 清久寺では、赤穂浪士の一人「磯貝十郎左衛門」のご位牌を見させていただきました。
 御位牌を本堂の中央に安置していただき、御住職が詳しく説明していただきました。



 四人のご住職には大変ご親切に対応いただき、丁寧にご説明いただきました。
 本当に感謝いたします。
 また、ご参加いただき受講生の皆さんお世話になりました。今回も楽しい散歩になりました。
  

 これから順次、高輪の史跡についてブログにアップしていきます。
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by wheatbaku | 2013-01-27 11:00 | 大江戸散歩 | Trackback
媛姫(はるひめ)毒殺事件(「八重の桜」余談)
 最近、大河ドラマ「八重の桜」の影響だと思いますが、「会津藩家訓」についてのアクセスが非常に多くなっています。 そこで、今日は、「会津藩家訓」についての補足をします。
 なお、会津藩家訓についてはこちら ⇒ 「会津藩家訓(かきん)(松平容保③)」 をお読みください。

 会津藩家訓を読んでいただいて、それぞれ納得いくものが多いと思いますが、一つだけ異質と感じる条項があります。
 それは第4条の 婦人女子の言 一切聞くべからず です。

 保科正之ほどの名君であれば、通常であればこんな頑迷な条項をわざわざ入れることはないと思います。「婦女子の言を聞いたとしても対処できる」ほどの力量は持っていたと思われるからです。
 しかし、正之は、この条項を入れています。
 実は、この条項は、保科正之の非常に苦い経験から出ているもので、正之としては、是非とも入れなくてはならならない条項だったのだと思います。

c0187004_946166.jpg 保科正之の正室は、磐城平藩内藤正長の娘菊姫です。
 しかし、この菊姫は20歳で亡くなってしまいました。
 そして、その後継室となったのが於万の方です。於万の方は多産で、正之との間に長女媛姫(はるひめ)をはじめ四男五女の子供ができました。
 その他、三人の側室もいました。その一人「おしほの方」との間には、松姫はじめ二女の子供がありました。
 於万の方が生んだ長女媛姫は明暦元年に米沢藩主上杉綱勝に嫁ぎました。
 そして、万治元年に今度は、側室おしほの方の生んだ四女松姫が加賀藩主前田綱紀に輿入れすることが決まりました。
 そして、婚礼の前日お祝いの席が設けられました。その席には、上杉家に嫁入りしていた媛姫も出席しました。 その二日後、媛姫が急死してしまいました。

 正之は、早速調査させました。その調査の結果驚くべきことが判明しました。

 これは、於万の方が、側室の産んだ松姫が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先の米沢藩上杉家より大藩の前田家に嫁ぐのに嫉妬して、松姫の暗殺しようとし。松姫の膳に毒を盛ったためでした。
 しかし、松姫付の老女が、媛姫より先に松姫に膳が出たのを見咎めて、先に姉の方に膳を出すように指示し、松姫の膳を媛姫の膳と取り換えさせました。
 そして、何も知らない媛姫がそのま食べたため毒死してしまったのでした。

c0187004_946286.jpg つまらない嫉妬のため、於万の方は、自分の娘を毒殺することとなったわけです。
 激怒した正之は、於万の方の指示をうけた毒殺を図った関係者18名を処刑しました。
 しかし、於万の方は、嫡子正経の母親であったため、成敗まではしませんでしたが、中屋敷に遠ざけました。

 こうしたことがあったため、家訓第4条が入れられたと考えられています。

 正之の死後、於万の方は、自分の産んだ正経が2代藩主となったため、以前の威勢を盛り返したそうですが、3代の正容の時代になるとわがままは許されず、さびしい晩年だったといいます。
 その於万の方(剃髪後は聖光院)のお墓が、三田の実相寺にあります。
 本堂の右手に会津藩主関係の墓域がありますが、その真ん中に周りを圧するほど大きな墓碑が聖光院のお墓です。

 赤印が実相寺です。

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by wheatbaku | 2013-01-24 09:51 | 大河ドラマ | Trackback
小川菊(江戸の老舗の味)
 川越に行った際に、江戸時代から続くうなぎ料理の老舗「小川菊(おがきく)」に寄りましたので、今日は「小川菊」の紹介です。

 「小川菊」は市内の大正浪漫夢通りにあります。
 西武川越線「本川越」駅から1キロメートル弱ですので徒歩で8分程度かかります。
 古き良き大正時代を思わせる大正浪漫夢通りは、久しぶりに歩きましたが、大正浪漫の風情が以前に増していて、整備が進んでいるなぁと感じました。
 「小川菊」は大正浪漫夢通りの北部にあります。
 「小川菊」は、 江戸時代の文化文政期の創業で、現在のご主人は7代目だそうです。
c0187004_22461244.jpg
 『小川菊』の建物は大正13、4年に建てられた珍しい3階建てです。
 よく見ると上の階に行くにつれて道路から後退するように出来ています。
 川越市の「都市景観重要建築物等」にも指定されています。
 お店の前には行列ができていました。私たちの前には10人ほど待っていました。


c0187004_22511890.jpg 店内に入ると、予想外に新しくきれいな造りでビックリしました。
 それもそのはず、12月末まで、耐震補強工事を行い、店内を改装したとのことでした。
 メニューははうなぎだけです。
 特 3700円
 上 3000円
 重 2500円
 うざく 700円、かぶと焼 500円、 骨せん 300円、 おしんこ600円 です。



