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綱町三井倶楽部(三田散歩4)
 昨日の紹介した久留米藩有馬家の南隣は、現在はイタリア大使館や民家が並んでいますが、先日書いたように、伊予松山藩の松平家の中屋敷でした。
 その伊予松山藩の西側に、薩摩藩の支藩であった日向国砂土原藩島津家の上屋敷がありました。
 そこが、現在は、三井グループ企業による会員制倶楽部「綱町(つなまち)三井倶楽部」です。
c0187004_22562243.jpg 元の町名が綱町といったので、網町三井倶楽部と呼ばれています。
 綱町という名前は、平安時代の武将で源頼光の四天王の一人渡辺綱がこの地に生まれたという伝説に基づいてつけられた名前です。
 当初、この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、三井八郎右衛門高棟(たかみね)が、「綱町三井別邸」として建設しました。
 本館は、大正2年(1913)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。
 ジョサイア・コンドルは明治10年(1877)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ多くの建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献した人物です。
 旧岩崎邸庭園にある洋館や旧古河庭園にある洋館などが現存している建物です。
 また、子弟の育成にも力を入れ、日本銀行本館や東京駅などを設計した辰野金吾、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊(かたやまとうくま)などがコンドルの下で育ちました。

c0187004_22564295.jpg 三井倶楽部の本館も素晴らしいのですが建物の背後の庭園もすぐれているそうです。
 庭園には、渡辺綱の産湯の井戸と言われている井戸があるそうですが、一般の人には公開されていません。
 また、江戸時代には薩摩藩の支藩である日向国佐土原藩島津家(南側部分は会津藩松平家の下屋敷)があったところですので、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模した長屋もあったようです。

 ここが利用できるのは、三井グループの会員企業の管理職以上・役員OBやその紹介による人だけです。
 本館は会員企業の役員の紹介であれば一般の人も利用でき、別館のレストランは、平日は、会員企業の管理職社員の紹介があれば食事ができるそうです。 ランチ5250円だそうです。
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by wheatbaku | 2013-02-28 07:30 | 大江戸散歩 | Trackback
久留米藩上屋敷跡(三田散歩3)
 三田には、薩摩藩上屋敷以上に広大な面積をもつ大名屋敷がありました。
 それが久留米藩有馬家の上屋敷です。
 薩摩藩上屋敷は2万2千坪ですが、久留米藩上屋敷は2万5千坪もありました。
 久留米藩上屋敷があった場所は、現在も江戸時代の地形を当時のまま残しています。
c0187004_1656579.jpg 下の地図をご覧ください。
 三田国際ビル、三田高校、赤羽小学校、簡保事務センター、済生会中央病院、国際福祉大学三田病院が建っている場所が、江戸時代には久留米藩有馬家の上屋敷でした。
  右写真は、三田国際ビルです。

 久留米藩上屋敷の名物は、水天宮と火の見櫓でした。
 日本橋蠣殻町にある水天宮はご存じだと思いますが、水天宮は江戸時代は三田にありました。
 水天宮の総本宮は、久留米にあります。
 その水天宮を、文政元年(1818)9月に、9代藩主有馬頼徳が久留米藩上屋敷に勧請したのが、江戸の水天宮の始まりです。
 江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たたなかったため、ついに毎月五の日に江戸っ子のためにお屋敷を開放しました。
 その後、明治維新を迎えて、水天宮は明治4年に青山の中屋敷に移り、さらに翌年、日本橋蛎殻町の下屋敷すなわち現在の場所に移転しました。