 待つこと20分出てきたうな重は見るからにうまそう。
 お腹もすいていたので、すぐにたべたいところをじっと我慢して、写真撮影しました。
c0187004_22493544.jpg
 さぁ、それではと食べ始めました。
 鰻はふわふわで溶けてしまいそうなくらい柔らかい。
 タレは多少甘目でした。

 いろいろなお店でうなぎを食べましたが、トップクラスでした。
 あっという間に食べおわり、もう少し欲しいというほどのおいしさでした。
 大変満足し、もう一度行きたいお店となりました。
 来年もまた来ようと心に決めました。

 赤印が「小川菊」です。 先日紹介した「仙波東照宮」は青印です。

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by wheatbaku | 2013-01-23 07:46 | 江戸の老舗 | Trackback
容保は和歌の名手(八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」)
 日曜日の「八重の桜」では、敏姫と結婚した容保がお国入りすることを寂しがる敏姫に、義姉の照姫が和歌をやりとりするようにと提案する場面がありました。

 実は、松平容保は、和歌の名手でもありました。
c0187004_23484549.jpg 容保は、実父である美濃高須藩主松平義建(よしたつ)や義姉の照姫から和歌の手ほどきを受けて、和歌に精進しました。
 また幕末の歌人小出粲 (こいで-つばら)にも師事しています。

 容保は時間があれば花鳥風月を詠んで楽しみ、容保が詠んだ和歌は、生涯で2300首以上と言われていて、人生の節目には、その心境を和歌に歌っています。

 非常に有名なものが、京都守護職を受けるかどうか大変迷っている時に、実父の義建に送った次の和歌です。
 行くも憂し 止まるもつらし 如何にせん 君と父と 思うこころ

 容保の当時の心境を素直に歌っているように思います。

 ちなみに、この歌に対する義建の返した歌は次の通りです。
 父の名は よし立てずとも 君がため 勲(いさを)あらわせ 九重のうち

c0187004_23512825.jpg 容保は、戊申戦争後の幽閉生活時代にも、度々歌会を催したそうです。
 この時詠んだ歌は「伊奈婆廼万都(いなばのまつ)」という歌集にまとめれられています。

 明治年間には「芳山公和歌集」という歌集も編纂されています。
 左写真は、右側が「伊奈婆廼万都」で、左が「芳山公和歌集」です。

 戊辰戦争戦死者23回忌に容保が詠んだといわれる歌は次の通りです。

 「なき跡を 慕うその世は隔たれど なお目の前の 心地こそすれ」

 上記の松平容保の写真は国立国会図書館ホームページから転載したもので、国立国会図書館の許可を得て掲載しております。
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by wheatbaku | 2013-01-22 07:30 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩の江戸湾警備(八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」)
 昨日の「八重の桜」は、八重と川崎尚之介(八重の最初の夫になる人物)の出会いと山本覚馬が蘭学所の設立に苦労するストーリーが中心でした。
 その中で、保守的な軍制を続けようとして、軍制改革の提案や洋学所設立を認めようとしない藩重臣に対して、覚馬が「お殿様は、理解しないはずがない」と叫ぶ場面があります。

 会津藩は、早い段階から、江戸湾警備に携わっていますし、容保も房州の海防体制の視察も行っていますので、覚馬の指摘は正しいように思います。

 今日は、江戸湾警備に携わった会津藩について書きます。
c0187004_22274694.jpg 江戸湾の警備が、重要視されるようになったのは、寛政年間です。
 寛政4年(1792)にロシア使節ラクスマンが、根室に来航し日本の通商を求めましたが、この際に、江戸への回航を要求しました。
 これに驚いた老中松平定信が、江戸湾の防衛体制の整備に着手しました。
 しかし、松平定信が老中を辞任したことにより、この計画も中座しました。
 その後、北方でロシアとの緊張が高まったり、長崎で起きた「フェートン号事件」をきっかけに、文化年間に江戸湾の海防が再び注目されるようになりました。

 文化7年(1810)に、会津藩が江戸湾の相州側の警備を命じられました。
 対岸の房州側の警備を命じられたのは、白河藩(当時の藩主は江戸湾の警備強化を提案した松平定信)でした。
 文化7年11月には、会津藩士の移住が始まりました。遠方への長期出兵だったため家族同伴がゆるされました。
 そして文化8年から9年にかけて、観音崎、浦賀平根山、城ケ島に砲台が築かれ、陣屋は観音崎、平根山、三崎におかれました。
 警備隊は、番頭上席を責任者として、数名の番頭に指揮された軍隊、武具奉行、普請奉行、砲術家などの技術者、郡奉行を中心に民政にあたる者で編成されていました。
 この江戸湾警備は10年もの長期間に及びましたが、文政3年(1820)に、相州の警備は浦賀奉行所が担当することになり、会津藩は江戸湾警備の任を解かれました。