c0187004_8342254.jpg もうひとつの有馬家の名物は、幕府より増上寺の防火・消火にあたる大名火消を命ぜられて、三田台地に高さ三丈の火の見櫓を組んだことです。
 1丈は約3.03メートルですので、約9メートルの高さがありました。
 他家のものは2丈5尺以内であったため、有馬家の火の見櫓は日本一と称され江戸中から見えたといわれます。
 歌川広重も、名所江戸百景「増上寺塔赤羽根橋」の中で、その火の見櫓を描いています。
 右手に大きく描かれているのは増上寺の五重塔ですが、左手に小さく黒で描かれているのが火の見櫓です。
 「湯も水も火の見も有馬の名が高し」とうたわれ、有馬家に関係する有馬温泉、水天宮、火の見櫓が有名であると江戸っ子は詠んでいます。
 「湯」は有馬温泉を指しますが、有馬家は、もともとは摂津国有馬郡の出身であり、有馬温泉が有名です。「水」は水天宮を指し、「火」は火の見櫓を指しています。

 この有馬家には、「有馬猫騒動」という話があります。
 久留米藩主、第8代藩主有馬頼貴の時代に、酒宴の席に子猫を犬が追ってきました。
 この時、関屋という女中は子猫を助け、犬を退治して、殿様に気に入られ、お滝の方と名を改め、殿様の寵愛を受けました。
 しかし、同僚の女中から嫉妬されイジメを受け特に岩波という老女のイジメがすごく、お滝の方は自殺してしまいます。
c0187004_1659354.jpg お滝の方に仕えていた女中はこれに怒り、岩波に敵討ちを挑みますが、返り討ちになりそうになった時に、可愛がっていた猫が怪獣に化けて現れ、岩波を喰い殺してしまいます。
 その後この猫は、お滝の方や藩士の母親に化けて、様々な悪さをしました。
 そこで、藩士山村典膳と有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が、上屋敷の火の見櫓にひ そんでいる怪猫を退治しました。
 後のたたりをおそれた久留米藩は、江戸の藩邸に怨念を慰めるための猫塚を建てました。
 その猫塚が、今も赤羽小学校の体育館の裏に残されています。
 この猫塚は、赤羽小学校の校内にあるため、自由に入れません。
 一言断った上で見に行きました。(右上写真)


c0187004_16594288.jpg東京都済生会中央病院

c0187004_16595550.jpg国際医療福祉大学三田病院

c0187004_1702027.jpg三田高校

c0187004_1702581.jpg赤羽小学校

c0187004_1704680.jpgかんぽ生命保険東京サービスセンター



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by wheatbaku | 2013-02-27 07:23 | 大江戸散歩 | Trackback
馬揃(うまぞろえ)(八重の桜 第8回「ままならぬ思い」)
 一昨日の「八重の桜」では、「馬揃(うまぞろえ)」の天覧が行われました。
 「馬揃」というのは、現代風にいえば軍事パレードです。
 織田信長の馬揃が大変有名ですが、それ以来に280年ぶりに行われたものです。
 文久3年7月24日に、武家伝奏から 28日に、建春門前で馬揃をして、天皇にお見せするように、ただし雨天ならば順延せよとの勅命が伝えられました。

 そして、28日に至り、雨のため順延し、29日も雨で順延、そして30日も雨でした。
 雨天の場合には順延と勅命でなっていたため、会津藩では順延するかどうか意向を聞きました。
 すると急の出陣の時には、雨や雪、夜中でも躊躇すべきではない、今日の雨など数ではという意向でした。
 すぐに会津藩は、黒谷を出陣し、御所前に集合しました。
 参内傘の馬印と白地に皇八幡宮賀茂皇大神と書いた2本の旗を馬前に押し立てて陣を敷きました。

c0187004_2117190.jpg 建春門の北数十歩の所で、高いところに天覧所が造られ、天皇、公卿、諸侯が居並び見守りました。
 右写真が建春門です。
建春門は、京都御所の東側にある門で、建礼門から天皇が出入りしたのに対して、皇后が出入りする門として役割も果たすようになり、節会や主要な行事の時にのみ、大臣・公家の出入りが許されました。
 現在では、皇后陛下や皇太子殿下の御門とされています。

 建春門の前で、 馬揃が始まると、馳駆、操練が勇壮に実施しました。
 そして、夕刻になってきたため、ところどころに篝火をたいて、炎の光の中で、また雨の降る中で行われたため、ほとんど戦場のような趣で、相当迫力があったようです。
 公明天皇は大変感動されましたし、公武合体派の公卿も大変意を強くしたようです。
 そして、途中で取りやめの命令があり、馬揃は日を改めて実施することとなりました。

 雨天の場合には、順延とされていたものが、どうして急に行われるようになったのでしょうか。
 これは、過激派の公卿が、雨天順延となっているので、会津藩は、馬揃がないと油断している不意をついて、会津藩が狼狽するのを待って、準備の不十分さを指摘して、会津藩の怠慢を糾弾しようと企んだようです。

 しかしながら、会津藩は、孝明天皇はじめ公卿に、日頃の訓練が十分行き届いている様を示すことができました。
 これにより、孝明天皇は一層会津藩および松平容保に対する信頼を高めました。 
 翌日、孝明天皇から、大和錦二巻と白銀二〇〇枚が下賜されました。

 8月5日には、再び馬揃えが行われています。この日は、前回と異なり天気晴朗でした。
 松平容保は孝明天皇から拝領した大和錦を陣羽織に仕立て直し身に着けていました。

 孝明天皇は、容保を車寄せの階下まで呼んで親しく声をかけ、水干、鞍、黄金三枚を賜りました。

 烏揃により、会津藩が入京した頃、公卿や京都の人たちは、会津藩を軽視する人も多かったのですが、この馬揃を見て、その武力が充実していることに驚き、会津藩強しという印象を与えることができました。


 赤印が建春門です。 青印が建礼門です。 緑印は紫宸殿です。

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by wheatbaku | 2013-02-26 07:35 | 大河ドラマ | Trackback
薩摩屋敷跡(三田散歩2)
 三田散歩の続きです。

 現在の三田は、江戸時代に、多くの大名屋敷がありました。
 今回の三田散歩でも、多くの大名屋敷跡を案内しました。
 昨日紹介した、水野家屋敷跡や松平家屋敷跡もその一つです。
 今日は、薩摩藩島津家の上屋敷跡をご案内します。

 三田には、NECの本社が一際目立ちます。
c0187004_10322952.jpg このNECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。
 ただしく言うと、薩摩藩上屋敷の一部です。多くの案内書では、右の石碑がよく紹介されます。
 この石碑は、NEC本社の北側の植え込みに設置さえています。
 この石碑がNEC本社にあるので、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちです。
 しかし、NEC本社は、正しくは、北川が薩摩藩上屋敷跡で、南側が因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。

 NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれで、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行とセレスティンホテルの部分です。
c0187004_1036946.jpg 三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた案内図があります。

 薩摩藩は、77万石の大藩ですので、江戸に、いくつもの屋敷がありました。
 幕末には、薩摩藩邸は最低6か所あったと言われています。
 私が承知しているだけで6か所あります。
 ちなみに、三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷 そして現在は八芳園になっている白金の屋敷、以上6か所です。
 そのうち三田にあった上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。
 ここが薩摩藩の江戸での中心になりました。
 幕末には、島津斉彬が住んでいました。

 天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に、三田の上屋敷に入りました。
 しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に、安政の大地震が起きて、上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。
 篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。

 赤印がNEC本社です。 青印がセレスティンホテルです。

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by wheatbaku | 2013-02-25 10:37 | 大江戸散歩 | Trackback
赤穂浪士御預先水野家と松平家の屋敷跡(三田散歩)
 昨日は、毎日文化センターの「忠臣蔵ゆかりの地を行く」の講座で受講生の皆さんと三田から麻布まで散歩していきました。
 心配していた天気は、風も強くなく思ったより寒くなくて穏やかな陽気の中でのんびりと歩いてきました。