 その後、幕府直轄体制、忍藩・川越藩防衛体制の時代を経た後、弘化4年(1847)に「御固四家体制」になりました。

 御固四家体制とは、江戸湾の防衛力強化のため、従来の忍藩・川越藩に加えて、会津藩と彦根藩を警備担当に追加するものでした。
 ここでも、会津藩が引っ張りだされています。
 会津藩は、今回は房州警備を命じられ、彦根藩が相州警備を命じられました。
 7月20日に、会津若松を第一隊が出発し、8月15日には、竹岡台場、16日に富津台場を忍藩から引き継いでいます。
 この2か所に陣屋が設けられ、派遣された兵力は約1400名でした。
 時の会津藩藩主は8代藩主容敬(かたたか)でしたが、同時に警備を命じられた井伊直弼が容敬を「当今英雄之大将、天下の御為無二の忠臣、実に感服致し候」と高く評価しているようです。
 容敬の死後、18歳で藩主となった容保は、嘉永6年(1853)4月に房州を視察しました。
 ペリーが来航する2か月前のことです。
 嘉永6年6月3日にペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来ましたが、これにより、より江戸に近い場所での防衛体制の必要が認識され、いわゆるお台場が、江川太郎左衛門により構築されることになりました。
 嘉永6年8月21日に工事が始まり、一番台場から三番台場が竣工したのは同年7月9日でした。
 埋め立てに利用された土砂は、一番台場は御殿山最寄山、二番台場は下高輪松平駿河守元屋敷、三番は高輪泉岳寺山土でした。

 嘉永6年11月14日に会津藩は、房州警備の任を解かれ江戸湾の品川第二台場の防備に専任することになりました。そして、それは安政6年まで続きました。
 第二台場は、撤去されてしまい現在はありません。最上段の写真は第三台場です。

 このように会津藩は、江戸湾警備にも大きな役割を果たしています。
 この背景には、藩祖保科正之と将軍家との特別な関係に基づく譜代名門という家柄そして会津藩の強い軍事力と藩士の高い士気に対する幕府の強い期待があったものと思います。
 そして、幕府の期待に違わず江戸湾警備の任務を遂行したことが、その後の京都守護職への道につながることになったともいえるような気がします。
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by wheatbaku | 2013-01-21 07:08 | 大河ドラマ | Trackback
仙波東照宮
 今日は、川越の仙波東照宮について書きます。

c0187004_22434242.jpg 毎年恒例にしている川越の喜多院に御札授与にいってきました。
 例年、大勢の人が参拝しているのですが、今年はとりわけ多かったように思います。
 喜多院そのものも混雑していたのですが、周辺の道路の込み具合がすごかったです。


 今年は、喜多院とともに仙波東照宮もお参りしてきました。
c0187004_22442164.jpg 徳川家康が、久能山から日光に改葬された時に、4日間川越喜多院の本地堂に留まり、天海大僧正が丁重な法要を執り行いました。
 仙波東照宮はこの由縁から寛永10年(1633)に創建されたものです
 寛永10年に天海大僧正により創建さた東照宮は寛永15年8月の大火により焼失してしまったため、寛永17年に再建されたものです。
 随身門は朱塗の八脚門・切妻造りで、銅板で噴かれています。
 以前は、この随身門には後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」と書かれた額が架けられていたそうです。
 この随身門をはじめ、 本殿、 瑞垣、 唐門、 拝殿及び幣殿、 石鳥居は国の重要文化財となっています。

 石鳥居は、寛永15年9月に堀田正盛が奉納したものです。
c0187004_22444243.jpg 堀田正盛は造営奉行として再建の指揮をとっていました。
 堀田正盛は、春日局の義理の孫ですが、養子となっていましたし、家光の男色の相手であったとも言われていて、家光寵愛の家臣です。
 この堀田正盛が造営奉行ですので、家光の再建にかける意気込みがわかります。
 もっとも寛永15年8月の大火で燃える直前の同年3月まで川越藩主であったという事情もあるかもしれません。
 向かって左の柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」と刻まれています。

c0187004_2245416.jpg 拝殿は、桁行三間、梁間二間で単層入母屋造りで銅板で噴かれています。
 拝殿の中には、後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」の額があるそうです。
 また、拝殿の前の石灯籠は柳沢吉保が奉納した者です。


 東照宮本殿は、非公開ですので中にはいれません。
c0187004_22452726.jpg  本殿の中には、天海が作った家康の木像が安置されているそうです。
 本殿前の石灯籠は、松平信綱、輝綱、信輝の三代の川越藩主が奉納したものです。
 松平信綱はいわゆる知恵伊豆と呼ばれた幕府の重鎮で寛永16年(1639年)に堀田正盛の次に川越藩主となりました。輝綱は信綱の子供で2代藩主、信輝は信綱の孫で3代藩主です。
 信輝の代に古河藩に転封しています。
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by wheatbaku | 2013-01-20 00:10 | Trackback
  

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