 三田での「忠臣蔵ゆかりの地は」、赤穂浪士の御預け先がご案内のメインです。
 赤穂浪士の預け先は、熊本藩細川家、伊予松山藩松平家、長府藩毛利家、岡崎藩水野家の四家でした。
 そのうち、三田には、岡崎藩水野家と伊予松山藩松平家の御屋敷跡があります。


【岡崎藩水野家中屋敷跡】
 岡崎藩水野家の中屋敷は、現在の田町駅前にありました。
c0187004_9463482.jpg 史跡説明板は慶応仲通り商店街の路地にひっそりと立っています。
 右写真がそれです、

 赤穂事件当時の藩主は、第4代藩主の水野忠之です。
 水野忠之は、松の廊下の刃傷事件が起きた時に、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸に行き混乱を防ぐという役割を果たしました。

 水野家には、赤穂浪士のうち次の9人が預けられました。
 間重治郎、奥田貞右衛門、矢頭右衛門七、村松三太夫、間瀬孫九郎、茅野和助、
 横川甚平、三村次郎左衛門、神崎與五郎の9人
 
 赤穂浪士たちのお預けが決まると、岡崎藩は、直ちに江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として仙石伯耆守邸に遣わしました。
 そして、この屋敷へ収容しました。
 水野家は細川家とともに赤穂浪士の取扱は丁重で世評もよかったと言われています。
 この待遇の違いを謡った次の落手があります。

 「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」
 
 藩主水野忠之は、8代将軍吉宗の代には、老中にまでなり、享保の改革を中心人物として活躍しました。
 また、天保の改革を行った水野忠邦は、忠之の6代後の藩主です。
 ちなみに水野忠之は、水野家としては5代で、水野忠邦は水野家11代当主です。

【伊予松山藩松平家中屋敷跡】
 
c0187004_948055.jpg 伊予松山藩中屋敷は現在はイタリア大使館になっています。
 松山藩の御屋敷は、明治維新後は松方正義の手を経た後、昭和9年にイタリア政府が土地を取得したそうです。

 松山藩松平家には、赤穂浪士のうち大石主税はじめ次の10名が、ここに預けられました。

 大石主税、 堀部安兵衛、中村勘助、不破数右衛門、千馬三郎兵衛、木村岡右衛門、
岡野金右衛門、菅谷半之丞、貝賀弥左衛門、大高源五

 このイタリア大使館の中には、一般には公開されていませんが、すばらしい庭園があるようです。
 その池の一部は切腹が行なわれた場所を掘り起こして作られたもので、池の裏手にある築山はその土を盛り上げたものと考えられています。
 そこには昭和14年、当時のイタリア大使により建立された記念碑があるそうです。
 碑は日本語とイタリア語で刻まれていて、日本語の方の揮毫は徳富蘇峰によるものだそうです。
 そして、赤穂浪士の命日には、歴代イタリア大使が供養をおこなっているそうです。
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by wheatbaku | 2013-02-24 09:59 | 大江戸散歩 | Trackback
玉鳳寺(高輪散歩12)
 今日は、玉鳳寺のご案内です。
 玉鳳寺は、幽霊坂沿いにあります。

 玉鳳寺は曹洞宗の寺院です。 慶長4年(1599)に八丁堀に創建されました。
c0187004_23264034.jpg その後、八丁堀が町奉行所の与力同心の組屋敷になることとなり、三田が寺町として指定されたため、寛永12年(1635)にこの地に移転しました。
 三田は、玉鳳寺のほかにも、八丁堀から移転してきたお寺があります。

 山門左手にある地蔵堂に化粧延命地蔵が安置されています。
 この地蔵様は、寺伝では、寺が移転する前の寛永年間に八丁堀の地蔵橋畔に捨てられたものを、当時の住職の宗逸和尚が修復し、白粉を塗って祀ったところ、和尚の顔面の痣が綺麗に消えたので、人々が自分の体の病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったといわれます。
 お地蔵様の手前にパウダーが置かれていますので、それをお地蔵様に塗ってお祈りします。

c0187004_23273652.jpg 境内の東側にある墓地の奥に美遥観音(びようかんのん)があります。
 山門を入っただけではすぐにはわかりませんでしたので、ご住職にお伺いして見つかりました。
 山門を入ると正面左に本堂がありますが、その東側が墓地となっていて。その一番奥に鎮座しています。
 宝塚歌劇団卒業生の北原遥子(きたはら ようこ)さんは、昭和60年に起きた日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した事故の犠牲となりました。
 芸能界での大いなる前途とまだ24歳であった人生を不幸な形で絶たれた北原をしのんで有志が建立した観音様です。
 北原さんの実家が玉鳳寺の檀家でしたので、玉鳳寺に建立されたそうです。
 非常にやさしそうなお顔をしている観音様です。


 赤印が玉鳳寺です。

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by wheatbaku | 2013-02-22 07:30 | 大江戸散歩 | Trackback
正覚院(高輪散歩11)
今日は、福島正則のお墓のある正覚院をご案内します。
 正覚院は、昨日ご案内した済海寺のすぐそばにあります。

 幽霊坂の南側ですが、細い道を入った先にあります。
 幽霊坂沿いにある「正覚院」と刻まれた石碑が目印になります。

c0187004_17203058.jpg 正覚院は臨済宗妙心寺派のお寺です。
 ここには、福島正則と子供正利のお墓があります。
 福島正則は、有名ですので、皆さんご存知だと思います。豊臣秀吉の従兄弟と言われています。
豊臣秀吉の子飼いの武将で、賤ヶ岳の戦いでの一番槍など数々の武勲を建て、秀吉最晩年には清洲24万石の大大名となりました。
 しかし、関ヶ原の戦いでは文治派の石田三成と合わず、家康を支持し東軍に参加し、戦いの後、安芸広島で49万8200石の大名となります。
 しかし元和5年(1619)、台風により壊れた広島城の白や石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われ、信州の高井野藩4万5千石に減封になってしまいました。
c0187004_17205083.jpg 転封後、息子忠勝に家督を譲り隠居しましたが、その忠勝が翌年に死去したことから、正則は魚沼2万5000石を幕府に返上しています。
 寛永元年(1624年)に正則も64歳で死去します。このとき、家臣団が正則の遺体を幕府の検使である堀田正吉(正利) が到着する前に火葬してしまったことから、またも法度違反であるとして、残りの2万石も没収されてしまいました。
 その後、正則の功績を考えて、正則の末子の福島正利が3112石の知行を与えられ、旗本として存続を許されました。
 しかし、正利も子供がいなかったため、断絶してしまいました。
 その後、京に住んでいた忠勝の子・正長の長男で孫にあたる正勝が召し出され、以後福島氏は2,000石の旗本として存続しました。
 この正覚院は、この旗本として存続を許された福島正利が開基で、正覚院というのは正利の院号です。
 写真右が福島正則、左が正利のお墓です。
 福島正則のお墓は供養墓で、本当のお墓は小布施の「岩松院」というお寺にあります。

 福島家は、現在も、御子孫がいらっしゃるそうです。この御子孫は、嫡男忠勝の系統の御子孫だそうです。

 その他、正覚院には、古田織部の御子孫の菩提寺でもあり、毛利重政家の菩提寺であり、明治の建築家妻木頼黄と関係のある妻木家の菩提寺でもあるそうです。

 赤印が正覚院です。


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by wheatbaku | 2013-02-21 07:15 | 大江戸散歩 | Trackback
済海寺(高輪散歩10)
 今日は済海寺をご案内します。

 済海寺は、浄土宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。
 正式には周光山長寿院済海寺(しゅうこうざん ちょうじゅいん さいかいじ)といいます。

 元和7年(1621)に越後長岡藩初代藩主牧野忠成と念無聖上人によって創建されました。
c0187004_2215062.jpg そのため、江戸時代は越後長岡藩牧野家の菩提寺でした。
 しかし、昭和57年、長岡の悠久山蒼柴(あおし)神社への改葬が行われ、現在は、合祀墓が残るだけとなっています。

 また、伊予松山藩松平家の江戸での菩提寺であり、松平家から1500坪の土地の寄進を受けたこともあったようです。
 伊予松山藩松平家は久松松平家ともいい、家康の生母於大の方の再嫁先で、譜代の名門です。
 明治以降は、久松家と名前を変えています。
 この伊予松山藩松平家は赤穂浪士を預かった四家の一つです。
 当時の藩主は五代藩主松平定直でした。
 松平定直は、赤穂浪士のうち大石主税良金・堀部安兵衛武庸、不破数右衛門正種・大高源吾忠雄など10名の預かりを命じられました。
 この命令は、藩主定直が病気で江戸城への登城ができなかったため、家臣を通じてこの命令を受けうけました。
 赤穂浪士を受け取ったのは12月15日ですが、定直は年が変わった元禄16年1月5日になって、ようやく浪士達と会見し、会見の遅れたことを詫びた上で仇討ちを称賛したそうです。
 この定直の墓も済海寺にあります。
 しかし、東日本大震災後、墓石がくずれやすくなっていて危険なことから、一般の人は墓域に入ることが禁止されているため。お参りできません。
 牧野家の墓地も同様の理由でお参りできません。

 済海寺は、安政6年(1859)にフランス公使館となり、明治7年まで続きました。 
c0187004_22151845.jpg 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。


 赤印が済海寺です。

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by wheatbaku | 2013-02-20 07:19 | 大江戸散歩 | Trackback
浅野長重(江戸検お題「本当の忠臣蔵」2)
 今日は、浅野長重について書きます。

 浅野長重は、浅野長政の三男として近江国に生まれました。
 石田三成の讒訴にもかかわらず、徳川家康が長政を信頼してくれたことから、長政は早い時期から、三男の長重を関東に行かせ秀忠に仕えさせたいと希望していました。
c0187004_1661580.jpg それに対して、慶長4年(1599)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から秀忠の小姓として仕えるようになりました。その時13歳でした。
 この年春に従五位下采女正に叙任された。また7月には秀忠が会津征伐のために出陣し、長重も従軍を希望しましたが、まだ15歳になっていないとの理由で江戸へ戻されました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの浅野一族の戦功は著しかったので、慶長6年(1601)に下野真岡2万石が与えられた。
 さらに慶長7年(1602)には家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚しました。

 慶長16年(1611)に父長政の死去に伴い、隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続し、真岡2万石は幕府に返上しました。
c0187004_1674867.jpg
 慶長19年(1614)に大久保忠隣が改易された際には安藤重信・本多忠朝とともに小田原へ出向き小田原城の受け取りの役を果たしました。
 また同年の大坂冬の陣にも出陣し、夏の陣では、道明寺口の戦いの後、天王寺・岡山の戦いでは本多忠朝とともに先陣をきって天王寺口で毛利勝永の大軍と戦い、浅野家は家臣30人、雑兵100人あまりが討死するものの、豊臣方の首級60余をあげました。

 元和8年(1622)に本多正純が改易となった際に宇都宮城の受け取りに赴きました。。
 また同年、真壁以外に加増転封させるし、笠間城に居て真壁を領するならば加増はないという内意を受けました。
 長重は、父の墓所があるので元のとおり笠間城に居て真壁の領有を望みました。
 これが認められ、真壁を含む笠間藩5万3500石とされました。
 寛永9年(1632)、病にかかり、将軍家より永井直清のお見舞いがありましたが、9月3日になくなりました。 享年45歳でした。

 長重の生涯を見てみると、最初は、浅野家の実質的な人質として、江戸に出されたものも、その能力がすぐれていたため、秀忠に重用されたように思います。
 大久保忠隣、本多正純など幕府の重臣であった大名の改易事件の際に、城受け取りの大役を果たしていることなどからそれが窺われます。

  なお、写真は、笠間城の遺構です。右上段は笠間城の元の八幡台櫓で、真浄寺にあります。下段は笠間城の石垣です。
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by wheatbaku | 2013-02-19 07:30 | 忠臣蔵 | Trackback
国事御用掛(八重の桜 第7回「将軍の首」)
 昨日の「八重の桜」で、松平容保が関白近衛忠煕 (このえ ただひろ)と面談した際に、「三条実美」の名が出てきましたが、その際に「国事御用掛(こくじごようがかり)」という聞きなれない職名が出てきました。
 そこで、国事御用掛について調べました。

 江戸時代は、長い間、朝廷で重要な職は、「関白」「武家伝奏」「議奏(ぎそう)」の三職でした。
c0187004_22114597.jpg 「武家伝奏」は、朝廷と幕府間の連絡掛として置かれた役職で定員2名でした。
 「議奏」は、天皇に近く仕え、天皇の側近として、上奏を取り次ぐ役職で、朝廷の祭礼を取り仕切ったり、公卿の任免などを担当しました。
  関白は、朝廷における最高職で、「武家伝奏」や「議奏」を統括していました。

 この他、左大臣、右大臣、内大臣などの役職がありましたが、名誉職に近いもので、あまり権限はありませんでした。

 関白は、五摂家と呼ばれる近衛、鷹司、一条、二条、九条の五家から任命されることとなっていました。
c0187004_22121728.jpg このように三職に任命される家柄がほぼ決まっていて、有為な人物が意見を奏上することはできませんでした。
 しかし、幕末になり、国事多難の時節から広く登用すべきという意見が強まりました。
 これは、特に若手の公卿や攘夷を主張する公卿が強く主張しました。
 こうした意見に押され、設置されたのが「国事御用掛」です。
 文久2年(1862)12月9日に設けられました。会津藩が江戸を出発したのと同じ日です。
 この国事御用掛が、朝廷が幕府に攘夷実行を迫るうえで、重要な役割を果たします。
 ちなみに、三条実美、三条西季知、東久世通禧は、八月十八日の政変で、京都を追われた公卿いわゆる「七卿落ち」のメンバーです。つまり急進的な尊王攘夷派の公卿ということになります。

「国事掛」となったのは次の29名です。
まず、関白、議奏、武家伝奏が選ばれています。

 関白近衛忠煕 、左大臣一条忠香、右大臣二条斉敬、
 青蓮院門主尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)
 前右大臣鷹司輔煕、内大臣徳大寺公純(きんいと)
 議奏中山忠能(ただやす)、議奏飛鳥井雅典(あすかい まさのり)
 議奏正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)
 議奏三条実美、議奏阿野公誠( きんみ)
 議奏加勢長谷信篤 (ながたに のぶあつ)
 武家伝奏坊城俊克(ぼうじょう としかつ)
 武家伝奏野宮定功(さだいさ)

その他、次の人々です。
 近衛忠房、一条実良、広幡忠礼(ただあや)、三条西季知 (すえとも)
 庭田重胤(しげたね)、徳大寺実則 さねつね、橋本実麗 (さねあきら)
 柳原光愛( みつなる)、大原重徳 (しげとみ)、
 河鰭公述(かわばた きんあきら)、東久世通禧 (ひがしくぜ みちとみ)
 裏辻公愛 (うらつじ きんよし)、橋本実梁 ( さねやな)
 万里小路博房 (までのこうじ ひろふさ)、
 勘解由小路資生 (かでのこうじ すけより)
 姉小路公知(あねがこうじ きんとも)
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by wheatbaku | 2013-02-18 07:30 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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